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<< Vol.53 2015後期-Vol.54 |
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現代によみがえる小田実 1
北辰旅団としては久々の公演です。終戦70年を迎えて北野辰一座長は題材に小田実の小説『玉砕』を選び、役者が肉体を通して演じる芝居でなく、小田さんの言葉だけを時空に響かせる朗読劇に仕上げました。台本に劇作家・北野辰一の言葉はなく、すべてが小説に記された小説家・小田実の言葉に貫かれています。舞台中央にはスクリーン。終戦まぎわのペリリュー島など、言葉の背後の情景を示しつつ移りかわります。音楽にはショスタコーヴィチの、まず「弦楽四重奏曲」全曲の中から部分をいくつか採られました。激しい戦闘が繰り広げられるシーンにも、それはよく合った音楽でした。そして「ピアノ協奏曲第2番」の第2楽章を、部隊長の長台詞の背後に。 この作品について私は、第66回「小田実を読む」(2014.8.23)でお話をし、そのときの講義メモを「山村サロン会報 2014後期Vol.52」に採録しています。少年時代に終戦前日の8月14日の大阪大空襲に襲われた小田実は、小説家としてさまざまなかたちで戦争を描きました。 そのなかで、原爆を書いた『HIROSHIMA』は英訳本があり、『H: A Hiroshima Novel』 のちに『HIROSHIMA』”The Bomb”、 D. H.ワイテッカー(D. H. Whittaker)訳、Kodansha International, Tokyo、1990―その英訳はとくに第三部、被曝して寝込み、うなされる少年のうわごとの英語の見事さが特筆に値します―、1995年8月6日、イギリスの「BBC」が『HIROSHIMA』のラジオ・ドラマを「8月6日」の記念番組として放送。また、同じ8月、アメリカ合州国のバーモント州で、『HIROSHIMA』の「野外パフォーマンス」が、ジェローム・ローシェンバーグの「トレブリンカ」の詩と組み合わせたかたちで「ブレッド・エンド・パペット劇団」の手で行なわれた。小田実もローシェンバーグとともに参加しました。 日本軍のペリリュー島での戦闘を描いた『玉砕』の英訳は『The Breaking Jewel 』(Weatherhead Books on
Asia 2003/1/16 Makoto Oda、 Donald Keene(ドナルド・キーン訳)、独訳は『Gyokusai:
Japans Helden sterben schoen』 2010/8 Makoto Oda、 Michaela Manke(ミヒャエル・マンケ訳)として出版され、さらに再びBBCラジオ劇としてティナ・ペプラーにより全英に放送されました。 今回の舞台作品としての朗読劇は、ティナ・ペプラーのラジオ劇とは全く別のものです。北野座長はそれをあえて読み返さず、直接に小田実の小説の日本語に逐一あたり、厳しい制限のもとに再構成を試みました。 ドナルド・キーンは1922年生まれのアメリカ人でした。現在は日本に帰化し日本人となり、鬼怒鳴戸(キーン・ドナルド)という当て字を披露されました。学生時代に英訳の『源氏物語』にふれて日本文学の研究を始め、その全般にわたる紹介者/翻訳者として活躍。戦中は米軍の通訳担当の兵士として従軍。アッツ島で日本軍が玉砕したときに彼はアッツ島にいました。玉砕する日本軍を目の当たりにした彼には日本人の戦い―狂気の自殺攻撃―が理解できませんでした。そして送られてきた小田実の新著『玉砕』を読み感動したといいます。50年経ってようやく全体が見渡せた、そこには自殺でもなく狂気でもない日本軍の戦いがあったのだ、と。小田実の想像力と筆力が、当時米兵だった文学者を感動させたのです。キーンさんは日本軍兵士の遺品のノートを読み「二十粒の豆を七人で分けてささやかに正月を祝う」という肉筆に日本人の魂を感じた若いアメリカ兵でした。 小田実はドナルド・キーンとの対話の中で、こう述べています。 「あれを書いた直接の動機というのは、もちろん私自身の戦争の記憶なんですよ」。「あそこで最後に戦ったのは女性である」。「戦争は究極の瞬間になると一人対一人の戦いになる」。「閉じ込められた状況のなかで、結局、必死に戦わざるを得ないところへ追い込まれたら、人間どうするか、それを一度ちゃんと書いてやろうと考えた」。 「この作品にはいろんなものが堆積してるんですよ」。 「自分は立派な軍人を書いてやろう、立派なやつが戦ったらどうなるかを書こうとした」。「立派なやつが必死に戦って、しかもなんにもならんわけでしょう」。「それをちゃんと書くべきだと考えたんですよ。安易な反戦文学じゃなくてね」。 登場人物は多い。舞台で群像劇の芝居としてやるならば、あと4人か5人は必要です。だから3人の役者は声の色と語り口をかえて複数の人物を演じ分けなければならない。動作で見せることができないから暗闇の中からの声だけで。青山史煌が「中村」他、山村雅治が「金(こん)」と「部隊長」他、鈴川みゑが「老女」と「大阪ピー」他。画像の上映は中村文生さんが手伝って下さいました。声と映像と音楽による朗読劇『玉砕』。 好評でした。終了後に開かれた話し合う会では「是非もう一度」のみならず「毎年やってください」の声がかかりました。北辰旅団としては前回の戸隠公演「戸隠奇譚『虚構となった男』第二幕」の続編「第三幕」をやらなければならないのですが、いましばらくお待ちください。 2
7年目に入った読書会「小田実を読む」。5月に私は『羽なければ』を担当しました。単行本として出版されたのは1975年(「昭和」50年)43歳のとき。この年の出版物は、小説『冷え物』、『羽なければ』(河出書房新社)。評論『私と天皇』(筑摩書房)。評論集『「鎖国」の文学』(講談社)。自筆年譜によれば「小説は二つともに、まず「文芸」に書いた。「冷え物」は1969年7月号、「羽なければ」は1970年3月号。「冷え物」は「差別」問題をひき起こした。私は自分の立場を明らかにする一文を書き、出版中止の要求に対し、批判文書をつけて出版を提案、実行した」。 全編が大阪弁に貫かれ、ニュアンスが分かる人には随所にたまらないおかしみがあります。しかし日常に染み入った差別は土着固有に潜むもの。小説家・小田実は偽らず若年時代を過ごした大阪の染みを書きました。小説に先立って、鴨長明の『方丈記』から二つの文が置かれています。 「羽なければ、空をも飛ぶべからず。龍ならばや、雲にも乗らむ」。 「また、ふもとに一の芝の菴あり。すなはち、この山守が居る所なり。かしこに小童あり。ときどき来たりてあひとぶらふ。若、つれづれなる時は、これを友として遊行す」。 差別を扱う作品中、森鴎外の遺書のことばが大切なものでした。 『死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ奈何ナル官憲権力ト雖此ニ反抗スル事ヲ得ズ(中略)余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス宮内省陸軍省皆縁故アルトモ生死別ルル瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス森林太郎トシテ死セントス墓は森林太郎墓ノホカ一字モホル可カラズ』。 死によって人間はただの人になる。位階も勲章も剥ぎ取られて、死においてあらゆる人間はただの人に戻る。つまりこういうことだ。人はみな死ぬ。そこにおいて人は全て自由対等平等であって、そうであるならば、差別なんてしてる暇がないじゃないか。 当日の時間の制限のなかで、『元始、女性は太陽であった』の平塚らいてうや管野スガ、さらには西光万吉の『人の世に熱あれ、人間に光りあれ』に始まった水平社の松本治一郎らまで話を進めることができました。日本の「人権宣言」は大逆事件の惨禍を経て、ようやく世に出されたのです。 3 2015年9月19日未明、安全保障関連法が、参院本会議で賛成多数で可決され、成立しました。自衛隊の海外での武力行使に道を開く法案の内容が憲法違反と指摘される中、全国で法案反対のデモが行われました。 そのなかで目を引いたのが、これまではいなかった若者たち、学生たちのデモでした。彼らは明治学院大学の学生で、高橋源一郎教授から盛んに小田実についての話を聞いていました。SEALDsの運動は「ベ平連」(「ベトナムに平和を!」市民連合。1965年4月、小田実代表として発足)に似ている、というのはよく言われることです。『民主主義ってなんだ? 高橋源一郎×SEALDs』(河出書房新社)の中で、高橋氏は「ベ平連」の原則を挙げています。「既成の政治勢力の指導を一切受けない」。「自分のやりたいことをやる、人のやることに文句をつけない、文句があるなら自分でやる」。「除名しない。去る者は追わず。来るものは拒まず」。そして左右どっちでも誰でもいい。「ベトナム戦争に反対します」、この一点で運動した。 ここで1995年の阪神淡路大震災をきっかけにして展開した「市民=議員立法実現推進本部」(代表/小田実 事務局長/山村雅治)の件について、一言しておかなければなりません。この運動は「べ平連」とは全くちがう性格を持つ市民運動だったからです。当時「ベ平連」は左右どっちでも誰でもいい、という間口の広さをもち、実際に自民党議員である宇都宮徳馬氏の強烈な支持があったにもかかわらず「反体制運動」とみなされていて、小田実は「反体制の旗手」というイメージが定着してしまいました。「称号」を得た。あるいは「烙印」を押された。凝り固まった学生運動とはまったく別物の、大人の平和運動であったにもかかわらず。 震災後、私たちがやろうとしたのは、震災被災者―広く自然災害被災者―に公的援助を行う法律を市民発案し、それを議員立法化して成立を図ろう、という空前の企てでした。国会で発議するのは与党議員を含んだ「超党派」の議員団でなければなりません。 野党だけに偏れば市民法案はつぶされる。初動には「小田実」が前面に出てはいけない。「小田実」は「反体制」の色眼鏡で見られる。だから、まずやったことは、学生運動・市民運動などやったことがない私が、小田実とともに賛同を呼びかける文書を書き、市民法案を衆参の議員全員に送付する、ということでした。中の書類を見れば小さな文字で「代表・小田実」とあるのがわかる。しかし、差出人は「事務局長・山村雅治」と封筒の裏に筆で書き、宛名も大きく墨をたっぷりとつけた筆で書き入れました。 ただちに反応があり、複数の政党の17名もの賛同議員を得て、彼らに会いに行ったのが小田実と二人で国会議員会館へ往復した始まりです。「べ平連」がそうだったように、私たちも自弁です。どこからもお金をもらわない。だから、どこからも何も言われない。 議員会館の各議員の部屋を片っぱしから訪問しました。私たちは主権者だから陳情しません。私たちと議員は人間として対等、平等であり、「生活基盤を破壊された被災者が《全壊10万円》の配布だけで棄てられていることは人間の国ではない。金融機関に公的援助を行うのに、なぜ全てを自分の責任ではない自然災害によって失った国民にそれをしないのかという訴えに、あなたは人間としてどう思われるか。もしやるのなら、私たちといっしょにやろう」と今度は姿を見せたうえで肉声で説いて回るのです。 これは私たち被災地の被災者だけの問題ではない。自然災害は日本のどこにいても起こり得て、明日は我が身ということを知ってほしい。与党支持の人にも野党支持の人にも自然災害はわけへだてなく襲いかかる。だから、これはあなたの問題でもある。率直に申し上げれば、私の問題であるのと同じく、あなたの問題である。 そのことを何度でも説いて回る。扉を閉ざされてもノックを続ける。話を聞いてもらえるまで私たちはあきらめない。中には元特攻隊員で部屋に日の丸を掲げた政権与党のベテラン議員がいました。「べ平連」時代の小田さんを懐かしみ「私もベトナム戦争脱走兵をかくまっていました」と明かす、やはり与党の議員もいました。 4 「市民=議員立法」の運動が始まったのは1996年5月でした。その頃に小田実が出した本が評論『被災の思想 難死の思想』(朝日新聞社)。評論『でもくらてぃあ』(筑摩書房)。自著年譜によると「『でもくらてぃあ』はここ何年かかかって書いてきたが、被災の体験は新しい思想的展開をつけ加えている。他の著作にも、被災は影をおとしている」。デモスは民。クラトスは力。「古代アテナイ以来の《デモクラティア》、差別、排他、抑圧、支配、侵略の「伝統」と手を切った、そしてまた、軍事、戦争、暴力、それら一切のキナくさい、血なまぐさいものを拒否する」現代の「でもくらてぃあ」。1996年9月、船出ともいえる大きな集会の後、小田実から手渡された本書の扉に《この地震と市民立法にゆかりある本を。「でもくらてぃあ」創設の第一歩の集会を終えて。おたがい元気で。》と力強い筆致で書きこまれていました。 賛同議員は次第に増えて、議員のつながりで参議院の法制局が私たちの話を聞いてくれることになりました。そこから当時の法体系の整合性が専門的な裏付けを得られるものを整理して、現行の「被災者生活再建支援法」のひな型ができました。始めたころは、そんなものはお伽噺だ、と言われました。しかし潰されそうにもなりながら踏ん張り、1998年5月に「被災者生活再建支援法」は可決成立したのです。市民発案の法律が議員立法となり成立した、初めての法律でした。 デモもやりました。デモには意味があります。それぞれ職業が違い、べつべつの人生を歩く人間がひとつのことを求めて集まってくる。みんなが横並びで対等、平等、しかも列を離れるのも自由です。また、街頭演説もやりました。訴える言葉を街なかに流すことにも意味があります。マスコミを動かし議員を動かしたのは一にも二にも言葉の力です。ことばだけで戦う。小田実がいまも地上にいたならば「ベ平連」、「市民=議員立法」をさらに超える言葉を雷鳴のごとく轟かせたでしょう。 (参考にお読みくだされば/『自録「市民立法」』山村雅治 藤原書店刊)
巌谷國士(いわや・くにお)さんは仏文学者でシュルレアリスムの研究者であり、シャルル・フーリエ『四運動の理論』の訳書を出されたころから、本棚にはいつも巖谷さんの著作がありました。それはまだ私が学生のときで、現代詩に没頭していたころのことです。 18歳からの数年間、右も左もわからない私の導き手は、23歳の詩人の芝山幹郎さんでした。芝山さんに連れられてあちこちのギャラリーや劇場、酒場などへ潜り込み、当時の先鋭な詩人たち、舞台人たちに触れることができました。私と巖谷さんが、別々の場所でともに親しくさせていただいたのは、梵文学者の松山俊太郎さんでした。芝山さんのアパートで猿股一枚になって「こいこい」に何時間でも興じられる松山さんは、彼を知った誰もが忘れられない人物です。巖谷さんから、その後の松山さんの消息を知るに及んで感慨もひとしおでした。私のデビュー作は20歳のときの長詩『哭礼記』(「現代詩手帖」1973年6月号)ですが、巖谷さんがそれを覚えていて下さったことには驚くとともに凄くうれしいことでした。 さて、今回の講演会は主催者の言葉により要約されていました。 「阪神淡路大震災からすでに20年、東日本大震災と未曽有の原発事故から4年…。自然と人間、災害と社会の関係のありかたがいよいよ問われているこの時代に、森と文明、都市とユートピア、シュルレアリスムと現代文化、などについて深く考察してこられた巖谷國士氏をお招びして、特別講演会・サイン会を開催いたします。ご存じ阪神出身の偉大な先人・手塚治虫の初期作品から、フーリエの未来論や話題の『進撃の巨人』をへて、現代日本を代表するオブジェ作家・岡崎和郎(ギャラリーあしやシューレで個展開催中)の作品まで、また他のさまざまの分野の問題にも触れながら、自然と災害に向きあう人間の今後の生き方について、有益かつスリリングなお話を展開されるでしょう」。 博識をきわめた美の狩猟者であり博物学者。かつては澁澤龍彦さんや種村季弘さんがいましたが、現代に彼らの系譜を継ぐのは巖谷國士さんです。1943年生まれの巖谷さんは手塚治虫の作品を同時代にすべて読んできた、という漫画からも多くのことを吸収されてきました。今回取り上げられたのは『メトロポリス』(1949)。最後のコマでは「おそらくいつかは 人間も発達しすぎた科学のために かえって自分を滅ぼしてしまうのではないだろうか」。そして現代の作品では諫山創の『進撃の巨人』。「壁」についてのお話。ユートピアとディストピア(反ユートピア)では、もちろん私たちはディストピアを支持します。そこからシャルル・フーリエへも話が飛翔したのは痛快でした。 関連イベントは近くのギャラリー、あしやシューレでの『岡崎和郎展 御物補遺』です。物体の内と外、虚と実を反転させた造形のおもしろさ。巖谷さんは、岡山県立美術館で開かれた『有為自然―岡崎和郎、伊勢崎淳、中西夏之』展のために記された2015年3月3日付の文章を配布されました。 「重要なポイントは『記憶』の『補遺』である。ふとした付け加えによって日常世界が凹んだり剥がれたり裏返ったり、世界の見え方まで変化してしまうときの驚きと悦びは、自然のうちに痕跡を残した原初の体験の鮮やかな『再生』でもあるのだろう」。 (この講演会は一般の方からの強いご要望があって企画されたものでした。『エルンスト・ヘフリガー 1993.4.10』や『古賀力・芳賀千勢子 シャンソン 2008.6.9』もそうでしたが、いずれも震災前からの交流があった半田知子さんの情熱に動かされてのものでした。今回の講演会は、彼女のお嬢さまが大学で教わっている先生を是非お呼びしよう!という誠意の結実でした。親子二代にわたるご要望に応えることができてよかったです)。
大井浩明さんの今夏の3つのコンサートは《All'Italiana 2015》。イタリアの現代ピアノ作品を弾かれました。9世紀から10世紀にローマ・カトリック教会で歌われていた「グレゴリオ聖歌」以来、西洋音楽はイタリアを中心に発展し、宗教音楽だけでなくオペラの歴史においても16‐17世紀のモンテヴェルディが大きな役割を果たしました。以来、イタリアの音楽はオペラを芯にして発展してきました。ヴェルディ(1813‐1901)とプッチーニ(1858-
1924)が20世紀の空気を吸った最後のイタリア・オペラの大作曲家でした。 サロンでは偶数月にLPレコードでオペラの全曲を聴く「デッカ・デコラ Opera Special」が催されていますが、この場ではヴェルディとプッチーニが他を圧して人気が高い作曲家です。そうしたところへ、この大井さんの企画です。 ベリオ(1925‐2003)から始められますが、彼の上の世代のイタリアの作曲家といえば、ピッツェッティやカゼッラもいましたが、『ローマ三部作』のレスピーギ(1879 – 1936)が最も高名な作曲家でしょう。彼はしかし現代音楽というよりも、新古典主義の作曲家でした。 イタリアの前衛としての現代音楽が開花したのは第2次大戦後のことでした。若い作曲家たちが世界中から集まり、最新の技法を知り、かつ学ぶ中心にあったのが「ダルムシュタット国際現代音楽夏期講習」でした。フランスからはブーレーズ、地元のドイツからはシュトックハウゼンもここへ来ました。イタリアから来たベリオは音楽家一家に生まれ、父、祖父はともにオルガニスト兼作曲家であり、ピアノや和声法などを彼らから学びました。トータル・セリー技法と管理された偶然性を吸収、帰国後はマデルナ(1920‐73)とイタリア国営放送に電子音楽スタジオを設立しました。 以後、彼はイタリアの現代音楽の作曲家として活動を広げていきます。1950年に結婚したキャシー・バーベリアンとの出会いが声楽作品を創造させ、また電子音楽に力を注いでいきました。 ピアノ独奏のための音楽は、彼の創作のほとんどすべての時期にわたっています。高校時代からFM放送などを通じて聴いて覚えていたルチアーノ・ベリオはバーベリアンの抜群のな表現力とともにあり、その印象が強く残っていました。初めて聴く全ピアノ作品。冒頭の《小組曲》は祖父と父と彼の作品が「ベリオ一家のアルバム」として出版された中の一曲。その最初に鳴らされた響きから、最後の大作《ソナタ》に至るまで、大井さんの奏でるピアノのなんという抜けきった音色の美しさ!ベリオの楽曲は突き抜けた青空の光のなかでこそ生きる。ベリオは20世紀にヴェルディ、プッチーニを継ぐイタリアの作曲家でした。 ジャチント・シェルシ(1905-1988)は、作品を初めて聴いたのはCDでした。ヴェルナー・ベルチのピアノ独奏。モーツァルトに始まりモーツァルトに終わる現代曲が挟まれたアルバムだ。ユングハインリヒの解説文に曰く「未成熟と叡智とは本来和解しない。よるべなく震えながら、ひたむきに調和を求める子供の心ほど深い淵はない」。シェルシの他にペルトとブゾーニを加えている。 今夜のシェルシの作品を集めたリサイタルは面白いものでした。12音技法に馴染めなくて精神病院に入った(じつは女に振られて、という説もある)「ポスト前衛」の作曲家だが、子供がいたずらに夢中になっているような無反省にして破天荒な独創の音楽があります。 後日、クルレンツィス指揮の『フィガロの結婚』を聴いていてシェルシを思いました。モーツァルトは当時の音楽界を支配した「イタリア」に挑むべく、イタリア語のオペラを書いた。ヴェルディ、プッチーニに先んじての「イタリア語のオペラ」の巨匠だったのです。どれも傑作。昨夜聴いたシェルシのなかにも『フィガロ』がなかったとは言わせません。 演奏もまた随所に「解るやつには解る」爆笑を潜ませたもの。アンコールのブルーノ・カニーノ『カタログ』は、この夜にこそ相応しかった、たしかに! もう1曲はミカショフ編曲のプッチーニ『蝶々夫人』。シェルシの愛した平山美智子はこのオペラの主役歌手でした。 大井浩明さんの≪All'Italiana
2015≫最終夜は「ドナトーニ 主要ピアノ曲集+湊真一新作初演」。存分に面白いコンサート。いくら音を連ねても自己表現ができない1957年の『3つの即興』に逆説・裏返しの彼がいて、後半の大作『フランソワーズ変奏曲』の背後に巨大な「凡=非凡」の男の姿が浮かび上がったようです。今夏のサロンでの大井/イタリアの白眉はシェルシ。彼の左にベリオ。右にドナトーニ。見事なプログラミングでした。 今夏のシリーズで採り上げられた日本人作品にも拍手を贈ります。 剣持秀紀 (1967- ):ピアノ独奏のための《ピンチェ》(2015) 川崎弘二(1970- ):ピアノ独奏のための《木賊》(2015) 湊真一 (1965- ):ピアノ独奏のための《六花(りっか)のトッカータ》(2015)
18年前に始まった坂口卓也さん企画のコンサートです。今回の出演者は、頭士奈生樹さん(ギター、ヴォーカル)、石上和也さん(ノイズミュージック)、.es <ドット・エス>(サックス、ピアノ) のおふたり。併せて、まず記憶と夢を映像に息づかせる米国の女流作家Janie
Geiser さんの "The Hummingbird War" が映写されました。斬新な映像作品で、このような機会にしか見ることができません。 演奏は.esに始まります。橋本孝之(サックス)+ sara(ピアノ)の二人によるユニット。ことにサックスの表現の幅が広がってきました。ますます楽しみです。石上和也さんの演奏は PC では無く自作のサーキットを使ったもので、その場で音響を創造していく面白さがありました。頭士奈生樹さんはギター演奏が凄じいばかりでした。打ち上げも盛りあがり、興奮がさめやらぬ熱気のままに夜が更けていきました。皆さまに感謝申し上げます。
毎年開かれるクレアリー和子さんのリサイタル。彼女のピアノ奏法は、現在では珍しいユニークなものです。なによりも重力のない空間を珠玉のような音色が転がる妙味は、あまり聴いたことかありません。クレアリー和子さんはフェルッチョ・ブゾーニやヨーゼフ・ホフマンの孫弟子であり、十九世紀末から二十世紀初頭にかけて活躍した大ピアニストの奏法を、正確に継承されているのです。今回の演奏にもやはり「唯一無二」のピアニズムがありました。「関西音楽新聞」の記者/批評家にしてピアニストでもある渡里拓也氏は彼女を理解されました。
シテ方観世流能楽師の越賀隆之さんが、解説とシテ及び地頭を勤め、ワキ他のお役は越賀隆声会社中の方がた、地謡はご出席の見所の皆様も謡っていただく、という催しです。以下、越賀隆之さんの解説文から引用します。 《『安宅』は、後に歌舞伎の『勧進帳』の題材になった有名な源義経都落ちのお話です。平家討伐の後、兄源頼朝と仲が悪くなった義経は、ついに追われる身となり奥州平泉へ落ちようとします。頼朝は国々に関所を設けて義経一行を止めようとし、加賀国安宅にも関所が設けられ富樫某が守っています。義経一行は南都東大寺建立勧進の為の山伏に姿を替え突破しようとします。弁慶の智略の限りを尽くした勧進帳や、関守に見とがめられた義経を強力(ごうりき)に見立てて打ち据えるなど、全曲を通して手に汗握る場面が続きます》。 越賀隆之さんは、作曲家/ピアニストの久保洋子さんの能楽の師匠です。 2015年6月9日、西宮芸文 神戸女学院小ホールで久保洋子「未来の音風景」2がありました。久保さんの意欲的な試みは、能楽の師匠たちによる舞囃子と彼女の現代音楽を伴ったコンテンポラリーダンスに結実しました。能楽「紅葉狩」の仕舞は、中ノ舞を経て急ノ舞へ移るや否や小鼓と大鼓は狂乱怒涛の迫力を渾身の力で顕わしぬき、興奮させました。能楽が現代に蘇った瞬間です。久保洋子の「MOMIJIGARI」は意味のある言葉は用いられない。久保さん自身のヴォカリーズは美しい響きで器楽とダンスを彩り、人間の心だけを描いていく。ドミニック・ヴィダルのクラリネットと久保さんのピアノで世界初演された現代音楽「Vortex」とともに、彼女の総合芸術をあますところなく表現しつくした作品でした。 歌仙会 2015.8.30 主催/神戸隆声会、宝塚隆声会、能楽サロン は、越賀隆之師の社中の方々による能楽のおさらい会でした。 花柳流 花廸会「温習会」 2015.10.4 指導/花柳廸彦太 日本舞踊の若い師匠、花柳廸彦太さんの社中の方々による温習会。伝統芸能はたくましく根を張っています。能楽も日本舞踊も。
2014.11.23の《木田陽子 ピアノ・リサイタル「詩と音楽」ピアノ/木田陽子 詩の朗読/廣澤敦子》に続いて、木田陽子さんの2回目のリサイタル。 今回はゲストにヴァイオリニストの佐藤友香さんを招かれて、前半をピアノ・ソロ、後半をデュオの曲を演奏されました。お二人とも海外での研鑽を積まれてきています。 ソロのピアノも木田さんの音楽の個性を通して、音色を磨きぬいた演奏。デュオではさらに共演者を生かす。ヴァイオリンの佐藤友香さんとの「クロイツェル」がブラヴォー! 佐藤さんの楽器はよく鳴る楽器で、二人でまたの機会には是非ともブラームスを聴きたいものです。
イリーナ・メジューエワさんはロシア生まれの若いピアニスト。京都市立芸術大学で教鞭をとられ、日本語をつかって曲にまつわるエピソードをお話されながら、初期、中期、後期作品へとプログラムを進めていかれました。2014年5月24日に同企画による「能舞台で聴くゴルトベルク変奏曲」のときと同じく盛況でした。 朝日カルチャーセンター芦屋教室の意欲的な企画に拍手を贈ります。
左手のピアニスト・智内威雄さんとお弟子さんの有馬圭亮さんによる、新たな入門・初級・中級楽曲の初演演奏会。「左手のピアノ曲」の歴史の初めの方にパウル・ヴィトゲンシュタインがいますが、彼のようなプロのピアニストたちが委嘱した大作曲家たちの作品は、ラヴェルの『左手のための協奏曲』をはじめとして、芸術性は高くても、初級者には難しいものです。 そこで智内さんたちは、片手演奏のピアノ曲を必要とする人にその普及をめざす入門・初級・中級、そして芸術作品の楽譜作り、さらにはワークショップやレッスンなどを通じて後進の指導・教育にも力を注いでおられます。 当日は新作を書かれた塩見允枝子さんも会場にお見えになりました。1964年に渡米し1960年代を代表する芸術運動、フルクサスに参加された現代音楽の作曲家です。
フランス・ ホイツとメゾソプラノの廣澤敦子によるジョイントコンサートはすばらしいものでした。前半は詩人プラーテン、ヴェルレーヌという二人の同性愛の詩人にスポットを当て、その悲喜こもごもの人生を朗読と歌曲でたどる。後半はアメリカ、日本、オランダの作品を。 コンセプトが明確な前半「詩人プラーテン、ヴェルレーヌという二人の同性愛の詩人」の言葉、物語が朗読されたあと、それぞれにちなむ詩に曲を付けたフンパーディンク、ブラームス、シューベルト、フォーレの歌曲。濃密な愛の高まりと破局の絶望へと、朗読と歌の相乗効果が存分に発揮されました。 後半は二人の国の各々の母国語の歌を中心に。ネレケの歌曲は世界初演。美しい歌です。團伊玖磨も北原白秋の詩を歌いぬいた日本の歌。最終にアメリカのアイヴズを持ってきて、なんというお洒落でサービス精神に満ちた一夜になったことでしょう。「川辺にて」は日本では〈たんたんたぬきの・・・〉という歌詞で親しまれてきた音楽で。 打ち上げでホイツさんは「じつはオランダでは後半にチャイコフスキーとプーランクをやったんだ」と言われ「二人とも同性愛者じゃないですか」と返すと「そうなんだ!」と笑顔になりました。彼の国オランダでは同性婚が早くから認められています。このコンサートはアメリカで連邦政府が同性婚を認め「ゲイ・リベレーション」が遂げられた今年の秋にふさわしい音楽会になりました。
「クラヴィーアの会」で、私が指揮したのは高田三郎「典礼聖歌」から『兄弟のように』『羊かいがいて』、中田喜直の『夏河』『ねむの花』。そしてブラームス『子守歌』、シューベルト『アヴェ・マリア』、シューマン『流浪の民』。山村サロン女声合唱団はヴォイス・トレーナーに廣澤敦子先生をお迎えして3年目になります。いよいよ2016年7月30日(土)、合唱団によるコンサートを開きます。廣澤先生には独唱のステージをお願いしています。山村サロン開館30周年記念。練習はすでに始まっています。
「よろこびの出逢い展」は手工芸品の展示・即売の会。華やかなにぎわいを見せました。皆さんが心を込めての作品です。
レコード・コンサートもいよいよ佳境です。そもそもの発端は、母の小学校時代からの親友のご婦人がサロンにお持ち込みになった数枚のSPレコードでした。阪神淡路大震災の後、職場も自宅もとりあえずの復旧工事を終えて、自宅のオーディオ装置の再建にまで意欲がよみがえった頃でした。 「全部で数十枚あるの。アメリカ・ビクターの《片面の赤盤》という古いのが多いんです」とお聞きしました。盤のレーベルをよく見れば、1929とか1930とか、お求めになった日付がペンで書かれています。その方の実家のお母さまが集められていたもので、夕食後には必ず聴かされたそうです。そんな宝物があの大阪大空襲に焼け残り、震災にも割れずに残っていたのです。 まず持って帰って試聴したのが、パッハマン、パデレフスキーのショパンの小品数枚でした。電気を通して聴く音は雑音が大きく、それでも聴き取れるピアノの響きは美しく、なんといっても音楽が生きていることに驚きました。一回に数枚ずつお持ちになり、次はラフマニノフとコルトー、その次にはクライスラーとエルマン…。古いSPレコードを聴きこんでいるうちに、これは自分だけのものに留めておくべきものじゃない、みんなで聴こう。そうだ、クレデンザを手に入れて、みんなで聴くんだ!…という気持ちを実現させたのが、記念すべき《第1回 名器<クレデンザ>コンサート》でした。 先般100回目を迎え、それからも続けています。SPレコードは寄贈もあり、自分でも集めました。なお「初めてかける」SPレコードがあります。復刻されたCDでは聴くことができない「SPレコードを大型手巻き式蓄音機で聴く楽しみは、100年前の人間につながっていきます。
そのうちに子供の頃から自分が聴いてきたLPレコードも見直すようになりました。震災当時はもっぱらCDを聴いていました。LPプレーヤーが不調になったのがきっかけで、LPレコードは押し入れに「押しくら饅頭」しながら詰め込まれていました。あの地震に割れずに残ったLPが、ふと不憫になり、 これらのレコードも皆で聴こう、という気持ちが高まりました。 再生装置は少年の頃からあこがれていたデッカ・デコラを。そしてLPレコードは手持ちのものをかけています。従来持っていたものに加えて、英国デッカ盤をはじめ、いろいろと補充していきました。 しばらく経ってから、オペラの全曲のシリーズをはじめてくれませんか、というお申し出があり、オペラの時間が始まりました。私自身がオペラを復習するよい機会になったことは幸せでした。
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2016年 1月 1日 発行 著 者 山村 雅治 発行者 山村 雅治 発行所 山村サロン
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