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ねじを回すこと
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鶴見俊輔さんが亡くなられた。寂しさを禁じ得ません。報せは「神戸新聞」の取材の電話によってで、しばらく前から「もう出られない」ということは聞いていたものの、その時が来ました。 初めてお目にかかったのは2002年12月13日、渋谷公会堂で開かれた「良心的軍事拒否国家日本実現の会」の集会の折でした。公園通りから宮下公園までデモ。2,100人を集める大きなものになりました。そして、山村サロンでの「ベトナム戦争終結30周年に当たっての緊急集会――私たちはベトナム反戦運動から何を得たのか、得るのか 鶴見俊輔、小田実」が2005年4月30日。
2007年7月30日、小田実さん死去。2007年8月4日、鶴見氏は青山斎場での葬儀委員長を務められ、彼、吉川勇一さんらに続いて私も弔辞を捧げるひとりでした。2007年8月25日、山村サロンでの「小田実さんを偲ぶ会」にも出席。 2008年6月1日には大阪フジハラビルでの北辰旅団第18回公演『なでしこと五円玉』(小田実さんの小説「さかさ吊りの穴」を題材にした演劇)を奥様とともにご覧いただきました。
このように、鶴見氏さんが目の前に現れたのは、つねに小田実さんに関わってのこと。大きな紙面に書かれた追悼記事にも小田実さんとの関わりについての記述と、当時の写真は必ず掲載されています。小田実さんのときにも、彼はまず「ベトナムに平和を!市民連合」(略称/ベ平連)の代表でした。そして鶴見さんも、まずベ平連の設立者として略伝がはじまるのです。二人はそれぞれ全く異なる個性があるにもかかわらず、終生、戦争に関しては「同じように考える」人でした。
阪神淡路大震災に被災した後、小田実さんとともに災害被災者に公的援助をおこなう新しい法律をつくる「市民=議員立法実現推進本部」を立ち上げました。運動は2年半ののちに「被災者生活再建支援法」として結実しました。1998年5月22日のことです。それからしばらくは法律をより充実させるために集会をくりかえし開いていました。すると、2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が世界を震撼させ、アメリカはアフガニスタンを攻撃。おりしも小田実さんは、前年の2000年6月18日に発表した一文をもとに「良心的軍事拒否国家日本実現の会」を結成。事務局長を私に。
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「良心的軍事拒否国家」めざせ 小田実
日本は「良心的軍事拒否国家」であるべきだと、私は考えている。それが日本国憲法―「平和憲法」の「平和主義」に基づいた国のあり方であり、世界に貢献するやり方である。「平和主義」はただの平和愛好でも「護憲」でもない。「戦争に正義はない」とし、問題、紛争の解決を武力を用いず、「非暴力」に徹して行おうとする理念と実践が「平和主義」だ。私はここで理想や夢を語ろうとしているのではない。現実の事態に即して主張している。ドイツなど西欧民主主義には、戦後このかた「平和主義」の現実の政治の場での実践として、「良心的兵役拒否」が法制度として確立されている。成年に達した若者は「兵役」につくか、「兵役」を拒否して「良心的拒否者」になる。1999年度のドイツの「拒否」申請者は、前年度より2,000人増して17万4,000人余。それに対して99年度の「兵役」者は11万2,000人にすぎない。
「拒否」はただ銃を取らないことではない。「拒否者」は「兵役」の「軍事的貢献活動(ミリタリーサービス)」に代わって、「兵役」期間以上、社会的弱者救済、救急活動、平和教育など種々の「市民的貢献活動(シビルサービス)」を行って、社会に奉仕、貢献する。今、ドイツで老人介護に働く「拒否者」は全体の作業者の11%から17%。この数字はいかに彼らがドイツの福祉に貢献しているかを示している。これは消極的活動ではない。「拒否者」の一人が私に言った。「『軍事的貢献活動』では終わらない。『拒否者』の『市民的貢献活動』の『平和主義』の実践が社会をよくし、世界を変える。」
戦争は戦争を産み、「正義の戦争」は多くがまやかしだった。そして、兵器の進歩は、「正義の戦争」であろうとなかろうと、途方もない殺戮と破滅を人間にもたらした。戦争をやめないかぎり、世界は破滅する。この歴史、世界認識が「平和主義」を強固にし、「良心的兵役拒否」を法制度にした。同じ認識で、私は日本の国のあり方を「良心的兵役拒否」の延長線上において、「平和主義」の実践を行う「良心的軍事拒否国家」であるべきだと主張する。日本は、「平和主義」の「平和憲法」をもちながら、「軍事的貢献活動」の「拒否」はしても、国全体の政策としての「平和主義」の実践はなかった。
コソボに対する「NATO(北大西洋条約機構)」軍の「空襲」が始まったとき、その重い歴史体験をもつギリシャは「NATO」の一員でありながら、民族の利害が複雑からむバルカン半島での外国の武力介入は問題解決は更に困難にすると「空爆」に反対し、懸命に平和解決に努力した。ギリシャの努力はまさに「平和主義」の実践だが、「平和憲法」をもつ日本は何もしなかった。いや、「空爆」にいち早く「理解」を示し、「日米安保」を拡大、強化して、いっそう武力介入の側に身を寄せた。今、世界のはやりは「人道的武力介入」の名の下の戦争の「正義の戦争」化と実行、軍備、軍事連携の強化だが、武力介入はコソボをふくめて、たいてい失敗してきている。東ティモールの場合がまれな成功例だが、それは介入の前後に「平和主義」の運動が国際的にも幅広く展開されてきていたからだ。インドネシア、ユーゴスラビア、フィリピンにおける革命的な政権変革も、今は、市民の手によって非暴力でなされてきている。
詳しく論じる余裕もないが(詳細は近著『ひとりでもやる、ひとりでもやめる』<筑摩書房>で書いた)、今、私たち日本の市民がすべきことは、せっかち、やみくもに「改憲」を論じ、動くより、あるいはただ「護憲」を叫ぶより、「平和主義」の原点に立ち戻って、いかに日本が「良心的軍事拒否国家」として「市民的貢献活動」の「平和主義」の実践を行い得るかを真摯に考え、論じ、実践することだ。国をあげての難民救済、世界の「反核」の実現、「途上国」の債務の軽減、解消、平和交渉の仲介、実現、あるいは個人の「良心的兵役拒否」と組み合わせての若者達の災害救援 ― なすべきことは山とある。それは世界を助ける。平和に貢献する。
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「12・13集会・デモ」は、作家の小田実氏や哲学者の鶴見俊輔氏など10氏が発表した「誰がどう考えても、アメリカがイラクを先制攻撃するのは間違っている」との声明に賛同した各界695人の有志がよびかけて開かれたものです。渋谷公会堂につどい、そこから宮下公園まで歩いて解散。中山千夏さんに初めてお目にかかったのもそのときでした。
私は「ベ平連」の活動は知らない世代です。大学入学時はそでに「70年安保」も過ぎ去って、学生運動も隣あうセクト同士が殺しあう「内ゲバ」の退廃期でした。私は高校時代と変わらず本を読みふけり、音楽を聴き歩き、詩作に没頭していました。鶴見俊輔さんの文章に瞠目したのはそんな折でした。「朝日新聞」の文芸時評はよく目に留まり、読ませる文章がありました。石川淳や吉田健一の文体が大好きでした。続いての担当筆者が鶴見俊輔さんで、文学だけをやっている人ではありませんから、彼の好奇心の飛躍がとてもおもしろく、自由に垣根を越えて「日本語で書かれた本」について書かれていたのです。自由に垣根を越えていく精神の自由は、敬愛する林達夫のものでもありました。
ものをかんがえ、かんがえたことを言葉に書く。できあがった書物のことは、書いた人の自称によっては哲学書、思想書と呼ばれることがあります。哲学者、思想家は、大学の研究室で難しい顔をしている人のことでしょうか。とんでもない。ほんものの哲学者、思想家は誰よりも俗世につうじて、人の情けのあらゆる色を識別し表現できるはずです。高遠な思想、高邁な理想、深遠な哲学。そうしたものを構想し、構築体として表現する言葉は、地上にふつうに生きる人びとが使う言葉のほかにはありません。この自由さが漫画をも思想の言葉で語ることにもつながります。半世紀近くも前に現代を予見していた『光る風』の作者、山上たつひこの『がきデカ』への絶賛は有名です。
鶴見俊輔さんの本はのちに著作集を買い込むほどにたくさん読みました。いちばん好きなのが『アメノウズメ伝 神話からのびてくる道』です。 まず<風穴をあける力>。記紀にある「天の岩戸」神話と天孫降臨前の交渉人という2つの物語を通して、アメノウズメの性格を描きだす。彼女は権威を恐れず異民族を排除せず、さらには裸と踊りで笑いを誘い、場を明るくしてやみません。アマテラスの権威に風穴をあける力を持つのです。 <笑いと政治>の章では、カーニバルも笑いの儀式であり、神や為政者への対抗であったことを言うバフチーンが引かれます。為政者は無謬性を言うが、じつは誤った時の影響が大きいという経験則をみんなが持つべきで、アメノウズメの笑いは為政者の誤り(アマテラスの岩戸隠れ)を嘲笑するエネルギーの源です。戦争末期に「今ぞ今、天鈿女の胸はだけ」というハガキをもらった話でしめくくられます。
『笑い』はベルグソンが一著をしたためたほどに、人間の興味深い感情表現です。林達夫は1938年に初訳を刊行しました。そして晩年の1976年にあらたな後書きを書き加えたほど興味の尽きないテーマでした。鶴見俊輔さんの『アメノウズメ伝』は1992年刊行。日本古来の「笑い」についての論考です。 「笑い」とは、ねじを巻くことです。ねじを巻いて、硬直した精神をほぐし解放することです。右に巻かれて締めつけられた人間の精神は、左に巻かれて止まっていた呼吸がよみがえる。人間が人間であることを自覚できるのは、そのときです。鶴見俊輔さんは生涯なににもどこへも属さず自由でした。ただ弛みなく人を解放へ導く「ねじ」を巻き続ける哲学者、思想家でした。
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「笑い」の哲学者、思想家といえば『落語としての哲学』(1972年)という本を書いた福田定良氏もいました。記憶する人も少なくなっていることと思います。ものをかんがえる人間は寄席に通い、音楽会に通い、美術展にも足しげく通う。とりわけ林達夫は芝居を愛し、シェイクスピアの「世界は舞台」という言葉を自著の題名に用いるほどでした。彼は「哲学者は芝居を見なきゃ駄目だ」と言ってはばかりませんでした。彼のあとを歩いている私は、自ら役者をはじめて6年が経ちました。初舞台は第19回公演 2009.9.13『宇宙の種まく捨聖』で、この世ならぬ存在二役を演じました。そして、2015年の公演は何度目かの「この世ならぬ存在」を演じて幕を開けました。
2014年3月29日と30日の芸術交響空間◎北辰旅団第31回公演『さらば師走よ、冬の旅人』が無事に終えた後、北野座長は4月1日に緊急入院。4月29日に退院後、じっくりと本作品の構想をあたため、練り上げて、ようやく10月10日に稽古が始まりました。
もとになった話は信州戸隠、鬼無里(きなさ)に伝わる鬼女紅葉にまつわる伝説で、紅葉の討伐に勅命を承けた平維茂(たいらのこれもち)が紅葉と戦い討ち捕る話として伝えられてきました。鬼無里における伝承では医薬、手芸、文芸に秀で、村民に恵みを与える「貴女」として描かれていますが、一般に「紅葉」は妖術を操り、討伐される「鬼女」です。この劇では彼女を討った平維茂に焦点があてられました。第一幕では、なぜ彼が戸隠山に登ることになったのか。第二幕では戸隠で鬼女紅葉と逢い、運命の結末を。そしてじつは、第三幕も構想されています。いかにして「鬼女紅葉伝説」が生まれたのかが描かれることになりますが、北野座長の病癒えての復帰作は大長編の物語になりました。
紅葉伝説といえば私には謡曲『紅葉狩り』でした。仕舞の『紅葉狩り』は子供のときのレパートリーのひとつでした。母に連れられて能楽堂で大人の師匠たちが演じる能楽『紅葉狩り』は、ひときわ楽しいものでした。観世小次郎信光作。信光は『船弁慶』『羅生門』などの作者でもあります。『大日本史』(第140巻・列伝67)や『和漢三才図会』(信濃・戸隠明神)に記述がある話なので、歌舞伎でも『紅葉狩り』は演じられます。 芦屋公演「第一幕」での私の芝居の役どころは、全員で声を合わせた冒頭と末尾の僧侶のほか、第一幕では怪しい占い師の老人。サロンでの公演です。謎に謎をかけていく展開なので、お客様からは「はやく次が見たい」というご要望があいつぎました。
戸隠へは前日から準備のために乗り込んでいました。長野駅から山道をのぼるほどに雪が深くなっていきます。定宿の横倉旅館に着くと「一階は雪に埋もれてた」ということで、阪神間ではあり得ない気候に驚きました。当日はやはり早く目が覚めます。口の中で声を出さずに台詞を繰り返しています。昼間は設営と通し稽古。暗くなって薄着の舞台衣装に着替え、ダウンジャケットを羽織って野外舞台へ。じんじんと空気が冷えてきました。観客は振る舞い酒が配られるのでうらやましい限り。ぶるぶる。
そして戸隠中社での第二幕では鬼女紅葉を演じました。この世ならぬ存在がこの世にあらわれて動き、言葉を発する時間は雪を固めた冷たい舞台に篝火が照らす闇の中でした。気温は零下7度。地獄の底のような痛いほどの寒さの責苦のなかで、役者はそれぞれに演じ切りました。河原武石、藤野塁、鈴川みゑとともにやりきった、この4人のチームを終生忘れられないでしょう。芦屋公演から引き続いて戸隠まで来てくださったお客さまも10人ほど、客席最前列に陣取ってくださったのでした。横倉旅館での打ち上げは、その親しいお客さまや北野座長のむかしの芝居仲間にご子息の岳くんを加え、地元の雪まつりの関係者が集まっておおいに盛り上がりました。塁は少々飲みすぎたかな。 翌日は芦屋公演のお客さまと、いつも合宿のときには立ち寄る小布施の街へ。途中の岩松院の葛飾北斎の天井画を、武石も私も大好きです。
芝居のあらすじを書くことができないのは、まだ第3部が控えているからです。8月1日には朗読劇『玉砕』(芸術交響空間◎北辰旅団第33回公演 原作/小田実 演出/北野辰一 出演/青山史煌 山村雅治 鈴川みゑ)を上演するので、第3部は後日のことになりますが、お楽しみに。
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秦はるひさんの久々のソロ・リサイタルは、彼女の師である横井和子先生ゆずりのプログラムです。横井先生は埋もれた昔の作品としてガルッピやスメタナのピアノ曲などを「どうです。いい曲でしょう」と聴かせてくださり、また同時代を生きる作曲家の作品(高田三郎、松下眞一ら)を併せてお弾きになる。 今回のチェルニー「憧れのワルツによる変奏曲 作品12」は、まさに埋もれた昔の作品の典型でした。カール・チェルニーはベートーヴェン、クレメンティ、フンメルの弟子で、ウィーン音楽院においてリストおよびレシェティツキの師。ピアノ教師であって、実用的なピアノ練習曲を数多く残したのは誰でも知っていることですが、作曲家としては知られていません。 ところが1914年刊行の大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』には作曲家列伝のひとりとして紹介されていたのです。――「レシェティツキイがリストに会った時、既に年老いた此の大家が猶(なお)驚くべき技巧を保って居たのに驚いて、其の理由を尋ねたところが、リストは毎日半時間以上づつチェルニーを弾いて居る為めだと答えたという話がある」。
ベートーヴェンの「エロイカ変奏曲」は、現在の秦はるひさんには最も合った曲です。バッハが好きで、引いているといつまでも飽きないピアニストなのですが、フーガでなくソナタ形式でもない変奏曲は、ベートーヴェン自身が得意だった形式でした。テーマの旋律は旧作『プロメテウスの創造物』フィナーレの伴奏部分であり、『英雄交響曲』の終楽章でも最初に提示される主題として扱われているので「エロイカ変奏曲」と呼ばれます。15の変奏。そしてフーガとコーダ。音楽を遊び、ピアノを遊ぶ秦さんはいきいきとされていました。2曲の委嘱作品では新鮮な響きを創造する若さ。そして何度も引かれてきたショパンの諸曲では、生来の音楽への厳しさをそのままにしての自由さが「人間の音楽」を奏でていました。
サロンには初お目見えの若いピアニスト、木田陽子さんは準備で芦屋に訪れるときには乳母車を押して小さなお子さんを伴って来られるのでした。千葉県に生まれ、東京芸大卒業後、2003年から米国ボストンを拠点にソロと室内楽の演奏活動をはじめ、2006年にはカーネギーホールに出演し、ニューヨークタイムズ紙に写真付きで賞賛されました。 また、歌曲伴奏にも力を注いでおられて、フランツ・シューベルト・インスティテュートおよびタングルウッド音楽祭に参加し研鑽を積まれました。
今回は「詩と音楽」。詩の朗読は廣澤敦子さん。彼女は山村サロン女声合唱団にヴォイストレーニングをしてくださっている私たちの声楽の先生であり、またザ・タロー・シンガーズのコンサート・ミストレスを務められるという合唱界にはなくてはならない人なのですが、ソロ活動も驚くほど活発に展開しておられます。愛知県立芸大卒業後、エリー・アメリング氏の推薦でフランツ・シューベルト・インスティテュートでドイツ歌曲、詩の解釈、朗読などを学ばれました。
木田さんは案内ちらしに「詩は、言葉を使わないピアノ音楽にも大きな影響を与えてきました。祖国ポーランドの詩にインスピレーションを受けて作曲されたショパンのバラード。ピアノのためにメンデルスゾーンが書いた『歌詞の無い歌曲』=無言歌。天才詩人の3篇の詩に音楽をつけたラヴェルの『夜のガスパール』」。 詩の朗読は、アロイジウス・ベルトランの『夜のガスパール』。
フランスでは19世紀後半から20世紀初頭まで、詩人たちと音楽家たちは密接につながりあって、それまでにはなかった芸術の世界を創造しました。ボードレール、ヴェルレーヌ、マラルメら象徴詩人の詩にラヴェル、ドビュッシーらが曲をつけました。あの19世紀末、パリのベル・エポックが現代に蘇ったすばらしい企画でした。
「左手のピアニスト」智内威雄さんのコンサートは、サロンでは新作委嘱作品をはじめとする「現代音楽」が展開されます。今回は塩見允枝子(しおみ みえこ、1938 - )さんの作品を聴くことができました。塩見さんは1961年東京藝術大学楽理科卒業。作曲を長谷川良夫、音楽理論を柴田南雄に師事。在学中より「グループ・音楽」の一員として作曲・演奏活動を開始。
ナム・ジュン・パイクにフルクサスを紹介され、1964年に渡米しフルクサスに参加されました。フルクサス(Fluxus) は、リトアニア系アメリカ人のジョージ・マチューナスが主唱した前衛芸術運動、またその組織名で、ラテン語で「流れる、変化する、下剤をかける」という意味を持ちます。1960年代を代表する芸術運動として、ネオダダ、ポップアートと並び称されるもので、日本人の女性としては他にオノ・ヨーコがいるのみです。
塩見さんは音楽と視覚、言語表現を融合させた芸術を追求し続けておられ、最近では山村サロンでの大井浩明さんの公演(リゲティと塩見作品。2011年8月27日)や2013年7月7日、大阪・国立国際美術館で開催された「ミュージック・トゥデイ・オン・フルクサス 蓮沼執太 vs 塩見允枝子」で聴くことができた彼女の作品は、新鮮な力にみなぎっていました。
智内さんと塩見さんは自宅が近く、自転車で行き来して、くりかえし作品について打ち合わせを重ねられたそうです。大井浩明さんの公演以来、お目にかかれる機会が増えたのは嬉しいかぎりです。 智内さんはこのようにして、左手だけで演奏するピアノ音楽の可能性を極限まで広げようとされるかたわら、初心者のための作品、教則本の出版も大切な、なくてはならぬこととして継続されています。
「左手のアーカイブ」プロジェクトと「ワンハンドピアノレッスン」というふたつの環境づくりの活動については、智内さんの公式サイトに詳しいです。http://tchinai.com/ をご覧ください。
野田燎さんは前回の公演「野田燎の世界 ―明暗の記憶―2014.8.11 サクソフォーン・笛・ピアノ・作曲・演奏・舞台美術/野田燎」で、鮮やかに現代に生きる総合芸術家としての姿を久々にみせていただきましたが、今回のクリスマス・コンサートは、音楽療法にかかわる若い音楽家、手塩にかけて育てておられるカプチーノのメンバーによる老若男女が楽しめるものになりました。
野田燎さんが音楽療法の先生として最初にめざましい成果を上げた「こども」も、あれから20年経てば「こども」ではありません。いまの「こども」のためには「ようかい体操第一」。年配の方には「昭和歌謡」。この幅の広さの中に、すべての来場者が楽しめる音楽がありました。
野田燎さんのCDが、山村サロンでもお求めになれることを申し添えておきましょう。「アヴェ・マリア」「私のお父さま」「忘れな草」などに自作「インプロヴィゼーション3」「朝の光」「ロボティック・エレファント」。
久保洋子さんの21世紀音楽浴で最も多く共演されているのが、今回にも出演されたピエール‐イヴ・アルトーさんです。1987年パリで初共演。翌年デュオを結成して、もう長い年月が経ちました。古典から現代まで幅広いレパートリーを誇っています。久保さんの師である近藤圭さんの作品が聴けることは貴重です。いずれも武骨な外観を持ちますが、表現に飾りなく、雄渾な構造物としての男性的な美があります。
久保洋子さんの新作は、ますます女性ならではの神秘な世界を繰り広げていきます。『ラヴィ』はピッコロ・ソロの音楽で、楽器の特徴である高音域だけでなく、中低音にぞっとするような艶っぽい音色がありました。『ブランル』はデュオの曲。これも、揺れ、振動、始動力、はずみといった意味の表題がつけられていて、意図するところは「生命」じたいの動き。あるいは「生命」と「生命」が交接して鳴り響く「いのちの音楽」です。
この演奏会に先立って2015年1月20日、私たちは兵庫県立芸術文化センター神戸女学院小ホールで、作曲・演出/久保洋子 振付/村上麻理絵による「LOVERS Vol.1 現代音楽とコンテンポラリーダンス」公演を見て、久保さんの芸術表現が彼女ならではの総合芸術へ大きく足を踏み出したことを目の当たりにしたばかりです。少し前に私は久保さんに「もう大きな作品が書けそう」と進言しましたが、なんという見事な形で結実していたことか。現代音楽を聴きなれていない人にも「少しもいやな響きはしなかった」と。ここでもアルトーさんのピッコロとフルートの演奏が光を織りなしていました。このシリーズも注目していただきたいものです。
「図書」2012年9月第763号(岩波書店)に連載がはじまったときから、青柳いづみこさんの『どこまでもドビュッシー』がおもしろく、10回を迎えた頃から、これは単行本になるにちがいない、と睨んでいました。<音楽というのは、どこまでデフォルメしたらその音楽に聞こえなくなるのか。ピアニストはどこまで楽譜から自由になれるのか。最近新たに見つかったドビュッシーのスケッチを手がかりに>ピアニストで何冊も本を出しておられる青柳いづみこさんは、自由な筆の運びのうちに書き進められます。 この講座の受付には新刊の『どこまでもドビュッシー』(岩波書店)が積まれ、ご自身のピアノ演奏に画像や音源を用いて、縦横にドビュッシーの世界を語られました。
しかし、青柳いづみこさんのお書きになったものに夢中になったのは、それが初めてではありませんでした。2011年3月3日にウェブ上にはじめた拙ブログ〈大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』〉http://masa-yamr.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/1-bfa6.html
にかかわる調べ物をしていたさいに、ウェブ上での『青柳いづみこMERDE!日記』http://ondine-i.net/merde-n を読ませていただいたのが最初です。2011年4月5日の拙ブログ〈その5〉http://masa-yamr.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/5-ad4f.html
という冒頭部分と、しめくくりの2012年8月29日の〈その48〉http://masa-yamr.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/48-f021.html
、2012年9月5日の〈その49〉http://masa-yamr.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/49-326a.html
に貴重な証言を引用させていただき、2012年9月29日の〈その50〉http://masa-yamr.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/50-6751.html
で全篇を結びました。
講座の講師紹介に「ドビュッシー研究家」とありますが、青柳いづみこさんが初めて読まれた本格的なドビュッシーの研究書は、大田黒元雄の手になる訳書しかありませんでした。 イギリス留学帰りの大田黒元雄(1893年- 1979年)は、1915年に『バッハよりシェーンベルヒ』を上梓します。音楽評論家の野村光一(1895-1988)は、『日本洋楽外史』(ラジオ技術社)で、こんなことを言っています。
「例えば、私自身のことになるんだけど、第一次大戦の直前に偶然の機会で大田黒元雄さんと知り合ったわけですよ。彼はヨーロッパへ行って、しかもイギリスにいたんだ。その頃のイギリスの楽壇にはドイツ音楽もあったけれど、ロシアやフランスの新しい音楽も非常に盛んだったので、それを見たり聴いたりしてきて、われわれに植えつけたんですよ。 ロシアのムソルグスキーとかスクリアビン、バレエのストラヴィンスキー、それからフランスの印象派。それらの知識をまず持って帰ったのが大田黒でしょう。こういった音楽は当時の音楽学校ではまったくかえりみられなかったものなんだ。むしろ異端でさえあったわけですね。 それで彼は『バッハよりシェーンベルヒ』という本を書いたりして、一生懸命広めようとしたんだな。これが日本の音楽畑に新しい運動を作る基礎をなしたということは、絶対に否定できない。私はその点で、大田黒元雄という人が思想的というより知識的なんだけど、こういうことを率先してやった功績は実に大きいと思って、今更ながら感心してますけどね」。
そして、日本で初めてシェーンベルクを紹介したのも大田黒元雄です。 1914年11月14日に開催された演奏会の小さなプログラムがのこっていて、20世紀の大作曲家シェーンベルクの無調のピアノ曲が本邦初演されたことを告げている。作品はその数年前に発表されたばかり。楽譜提供者は大田黒元雄、演奏者は澤田柳吉。(拙ブログ〈その2〉)。 『青柳いづみこMERDE!日記』(東京創元社)もこの講座のあと発売されました。「MERDE!とは「くそったれ!」という意味のフランス語。怒りの言葉でもあり、幸運を祈るときに投げかける言葉でもある」ということです。
朝日カルチャーセンター芦屋教室には文化・芸術のテイストが似たスタッフがいて、しばしば企画の相談を受けることがあります。この講座は私が提案して実現した企画でした。実現できて幸せでした!
イェルク・デムスさんは1928年生まれですから87歳。今年もお元気で「やあ、来たよ!」といったお顔で訪れ、リハーサルの午後が始まりました。 今回のリサイタルは最近ではいちばん全曲にわたってすばらしく、感動を、禁じえませんでした。来日アーティストの演奏会では、しばしば前半に調子がのらなかったりミスをしてしまったり、ということが普通にあることなのですが、ピアノの状態も87歳の彼に合っていたのでしょう、バッハの最初の和音の響きから、もう異次元でした。 あらゆる音楽家がそうであるように、ピアニストは個有の音色を持ちます。打鍵の強さや指の回りなどよりも、デムスさんは一音を聴いて「彼だ」とわかる音色を持っています。彼を教えたイーヴ・ナット、ギーゼキング、エトヴィン・フィッシャー、ケンプ、ミケランジェリらに比肩する至芸が当夜、異常なほどの集中力をもって繰り広げられたのです。
バッハはトッカータにはじまり、アレマンダ、コレンテ、エール、サラバンド、テンポ・ディ・ガヴォッタと続き、ジーグで締めくくられます。それぞれが異なるテンポもリズムも自然でないものはなく、人間が楽器を演奏していることさえ忘れてしまう。自作の「私の好きな日本の卒業生のために」は、もっとも寛いだ心が奏でる親密な音楽。作風は彼の愛する作曲家のひとりであるシューマンに近く。 ベートーヴェンの「ワルトシュタイン」は以前の演奏では、音価がかなり自由に計られる局面がありましたが当夜は厳正な造形のなかを自由に息づく音楽の呼吸が生きていました。第一楽章と第三楽章がハ長調、第二楽章がヘ長調という明るい響きのなかにホ短調(第一楽章)やイ短調、ハ短調(第三楽章)の楽想が忍びこむとき、その巧さは無類です。 「32番」には、もはや言葉を失います。ベートーヴェンの最後のソナタで、激しい第一楽章(ハ短調)とアダージョの変奏曲の第二楽章(ハ長調)。三楽章形式の構想を破棄して、これはなんという独創! 終りに近づくにしたがって音楽は天上へのぼりつめ、ただ頭をたれて聴き入るのみ。
大編成のオーケストラ曲を室内で聴ける編成で。これは編曲する音楽家の腕の見せ所です。モーツァルトやベートーヴェンの交響曲もピアノによる編曲の楽譜は出ていますが、いまのようにレコードやCDなど気軽に音楽を聴ける時代ではなかったとき、人々は自分、自分たちで演奏して音楽を楽しみました。だから、音楽のベストセラーというのは即ち楽譜のベストセラーだったわけです。 シェーンベルクは弟子たちとともに私的演奏協会(Verein für musikalische Privataufführungen)を1918年に立ち上げ、自分たちの「現代音楽」だけではない広いレパートリーの音楽を室内でできる編曲をして演奏しました。批評家は締め出されていました。これは、専門家による専門家のための「戦略的」な編曲といえます。この音楽会はシェーンベルク自身か、あるいはシェーンベルクに任命された「舞台監督」の指導のもとに、一つ一つの作品のリハーサルが熱心に行われ、なによりも「作品を明晰で分かりやすく提示する」ことが最優先の課題とされました。シェーンベルクの音楽の専門家のための教育活動のひとつですが、彼自身にもいろいろな発見があったにちがいありません。シェーンベルク編曲のJ.シュトラウス「皇帝円舞曲」は創意に満ちた傑作です。1919年2月から1921年12月に、オーストリア共和国の超インフレのために活動停止を余儀なくされるまでの3年間、彼らは117回のコンサートを行い、154作品を上演しました。マーラーは「交響曲第7番」「6番」(いずれも四手ピアノ版)、「4番」(室内管弦楽団版)が演奏されました。
このような、シェーンベルクを中心にした「私的演奏協会」の精神と試みが大好きです。大井浩明さんも同じなのでしょう。編曲作品に価値を見ます。 今回演奏された「8番」の編曲者J.ヴェス(1863‐1943)は、協会オルガニスト、作曲家、楽譜出版のウニフェルザル社の編集者という多才な音楽家で、マーラーの交響曲の数曲をピアノ連弾に編曲しています。また、ブルックナーの「8番」の編曲者は、ブルックナーの交響曲の「シャルク版」で有名なフランツ・シャルク(ウィーン・フィルの指揮者でもありました)の兄、ピアニストのヨーゼフ・シャルクです。おそるべきことにピアノ連弾版では作曲家がのこした第二楽章(スケルツォ)と第三楽章(アダージョ)が入れ替わっています。 兄弟揃ってウィーン楽友協会音楽院でアントン・ブルックナーに師事し指揮法と作曲学を学びました。ところが同時代の聴衆はブルックナーの作品を受け入れられず、冗長すぎるという批判にさらされていました。そこで師を愛するあまり楽譜を「短縮」「改変」した「シャルク版」を出版し、いまではそちらの方が悪評にさらされることになりました。
しかし、虚心に耳を傾けてみましょう。ことにブルックナーに関しては「どの版を使うか」という楽譜の問題に詳しいファンが多く、音楽の感動が「楽譜」に負っているかのような誤解をもつ人もいます。音楽の感動は演奏家によるもので、使う楽譜は些細なものでしかありません。朝比奈隆はブルックナーの大家でしたが、楽譜にこだわるマニアでなく、大きな音楽家でした。演奏家は楽譜さえ読めれば、他人の演奏を聴く必要はありません。すべては楽譜に記されているからで、読んだものをピアノの音色をつくり、音符を指で正確に追いかけていけば「音楽」は立ち現れる。 マーラーの「8番」の四手連弾版は、「千人の交響曲」と呼ばれる大編成の管弦楽に独唱(各8声部)、2群の合唱、少年合唱が加わる膨大な楽譜を、どうやってピアノの鍵盤に編曲するのか、まず編曲の腕に興味がありました。よほどこの曲を愛している音楽家でないかぎり、そんな試みは無謀だとあきらめるでしょう。マーラー自身がこの曲について語った言葉は「大宇宙が響き始める様子を想像してください。それは、もはや人間の声ではなく、運行する惑星であり、太陽です」。シャルク兄弟がブルックナーを同時代の誰よりも愛した音楽家であったように、ヴェスもマーラーを。あらゆる意味で超弩級のコンサートでした。
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サロンには能舞台がありますから、ピアノを下ろせば邦楽の各種目に対応できます。長唄も震災前、常磐津小清さんと共演した今藤長之(いまふじ・ちょうし)〈1936‐2001〉さんの公演からですから、長唄の節回しを聴けばなつかしくなります。
日本舞踊の若いお師匠さんである花柳廸彦太さんの小学校の時の担任の西山敦子先生のお祝いの会が開かれました。先生は各学校の校長を歴任され、教育委員会や様々な機関でご活躍なされ、定年後はゆっくりと趣味の歌を楽しまれています。そして今日はご自身の「古稀の祝」のステージを。 廸彦太さんとは、どこか通じあえるものがあり親近感を覚えています。彼はまず一人で踊り、また先生が歌われる「朧月夜」に合わせて踊りました。その美しさ! 衣装のすばらしさをお褒めすると「これ、松竹芸能から借りてきました!」。ほんとうのプロなのです。
朝日カルチャーセンター芦屋教室は、このように各分野でのすばらしい人を招いて公開講座を行っています。ことに脚本家・木皿泉さんのお話は伺いたいものでしたが、ほかに用事がありました。テレビドラマ『やっぱり猫が好き』『野ブタ。をプロデュース』、『Q10』などの作者です。
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2015年は戦争が終わって70年の年。また震災後20年の年。20年が長いか短いかは人生体験の長さによってかわりますが、私にとってはあっという間でした。なぜなら震災はまだ続いています。震災復興にかかった資金を、まだ返済し終わっていないからです。これは被災地の自営業者はおおむね同じ状況にあり、2011年の「東日本大震災」で被災した東北各県の自営業者(彼らは農業、畜産、酪農、漁業などの第一次産業に従事する人が多い)の現状を思えば、われわれがなお充実させなければならない支援策は、生活基盤のなかの住宅基盤の回復のみならず、職業基盤の回復しかないことは明らかです。
自然災害は不測のものであり、公的援助は個人の住居には行わないという、それまでの定説を覆したのが「市民=議員立法」運動の成果〈被災者生活再建支援法〉でした。東北各県でも援助金は配布されましたが、なお不充分なのです。少なくとも「阪神・淡路」の場合は津波も原発事故もなく「元いた場所に住みなおす」ことが被災者の希望としてありました。ところが福島県をはじめとして、それが東北各県ではかなわない地域が多いのです。
また私たちは、市民が「どのような意味においても」安全に日本に生きられる法についても考えてきました。代表・小田実が存命だった2007年までは彼を中心にして皆で考えてきました。やはり日本国憲法が基盤になります。市民の安全を考える上では、自然災害のみならず、人災―その最大にして最悪なものが戦争―からも安全であることが求められるからです。「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」が〈戦争をしない民主主義〉をもち、平和な手段で〈世界に平和を作る〉国の骨格です。
1945年8月、基本的人権すらないと定められた日本人。日本人は猿だとトルーマンはいい、原爆を2発落としました。大量虐殺は地上に生きる人間ひとりひとりに基本的人権を認めない人種差別者が実行します。ヒトラーがそうでした。自国民さえ虐殺したスターリンがそうでした。戦争の主導者は相手国の市民一人ひとりの顔も名前も人生も知る必要がない。「やつらに基本的人権などない」のです。ボタンひとつですべてを焼き尽くして「勝つ」。 基本的人権を尊重することは、日本だけにとどまらず、この地上に生きる人間の一人ひとりの顔も名前も人生も尊重する、ということに他なりません。誰にもほかの誰かの生命に障ることはできない。
かつてスーザン・ソンタグ〈1933‐2004〉がコソボ空爆への武力行使を支持し、「正義の戦争はある」としたとき、小田実は「絶対悪である戦争に、正義の戦争などない」と真っ向から反論しました。暴力は連鎖するからです。報復攻撃は避けられずあり、片方の息がとだえるまで暴力が繰り返されるのが戦争の本質です。原爆で息の根を止められた日本は日本国憲法を得て、戦争をしない別の道を歩んできて、70年間戦争をしないで生きてきました。 小田実の著作は繰り返し、何度でも読まれるべきです。本から離れた特別講演を織り込みながら、毎月私たちは集っています。
「小田実を読む」講座の今期は特別講演が3本、平常どおりの読書会が3本になりました。特別講演を受け持っていただいた山口研一郎さんは『ここで跳べ 対論「現代思想」』にも「脳死・臓器移植拒否宣言」で登場されていました。早野透さんは元朝日新聞編集委員で、阪神・淡路大震災後にわれわれの主張を後押しする健筆をふるわれました。海老坂武さんは「ベ平連」活動時に脱走兵支援に挺身されたサルトル研究家です。『かくも激しき希望の歳月 1966〜1972』(岩波書店)はその時代を活写した一冊。
「小田実を読む」は毎年機関誌を発行しています。第6号ができました。各講座の報告にとどまらず、ゲストのお話も収録しています。私は『三つの玉砕』をはじめ、小説について3本寄稿しています。
頒価は一部800円。 本屋さんではお求めになれないので、山村サロンまでお申し付けください。
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山村サロンのレコード・コンサートは、現在3本だてのシリーズがあります。 いちばん歴史が古いのは「名器クレデンザ・コンサート」です。震災後、亡母の小学校以来の友人のおばさまが「実家の母の持ちもので、大阪の空襲に焼け残り、今度の地震にも耐えて残った古いSPレコードです」と、回数を分けてお持ちくださった米国ビクターの1920年代の「片面の赤盤」数十枚との出会いから始まりました。自宅でひとり楽しむだけでは惜しいと思い、ファンの人を集めてみんなで聴ける会をつくりたいと願い、はじめました。
いまや粗大ごみとして捨てられるほかないSPレコードには、しかし、なんという生き生きとした音楽が刻まれていたことでしょう! 何回か続けるうちに、どこかで私のことをお聞きになった方々からSPレコードが持ち寄られ、また自分でも買い求めて、まだかけていない盤がたくさんありますから終わる気配はありません。
震災まえはCDを聴いていました。震災後にSPレコードの魅力が判って、聴かなくなっていたLPレコードを引っ張り出して聴くようになりました。それがまた、いいのです。とりわけ英国デッカの盤を、伝説的なステレオ電蓄〈デッカ・デコラ〉で聴きたいものだと、長年にわたって抱いてきた夢を思い切って実現させたのです。震災後には、そういう次第で「人類の音盤100年」の歴史を生きる、という楽しみが加わりました。
いちばん新しい企画「OPERA SPECIAL」も、もう6年になります。SP時代にはオペラの全曲盤はあまりありませんでした。片面4分半という収録時間の制限があるからで、LP時代に突入するや、片面30分弱の利点を生かしてオペラの全曲盤が次々とリリースされました。マリア・カラスの全盛期はモノラル録音期の英国EMI盤に刻まれています。ステレオ録音期に突入すると英国デッカの『ニーベルンクの指輪』(ショルティ指揮/ジョン・カルショー:プロデュース)が不滅の名盤です。
各レコード・コンサート、いずれも私の気の赴くままにプログラムを組み立てていますが、リクエストがあれば随時組み込んでいます。 バッハ以前や20世紀に入ってからの現代曲は、まだリクエストがありませんが、もしあれば、すぐに対応できると思います。
Boy after a hundred years ≪声の幽韻≫松平頼則から奈良ゆみへの書簡
個人のブログ〈Boy after a hundred years〉http://masa-yamr.cocolog-nifty.com/blog/ では、絶版になって久しい書物、埋もれたままになっている資料などを紹介してきました。〈「青騎士」について〉http://masa-yamr.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/1-4b4c.html ではカンディンスキーとシェーンベルクの書簡、〈大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』〉http://masa-yamr.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/1-bfa6.html では、日本で初めてシェーンベルクを紹介したなどの功績がある大田黒元雄の著作、〈『わが心の自叙伝』―横井和子先生がお書きになったもの〉http://masa-yamr.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-0ae7.html では、後進を育てる名教師であり、かつ同時代の作曲家の作品も積極的に世に知らしめたピアニスト、横井和子さんの自叙伝。
そして現在、〈≪声の幽韻≫松平頼則から奈良ゆみへの書簡〉http://masa-yamr.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/1-2b7b.html はメシアンと同世代の国際的な作曲家、松平頼則(まつだいら・よりつね)先生がソプラノ歌手の奈良ゆみさんへ送られた書簡を掲載しています。これまでのものよりはるかに長大な分量があり、すでに80回目を迎えています。もう80歳を超えていた作曲家は奈良ゆみさんの歌声に心を奪われ、あたらしい霊感に打たれて、彼女のために次々と新作を生み出していきます。薄くなった感熱紙のファックス画面を解読するのは難渋をきわめますが、解読できたときの喜びは大きいものがあります。芸術家どうしが感応しあい、互いを高めていく創造の根源的な力に打たれます。 http://masa-yamr.cocolog-nifty.com/blog/
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2015年 8月 15日 発行 著 者 山村 雅治 発行者 山村 雅治 発行所 山村サロン
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