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阪神淡路大震災から20

 

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 あの悪夢のどん底にまで突き落とされたような阪神淡路大震災から20年が経ちました。1995117日午前546分という日付と時刻以来、人生観も世界観も一変し、人生の歴史がそこで断ち切られ、また続いてきました。私の親の世代はよく戦前/戦後の時代のちがいを物語ってくれましたが、被災地の人間は大なり小なり「震災前」/「震災後」の区分を自覚しているものと思います。2011311日の東日本大震災も、東北の被災地に生きる人たちにもまた「震災前」/「震災後」で大きく人生の歴史の時間が分断されたことでしょう。

 

もちろん「阪神」と「東北」では状況が異なります。瓦礫の山に佇んだ私たちと、大きな面積を津波にのまれてしまった東北の人たちとでは、家並みと街を復活させるにあたって立ちふさがる壁の厚みも高さも、乗り越えるには次元を異にした困難さがあるでしょう。また福島第一原発の事故まで引き起こされた結果、いまだに元住んでいた家に帰れない人がたくさんいます。

 

「阪神淡路大震災」に被災した私たちは、突如おこった自然災害が一瞬にして多くの人命のみならず、あたりまえのように生活を支えていた文明生活の一切が失われることを体験しました。物質文明の脆弱さを目の当たりにして、人間が生きていく上での価値を、別の所に「再発見」にして「決定的な認識」に辿りついたのは、職業基盤も破壊されて収入が皆無になった身の上には奇跡ともいえる僥倖でした。それぞれの地域でかろうじて生き残ることができた私たちは、隣の人とともに生き、またたしかに隣の人を死なせずに助けようという衝動に突き動かされて生きていました。

 

「世界の終わり」が、あの地震の突き上げと家屋倒壊に押しつぶされてしまった人たちには訪れたのです。しかし、私たちは生き残った。「世界」をそのまま終わらせず、なんとかして人間の社会の息をつなぐ方策を必死にかんんがえて、小田実が提唱した「市民立法」に賛同し、それを「市民=議員立法」として現実化させる運動の片腕となり『被災者生活再建支援法』を1998年に成立させたのでした。その法律は2014年の広島の土砂災害などにさいしても適用されたはずです。

 

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しかし、市民が安心して安全に生命と生活の危機から解放されて生きていくには、なお『被災者生活再建支援法』は橋頭堡であるにすぎないと判断せざるを得ません。

 

たとえば、市民の平和な生活を脅かし破壊する人災のひとつに戦争があります。テロや内戦がおきれば国内の問題にとどまりますが、対外国との戦争が勃発した場合にはどうなるのか。そうならないために、日本は二度と戦争をしないという約束が憲法第9条に刻まれていたはずなのに、戦争ができるという国に変えようとする勢力が強くなってきています。

 

また、この地上においては「民主主義」の理想では、その人のあらゆる属性にかかわらず、すべての人間が自由であり、対等平等の地平に立ち、思想と宗教と表現と集会の自由を持っているはずなのですが、これもまた息苦しくなってきてはいませんか。国家のための市民でなく、市民のための国家であると考えます。人は人を差別してはいけないし、差別されてもいけない。これが人間の社会の基盤にあるべきです。

 

じつはそうしたことは「サロンの思想」として1991年初版の拙著『マリア・ユージナがいた』に書いたことでした。その本を贈呈した一人に小田実がいて、ただちに会おう、ということになり交流が始まったのでした。そのなかにはシベリア抑留を経て帰還した父から受け継いだ反戦への思いがあり、平和的な手段をもってしか恒久的な平和は達成できないというようなことが、私自身の言葉で記されていました。

 

 2015年早々にその本は、約四半世紀ぶりに『マリア・ユージナがいた 増補版』として復刊する運びになりました。

震災前の「バブル」/「バブル後」という時代区分があった頃の世相を交えて仕上げた本でしたが、その部分は少し削るなどあらゆる細部にわたって手直ししましたが、「サロンの思想」という基軸は変えられないので、イベントを網羅した「日録抄」だけ最近のものに差し替えて、現代に即した『マリア・ユージナがいた』に生まれ変わらせたつもりです。松見慎一郎さんから中尾満さんへ版元の社長も替わり、新しいリブロ社の出発のためにも。

『マリア・ユージナがいた 増補版』リブロ社。2015117日初版、という日付を選びました。

 

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 藝術交響空間◎北辰旅団の芝居が2014330日の第31回公演『さらば師走よ、冬の旅人』以来、とぎれていることにご心配をおかけしています。中一日おいた41日、朝から北野座長が具合の悪さを訴えられ、車で病院へ同行すると、長い時間を検査に待たされた後、即入院ということになったのでした。もともと心臓疾患があり、本番の舞台までは、と無理されていたのでしょう。芝居への情熱が肉体の条件をこえて彼の体を動かしていたのです。入院は約1ヶ月。退院してもしばらくは静養が必要でした。

 

 ぼちぼちと「小田実を読む」とレコード・コンサートに参加。夏が来て恒例の戸隠合宿を敢行。23日のゆったりとしたものになりましたが、そのなかで地元の人たちと語り合ううちに、2015年の2月に雪でかまくらを作って雪見酒を楽しむ会がある、という話を聞いて、その機会に北辰旅団が芝居を披露することが決まったのでした。台本の進み具合は早く、10月にはある程度仕上げられ、11月に入ると稽古が始まりました。

 

 本番への下見のために座長と私と照明の方と3人で、1127日から1泊で戸隠に行くことにしました。すると1122日に震度6弱を記録した長野県北部地震があり、白馬村に大きな被害を与えました。戸隠もまた大きく揺れたはずで、心配は募りました。レンタカーでいつも行く道に被害がなかったのは幸いでした。地元の人たちは「ここはそんなに被害はなくて済んだけれど、あんな大きい地震は初めてだった」と地震の大きな揺れに驚かれた様子でした。

 

 藝術交響空間◎北辰旅団 第32回公演「戸隠奇譚『虚像となった男』」は第1部が芦屋・山村サロンで2015215日(日)に、第2部が戸隠神社中社鳥居前広場で228日(土)に上演されることが決まりました。

 

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 阪神淡路大震災から20年。「市民=議員立法」を小田実さんとともに成し遂げた仲間は、のちもそれぞれの持ち場で活動を続けてきましたが、1月には年1回の集会を開いています。2015年は110日(土)午後1時から。続いて震災を扱った小田実の小説『深い音』を私が読む「小田実を読む」が午後3時から開かれます。

 

 

 

阪神淡路大震災と東日本大震災からの   2014.5.3

復興を支援するチャリティ・コンサート

 

出演/AUBEVideo)、石上和也、.es、穂高亜希子

高山謙一 + 小池克典 with 真嵜めぐみ

企画/坂口卓也

 

 

阪神淡路大震災に被災して、まだ復興もままならない1997年に坂口卓也さんからのお申し出でこのコンサートは始まりました。初回に登場されたのは「渚にて」と「オウブ」でした。その後も続けて出て下さった「オウブ」こと中嶋昭文さんが先日急逝されました。追悼の気持ちを込めて、そのときの水音源を用いて行ったライヴの映像が今年の冒頭に映写されました。

 

演奏は、まず石上和也さん。コンピューターを使った電子音楽(ノイズ・ミュージック)で、この日はよほど好調だったのか即興が冴えわたっているように聞こえました。喧騒には生活する人間のぬくもりがあり、祭りの情景を目に浮かばせ、持続する音には人間を超えた大地の呼吸の持続を伺わせました。生々しい人間の心を湛えつつ簡潔に結ばれました。この種目の音楽では現今求め得る最高の作品のひとつではないでしょうか。

 

そして昨年に続いて .es (ドットエス)。橋本孝之さんのサックスと sara さんのピアノからなるデュオですが、どこへ向かうのか判らない強い情念の即興演奏です。情念を迸らせるサックスは人間の苦しみをさらけだす暗さと激しさを基調にし、ピアノは直観的な和音で支えていくことで人間の世界からはみ出すことから救います。飼いならすことができない狂気が痛快です。サックスには昨年に比べて、弱音でものをいうことも加わったようです。

 

東京から参加してくださった穂高亜希子さんの歌が次に響きました。アコースティック・ギター、ピアノと歌声の、それまでとは一変した音楽の切りつめられた姿。いっぱい泣いてきた。たくさん涙を流してきた。そんな人だろう。けっして大きな声で歌わないが、人は真実を語るときには低声になる。つぶやきが歌として立ち現れるとき、彼女は悲しみの固い壁を砕こうとする

意志を鋭く尖らせます。

 

最後に高山謙一さんと小池克典さんのデュオ。彼らのデュオとして出演されるのは 7 年ぶりとのこと。今年はそこに真嵜めぐみさんが加わりました。彼女は Zillent Z's (高山さんの現在のユニット) のメンバーです。ダンディそのものの高山さんのヴォーカル、ギターと小池さんのピアノはさすがに息の合ったものですが、そこに真嵜さんのドラムスが加わったとき、音楽はより多彩で豊かなものとして目くるめくような万華鏡空間になりました。体全体がリズムになり、生の手で叩く太鼓の音が、音楽が生まれ出てくる原初のエネルギーを伝えてやみませんでした。

 

打ち上げは近所の居酒屋で。ギャラリーノマルの林聡さんらを交えて楽しい懇親会になりました。そこで話のなりゆきでノマルの「NOMART 25周年記念イベント」の<音にまつわるトーク&試聴会>のひとこまとして、201410月に企画の坂口卓也さんと私も話をすることになりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

智内威雄ピアノ・リサイタル   2014.6.14

 

川上統:ソナチネ アイリス(1楽章、2楽章)

吉松隆:アイノラ叙情小曲集より、1235

橋爪皓佐:回り燈籠

塩見允枝子:架空庭園より第一番

バッハ(ビットゲンシュタイン編曲):平均律11番前奏曲

サンサーンス:エレジー

リスト:ハンガリーの神

バッハ(ブラームス、ビットゲンシュタイン編曲):シャコンヌ

スクリャービン:前奏曲と夜想曲

 

 

「左手のピアニスト」智内威雄さんは積極的に日本の作曲家に「左手だけで演奏するピアノ曲」の新作を依頼し、初演を続けてこられました。打鍵は鋭く強く精確をきわめていて、表現にいささかの曖昧さも残しません。音域は最低音から最高音にまで及んでいるのですから、もう「両手」「片手」の別などはどうでもよくなってしまいます。私はどんな演奏会でも目を閉じて聴き入りますが、聞こえてくるのは、豊かな音楽です。

 

近代の「左手のピアニスト」の創始者といえるのは、第一次大戦で右手を負傷したパウル・ウィトゲンシュタインです。(Wittgensteinwiの読みについては最近の定説では「ウィ」になっています。智内さんはプログラムのように「ビットゲンシュタイン」と表記されています。いずれにせよ他国の人の名前を仮名表記するのはもともと無理矢理で)。パウル(1887-1961)は哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの兄で、彼の同時代を生きたラヴェル、シュトラウス、ブリテン、ヒンデミット、コルンゴルド、プロコフィエフらに作品を委嘱しました。それまでにはブラームス編曲のバッハ『シャコンヌ』ヤスクリャービンなど数えるほどしかありませんでした。

 

「左手のピアニスト」では、かつてサロンにはラウル・ソーザさんを1999のピアニストとして1999126日にお呼びしたことがあります。パウル以後にもレオン・フライシャーがいたし、日本では舘野泉さんが左手のピアニストとして再起され活躍しておられます。若い智内さんは、ハノーバー音楽大学留学中に右手にジストニアを発症。左手のみで室内楽の卒業試験に満場一致での最優秀成績を収めました。帰国後「左手のアーカイブ」を設立。楽譜も充実してきました。

 

 

 

 

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c0050810_18495019  ミュライユ

 

 

大井浩明 リサイタル・シリーズ「時を得たメシアン」

 

■第1回   2014.6.15

 

朗読/山村雅治   エレクトロニクス/喜多敏博

 

O.メシアン(1908-1992):《幼な子イエスに注ぐ20のまなざし》(全20曲、1944

(―ドン・コルンバ・マルミオン、モーリス・トエスカのテクスト朗読を伴うオリジナル原案版/日本初演)

I. 父のまなざし  

II. 星のまなざし  

III. 交換

IV. 聖処女のまなざし  

V. 子にそそぐ子のまなざし

VI. その方によって万物はつくられた  

VII. 十字架のまなざし

VIII. いと高きところのまなざし  

IX. 時のまなざし

X. 喜びの聖霊のまなざし

 

喜多敏博(1967- )《クエリー・レスポンス》〜ピアノとライヴエレクトロニクスのための

(委嘱新作初演、2014

 

O.メシアン:《幼な子イエスに注ぐ20のまなざし》(1944

XI. 聖処女の初聖体拝領  

XII. 全能のことば

XIII. 降誕祭  

XIV. 天使たちのまなざし

XV. 幼な子イエスの口づけ

XVI. 預言者、羊飼いと東方三博士のまなざし

XVII. 沈黙のまなざし  

XVIII. 恐るべき塗油のまなざし

XIX. 眠っていてもわたしの心は目覚めています

XX. 愛の教会のまなざし

 

 

 今年の夏は、大井浩明さんのメシアンでした。初回の《幼な子イエスに注ぐ20のまなざし》に私が朗読を受け持つことになった経緯について、当夜のプログラムを執筆された平野貴俊さんは(音楽学)以下のように解説されています。

 

 「本公演は、近年のメシアン研究によって明らかとなった事実――《幼な子イエスにそそぐ20のまなざし Vingt regards sur lEnfant-Jésus》(1944年作曲、1945年初演。以下《まなざし》)はもともと演奏会用作品ではなく、朗読を伴うクリスマス用のラジオ劇として構想された――にもとづいて、その幻に終わったプロジェクトを再現する日本初の試みである(註9)。本公演では、《まなざし》に合わせて朗読される予定だったトエスカのテクスト『降誕 La Nativité』と、メシアンが《まなざし》の創作で依拠したマルミオン『神秘のなかのキリスト Le Christ dans ses mystères』を中心に、『聖書』、『聖フランチェスコの小さき花 Fioretti』、十字架のヨハネの詩、メシアン『リズム、色彩、鳥類学総説』の一節が朗読される。トエスカとマルミオン以外のテクストに関しては、スコアに記された各「まなざし」のエピグラフを手がかりに、それぞれに関係する一節を複数の文献から抽出した。プーランク《子象ババールの物語》を引き合いに出すまでもなく、朗読+ピアノという上演形態はフランスでとりわけ一般的である。

 

 メシアンはマルミオンが生まれてちょうど50年後に生を受け、2014年はトエスカの生誕100年にあたる。本公演の《まなざし》は、降誕の物語に神秘を見いだしたこの3人の芸術家の聖三位一体(サント・トリニテ)を実現するものとなるだろう」。

 

大井さんとも幾度もメールを交わし、朗読を入れることになってから一か月くらいしか準備期間はありませんでした。ラジオ劇放送時の台本そのものは残っていません。推測する材料としての資料が続々と到着。米国アマゾンに頼んだ洋書もタイミングよく到着。トエスカのフランス語とマルミオンのフランス語の英語訳などの文献を読み込みつつ神学の言葉を噛み砕き、かつメシアンが自ら楽譜に添えたフランス語にもあたるなど、まるで学生時代の古英語(『ベーオウルフ』など)や中英語(チョーサー『カンタベリー物語』やシェイクスピアの作品群)などを踏破した「地獄の季節」の力仕事が蘇ったかのようでした。

 

しかし重要なことは朗読台本の作り手として、読まれる日本語が「聞いてわかる」こなれたものにすることでした。学問的に正しいかどうかは元よりあずかり知るところではありません。詩人として朗読台本をつくり、舞台役者として読む。その限りにおいて力を尽くしました。選んだ言葉は、トエスカとマルミオンと聖書の言葉を中心として、3人の聖者―アシジの聖フランチェスコ、幼いイエスの聖テレーズ、十字架の聖ヨハネ―の言葉でした。

 

かくて前日を迎え、マイクを使わず生の声でできることを確認、そして朗読の入るタイミングなどの打合せ。本番前には少し声を出してみただけでした。本番は始まり、そして終わりました。驚くべきは大井浩明さんのピアノ演奏で、客席にはかなりの音量で響いていたと思われるのに、至近の距離で響きに身を晒していた私の耳には少しもうるさく響きませんでした。 

それにしても1944年に作曲された《幼な子イエスに注ぐ20のまなざし》はピアノ部分だけでも2時間を超える大作です。朗読と休憩を入れれば、さらに時間を必要とします。終演後のお客さまはそれぞれに感想をお持ちになったようですが、私にとって喜ばしかったのは「全然長いと思わなかった」と「もう朗読なしでは、この曲は聴けない」というもの。

 

私としては、実演ならではの一回性の燃焼を記憶にとどめていただければ、それに過ぎる喜びはありません。ちなみに衣装は松井美保子画伯が描かれた「Actor」と同じ白い古代を模したものを着用しました。

 

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大井浩明 リサイタル・シリーズ「時を得たメシアン」

 

■第2回   2014.7.13

 

ミュライユ(1947- ):《夢によって吊るされ磨かれた片眼のように》(1967日本初演)

:《河口》(197172

           第1曲「河岸で」 - 2曲「汽水域で」

:《忘却の領土》(1977

:《告別の鐘と微笑み〜O.メシアンの追憶に》(1992) 

:《マンドラゴラ》(1993) 

:《仕事と日々》(2002) 

            I. - II. - III. - IV. - V. - VI. - VII. - VIII. - IX.

 

 

一般のファンにはミュライユの名前は聞きなれないし、なぜ「時を得たメシアン」のシリーズに彼の作品が弾かれるのか判らないでしょうから、当夜のプログラムを書かれた野々村禎彦さんの文章を下記に引用します。

 

「メシアンは、作曲家であるとともに音楽教師でもある。周知の通り、創作のみで生計を立てられる作曲家は現代では極めて稀であり、多くの作曲家は音楽学校の教師を生業としているわけだが、なかでもメシアンは破格の存在だった。作曲家としてのメシアンの同世代には松平頼則(1907-2001) やカーター(1908-2012)、少し上にはダラピッコラ(1904-75) やペトラッシ(1904-2003)、少し下にはケージ(1912-92) やナンカロウ(1912-97) がおり、綺羅星の中のひとつとも言えるが、優れた弟子を輩出したという点で彼に並ぶ教師は見当たらない。人数ではナディア・ブーランジェも凄いが、弟子たちの音楽史的な重要性では彼には及ばない。

 

まず、戦後前衛第一世代を代表するクセナキス(1922-2001)、ブーレーズ(1925-)、シュトックハウゼン(1928-2007) という、作風も音楽性も全く異なる3人を育てただけで尋常ではない。毒舌とともに秀才ぶりでも知られたブーレーズや、当時の流行書法だった全面的セリー技法を採用し、同じ道の先を行くブーレーズからも指導を受けたシュトックハウゼンはまだしも、他の教師たちから嘲笑され見放された劣等生クセナキスに「君は数学を知っている、なぜそれを作曲に応用しないのか?」と的確に助言し、20世紀でも有数の作曲家に引き上げたのは教師の鑑。

 

メシアン門下生の系譜はさらに続き、ポスト戦後前衛世代になると今回取り上げる「スペクトル楽派」の作曲家たちジェラール・グリゼー(1946-98)、トリスタン・ミュライユ(1947-)、ミカエル・レヴィナス(1949-) が登場する」。

 

 大井浩明さんは20歳過ぎに京都で演奏活動をはじめられた頃、現代音楽といえばメシアンと武満徹だったと述懐しています。1992年当時に武満徹作品個展の共演者、金谷幸三氏に「今度はミュライユをやろう」と提案されてそのままになっていたということでした。

 

 20余年を経ての大井さんのミュライユ作品の演奏は、3時間に及ぶものになりました。しかし耳が疲れない。響きに身を浸していられる音楽だからで、メシアンよりもドビュッシーに近いものを感じました。フランソワ‐ベルナール・マーシュは「ドビュッシーとスペクトル楽派を橋渡しする重要な語法として「色彩‐和音」を位置づけている」との記事は8月のメシアン『鳥のカタログ』の平野貴俊さんが書かれた解説の中にみつけました。初期から2002年の《仕事と日々》まで徐々に響きは変わってきますが、みずみずしい「色彩‐和音」にミュライユのいちばん美しい音楽は際立っているようです。

 

  アンコールが洒落ていました。ヴァーグナー/リストの『トリスタンとイゾルデ』前奏曲と愛の死。そして「トリスタン」の旋律をドビュッシーの『ゴリウォーグのケークウォーク』につなげた諧謔曲(クレマン・ドゥーセ作曲と思しい)。ミュライユは1947年生まれで、その年にメシアンは「トリスタン3部作」を書いていました。『トゥランガリーラ交響曲』、歌曲『ハラウィ』、そして合唱曲『五つのルシャン』です。ここでのメシアンはカトリック信仰から離れて、むしろ異教的な響きの中に愛と死―エロス―を描きました。

 

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大井浩明 リサイタル・シリーズ「時を得たメシアン」

 

■第3回   2014.8.31

 

【第一部】

O.メシアン(1908-1992):《鳥のカタログ》(1956/58)より《I.黄嘴鴉》

F.クープラン(1668-1733):《恋する小夜啼鳥》(1722)

O.メシアン:《II.西高麗鶯》 

F.クープラン:《おじけた紅鶸》(1722)

O.メシアン:《III.磯鵯》 

F.クープラン:《嘆く頬白》(1722)

O.メシアン:《IV.顔黒砂漠鶲》

F.クープラン:《勝ち誇る小夜啼鳥》(1722)

O.メシアン:《V.森梟》

F.クープラン:《お人好しの郭公》(1722)

O.メシアン:《VI.森雲雀》 

 

【第二部】

C.ジャヌカン(1485-1558):《鳥の歌》(1529)

O.メシアン:《VII.葭切》

J.P.ラモー(1683-1764):《鳥の囀り》(1724)

O.メシアン:《VIII.姫告天子》

J.P.ラモー:《雌鶏》(1728)

O.メシアン:《IX.欧羅巴鶯》

 

【第三部】

J.J.F.ダンドリュー(1682-1738):《鳥のコンセール》(1724)

O.メシアン:《X.腰白磯鵯》

L.C.ダカン(1694-1772):《燕》(1735)

O.メシアン:《XI.鵟》

L.C.ダカン:《郭公》(1735)

O.メシアン:《XII.黒砂漠鶲》

J.デュフリ(1715-1789):《鳩》(1748)

O.メシアン:《XIII.大杓鷸》

 

 

 「自然、鳥の歌! 私はそれらを愛してやみません。それはまた心の糧です。暗い時分、私は突然自分の無能さに気づいてはっとします。古典派、異国、古代、現代、超現代、あらゆる種類の音楽言語は、忍耐強い探究の結果として出てきた立派な成果にすぎないのではないか、と思えてしまうのです。音の背後には、それだけの労苦を正当化してくれるものなど何ひとつありません。森や田園、山々や海辺、鳥たちに囲まれたどこかある場所に、その忘れられた姿を見いだすほかないではありませんか。私にとって、音楽があるのはまさにそこなのです」。(オリヴィエ・メシアン 1959

 

カトリック信仰、愛と死(エロス)に並ぶメシアンのもうひとつの芯は、鳥の声に代表される自然でした。世界中の鳥の声を採譜したといわれますが、日本を訪れたときにも軽井沢でホトトギスなどの鳥の声を採譜しました。自然から採取された鳥の声の響きは、メシアン自身の音楽語法の探求に役立ちました。『鳥のカタログ』は全713曲からなり、演奏時間は3時間を超えます。当夜の大井さんの試みは、曲集の合間にバロック時代の作曲家の「鳥」を扱った曲を挟んでいく、というものでした。ラモーやクープランの作品はとりわけ有名で、サロンではかつて19881210日に、アンリエット‐ピュイグ・ロジェ女史が「フランス音楽へのプロムナード」と題してラモー(1683生まれ)からメシアン(1908年生まれ)までの小品をずらりと並べたコンサートを開いてくださったことがあり、したがってラモー、クープランとメシアンが一夜に弾かれるのは当夜で2度目ということになりました。

 

メシアンの三夜を通じていえることですが、大井浩明さんは音色をつくるのが巧い。けっして刺激的、威嚇的に響くことなく、紙背に徹した楽譜の読みが直接指先に伝わり、それぞれの音がそうある他ない姿で現れます。メシアンの「鳥」シリーズの『鳥たちの目覚め』の初演は不評に終わりました。『鳥のカタログ』も、他のピアニストたちのCD3枚組をプレーヤーにかけても、一気に3枚組を聴き通したことはありませんでした。作品自体がコンサート・ピースとして疑いを禁じ得ないまま臨みました。

そして、本番。大井さんの演奏に接して、やはりメシアンはこの作品を聴衆に提出する作品として創造したと確信できました。第1曲と第6曲の冒頭のなんという音色の美しさ。鳥たちにも喜怒哀楽があり、存分に時空を生きていました。すばらしい「時を得たメシアン」3夜。大井さんはこう書いていました。「6月のメシアン《まなざし》がオルガニストの視点、7月のミュライユがオンディストの視点からの読み直しとするならば、8月の《鳥のカタログ》はクラヴシニストの視点からの再解釈となるでしょう」。

 

 

 

ナンダヤパ&ウィングス コンサート   2014.7.5

 

■マリンバ・ナンダヤパ

(マリオ・ナンダヤパ・ヴェラスコ、マリオ・ナンダヤパ・ガイタン、

ダニエル・ナンダヤパ・ガイタン、ダーニャ・ナンダヤパ・ガイタン)

Grijalva, Petrona, China poblana, Huapango, Sones chiapanecos,

Veracruz, Cielito lindo, Besame mucho, Jurame, Estampas-mi ciudad,

Vuelo del abejorro

 

■マリンバデュオ・ウィングス(吉岡孝悦、塩浜玲子)

ヴェルディ:歌劇「アイーダ」より凱旋行進曲

マスカーニ:歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」より間奏曲

ヨハン・シュトラウスU:雷鳴と稲妻

           :ピチカート・ポルカ

           :美しく青きドナウ

吉岡孝悦:マリンバ連弾のための「変容」

 

 

吉岡孝悦さんが初めてサロンに来演されたのは、19891122日。作曲家/ピアニストの深町純さんとのデュオコンサートでした。吉岡さんの自作と深町さんに委嘱された作品の間に『アメリカン・パトロール』などのよく知られた小品が挟み込まれたプログラムでした。20101122日に深町純さんが急逝されたのは、いまも悔やまれてなりません。

 

吉岡さんは来演されるたびに、マリンバ音楽の新しい喜びを伝えて下さいます。今回はメキシコから「マリンバ・ナンダヤパ」が来日するというので、「マリンバデュオ・ウィングス」と共演することになりました。

「マリンバ・ナンダヤパ」はお父さんと息子3人で1977年から活動を始められ、現在はお父さんと息子2人、末っ子の娘さんの4人で活躍されています。レパートリーは広く、メキシコ民謡からポップスやジャズ、クラシックにまで及びます。

 

ナンダヤパが持ち込んだメキシコのマリンバは木製で、多彩な音色が目くるめくようでした。金属的な雑音が混じったり、手風琴の音を出したり。民族楽器による民族音楽に篭められた根源的な音楽の力が逞しい。全てが「俺の」「私の」音楽であり、尽きない泉のように湧いては溢れかえります。ファンにとってはこたえられない夜になりました。

 

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野田燎の世界 ―明暗の記憶―   2014.8.11

 

サクソフォーン・笛・ピアノ・作曲・演奏・舞台美術/野田燎

 

ダンス/藤谷由美 

ピアノ/西村奈菜

録音製作/芹澤秀近  

技術写真/高畑侑平

 

鳥達〈笛、ソプラノサックス & ピアノ〉

朝の光〈テナーサックス & ピアノ〉

インプロビゼーションT& 舞 〈アルトサックス 独奏〉

心炎 + 紫響(日本初演) 〈テナーサックス、ピアノ & ダンス〉

蛇使いの女(世界初演) 〈アルトサックス 独奏〉

ロボティック エレファント 〈テナーサックス、ピアノ & ダンス〉

 

 

阪神淡路大震災後の野田燎さんは、それまでの尖鋭な現代音楽をやる作曲家/サックス奏者だった姿は影をひそめて、もっぱらサックス演奏を用いた音楽療法家として活動してこられました。医学博士号も授与されたのですから、生命の根源に迫る音楽の力を「奪われた機能を回復させる」医療に用い、回復した症例はめざましいものとして、その分野に貢献したことが認められたわけです。

 

だから、山村サロンでのコンサートも、主に療法を受ける子供たちに聴かせることが目的でした。『朝の光』と『ロボティック・エレファント』はプログラムに入りましたが、コンサートのすべてを野田燎作品にしたのはじつに久しぶりのことです。日本初演もあり、世界初演もあり、舞台美術も担当されて、意欲にあふれる「野田燎の個展」になりました。

 

野田さんが滅多に自作を吹かなくなっても、野田燎作品『インプロビゼーションT』はyoutubeで世界各国のサックス奏者が吹いています。同曲の楽譜はフランスのルデュック社から出版されています。海外のサックス奏者にとっては、いまもRYO NODAは忘れることができない存在なのです。

 10数年間、世界中のサックス奏者が集まる会には音楽療法の学会などが重なって行けなかったのが、行けるようになり、今後現代音楽のシーンに彼のHISTORIC RETURNが喜ばれるにちがいありません。

 

当夜のパフォーマンスはピアノにダンスが加わっての「明暗の記憶」。能舞台の松を覆う光と闇の動きあるグラデーションを背景に、まず笛の高い音で鳥の鳴き声が吹かれた『鳥達』。自然破壊をテーマに作曲された。1977年ブルターニュ沖に座礁したタンカーから流れ出した、黒い油まみれの鳥達。

『朝の光』は1988年。目覚めの朝、一日の始まり―太陽の光は生物の営みを支え、命を育む―そして日は沈み暗闇が訪れる。そして次の日、朝の光がふたたび人々を照らす」。(作曲者自身の解説による。以下も同じく)。

 

『インプロビゼーションT&舞』の前者は1972年夏、アメリカ留学中にカナダのトロントで開催された世界サクソフォン会議に出演依頼があり、一夜のうちに書かれた作品。この曲が野田燎さんの作曲家/演奏家としての国際デビューになりました。東洋と西洋を繋ぐ作品として国際的評価を受けた第一作。

 

『舞』は1975年、フランスのパリで作曲。能の「清経」を音楽ドラマにした曲。源平の戦いの前夜、髪を切り落とし、笛を吹奏して入水する。「海を照らす月の光は無常にも、ただ波間に反射する」。

 『心炎+紫響』の前者は1989年にサクソフォンの多重音のみで書かれた独奏曲。レクイエムでもあり、亡き魂を想い弔う作品。ピアノ演奏による『紫響』(図形楽譜)とゴングや様々な音を背景にダンスが加わるかたちでの日本初演でした。

 

『蛇使いの女』。世界初演作。「20147月に作曲した。今回、世界初演になる作品はフランスの画家アンリ・ルソーの有名なジャングルで笛を吹く女の姿を書いた『蛇使いの女』を音楽化した。月の光を浴びて身体に蛇を巻き付け、笛を吹く女と鳥。熱帯の植物に囲まれた池に波打つ光の反射。もぞもぞとうごめく蛇の群れ。加えて『戦争』の作品は『不和の騎行』とも呼ばれる。アリ食いの様な馬に乗る少女が右手に剣を振り回し、左手になにやらおぞましい黒い松明のようなものを持って、多くの屍の上を駆け抜けていく。その不気味な顔とあどけない仕草とが今日の宗教戦争と重なり合う。

 

 『ロボティックエレファント』は『朝の光』と同じく1988年作曲。「文明と自然破壊の関係が問われる中、人間が住む場所そのものが自然には逆らえないことを知らしめた。大地震と津波は地球に住む者に何を教えるのだろう」。「機械文明とロボット化が人類を救うと思い上がるのは止めなければならない。命は自然から生まれたことを忘れてはならない。

ダンスの藤谷由美さんは、神戸生まれでパリ在住のパフォーミングアーティスト。1980年に前衛芸術である「舞踏」を知り、1985年から女性舞踏集団アリアードネのヨーロッパツアーの主要メンバーでした。「舞踏」といえば私が若い頃に心底感動した土方巽さんの公演が忘れられません。彼女も自らを「舞踏世代」といわれるので、親近感をもって舞台に見入りました。

 

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37回 クラヴィーアの会   2014.6.29

 

松岡未記/独唱、阿部有子/独唱、戸田美知子/独唱、村田弥加/独唱

瀧久美子/ピアノ、内藤雪子/ピアノ独奏、高瀬芙紀子/ピアノ独奏

 

ラ・ピーニャ(北原靖子・藤原里美・細井弥生・渡辺さなみ)

 

山村サロン女声合唱団&うたのアンサンブル

(岩坪雅子、鴻野雅子、山城享美、山村摩弥、阿部有子、高瀬芙紀子、

長井博子、細井弥生、覺道祥子、玄順恵、藤田美岐、村田優美子

内藤雪子/ピアノ、山村雅治/指揮)

 

 

クラヴィーアの会はもともとはピアノの門下生の発表会でしたが、近年は山村サロン女声合唱団が参加して、数曲を披露しています。同合唱団は、山村サロン開館20周年の年に結成しました。指揮を執る私は高田三郎の『典礼聖歌』が大好きで、旗揚げコンサートはプログラムのすべてが「日本語によるカトリックの典礼聖歌」に占められました。

 

2バチカン公会議(1962年〜1965)で成立した典礼憲章に基づき、それまでラテン語で行われていたミサが各国語で行われることになりました。それにともない、日本カトリック司教団の依頼で高田三郎は典礼聖歌作曲に着手したのです。グレゴリオ聖歌や日本古来の旋律など種々の技法研究を踏まえて作曲された聖歌はどれも簡潔を極め、結晶化された輝きを放っています。

2006年から4年連続で合唱団のリサイタルを開催してきました。ここ数年は聖歌以外の歌にも力を入れて、廣澤敦子先生にご指導を仰ぎ基礎の練習を積んできました。次のリサイタルは山村サロン開館30年の2016年を目標にしています。プログラムにはもちろん「典礼聖歌」を柱としてとりあげます。

 

今回はイタリア語の合唱曲『プリマヴェーラ』(G.フェルミ作曲)と『フー‐フー』(<楽興の時>より 同)、そして英語の『アイルランドの祈り』(アイルランド民謡 B.チルコット編曲)を前半に。そして後半は日本語の歌で、『しあわせなかたマリア』と『いつくしみと愛』(<典礼聖歌>より 高田三郎作曲)、『雨』(<水のいのち>より 高野喜久雄作詞 高田三郎作曲)、『緑の朝』(山崎佳代子作詞 松下耕作曲)を歌いました。

 

この発表会ではプロもアマも登場しましたが、大切なことは全員が音楽を生き、楽しんでいたことです。上手とか下手とかはどうでもいいことで、参加された方がたには、人を感動させる力とは何か、ということを見直すきっかけにもなったことと思います。

 

 

 

 

63回「小田実を読む」   2014.5.17

『西宮から日本、世界を見る』話の特集社(1993年)

レポーター/伊藤徹

 

64回「小田実を読む」会   2014.6.21

XYZ講談社(1997年)

レポーター/玄順恵

 

65回「小田実を読む」会   2014.7.26

特別講演『教育者としての小田実』

お話/古藤晃

 

66回「小田実を読む」   2014.8.23

『玉砕』岩波書店刊

レポーター/山村雅治

 

67回「小田実を読む」   2014.9.20

『ここで跳べ 対論 現代思想』慶応義塾大学出版会刊

レポーター/北野辰一

 

68回「小田実を読む」   2014.1018

『毛沢東』岩波書店刊

レポーター/玄順恵

 

 

 2007730日、作家/評論家の小田実さんが逝去された後、小田さんの言葉と思想の息吹を絶やさないために、彼の本を読む「小田実を読む」が企画され、毎月休むことなく続けてきています。運動の側面ばかりが取り上げられがちなので、彼を動かした両輪のもうひとつであった小説を主に軸にしてきました。最近は評論も読み直しています。話を進めていくのは、小田さんの「人生の同行者」玄順恵さんと、生前は会ったことがなく没後直後に「小田実の小説を演劇にしたい」と現れた北野辰一さん、そして私の3人が軸になっています。ときどきゲストをお呼びします。

 

 517日の『西宮から日本、世界を見る』(話の特集社)について語ったのは、伊藤徹さん。彼は『何でも見てやろう』に影響されて世界各地を旅し、その後、アジア開発銀行などの国際金融機関で働くことになり、現在はフィリピンのマニラで国際エコノミストとして活躍されています。伊藤さんは、小田さんがニューヨーク州立大学客員教授として赴任したとき、その講義に臨まれました。

 もうひとりのゲストは古藤晃さん。若い頃の小田実さんが代々木ゼミナールの講師であり、かつ寮長を務めていることを知り、寮生になったということです。古藤さんは代々木ゼミナール、河合塾など予備校の英語教師として多年にわたり活躍され、参考書もたくさん出されてきました。陰に陽に小田さんの活動を支えてきた方でもあります。

 

 823日には『玉砕』を私が担当しました。小田実さんはドナルド・キーンさんにこの新刊書を送ったところ、キーンさんは日本軍の「玉砕」の戦いに参加した米兵の一人だったことを明かされて、英訳書を出版されることになりました。また、その英訳書に感動されたイギリスのティナ・ペプラーさんが、BBCでラジオドラマとして流す脚本をつくられることにもつながりました。

 当日の私の講義メモを掲載しておきます。

 

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三つの『玉砕』――                    Aug.23,2014

『玉砕』と『The Breaking Jewel』と『Gyokusai』       山村雅治

 

<1>

 

 小田実の小説『玉砕』は、『新潮』19981月号に掲載され、単行本が同年5月に刊行された。当時は阪神淡路大震災後の「市民=議員立法」運動の渦中にあり、最後の胸突き八丁にさしかかった頃で、公私ともに多忙を極めていた。にもかかわらず、東京への新幹線往復の車中では執筆中の『河』(遺作となった長編小説)や『崇高について』(ロンギノスの著作の翻訳)についての話をよくされ、茶色の大きな手提げかばんにはいつも原稿用紙の束が詰め込まれていたのだ。

 ロンギノスは彼の大学卒業論文に取り上げたローマの文芸批評家の本であり、『河』は命が尽きるまで書いた小説だ。一方では若い時にやりのこした仕事をやり、もう一方では未来へと息を繋ぐライフ・ワークを刻んでいく。その他にも文芸誌のために短編をたくさん書かれたが『玉砕』もその一つだった。

 

 ドナルド・キーン氏との対話の中で小田実は自作を書いた動機について、いくつかを挙げている。「あれを書いた直接の動機というのは、もちろん私自身の戦争の記憶なんですよ」。(岩波書店版 p.230)に始まり、ペリリュー島での現地の人の話に続き「あそこで最後に戦ったのは女性である」、「戦争は究極の瞬間になると一人対一人の戦いになる」。次に阪神淡路大震災の体験を経て「閉じ込められた状況のなかで、結局、必死に戦わざるを得ないところへ追い込まれたら、人間どうするか、それを一度ちゃんと書いてやろうと考えた」。

「この作品にはいろんなものが堆積してるんですよ」という言葉には深く頷かざるを得ない。主題としてきた戦争や差別、生きるための戦いのみならず、ロンギノスが主張した人間の心に崇高を呼び起こす文体は、まさに日本語の修辞学が成就した姿だ。

 

 そして、当時直接小田実から聞いた『玉砕』についての言葉のなかで最も印象に残った執筆の動機は、キーン氏との対話のなかでずっと後のほう、結びの言葉の冒頭部分で打ち明けられている。(岩波書店版 p.255

「(三島由紀夫氏の剣道の先生の『玉砕島アンガウル』という戦記)…それに三島さんが序文をつけた。その序文は私にとって面白かったし挑戦的でした。要するに、今までの戦後文学は、みんな戦争不適格者、軍隊不適格者が書いたものだというんですね。ぐうたらな兵隊とか、落伍者。そんな連中が書けば、文学は当然、反戦文学になる。だけどここに、戦争適格者が書いた文学がある、それが『玉砕島アンガウル』だ……」。

「それで私は触発されてね、考えたんですよ」。「三島の序文を読んで、なるほどそうかもしれないと思った。そして自分は立派な軍人を書いてやろう、立派なやつが戦ったらどうなるかを書こうとした」。「立派なやつが必死に戦って、しかもなんにもならんわけでしょう」。「それをちゃんと書くべきだと考えたんですよ。安易な反戦文学じゃなくてね」。

 

<2>

 

 『玉砕島アンガウル』と呼ばれた本は、船坂弘著『英霊の絶叫』が書名であり1966年に文藝春秋から刊行された。1966年といえば小田実は34歳。前年に「べ平連」を結成したばかりで、著作は評論集『平和をつくる原理』(講談社)があるものの、小説はなく、前年の『泥の世界』刊行が当時の最新の小説集だった。一方、三島由紀夫は41歳。同年に映画『憂国』公開、6月『英霊の声』刊行に加えて、剣道4段取得、自衛隊体験入隊など、文字通りに「戦争適格者」としての自分をつくりあげていた。

 

 竹内浩三を思い出してしまった。中学生で詩を書きはじめて大学では映画を専攻した彼は、絵にかいたような「戦争不適格者」だった。1921年に生まれて、1942年入営、19454月にフィリピンで戦死した。『玉砕』に描かれたペリリューの戦いは1944915日から19441125日にかけての戦闘だったから、竹内浩三はその頃フィリピンで戦っていたことになる。『戦死やあはれ』など遺された作品は、いずれも心がじかに響いてくる。

 ところが三島由紀夫はそうした「戦争不適格者」の作品を唾棄した。小田実のおもしろいところは「じゃあ、自分は立派な軍人を書いてやろう」としたことで、三島の言葉を読んでから36年の歳月を経て、見事に果たしたことだ。何年かかっても、やろうとしたことはやる。身体頑健であり体格も大きく、デモの戦闘にも立った平和運動の闘士だった彼は「戦争」に骨の髄から反対を叫ぶが「戦争不適格者」ではない。

 執筆動機の言葉の最後に「安易な反戦文学じゃなくてね」とある。正攻法の反戦文学とは、立派な軍人が戦って、しかしなんのために戦ったのかわからない、それをちゃんと書くことだ、と。

 

<3>

 

ここには思想を書く上での小田実の戦略のひとつが見えてくる。「同じように考えてるやつの書いたものは読むな。違うやつ、反対する奴のものを読め」ということだ。運動は言葉の白兵戦だ。ああいえばこういう。こういえばそうくる。集会での質疑応答のひとつひとつが果し合いであり、実際「市民=議員立法」運動のさなかでは議員たちと、役人たちと、私たちは何度言葉の白兵戦をくぐりぬけてきたことか。

「相手の言葉を自分のものにしろ」という、それは弁論/修辞学の技術でもあった。三島由紀夫は1966年当時、人気も実力もある作家であり、影響力は大きかった。彼をさえ黙らせる反戦文学を書くことは、小田実の宿願だったのだ。

 

 そして同時にティナ・ペプラー『Gyokusai』のインタビューで小田実が語った「現在は状況が変わった。国家主義、国家主義的感情、そういう宣伝、そういう教育が行われている」ことについて、その状況への巻き返し方についても同じような弁論/修辞学の技術が必要だと思う。201471日の「閣議決定」で、日本の戦後を覆した安倍政権はすでに「戦前」を歩みはじめた。これは戦後の世界のコモン・センスから逸脱する日本の堕落だった。「積極的平和主義」のコトバのまやかし。ウクライナ、ハマスとイスラエル、イラクへの米軍空爆がいま地上に並存してあるとき、平和憲法を持ち戦争しない国である日本が、丸腰で世界に平和を呼びかけるべきなのではないか。

 

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 小説『玉砕』/Gyokusaiは、「分隊長。」という金(こん)の声で始まる。呼びかけられた分隊付下士官は、中村軍曹だ。小説はこの二人の男の魂の物語であり、いかなる背景描写もなく、ひとりからもうひとりへ呼びかけられた肉声で始まる。簡潔な情景描写があとに続くが、一文ですべてが判る。鳥の声の表現も効果的だ。

 部隊長の訓示では、金伍長の覚えていたかぎりでは「掘る。隠れる。生きのびる。たたかう。この四つだ」。しかし、中村は「ひとつ欠けていた」と指摘する。「それは勝つということだ」。

 

 戦地において兵士はどのようにあるべきか。殺さなければ殺されるという最終的な局面のなかで、中村は「勝つ」ことをめざす。「玉砕」はアッツ島に始まり、それが散華という美しい言葉に置き換えられて、自殺攻撃が賛美されるようになった、「特攻」も同じだ。死にに行くための、それを目的とした戦闘は、敵の目には「狂気」としか、あるいはキーン氏のように「酔っている」としか見えなかった。しかし、そうではない。中村のように「正気」を保って戦った日本兵がいた。小田実は少年時代、「玉砕」に、崇高にしておぞましいものを感じたという。そして、登場人物は自分の分身だ、とも。

 小説『玉砕』/Gyokusaiは、かつての『何でも見てやろう』と同じく、いわゆる左翼の人たちを困らせ、読後は右翼の人たちをも黙らせる。ここでは小説家・小田実は自分の分身として中村と金を生きているのだから。

 

主題提示は簡潔に締められ、「二」以下に続く「陣地築城はたしかに穴掘り工事、穴掘り作業だった」にはじまる守備隊の描写のなかで、補充兵の佐伯を挟んで、「武人」である部隊長の訓示には長い量が与えられる。「四」までが「一」を敷衍し、より明確に主題を定義づける。

 「五」は、穴掘り作業に戻る。二十四歳という中村の年齢が示される。彼の経歴と「千人針」を和服の老女から預かったこと。石崎一等兵が中村の分隊での戦死第一号だったこと。「六」は、金の経歴。中村は模範兵だったが、金は「フォーク・ヒーロー」だった。「七」は、「金は朝鮮人だった」に始まる戦時の日本においての朝鮮人を描く。

 

 「八」。いよいよ敵の空襲が激しくなり、訓練は強化された。金城三等兵の描写が入る。彼は沖縄の人間だ。金に射撃を習うことになる。金城の「相手にも奥さんと娘がいる」という「人間の言葉」と、それを打ち消す金伍長の言葉。「戦争とはそういうものだ」。P.99

 「九」。軍歌を歌う。士気を高めるためだ。『歩兵の本領』、『関東軍軍歌』、『天に代りて不義を討つ』、『ここは御国を何百里』、最後に『敵は幾万ありとても』。「何か雑音」を発していた山口一等兵のこと。船員だった彼はドイツの『リリー・マルレーン』を覚えていた。アメリカにも行ったことがある。出会った白人の若者が兵隊になって「ここに上陸して来る」かもしれない。P.107

 「十」で、米軍の本格上陸の前触れである猛烈な艦砲射撃と空爆が始まる。正攻法の急襲作戦に動員される戦力は圧倒的であり、数万人にのぼる米兵が洋上で待機していた。これに対する日本軍の守備隊は陸海軍あわせて六千人弱。航空兵力はすでになかった。上陸の第一波は撃退し、中村の中隊は生きのびた。射撃開始。米軍兵士の第一番目は「クロンボ」だった。

「十一」。戦闘。中村の銃剣術は正確に白兵戦での勝利を収めた。飛行場奪回を狙ったが「米軍の 砲撃、射撃はまるで火焔の怒涛だった」。P115  「怒涛の底に悲鳴とうめき声はひろがり、充満した。血と鉄と火薬の匂いもそこに満ちた」。「これはもはや戦争、戦闘というものではなかった。ただの集団殺戮――白昼の殺戮だった」。補充兵の佐伯の戦死。現役上等兵の田口の戦死。

「十二」。残存部隊の人数は激減した。米帖陸軍海岸堡を攻撃した夜襲も失敗。集団殺戮の再現。それでも「日本軍兵士は勇敢に戦った」。P.121 横山一等兵は生きていた。山口一等兵は戦死した。中隊長も戦死。

 

「十三」。持久戦。しかし洞窟はもはや「よくて野戦病院」に。「弾薬、食糧、水、薬品」の不足。「士気は低下した」。P.126  米軍は「火焔放射器で火焔を洞穴内に注ぎ込んだり、火のついたガソリン罐をころがり込ませて日本軍の全員焼死、あるいは窒息死をはかる」。あるいは「生き埋め」。米軍上陸からすでに二ヶ月が経っていた。戦局はレイテ島に移っていたが、「日米両軍は死闘を続けた」。

「十四」。「ゲジゲジ隊長」も生きながら焼かれた「火刑=戦死」を遂げ、残存部隊の指揮を中村がとることになった。「おれは『米鬼』をもう許せない。おれは仇をとる」。夜襲はまたもや失敗。三十八人のうち十人が戦死。七人が中村を含めて負傷した。横山一等兵は最後に唐突に「天皇陛下万歳」といった。金は生きていた。「ここはすでに見捨てられた戦場だ」。P.135 

 

「十五」。最後の戦い。「金も傷つき、中村ももう一度負傷した」。腹部の盲管銃創は生命にかかわる。老女性から預かった千人針で傷口をしばる。「たたかってくれ……」と金に。P138 金は一枚の紙片をさし出す。俘虜になれ、という誘い。「おれは日本人だ。おまえのような……」「朝鮮人とちがって、俘虜にはならん」。

「激しい衝撃が金を襲ったように見えた。苦悶が彼の表情をゆがめた。そう見えた。『おまえまでがそう言うのか』」。

 銃声がして金は離れる。ひとりになった中村は遺書を書く。P.142 水のけはい。水のにおい。女が現れた。日本人の娼婦だった。彼女は「たたかってカレの仇を討つ」といった。

「***」。後日談。島のガイドが日本軍の「ギョクサイ」の戦闘のときの日本人の娼婦の話をする。「お客さん、こんな話、信じますかね」。「信じる」。「わたしはそのときここにいた」。「わたしらはここにいた。ここで……」。「たたかった」。

 

5

 

 ドナルド・キーンは1922年生まれのアメリカ人だった。現在は日本に帰化し、鬼怒鳴戸(キーン・ドナルド)という当て字を披露された。学生時代に英訳の『源氏物語』にふれて日本文学の研究を始め、その全般にわたる紹介者/翻訳者として活躍されている。戦中は米軍の通訳担当の兵士として従軍。アッツ島で日本軍が玉砕したときに彼はアッツ島にいた。玉砕する日本軍を目の当たりにした彼は、送られてきた小田実の新著『玉砕』を読み感動したという。50年経ってようやく全体が見渡せた。自殺でもなく狂気でもない日本軍の戦いがあったのだ、と。小田実の想像力と筆力が、当時米兵だった人を感動させた。そこには当時の米軍の真実も描き込まれていたからだ。

 

 訳文は平易を極めて見事だ。素朴さ、簡明さが、澄んだ空気と言葉の源初的な力を呼び起こして、動かしがたい格調の高さと威厳を産む。すべてが英語のなかで語られて、原文を確かめなければならない部分は一か所もない。小田実自身が「ギリシア悲劇を読むようだ」と絶賛したのも頷ける。あの時代の詩人たちも、必要な言葉だけを書いた。

 

 最も美しい訳文の例には、やはり小説の末尾を挙げる。

I,he started to say, then changed it towe.

We were here. Here.After a moment he added,And we fought.

 

 ちなみに小説の文頭、「分隊長。」は、キーンの訳文では“Sergeant Nakamura,”になっている。いきなり中村の名前を出した方が訳文として判りやすいと考えたのだろう。これを »Gruppenführer!« とドイツ語に直訳したのはミヒャエラ・マンケ(2010)。末尾はこうだ。

»Ich «, fing er an, korrigierte sich aber selbst und begann noch einmal neu mit einem »wir«.

»Wir waren hier. Hier haben wir ...«

Er hiert kurz inne, dann fuhr er fort.

»...gekämpft.«

 

 このようにして、小田実の『玉砕』は日本の文学の枠を超えて世界の文学になった。いや、もともとそうなのだ。ことに『大地と星耀く天の子』など初期の長編からすでに日本の読者などは、あてにしていなかった。なぜソクラテス、なぜその時代の民衆。当時も今も理解されていない。それが現代の問題でもあるのに。そして『玉砕』もまた。日本兵は軍神でもなんでもなく、ただ平凡に日常を生きてきた市民だった。それが大きな力に巻き込まれ戦争に引きずり込まれると、のっぴきならない「殺すか、殺されるか」の局面に立たされてしまうのだ。これはアメリカ人でもドイツ人でも日本人でも同じことで、だからこそ世界の人々に届かなければならない。

 

6

 

 イギリスの劇作家ティナ・ペプラーが初めて小田実の作品を扱ったのは、BBCに広島原爆投下50周年に際しドラマを依頼されたときの『H――ヒロシマ・ストーリー』だった。199586日にBBCラジオ3から放送された。彼女は、ほぼ10年後の広島原爆投下60周年を機に、再びBBCから依頼され、2003年に小田実からすでに送られていたキーン訳の『The Breaking Jewel』が思い浮かび、ドラマ化にとりかかった。彼女もまた、この作品に感嘆していた。

 

 小説『玉砕』を劇化することは簡単ではなかった。いや、一般的にいっても小説の映画化、戯曲化は何を拾いあげて何を落とすかの激しいせめぎ合いの結果であり、ましてペプラーが産み出さなければならないのは、一切の映像効果がない、聴覚だけの世界で現前する『玉砕』だ。

 しかし翻って考えれば、小説は文芸であり言葉のみが用いられる。登場人物の体格や顔つきなどは、それを示唆する言葉に導かれて読者は自由に想像する。肉声による小説の現前化は、したがってまず朗読という方法がある。しかし求められているのはドラマ化だ。彼女はこの困難について「第一に、構造とリズムの観点から見ると、この本は本質的にドラマティックではない」と喝破する。そして数回読み直し、元日本兵のインタビュー記録を聞き、日本兵の精神を理解し、その上で「聴衆がドラマに耳を傾け続けるようにドラマづくりをしなければならない」。

 そして「私にとってドラマの、またドラマの人間の核心は、小説のほとんど最後にあるエピソードのなかにあるということはわかっていた」。

 

 ペプラーはドラマ化に際して徹底的に読み込み、どこにも曖昧さを残さぬよう再構成した。戦後になって島を訪れ、ガイドから話を聞く男は「金伍長」として現れた。解釈しぬかれた「小田実原作/ペプラー作」のラジオドラマは、だからこそ私たちの胸を打つ。

 放送の最後に小田実の肉声が流された。インタビュアーの「あなたは著名な平和活動家で、長年にわたって活動されてきましたね」に対しての言葉である。

「私は市民として、こんにちの世界よりも少しはましな世界をつくらなければならないと活動しているだけだ。私は73歳だ。しかし私はまだまだ非常に若いと考えている。変革すべき世界はまだまだ若いのだから」。

 

 (注/ラジオについて、ペプラーは重要なことをいっている。「ラジオはテレビや映画にくらべてはるかに心に密着した、人びとと直接つながるメディア」だ、と。ラジオはなくならない。阪神淡路大震災時、いっさいのライフラインが閉ざされた暗い夜に耳を傾けたのは電池式の小さなトランジスタラジオだった。中学生のころから深夜ラジオを聴き、よく夜更かしをした。NHK第一放送では朗読もありドラマもあったが、今でも続けられているはずだ。ラジオには上っ面の表面だけではない浸透的な力がある)。

 

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名器 <クレデンザ> コンサート   2014.6.25

97  SPレコードを楽しむ会

*ワルター弾き振り/ウィーンのモーツァルト「ピアノ協奏曲 第20番」*

 

名器 <クレデンザ> コンサート   2014.8.27

98  SPレコードを楽しむ会

*ワルター/ウィーンの黄金期のハイドン、モーツァルトなど名曲集*

 

名器 <クレデンザ> コンサート   2014.10.22

99  SPレコードを楽しむ会

*シューベルトの午後。ブッシュ四重奏団の『死と乙女』ゲルハルトらの歌曲*

 

 

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デッカ・デコラ コンサート   2014.5.28

84回 ステレオ電蓄を楽しむ会

*チョン・キョンファのラロとサン=サーンス「ヴァイオリン協奏曲」*

 

デッカ・デコラ コンサート   2014.7.23

85回 ステレオ電蓄を楽しむ会

*デュプレのドヴォルザーク、チョン・キョンファのブルッフ*

 

デッカ・デコラ コンサート   2014.9.24

86回 ステレオ電蓄を楽しむ会

*カラヤン指揮のR.シュトラウスの音楽を*

 

 

 

デッカ・デコラ OPERA SPECIAL   2014.6.11

32回 カラヤンの「メリー・ウィドウ」

 

デッカ・デコラ OPERA SPECIAL   2014.8.6

33回 カラヤンの「アイーダ」新盤

 

デッカ・デコラ OPERA SPECIAL   2014.10.8

34回 カラヤンの「ラ・ボエーム」

 

 

英国デッカ社のステレオ電気蓄音機<デッカ・デコラ>を使って、LPレコードを楽しんでいます。デッカ社はレコード会社で、ステレオ初期から独特の美しい響きがするLPレコードを出してきました。とりわけジョン・カルショーがプロデューサーを務めた録音はめざましく、カラヤンやモントゥーが指揮した管弦楽曲やショルティの『ニーベルンクの指輪』などのオペラを聴きたい、というのが望みでした。かけるLPレコードは手持ちのもの。子供の頃に父に買ってもらったものから大人になって自分で買ったものまで、すべて地震による損壊から免れました。

 初めのころは初心どおりに英国デッカのLPレコードばかりかけていましたが、英国EMIも美しく鳴り響くことに気付き、最近はレコード会社はどこでも、いい演奏が記録された音盤をかけています。日本盤にも驚くようなものがあったしモノラル盤も同じです。<デッカ・デコラ>というステレオ装置はそれ自体が「楽器」のような機械なのです。

 こちらも終わることなく続けられていく予定です。

 

 

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2015 1 1日 発行

著 者 山村 雅治

発行者 山村 雅治

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