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阪神淡路大震災から20年 1 あの悪夢のどん底にまで突き落とされたような阪神淡路大震災から20年が経ちました。1995年1月17日午前5時46分という日付と時刻以来、人生観も世界観も一変し、人生の歴史がそこで断ち切られ、また続いてきました。私の親の世代はよく戦前/戦後の時代のちがいを物語ってくれましたが、被災地の人間は大なり小なり「震災前」/「震災後」の区分を自覚しているものと思います。2011年3月11日の東日本大震災も、東北の被災地に生きる人たちにもまた「震災前」/「震災後」で大きく人生の歴史の時間が分断されたことでしょう。 もちろん「阪神」と「東北」では状況が異なります。瓦礫の山に佇んだ私たちと、大きな面積を津波にのまれてしまった東北の人たちとでは、家並みと街を復活させるにあたって立ちふさがる壁の厚みも高さも、乗り越えるには次元を異にした困難さがあるでしょう。また福島第一原発の事故まで引き起こされた結果、いまだに元住んでいた家に帰れない人がたくさんいます。 「阪神淡路大震災」に被災した私たちは、突如おこった自然災害が一瞬にして多くの人命のみならず、あたりまえのように生活を支えていた文明生活の一切が失われることを体験しました。物質文明の脆弱さを目の当たりにして、人間が生きていく上での価値を、別の所に「再発見」にして「決定的な認識」に辿りついたのは、職業基盤も破壊されて収入が皆無になった身の上には奇跡ともいえる僥倖でした。それぞれの地域でかろうじて生き残ることができた私たちは、隣の人とともに生き、またたしかに隣の人を死なせずに助けようという衝動に突き動かされて生きていました。 「世界の終わり」が、あの地震の突き上げと家屋倒壊に押しつぶされてしまった人たちには訪れたのです。しかし、私たちは生き残った。「世界」をそのまま終わらせず、なんとかして人間の社会の息をつなぐ方策を必死にかんんがえて、小田実が提唱した「市民立法」に賛同し、それを「市民=議員立法」として現実化させる運動の片腕となり『被災者生活再建支援法』を1998年に成立させたのでした。その法律は2014年の広島の土砂災害などにさいしても適用されたはずです。 2 しかし、市民が安心して安全に生命と生活の危機から解放されて生きていくには、なお『被災者生活再建支援法』は橋頭堡であるにすぎないと判断せざるを得ません。 たとえば、市民の平和な生活を脅かし破壊する人災のひとつに戦争があります。テロや内戦がおきれば国内の問題にとどまりますが、対外国との戦争が勃発した場合にはどうなるのか。そうならないために、日本は二度と戦争をしないという約束が憲法第9条に刻まれていたはずなのに、戦争ができるという国に変えようとする勢力が強くなってきています。 また、この地上においては「民主主義」の理想では、その人のあらゆる属性にかかわらず、すべての人間が自由であり、対等平等の地平に立ち、思想と宗教と表現と集会の自由を持っているはずなのですが、これもまた息苦しくなってきてはいませんか。国家のための市民でなく、市民のための国家であると考えます。人は人を差別してはいけないし、差別されてもいけない。これが人間の社会の基盤にあるべきです。 じつはそうしたことは「サロンの思想」として1991年初版の拙著『マリア・ユージナがいた』に書いたことでした。その本を贈呈した一人に小田実がいて、ただちに会おう、ということになり交流が始まったのでした。そのなかにはシベリア抑留を経て帰還した父から受け継いだ反戦への思いがあり、平和的な手段をもってしか恒久的な平和は達成できないというようなことが、私自身の言葉で記されていました。 2015年早々にその本は、約四半世紀ぶりに『マリア・ユージナがいた 増補版』として復刊する運びになりました。 震災前の「バブル」/「バブル後」という時代区分があった頃の世相を交えて仕上げた本でしたが、その部分は少し削るなどあらゆる細部にわたって手直ししましたが、「サロンの思想」という基軸は変えられないので、イベントを網羅した「日録抄」だけ最近のものに差し替えて、現代に即した『マリア・ユージナがいた』に生まれ変わらせたつもりです。松見慎一郎さんから中尾満さんへ版元の社長も替わり、新しいリブロ社の出発のためにも。 『マリア・ユージナがいた 増補版』リブロ社。2015年1月17日初版、という日付を選びました。 3 藝術交響空間◎北辰旅団の芝居が2014年3月30日の第31回公演『さらば師走よ、冬の旅人』以来、とぎれていることにご心配をおかけしています。中一日おいた4月1日、朝から北野座長が具合の悪さを訴えられ、車で病院へ同行すると、長い時間を検査に待たされた後、即入院ということになったのでした。もともと心臓疾患があり、本番の舞台までは、と無理されていたのでしょう。芝居への情熱が肉体の条件をこえて彼の体を動かしていたのです。入院は約1ヶ月。退院してもしばらくは静養が必要でした。 ぼちぼちと「小田実を読む」とレコード・コンサートに参加。夏が来て恒例の戸隠合宿を敢行。2泊3日のゆったりとしたものになりましたが、そのなかで地元の人たちと語り合ううちに、2015年の2月に雪でかまくらを作って雪見酒を楽しむ会がある、という話を聞いて、その機会に北辰旅団が芝居を披露することが決まったのでした。台本の進み具合は早く、10月にはある程度仕上げられ、11月に入ると稽古が始まりました。 本番への下見のために座長と私と照明の方と3人で、11月27日から1泊で戸隠に行くことにしました。すると11月22日に震度6弱を記録した長野県北部地震があり、白馬村に大きな被害を与えました。戸隠もまた大きく揺れたはずで、心配は募りました。レンタカーでいつも行く道に被害がなかったのは幸いでした。地元の人たちは「ここはそんなに被害はなくて済んだけれど、あんな大きい地震は初めてだった」と地震の大きな揺れに驚かれた様子でした。 藝術交響空間◎北辰旅団 第32回公演「戸隠奇譚『虚像となった男』」は第1部が芦屋・山村サロンで2015年2月15日(日)に、第2部が戸隠神社中社鳥居前広場で2月28日(土)に上演されることが決まりました。 4 阪神淡路大震災から20年。「市民=議員立法」を小田実さんとともに成し遂げた仲間は、のちもそれぞれの持ち場で活動を続けてきましたが、1月には年1回の集会を開いています。2015年は1月10日(土)午後1時から。続いて震災を扱った小田実の小説『深い音』を私が読む「小田実を読む」が午後3時から開かれます。
阪神淡路大震災に被災して、まだ復興もままならない1997年に坂口卓也さんからのお申し出でこのコンサートは始まりました。初回に登場されたのは「渚にて」と「オウブ」でした。その後も続けて出て下さった「オウブ」こと中嶋昭文さんが先日急逝されました。追悼の気持ちを込めて、そのときの水音源を用いて行ったライヴの映像が今年の冒頭に映写されました。 演奏は、まず石上和也さん。コンピューターを使った電子音楽(ノイズ・ミュージック)で、この日はよほど好調だったのか即興が冴えわたっているように聞こえました。喧騒には生活する人間のぬくもりがあり、祭りの情景を目に浮かばせ、持続する音には人間を超えた大地の呼吸の持続を伺わせました。生々しい人間の心を湛えつつ簡潔に結ばれました。この種目の音楽では現今求め得る最高の作品のひとつではないでしょうか。 そして昨年に続いて .es (ドットエス)。橋本孝之さんのサックスと sara さんのピアノからなるデュオですが、どこへ向かうのか判らない強い情念の即興演奏です。情念を迸らせるサックスは人間の苦しみをさらけだす暗さと激しさを基調にし、ピアノは直観的な和音で支えていくことで人間の世界からはみ出すことから救います。飼いならすことができない狂気が痛快です。サックスには昨年に比べて、弱音でものをいうことも加わったようです。 東京から参加してくださった穂高亜希子さんの歌が次に響きました。アコースティック・ギター、ピアノと歌声の、それまでとは一変した音楽の切りつめられた姿。いっぱい泣いてきた。たくさん涙を流してきた。そんな人だろう。けっして大きな声で歌わないが、人は真実を語るときには低声になる。つぶやきが歌として立ち現れるとき、彼女は悲しみの固い壁を砕こうとする 意志を鋭く尖らせます。 最後に高山謙一さんと小池克典さんのデュオ。彼らのデュオとして出演されるのは 7 年ぶりとのこと。今年はそこに真嵜めぐみさんが加わりました。彼女は
Zillent Z's (高山さんの現在のユニット) のメンバーです。ダンディそのものの高山さんのヴォーカル、ギターと小池さんのピアノはさすがに息の合ったものですが、そこに真嵜さんのドラムスが加わったとき、音楽はより多彩で豊かなものとして目くるめくような万華鏡空間になりました。体全体がリズムになり、生の手で叩く太鼓の音が、音楽が生まれ出てくる原初のエネルギーを伝えてやみませんでした。 打ち上げは近所の居酒屋で。ギャラリーノマルの林聡さんらを交えて楽しい懇親会になりました。そこで話のなりゆきでノマルの「NOMART 25周年記念イベント」の<音にまつわるトーク&試聴会>のひとこまとして、2014年10月に企画の坂口卓也さんと私も話をすることになりました。
「左手のピアニスト」智内威雄さんは積極的に日本の作曲家に「左手だけで演奏するピアノ曲」の新作を依頼し、初演を続けてこられました。打鍵は鋭く強く精確をきわめていて、表現にいささかの曖昧さも残しません。音域は最低音から最高音にまで及んでいるのですから、もう「両手」「片手」の別などはどうでもよくなってしまいます。私はどんな演奏会でも目を閉じて聴き入りますが、聞こえてくるのは、豊かな音楽です。 近代の「左手のピアニスト」の創始者といえるのは、第一次大戦で右手を負傷したパウル・ウィトゲンシュタインです。(Wittgensteinのwiの読みについては最近の定説では「ウィ」になっています。智内さんはプログラムのように「ビットゲンシュタイン」と表記されています。いずれにせよ他国の人の名前を仮名表記するのはもともと無理矢理で)。パウル(1887-1961)は哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの兄で、彼の同時代を生きたラヴェル、シュトラウス、ブリテン、ヒンデミット、コルンゴルド、プロコフィエフらに作品を委嘱しました。それまでにはブラームス編曲のバッハ『シャコンヌ』ヤスクリャービンなど数えるほどしかありませんでした。 「左手のピアニスト」では、かつてサロンにはラウル・ソーザさんを1999のピアニストとして1999年12月6日にお呼びしたことがあります。パウル以後にもレオン・フライシャーがいたし、日本では舘野泉さんが左手のピアニストとして再起され活躍しておられます。若い智内さんは、ハノーバー音楽大学留学中に右手にジストニアを発症。左手のみで室内楽の卒業試験に満場一致での最優秀成績を収めました。帰国後「左手のアーカイブ」を設立。楽譜も充実してきました。
今年の夏は、大井浩明さんのメシアンでした。初回の《幼な子イエスに注ぐ20のまなざし》に私が朗読を受け持つことになった経緯について、当夜のプログラムを執筆された平野貴俊さんは(音楽学)以下のように解説されています。 「本公演は、近年のメシアン研究によって明らかとなった事実――《幼な子イエスにそそぐ20のまなざし Vingt regards sur l’Enfant-Jésus》(1944年作曲、1945年初演。以下《まなざし》)はもともと演奏会用作品ではなく、朗読を伴うクリスマス用のラジオ劇として構想された――にもとづいて、その幻に終わったプロジェクトを再現する日本初の試みである(註9)。本公演では、《まなざし》に合わせて朗読される予定だったトエスカのテクスト『降誕
La Nativité』と、メシアンが《まなざし》の創作で依拠したマルミオン『神秘のなかのキリスト Le
Christ dans ses mystères』を中心に、『聖書』、『聖フランチェスコの小さき花
Fioretti』、十字架のヨハネの詩、メシアン『リズム、色彩、鳥類学総説』の一節が朗読される。トエスカとマルミオン以外のテクストに関しては、スコアに記された各「まなざし」のエピグラフを手がかりに、それぞれに関係する一節を複数の文献から抽出した。プーランク《子象ババールの物語》を引き合いに出すまでもなく、朗読+ピアノという上演形態はフランスでとりわけ一般的である。 メシアンはマルミオンが生まれてちょうど50年後に生を受け、2014年はトエスカの生誕100年にあたる。本公演の《まなざし》は、降誕の物語に神秘を見いだしたこの3人の芸術家の聖三位一体(サント・トリニテ)を実現するものとなるだろう」。 大井さんとも幾度もメールを交わし、朗読を入れることになってから一か月くらいしか準備期間はありませんでした。ラジオ劇放送時の台本そのものは残っていません。推測する材料としての資料が続々と到着。米国アマゾンに頼んだ洋書もタイミングよく到着。トエスカのフランス語とマルミオンのフランス語の英語訳などの文献を読み込みつつ神学の言葉を噛み砕き、かつメシアンが自ら楽譜に添えたフランス語にもあたるなど、まるで学生時代の古英語(『ベーオウルフ』など)や中英語(チョーサー『カンタベリー物語』やシェイクスピアの作品群)などを踏破した「地獄の季節」の力仕事が蘇ったかのようでした。 しかし重要なことは朗読台本の作り手として、読まれる日本語が「聞いてわかる」こなれたものにすることでした。学問的に正しいかどうかは元よりあずかり知るところではありません。詩人として朗読台本をつくり、舞台役者として読む。その限りにおいて力を尽くしました。選んだ言葉は、トエスカとマルミオンと聖書の言葉を中心として、3人の聖者―アシジの聖フランチェスコ、幼いイエスの聖テレーズ、十字架の聖ヨハネ―の言葉でした。 かくて前日を迎え、マイクを使わず生の声でできることを確認、そして朗読の入るタイミングなどの打合せ。本番前には少し声を出してみただけでした。本番は始まり、そして終わりました。驚くべきは大井浩明さんのピアノ演奏で、客席にはかなりの音量で響いていたと思われるのに、至近の距離で響きに身を晒していた私の耳には少しもうるさく響きませんでした。 それにしても1944年に作曲された《幼な子イエスに注ぐ20のまなざし》はピアノ部分だけでも2時間を超える大作です。朗読と休憩を入れれば、さらに時間を必要とします。終演後のお客さまはそれぞれに感想をお持ちになったようですが、私にとって喜ばしかったのは「全然長いと思わなかった」と「もう朗読なしでは、この曲は聴けない」というもの。 私としては、実演ならではの一回性の燃焼を記憶にとどめていただければ、それに過ぎる喜びはありません。ちなみに衣装は松井美保子画伯が描かれた「Actor」と同じ白い古代を模したものを着用しました。
一般のファンにはミュライユの名前は聞きなれないし、なぜ「時を得たメシアン」のシリーズに彼の作品が弾かれるのか判らないでしょうから、当夜のプログラムを書かれた野々村禎彦さんの文章を下記に引用します。 「メシアンは、作曲家であるとともに音楽教師でもある。周知の通り、創作のみで生計を立てられる作曲家は現代では極めて稀であり、多くの作曲家は音楽学校の教師を生業としているわけだが、なかでもメシアンは破格の存在だった。作曲家としてのメシアンの同世代には松平頼則(1907-2001) やカーター(1908-2012)、少し上にはダラピッコラ(1904-75) やペトラッシ(1904-2003)、少し下にはケージ(1912-92) やナンカロウ(1912-97) がおり、綺羅星の中のひとつとも言えるが、優れた弟子を輩出したという点で彼に並ぶ教師は見当たらない。人数ではナディア・ブーランジェも凄いが、弟子たちの音楽史的な重要性では彼には及ばない。 まず、戦後前衛第一世代を代表するクセナキス(1922-2001)、ブーレーズ(1925-)、シュトックハウゼン(1928-2007) という、作風も音楽性も全く異なる3人を育てただけで尋常ではない。毒舌とともに秀才ぶりでも知られたブーレーズや、当時の流行書法だった全面的セリー技法を採用し、同じ道の先を行くブーレーズからも指導を受けたシュトックハウゼンはまだしも、他の教師たちから嘲笑され見放された劣等生クセナキスに「君は数学を知っている、なぜそれを作曲に応用しないのか?」と的確に助言し、20世紀でも有数の作曲家に引き上げたのは教師の鑑。 メシアン門下生の系譜はさらに続き、ポスト戦後前衛世代になると今回取り上げる「スペクトル楽派」の作曲家たちジェラール・グリゼー(1946-98)、トリスタン・ミュライユ(1947-)、ミカエル・レヴィナス(1949-) が登場する」。 大井浩明さんは20歳過ぎに京都で演奏活動をはじめられた頃、現代音楽といえばメシアンと武満徹だったと述懐しています。1992年当時に武満徹作品個展の共演者、金谷幸三氏に「今度はミュライユをやろう」と提案されてそのままになっていたということでした。 20余年を経ての大井さんのミュライユ作品の演奏は、3時間に及ぶものになりました。しかし耳が疲れない。響きに身を浸していられる音楽だからで、メシアンよりもドビュッシーに近いものを感じました。フランソワ‐ベルナール・マーシュは「ドビュッシーとスペクトル楽派を橋渡しする重要な語法として「色彩‐和音」を位置づけている」との記事は8月のメシアン『鳥のカタログ』の平野貴俊さんが書かれた解説の中にみつけました。初期から2002年の《仕事と日々》まで徐々に響きは変わってきますが、みずみずしい「色彩‐和音」にミュライユのいちばん美しい音楽は際立っているようです。 アンコールが洒落ていました。ヴァーグナー/リストの『トリスタンとイゾルデ』前奏曲と愛の死。そして「トリスタン」の旋律をドビュッシーの『ゴリウォーグのケークウォーク』につなげた諧謔曲(クレマン・ドゥーセ作曲と思しい)。ミュライユは1947年生まれで、その年にメシアンは「トリスタン3部作」を書いていました。『トゥランガリーラ交響曲』、歌曲『ハラウィ』、そして合唱曲『五つのルシャン』です。ここでのメシアンはカトリック信仰から離れて、むしろ異教的な響きの中に愛と死―エロス―を描きました。
「自然、鳥の歌! 私はそれらを愛してやみません。それはまた心の糧です。暗い時分、私は突然自分の無能さに気づいてはっとします。古典派、異国、古代、現代、超現代、あらゆる種類の音楽言語は、忍耐強い探究の結果として出てきた立派な成果にすぎないのではないか、と思えてしまうのです。音の背後には、それだけの労苦を正当化してくれるものなど何ひとつありません。森や田園、山々や海辺、鳥たちに囲まれたどこかある場所に、その忘れられた姿を見いだすほかないではありませんか。私にとって、音楽があるのはまさにそこなのです」。(オリヴィエ・メシアン 1959) カトリック信仰、愛と死(エロス)に並ぶメシアンのもうひとつの芯は、鳥の声に代表される自然でした。世界中の鳥の声を採譜したといわれますが、日本を訪れたときにも軽井沢でホトトギスなどの鳥の声を採譜しました。自然から採取された鳥の声の響きは、メシアン自身の音楽語法の探求に役立ちました。『鳥のカタログ』は全7巻13曲からなり、演奏時間は3時間を超えます。当夜の大井さんの試みは、曲集の合間にバロック時代の作曲家の「鳥」を扱った曲を挟んでいく、というものでした。ラモーやクープランの作品はとりわけ有名で、サロンではかつて1988年12月10日に、アンリエット‐ピュイグ・ロジェ女史が「フランス音楽へのプロムナード」と題してラモー(1683生まれ)からメシアン(1908年生まれ)までの小品をずらりと並べたコンサートを開いてくださったことがあり、したがってラモー、クープランとメシアンが一夜に弾かれるのは当夜で2度目ということになりました。 メシアンの三夜を通じていえることですが、大井浩明さんは音色をつくるのが巧い。けっして刺激的、威嚇的に響くことなく、紙背に徹した楽譜の読みが直接指先に伝わり、それぞれの音がそうある他ない姿で現れます。メシアンの「鳥」シリーズの『鳥たちの目覚め』の初演は不評に終わりました。『鳥のカタログ』も、他のピアニストたちのCD3枚組をプレーヤーにかけても、一気に3枚組を聴き通したことはありませんでした。作品自体がコンサート・ピースとして疑いを禁じ得ないまま臨みました。 そして、本番。大井さんの演奏に接して、やはりメシアンはこの作品を聴衆に提出する作品として創造したと確信できました。第1曲と第6曲の冒頭のなんという音色の美しさ。鳥たちにも喜怒哀楽があり、存分に時空を生きていました。すばらしい「時を得たメシアン」3夜。大井さんはこう書いていました。「6月のメシアン《まなざし》がオルガニストの視点、7月のミュライユがオンディストの視点からの読み直しとするならば、8月の《鳥のカタログ》はクラヴシニストの視点からの再解釈となるでしょう」。
吉岡孝悦さんが初めてサロンに来演されたのは、1989年11月22日。作曲家/ピアニストの深町純さんとのデュオコンサートでした。吉岡さんの自作と深町さんに委嘱された作品の間に『アメリカン・パトロール』などのよく知られた小品が挟み込まれたプログラムでした。2010年11月22日に深町純さんが急逝されたのは、いまも悔やまれてなりません。 吉岡さんは来演されるたびに、マリンバ音楽の新しい喜びを伝えて下さいます。今回はメキシコから「マリンバ・ナンダヤパ」が来日するというので、「マリンバデュオ・ウィングス」と共演することになりました。 「マリンバ・ナンダヤパ」はお父さんと息子3人で1977年から活動を始められ、現在はお父さんと息子2人、末っ子の娘さんの4人で活躍されています。レパートリーは広く、メキシコ民謡からポップスやジャズ、クラシックにまで及びます。 ナンダヤパが持ち込んだメキシコのマリンバは木製で、多彩な音色が目くるめくようでした。金属的な雑音が混じったり、手風琴の音を出したり。民族楽器による民族音楽に篭められた根源的な音楽の力が逞しい。全てが「俺の」「私の」音楽であり、尽きない泉のように湧いては溢れかえります。ファンにとってはこたえられない夜になりました。
阪神淡路大震災後の野田燎さんは、それまでの尖鋭な現代音楽をやる作曲家/サックス奏者だった姿は影をひそめて、もっぱらサックス演奏を用いた音楽療法家として活動してこられました。医学博士号も授与されたのですから、生命の根源に迫る音楽の力を「奪われた機能を回復させる」医療に用い、回復した症例はめざましいものとして、その分野に貢献したことが認められたわけです。 だから、山村サロンでのコンサートも、主に療法を受ける子供たちに聴かせることが目的でした。『朝の光』と『ロボティック・エレファント』はプログラムに入りましたが、コンサートのすべてを野田燎作品にしたのはじつに久しぶりのことです。日本初演もあり、世界初演もあり、舞台美術も担当されて、意欲にあふれる「野田燎の個展」になりました。 野田さんが滅多に自作を吹かなくなっても、野田燎作品『インプロビゼーションT』はyoutubeで世界各国のサックス奏者が吹いています。同曲の楽譜はフランスのルデュック社から出版されています。海外のサックス奏者にとっては、いまもRYO NODAは忘れることができない存在なのです。 10数年間、世界中のサックス奏者が集まる会には音楽療法の学会などが重なって行けなかったのが、行けるようになり、今後現代音楽のシーンに彼のHISTORIC RETURNが喜ばれるにちがいありません。 当夜のパフォーマンスはピアノにダンスが加わっての「明暗の記憶」。能舞台の松を覆う光と闇の動きあるグラデーションを背景に、まず笛の高い音で鳥の鳴き声が吹かれた『鳥達』。自然破壊をテーマに作曲された。1977年ブルターニュ沖に座礁したタンカーから流れ出した、黒い油まみれの鳥達。 『朝の光』は1988年。目覚めの朝、一日の始まり―太陽の光は生物の営みを支え、命を育む―そして日は沈み暗闇が訪れる。そして次の日、朝の光がふたたび人々を照らす」。(作曲者自身の解説による。以下も同じく)。 『インプロビゼーションT&舞』の前者は1972年夏、アメリカ留学中にカナダのトロントで開催された世界サクソフォン会議に出演依頼があり、一夜のうちに書かれた作品。この曲が野田燎さんの作曲家/演奏家としての国際デビューになりました。東洋と西洋を繋ぐ作品として国際的評価を受けた第一作。 『舞』は1975年、フランスのパリで作曲。能の「清経」を音楽ドラマにした曲。源平の戦いの前夜、髪を切り落とし、笛を吹奏して入水する。「海を照らす月の光は無常にも、ただ波間に反射する」。 『心炎+紫響』の前者は1989年にサクソフォンの多重音のみで書かれた独奏曲。レクイエムでもあり、亡き魂を想い弔う作品。ピアノ演奏による『紫響』(図形楽譜)とゴングや様々な音を背景にダンスが加わるかたちでの日本初演でした。 『蛇使いの女』。世界初演作。「2014年7月に作曲した。今回、世界初演になる作品はフランスの画家アンリ・ルソーの有名なジャングルで笛を吹く女の姿を書いた『蛇使いの女』を音楽化した。月の光を浴びて身体に蛇を巻き付け、笛を吹く女と鳥。熱帯の植物に囲まれた池に波打つ光の反射。もぞもぞとうごめく蛇の群れ。加えて『戦争』の作品は『不和の騎行』とも呼ばれる。アリ食いの様な馬に乗る少女が右手に剣を振り回し、左手になにやらおぞましい黒い松明のようなものを持って、多くの屍の上を駆け抜けていく。その不気味な顔とあどけない仕草とが今日の宗教戦争と重なり合う。 『ロボティックエレファント』は『朝の光』と同じく1988年作曲。「文明と自然破壊の関係が問われる中、人間が住む場所そのものが自然には逆らえないことを知らしめた。大地震と津波は地球に住む者に何を教えるのだろう」。「機械文明とロボット化が人類を救うと思い上がるのは止めなければならない。命は自然から生まれたことを忘れてはならない。 ダンスの藤谷由美さんは、神戸生まれでパリ在住のパフォーミングアーティスト。1980年に前衛芸術である「舞踏」を知り、1985年から女性舞踏集団アリアードネのヨーロッパツアーの主要メンバーでした。「舞踏」といえば私が若い頃に心底感動した土方巽さんの公演が忘れられません。彼女も自らを「舞踏世代」といわれるので、親近感をもって舞台に見入りました。
クラヴィーアの会はもともとはピアノの門下生の発表会でしたが、近年は山村サロン女声合唱団が参加して、数曲を披露しています。同合唱団は、山村サロン開館20周年の年に結成しました。指揮を執る私は高田三郎の『典礼聖歌』が大好きで、旗揚げコンサートはプログラムのすべてが「日本語によるカトリックの典礼聖歌」に占められました。 第2バチカン公会議(1962年〜1965年)で成立した典礼憲章に基づき、それまでラテン語で行われていたミサが各国語で行われることになりました。それにともない、日本カトリック司教団の依頼で高田三郎は典礼聖歌作曲に着手したのです。グレゴリオ聖歌や日本古来の旋律など種々の技法研究を踏まえて作曲された聖歌はどれも簡潔を極め、結晶化された輝きを放っています。 2006年から4年連続で合唱団のリサイタルを開催してきました。ここ数年は聖歌以外の歌にも力を入れて、廣澤敦子先生にご指導を仰ぎ基礎の練習を積んできました。次のリサイタルは山村サロン開館30年の2016年を目標にしています。プログラムにはもちろん「典礼聖歌」を柱としてとりあげます。 今回はイタリア語の合唱曲『プリマヴェーラ』(G.フェルミ作曲)と『フー‐フー』(<楽興の時>より 同)、そして英語の『アイルランドの祈り』(アイルランド民謡 B.チルコット編曲)を前半に。そして後半は日本語の歌で、『しあわせなかたマリア』と『いつくしみと愛』(<典礼聖歌>より 高田三郎作曲)、『雨』(<水のいのち>より 高野喜久雄作詞 高田三郎作曲)、『緑の朝』(山崎佳代子作詞 松下耕作曲)を歌いました。 この発表会ではプロもアマも登場しましたが、大切なことは全員が音楽を生き、楽しんでいたことです。上手とか下手とかはどうでもいいことで、参加された方がたには、人を感動させる力とは何か、ということを見直すきっかけにもなったことと思います。
2007年7月30日、作家/評論家の小田実さんが逝去された後、小田さんの言葉と思想の息吹を絶やさないために、彼の本を読む「小田実を読む」が企画され、毎月休むことなく続けてきています。運動の側面ばかりが取り上げられがちなので、彼を動かした両輪のもうひとつであった小説を主に軸にしてきました。最近は評論も読み直しています。話を進めていくのは、小田さんの「人生の同行者」玄順恵さんと、生前は会ったことがなく没後直後に「小田実の小説を演劇にしたい」と現れた北野辰一さん、そして私の3人が軸になっています。ときどきゲストをお呼びします。 5月17日の『西宮から日本、世界を見る』(話の特集社)について語ったのは、伊藤徹さん。彼は『何でも見てやろう』に影響されて世界各地を旅し、その後、アジア開発銀行などの国際金融機関で働くことになり、現在はフィリピンのマニラで国際エコノミストとして活躍されています。伊藤さんは、小田さんがニューヨーク州立大学客員教授として赴任したとき、その講義に臨まれました。 もうひとりのゲストは古藤晃さん。若い頃の小田実さんが代々木ゼミナールの講師であり、かつ寮長を務めていることを知り、寮生になったということです。古藤さんは代々木ゼミナール、河合塾など予備校の英語教師として多年にわたり活躍され、参考書もたくさん出されてきました。陰に陽に小田さんの活動を支えてきた方でもあります。 8月23日には『玉砕』を私が担当しました。小田実さんはドナルド・キーンさんにこの新刊書を送ったところ、キーンさんは日本軍の「玉砕」の戦いに参加した米兵の一人だったことを明かされて、英訳書を出版されることになりました。また、その英訳書に感動されたイギリスのティナ・ペプラーさんが、BBCでラジオドラマとして流す脚本をつくられることにもつながりました。 当日の私の講義メモを掲載しておきます。
英国デッカ社のステレオ電気蓄音機<デッカ・デコラ>を使って、LPレコードを楽しんでいます。デッカ社はレコード会社で、ステレオ初期から独特の美しい響きがするLPレコードを出してきました。とりわけジョン・カルショーがプロデューサーを務めた録音はめざましく、カラヤンやモントゥーが指揮した管弦楽曲やショルティの『ニーベルンクの指輪』などのオペラを聴きたい、というのが望みでした。かけるLPレコードは手持ちのもの。子供の頃に父に買ってもらったものから大人になって自分で買ったものまで、すべて地震による損壊から免れました。 初めのころは初心どおりに英国デッカのLPレコードばかりかけていましたが、英国EMIも美しく鳴り響くことに気付き、最近はレコード会社はどこでも、いい演奏が記録された音盤をかけています。日本盤にも驚くようなものがあったしモノラル盤も同じです。<デッカ・デコラ>というステレオ装置はそれ自体が「楽器」のような機械なのです。 こちらも終わることなく続けられていく予定です。 |
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2015年 1月 1日 発行 著 者 山村 雅治 発行者 山村 雅治 発行所 山村サロン
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