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■松井美保子さんの 『アクター actor』F100 について
芦屋在住の画家、松井美保子さんは私をモデルにした絵を2005年から描いてこられました。きっかけは芦屋市民会館の一室で、同じ机を囲んでいた私をご覧になって、でした。その場ではそのままお別れしましたが、後日連絡があり、あらためてお話を交わして描いて頂くことになりました。もちろん彼女の画題はご家族や風景が多いのですが、例外的に街で見かけた異国の女の人と私を描く絵が加わることになりました。
もう何枚も描かれてきました。初めての作品は座像と寝ころぶ像の2枚。やがて1枚の画布にそれら二通りの私が合体した構図を発見され、大きな100号の画面には何通りもの「座像/寝ころぶ像」が合体した作品が描かれました。顔の表情も少しずつ違います。そして次第に画面はモデルである私の二面性が刻み込まれるようになり、「男性/女性」「少年/成人」「精神/官能」などが一体になったものになっていきました。ひとつの完成形になった作品がサロンに展示されていましたが、横になったほうは涅槃図の釈迦の如くでもあり、画家の理想としての聖性までもが描かれたのかも知れません。
2013年には新作『アクター actor』F100 が発表されました。この作品はルーブル美術館開館220周年記念〜フランス芸術協会認定〜「トリコロール芸術の翼大賞」を受賞した記念碑的な傑作です。白い衣装は、かつて北辰旅団の舞台公演で身に着けたものです。選考委員長のクリスティーヌ・モノー氏の紹介文は以下の通りです。
「"端正なローマ彫刻のような自然な肉体の迫力"」
白い衣装を身にまとった、贅肉のない、引き締まった四肢が、非常に強い印象を与えるモデルの存在感が、古代彫刻めいた美しさを放つ。きめが細かく、透明感ある衣装の、繊細な描写が、隠された細身の肉体を、一層魅惑的に演出している。また、表情の秀逸さにも心を引かれるものがある。心奥に秘めた思いの丈を、鑑賞者は、自由に想像を巡らし、それぞれの"物語"を楽しむことができるだろう。堅実で丁寧なタッチ、色彩への鋭敏なこだわりも見所で、卓越した豊かな表現力を天来備えた女流の、近来の傑作であると言えるだろう。関西画壇の逸材にふさわしいこの大作が、より多くの人々に愛され、海外でも高く評価されることを、心より願う」。 (文/クリスティーヌ・モノー Christine Monod)
■≪声の幽韻≫松平頼則から奈良ゆみへの書簡 について
作曲家・松平頼則氏について奈良ゆみさんからお話を聴いたのは、大阪フェニックスホールで開かれたコンサートで彼の作品に驚いた直後のことでした。奈良ゆみさんの舞台では、メシアンの『ハラウィ』、シェーンベルクの『月に憑かれたピエロ』に心奪われていました。初めて接した松平作品には天地がひっくり返るかのような衝撃を受けました。1990年代の作曲家と歌手の出会いの頃から、2001年に松平氏がこの世から旅立たれるまでの書簡を、拙ブログ「Boy after a hundred years」に書き留めています。 http://masa-yamr.cocolog-nifty.com/blog/
劇的なるもの
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演劇という表現のかたちは有史以前の昔からあっただろう。われわれが読むことができる完全な形での最古の演劇は古代ギリシアのもので、アイスキュロス(紀元前525年 - 紀元前456年)、ソフォクレス(紀元前496年頃 - 紀元前406年)、エウリピデス(紀元前480年頃 - 紀元前406年頃)が三大悲劇詩人ということになっていて、喜劇作家にはアリストファネス(紀元前446年頃 - 紀元前385年頃)がいました。 それは言葉だけでなく音楽を伴うもので、器楽も合唱もあり、まさに総合芸術でした。『音楽の進化史』(ハワード・グッドール著/夏目大訳 河出書房新社)によれば、声の表現も朗読(ラップに近いとされる)、詠唱(節をつけて詩を読む)など変化に富むものだった。さらに当時は「作家、詩人、演出家、ダンサー、歌手、作曲家などを」「一流とされる劇作家の場合、一人で複数、あるいはすべてを兼ねていることも多かった」。
ギリシア悲劇は、仮面をつけた役者と合唱(コロス)の掛け合いによって進行しました。舞台をオルケストラといい、劇場は円形のオルケストラを底とする、すり鉢状の形を取っていました。役者は初期にはひとりでしたが、アイスキュロスが2人に増やし、これによってドラマティックな演出が可能となり、舞台芸能として大きく進歩したと言われています。その後にエウリピデスがもう1人増やして三人となりました。 アリストテレス『詩学』第4章には「ギリシア悲劇はディオニュソスに捧げるディテュランボス(酒神讃歌)のコロス(合唱隊)と、その音頭取りのやり取りが発展して成立したものだといいますから、音頭取りが「初期にはひとり」の原型だったのでしょう。
2人になってから「ドラマティックな演出が可能となり、舞台芸能として大きく進歩した」のには理由があります。そこでは演劇のみならず芸術の根幹をなす「対話」が目に見えるかたちで表現できるからです。異なる基盤に立つ2人は考え方が違い、生き方が違う。そこに起こるのが対立の緊張であり、争い、戦い、激しい葛藤が描かれて悲劇の終幕へ向かいます。 3人になれば、これは19世紀のヴェルディから20世紀初頭のプッチーニまでの最盛期のイタリア歌劇の恋愛悲劇そのもののかたちです。西洋の演劇は、現在もなお古代ギリシアに根を持っているのです。
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2013年12月1日には『一人芝居「燈台守の唄」』を、役者として演じました。そこでも絶えず意識していたのは対話でした。その芝居では死者の霊との対話が、台本には直接には書かれていませんが、ありました。台詞回し、顔の向きと表情、少しの仕草などで、単なるモノローグ(独り言)でない、劇的空間としての「ディアローグ」(対話)を舞台表現することをめざしていました。(詳しくは前号『山村サロン会報 2013後期 Vol.50』に書きました)。
そして、2014年3月29日と30日の芸術交響空間◎北辰旅団第31回公演『さらば師走よ、冬の旅人』は、従来通り「みんなでやる」芝居に戻りました。役者としてどちらが楽かといえば、いろいろなアクシデントがあったりするのでどちらとも言えませんが。では、厳しいのはどちらか、というのもどちらとも言えません。台詞をきっちりと体に覚え込ませることは前提であって、その上でどうするか。アンサンブルの楽しさはここから生まれてくるので、だから、楽しいのはどちらか、といえば「みんなでやる」方が楽しいのに決まっています。
北野辰一座長の新作『さらば師走よ、冬の旅人』は久々の大作で、戦争を挟んだ時代の移り変わり、それにつれてそれぞれが人生の真実を生き、身内だった人間どうしの対立が描かれ、細部にまでさまざまな意味での対話に満ちたと傑作になりました。サーカス団の若い団員、はたち過ぎの女の子と、はたちに届かない少年が二人で稽古していると、怖い団長が登場して、女の子に投げキッスのやり方をレッスンします。年齢の差と立場がきめ細かく描かれていくのは、後に出てくる間諜1と2などにも兄貴分、弟分の違いの面白さが描かれているごとく、人間はそれぞれの関係性に生きているという生存の基盤が、まず押さえられています。そこから戦争の辛い時代を経て、大人になった少年が、闇屋になった元団長に銃口を突き付けるまでの物語。
使われた音楽は、北野座長の自作の歌と、通奏低音として流れていたのは、先年亡くなった大瀧詠一の『さらばシベリア鉄道』(作詞/松本隆 作曲/大瀧詠一)でした。私が受け持った団長の台詞にも、くっきりとその世界が反映されていました。 「これはな、……哀しみの裏側にあるもんだ」。 「オーロラの下、ツンドラの森を駆け抜け、トナカイが哀しいうつろな瞳をした雪の舞う大地でな」。 「凍てつく氷原にどこまでも続く線路の向うにあるものだ。涙さえ凍りつく哀しみの裏側よ」。…………
もう1曲は『勇敢なる水兵』。日清戦争の逸話に基づく明治時代の日本の軍歌。佐佐木信綱作詞、奥好義作曲。1895年(明治28年)。団長が戦時を回想する場面に歌いました。お話の基盤に宮沢賢治の『氷河鼠の毛皮』と新見南吉の『正坊とクロ』があったのですが、そこから現代をつらぬいた台本は想像力が羽ばたいて、「芸術交響空間◎北辰旅団」の芝居のひとつの新しいスタイルの典型を示していました。
この舞台がはねた後、30日の夜には劇団員、劇団のサポーター、舞台写真を撮って下さった柏浩一郎さんとともに、座長の新居で打ち上げを楽しみました。中一日おいて4月1日、倉庫へ備品を収めに座長と二人で行く予定でしたが、準備が終わると「先に病院へ行って下さい」と言われて尼崎医療生協病院へ行きました。持病の心臓機能不全が具合がわるい、ということで、より詳しい検査をするために近くの関西労災病院へ移動しました。長い時間がかかりましたが、結果は「即入院」。芝居の稽古の期間にもしばしば不調を訴えておられました。そうとうよくない、というのは感じていましたが、座長の芝居への情熱が、体をねじ伏せて本番に臨んでいたことになります。 退院は4月29日。以後、座長は必要以外の外出を控えて静養の日々。劇団の再始動には、まだ日がかかりそうです。お楽しみにして下さっている方がたくさんいらっしゃるのは承知しておりますが、暫しの時をお待ちくださいますように。
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詩と音楽が融合すれば歌曲になりますが、青山恵子さんの「日本の詩」コンサートは、音楽と詩が対等の重さをもって歌い、語られるものになりました。声楽家のなかには日本語の歌曲ではなにを歌っているのか分からない方もいらっしゃいますが、青山さんは全然ちがう。言葉のひとつひとつがくっきりと粒立ち、しかも音楽の流れが自由で自然なのです。山田耕筰や橋本國彦の時代、日本に洋楽が入ってきた明治から作曲家は苦闘を続けてきました。現代の新実徳英は谷川雁の詩に曲をつけましたが、時代とともに日本歌曲も変っていくことになるにしても、これはいずれ現代における山田耕筰のように古典として残る作品です。
アストラ・ブローグはアメリカのフェミニスト詩人です。「歳をとるほど大胆になるわ」という気迫はカノン砲の一撃のごとくです。私自身がこの言葉を実践している実感があるので、共感しないではいられません。訳された岡田宏子さんは17世紀英文学について研究されていた学者で、終演後の打ち上げで、私の卒業論文が英国の詩人ジョン・ダン(John Donne, 1572 – 1631)だったことを打ち明けると、あれやこれやのことで話が弾みました。最近のご研究のテーマは「文学における女性と家」「高齢女性文学」。 岡田宏子さんの訳詩に音楽をつけられた作曲家/ピアニストの加藤由美子さんとのお話では(打ち上げでのお話を含めて)、やはり音楽に乗りにくい言葉と乗りやすい言葉、そのわずかなニュアンスと意味のせめぎあいについてのことが興味の尽きないことでした。ちなみに加藤さんは1998年4月からのNHKテレビ体操専属ピアニストでもあります。作曲者は「第1」が服部正、「第2」は団伊玖磨です。
演奏会全体を動かぬ岩盤のように支えていたのは、ピアニストの秦はるひさんです。師の横井和子先生にならい、彼女も同時代の作曲家の作品を積極的に採りあげて弾いてこられたピアニストです。最近ではCD『日本のピアノ変奏曲選~伊澤修二から大中 恩まで』(ミッテンヴァルト・レーベル)を出され、伊澤修二(1851‐1917。音楽取調掛からの日本の初代の音楽教育家。現東京芸大音楽科の初代校長)、信時潔や平井康三郎、宮原禎次、鈴木次男らの珍しいピアノのための変奏曲を録音されました。青山さんとの共演盤は『新実徳英:白いうた 青いうた』(日本伝統文化振興財団)。 秦はるひさんのピアノは、彼女が芦屋市立山手中学校在学時から聴いてきました。ピアノの前に座った姿勢の良さ、安定感はその頃から彼女に備わったものでした。打鍵の確かさ、音色の美しさに加えて、曲に応じて曲自体を生かす器の大きさが加わり、教職を退かれた現在、彼女は大きな自由を獲得されて今後はますます「歳をとるほど大胆になるわ」を実践されていかれることでしょう。
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ここからは器楽の音楽会のレビューです。言葉がない音楽にも「劇的なるもの」はあります。同時に複数の声部の音が奏でられる鍵盤楽器のみならず、ヴァイオリン一挺、笛一本でさえ、音の劇は生み出せます。 不完全ながら記譜された西洋音楽の初めにグレゴリオ聖歌がありました。それは単旋律で、修道士たちの斉唱による祈りの歌でした。イエスの没後、西暦325年にニカイア公会議が開かれ、信仰のかたちが定められ、聖書も外典と偽典が排除された正典も整ってきて、祈りの言葉も定着したのちに誰からともなく典礼の聖歌が歌いはじめられて、しかもあちこちのひとりから、そこかしこへ拡がって行ったのがグレゴリオ聖歌で、編纂されたのは800年代から900年代にかけてです。無伴奏、単旋律という最も素朴なかたちの合唱音楽です。 変化が起こったのは、まず同じ旋律に高さの違う音で並行して合わせていく「オルガヌム」唱法や、旋律に対して高さの違う固定した音を続ける「ドローン」唱法の発見でしたが、1098年生まれのヒルデガルト・フォン・ビンゲンが単旋律聖歌の伝統からの逸脱を試み、生年は不詳だが12世紀から13世紀に活躍したペロティヌス(ペロタン)は同時に異なる旋律を歌わせることを始めました。二声、三声、そして四声。最初期のポリフォニー(多声音楽)の最も個性的にして普遍的な生命をもった音楽です。 音楽における劇の目に見えるかたちが、ここに芽吹きました。有史以来という大きさで考えれば、これは意外と最近のことなのです。
クレアリー和子さんは今年もお元気にピアノ・リサイタルを開いてくださいました。クレアリー和子さんにはアメリカから世界へ向けて出されたCDがあります。そこに彼女を紹介する資料として『ニューヨーク・コンサート・レビュー』のバート・ウェシュラー氏の批評と私の書いた文章が収められています。私のは「山村サロン会報 2013年前期 Vol.49」に掲載したので、今回はウェシュラーさんの文を紹介いたします。
有馬みどりさんは中学卒業後、1992年単身ロシアへ渡り、国立モスクワ音楽院付属中央音楽学校ピアノ科に入学。1995年同校を修了。2001年Australian Institute of Music(シドニー)に奨学金を得て入学。海外で青春期をピアノの修行に打ち込まれた方であり、私は初めて彼女の演奏を聴いたときから光るものを見つけていました。ロシアの作曲家やリストなどをよくお弾きになっていましたが、近年は2012年9月16日にヴァイオリンのパラシュケボフ(ウィーン・フィルやケルン放響のコンサートマスターを歴任)と共演するなど、音楽の巾を拡げられてきました。 ブラームスをリクエストしました。そのブラームスはすばらしかった!まだ若いブラームスの音楽は一見晦渋ですが、ひとつの出口を見つけると意外に判りやすい美しいピアノ曲です。いずれは作品117、118、119など晩年のブラームスの世界を開いてみせていただきますように。
デムスさんは今年もお元気に来演して下さいました。彼は1928年12月生まれですから、このときは満85歳です。でも会場入りも誰の介添えもなく、むかしと同じくお一人で電車に乗ってやってこられます。その方が自由に街をぶらぶらできるからで、11歳でウィーン音楽院に入学して16歳で卒業した神童は、そのまま85歳の神童ぶりを全開しておられます。2011年の春、東日本大震災後、海外の音楽家たちが軒並みキャンセルとなったときにも、デムスさんは何食わぬ顔で来られました。「勇気づけられます」と感謝すると「それをしに来たんだよ!」と。
ベートーヴェンは繰り返しサロンで弾いて頂いています。初期の7番は初めてで、これは彼の好きな曲です。ウィーンの音楽家なのにドビュッシーは全曲録音しているにもかかわらず、ベートーヴェンは全曲を弾かれません。なかでも「29番・ハンマークラヴィーア」は大嫌いとのこと。7番、31番、いずれも完全に手の内に入った音楽の歩みのなかに、力が脱けているから即興的な内声の生かし方などが生きて響きます。また彼はショパンが大好きで、しばしば聴かせて頂いてきました。基本的にはロマン派の気質を持った音楽家なので、孤独な歌や痛切なあこがれなど全てが心の歌として。 珍しいハイドンの歌曲を聴かせて頂きました。デムスさんはあらゆる歌曲にも通じています。笠原たかさんとの共演は初めて聴きました。それにしても詩/シェイクスピア、曲/ハイドンの歌曲があったとは!
野田燎さんは音楽療法家でもあり、サックス演奏や歌などの音楽とトランポリンなど道具を用いての機能回復の成果を上げてこられました。医学博士でもあります。年に一度は、その療法を受ける人たち、子供たちに集まってもらうためにこうしたコンサートが企画されます。年の初めの「お年玉コンサート」か、このように年末の「クリスマス・コンサート」。AKB48の歌が山村サロンの舞台にのったのは、もちろん初めてのこと。また、アンサンブル・カプチーノは野田燎さんが指導されているサックス・アンサンブルですが、彼らの練習の成果の発表の場でもあります。
8月10日(日)に『野田燎の世界』明暗の記憶というコンサートが開かれます。サクソフォーン・作曲・演奏・舞台美術:野田燎。もともと若い時代には野田さんは現代音楽の先端を走った作曲家/サックス奏者でした。今回は藤谷由美さんのダンスが花を添えて、音楽、舞踊、美術が混然一体となった舞台に。初演作「心炎+紫響」(日本初演)「蛇使いの女」(世界初演)もあり、芸術家・野田燎さんの渾身の≪総合芸術≫作品です。
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いわゆる現代音楽、しかしそれは作曲家でいえばどのあたりからなのか。ストラヴィンスキーの『火の鳥』(1910)『ペトルーシュカ』(1911)、『春の祭典』(1913)からはすでに100年以上経過したし、シェーンベルクが最初に「12音技法」を用いた『『ピアノ組曲』op.25の「プレリュード」(1921)も、もうじき100年になります。明治の日本に洋楽が入ってきたときに、いちばん最初の音楽史の本の最後はヴァーグナーでした。音楽取調掛が東京音楽学校になりますが、当時の教授陣はドイツ音楽を主流とする音楽観が支配していたために、フランス音楽やロシアをはじめとする国民楽派が紹介されずにいたのです。 日本人が書いた西洋音楽の本で、シェーンベルクを最初に紹介したのは大田黒元雄氏です。ドビュッシーを本格的に紹介したのも彼。大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』は1915年(大正4年)、山野楽器店から初版が出されました。英国留学から帰ったばかりの大田黒元雄は、22歳から書き始めて23歳で上梓しました。 「1912年から1914年までの留学時、彼はロンドンを基点にして当時の「ヨーロッパの現代」に演奏される音楽を貪欲に聴き、楽譜も集めました。フォーレやスクリアビンの「演奏」を間近に聴き、シェーンベルクの作品が演奏される会場にも彼はいました。14年11月14日に開催された演奏会の小さなプログラム。20世紀の大作曲家シェーンベルクの無調のピアノ曲が本邦初演されたことを告げている。作品はその数年前に発表されたばかり。楽譜提供者は大田黒元雄、演奏者は沢田柳吉」。 (林淑姫 2010/10/28付日本経済新聞)
そして、1925年(大正14年)10月10日に始まった全6回のアンリ・ジルマルシェックスの来日公演は画期的なものでした。バッハやベートーヴェンも弾かれましたが、フランス音楽がずらり。まさに当時の「現代音楽」の展示会でした。ルーセル、フランク、フォーレ、ドビュッシー、ラヴェル、イベール、シャブリエ、ミヨー。古い方ではラモーもクープランもダカンやリュリも紹介されています。これだけではありません。バルトーク、ファリャ、アルベニスにストラヴィンスキー(『ピアノ・ラグ・ミュージック』)までもが演奏されているのです。いずれの曲も日本初演だったにちがいありません。ラヴェルの『ファイヴ・オクロック・フォックストロット』は世界初演でしたから、これは日本の音楽界にとっては歴史的と銘記せざるを得ない演奏会になったのです。いわば日本で初めての「現代音楽」の演奏会というべきでしょう。
久保洋子さんの「音楽浴」は20世紀の頃から続けられてきた企画です。作曲家/ピアニストとして西宮・芦屋とパリを活動の拠点として活動される久保さんはブーレーズが所長だったIRCAM(Institut de Recherche et Coordination Acoustique/Musique フランス国立音響音楽研究所)に給費研修員として招待されました。その後のパリでの歩みはめざましいものです。メシアンやクセナキスにも師事された彼女と親しく、サロンに来演された最も多い回数の持ち主が、フルートのアルトーさんです。フランスの現代音楽のCDでは、フルートはたいてい彼なので、久保さんにフルートの曲が多いのはアルトーさんがいたからに違いありません。
日本人作曲家の作品は、必ず久保さんの日本の師の近藤圭さんの作品と自作の初演が弾かれます。近藤先生もお元気なころは毎回お見えになっていましたが、旧作が演奏されるとき、ふと会場内にいらっしゃるような気がします。彼の音楽には線の太い素朴な力強さがあり、男性的な力仕事の筆致に作曲家としての紛れもない個性があります。久保さんの今回の新作は『ルシェルシュ』。耳を澄ますことへの極限までの繊細さ。しかしけっして神経質にならず、むしろその逆に自由な空間へと飛翔する。 近藤圭さんは日本の伝統芸能一般に造詣が深く、大作オペラ『出雲の阿国』を書いた作曲家でしたが、久保洋子さんは近年、能楽の修行を始められました。のみならず西洋のバレエのレッスンも始められ、音楽における東洋と西洋について考えてこられた作曲家が、身体表現における東洋と西洋を実践されることになったわけです。作曲に生きないはずがありません。
智内威雄さんは「左手のピアニスト」。両手のピアニストとして国際的に活躍されていましたが、2001年ジストニアが発症。2003年からドイツで「左手のピアニスト」として活動を再開されました。その後の日本でのご活躍ぶりは新聞報道、テレビ放映されるなど、目覚ましいものがあります。 「左手のピアニスト」として、まず歴史的に著名なのはパウル・ヴィトゲンシュタイン(1887‐1961)です。『論理哲学論考』の哲学者ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの2歳年上の兄で、ピアニストとして活動していたときに第1次世界大戦に召集され、従軍、右腕を切断しなければならない戦傷を負ってしまいました。回復するにつれて「左手のピアニスト」として活動していく決意を固め、はじめは自分で編曲してコンサートを開きましたが、ブリテン、コルンゴルド、ヒンデミット、R.シュトラウス、プロコフィエフらに作品を委嘱。なかでもラヴェルの『左手の協奏曲』は両手のピアニストによっても盛んに演奏される名曲になりました。
智内さんもまた、自身で編曲されたものがあり、それは若年の「左手のピアニスト」のための教育的配慮もなされています。『左手のアーカイブ監修楽譜:LHPM009より初級者楽譜 唱歌:浜辺の歌、うさぎ、さくら、とおりゃんせ』がそれです。単純さの中に懐かしい響きが美しい作品です。 また、サロンでは「現代音楽」をずらりと並べることができますから、いま活動しておられる作曲家の作品を聴くことができました。近藤浩平さんと塩見允枝子さんが臨席されました。塩見さんと智内さんはお互いの自宅が近くにあるとのこと。塩見さんの新作がまた耳にすることができると思うと、わくわくします。
大編成のオーケストラ曲を室内で聴ける編成で。これは編曲する音楽家の腕の見せ所です。モーツァルトやベートーヴェンの交響曲もピアノによる編曲の楽譜は出ていますが、いまのようにレコードやCDなど気軽に音楽を聴ける時代ではなかったとき、人々は自分、自分たちで演奏して音楽を楽しみました。だから、音楽のベストセラーというのは即ち楽譜のベストセラーだったわけです。 シェーンベルクは弟子たちとともに私的演奏協会(Verein für musikalische Privataufführungen)を1918年に立ち上げ、自分たちの「現代音楽」だけではない広いレパートリーの音楽を室内でできる編曲をして演奏しました。批評家は締め出されていました。これは、専門家による専門家のための「戦略的」な編曲といえます。この音楽会はシェーンベルク自身か、あるいはシェーンベルクに任命された「舞台監督」の指導のもとに、一つ一つの作品のリハーサルが熱心に行われ、なによりも「作品を明晰で分かりやすく提示する」ことが最優先の課題とされました。シェーンベルクの音楽の専門家のための教育活動のひとつですが、彼自身にもいろいろな発見があったにちがいありません。シェーンベルク編曲のJ.シュトラウス「皇帝円舞曲」は創意に満ちた傑作です。1919年2月から1921年12月に、オーストリア共和国の超インフレのために活動停止を余儀なくされるまでの3年間、彼らは117回のコンサートを行い、154作品を上演しました。マーラーは「交響曲第7番」「6番」(いずれも四手ピアノ版)、「4番」(室内管弦楽団版)が演奏されました。 今回演奏された「4番」の編曲者J.ヴェス(1863‐1943)は、協会オルガニスト、作曲家、楽譜出版のウニフェルザル社の編集者という多才な音楽家で、マーラーの交響曲の数曲をピアノ連弾に編曲しています。「6番」のツェムリンスキーは独学のシェーンベルクがただひとり手ほどきを受けた作曲家で、マーラーの妻アルマの作曲の師でもあった。ツェムリンスキーの妹はシェーンベルクと結ばれました。
このような試みを面白いと思い、着々と「私的演奏協会」を遂行しつつある大井浩明さんは、この演奏会に先立ち2014年2月26日、京都のカフェ・モンタージュでマーラー「交響曲第5番」(オットー・ジンガー(1863-1931)によるピアノ独奏版)を演奏されたばかりでした。そして2013年12月22日にはオットー・ジンガー(1863-1931)によるピアノ独奏版で、ブラームスの「交響曲第1番」「2番」を、26日には作曲者自身によるピアノ伴奏版で「ヴァイオリン協奏曲」と「ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲」(ヴァイオリン独奏/谷本華子、チェロ独奏/上森祥平)、29日にはオットー・ジンガーによるピアノ独奏版で「3番」「4番」を弾かれました。 また2013年6月から9月にかけて6回にわたり、ベートーヴェンの「弦楽四重奏曲」全曲をヴィンクラー、タウジッヒ、アルカン、サンサーンス、ルビンシテインらによるピアノ独奏版でやり遂げられもしました。
2014年の芦屋の夏は、メシアンです。6月と7月は無事に終わりました。8月31日はいよいよ「鳥のカタログ」全曲です。
今はもう昔のものになってしまった古いSPレコードと、命脈は保っているもののとても主流とは言えないLPレコードを聴く会です。OPERA SPECIALは、オペラがお好きな方の提案にのって始まった企画で、全曲をLPレコードで聴いています。 音盤の発明は大体1900年前後なので、20世紀に入ってから音楽ファンは演奏会へ行かなくても家で名高いオペラ歌手の歌を楽しめるようになりました。カルーソーやメルバら、SPの初期には声楽がレコードを世に広げていきました。もともとは人間の声を記録し再現する「トーキング・マシン」だったので、声の高さに近い楽器、ヴァイオリンが初期の時代のSPレコードでは自然な響きで聴くことができます。管弦楽は駄目。ピアノももうひとつ。というのも大きなラッパに向かって音を出して、直接に音溝を刻みつける方法ですから、声楽やヴァイオリンは有利なわけでした。これがアコースティック録音。1920年代の終わりになってようやく電気録音になり、ここからSPレコードは最盛期を迎えます。その歴史は約50年。戦後も東京オリンピックの1964年には、まだSPレコードはリリースされていました。 新しいLPレコードは1948年に米コロンビアから発売。機械の切り替えは時間がかかります。まだモノラル録音が続いて、その時代はすぐにステレオ録音が開発されました。英国デッカのステレオ録音は1956年には確立されていました。そこから四半世紀あまりでCD。いそがしく変遷して、いまや物質としての録音体(レコードとかテープとか)は影も形もない「ダウンロード」が若い人たちには当たり前のことになっています。 しかしながらSP時代の音源はSPで聴くのが「当時の現代」。LPも同じくです。そこにぴちぴちとして生きた音楽が再生されます。
「小田実を読む」も毎月開いてきて、まる5年が経ちました。1冊の本についてひとりのレポーターが1時間半ばかり基調になる話をして、残りの時間を皆さんと語り合うかたちですが、読書会の醍醐味は予想もしなかった「読み」が聞けることです。本は動きませんが、人間は年をとり成長する。だから、どんな本でも若い時に読んだ時とはちがうものが見えてきます。それと同じように、私よりも若い人の感想は面白いし、私よりも経験を経た人の意見は貴重です。どうやらこれは、世に出された作品について、分野を問わずにいえることらしい。音楽についても、美術作品についても、映画や演劇についても。たとえばシェイクスピアの「リア王」ですが、年をとればリア王の心境がわかるようになるとか。私にはまだわかりませんが。小説を読むにしても映画を見るにしても、ひとはいつも自分に似た登場人物を見ているようです。
私が講師としてお話したのはこの半年には2冊でした。この前には『子供たちの戦争』を読み、戦時の大阪の子供の世界が描かれた小説を語りました。作家自身の体験が投影された作品です。家族が平和に暮らしているうちに、知らない間にじわじわと大人も子供も戦争に巻き込まれていった時代を、小田実は「そのままのもの」として子供の目線で描いていました。声高なものは何もない。 そして『「殺すな」と「共生」大震災とともに考える』は1995年の阪神淡路大震災の直後に出された本で、子供たちに語りかけるかたちをとっています。具体的に語りかける相手も小田実にはいました。ひとり娘の小田ならさんです。彼女は当時小学生でした。あのときから20年近くが経過して、再読すると今更ながらにこの本は、ネルーが獄中から娘のインディラに手紙に書き送った『父が子に語る世界歴史』が思い浮かんできたものです。同じ主題が大人向けの厚い本として『被災の思想 難死の思想』(朝日新聞社)として上梓されています。震災のとき、私は小田実とともに被災者に公的援助をする法律をつくるべく奔走、2年半のたたかいを経て「被災者生活再建支援法」を超党派の議員団の力を得て制定させました。今でも震災の日の1月17日周辺の日には集会を開いています。 『くだく うめく わらう』は純文学です。この作品については講義の時に使ったノートの一部を採録しておきましょう。
≪掲示板≫
■芝山幹郎さんの 『今日も元気だ 映画を見よう』(角川新書227) 私の詩の処女作『哭礼記』が世に出るきっかけをつくって下さった恩人であり、今も交流を続けている芝山幹郎さんの新著『今日も元気だ 映画を見よう』が届けられました。副題は「粒よりシネマ365本」。初めての出会いのときには私は18歳、芝山さんは23歳の気鋭の詩人でした。現在は翻訳家、あるいは映画評論家として週刊文春のシネマチャートの評者などでご活躍されています。新著では365本の映画を「春夏秋冬に割り振ってみた」とのこと。洋画も邦画も、戦前のものから最新の映画まで、驚異的に広い範囲の作品が扱われています。日本の戦後の大衆娯楽映画までもがありますから舌を巻きます。同じ映画でも、若い頃に見たときと60歳を過ぎてから見たのとは感じが違ったことなど、興味深い記述があちこちにあります。短い文章の中に作品の本質を射抜く。芝山さんは今も詩人です。
■伊良子序さんの 『小津安二郎への旅』(河出書房新社) 芝山さんの新著が届く少し前に、神戸のギャラリー島田で伊良子さんの懇切な解説に導かれて、小津安二郎の『東京物語』を見る会に出席していました。伊良子序さんはフリージャーナリストですが、映画の仕事もたくさんされていて、震災後の1996年から始まった「神戸100年映画祭」の総合プロデューサーを務められています。長年にわたる小津安二郎その人と小津作品への打ち込みは、山田洋次監督の「伊良子序さんは小津安二郎監督をまるで親戚の伯父さんのように愛している」という言葉が語り尽しているようです。愛によって動かされ、愛に裏打ちされた言葉が美しい。小津作品は暗いから嫌いという人もいますが、なかなかどうして、暗いとされる『東京物語』でさえ役者たちは面白く遊んでいました。
■三上明子さんのCD 『風のディアローグ』(フォンテック) サロンに来演されたことがあるフルートの三上明子さんから、新しく出されたCDが届きました。今も交流が続いていることを嬉しく思います。正式なタイトルは『風のディアローグ 〜フルートとオルガンのためのフランス音楽〜三上明子(フルート)坂戸真美(オルガン)』。録音がバランスよくできていて、いきなり心地よい響きに包まれます。ジョルジュ・ユー、ジャン・アラン、マルタン、デュリュフレ、ピュイグ=ロジェ、ロートらの作品に、ただ1曲、武満徹『エア』が挟まれた選曲もしゃれています。これだけ美しければ、音楽を聴きはじめたばかりの方にもおすすめしたい1枚です。
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2014年 8月 15日 発行 著 者 山村 雅治 発行者 山村 雅治 発行所 山村サロン
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