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暦が還って
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壬辰(みずのえたつ)に生まれて壬辰の年が還ってきたのは2012年元旦のことでした。しかしそのとき私は、満59歳になってわずか6日しか経っていなかったのです。数え年というのは妙なもので、年末の12月26日生まれの私は生後7日目にして数え二つになってしまうのです。いいですか。生まれたての赤子がですよ、新年の挨拶に来た他人からその赤子の年を訊かれて、親が「この子は二つになった」って言ったんでしょうかねえ。
年末生まれは何かと損をします。とくに26日生まれはクリスマスと誕生日が隣り合わせているために、ケーキもプレゼントもはっきりとは分離し難いものになりがちです。まあ親としても毎晩デコレーション・ケーキなんて、と溜息をつくのは同情しますが。安くないものですからね。それに御馳走というものはたまにそれが出るからいいのであって、毎晩はどうもねえ。これにも同じ意見を抱かざるを得ません。それよりもなによりも、現在に至るまで私としては満59歳になったばかりなのに還暦という数え年の理不尽さに堪えられませんでした。
だから私自身の還暦を記念するなにかをやるとすれば、2013年の12月25日まで、つまり満61歳になるまでの満60歳である期間にと定めました。 2
で、なにを考えたかというと、ひとつは一人芝居です。私は年来、芸術交響空間◎北辰旅団の役者として舞台に励んできましたが、何人かのお客さまから「一人芝居が見たい」とリクエストを頂いていたのです。ですから北野辰一座長とも、還暦にはそれをやりましょう、と話をしていました。その時から何本か芝居公演を重ねて、2013年3月の『長靴』公演のあと、風雲急を告げたのです。4月から北野座長は体調を崩された父上のもとに、看病のために千葉県柏市に行かなければならないという、劇団にとっての緊急事態が発生したのです。加えるに役者仲間の三ッ樹零が結婚を控えて稽古に出られないという事情ができました。ですから劇団の諸事情を勘案すれば、2013年最後の公演は「山村雅治 一人芝居」しかないということになったのでした。
そのことと劇団を続けることを遂行していくために座長は、父上が回復された後、9月から劇団員全員でやる芝居の稽古にまずかかりました。鈴川みゑさんと2人だけの稽古の9月を経て、10月になってからようやく『一人芝居 燈台守の唄』の台本のはじめの2枚ができてきました。10月も11月も稽古は並行して続きます。そして一人芝居の台本が完成したのは、ようやく10月の最後の日でした。
その後、猛烈にそれだけに集中してその台本を読み、体の中に入れていく作業に没頭します。しかし末日に渡された最後の3枚が駄目だ。覚えられないのです。そこで11月14日の座長との二人っきりの稽古の夜に、これまではそんなことをする必要がなかった台本の、少しばかりの改変を提案しました。うーん、としばしの思案の時間を経て、座長は結局はそれを逐一受け入れて下さり、本番で演じた言葉になったのです。
すばらしい台本になりました。舞台公演をやってみせるからには、役者も劇作家も、また新しい「最高傑作」を提出しなければなりません。題材は北野座長が10代のころから心にかかっていた補陀落渡海。そしてそれに旧約聖書の「ヨナ書」を重ね合わせるという荒業を経ての、この忌まわしい現代に現代人として肉声の叫びを伝える珠玉の作品になりました。 3
11月21日の稽古をして衣裳を着けてのドレス・リハーサルは26日。その間サロンはイベント・ラッシュで、まず22日は「小田実を読む」で私が講師でそのためのレジュメA4版4枚分と画像を用意してやり、23日は有馬みどりさんのピアノリサイタル、24日は青山恵子さんと秦はるひさん、アストラ・ブローグの英語で書かれた作品の訳詩の岡田宏子さんと作曲の加藤由美子さんの4人をお招きしての「歳を取るほど大胆になるわ」コンサートがありました。 そして本番2日前、29日の稽古で私は凹みました。風邪で体調を崩してしまって、至るところが駄目でした。その日の昼にラポルテ本館4階の医院で注射を打ってもらっていたのですが、翌日30日つまり本番前日の通し稽古にはその注射が効き、その日のはじめに座長に「全部覚えてるはずなんですけど」と漏らした言葉が初回にはほぼ実現したようでした。朝から晩まで芝居を全てやる通し稽古を4回。
プロカメラマンの柏浩一郎さんは、その3回目から会場に入られました。北野座長の高校生からの友人で、なんと20数年ぶりの再会だったといいます。私にとって記念公演になる舞台を撮って頂くことになり駆けつけて下さいました。私に下さる舞台写真の画像は、劇団全員からの贈り物なのです。 そして、さすがにメイクをして顔をつくっての4回目の後半には「ああ、くたびれましたぁ」と音を上げたくなって。
台本完成後わずか1か月のうちに、台本のひとつひとつの言葉を彫り深く抉り、肉体の表現を通して自分の言葉として演じ切ること、それはもしかしたら演劇の神さまから不可能の烙印を押されることだったのかも知れません。それで4回通してやってみた実感は、しかし、できる。その確信を得た夜になりました。
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さて12月1日、本番の日。朝は少し早く目覚めました。体調はよさそうです。会場へも少し早く入り、稽古着に着替えてウォーミング・アップ。10時になると劇団員たちが集まり始め、少し過ぎて座長が柏氏とともに現れました。さて11時から通し稽古。昨日から音響と照明を座長とともに稽古していた三ツ樹零くん、楽屋で私の面倒を見てくれて暗転時に舞台上に置いてきたものを楽屋に引いてくる鈴川みゑさんも私とひとつになってくれています。 昼食をとり、少し小返し。部分的な演出の念押しです。それが終われば、もう開場30分前になっていました。
本番の最後、叫びながら花道を走って、暗転。いきなり物凄い拍手の音がしています。場内の明かりが点くと座長が舞台の前から私を舞台の上に上がるよう指示します。上がり、満員になったお客さまに深々とお辞儀をすると、もう一度嵐のような(実感としてそう聞こえました)拍手に包まれました。
そのときの舞台衣装は昔の上下つながった水着です。ヴィスコンティ監督の映画『ベニスに死す』で、タジオ役の美少年が着ていたような水着。しかし全然寒くないどころか、そのときの私はいいようのない暖かさに包まれていました。
終了後、客席に机を並べてお茶を飲んで頂きました。その間に席をまわって、お一人ずつに感謝を申し上げました。いつも見て下さる常連の方がたもいれば、懐かしい人も初めて来て下さった方も。互いに短い言葉でいうべき言葉だけを交わしていきました。 そして時間が過ぎて、公式発売日は12月5日ですが、さきがけてその日山村サロンで発売を始めた『哭礼記 山村雅治初期詩篇』(リブロ社)のサイン会が始まって、自然散会になりました。
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『哭礼記 山村雅治初期詩篇』(リブロ社)は、暦が還った年にしようと考えていたもうひとつのことでした。単行本の処女作『マリア・ユージナがいた』(リブロ社 1991年初版)は書下ろしでしたが、そのずっと前から書いて商業誌に発表された作品が少なからずあったのです。20歳の時に書いた長詩『哭礼記』(「現代詩手帖」思潮社 1973年6月号)が世に出した処女作です。その後の2−3年間に書き溜めていたものと、空白の10年を隔てて、32−3歳にまとめて書いていた詩と散文詩を「初期詩篇」としてまとめておきたかったのです。
『哭礼記』 現代詩手帖(思潮社) 1973年6月号 『私の花論 由来説』 小原流挿花(小原流文化事業部)1973年11月号 『花づくし花がたり』 同上 1974年6月号―1975年5月号 『冬の夜がたり』 地獄第七界に君臨する大王は人体宇宙の中枢に大洪水を齎すであろうか(略称フネ 紙田彰氏)1976年4月15日廃刊号 『レゲンダ・フロラリス』 小原流挿花(小原流文化事業部) 1985年5月号―1986年4月号 『御伽花詞』 小原流挿花(小原流文化事業部)1986年6月号―12月号
以上の諸作品です。経緯については「跋」に詳述しましたが、芝山幹郎氏と中嶋典夫氏にはたいへんお世話になりました。
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初期を過ぎて中期の私は、孤独なペンを捨てて社会の中で活動を展開し始めました。文化を発信する場としての「山村サロン」の活動では、私は舞台に上がらず、ひとを舞台に上げることに専念しました。また1995年1月17日の阪神淡路大震災に被災してからは、それまでは「文学講座」を開いていただいていた小田実氏とともに、被災者に公的援助をする法律をつくる「市民=議員立法」運動を巻き起こして、2年半にも及ぶ烈しいたたかいの末に「被災者生活再建支援法」を成立させました。小田氏とはその後、日本が世界に平和をもたらす国になる理想を掲げた「良心的軍事拒否国家日本実現の会」というものもやりました。
そうした社会活動の期間を経て、満50歳になり転機が訪れます。半世紀生きてきて少年時代から温めてきたことにひとつずつ取り組んでいくことになります。その前に、スーツとネクタイをやめる。自分らしいファッションのまま職場に出かける。これは案外好評でした。そしてまず、ヘンデルの『メサイア』を上演しました。指揮者として、はじめて舞台に上がる。楽器はピアノ、ヴァイオリン、トランペットのみで、独唱と合唱の声楽陣はつれあいの音大時代その他のネットワークで集めました。高校生時代からやりたかったことのひとつでした。
サロンの開館20周年記念の音楽会として「山村サロン女声合唱団」を設立したのは2006年のこと。やはりつれあいの尽力でメンバーが呼び集められて、基本的な指導をしてくれました。同合唱団の旗揚げ公演は2006年12月2日。プログラムは高田三郎『典礼聖歌』の詩編や一般讃歌のなかから選びました。高田三郎氏の作品は大学生のときに知り、いつかは自分の指揮で演奏したいと願っていたものでした。力を尽くして、教会のシスターたちやカトリックの皆さんにも歌の心は届き、反響は大きいものがありました。
2006年はもうひとつ銘記しておかなければならないことがありました。絵のモデルにならせて頂きました。2005年9月、芦屋在住の松井美保子さんは「芦屋 九条の会」設立準備会で私を見られて、その数日後モデルの件を打診しに来られたのでした。2006年2月、神戸・原田の森ギャラリーで展示されていたのは100号の大作『Y氏肖像』でした。その絵の構図の完成作が、いまサロンのホール内に展示されている作品です。その後、たびたび呼びかけられてモデルの時間を作り、彼女の絵に登場することになりました。 そして2009年。私は役者として舞台に上がります。
最初、藝術交響空間◎北辰旅団との出会いは2008年6月1日、大阪フジハラビルでの『なでしこと五円玉』と、その打ち上げ『小田実生誕76周年記念祭』に参加したのが始まりでした。その後も劇団の公演に足を運んで、ある日私もやりたい、と北野座長に申し出ました。幼稚園から小学校高学年まで能の舞台に出ていた私の体のなかに疼くものがあったのでしょう。役者の血が騒いだ、とでもいいましょうか。 2009年9月13日、第19回公演『宇宙の種まく捨聖』が現代劇の役者として舞台デビューした作品でした。これには「山村サロン女声合唱団」が合唱隊として衣装を着けて出演してくれました。そのとき私は満56歳。
それから今回の「第30回公演 一人芝居 燈台守の唄」まで毎回出演を続けていますが、まあここまでが私の中期活動といっていいでしょう。
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私の後期は、今から始まります。大学時代にいちばん頻繁に会ってお話したのは籍を置いていた英文学科の先生ではなくて、個人的にひょんなことから交流が始まった法学部の教授でした。安井郁先生。彼は私に人生3期説を唱えていました。初めの30年間は社会に出るための訓練をする時期。次の30年間は社会のなかで働く時期。最後の30年間は総仕上げの時期。僕の場合はあちこちずれてはいますが、今現在の感じでいくと、あと30年くらいは生きていそうです。次に詩が生まれ出したとしたら、それが私の「後期詩篇」のはじまりです。
(『哭礼記 山村雅治初期詩篇』(リブロ社)は\1,700(税抜)で書店、ネット通販のいずれでも求められますが、山村サロンには在庫があるので、直接お求めになることもできます。もちろんその時は、署名をさせていただきます)。
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2013年の夏の大井浩明さんの連続演奏会は、『大井浩明 連続ピアノリサイタル 2013 STOCKHAUSEN UND DANACH』。 シュトックハウゼンは、2011年7月16日に晩年の大作『ピアノ独奏のための《自然の持続時間 Naturliche Dauern》(2005/06)』(全24曲 日本初演)を聴かせて頂いて以来のもので、今回は若い時代の傑作『クラヴィア曲』11曲(TからⅪまでは1952−1956、但し\と]は1961年に改訂)が初日に、またと、Ⅻ《試験》(1979)、XIII《ルシファーの夢》(1981)、]W《誕生日のフォルメル》(1984)の「パフォーマンスを伴うシュトックハウゼン《光》三部作」が最終日に演奏されました。
シュトックハウゼン(1928−2007)の音楽を初めて聴いたのは小学校6年か中学1年かの頃で、海外出張した父に買って帰ってきてもらったLP盤でした。初回にはカラヤン/ベルリンのベートーヴェン「交響曲第7番」を希望しましたが、取引先の人に「息子さんにプレゼントします」とのことで望外のマルケヴィッチ/コンセール・ラムルーのベルリオーズ「幻想交響曲」のもう1枚とドイツ・グラモフォンのカタログもおまけに付いていたのです。それまでに買ってもらっていた日本コロムビア盤のワルター/コロンビア響の「田園交響曲」など、まだ数枚しかないレコードを飽きずに繰り返し聴きながら、そのカタログを食い入るように何度も読み返していました。
するとErectronic Musicという項目に一点だけ載っているのがあって、それがシュトックハウゼン/ケルン放送局の「少年の歌」(1955−56)と「コンタクテ」(1958−60)の1枚なのでした。ませたガキでしたから「電子音楽」というものがあることは知っていましたが、それだけの興味で、シュトックハウゼンという名前はそのときに知ったのです。で、そのレコードが海を渡って我が家にやってきました。家族は口をあんぐり。「なんやねん、これ」状態で「もうやめよ」の混乱に陥りました。しかし、子供にはじつに面白い!後日、家族がいないときに一人で聴いていると、それまで聴いてきた音楽の世界とはちがうけれども、やはりこれも音楽だ、と惹きこまれました。子供は現代音楽が全然怖くないのです。 その盤はやがて兄が高校の文化祭で使うから、と言って持っていき、しばらくは手元から離れていました。私のところに戻ってから「何のために使ってたの」と訊くと「お化け屋敷にね!」。ぎゃふんでしたよ。
シュトックハウゼンについてはもう一つ、若いころの接近遭遇があります。万国博覧会が大阪で開かれたのは1970年。そのとき私は高校3年生で、ドイツ館でシュトックハウゼン、鉄鋼館でクセナキス、武満徹、高橋悠治の音楽が聴ける、ということでその二館のためにだけ何度か行きました。人が何時間も並んで行った「アメリカ館」や「ソ連館」などは眼中にありませんでした。やはり夢中になったのはドイツ館の電子音楽のライヴ演奏です。「シュティムンク」(1968)と「テレムジーク」(1966)。もうたまりませんでした。吸い込まれるように音楽のなかをさまよい、遊び、多彩な電子音の音色と速度の妙、いわゆるテンポもリズムもメロディもなく一切が解き放たれていて、しかもすばらしく引き締まった音楽の筋肉を感じました。骨格だけならあれほどの感動は覚えなかったでしょう。独創者は独走者でもある。シュトックハウゼンは独りで音楽の荒野を走っていたのです。
余談ですが、この年には指揮者サヴァリッシュもNHK交響楽団でベートーヴェン・ツィクルスを振るために来日していました。大阪でカラヤンがベルリン・フィルを振ってベートーヴェンの交響曲全曲をやる。東京ではサヴァリッシュがN響を振ってすばらしい演奏を繰り広げていたのです。ところがそのサヴァリッシュが夫妻で大阪へ来て万博を見に来たところ、ドイツ館でシュトックハウゼンの電子音楽が始まるや否や「こんなのは音楽じゃない!」と大声でわめき散らしたとのこと(「N響80年全記録」佐野之彦著 文藝春秋刊 2007 による)。私が通った日に彼がいなくて幸いでした。満17歳の熱狂的シュトックハウゼン・ファンの日本の少年は、その「訳のわからん外人のおっさん」に「Get out!」「Shut up!」と顔を真っ赤にして叫んでいたにちがいありませんから。
さて、あれから何年経ったことだろう(美輪明宏「ヨイトマケの唄」調で)。高校も出たし大学も出た(同じくですが、以下の歌詞は続きません)。いろいろと音楽の遍歴を重ねてきましたが、やはりシュトックハウゼンの名前を見れば、それがもはや他人とは思えないのです。ドイツ・グラモフォンは彼の作品をたくさん録音してレコードを出し続けました。やがて他レーベルからもぽつぽつと出るようになりました。あれやこれやと、子供の頃に面白いと睨んだ作曲家は今もって面白いのです。
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大井浩明さんの「連続ピアノリサイタル」。初日の『クラヴィア曲』ですが最初の4曲は私の生まれた1952年の作品です。前年の1951年にシェーンベルク(1874−1951)が没していて、ブーレーズ(1925−)はすでに2曲の「ピアノ・ソナタ」を書き終え、その年には「2台のピアノのための『ストリクチュール第1巻』(1952)」を書いています。そしてジョン・ケージ(1912−1992)はといえば、前年に『易の音楽』を書き、この年にかの『4分33秒』を生み出していました。
われらのカールハインツ・シュトックハウゼン(1928−2007)はそのとき24歳。なにをしていたかといえば、前年にメシアンの作品を聴き衝撃を受けて、1月からパリへ留学しメシアンに師事していました。3月に当時26歳のブーレーズに出会います。そんな時期の作品ですが、もちろん若い芸術家のもつ初発の才気の激しさや独創性は明らかです。次にX以降]までは1953年末に着想されて1954年にXから[までの4曲が完成。\と]が1954年/1961年の時間を経て完成。そしてⅪは1956年の作品。のちの2曲の改訂を数えなければ、シュトックハウゼンはこれらの曲を1952年から1956年のわずか4年で創りあげたことになります。記譜法の追及や響きの探求、リズム構造の試みなど一作ごとに新しくなり、]の「手袋を必須とする急速なグリッサンドの交替や、指・拳・掌・手首・下腕・肘で7種類に弾き分けられる目まぐるしいトーン・クラスター(密集和音)の応酬」(当日プログラム解説)からⅪの「管理された偶然性」へと至るのです。この4年間の移り変わりは、まさに底の知れない渇望を抱いた巨人の歩みです。
大井浩明さんのピアノ演奏はいよいよ熟してきました。私の少年時代の1960年代後半から70年代に「現代音楽」の流行期がありました。ピアニストたちは、より刺激的な音響を求めて聴くものを威嚇する、凍りつかせる響きを弾いていました。戦っていたのでしょう。しかし2013年。もはや大井浩明さんは、楽譜だけに従い、あるがままのシュトックハウゼンを弾きました。つまり彼を現代によみがえらせたのです。
シュトックハウゼンは、8月24日にも弾かれました。「パフォーマンスを伴うシュトックハウゼン《光》三部作」です。1977年から2003年にかけて作曲された『光』から抽出されたピアノ曲を聴きながら、私は楽しくて仕方なかった! オペラ『光』は全曲痛奏すれば28時間あまりかかる大作。主要登場人物はエーファー(当夜弾かれた「月曜日」に登場。女)、ミヒャエル(「木曜日」、男)、ルシファー(「土曜日」)の3人です。ダンテの『神曲』でも「地獄篇」がいちばん精彩に富むように「ルシファー」を描く部分がすばらしい。
当夜のセッティングは、ピアノの鍵盤外の両翼には鈴。舞台の縁に仕掛けられたロケット5機。これらは「クラヴィア曲第]V番《ルシファーの夢》のために。シュトックハウゼンはこの曲を楽しんで書いたにちがいありません。締めくくりには「お尻グリッサンド」まで登場する逸品です。大井さんの演奏はきわめてエレガントでした。 しかしロケット弾で驚いてはいけません。シュトックハウゼンは「水曜日」ではヘリコプター4機を飛ばす、という壮大なパフォーマンスが用意しているのです!「ヘリコプター弦楽四重奏曲」は彼のファンには有名です。
この夜にシュトックハウゼンとともに、三宅榛名さんの《Come back to music》1973/2013改訂版を採りあげたのも、大井浩明さんならではのプログラミングのセンスに唸りました。たしかに時代の空気は共有しているかと。彼女はその曲のコメントに「できうれば、音楽へのノスタルジーをこめて」と。榛名さんの演奏会を震災前には盛んに開いていました。その時のお客さまの一人に大井浩明さんがいたのです。
そしてアンコール第1曲は、三宅榛名『捨子エレジー』。私の知ってたヴァージョンは居直られた「ど演歌」でしたが、それを膨らませたアレンジによるもの。面白い! 大井さんのヴォーカルは好調そのもの。LPでもCDでも『ほんの47分の地獄』というアルバムに所収。 アンコール第2曲は三宅榛名『鉄道唱歌ビッグ変奏曲』。この曲を聴いて榛名さんの音楽が大好きになった人は多い。現代音楽には縁もゆかりもなかった人たちを否応なしに目くるめく現代の響きにいざなう力。若々しい覇気に漲った作品です。他のピアニストもどんどん弾けばいいのにね。三宅榛名さんの歌、歌曲というよりも歌、には他にアルバム『ほんの47分の地獄』に収められた《お馬ちゃんのセーター》がいい。一度聴いたら忘れられない独特の味があります。このアルバムに大井浩明さんが弾いた彼女の作品が2曲とも入っています。 10
大井浩明さんがサロンで開いている夏のリサイタル・シリーズには、関西出身・在住の作曲家が採りあげられています。 2013年の第1回公演には、大阪府摂津市出身の藤倉大氏のピアノ作品全曲が演奏されました。関西で彼の作品をまとめて、しかも全ピアノ作品が演奏会でなされるのは初めてでした。20代のシュトックハウゼンと20代の藤倉大のデビューを手助けしたのが、なんと今年88歳のピエール・ブーレーズだったことを、大井さんは驚きをこめてブログに記しています。藤倉さんの才能は疑い得ない。心から大成を期します。
7月13日の第2夜「細川俊夫の全ピアノ作品とラッヘンマンの大作」は「STOCKHAUSEN UND DANACH」(シュトックハウゼンとその後)にふさわしい一夜になりました。ラッヘンマンはノーノに師事した後、シュトックハウゼンの講習会に参加&デビュー。ホリガーは細川作品も振っています。そんな因縁があり、プログラムには細川、ラッヘンマンの間を縫ってノーノ、ホリガーが並び、彼らに加えて檜垣智也氏もその終わりなき円環に入る(かも知れない)可能性を持つ若い作曲家です。第1夜に続いて、オペラのような3時間にわたるコンサートになりました。5人の作曲家を大井浩明というピアニスト一人が弾き分ける奇跡のような「オペラ」=「対話篇」。紙背に徹して楽譜が読めるからこんな一夜を繰り広げることができるのです。
【第3夜 8月24日のセッティング】
11 小田実とは誰だったか。彼は何をしたか。何を書きつけたか。 今もって彼が生きた日本でさえ探求されきっていません。日本の何が『何でも見てやろう』を国民的大ベストセラーに押し上げて『べ平連』を持ち上げ、彼の晩年の孤独を突きつけたのか。彼はただ、揺るがない道を歩いていたに過ぎないのに。その道は大河だったとも言えます。それならば、その河幅があまりにも広すぎて彼の全貌をひとつのものとして見ることが人にはできなくなったのでしょう。 彼は日本を愛していました。『何でも見てやろう』を世に出したときに当時の左翼は「変な右翼が出てきたな」と嘆息したことは事実です。また『ベ平連』の代表として活動したときに当時の右翼は彼を「左翼」とみなしました。 「翼」とはなんだろう。そのようにして人間を仕分ける尺度を粉砕するべく、彼は小説を次々に書きました。世に出しました。「小田実を読む」は彼の魂を読み解く試みであり、だからこそ一人ではなく何人もの人たちによって小田実が語られます。 12
小説は「人生の同行者」玄順恵さん、阪神淡路大震災後「被災者生活再建支援法」を成立させた「市民=議員立法」運動などをともに戦った私、そして小田実に会えなかった世代の北野辰一さんの3人が中心になって読んできました。今期は少し趣向を変えて多くのゲストをお迎えして、さまざまな分野の方のなかに小田実が生きているのを実感しました。
白石憲二さんと音谷健郎さんは「朝日」の新聞人で、白石さんとは「市民=議員立法」運動を東京版社会面に初めて書いてくれた記者として銘記しておきます。音谷さんは学芸部の記者として小田実と交流。「朝日」に連載された『アジア紀行』の担当記者でした。ともに記憶が記録として取られたメモさながら、細密な細部に裏打ちされたお話でした。音谷さんによれば「小田さんはいつも愛用のライカで撮られた膨大な枚数の写真を送って来られるんです。でもたいていは使えません。しかし、必ず物凄くいいのが1枚か2枚はあったんです」。
坂田雅子さんと上野千鶴子さんは、お二人とも玄順恵さんと今も交流されています。坂田さんは、たったひとりでカメラを回し、ナレーションをし、インタビューされて映像作品を作られます。チームを組むとお金がかかるし、その他いろいろなことで「ひとりがいい」と。ということは人並み外れた体力と多方面にわたる技術と勇気をもった映像作家なのです。あることを訴えるのに言葉だけでは追いつかないこともあって、そのときに映像があれば一目瞭然、説得力はいや増します。彼女の作品が国内外で繰り返し上映されているのは当然のことでしょう。 上野千鶴子さんは「小田実生誕81年 没後6年記念講演会」のためにお招きしました。彼女もまた独立独歩。覇気に満ちた「たったひとりの」人生と学問を切り開いてきた人です。小田実とは生前会ったことはなかったものの、互いに著書のやりとりはなさっていたといいます。おそらく、実際に会って話したとしても会話など必要なかった。作家同士の交流には、そのようなかたちもあるのです。
山口幸夫さんは晩年の小田実が全幅の信頼をおいていた科学者です。扱われた本は物理学者の武谷三男さんと小田さんの対談です。サブタイトルは「阪神・淡路大震災がつきつけたもの」でした。山口さんのお話は「東日本大震災、および原発事故がつきつけたもの」。科学者で背筋が伸びている人、真実だけを追求し市民の健康を守るためにはどうするのが最善の策であるかを考え続けている人は日本ではなぜか稀で、山口さんは稀な一人です。
そしてレギュラーの北野辰一さんと私。北野さんは『日本の知識人』を読みました。小田実は冒頭、フランスには『知識人』という本はあっても『フランスの知識人』という本はない。彼らが知識人そのものだからだ、とのっけから「日本の知識人」とことわりを入れなければならない理由から説き始めます。論法は独自であって面白い。どんな学者ともちがう。ことにアカデミズムの学者には逆立ちしても書けない独創が随所に見られます。 そして今期ただひとつの小説『子供たちの戦争』を私が読みました。例によって講義メモ、講義ノートをつけてレジュメを作り、映像を準備して臨みました。詳述するのは、次号の『りいど・みい』誌上にて。
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リヒャルト・フランクさんが招かれたゲルノット・ヴィニッシュホーファーさんは、ウィーンのヴァイオリニストです。ウィーン国立音楽大学でヘルタ・ビンダー、アレクサンダー・アレンコフ、シャンドール・ヴェーグらに師事。その後モスクワのチャイコフスキー音楽院で3年間ヴァレリー・クリモフ(ダヴィド・オイストラフの弟子)に師事し、国内外の賞を数多く受賞。ウィーン楽友協会、プラハの春、ブダペストの春などでソロリサイタルを開く。1992年からウィーン市立音楽院ヴァイオリン科教授。オーストリアの東西音楽祭総監督の任にあたり、東西の人脈を生かして意義のある交流の場になっています。
植野恭子さんのピアノでのベートーヴェン「春」、植野恭子さんとのシューベルトは、いずれもウィーン生まれのヴィニッシュホーファーさんの体内にある音楽です。泉のように湧き出してきて盛り上がります。自然でない局面はどこにもありません。フランクさんのピアノと合わせたフォーレが、さすがに演奏芸術としておもしろいものになりました。フォーレの「ヴァイオリン・ソナタ」は難しい曲です。難曲に立ち向かう実力者二人の、至高の美を求めてやまない時間は充実していました。
坂口裕子さんは愛知県立芸大と京都市立芸大院を終了後、ミラノに留学、ジュゼッペ・ヴェルディ国立音楽院を満点、最優秀賞で卒業。彼女の経歴ではイタリア・ベルガモ市でオペラ「ランメルムーアのルチア」ルチア役、「愛の妙薬」アディーナ役、「リゴレット」ジルダ役、「椿姫」ヴィオレッタ役、「ラ・ボエーム」ムゼッタ役、「アルジェのイタリア女」エルヴィラ役、「ドン・パスクワーレ」ノリーナ役等、主役を多く勤められてきたことです。日本でも2013年に兵庫県川西市みつなかオペラでルチアを歌ったといいます。ルチアは20世紀中盤に世紀の大歌手マリア・カラスが、埋もれていた名作を「ノルマ」などとともに甦らせたレパートリーの一つです。とても歌いきるのが至難の曲であり、まずオペラ・ファンとして事前の予告ちらしを見て期待が高まったのでした。
ピアノの有馬みどりさんは旧知の若いピアニストです。中学卒業後いきなり単身でロシアに渡り、国立モスクワ音楽院付属中央音楽学校ピアノ科に入学。1995年同校修了。2002年オーストラリアのシドニーへ留学。2004、2005年ブルガリア国立ソフィア・フィルハーモニー主催のワークショップで最優秀演奏家に選出。2006年、松方音楽賞大賞受賞。私が彼女のピアノを初めて聴いたのは、そのあとくらいでした。プロコフィエフ『ロミオとジュリエット』のピアノ連弾版の第2ピアノを弾いていたのを聴いて驚きました。第1ピアノよりも精彩があり、音色にリズムにいのちがあり、なによりも覇気に満ちていました。いずれ時が来ればサロンでソロを、とそのときから思っていました。彼女の登場は、まずパラシュケボフのヴァイオリンに合わせるピアノから。そして今回は声楽と合わせます。
結果は上々。坂口さんが選んだプログラムはいわば通向きといえるものが主体で(ピツェッティの作品は、おそらく初めてお聴きになった方が多かったのではありませんか?)、誰でも知っているのは冒頭の『赤とんぼ』。山田耕筰の歌曲では続いて『野薔薇』、『風に寄せてうたへる春のうた』4曲が歌われました。華やかなオペラの舞台の裏では、日本歌曲にも真正面から向き合って研鑽されていたのです。声楽に合わせるのは初めてだったという有馬みどりさんのピアノも、前にヴァイオリンとのデュオをやった経験が生かされて何も言うことはありません。アンサンブルでは「人を生かす」「人の歌を引き出す」ことが求められます。その体験は、またソロに立ち返ったときに陰に陽に力になっているでしょう。
プログラムは音楽の多彩さを巡る旅であり、また3人の詩人の言葉を巡る旅でもありました。まず日本語で三木露風。次にフランス語でポール・ヴェルレーヌ。そしてイタリア語のフランチェスコ・ペトラルカ。私にはとくにヴェルレーヌ/ドビュッシーのコンビが少年時代から身近なものでした。詩も音楽も世紀末のフランス文化の粋。ペトラルカ(1304−1374)はイタリアの修道士にして詩人です。366の詩を30年以上の歳月をかけて一冊にまとめました。若いころに読んだときには、人生の厳粛さをまず感じました。リストの作品から入ったこともあったのかも知れません。彼が選んだのは「134 平安が得られないのだ」「61 祝されよ、かの日」と「156 ぼくは見た、地上に天使のおもかげを」。そしてピツェッティ(1880−1968)が曲をつけたのは「272 人生は逃げる」「311 夜うぐいすのやさしい鳴き声」と「ぼくの想いは昇っていった」。 歌もピアノもこれ以上のものはありません。きわめて濃密な時を聴衆を含めて、ともに生きる音楽会になりました。
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夏の日本の伝統芸のおさらい会が二つ。 幼稚園児の頃から能楽の稽古をしていたので、日本舞踊は習ったことがありませんでしたが、やはり身近なところにその稽古に打ち込んでいたひとがいたので、子供のころから母親に連れられて見に行きました。長唄、端唄、常磐津、清元など、いずれも耳に馴染みがあります。「賤のおだまき」とか「藤娘」とか。尾上流菊抄会のご発展を祈ります。
歌仙会は、作曲家/ピアニストの久保洋子さんの能楽の師匠である越賀隆之さんの門下の会。6月11日、兵庫芸文の小ホールで久保さんが企画された「能楽と現代音楽 未来の音風景」というお二人を中心にしての創造性あふれる試みがありました。久保さんは初演作「Suggestion」。越賀さんは「俊寛」と「鉄輪」、そしてコンテンポラリー・ダンス「KANAWA」の音楽は久保さんの初演作でした。越賀夫妻はサロンを開いた頃から知っているので、長い時間を経て再会できたわけです。益々の発展を祈ります。
「よろこびの出逢い」は手工芸品の展示・即売の会。にぎわいました。 「クラヴィーアの会」で私が指揮したのはグノー「アヴェ・マリア」とラター「クリスマス・ララバイ」。そして小林秀雄の「落葉松」、フォスター「夢路より」とズィーチンスキー「ウィーンわが夢のまち」。 早く合唱団で再び大きなコンサートを開きたいものです。年末のクリスマス会ではメンバー一人ずつが独唱し、個々の力がついてきたのを実感したところです。
山村サロンが3階に入るJR芦屋駅前の商業ビル「ラポルテ本館」は1、2階が物販・飲食・美容のお店で、それらの店舗で「ラポルテ本館名店会」を形成しています。広告代理店の林さんの企画はクラシックの音楽会で、さあ会場は、となるとサロンが選ばれたのでした。もうひとつの「母娘3代のポートレイト」撮影会の会場にもなりました。
出演されたピアニスト、島田彩乃さんもヴァイオリニスト、磯絵里子さんも、この企画がなければ私は縁がないままに終わっていたかも知れません。しかしお二人とも世界水準をめざした高い所で音楽を解釈し、技を磨いておられることは最初の音でわかりました。午後の島田さんのソロ・リサイタル、夕べの磯さんのヴァイオリンと島田さんのピアノのデュオ、ともに呼ばれた機会がどういうものであれ、手を抜かず全力を尽くす音楽家の姿勢があり、少なくとも私はお二人の音楽を聴いていました。またご縁があればうれしいですが、蔭ながらご活躍を祈っています。
吉岡孝悦さんとも古いおつきあいです。阪神淡路大震災の前に初めてサロンに来演されて、以後数年に一度は芦屋に来て頂いています。あの頃、私たちはともに30代でした。吉岡さんにピアノを合わせて弾いたのは深町純さんでした。深町さんは才能にあふれた音楽家でしたが、先年の訃報を聞いて愕然としました。彼のピアノを聴いたのはあのとき1回きりでしたが、ことに「アメリカン・パトロール」のリズムの深さ、厳しさに彼のいのちが刻まれていました。だからいつまでも忘れません。 さて、今回の演奏はマリンバの連弾です。マリンバデュオ《ウィングス》は吉岡さんと塩浜玲子さんのお二人です。解体されたマリンバを車に積み込んで、日本のあちこちを回ることができる、というわけです。日本ばかりではありません。すでにこのデュオは2012年にメキシコで公演され、2013年に韓国とタイ、この演奏会が終われば11月にアメリカとブラジル、12月にはトルコ公演に遠征されるとのことでした。
プログラムは老若男女のどなたにも親しい名曲がずらり。演奏は二人ならではの工夫が凝らされ、初めて聴く人にも何もかもをも聴きこんできた人にも思わず惹きこまれてしまう力と才気と魅力がありました。 吉岡さんは自ら作曲もする音楽家です。ですから編曲にさいしても原曲の作曲家への謙虚な敬意が底光りしています。演奏効果を追求するための省略や変更などは一切ありません。その上で舞台で展開された鮮やかな音楽は、演奏家としての吉岡さんの解釈なのであって、楽譜はみじんも捻じ曲げられてはいないのです。
『マリンバ連弾名曲集: オーケストラをマリンバ一台で』吉岡孝悦編、というタイトルの楽譜が、10月17日初版で音楽之友社から発売されました。あと出版を実現させるためにいろいろなご苦労がありました。なかでもハチャトゥリアンの『ガイーヌ組曲』は版権や著作権などの問題で、他の楽譜出版社やハチャトゥリアンのご遺族らと交渉を重ねられた末に実現したのです。楽譜をご遺族のもとに送って、音楽の専門家に見てもらって、ということでしたが、この編曲はハチャトゥリアンから何も奪ってないし、何も付け加えていない。ハチャトゥリアンその人しかいないのだからOKが出されるのは当たり前のことでした。
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山村サロンのレコード・コンサートは、まずSPレコードを聴く「<名器>クレデンザ コンサート」から始まりました。年6回ですから6で割ると年数が判ります。この号最後は第93回ですから15年半続けてきたことになります。きっかけは、亡くなった母の少女時代のお友だちから「(実家の)母の形見なんだけど、どこの大学へ持って行っても放送局へ持って行ってもお断りされて。それで思い出したんですけど、あなたはレコードがお好きなんですってね。受け取って下さい」というお申し出を受けたことでした。あれは阪神淡路大震災後の1996年あたりでした。
内容は米国「ビクターの赤盤」で古い片面盤もあり、レーベルに万年筆の筆致で西暦年号が記されていました。1929年が多かった。昭和のごく初期にすでに大人だった方が終生大切にされていたものです。ご家族は大阪に住んでいたそうですから、かの大阪大空襲にも焼け残り、しかも母の友人は芦屋に住んでおられましたから阪神淡路大震災にも耐えぬいて、割れなかったのです。何回かに分けて持ってこられたのですが、SPレコードは重い。そのレコードたちが過ごしてきた年月を考えると、さらにずっしりと重い。レコード愛好家として、これはなんとかしなければ、と思いました。
とはいっても、当時は半壊した自宅の修理が終わって、オーディオ装置の再建にとりかかったばかりでした。だからまず、LP用の33回転とSP用の78回転のついたレコード・プレーヤーはありましたから、SP用の針がついたカートリッジを求めることから始まりました。試行錯誤を繰り返して、ようやく頂いたSPレコードを聴きましたが、パッハマンやパデレフスキの雑音だらけの中から聴こえるピアノの音楽は超絶的に美しいのです。クライスラーやエルマンのヴァイオリンも、ガリ=クルチらの声楽も!
最近のCDの音は何なのだ、と感じましたが、それはそれ。CDにはCDのいいところがあります。それで、電気を通さなかった当時の手巻き式蓄音機で聴けばどうなるんだろう、と電気による再生はあきらめて、まず卓上型の小型蓄音機を買ってみたのです。雑音は飛躍的に少なくなり、音楽はやはり輝くばかりにすばらしい。そしてようやくクレデンザに到達したのでした。 LPレコードをかける「デッカ・デコラ コンサート」は今号では第80回が最新ですから、13年以上続けてきたわけです。こちらの方は、小学校の頃に父に買ってもらったドイツ・グラモフォン盤から現在に至るまでのコレクションをお聴き頂いています。間にCDしか聴かなかった時期もありました。しかし、前述のSPショック以来、またLPに戻りました。LP以後の演奏家にはCDしかないので、CDも聴いていて、つまり音盤100年の歴史を行ったり来たりして面白がっているという有様です。
それにしても、デッカ・デコラは楽器のようなステレオ電気蓄音機で、中古盤ファンには評判が悪い日本盤さえ唖然とするような鳴りを聴かせてくれることがあります。もちろんいちばん好きなのは英国デッカのレコードで、私はウィーン・フィルが大好きです。昔のワルターやクレメンス・クラウス、クナッパーツブッシュらの指揮した盤は大切にしています。とりわけ『ニーベルンクの指輪』の世界初録音のショルティ/ウィーン盤は、オーケストラ、声楽陣と録音に関する限りは、今もって最高。プロデューサーのジョン・カルショーと指揮者ショルティが、彼らの『ヴァルキューレ』をデッカ・デコラで聴いている写真を中学生のころに「レコード芸術」誌で見て、いつかはこの装置で聴いてみたい、と願ったのでした。1965年のこと。 そんなわけで、人は何年経っても「手に入れたいもの」や「やりたいこと」は忘れないし、やがては実現することもあるという幸せなケースでした。
オペラのLPレコードを聴く「Opera Special」は、熱心なオペラ・ファンからのご要望で始まりました。こちらはまだ日が浅いです。しかし、分かってきたことは、やはりプリマドンナ主役のイタリア・オペラの演目にはお客様が多く、イタリアものでも『ファルスタッフ』はおっさんが主役ですから不入りでした。ジュゼッペ・タディの至芸、カラヤンの精妙な指揮をもってしても! またドイツ・オペラも敬遠されがちなのも分かってきました。 圧倒的な人気を持つのは、やはり世紀の大歌手 マリア・カラスです。そりゃそうですよね。私だって、もし彼女が生きてれば、彼女の唄声を聴くためには演目が何であれ、地の果てまで行きます。しかし、オペラの世界は広いのです。国民楽派にもスメタナの『売られた花嫁』など実に楽しいものですし、20世紀のシェーンベルクのオペラ『モーゼとアロン』には地上で最も美しい音楽、すごい音楽が渦巻いています。
では、それぞれの音盤ファンの皆さま、旅を続けましょう。皆さまとともにいろいろな音盤が聴けて、とても楽しいです。
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2014年 1月 1日 発行 著 者 山村 雅治 発行者 山村 雅治 発行所 山村サロン
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