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<< Vol. 48 2013前期- Vol.49 Vol. 50 >> |
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待ちながら、待ちながら
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渇望を描いた演劇『ゴドーを待ちながら』では、ついにゴドーその人が舞台に現われることはなく、ウラディミールとエストラゴンが「いつものように」ねぐらへ歩き出すところで終わります。 もう何日、彼らはゴドーをまっていたことか。待つ時間にやる気晴らしに意味があるのか、ないのか。待つ人間は渇望の「ゴドー」にもし会うことが叶ったとして、その後はどのように、何をして生きていくのか。
神を待つ。 そう言い切ってしまえば、これはきわめて宗教の色が濃い主題になってしまいます。千年王国や最後の審判にかぎらず、弥勒下生というものもある。古今東西の神仏をめぐる物語には、その「時」がいずれ来ることが記されています。 19世紀末の哲学者ニーチェは「神は死んだ」と宣言しました。欧州の知識人の間に激震が走りました。また戦後にはユダヤ人テオドール・アドルノが「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」と書きました。人間が他の人間の尊厳や生命を虫を殺すように破壊した時代の後、それでも立ち上がろうとした人間はニヒリストだったでしょうか。 ベケットの台本にも「アウシュビッツ」を知った人の言葉があります。彼はペシミストでもなければニヒリストでもない。ただ、神という語を使わなかっただけです。
不在の神。沈黙の神。破壊と殺戮に明け暮れた20世紀に、あらゆる分野の芸術家は表現に委曲をつくしました。演劇も文学も、美術も音楽も。旧来の書法では「現代」は描けない。時代から遊離した作品は時代を超える生命を持ち得ない。第二次大戦後、イギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテンは、戦争そのものを語った正攻法の傑作『戦争レクイエム』を書きましたが、もともと神に祈る典礼聖歌を脱して、このレクイエムは人間に祈る音楽です。あるいは人間を祈る。その音楽が鳴り響く「現在」、地上に生きる人間を祈る。
また、アメリカへ渡ったユダヤ人の作曲家アルノルト・シェーンベルクは戦後『ワルソーからの生き残り』(1947)を書き、最晩年には旧約聖書の世界を描く未完のオペラ『モーゼとアロン』(1930~1951)を完成に向かわせました。いずれも書かずにはいられなかった曲。無調や12音の抽象的な音楽しか書いてないと思われがちなシェーンベルクには他にも『コル・ニドライ』(1938)や1950年の連作『千年を三たび』『詩篇 深き淵より』『詩篇 神よ、すべての民は汝を讃える』などがあるのです。
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日本には日本の八百万(やおよろず)の神々がいます。 2012年11月3日の古事記編纂1300年記念事業《文化の日の演劇と公演の2時間半》は、芦屋神社宮司の山西康司さんがあたためられていた企画を実現させたイベントでした。神道界にも世代交代が進んでいます。戦前の軍事と一体になった国家神道を懐かしむ人たちは、いまの神道界にどれだけ残っておられるのか。そんな浮世離れしたことよりも人の中で、人と同じ地平に立って神道を語りかけようとする祈りが篭められた催しになりました。 鈴鹿千代乃さんは国学院で学ばれました。現在は神戸女子大学文学部教授で、古事記学会理事、神道宗教学会理事を歴任。『神道民俗芸能の源流』(国書刊行会)を上梓されています。講演「古事記について」では、いきいきとその世界を語って下さいました。その前座として、私たちも「古事記」にちなんだ芝居をやりました。
この芝居は古事記の話をそのままお見せするといったものではなく、日本の近代の知識人や詩人、民話の研究家などの真摯な対話を通じて「古事記」の精神を浮かび上がらせるものでした。
芦屋神社の山西宮司は、このイベント案内のちらしに書かれています。 「この1300年の間、世の中は常に変化を求め、そして目まぐるしく移り変わってきました。特に近代・現代の変化は凄まじく、感謝する心やモノを大切にする心、敬う心や助け合う心といった、古来より日本人が育んできた良風美俗の精神も、今や失われつつあります。 そんな中、超高齢化社会や景気の低迷、領土問題や国防政策、自然災害や放射能汚染、自殺や引きこもりなど、公の果たすべき役割や私の果たすべき役割がとても大切になっています。 芦屋神社では古事記編纂1300年記念事業として、古事記に描かれた世界観、人間観といったものを見直し、更には現代社会を生き抜く英知を探ろうと考え、(中略)会を企画致しました」。
「古事記」(712年)と「日本書紀」(720年)は、成立の経緯や内容も異なる書物です。古事記にある、稲羽の素兎(いなばのしろうさぎ)をはじめとして、大国主(おおくにぬし)の説話が、日本書紀にはないのです。そして「正史」とされてきたのは「日本書紀」なのです。
大国主は「国譲り」をしました。天照大神を中心とする神々が大国主に地上世界の統治権を譲るように求め、大国主は和譲の心でこれを認めます。その折に大国主は神々の世界を統治することになり、旧暦10月(出雲では神在月)に大国主のもとに参集することになったと伝えられます。 古事記は偽書扱いされたこともある始末。この間の事情については諸家による諸説がいまも繰り広げられています。 権力と結びつくからややこしい。神話は神々の物語であって、そこには危機から脱する知恵と勇気、おおらかな笑いもあり、子供たちも判りやすい現代語で読めばいいと念じるばかりです。
本年2013年は、この世を司る天津神(あまつかみ)として天照大神を祀る伊勢神宮と、あの世を司る国津神として大国主大神を祀る出雲大社が揃って遷宮を迎える年です。霊峰富士も世界遺産になり、近年は世の中の「生きにくさ」を反映してか、霊的な力を求めてその場へ行く旅が流行っているようです。でも、まず地元の氏神様へ。芦屋神社は天穂日命(あめのほひのみこと)が御祭神です。
天穂日命は天照大神と須佐之男命が誓約した時に生まれた第二子とされる神さまで、出雲の国譲りの際に先遣隊として派遣され、六甲山の頂上にある磐座に降臨し、そこから出雲へ向かいました。しかし使命を帯びて出雲へ向かったものの3年間高天原に戻らなかったため、別の使節が次々と派遣されたので、天穂日命は何もしなかったように見えますが、国譲りの後、大国主神を祀る出雲大社の祭祀を司りました。出雲大社の国造家は天穂日命の子孫と伝えられています。
(芦屋神社)
藝術交響空間◎北辰旅団は2013年3月24日に『哲学者による四重奏「長靴」』という芝居を公演しました。これについては巻末に書きます。
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日本の神話でいえば、スサノオのような烈しさを小田実さんは持っていました。誰よりも激しい情熱と素早い行動力をもって、鋭い言葉で時事を論じ、ときには議員たちを説得しました。 1995年の阪神淡路大震災の被災者を救おうとしなかった国に対して、翌1996年5月に「市民=議員立法実現推進本部」を「小田実/代表 山村雅治/事務局長」で立ち上げ、その後二人でいろいろな文書をつくって何度も東京へ行き、集会、街頭演説、デモを繰り返して、超党派の議員たちとともに、自然災害者に対しての公的援助を行うための法律を成立させました。
具体的な政治の現場、すなわち国会議事堂内や衆参の議員会館内、各政党の本部などに足しげく行っては喋るという戦いには2年半かかりました。神戸の被災者たち、東京での支援者たち、そして議員たちともその日が終わると酒をともに酌み交し語り合いました。
そこで驚いたことがひとつあります。誰一人として(というのが誇張であれば「訊いてみた人は一人残らず」)小田さんの小説を読んだことがないのです。ベストセラー『何でも見てやろう』は、さすがに多くの人に読まれていましたが、あれは小説ではありません。もっともそんなことは運動の上では何の問題でもありませんが、作家・小田実にとっては精神の活動と実践の活動は車の両輪のごとく、分かちがたく結ばれていたのです。
市民=議員立法で動き始めた1996年は、小田さんは64歳の小説家でした。『玄』を書き終えたばかりで、翌1997年は長編『大阪シンフォニー』、『XYZ』、そして『暗潮』など小説の単行本の上梓が続きます。年来構想していたものを完成させたもの、そして新作。遡って震災の1995年には評論のみで小説の出版はなく、さらに前年の1994年には1冊の本をも出版しておられません。震災がきっかけになった、と年度ごとの記録を見てもわかります。
1945年、13歳の少年は大阪大空襲に逃げ延び、累々と積み上がる焼死体の片付けをしながら「難死の思想」を胚胎。「以来、私はすべての秩序はいつかは崩壊するという度しがたい信念の持ち主になった。私の戦争体験は飢えと空襲。」と自ら書いています。1961年、29歳で旅行記『何でも見てやろう』でベストセラー作家になって、1965年「ベトナムに平和を!」市民連合を鶴見俊輔さんらとともに立ち上げ、より広い範囲で知られることになりました。
1995年の震災に、救いを求める被災者に向かって国は動こうとしませんでした。善意の義援金をわずかばかり配分して「こと」を済まそうとする頬被りに小田さんは怒りを覚え、これは人災だ、「これは人間の国か」と叫びました。脳裏には空襲の焼け跡と震災の瓦礫の山が重なって見えていたのです。そこから彼の文学は、あらゆる体験と思念を綜合させた熟成へ向かうことになったのでした。
市民=議員立法運動の渦中に、小田さんはいつも黄土色の手提げかばんを持ち、どこへ行くにも、たとえデモで歩くときにも手放そうとしませんでした。書きかけの原稿が入っていたのです。 往復の新幹線の車中は「政治」の話は一切しませんでした。それをやりに行く往路は、やるべきことは分かりきっているので。また次回の打ち合わせはその場で済ませてきているので復路でもしません。ただ文学や、音楽も含めた芸術の話ばかりしていました。その頃すでに未完となった大長編『河』を書きついでおられ、並行してロンギノスとの共著、評論・訳『崇高について』など古代ギリシアの話が割り込んできたりしました。
どのように書くか。それが修辞学です。レトリックとは皮相なものではなく、むしろ表現の根幹そのもので、何を書くか、はあらかじめ定まっていることです。人の心を激しく揺さぶる表現こそが「崇高」へと導く。学生時代から小田実さんはロンギノスに心を奪われていました。 小田さんの場合は、何を書くかといえば「全体」を書く「全体小説」が短編の場合にも目指されていました。たとえばひとりの男を書く場合、彼はたった一人でこの世に大人として出現した訳ではありません。人は誰しも生まれた時代があり、育った社会がある。つまりどんな人も「歴史」のなかの存在であり、小田さんはその「全体」を書く。
取材は綿密を極めたものでした。足まめに小説の舞台になる土地へ行き、丹念に細部を固めて書き進められました。小田さんには少年時代を過ごした大阪を書く小説がいくつかあります。当時の建物や風景、時代の言葉遣い、人びとの風俗習慣や常識、それらのすべてがそのままに活写されます。作家は人間の生活を描く。そこから読者は何を、どう読み解いていくか。一冊の本が本になるのは、作家と読者の共同作業の結果です。なまの思想や時事問題についての見解は、小田さんは評論に書きました。小説は場所がちがいます。
白黒はっきりしない人間の問題。政治的活動(言論と行動)で問題を片付けるべき時には運動をやる。しかし、それ以外の人間の精神の問題、人生の問題については小説を書く。言葉による虚構作品の力を彼は信じていました。そして虚構を実在とさせる言葉の芸、言葉の術にかけては日本の作家では群を抜くものがありました。 今期も多彩なゲストをお招きして、小田実さんの諸作品を読みました。阪神淡路大震災18年の会にも「読む会」を併催。これらの内容に関してはいずれ機関誌『りいど・みい』第5号に掲載される予定です。下図は最新刊の『りいど・みい』第4号です。昨期の記録をまとめました。お求めは山村サロンまで。頒価は800円です。
(小田実『玉砕』の肉筆原稿・部分)
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演劇に文学に、そして音楽。今期も多彩な音楽が芦屋に響きました。
クレアリー和子さんにはアメリカから世界へ向けて出されたCDがあります。倉本裕基『霧のレイク・ルイーズ』、シューベルト『即興曲』2曲、武満徹『妨げられぬ休息』、ショパンの4曲が収められたものですが、彼女を紹介する資料として『ニューヨーク・コンサート・レビュー』のバート・ウェシュラー氏の”She is a true pianist”で結ばれる文と並び、Yamamura Salon Review(つまり、山村サロン会報です)に私の書いた文章が英訳されて掲載されています。 http://www.cdbaby.com/cd/kazukocleary 1999年後期Vol.22にクレアリーさんのリサイタルについて書いたなかの次の部分です。
「彼女のピアノ奏法は、現在では珍しいユニークなものです。なによりも重力のない空間を珠玉のような音色が転がる妙味は、あまり聴いたことかありません。クレアリー和子さんはフェルッチョ・ブゾーニやヨーゼフ・ホフマンの孫弟子であり、十九世紀末から二十世紀初頭にかけて活躍した大ピアニストの奏法を、正確に継承されているのです」。
英訳文をご参考までに。 “Her piano style is uniquely rare in the present time. Most of all, the subtlety of her pearl-like tones rolling through a weightless space is such as I have hardly ever heard. Kazuko Cleary studied with students of Ferruccio Busoni and Josef Hofmann, and has accurately inherited the style of the great pianists who flourished from the end of the nineteenth century through the early twentieth century. “
久保洋子さんの企画する音楽会シリーズは「20世紀音楽浴」から始まっていますから、足掛け二世紀にわたる(!)壮大な「現代音楽」を浴びる場となってきました。ゲストにはクロード・エルフェやマルティン・ジョストら20世紀の現代音楽の演奏史に欠かせぬ音楽家も呼ばれてきましたが、フルートのアルトーさんは最も来演回数が多い音楽家。1946年生まれですから2012年は66歳。じかに息で楽器を鳴らす管楽器のソリストとしてはすでに高齢といっていいでしょう。奏される音楽は脱力の自在さがあり、大人のゆとりの中に、ときに鋭い精神が閃きます。
久保洋子さんの新作がいつも楽しみです。『プロヴィダンス』、『デリカテス』ともに、近年の諸作品と同じく演奏時間の短い作品ですが、作品の姿が徐々に変わってきました。久保洋子さんは聴こえてきた音と響きに耳を澄ませて、無心に音の運びを追いかけてきました。理屈よりも直観。意志よりも感覚。天恵としかいいようがない音楽作品が溢れるように生みだされてきました。フィギュアの美しさ、あるいは生きる人間が動く官能。そういったものを実感させつつ、しかし音として空中に結ばれたのは凛冽な花の輪郭だったりします。
2012年に感じた彼女の作風の変化は、意志を持った変化ではなく、むしろ久保洋子さんに紡ぎだされる音自体が自ずと生みだしてきた変容といえます。花の輪郭が輪郭だけを保ったまま蝶に変容するといったような。生物の世界にはあり得ませんが、芸術にはときどきそのようなことがある。自ずと堅牢を極めた生きた構造体が立ち現れたのです。彼女の音楽は構造の原理を得たのです。これがいずれは大作に発展していくことでしょう。
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花柳廸彦太(みちひこた)さんは花柳流の日本舞踊の若き師範として、たびたびサロンで会を開かれています。最初のときには、廸彦太さんはまだ20歳代だったと思いますが、若々しいしなやかさは今も同じです。2011年3月に大阪シアターBRAVAへ蜷川幸雄演出の『ミシマ・ダブル』の「サド侯爵夫人」を見に行ったときに、偶然出会って嬉しいかぎりでした。
観世流能楽の「観謳会」は湊川神社の能楽堂が閉鎖されて以来、毎年開かれている仕舞と謡の会です。藤井完治さんは、母が終生師事した藤井久雄師(1907−1997。観世流シテ方。私の少年時代の能楽の師匠でもあります)のご子息であり、お父上そっくりの体型とお声をされています。場内から聞こえる響きは子供の頃に聞こえ、また自分でも声を出した「能楽」そのままで、なつかしい感慨に襲われてなりません。 ……………………………………………………………………………………………… そして年末。3歳上の兄が急逝して喪中になり、お年賀は欠礼致しました。まだまだ早すぎる年齢でした。兄との思い出はいろいろありますが、最近みつけた資料におもしろいものがありました。「壷泉會大會番組」御来聴随意と書かれた能楽の番組表です。日時は昭和33年4月6日(日)午前9時始。場所は大阪市東区上本町1丁目 大槻能楽堂。1958年ですから私は小学校へ上がる直前の日です。その中の「住吉詣」にワキとして山村隆司、随身として山村雅治と印刷されているのです。兄弟共演の能舞台というのはすっかり忘れていました。番組表の後の方に「因幡堂」茂山千五郎 茂山千之丞とありますから、たいへんな方たちと同じ会を務めさせて頂いたわけです。 幼稚園当時は泉嘉夫先生。兄も私も崇信幼稚園で泉先生から手ほどきを受けました。小学校へ上がってから母に連れられて藤井久雄師に師事することになったのです。
私が子供だった頃の家族はもはや私一人だけになってしまった訳ですが、父・母・兄と私の四人が、一時期であれ共通して稽古していた唯一の芸事が 「能楽」です。母、兄と私は謡と仕舞。父は謡。兄弟が手がかからなくなってから、母は小鼓(つづみ)、大鼓(おおかわ)、太鼓、笛の四拍子までを習うことになり、1994年に亡くなる前年まで、それぞれの囃子方の会に加えて、湊川神社の能楽堂(湊川神能殿)で本格的な能のシテ方を演じていました。最後の舞台は1993年10月24日の「松風」でした。
そして、私たち家族の共通の知人に宮原繁先生がおられ、現在もお元気に芦屋まで足を運ばれていることには喜びを禁じ得ません。元・灘高校の数学教師で、非常な能楽の愛好家にして研究家です。「お能には数学に共通した美しさがある」ということで、能狂言に関する膨大な蔵書をお持ちになっています。散逸させてはならないものなので、母の存命当時の山村サロン開設時に「宮原文庫」として併設した部屋に収蔵させて頂くことにしました。
兄は灘中・灘高で宮原先生が、6年間持ち上がり制で担任にして数学の先生でした。私は公立の芦屋市立山手中学、県立神戸高校へ進んだのですが、母の提案で高校時代に宮原先生のお宅へ「数学のレッスン」を受けに通っていました。私は今も「その」数学が好きです。先生の最新の著作『楽我記 蔵ざらえ』は多彩な話題が楽しい一冊です。たとえば、 i-i=√eπ という度肝を抜く式! 虚虚実実! ≒4.8105になることの証明が記されています。
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年が明けてのコンサートの幕開けは、作曲家/サックス奏者 野田燎さんとサクソフォンのアンサンブル・カプチーノのメンバーによるソロ・コンサートと全員の合奏です。野田ファミリーコンサートシリーズXの「X」は、このシリーズの5年目ということです。当初はいまより5年若かったメンバーも年を重ねて力を蓄えました。 『野田燎サクソフォーンリサイタル 朝の光 〜祈りと再生の音楽〜』は山村サロンでも発売中です。頒価は2500円。サロンで録音し、私が解説を書いたCDです。
学校教育の現場で使われている「ピアニカ」が、大人が音楽表現に使う「鍵盤ハーモニカ」としてサロンに初めて登場しました。同時代を生きる作曲家に新作を依頼して、ずらりと初演作品が並びました。 「鍵ハモトリオ」の年来の地道な活動が「日本現代音楽協会」に認められて、新作が公募されたといいます。野村誠氏は「これは、歴史的な事件だと思う」と書かれています。また、こうも。「鍵ハモトリオという編成は、いずれ(ハイドンの時代の弦楽四重奏のような)スタンダードな編成になると思う。多くの作曲家が、これからも鍵ハモトリオの作品を書くだろうし、鍵ハモを演奏するプレイヤーも増えていくだろう」と。お世話いただいたのは作曲家の近藤浩平さんでした。あらためて感謝申し上げます。
今年もデムスさんは、毎年恒例になっている山村サロンでの公演(もう記録を見ないと何回目なのか判りません)を開かれました。1928年12月生まれですから、このときには満84歳。戦後の「ウィーンの若手三羽烏」のひとりだった彼も、いまや最高齢に属するピアニストになりました。
11歳の時にウィーン音楽アカデミーに入学、16歳の1945年に卒業といった早熟の才能をもち、イーヴ・ナット(1890‐1956)、ギーゼキング(1895‐1956)、フィッシャー(1886‐1960)、さらにはケンプ(1895‐1991)、ミケランジェリ(1920‐1995)に教えを受けました。彼の学びの時代には、まだ19世紀生まれの大ピアニストたちも円熟期を迎えたばかりだったのです。 例外的に若いミケランジェリはわずか8歳年長なだけで、兄弟のような年齢差ですが、彼がミケランジェリから何をどう学んだのか、タイプがまったく違うので興味は尽きません。 以前、シューマンの曲についてイーヴ・ナットの名を聞いたことがあります。デムスさんはドビュッシーが大好きで、独墺系のピアニストとしては珍しく全曲録音を残しています。ミケランジェリのもとにいたときには、ことによるとドビュッシーを研究されていたのかも知れません。 芦屋でのリサイタルには、必ずベートーヴェンの後期ソナタの1曲を弾いていただくことになっています。お世話いただく鈴江比沙子先生のシリーズ初回からの提案ですが、今回は「30番 作品109」。そして「21番 ワルトシュタイン」。前半にはシューベルトの「イ長調 作品120」と「即興曲 作品90」。いずれも少年時代から何回も弾きこまれてきた曲にちがいありません。とくにシューベルト。ソナタは掌の中で熟し切った果実のような香りを湛え、「即興曲」にはしみじみと語りかける昔話、あるいは暖炉のそばで表情豊かに繰り広げられるお伽話に惹きこまれるような味わいがありました。 ベートーヴェンにも、とげとげしい葛藤の激しさはもはやありません。人生の「運命」との戦いを過ぎた作曲家とピアニストが溶け合った「30番」。オーロラのように美しい「ヴァルトシュタイン」。
(2012.12.2 ピエール-イヴ・アルトー&久保洋子デュオ・リサイタル)
お休みした年もありましたが、この企画は坂口卓也氏のご尽力によって毎年続けられてきました。阪神淡路大震災後の1997年5月3日のAUBE(オウブ)の中嶋昭文さんのコンサートが初めてで、以来さまざまなミュージシャンが出演しています。 AUBEはノイズ・ミュージック。かつて電子音楽と呼び、1970年の大阪万国博覧会のドイツ館でシュトックハウゼンの作品が演奏されていた、声や楽音・非楽音に電気的な変調を加えて、ひとつの「響きの音楽」にする前衛音楽の一つが、現代では機材も持ち運びできる大きさになって、集まる人たちも「クラシックの現代音楽」愛好家の枠から大きく広がり、ライヴ・ハウスでも楽しめる「ノイズ」というジャンルになりました。
その分野では石上和也さんが、このところ出演を続けられています。まずは何事かが語られる肉声から始まって、お祭りのような響きに達して。 炭鎌悠さんは2011年に続いて2度目の来演。「あ」「い」「う」と発せられる女性の声が変容、発展します。音楽の佇まいに静けさをうかがわせる、女性作家ならではの作品になりました。 通算8度目の来演をして下さった頭士奈生樹さんは、ギターを弾きながら歌を歌う。聴いたことがある歌が、同じ歌であることを保ちつつ、また違った姿を持っています。多彩な表現力が雄弁です。音が光を生み出している。
.es(ドット・エス)は初めての来演。サックスとピアノのデュオで、エス=エスパニョール=フラメンコが彼らの目指す音楽です。フラメンコの原型を、加工することなく洗練させることなく、触れば火傷しそうな「民衆の音楽」が爆発しました。橋本孝之さんのサックス、sara さんのピアノ。それが.es(ドット・エス)です。 また、東京から初めての来演を果たして下さったのは、赤石拓海さんです。お持ちになったのはハーディ・ガーディという珍しい楽器です。シューベルトの歌曲集『冬の旅』の「辻音楽師」が弾いていたのはこれです。現物は見るのが初めて、聴くのが初めて。紡ぎだされた音楽は、さびしさを伴ってなつかしい。 出演者の皆さまと企画の坂口卓也さんに、改めて感謝いたします。
(ハーディ・ガーディ)
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山村サロンのレコード・コンサートは、まず戦前から現代に残されたSPレコードをかける「クレデンザ・コンサート」から始まりました。阪神淡路大震災後に、ある老婦人から「戦災にも焼け残って、震災にも割れずに残ったもので、母の形見です」とSPレコードを一括寄贈していただいたのがきっかけでした。どの図書館も放送局も大学も受け取ってはくれなかった、という数十枚の米国ビクター「片面の赤盤」のなかにはクライスラー、エルマン、コルトー、ラフマニノフ、パデレフスキーらの20世紀初期の名演奏があり、自宅の装置で聴くとその歴史的価値に圧倒される思いがしました。こんなに素晴らしいものは一人で聴いてちゃいけない。みんなで楽しもう、と考え実現させた企画です。「クレデンザ」は米国ビクター社製手捲き式大型蓄音機の名前です。長く続いています。
それから数年経って、震災後にアナログ・レコードを聴き直すに及んで、CDとは別物のLPレコードも皆さまとともに楽しむことを企画し、実現させたのが「デッカ・デコラ コンサート」です。「デッカ・デコラ」は英国デッカ社製ステレオ電気蓄音機の名称で、子供のころに『レコード芸術』誌にデッカ社のプロデューサー/ジョン・カルショーと指揮者/ゲオルグ・ショルティが二人で新盤の『ヴァルキューレ』を聴いている写真を見て、それ以来ずっと手に入れられれば、と願ってきた装置です。30年かかりました。 そして「オペラ」。これはファンの方のご要望にお応えしての企画です。昔は夢のようなキャスティングでオペラの名盤が目白押しでした。 まだまだ続きます。ひきつづき、よろしくお願い致します。
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思えば『ゴドーを待ちながら』をやろうということになったのは、その前の作品が稽古の途中でアクシデントに見舞われ頓挫した苦い体験を経てのことでした。芝居はそれぞれの持ち場で、生きた人間が響きあって作っていくもの。そのなかで持ち場相互での尊敬が、ある部分でも失われたときに「芝居」そのものが瓦解する。瓦解しました。また『ゴドー』直後の一作が外部(芦屋神社)から要請を受けての『命/MIKOTO/MUSUBI』だったことも幸いでした。演劇を普段は見ない人たちにも解る言葉で進めなければならなかったからです。
『哲学者による四重奏「長靴」』は北辰旅団の芝居が、また一皮むけた作品になりました。これまでの重厚な諸作品は、歴史上の人物を丹念に調べ上げ、錯綜する人間模様を描きつつ、その人物が語りかける言葉で現代に警鐘を打ち鳴らす、といった「史劇」が持ち味でした。私の役者デビュー作『宇宙の種まく捨聖』は非現実の「幻想劇」、女性役の『新トロイアの女たち』は平家物語と古代ギリシアが交じりあう「幻想史劇」でしたが、ほかの作品は幸徳秋水、田中正造、プチジャン神父ら実在の人間を造型化した「史劇」作品でした。『命/MIKOTO/MUSUBI』にしても私の役は佐々木喜善という民俗学者で、ほかの役者も折口信夫や柳田国男がモデルになっていたのです。
座長であり作・演出家の北野辰一さんは2013年が転機の年になりました。長らく住んでいた鳴尾の家を離れなければならなくなったという生活上の変化に加えて、作風にも自ずと変化が訪れてきました。これまでの作品は実在の人物の言葉に自らの言葉を託していました。そして最新作『哲学者による四重奏「長靴」』では徹頭徹尾<北野辰一>の言葉しかないのです。登場人物は「ねずみ」「芸人/みみず」「歌姫/道化師」「弁護士/団長」の4人。ちらしの誘い文句にいわく「長靴を履いた猫ならぬゴム長を釣り上げたのは、ねずみ。ゴム長を履くのは、なんとサーカスの団長というお噺」。そうです。これはお伽噺です。
冒頭、ねずみが釣り糸を垂らして獲物がかかるのを待っているシーンから始まります。じっと眺めながら「川の流れ」とつぶやき、心に浮かぶことを述懐しはじめて、思いは釣られる側の魚の立場にまで及びます。そこから釣り上げたゴム長をめぐってのてんやわんやの物語が立ち上がっていくのですが、流れる音楽は「ブンガワン・ソロ」と「リリー・マルレーン」。戦火をさまよいジャングルから生き延びた団長の荒れ事などを経て、一切は登場人物たちのお芝居だったということが明らかにされて幕を下ろします。
次回公演は、2013年12月予定。山村雅治の一人芝居。かねてから複数のお客さまからのご要望があったのと、私自身いつかはやってみたいという気持ちがあったのと、座員の都合上で全員の芝居は2014年春までできそうにないことと、その3つを満たす舞台は、どうやら「山村雅治の一人芝居」しかありません。という訳ですので、その節にはよろしくお願い申し上げる次第でございます。
奈良ゆみさんのこと
ソプラノ歌手の奈良ゆみさんとは、不思議というほかないような交流が続いています。サロンではメシアンの『ハラウィ』を2度歌われ、サティとヴァイルの歌曲で一夜を持たれました。震災後は大阪でリサイタルを毎年開かれるようになり、フェニックス・ホールやモーツァルト・サロンへ都合がつけば行って彼女を聴くことが楽しみになりました。
しかし『ハラウィ』のときに聴いた歌声、その前後に交わした言葉で、すでに彼女がどんな芸術家であるかが分かりました。「いのちに直結する」表現は女性にしか成し得ない種類のものですが、直観、肉感をどまんなかに据えた感覚を通じて、底知れない表現力を展開していくのです。
心底震えたのはシェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」でした。そこにシェーンベルクの魂がじかに燃えていて、血が逆流する思いがしました。そして別の夜の松平頼則。声の超絶技巧、たえず美に向かって脈動しているような息遣い、人間の声の美しさなどというものをはるかに超えて、松平=ゆみの共感運動が至高の美へ向かって無限の色彩を撒き散らしながら飛散する光の動体が閃きました。
最晩年の作曲家・松平頼則氏は、ゆみさんのために多くの作品を書きました。主にパリに暮らすゆみさんに、松平先生は新曲の構想などをファックスで手書きの文字で、膨大な量を送られました。そこには貴重なことが記されています。
それら「松平頼則資料」を順次拙ブログ「Boy after a hundred years」に上げていきます。すでに上げている『想い出が翼を拡げるとき』は最新のCD《声の幽韻》松平頼則作品集V 奈良ゆみ(ソプラノ)ALM Records ALCD-94についての奈良ゆみさんがお書きになった文章です。拙ブログのアドレスは下記の通りです。 http://masa-yamr.cocolog-nifty.com/blog/
(松平頼則 1907〜2001 晩年の画像)
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2013年 8月 15日 発行 著 者 山村 雅治 発行者 山村 雅治 発行所 山村サロン e-mail yamamura@y-salon.com H P www.y-salon.com Facebook www.facebook.com/yamamurasalon
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