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<< Vol. 47 2012後期- Vol.48 Vol. 49 >> |
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ゴドーを待ちながら 1
サミュエル・ベケットの代表作のひとつ『ゴドーを待ちながら』に、私も役者として所属する北辰旅団(正式名称は芸術交響空間◎北辰旅団)が挑戦しました。第28回公演2012年12月9日(日)。午後1時半開演と午後5時半開演の2回公演。会報の次号に載せるべき日付の公演ですが、終わったばかりなので、しかもこの芝居を通じて考えたことがいっぱいあるので、先走って今号の巻頭の文にします。 2012年3月4日に、隠れ切支丹を扱った『奉教の花薫る峠』(第26回公演)をやった後、すぐに平家の落武者を描く芝居にとりかかりました。ところがある理由で行き詰まり延期に。そして気分を一新するために何か西洋のものをやってみよう、ということになり、いくつか座長が挙げた候補作品の中で私は一も二もなく『ゴドー』に賛成しました。大好きなジェイムズ・ジョイスに係わったアイルランド出身の文学者。フランスで活躍しましたが『ゴドー』には自ら翻訳した英語版もあります。 『ゴドーを待ちながら』のフランス語版は1952年に初版が刊行されました。そして初演は翌1953年1月パリのグローブ座で。当時の批評の9割は無視と敵視だったといいます。1割だけが熱狂的称賛でした。その後、アメリカ・マイアミでの初演はさんざんで、初日から客から帰ってしまい、最後まで残っていたのは身内だけ。早々に公演中止になりました。 また、パリ初演にしても「観客たちは、よく分からないので一人立ち、二人立ち、段々お客が還りはじめて、終わったときには演劇関係者の3人ばかりしか残っていなかったとか」という話も聞いたことがあります。ようするにさんざんな悪評のうちに初演の幕は閉じられたわけです。サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」のそして1955年に英語版を完成。上演を続けるたびに次第に好評を得て、初演後5年の間には20以上の言語に翻訳されました。 ちなみにアイルランド演劇の歴史のなかにも「50年代にできたパイク座Pike Theatreは,気鋭の演出家アラン・シンプソンのもと,ベケットの《ゴドーを待ちながら》のアイルランド初演をロンドン初演と同年(1955)に行って気を吐いた」という記述があります。 2 日本で初めて翻訳したのは安藤信也氏。単独訳初版は1956年7月。白水社から刊行されました。「現代海外戯曲」というシリーズの一つです。安堂氏は1953年のバビロン座の『ゴドーを待ちながら』初演を観て取り憑かれ、帰国後、文学座に所属してこの戯曲を翻訳し、1960年に訳・演出で上演にこぎつけました。初演時の熱狂的な支持者のひとりに彼がいたから、日本の演劇もより豊かな広がりを得ることができました。この一作はそういえるだけの衝撃的な力を持っていたのです。 たとえば「劇団民芸」もそれまでは久保栄の『火山灰地』など日本人による新作などを通じて「社会主義リアリズム」を標榜していたかと思えば、翻訳劇も着々と回を重ねて1965年に『ゴドー』を上演しています。先ごろ亡くなられた大滝秀治氏がラッキー役。ポゾーに下条正巳氏。エストラゴンは米倉斉加年氏。そしてウラディミール役は宇野重吉氏が演じました。そのときの日本語訳はフランス留学から帰ったばかりの渡辺浩子氏で、演出家としても初めての作品になりました。 彼女の翻訳は「劇団民芸台本・ゴドーを待ちながら」として古書市場に流通しているようですが、現在書店に並ぶのは安藤信也・高橋康也共訳のものです。フランス語訳と英文訳を突き合わせた、現代の日本語訳『ゴドー』の定番になっています。というより、それしかありません。 北辰旅団の稽古場にあつまる団員に、1965年の安藤信也単独訳の分厚いコピーが配られ、読み始めたのは7月の中ごろに入ったころだったか。あまりに長大な作品なので、一回やってもあまり進みません。みんな仕事が終わってから駆けつけるので夜の数時間ずつを重ねていってもなかなか作品の全貌は見えてきません。それにこの段階では配役が決まっていないので、どの役をすることになってもとにかく全員が何を言ってるかを学ぶほうが大切なのです。11月の公演をめざしました。 8月になっていたと記憶しますが、私が氏子である芦屋神社の山西宮司から「山村サロンで『古事記編纂1300年記念行事』をしたい。演劇もして頂ければ」という話があったので、急遽それを引き受けることになりました。それは11月3日の第27回公演『命/MIKOTO/MUSUBI』に結実することになるのですが(次号で扱います)、『ゴドー』の公演は12月9日に延期することにしたのです。 3 『ゴドー』に専念できたのは、わずか1か月余り。『命』公演直後の稽古場で早速に配役が決まりました。私はウラディミールです。これはやりがいのある役です。友達のエストラゴンとともに全編出ずっぱりで喋りまくる。登場人物は5人ですが、まずこれがひとつのペア。もうひとつのペアがポゾーとラッキーで、このペアは社会の構造を圧縮した「主人と召使」、あるいは「独裁者と命令される民衆」の戯画になっています。5人目が男の子で、ゴドーからのことづてをウラディミールらに伝えにきます。 上演には全編やってしまえば推定で4時間以上は(われわれの力では)かかるものと思われるので、上演台本は2時間余りになるくらいに切り詰められました。省略部分にもペアが語られた場面がありました。ウラディミールがエストラゴンに聖書のなかのエピソードを語る部分です。二人の泥棒というペアの「泥棒のうち一人は救われたんだ。これは率としちゃあ悪くない」というウラディミールの言葉に暗示された物語を、その後でとうとうとエストラゴンに語る場面があります。劇のほとんど冒頭部分です。 「そいつは、二人の泥棒で、救世主と一緒に磔刑(はりつけ)になったんだ。ところが一人は救われて、もう一人は……地獄だ。どうしたことか、四人の福音者のうち、そういう風に事実を伝えているのはたった一人なんだ。しかし、福音者は四人ともその場に居合わせていた。それでいて、泥棒の一人が救われたといっているのは、そのうち、たった一人だ」。 「四人のうち一人。あとの三人のうち二人はなんにもいってない。もう一人は、泥棒が二人とも悪態をついたっていうんだ。救世主にさ。なぜって、泥棒二人を救ってやろうとしなかったからさ。で、二人とも地獄行きさ。ところが、他の福音者は、一人は救われたっていっている。 四人とも一緒にいたんだぜ。一人だけが、泥棒一人は救われたという。他の三人より、そいつを信じなけりゃあならんのはなぜだ」。 救われた一人の泥棒と、地獄へ墜ちた泥棒と。暗示的な部分です。 聖書からきた台詞はもう一か所、第2幕に四人ともが泥の中で横たわるときに、ポゾーの名を疑い別の名で呼んでみようと、エストラゴンがわめくポゾーに「アベル!アベル!」と呼びかけますが、ポゾーは「ここだあ!」と返事する。ウラディミールは「その話はそろそろたくさんだ」とため息をつきます。エストラゴンは次に「カイン!カイン!」と呼びかけると、またポゾーは「ここだあ!」と返します。エストラゴンの「それじゃ、全人類だ」という言葉に篭められたベケットの狙いは深い。神に愛されたアベルと、嫉妬して弟アベルを殺したカイン。カインは楽園を追放されたが生かされて、息子エノクを得ました。それがアダムとイヴの息子たちの物語ですが、人は皆カインの末裔なのです。 ですから『ゴドーを待ちながら』 <En
attendant Godot>(仏)、<Waiting
for Godot>(英)の「ゴドー」は、GODに由来する名に他ならず、「神を待つ人間」の物語と言い切ることができます。1952年の作品は「アウシュビッツ以後」であり、1906年生まれのベケットは、1940年にナチス・ドイツがパリを占領後、大戦中、フランスのレジスタンスグループに加入してナチスに対する抵抗運動に参加しました。戦後に生き延びたベケットは『ゴドーを待ちながら』にも、戦中に見ただろう風景、考えただろうことを示唆するような会話を入れています。 まずエストラゴン「だが、俺たちに、考えるなんてことがあったかな?」ウラディミールが返す。「じゃあ、みんないったい、どこから来たんだ、この死骸は」。以下は対話。「この骸骨は」。「それだ」。「少し考えりゃよかったんだ」。「一番最初にね」。「死体の山だ、死体の」。「見なきゃいい」。「つい目につくから」。「そりゃ、そうだ」。「こんなになってもな」。「こんなになってもさ」。「ひとはすべからく自然に帰るべきだ」。「そりゃもうやってみた」。「ああ、そうか」。「なにも、それだって、最悪の事態じゃあないさ、もちろん」。「ただ、しなくてもすんだろうにということさ」。「だって、仕方がないだろう」。「わかってる、わかってる」。 あるいは、上演台本に残ったこの部分。深い。 まずエストラゴン「為を思ったら、俺を殺さなけりゃいけないんだろう、ほかの奴と同じだ」。 この「為を思ったら」という言葉は、それより前のポゾーが年取ったラッキーを「厄介払い」しようとして、サン・ソヴールの市場に連れて行き、「なんとか、うまく売り払いたいと思っとる。本当をいえば、こんな生き物を、追い出すなんてことは不可能だ。為を思ったら、殺すより仕方がない」。 ナチス・ドイツの思想。あるいは、体のいい大虐殺を肯定する思想です。それを覆そうとする落日の権力者がいて、この言葉。ポゾーは「人間」なのです。だからこそウラディミールは本気でポゾーに怒る。召使のラッキーに対しての鞭と有無を言わせぬ命令しかしない態度に、同じ人間として対等の立場で。「恥知らずにもほどがある!」。「仮にも人間をこんな扱い方をするなんて……わたしはとても……人間をだ……全く、恥も情けもありゃしない」。 エストラゴンの「為を思ったら―」に、ウラディミールが「ほかのって、どの? え、どのだ?」と訊きかえします。作中で最も美しい場面のひとつです。以下は対話。 「何十億のほかの奴らさ」。「人おのおの小さき十字架を背負い、か。つつましくくらして。だが、ゆきつく先は」。「まあ、それまで、興奮しないでしゃべることにしよう。黙ることはできないんだからな、俺たちは」。「ほんとだ、きりがないな、わたしたちは」。「それというのも、考えないためだ」。「いいわけはあるわけか」。「聞かないためだ」。「みんなもっともだ」。 「死んだ声はみんな」。「それは羽ばたきの音だ」。「木の葉のそよぎ」。「砂の音」。「木の葉のそよぎ」。「それは、みんな一度に話す」。「みんな勝手に」。「どちらかというと、ひそひそと」。「ささやく」。「ざわめく」。「ささやく」。 「なにをいってるのかな、それは」。「自分の一生を話している」。「生きたというだけじゃあ満足できない」。「生きたことをしゃべらなければ」。「死んだだけじゃあ足りない」。「ああ足りない」。 「それは、ちょうど、羽根の音のようだ」。「木の葉のようだ」。「灰のよう」。「木の葉のよう」。 これ以上に雄弁に戦後のヨーロッパを生きた人間としての詩を、演劇で書いた人はいません。 4 戦中のベケットはレジスタンスの活動中、パリに潜伏。ゲシュタポの捜査が迫り友人が逮捕されたのを機にナタリー・サロートの家の屋根裏に隠れつづけました。その後、パリから脱出。放浪後に落ちついたのがヴォクリューズ県のルシヨンで2年半もの期間、彼はそこで過ごしました。フランスの南東部にあるワインの生産地です。 『ゴドーを待ちながら』にもその地の名前が出てきます。 ウラディミールがエストラゴンに、木一本しか生えていない舞台の上で、「それでもまさか、ここがル・ヴォクリューズに似ているっていうつもりじゃあないだろう。やっぱり、ずいぶん違うじゃあないか」。「ル・ヴォクリューズ!誰がル・ヴォクリューズの話をした?」「しかし、ル・ヴォクリューズでは、一緒だったじゃあないか。こいつは絶対に間違いない。わたしたちはぶどう摘みをした。ほら、ボネリーとかいう人の家で、ルシヨンの」。「そりゃ、そうかもしれん。だが、俺は、なんにも気がつかなかった」。「あの辺じゃ、なにもかもまっかだ」。 他の部分では、エストラゴンがデュランス川に身投げしたことも語られますが、それもヴォクリューズ県に流れる川で、アヴィニヨンの南でローヌ川に合流します。 この作品は「前衛劇」、あるいは「不条理演劇」と呼ばれてきました。彼の前にこのような演劇を書いた人はいない。しかし、彼が戦中になにを考え、なにと戦ってきたのかを表現しきるには―演劇としてこうした造型に到達するには―戦後なお7年という時間がかかったし、これでも切りつめられた言葉ばかりなのです。 ナチス・ドイツが何をしていたか。その全貌は戦後の数年間で徐々に明らかにされてきました。全ヨーロッパの知識人や芸術家は震撼しました。たしかに手法は、心象の流れを描くもので随所にジェイムズ・ジョイスに通じるものがあり、分かりづらいのかも知れません。しかし、同じく随所に散りばめられてあるのは、こうした造型の流れる時間でしか言えないベケットの肉声です。それはしばしばウラディミールを通じて語られました。たとえば、こんな風に。ポゾーとラッキーを見送ってから。 「わたしたちは決してわからないよ、誰にも。同じ人間でないとしたら別だが」。あなたは、わたしと同じ人間だろう?と。 5
『ゴドーを待ちながら』について書いていれば、きりがなくなります。次号にも持ち越すことにします。 さて、日本の作家・評論家の小田実は1932年生まれ。サミュエル・ベケットよりも26歳下です。彼は大阪大空襲に逃げまどう少年で、13歳のときに終戦を迎えました。そのときの死屍累々たる大阪の焼け跡の景色と臭いのなかで、徐々に思想と文学を形成してきたのです。 日本の戦後文学は、やはり戦争を経てきた世代が書き始めました。そのなかで小田実は年少の世代に属していたのですが、「原爆以後」の日本と世界について彼の世代では彼以上に鋭く問い詰め(『難死の思想』など)、彫り深く小説に表現した人はいません。(『HIROSHIMA』など)。 上に掲げた催事の中で日頃の「小田実を読む」のメンバーでなく、とくに遠方からお呼びしたのは、まず7月21日の鎌田慧さん。彼は阪神淡路大震災後の自然災害被災者への公的援助を求める「市民=議員立法実現推進本部」(代表・小田実 事務局長・山村雅治)の出した提言に、東京の知識人としては真っ先に賛同署名を寄せてくださいました。 じっさい、あのときの東京の彼らの動きの鈍さはお話になりませんでした。震災が「自分の問題」として「津波」のように押し寄せるには、彼ら東京の知識人たちは赤子のような想像力しか持ち得なかったからですが、「他人事」として動こうとしなかった彼らのなかでの鎌田慧さんからの署名は、小田実への書簡に記された丸山真男さんのそれとともに忘れられない筆跡のひとつです。望外の人として、ちばてつやさん、山室静さんらのそれらとともに。 そして、もうひとりは10月20日の浅野健一さんです。同志社でも教えられるジャーナリスト。いま最も耳を傾けるべき発言をしている人、小田実とも心を交じり合わせた人として。彼ら二人のサロンでの発言、現代の日本への提言は、いずれは『りいど・みい』次回号に掲載されることでしょう。われら「小田実を読む」の会誌『りいど・みい』最新の第3号が発売中です。私は特集「小田実と民主主義」に係わって、阪神淡路大震災後の彼と私が戦略の楕円の両極になって進めた「市民=議員立法実現推進本部」の運動の現場について書きました。ご興味がおありの方はサロンまでお問い合わせくださいますように。 この号に掲載されるこの期間、私の出番はどうしたことか、ただ一度だけでした。本当にどうしたことなんだろう! そうだ、私は『タコを揚げる』を読んだ。世界には、日本には、どうしても自分自身をもっと遠くへ、タコを揚げるように飛ばしたい人間がいる。そして、ついには糸が切れて、自分が糸の切れたタコになって遠くへは行ったものの無残に地面に叩きつけられて壊れて果ててしまった人もいる。ベトナム戦争に従軍した米兵が日本で戦争をリタイアして脱走兵になった。小田実ら「べ平連」は必死で彼らを助けた。それが物語の核になって。 6
秦はるひさんは中学の同窓生で、おまけに横井和子先生の教え(それは二人は別の。彼女はピアノの。私は音楽の)のもとにある、という仲ですから、もう切れても切れても忘れてるうちにまた繋がってる、という音楽の友達です。彼女が望めば、いくらでもサロンを使ってよ、という。私が開けば彼女は突っ込んで爆入してくる。これはいわば幼馴染みの呼吸で、とても幸せな腐れ縁ともいえます。僕は中学生のときに文化祭で秦はるひさんが弾いたベートーヴェンの「田園ソナタ」を認めた。だから、今になっても彼女のいうことは聞く(笑)。 彼女は「本番」である東京公演の前に、いちばん懐かしい横井和子先生がお聴きに来てくださるかも知れない、または私の批評を楽しみにして芦屋で弾かれます。彼女ほどにできた、あるいはできる大家が、なお前進しようとしてこれらの演奏会を開いて下さったこと、それ自体に私はすでに涙の出る思いがしていました。人間に、芸術家に、完成はないのだ、との迫力に。 嬉しかったのは東京公演は好評理に終わったことです。それよりも何よりも、書いておかなければならないのは、秦さんが横井先生とおなじく同時代を生きる作曲家の作品を採りあげられることです。最近ではきわめて若い作曲家の作品が彼女の委嘱作品として演奏されます。秦さんの同年代の作曲家たちは、もはや大家の仲間入りを果たしていることもあるのでしょう。彼女は相変わらず「今日生まれてきた」ぴちぴちとした新しい音楽への興味を失いません。6月8日に演奏された横山未央子さんの作品がそれでした。 また9月5日にはオール・ドビュッシーのプログラムでしたが、この日には彼女が共演者としてお連れ下さった若いチェリスト・夏秋裕一さんと、バリトンの安蔵博さんとの出会いがこの上なく嬉しいものでした。もはや同世代の音楽家の仲間と脇目も振らずに走る時代は、今は昔の物語。ソロの随所になおぎらつく牙も力も失わないでいて、悠々として後進を鍛え上げ育てていく彼女の「定年退職後」の時間は、豊かな実りをそこかしこに生らせていくことでしょう。 「人はゆっくり年をとる」。これは『ゴドーを待ちながら』の大詰め近く、ウラディミールが最後にしみじみと語る長台詞に一節です。しかし、なお私たちは道なかばにあり、しかもまだまだ時間があると思える年齢にあります。 7
このシリーズには絶賛を惜しみません。後続の世代のピアニストがほとんど20世紀の音楽について無力であると断言できる現在、40歳を越えて悠々と21世紀を歩む大井浩明さんは、ここから未来へと鋭いアタック、あるいは声低く親密にピアノを奏でる「たったひとりの人」です。 彼はクラヴィコードでバッハの『フーガの技法』を弾きました。また時代の変遷に応じて楽器を替えてベートーヴェンの『ソナタ』全曲を弾きました。同じくモーツァルトも。そうした古典の走破とおなじように最近の彼は日本と世界の現代を踏破しようとしています。古典を弾くときも彼はその時代の、そして現代にも生命を失わない「現代音楽」として鮮やかに甦らせたのです。そして20世紀以降の音楽ももちろん。死んだスケルトンを展示する博物館趣味とは無縁であり、彼はどの時代の作品であれその時代の「現代」を烈しく生きようとする。これは桁外れの渇望です。 時代を深部から揺り動かし、新しい地平を切り拓こうとする力を持った作品は、音楽であれ美術であれ文学であれジャンルを問わず、演劇『ゴドーを待ちながら』のごとく、9割が無視・悪罵・嘲笑、1割だけが熱狂的な賞賛を受けてきたのが、いわば芸術の歴史の常態でしょう。ベートーヴェンさえしばしばさんざんな悪評を浴びてきたことをご存知ですか。彼は生きていたときは「楽聖」でもなんでもなく、ただ不機嫌で短気な男にすぎませんでした。しかし、彼の書く音楽は異常な力を秘めていました。それだけの強い力を持つ芸術家から、また次の世代の芸術家へのバトン・リレーがなされてきて現代の芸術があります。ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンは同時代を呼吸した作曲家ですが、目にもとまらぬ素早さで行われてきたバトン・リレーの鮮やかさ。 シェーンベルク以降の無調、そして12音以降の音楽は1970年頃までは確実に「現代音楽」の領域に斥けられていました。9割が「わからない」という恐ろしい音楽の一群のなかに。しかし実はそこにも「ゴドー」がいた。ブーレーズは口を極めてシェーンベルクを「殺そう」としましたが、その実、彼の「第1ソナタ」には紛れもないシェーンベルクの刻印があり、いちばん好きだから最も憎む対象になる、という逆説のバトンリレーもまた正当なバトンの受け継ぎ方だった。その事実を示して余すところがありません。 ジョン・ケージはアメリカでシェーンベルクに学んだ学生でした。彼の生誕100年をサロンで祝えたことは、心から嬉しいことでした。なぜなら私のなかにも彼はいるからで、そのひとつは煮詰まってきた頭でっかちの秀才諸君に向って「おい、力を抜けよ!」と呼びかけた彼。ピアノの前に座って何もしない『4分33秒』が20世紀のピアノ音楽の最高傑作のひとつであることを失わないのは、欧州の諸君への苛烈な呼びかけがそこにあったからです。彼はしかし、ブーレーズに驚いた。おそらくは打ちのめされた。 そこから彼がどんな音楽を書いたか。それを順ぐりに示していったのが、このコンサートでした。最も激烈に、痛烈にピアノが呻き、叫ぶ、あの瞬間にもケージは「おいおい、俺はそこにいないよ」と、ひらりと身をかわしていたかも知れません。20世紀のすべての分野の芸術は、いわゆる「近代的自我」との戦いでした。それに対局する「無我」とはなにか。 第1夜は大井さんと同世代の片岡祐介さんの新作が演奏されました。そして第2夜は、大胆にも、しかし最も適切にエリック・サティが組み合わせの支柱に選ばれました。ジョン・ケージと。ほかにはカウエル、譚盾、そして副島猛さんの新作。大井浩明さんも同時代の日本の作曲家を積極的に演奏します。いや、すべてのステージに立つ演奏家はそうあるべきです。 第3夜は韓国の作曲家たちを柱にして組み上げたプログラム。尹伊桑、姜碩煕、陳銀淑の諸作品に並列された高橋悠治さんの『光州1980年5月』!コンサートの冒頭はシャリーノ、前半の最後にファーニホウ。そしてこの夜にも横島浩さんの日本人の新作が、締めくくりとして演奏されました。 8
何年ぶりになったのか。決して忘れられないソプラノ歌手・秋定典江さんの声を不意の電話で聞いたのは。秋定さんは阪神淡路大震災など起ころうとは夢にも思わなかった幸せな時代に、鬼塚正勝さんのプロデュースするコンサートの一環として、超弩級のイタリア・オペラの声を聴かせる歌手としてサロンに現われました。事実、彼女はイタリアのプリマドンナであり、惜しむらくは凱旋東京公演がただの一度しか開かれなかったこと!日本人のいったい何人の音楽ファンが彼女の名前を耳に刻んでいるのか。いずれにしても、これは鬼塚さんの超ファインプレーでした。2012年にもなお、私と秋定さんは結ばれていたのだから。 聞けば、彼女のイタリアの友人のお嬢さまが素晴らしくピアノを奏でる音楽家であること。そして彼女が選んだパートナーのニコ君がまた素晴らしくチェロを奏でる音楽家であること。舞台から引退されたプリマドンナは、今は教育、後進を育てることに情熱を注がれています。その彼女が「是非、山村サロンで!」と望まれるのですから、これはお引き受けしました。 結果はどうだったかといえば、それはまた上々のものでした。まず、若い二人はプログラムを音楽の歴史に即して考え抜いていた。ここからして、ただの二人じゃないと思いました。一度も聴いたことがない未知の若いデュオに対して。もともと私は聴いてその実力を認めた人にしか「山村サロン主催」を名乗りませんでした。秋定さんの耳に賭けた試みは、実現したコンサートの第1音から既に雄弁に聴衆に語りかけられていました。彼女と彼の末長い活躍を祈ります。 9
パラシュケヴォフさんは久々の来演でした。今回は若い日本人のピアニスト、有馬みどりさんを音楽のパートナーとして。この企画は年来の知己である関口美奈子さん(元大阪フィルの第1ヴァイオリン奏者)の考えたものでした。私は以前から有馬さんのピアノは聴いてきていて、いずれはサロンでソロのリサイタルを、と願っていましたが、いわば前哨戦がこのような素晴らしいかたちで実現したのです。有馬さんにとって、これはまたとない合奏の機会。中学卒業後、単身ロシアへ渡り国立モスクワ音楽院ピアノ科に学び、卒業。ドイツ・オーストリアの巨匠たちの音楽を極めていくための一里塚になったことでしょう。 パラシュケヴォフさんはブルガリア生まれでソフィアとレニングラードに学んだあと、ウィーン、ジュネーヴでヘンリック・シェリングに師事。1973年からウィーン・フィルのコンサートマスター、1975年からケルン放送交響楽団の第1コンサートマスターを務めました。1980年と1983年のケルン放響の来日公演にも参加。故・若杉弘氏の名前を出すと彼の顔がほころびました。またウィーン・フィルではカラヤンの演奏会やレコード録音のときの思い出を前回だったか、お聞きしたことがあります。 プログラムは私のとくに希望したのが、ブラームスです。3曲あるヴァイオリン・ソナタのどれか。選ばれてきたのは「第3番」だったので唸りました。ブラームスの室内楽には、ときに「地上で最も美しい音楽」と思わせますが、作品108のこの曲もそうです。第1楽章の第1主題からすでに人間感情から抜けきった、豊饒な音楽の世界が拓かれていきます。いつの日にかブラームスの「ヴァイオリン・ソナタ」3曲だけで一夜をもってみたいものです。前半のシューベルト、ベートーヴェン『春』、締めくくりのチャイコフスキー、もちろんブラームスにも満場のお客さまから惜しみない拍手が送られました。 10
阪神淡路大震災後の2年半にわたる、「自然災害被災者への公的援助をする法律をつくる」運動(市民=議員立法実現推進本部を中心にした市民運動)の過程のなかで、いろいろな人と親しくなりました。超党派の国会議員を「その一点において」結集して頂いていましたから、私の友人は左右両翼に跨ります。そして、一度「その一点において」友達になった人はいつまでも友達です。この催しは、当時芦屋で頑張っていた元共産党市議の女性から「会場をお借りしたい」というお話に応じて、お手伝いいたしました。 池辺晋一郎さんは誰でもが知っている作曲家です。彼が現われると場内の空気は一変して明るくなりました。ピアノ演奏を随所に挟み込みながら音楽について、また作曲について分かりやすく話を進めて行かれました。 たとえば『木曽のなーあ なかのりさんは』の節をピアノで弾いて「この曲は英語でBasic
melodyって言うんです。基礎の音楽。ウソです。あはは、木曽節ですね」。池辺晋一郎氏はこんな駄洒落で場内をなごませつつ、です。それにつけても、なんと駄洒落がお好きなこと。場内はしばしば爆笑に包まれつつ池辺先生の世界に惹きこまれていきました。 11
年1回の山村サロン女声合唱団の公開演奏は、6月のこの枠だけになっています。「典礼聖歌」を含む大きな演奏会は、もうしばらくお待ちくださいますように。この日は最後に演奏した『信じる』(谷川俊太郎・詩 松下耕・曲)にかけていました。力は付けてきています。また、昨年から始めた私の朗読は『海潮音』から。西洋の詩の日本での受容のひとこまをお伝えしたかったわけです。山田耕筰も『あわて床屋』で明治の音楽創造の成果として。 12
旧知の越賀隆之さんが開かれた能楽の会。まだ若いころ、サロン創業時に能舞台で仕舞の稽古をされた時期があります。なつかしい限りだったのですが、じつは作曲家/ピアニストの久保洋子さんの仕舞などの師匠になっておられて、久保さんからは前々からそのことを聞いていました。しかし、あろうことか、久保さんはこの日はパリにいて、この会はお休み。彼女の仕舞を拝見するのは次回に持ち越されました。 それにしても越賀隆之さんは堂々たる能楽師になられたものです。現在もなおこれだけのお弟子を育てられ、次の世代へ伝えることも抜かりなく。益々のご発展を祈るばかりです。 13
神戸室内管弦楽団を指揮しておられたゲルハルト・ボッセさんが亡くなられました。芦屋に集まる皆様のなかから最近新譜として出されたLPをかけてくれないか、というお申し出がありました。当日は制作者の吉澤夫妻もお聴きに来られ、ファンの皆様にご紹介できて幸せでした。後半はコンヴィチュニー指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウスの『運命』。ボッセさんはこのときコンサートマスターとして弾いていたのです。 オペラもクレデンザのSPコンサートも続いています。まだかけていない音盤がいっぱいあるので、みんな元気でいつまでも聴いて参りましょう。
SPもLPもCDも、すでに手に入らなくなっているものは多いです。まあ、SPとLPは「全て」中古品店に行かなければ手に入りません。ネットで買うのも手なのですが、やはり高価に値が張るものは現物の状態を確かめたいものです。神戸には老舗の「らるご」がついに昨秋店舗をたたみましたが、私は同店からどれだけの恩恵をこうむったか、測り知ることはできません。 神戸に残るクラシック専門の中古LPの唯一の店は、元町の「ディスクガーデン」だけになりました。寂しいかぎりです。 大阪にはしかし、なお何店かの中古LP、中古CD店が生き残っています。その中には潰れては再建を繰り返した逞しい主人がやっている店『WALTY』もあります。そして、行けば必ず掘り出し物があり、店内に芝居のポスターを張ってくれて、じっさいに見に来てくれたのは『名曲堂 阪急東通店』のマスターです。 彼が山村サロンで「2013 新春 中古ディスクセール」を仲間と共に開きます。2013年1月25日(金)から27日(日)午前11時から午後8時(最終日午後6時)。参加店は、キングコング(大阪)、ストレイトレコーズ(大阪)、○か×(大阪)、名曲堂阪急東通店(大阪)、レッドルースターレコード(東大阪)、ドロップスレコード(千葉)、エボニーサウンズ(東京)です。クラシック・ジャズ・ロックから演歌・民謡まで全ジャンルを網羅しています。音盤ファンの方は、どうぞお見逃しなく! 二つの個展 松井美保子個展 2012.9.27−10.2 ギャラリーほりかわ(神戸) 私をモデルにたくさんの絵を描いてこられた松井美保子さんが、神戸三宮の昔からある画廊「ギャラリーほりかわ」で個展を開かれました。風景、静物、人物など描かれる対象は幅広いですが、モデルとしては「私をどう描かれるか」は、とてもエキサイティングです。最近の作品、とくにひとりで座っているものなどは顔はあまり似せて描かれていないのですが、それを見た「ほりかわ」の画廊主が「あ、これ山村さんですね!」と。つまり画家は「全体として」私を正確に描写することに成功していたのです。いろいろな人のつながりがあったことを幸せに思います。画廊主は芦屋神社宮司の山西さんの奥様であり「古事記編纂1300年事業」の芝居を目前に控えたひとときでした。 石阪春生 墨彩戯画展 2012.10.18−28 ポートピア・ギャラリー(神戸) サロンを開いたときに亡母の妹・加納多恵子の紹介で石阪春生さんに出逢い、大きなアクリル画(『五人の像』100号)をホールに掲げ、女性が描かれた小さなデッサンをラウンジに掛けました。『五人の像』は代表作の一つで、2003年に刊行された『石阪春生画集』(神戸新聞総合出版センター)にも掲載され、2006年の小磯記念美術館での石阪春生展に貸し出しもされました。 芦屋の朝日カルチャーで教えられる日々も終わって、なかなかお出会いする機会がなかったのですが、この『墨彩戯画展』の案内を見たときに、なにか血が騒ぐのを感じました。彼は80歳を越えて、なお新しい造型を遊ぼうとしている! 先にじっくりと場内に展示された作品の一つ一つを見ました。そこには驚きがあり発見があり、何か兜のようなものを脱ぎ捨てた自由と遊びが息づいていました。ブラヴォー! ホテルの玄関ロビーで、やって来られた石阪さんを見つけたときの喜び!もう讃辞をお伝えするほかなく、ギャラリー内ではいろいろな話に花が咲きました。嬉しかったのは、私のつくったコラージュを誉めて下さったことを覚えておられたことです。ふつうは年少の方だけがこういうことは覚えていて、年長の方は忘れてしまっているものだと思いますが、サロン外壁の大判ポスターに自作のコラージュをつくることが楽しみだった時期のこと。 思えば、私にはかけがえのない「美術」の先達にも友人にも、いつも恵まれてきたように思います。伊藤継郎さんはすぐ近所にお住まいでしたし、小学生になったら市民会館の『芦屋市展』を見に行けといわれ、行けば吉原治良ら『具体』のメンバーの作品がずらっと並び、その本人たちもいる。ハナヤ勘兵衛の孫や小出楢重の孫とは親しい同級生でした。だから(いや、だからというのもおかしいですが)、私はいつも美術からも目が離せません。この『墨彩戯画展』は本当によかった! なによりも前進してやまない、苛烈な芸術家の魂を実感させていただいたからです。 *芦屋市立美術博物館では2013年1月5日から2月17日まで「具体躍進」と「芦屋の画塾 芦屋のアトリエ」展が開催されます。* 中西薫、小山泰三両氏らによって兵庫県篠山市から発刊されている。芸術文化誌『紫明』(紫明の会刊)に拙文を掲載させていただきました。
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2013年 1月 1日 発行 著 者 山村 雅治 発行者 山村 雅治 発行所 山村サロン e-mail yamamura@y-salon.com H P www.y-salon.com Facebook www.facebook.com/yamamurasalon
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