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<< Vol. 46 2012前期- Vol.47 Vol. 48 >> |
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信じる
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1549年(天文18年)8月15日、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルは鹿児島に来ました。その後9月29日に領主・島津貴久にキリシタンの教えを説いてから一年あまりの間に、洗礼を受けた日本人は100人ほどと伝えられています。彼はまず各地の戦国大名たちに領内での布教の許可を求め、さらに布教を円滑に進めるために大名自身に対する布教も行いました。後から来日した宣教師たちも同じように布教を進め、キリシタン大名を増やしていきました。高山右近、大友義鎮、大村純忠、有馬晴信、小西行長、黒田孝高、蒲生氏郷、筒井定次らがそうです。
天正遣欧少年使節は1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団。イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案。1590年(天正18年)に帰国。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られるようになり、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われ、キリシタン版と呼ばれています。
4名の少年とは伊東マンショ(主席正使)、千々石ミゲル(正使)、 中浦ジュリアン(副使)、原マルティノ(副使)。持ち帰ったのは印刷機だけではありません。1591年3月3日(天正19年) 聚楽第において豊臣秀吉に謁見して、旅の様子を紹介すると共に、持ち帰った楽器を用い西洋音楽を演奏したのでした。クラヴィチェンバロ、クラヴィコード、アルパ(ハープ)、ヴィオラ・ダ・ガンバ、リュートの5種の楽器です。また演奏された音楽はジョスカン・デ・プレの『千々の悲しみ』らしいといわれています。
2
秀吉は信長と同じくキリスト教を容認していましたが、九州平定後の1587年7月(天正15年6月19日)にキリスト教宣教の制限を表明します。これは宣教師の国外退去を求めるもので「バテレン追放令」と呼ばれています。また秀吉は1596年に再び禁教令を出し、京都で活動していたフランシスコ会(一部イエズス会)の教徒たちを捕えて処刑しました(日本二十六聖人)。 サン=フェリペ号の船員が「宣教師はスペインが領土征服をするための尖兵である」と述べたことで、秀吉がキリスト教を警戒したためだとされます。しかしここでも「バテレン追放令」のときと同じく、一般信徒に対して弾圧する政策は取られず、京都のフランシスコ会以外には弾圧は加えられなかったのです。
家康に始まった江戸幕府の時代にかわり、次第に厳しい目で見られるようになります。まず、慶長17年3月21日(1612年4月21日)に江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して「教会の破壊」と「布教の禁止」を命じた禁教令を布告します。諸大名についても「国々御法度」として同様の施策を行いました。これは江戸幕府による最初の公式なキリスト教禁止の法令でした。 同年5月、岡本大八事件で改易された最後のキリシタン大名・有馬晴信が切腹に処されたため、キリシタン大名は完全に姿を消しました。
翌慶長18年2月19日(1613年1月28日)。幕府は直轄地へ出していた禁教令を全国に広げます。また家康は「伴天連追放之文(バテレン追放の文=バテレン追放令)」を秀忠の名で23日に公布させました。以後、これが幕府のキリスト教に対する基本法となります。 この禁教令によって長崎と京都にあった教会は破壊され、翌1614年11月(慶長19年9月)には修道会士や主だったキリスト教徒がマカオやマニラに国外追放されました。その中には著名な日本人の信徒であった高山右近もいました。
元和2年(1616年)、秀忠は最初の鎖国令「二港制限令」を出し、その中で「下々百姓に至るまで」とキリスト教の禁止を厳格に示しました。元和5年には改めて禁教令を出し、一般信徒への厳しい弾圧の歴史が始まります。 秀忠は京都所司代であった板倉勝重にキリシタンの処刑(火炙り)を直々に命じました。そして10月6日、市中引き回しの上で京都六条河原で52名が処刑されます。(京都の大殉教)。この52名には4人の子供が含まれ、さらに妊婦も1人いました。
元和6年(1620年)、日本への潜入を企てていた宣教師2名が偶然見つかりました。この一件によって幕府はキリシタンへの不信感を高め大弾圧へと踏み切るのです。キリスト教徒の大量捕縛を行うようになり、元和8年(1622年)、捕えていた宣教師ら修道会士と信徒、および彼らをかくまっていた者たち計55名を長崎西坂において処刑しました(元和の大殉教)。これは日本二十六聖人以来の宣教師に対する大量処刑です。続けて1623年に江戸で55名、1624年に東北で108名、平戸で38名の公開処刑(大殉教)を行っています。また寛永14年10月25日(1637年12月11日)、有馬村の農民たちが代官所に強談におもむき代官・林兵左衛門を殺害、ここに島原の乱が勃発するのですが、その農民たちがキリシタンだったことに幕府は衝撃を受けます。島原は幕府軍によって完膚なきまでにつぶされました。
3
「踏み絵」によりキリシタンをあぶり出し、「俵責め」や「穴吊るし」の拷問にかけられ棄教を迫られるという地獄の日々、表向きは棄教したように見せかけて、じつはキリスト教の信仰を脈々と続けている人たちがいました。 「隠れ切支丹」と呼ばれる人たちです。長崎版「どちりな きりしたん」(少年使節が持ち帰った印刷機でつくられた本のひとつ)では「主の祈り」の日本語はこうです。
「てんにましますわれらが御(おん)おや 御名をたつとまれたまへ。御代きたりたまへ。 てんにをいておぼしめすままなるごとく、ちにをひてもあらせたまへ。 われらが日々(にちにち)の御(おん)やしなひを今日あたへたまへ。 われら人にゆるし申すごとく、われらがとがをゆるしたまへ。 われらをテンタサンにはなし玉(たも)ふ事なかれ。 我等をけうあく(兇悪)よりのがしたまへ。 アメン」。
この祈りをはじめとした祈祷文「おらしょ」を唱えつつ、観音像を聖母マリアに見立てたり(「マリア観音」)、聖像、聖画やメダイ、ロザリオ、クルス(十字架)などの聖具を秘蔵して「納戸神」として祀り、キリスト教伝来当時にならったやり方で生まれた子に洗礼を授けるなどして、信仰を守りつづけました。集落ごとにひそかに続けられていたせいで「おらしょ」にも訛りが反映することもありました。
私たちが演じた『奉教の花薫る峠』は江戸末期から明治の初めにも続いていた「禁教令」の犠牲になった「隠れキリシタン」たちの群像を描いた芝居です。舞台は浦上。1867年(慶応3年)すなわち江戸の最末期、信仰を表明した浦上村の村民たちが江戸幕府の指令により、大量に捕縛されて拷問を受けたことに始まる「浦上四番崩れ」を劇化したものです。浦上には江戸初期に殉教した「バスチャン宣教師の予言」―『七代耐え忍べば、再びローマからパードレ(司祭)がやってくる』が脈々と生き続けていて、過去3度にわたる弾圧を耐え忍んできたのです。 「浦上一番崩れ」は1790年(寛政2年)。「浦上二番崩れ」は1839年(天保10年)。「浦上三番崩れ」は1856年(安政3年)。そして息の根を止めようと徹底的な苛酷さを持って臨まれた大規模な弾圧が「浦上四番崩れ」です。
翌1868年、明治政府発足。ペリーが浦賀に黒船で来航したのは嘉永6年(1853年)のことでした。翌年江戸幕府は日米和親条約を結びますが、欧米諸国とどうつきあっていくかという課題は明治政府に持ち越されていました。彼らの宗教であるキリスト教を日本人が信じることは「禁教令」によって封じられていたのです。
フランスのパリ外国宣教会からベルナール・プチジャン神父が横浜に上陸できたのは1862年(文久2年)。翌1863年に長崎に渡り、日仏修好通商条約にもとづいて「居留地に住むフランス人の為の教会」を建築する許可を得ました。長崎の西坂(日本二十六聖人の殉教地)を見ることができる丘の上に、大浦天主堂を建てました。1865年(元治2年)のことです。 その頃、浦上村では仏教徒を装いながら、高木仙右衛門、守山国太郎、守山甚三郎らが秘かに「隠れキリシタン」としての信仰を続けていました。その輪のなかに杉本ゆりという女性がいて、信徒15名ほどとともに新しく建った「フランス寺」へ行くことにしました。 庭の手入れをしていたプチジャンは手を休めて一同を教会の中に招き入れます。ゆりは意を決してプチジャンに告白します。 「われらのむね、あなたのむねとおなじ(私たちの信仰はあなたの信仰と同じです)」。
プチジャンは驚き喜びます。村人たちは彼らは聖母像があること、神父が独身であることから間違いなくカトリック教会であると確信し、さらに口伝で伝えられてきた典礼暦を元に「カナシミセツ」(四旬節)を守っていることを明かすと、再び驚きます。彼らこそが迫害に耐えながらカトリックの信仰を代々守り続けてきたいわゆる「隠れキリシタン」である、と。これが「信徒発見」。プチジャン神父からの知らせは大きなニュースになり全欧に広がりました。しかし、これを契機にして「隠れキリシタン」があぶりだされ、多くの信徒が責め苦にあうことにもなりました。
2年後の1867年(慶応3年)、浦上村の信徒たちが仏式の葬儀を拒否したことで信徒の存在が明るみに出ました。この件は庄屋によって長崎奉行に届けられます。信徒代表として奉行所に呼び出された高木仙右衛門らははっきりとキリスト教信仰を表明しましたが、逆に戸惑った長崎奉行はいったん彼らを村に返すのです。 その後、長崎奉行の報告を受けた幕府は密偵に命じて浦上の信徒組織を調査し、7月14日(6月13日)の深夜、秘密の教会堂を幕吏が急襲したのを皮切りに、高木仙右衛門ら信徒ら68人が一斉に捕縛されました。捕縛される際、信徒たちはひざまずいて両手を出し「縄をかけて下さい」といったため、抵抗を予想していた捕手たちも、信徒たちの落ち着きように怯んだと伝えられています。捕縛された信徒たちは激しい拷問を受けました。
翌日、事件を聞いたプロシア公使とフランス領事、さらにポルトガル公使、アメリカ公使も長崎奉行に対し、人道に外れる行いであると即座に抗議をします。9月21日(8月24日)には正式な抗議を申し入れたフランス公使レオン・ロッシュと将軍徳川慶喜が大坂城で面会し、事件についての話し合いが行われました。 信徒らは故郷から離される流罪に処せられます。津和野の乙女峠などですが、そこには今も彼らを顕彰するレリーフやマリア像などがあります。拷問のなかで息も絶え絶えになった安太郎は、三尺牢に閉じ込められながら夜ごとマリアに会い、その声を聞いてやすらぎました。
プチジャン神父は日本の権力者たちを動かそうとして、公使たちや教会の中枢であるローマやパリに手紙を書きつづけます。 そして彼によるキリスト教徒発見と、明治政府による一連の弾圧行為の情報が欧米諸国を動かし、日本政府に対しキリスト教弾圧政策に圧力をかける結果につながり、江戸時代から禁教とされてきたキリスト教信仰の復活ののろしが上がったのです。 1873年(明治6年)に制度としての高札が廃止されるのと同時に明治政府によるキリスト教の禁止も取り止められました。浦上村民も釈放され帰郷できたのです。配流された者の数3394名、うち662名が命を落としました。生き残った信徒たちは流罪の苦難を「旅」と呼んで信仰を強くし、1879年(明治12年)、浦上に浦上教会を建てました。 (その後、日本人へのキリスト教の布教が行われるようになりますが、明治政府としてキリスト教の活動を公式に認めるのは、ようやく1899年の「神仏道以外の宣教宣布並堂宇会堂に関する規定」によってです)。
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それにしても、250年間、七代にもわたり「信じる」ことを続けてきた浦上村民たちの心の強さ。
北野辰一座長が公演のちらしに記した言葉を引用します。
「なぜいま、隠れキリシタンの物語を敢えて舞台に上げるのか。それは、人びとの願いや祈りが、これまでの旧い社会観によって、踏みにじられようとしているからに他ならない。いま時代は、地震・津波・原発事故によって、社会転換の分水嶺にさしかかっている。これから求められる豊かさとは何か? 幸福とは何か? 浦上の切支丹が守り抜いた幸せとは何であったのか? いま一度問いかけてみる必要があると思われた。一人の為せることは、所詮微力でしかない。されど、一人の願いや祈りは、その人の世界の重さと等しい。どんな困難にも屈せず、信ずることを成し遂げる様にこそ、人間の限りなく逞しい尊さが存在する。この作品は、東日本大震災による被災者の復興のために、日々闘っている人々への応援メッセージでもある。隠れキリシタンの残した歴史の傷痕は、わたしたちの未来を語るに、いまなお新しい」。
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1995年1月17日午前5時46分、阪神淡路大震災が私たちの街を襲いました。あの日のことは今なお被災した私たちの記憶になまなましく、その時の話になればいまだに時間を忘れて語り合います。それ以前と以後とでは「人生がちがう」「生き方が変わった」という実感も共通のものらしい。すなわち、被災の体験の幸いにもなかった人たちとは、異なる「歴史」をまたいで生きているのです。 経験しなければ分からない。これは何事においてもそうです。人間の認識や思考はその人の体験してきたことが基礎の石になっているのは動かしがたいこと。だから震災後に小田実とともに何度も上京し、国会議員たちに「被災者には公的援助が必要である」ことを訴えたときに、いつも感じたのは経験のない彼らの恐るべき想像力の欠如でした。その法律がないから、とかねてから聞かされていたので小田実は「市民立法をつくろう」と、私たち二人に加え早川和男、伊賀興一の四人で「市民の法律(案)」を携えて「市民=議員立法実現推進本部」を結成したのでした。
活動の初めの頃は神戸の地方紙の小さな記事にしか掲載されず、一笑に付されたものでした。当時の村山富一首相の見解は当時の大蔵省の「個人の財産の補償はできない。自己責任である」というもので、取りつく島もありませんでした。名古屋の地方紙の論説委員までもが同じ意見を、わざわざ電話でいってくるのにはあきれました。ジャーナリズムにも変わった人がいたものです。しかしそうではなく「生活基盤が破壊された」。被災からの復興は家を建てなおせば済むものではなく、職業基盤すら破壊されたのです。ゼロでなくマイナスになった。いいかえれば無一文になったのではなく、以前からの借金に加えて新しい借金を雪だるま式に背負わなければならなくなったのです。
いくたびにもわたる節目ごとに、彼らの想像力の欠如と無理解に向けての「声明」や首相への「書簡」を書いて出しました。私たちは「言葉の力」を信じていました。超党派の議員団に加わってもらうために、苦しむ被災者の惨状を話し、「なに党の議員だからではなくて、人間としてあなたはどう思いますか」と問いかけた。私たちはまたデモをし、銀座のど真ん中で街頭演説をしました。 採決されず国会会期をまたぐ「吊るし」にも遭い、「廃案」にされるところだった危機さえ脱して、2年半にもわたる戦いの末、1998年5月にようやく「被災者生活再建援助法」が可決成立したのです。
この期間、私たちは「途中者」でした。その言葉が出てくる小田実の小説は『タコを揚げる』で、「小田実を読む」の2012年7月のその回の報告は次号になります。「途中者」とは制限や社会通念上の常識を打ち破って、空にタコのように揚がってしまいます。あのころ私たちは地上に降りれば「被災者に公的援助する法律などできっこない」という「常識」の泥にまみれるばかりでした。
「小田実を読む」の会報。頒価700円、お買い求めは山村サロンまで。
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2012年は小田実生誕80年・没後5年の年です。小田さんがいなくなってから5年も経つのか、という思いがします。実感としては「つい昨日まで」会って話をして、お茶を飲んでいました。青山斎場で弔辞を読ませていただいたときにも「小田さんは死なない」と宣言した私は、彼の「人生の同行者」玄順恵さん、小田さんに会ったことがない「没後からの知己」北野辰一さんら仲間とともに「小田実を読む」を続けています。 小田さんは「市民運動の人たちは私の小説を読んでない」と、よく苦笑いされていたものです。運動の人たちのなかにも「小田さんは小説なんか書いてないで、もっとたくさん運動されたらいいのに」と言う意見をいう向きがいたのは事実です。 しかし、小田さんの意見はこうでした。「政治に働きかけて解決しなければならない問題は運動をやる。しかし人間にはそうでない問題もいっぱいある。それを小説でやる」。そしてそれらは玄順恵さんがいうように「車の両輪」なのでした。小説には運動の過程で味わった、割り切れない人間の苦渋がしたたり落ちている作品があります。彼が求めたのは「自由」です。「自由」には、もちろん政治を通して勝ちとらなければならない自由があります。しかし一切の制限を取り払い、壁をぶち抜く精神の自由は芸術を通してしか獲得できません。小説家としての小田実は、ときには前衛の手法を採りいれる果敢な創造者でした。
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晩秋の音楽会
ピエール-イヴ・アルトーさんは古典から現代までの驚異的なレパートリーの広さをもつだけでなく、フルート族すべての楽器を自在に奏でます。いちばん小さいピコレットから彼のために開発されたオクトバス・フルート、ダブルベース・フルートまで。1946年パリ生まれの彼はパリ国立高等音楽院、エコール・ノルマル音楽院教授もされています。彼の演奏は無類の安定感があり、どのような様式の音楽にも豊かさを感じます。世界各国の作曲家が彼に作品を献呈し、あるいは初演を依頼するのも理解できます。楽譜を見る目に濁りがなく奏法にも癖がなく、演奏は精確を極めているからです。
たとえば、尹伊桑。彼は大阪でチェロを、東京で対位法等の音楽の基礎を学んだ若い時代がある韓国の作曲家です。彼の作品は韓国の伝統音楽から得た印象を西洋音楽の技法で昇華させた作品を多く書いています。「ソリ」(音、声、歌、言葉)はイタリア人フルーティストのR.ファブリティアーニにより米国カーネギー・ホールで初演されました。アルトーさんの吹くフルートは、あたかも韓国の伝統的な横笛、テグムの響きのように。
久保洋子さんの初演作は『リシェヌ』。彼女の音楽は師・近藤圭氏と同様に「東洋と西洋」の対話、葛藤を考える場所から出発します。最近は身体表現を磨くことを始められ、能楽の仕舞とバレエという東西の「踊り」を研鑽されています。こうしたことが作品に反映しないわけがないのです。聴こえて来る音を捕まえる直感の鋭さは相変わらずですが、音が移り変わる動きにはよりしなやかな「皮膚」が備わってきたようです。
秦はるひさんは芦屋市立山手中学校の同窓生で、在学中は文化祭で彼女がピアノ独奏するのを聴くにとどまり、しかも彼女はピアノとともに四六時中生活していたために、声をかける機会はありませんでした。きっかけは阪神淡路大震災後に開いた同窓会で、音楽家になっていた友達は彼女のほかにも二人の男子がいました。 1995年10月22日、バッハの「平均律クラヴィア曲集第2巻」を弾いて下さったのがサロンでの彼女のコンサートの始まりでした。その後、回を重ねて、中学時代の恩師お二人に加えて、中学時代に彼女がピアノを師事していた横井和子先生に巡り会うことにもなったのです。中学3年のときに文化祭ではるひさんが弾いたベートーヴェンの「田園ソナタ」がどんなにすばらしかったかを熱烈に語る私を、当時彼女を教えていた横井和子先生は微笑みながら頷いて下さっていました。 横井先生はご自身の演奏会には必ず同時代の日本人の作品をプログラムに入れておられました。秦はるひさんも若い頃から同じように、同時代の作品を数多く弾いてこられました。初演作品も少なくないはずです。今回もまた久行敏彦さんの新作が採りあげられました。
アダルベルト・スコチッチさんはウィーン国立音楽大学でリヒャルト・クロチャックに師事し、特別賞ディプロマを取得。1963年からは、ウィーン国立歌劇場とウィーンフィルのチェリストに就任。ソロ&室内楽の活動やウィーン市立音楽院(現ウィーンコンセルヴァトリウム音楽大学)の指導に専念するため約10年後にオケを離れる。ウィーン・フィルの名コンサートマスター、ゲアハルト・ヘッツェルとウィーン室内合奏団を設立し、数々の名盤を通じて親しみを覚えていました。 LPレコードを聴きはじめた少年時代からウィーン・フィルの響き、音色が好きでした。また室内楽ではウィーン・フィルの首席奏者が集うバリリ弦楽四重奏団の演奏に陶然としていました。1951年の創立時はヴァルター・バリリ(Vn1)、オットー・ シュトラッサー(Vn2)、ルドルフ・シュトレンク(Vla)、リヒャルト・クロチャック(Vc)というメンバーです。1955年にチェロがエマヌエル・ブラベッツに交替していますが、スコチッチさんはクロチャックの薫陶を受けて「ウィーンの室内楽」を現在もなお伝えています。だから、彼をサロンにお迎えできたことは望外の喜びでした。
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長く芦屋市婦人会の会長を務めてこられた廣瀬忠子さんとともに、リヒャルト・フランクさんがお招き下さる音楽家を囲んでのクリスマス・パーティです。今回のゲストはチンツィア・バルトリさんで、イタリアから来た1961年生まれのピアニストです。今年も廣瀬さんのレシピによる創意工夫されたサンドイッチなどが並びました。
廣瀬忠子さんは私の亡母とは女学校の同級生でした。サロンを開館させた1986年以後も芦屋ユネスコ・レディース・セミナーなどを通じて親しく交流をさせて頂いていましたが、1994年(震災の前年)母が急逝し、以後は廣瀬さんがサロンに来られるたびに「母」の面影と重ねて、お話を聞くような感じがするのです。 その廣瀬さんが藍綬褒章を受章されました。(財)明るい選挙推進協会の推薦により、芦屋市の発展に尽力したことが評価されました。お祝いの宴には引き出物に『老い盛』という廣瀬さんの本が手渡されました。「八十四年の月日をふり返り、辛かったこと、悲しかったこと、また、嬉しく楽しい思い出を通し、こんなおばあちゃんがいたという証を孫やひ孫に伝えたくて」小冊子にまとめられたということです。ご活躍の日々を頼もしく、誇らしく思います。
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新春から春にかけての音楽会
野田燎さん(作曲家・サックス奏者・音楽療法家)のこどもたちのためのコンサートです。テレビの人気者たちの歌もあり皆さん大喜びでした。 このほど『朝の光 〜祈りと再生の音楽〜 野田 燎 サクソフォーンリサイタル』(LMCD 1966)というCDが出ました。じつは2011年の秋からサロンで録音セッションを重ねたもので、プログラムは全13曲。
「作曲家にしてサックス・プレーヤー、また音楽療法の分野でもマルチな才能を発揮する野田燎が、震災後のいま、音楽と人間の関わりのなかで見出した「音楽の力」を形にした、祈りに満ちたアルバムである」という内容紹介のあるAmazon (アマゾン。インターネットの通信販売サイトです)でお求めになることができますが、サロンにも置いていますのでお問い合わせください。1枚2,500円です。 なお、曲の紹介を含めた解説文は私が書きました。
寺本郁子さんの歌の音楽会も長く続けられています。彼女の「ピアニシモの最高音」は益々磨きがかかり、陶酔的な魅力を湛えています。中村八千代さん、八木昭子さんのトリオも不動。理事長の中村さんが率いる公益財団法人アルカディア音楽芸術財団は、現在、アルカディア・グレースホール&アルカディア・マリーサロン2012年12月オープンさせるべく、芦屋市西山町に建設中です。ご発展を祈ります。
2011年3月11日の東北大震災直後には「放射能パニック」で海外からのアーティストがばったりと来なくなりました。来日キャンセルの嵐はとくに東京の音楽業界を震撼させました。しかし、デムスさんは来られました。芦屋での演奏会と、東京でも「約束の音楽会」を果たされました。「あなたの来日は私たちを勇気づけます」と申し上げたら、にっこり笑って「私はそれをしに日本に来たんだよ」と。 今年も彼はサロンに来ました。お世話役の鈴江比沙子さんと私を含めて3人でプログラムを決めてきました。ベートーヴェンのソナタは必ず入れることは動かさないで。今回は「テンペスト」と「32番 ハ短調」です。もう何度、1928年生まれ84歳の巨匠はこれらの曲を弾いてきたことでしょう。 ドビュッシーを得意にするデムスさんは、独墺系のピアニストでは異色です。よほどお好きなのでしょう。音に響きに詩情がたちのぼり独特な味のあるドビュッシー。フランクの「前奏曲、アリアと終曲」はすばらしい曲でした。終演後、まずフランクの曲と演奏に讃辞を伝えたところ、彼は深くうなずき「あの曲はすばらしいけど誰も弾かないんだ。私の師匠、イーヴ・ナットは弾いていた。あとは誰もいなくて私だけだよ」と。イーヴ・ナットは1890年に生まれ1950年に没した、ベートーヴェンを得意としたフランス人のピアニストでした。ふと、レコードでしか知らなかった前世紀生まれの巨匠のいのちが熱く伝わった瞬間でした。
2011年8月にギターの弘井俊雄さんとデュオ・コンサートを開いた小野真理さんが、2012年には松本梨乃さんのピアノとともに「ヴァイオリン・ソナタ」の代表作品をプログラムの芯に据えた音楽会を開かれました。 小野さんはハノーヴァー国立音楽大学で「ホイトリンク弦楽四重奏団」で名高いW.ホイトリンク氏に師事。1982年からブラウンシュヴァイク国立劇場の第1ヴァイオリン奏者を務めるかたわら、室内楽の活動をされています。 今回のプログラムで私が強く希望したのはブラームスでした。ブラームスの室内楽はあまり人気がないようですが、どれも非常に美しい。二重奏の音楽ではチェロ・ソナタとヴァイオリン・ソナタは、もっと弾かれて欲しい。音楽会のしめくくりに弾かれた「ヴァイオリン・ソナタ第2番 イ長調 作品100」は、ピアノに始まりますが、旋律は熱い心が歌う夢を湛えてヴァイオリンにつなぎます。第2楽章は吹っ切れた明るい光に満ちて、変化に富んだ楽しい音楽。ブラームスの次の作品番号は「ピアノ三重奏曲 ハ短調 作品101」ですが、彼の1886年夏の作品100以降の諸曲には、ときに信じられないほどの美しさがあります。
ゴールデン・ウィークのチャリティ・コンサートが、2012年には従来の阪神淡路大震災被災者に向けてのみでなく、2011.3.11の東日本大震災被災者にも届けられることになりました。今回は上記出演者の音楽だけでなく、第1部の終わりに、2003年に惜しまれつつ他界された林直人さんの2002年に山村サロンでスピーチしたビデオが映写されました。詳しい報告は、坂口卓也さんのブログ「音薬談」の複数の項以上にコンサートの全容を伝える言葉はあり得ません。出演者の皆様ともども心から感謝申し上げます。
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おさらい会 お楽しみの会
亡母が30代以来終生師事し、私が小学生の頃に師事していた能楽の藤井久雄師のご愛息・藤井完治さん門下の会でした。完治師のご愛息・藤井丈雄さんも出演されました。この先が楽しみです。
童謡を歌うグループ「雪やこんこ」の20周年記念コンサートが開かれました。ゲストに若い世代の音楽家が花を添えて、楽しい会になりました。いつまでも続けられることを願ってやみません。
「時の人」がサロンを訪れたことも記録しておきましょう。 藤井純一氏は日本ハム球団社長のときにドラフトのくじ引きで斎藤祐樹投手を引き当てたことでプロ野球ファンの間では「ゴッド・ハンド」と讃えられました。
橋本武氏は何度も「灘高同窓会」でサロンを訪れておられますが、最近「100歳の国語教師」としてマスコミに採りあげられるようになりました。中勘助の『銀の匙』を国語の教材に使ったことで、中勘助の小説も読まれるようになったということです。
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LP とSPのレコード・コンサート
音盤100年の歴史の旅は、はてしなく広がってきています。エジソンやベルリナーが「音の記録」のための機械を考案するまでは、歌も器楽も終われば「ただちに消え去る」ものでした。楽譜だけが出版物として残り、専門的な訓練を受けた人たちだけが楽譜を演奏して、消え去った音楽を再現することができたのです。演奏会でしか一般ファンは音楽を体験できませんでした。レコードはしかし、爆風のように音楽を愛する人たちの裾野を拡げました。家庭でメルバやカルーソーたち、大歌手の歌声が聴けるようになったのですから。 それから約半世紀の歳月を経て、戦後すぐにLPが発明され、音は飛躍的に改善されました。ここまではスピーカー一つのモノーラル再生でしたが、10年も経たずにステレオ録音方式が発明されました。1956年に英国デッカ社はステレオ録音のLPを作り始めています。1986年にLPとCDの売り上げが逆転し現在はCDや新しいメディアの時代です。しかし、SPもLPも、なお生きています。段々お客さまが増えてきていることを嬉しく思います。
横井和子先生と秦はるひさん
「ふたり」 松井美保子, 2012 (第77回 東光展に出品) 松井美保子画伯の、私をモデルにした絵の新作です。
里井宏次指揮 ザ・タロー・シンガーズによる千原英喜編曲アカペラ版のシューベルト「水車小屋の美しい娘」は、すばらしい合唱作品になりました。そのチラシの絵を描いたのが、里井純子さんです。神戸の海文堂ギャラリーで個展を開かれました。 前作シューベルト:冬の旅 無伴奏混声合唱版(千原英喜編)のCDは絶賛発売中です。Octavia ExtonレーベルのEXCL00058です。
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2012年 8月 15日 発行 著 者 山村 雅治 発行者 山村 雅治 発行所 山村サロン e-mail yamamura@y-salon.com H P www.y-salon.com Facebook www.facebook.com/yamamurasalon
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