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<< Vol. 45 2011後期- Vol.46 Vol. 47 >> |
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還暦の弁
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2012年は辰年で、私は1952年(昭和27年)の辰年生れですから干支が一巡、本卦返りの還暦という事に相成ります。壬辰、みずのえたつ。占いに詳しい人は、その年生まれの人はこの様な性格を持ちこのような人生を送るはずだと判断されるかも。しかし、同級生を見渡しても彼らの性格も人生も千差万別。みんな違うのがあたりまえで、私自身も変化に富んだ人生を送ってきたものです。厄年という古来いわれてきたことも、多少の反映があったのかも知れません。前厄の年に母を失い、本厄で阪神淡路大震災に被災。後厄は歯が腫れるくらいで済みましたが、その翌年に父を失いました。
といっても被災した人の全員が厄年生れである訳もなく、たまたま私(と同年生まれの人たち)がそうだっただけです。昔の人は人生―人間が生まれてから死ぬまで―を、たとえば春夏秋冬に喩えました。青春・朱夏・白秋・玄冬。あるいは天地や歴史の移り変わりを一人の人間にも投影する六十四卦の「易経」の知恵というものもあります。これらの共通する人生観は、人間は生まれて、まっすぐな方向を向いて死んでいく。生老病死をひとつの方向性において捉えるのが特徴的です。
いやはや私は人類の「異種」であるらしい! 私の人生は若い頃に多方面に矢を放っていたものを、不惑の年を過ぎてから順次また放ち直して、人生の時間を行きつ戻りつしています。よく、見た目が若い、といわれます。成長していないからで、熟成などは夢のまた夢。想像力だけには自信がありますから、逆にソクラテス存命を知っている2400歳のような気分に浸るのも朝飯前です。
通常の還暦を迎えるくらいの年令の人は、功成り名遂げて財をなし、落ち着いた様子になっているものです。私が子供の頃、若い頃に還暦を祝った親族はいずれもそのような「おじいさん」「おばあさん」でした。なんなんだこの違いは。それにしても還暦とは。もはや静かに笑っている他はありません。 50歳の記念に「メサイア」公演をやり、その後山村サロン20周年に「山村サロン女声合唱団」を結成。音楽活動を指揮者として開始しました。画家の松井美保子さんから絵のモデルを頼まれるようになったのも54歳頃のことです。そして、56歳で役者デビュー。
さかのぼれば17歳の頃に詩人、34歳で山村サロン開館、38歳で単行本『マリア・ユージナがいた』(リブロ社)を出して作家。震災後は小田実氏らと被災者に公的援助法を求める「市民=議員立法」運動を展開。のちに小田実氏と二人で発信した「良心的軍事拒否国家日本実現の会」を展開。これらはそれだけを傍から見る人には、私は「市民活動家」と映っていたかもしれません。そして2008年10月(55歳)からカフェ・フィロの「書評カフェ」でまちなかで「哲学」を語ることを試み始めています。いろいろなことをやってきました。「精神史家」と自らを定めていますが、いずれも「そのとき」「その場」で全身を傾けてしてきたことです。
少年時代の心を捉えていた芸術の諸分野のみならず、人間のするあらゆることに興味が出てきたのは、やはり大学生になってからでした。もはや学生運動は終息して陰惨な内ゲバの時代。吉岡実や加藤郁乎らの現代詩を読み、詩を書きつつ、1970年代初頭の新宿文化にどっぷりと浸かっていました。 詩人・芝山幹郎さんが18歳の若い私を「冒険」へいざなって下さったのです。唐十郎さんの「状況劇場」の赤テントの芝居は、まさに最高でした。
56歳で役者デビューをすることになった契機は、北辰旅団座長の北野辰一さんが「小田実さんの小説を芝居でやる」ことを玄順恵さんに伝え、小田さんの一周忌の頃に小田実氏を失った私たち仲間へ知らされたことでした。北野さんは生前の小田さんにはついに会えずじまいでした。 2008年6月に『なでしこと五円玉』を、小田さんの小説『知覧・五円銅貨』をもとにして劇化し上演。そして8月3日、大阪天満宮のフジハラビルで北辰旅団の演劇公演を見ました。北野辰二脚本・演出による『「明後日」という処女作』。その後も彼らの芝居を見に行くうちに、なにかうずうずしてきたのです。 藝術交響空間◎ 北辰旅団第19回公演 2009.9.13. 『宇宙の種まく捨聖』作・演出北野辰二が現代の演劇の初舞台。小学性の時に能楽の舞台に立って以来のものでした。
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北辰旅団の芝居には、以後欠かさず出演を重ねてまいりました。
『新トロイアの女たち』については前号に詳述しました。私の体の中にしまいこまれた古典芸能や邦楽を絞り出すような死闘を展開して、ご覧いただいたような演技になりました。 ところが新作『揺れやまぬ波の底から』では、演出家からは「なにもしないで」という求めでした。はじめは真意が分かりませんでした。そちらの方が苦しい。普通にしゃべるように舞台で喋って、という演出の真意が呑み込めたのは、家で深夜に台本を読み込んでいた「ある夜、突然に」のことでした。そうなればたちまちのうちに、舞台上での占有時間の長い(いつもながら複数の役をつとめますし)役者としては、劇全体の構築が見えてきます。結果「真実は低い声で語れ」、「神は細部に宿り給う」をめざす(飽くまでも『めざす』です)演技になったのではないかと、内心の達成感はありました。
『揺れやまぬ波の底から』について、作・演出の北野辰一さんの言葉を引いておきます。
「2011年3月11日、14時46分、東日本に甚大な被害を及ぼした大震災、大津波、原発事故は、この国の人々のくらしようを根底から問いかけるものであった。それは今猶、私たちの抱える深刻な問題であり、何も回答らしき指針もなく、被災者の生活の復興は、政治や平時の法体系に掻き乱され、先の見通しすらついていないありさまだ。今一度、近代の災害、人災の歴史を振り返ってみる必要があるのではなかろうか。それがこの芝居を書くうえでモチベーションとなっていた。当然、足尾鉱毒事件から谷中村の水没、渡良瀬川遊水地計画という公害闘争の原点とも云える田中正造らの運動をここにひも解くこととなったのである」。 「此度の未曾有の『世界』の崩壊に直面して、非力ながら私たちが立たねばならないポジションは、人間の棲む国、つまり人間の形に合わせた国をデザインすることが必要だということだ。以前、戦争にかり出された時のように、お国のための人間ではなく、人間らしい幸せなくらしができる国を、つまり人間のための国作りに向けて、今こそより一層力強く将来に係わる判断ができるようなメッセージを、私たちは芝居を通じて送り続けてゆかねばならないと思っている」。 (談、北野辰一)
次回の公演は2012年3月11日。浦上四番崩れという隠れ切支丹弾圧事件を題材にした『奉教の花薫る峠』です。於:芦屋 山村サロン。詳細は後日に。
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春から夏にかけての、お楽しみの会がいろいろ。
この会をとくに載せておきたいと思ったのは、元・市立芦屋病院院長の中嘉一郎さんがお世話なさった会で、お集まりになったのは90歳代の男性が中心になっていたからです。数年前に中先生から「これで最後だ」とお聞きしましたが、恒例の「寮歌」の部に入れば、人生の先輩たちの熱気、情熱、覇気の凄まじさには圧倒されるのみです。旧制高校世代といえば私の父もそうでしたが、元気なころは「全国寮歌祭」や「旧制高校サッカー・インターハイ」などの行事にはいそいそと出かけていたものでした。第2次大戦出征兵士でしたから、ほかには兵隊の同窓会、シベリア抑留者が集まる同窓会、などなどにも顔を出していたようですが、なんといっても楽しげに酔っぱらって帰ってきたのは「旧制富山高校同窓会」です。だから、中先生たちの青春が、いつまでも続いてほしいと願うばかりです。
これは手芸を楽しむお仲間の、プロ・アマ混在した女性たちの作品展。2日間、終日にぎわいました。いずれも手づくりのもので、温かく血が通ったぬくもりがありました。
これは日本舞踊の会です。能舞台にはやはり和装の古典芸。いつまでも会をお続けくださいますように。
山村サロン女声合唱団は、2011年はピアノと歌の発表会である「クラヴィーアの会」に出演。「平和の祈り よたび」のような演奏会は、また力を溜め込んでから開きたいと思います。その代わりに、私たちの歌声を You Tubeに挙げることを始めました。
『神のみわざがこの人に』高田三郎(典礼聖歌) http://www.youtube.com/watch?v=jAIqhB2HbNE 『天よ露をしたたらせ』高田三郎(典礼聖歌) http://www.youtube.com/watch?v=vkruclLSzMs&feature=related 『レクイエムからキリエ、ディエス・イレ』グレゴリオ聖歌 http://www.youtube.com/watch?v=27WnHEoBekI&feature=related
アドレスを打ち込むのは大変なので、You Tubeを開いていただいて、山村サロン女声合唱団で検索すればすぐに出てきます。 詩の朗読は、会の主宰者に促されてやってみました。前号の表紙に使った画像がその様子です。17歳のときに自覚的に詩を書きはじめましたが、いちばん親近感を感じていたのがアルテュール・ランボオでした。その日は私の声だけでしましたが、今後は楽器を交えたり、歌を入れたり、いろいろと可能性が膨らむ種目ではあります。 山村サロン合唱団は、2012年6月24日(日)の「クラヴィーアの会」のステージで歌うことを予定しております。 4
21世紀音楽浴にチェロ奏者が出演されるのはめずらしいことです。ミヒャエル・バッハさんはよく覚えていますが、今回久保さんが招いたヴァルター・グリマーさんは1939年スイス生まれ。ベルン交響楽団でチェリストを務めて、1971年に創立後15年間ベルン弦楽四重奏団に在籍。ハインツ・ホリガー、クラウス・フーバー、ブライアン・ファーニホー、ヘルムート・ラッヘンマン、イサン・ユン、ヴォルフガンク・リームらの作品の世界初演。またソリストとしてもイサン・ユン「チェロ協奏曲」の世界初演などを果たし、現代音楽への貢献は大なるものがあります。1965年から1985年、ベルン音楽院教授で、1985年から2002年までチューリヒ音楽院教授。 若い時代に現代音楽の先頭に立っていたチェリストが72歳になって、ドビュッシーやバッハを弾かれる。余分な力がすべて抜けて必要な音だけが聞こえて来る。古典も現代もなく、あるのは「音楽」だけ。
久保洋子さんはご自宅のある西宮、演奏会場としての芦屋とパリで活動され、大阪音楽大学教授にしてパリ・ソルボンヌ大学客員教授。だから東京の人たちは作曲家/ピアニストである彼女のことを知りません。 彼女はフランス政府給費留学生としてパリに留学。P.ブーレーズが所長を務めるIRCAMに給費研修員として招待された、とプロフィールの始めの部分で紹介されています。大阪音大での彼女の師・近藤圭さんと同じように彼女の思考のテーマは「日本の伝統芸術と現代音楽」の相克、あるいは融合にあります。新作『エサンス』も終わりなき西洋と東洋の対話の一瞬があざやかに切り取られたもの。彼女にはめずらしく「かたち」への意志が表わされ、羽毛のように軽く、風のように自由に、という感覚の志向とのせめぎあいがあたらしい音楽の姿でした。
2011年の夏の「大井浩明ピアノ・リサイタル 2011 in 芦屋(全3回)」は、「全国税理士共栄会文化財団」様の助成を得て開かれました。現代音楽のコンサートは昔から収益が少ないものと決まっているので、この助成は大いに助かりました。サロンとして外部に助成を申請するのは初めてだっただけに今後のイベントのためにもいい体験になりました。
大井浩明さんは、バッハやベートーヴェンに打ち込んでいたかと思えば、昨年はシェーンベルク。今年はシェーンベルクより後の時代の20世紀のピアノ曲を連続で。芦屋の後には東京でクセナキス(9.23)、リゲティ(10.22)、ブーレーズ(11.23)、尹伊桑、姜碩熈、朴琶案泳姫、陳銀淑ら「韓国現代ピアノ作品を集めて」(12.23)、シュトックハウゼン(2012.1.29)という具合に、勢いはとどまるところを知りません。オルガン、チェンバロ、フォルテピアノなど古楽器にも精通する彼は、どんな時代に生みだされた音楽も、その作曲家が生きた「現代音楽」として弾き鳴らす。作曲も演奏も不易と流行の二つの側面があり、人間は不可逆の時間のなかに生きていて、極端にいえば昨日の作品がもう古いと感じる。現代の若いピアニストがブーレーズ、リゲティ、シュトックハウゼンらを弾かないのは、彼らが古いと感じる以前に、単に弾けないのでしょう。じっさい大井さんのピアノ演奏で聴いていれば、バッハもベートーヴェンも、ブーレーズやシュトックハウゼンも、たった今ここで生まれた音楽として立ち上がっているのです。
野々村禎彦氏は東京公演の案内ちらしに、いい文章を寄せられています。彼が書く「大井のスタンスは一貫している。まず、歴史に残るべき作品を『古典』に引き上げること」ということばは、日本の埋もれたままになった作曲家や新進の作曲家たちの作品を聴くときに、いつも感じることでした。同時に彼は「古典を現代の、たった今、ここで」にまで引き上げている。 東京の「POC全5公演」には日本の作曲家の作品は弾かれませんが、芦屋公演にはブーレーズの夜に、田村文生さんと山路敦司さんの委嘱初演作、夏田昌和さんの2009年の作品、望月京さんの2003年の作品が演奏されました。大井さんと同年代の作曲家たちです。 またリゲティの夜には、塩見允枝子さんの作品とリゲティの作品が交互に演奏されるという独創的な試みがありました。終演後の打ち上げでは作曲家諸氏も交えて和やかな歓談の時を得ました。
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芦屋川ロータリークラブ主催のチャリティーコンサート。出演者が多かったので楽屋はごった返していたでしょう。賑やかないいコンサートでした。
日下知奈さんと紗矢子さんのご姉妹は芦屋市出身です。お二人とも東京芸大付属高校から同大学を卒業。海外留学を経て、ご活躍中です。 知奈さんは第14回園田高弘賞コンクール3位、メシアン賞受賞。ケルン音楽大学を首席で卒業。第3回東京音楽コンクール第3位。2007年バロックザール賞など。現在は国立音楽大学付属中学・高校講師、東京芸大弦楽科伴奏助手。 紗矢子さんは南メソディスト大学、フライブルク音楽大学で学び、日本音楽コンクール、パガニーニ、シベリウスなど国内外のコンクールに多数入賞。2008年からベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団の第一コンサートマスターに就任。 プロフィールを読んでわかるように、知奈さんは東京、紗矢子さんはベルリンが活動の拠点ですから、出身地の芦屋でデュオが聴くことができる! ということで、当日の場内は小さな頃からお二人を知る人たちに囲まれて、とても親密な空気の中でプログラムが進められていきました。 震災前にサロンにお迎えして「同学年」ということで、ずっと親しみを感じ続けている清水高師さんのお弟子でもある紗矢子さんのヴァイオリンは、知奈さんの温かいピアノに支えられて、この上なく上品に、高い気品を伴って歌われます。ことに初めて聴いた表現として挙げておきたいのは「ユモレスク」。絶対に音を切らない。徹底したレガートの表現は見事でした。たった一か所だけ音を切ったのは、再びテーマに還る、あの一瞬だけで、あの場面はそうでなければならなかったのです。 今後のお二人のご活躍を祈ります。再び芦屋でお目にかかれますように。
サロンを開館させてからすぐにギターの弘井俊雄さんにお目にかかり、たちまち心が通じ合いました。久々の弘井さんのコンサートは、ヴァイオリニストの小野真理さんを伴った二重奏。小野さんは3歳から島暢子さん(母のこどもの頃の友人)らにヴァイオリンを学び始めて、大阪音大卒業。その後ドイツに渡りハノーヴァー国立音楽大学で、ホイトリンク(ホイトリンク四重奏団で有名)にヴァイオリンと室内楽を師事されました。1982年よりブラウンシュヴァイク国立劇場に所属し、第一ヴァイオリン奏者として在籍しておられるかたわら、室内楽にも活躍されています。
中にギター独奏2曲を挟んだ多彩なプログラム。弘井俊雄さんのソロは自在の極。しかし音楽のかたちは崩れません。アッシャー・ワルツの面白さの影には、すさまじいばかりの技巧の高さがあります。 小野真理さんは「歌劇場のオーケストラ」でヴァイオリンを弾きたい、という望みを若い頃から持たれていたといいます。そして室内楽のヴァイオリニストでもあります。そんな彼女が弘井さんのギターに支えられてバッハのソナタを弾くとき、ふと立ち返った「ひとりの音楽」が流れ出しました。パガニーニ、モーツァルトまでが第一部。ギター独奏を挟んで第三部はジュリアーニとピアソラ。この「タンゴの歴史」は名曲です。巧い演奏家がやれば なおさらのこと「不滅の名曲」に聞こえてきます。 小野真理さんは来春にもサロンで演奏会を開かれる。4月14日の土曜日にブラームスのソナタなど。楽しみです。
クレアリー和子さんはかつては毎年アメリカから帰ってこられたときにしかお会いできませんでした。日本に居を移されて、ようやく落ち着いてこられたようです。19世紀生まれの巨匠たちのピアニズムを現代に伝えるピアニスト。彼女にピアノを習っているという若い人が、大井浩明さんのファンのなかにいました。すごく嬉しい気持ちになりました。
能楽の会です。幼稚園時代から耳になじみのある響きが、いつまでも続いていきますように。
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東北大震災以降、野田燎さんは現地へも行かれるなど多忙を極め、サロンでの演奏会はこの半期は2回になりました。河北新報(仙台の地元紙)の記者をサロンにお連れ下さったこともあります。被災した市民たちが「市民=議員立法」運動を通じて「被災者生活再建支援法」制定へ国を動かしていったことを知ってほしい、と私を紹介されたのです。
8月21日のコンサートはサキソフォンアンサンブル・カプチーノのメンバーによるソロの技量の披瀝。10月23日は大阪芸術大学サックス専攻生による、東日本大震災被災者のためのチャリティー・コンサート。サキソフォンのための音楽は近代以降に限られます。 なぜなら楽器自体が1840年代にベルギーの管楽器製作者アドルフ・サックス(Antoine-Joseph "Adolphe" Sax)によって考案され1846年に特許を取得されたという、比較的あたらしい楽器だからです。曲目は珍しいものが並びます。グラズノフの「サキソフォン協奏曲」やチェレプニンの「ソナチネ・スポルティヴ」など。
サックスはその後、ジャズやポップス、ブラスバンドに欠かせない楽器になりましたが、クラシックの作曲家もこの楽器のために作品を書いています。そして野田燎さんはサックスのための「現代音楽」を書き、自ら奏でてパリやニューヨークを驚かせます。 阪神淡路大震災に西宮で被災されたことが、野田燎さんの音楽家としての人生を大きく変えていきます。かねてから試みていた「サックスによる音楽療法」に打ち込まれ、失われた身体機能までをも甦らせる療法を確立。それはテレビ番組にも大きく取り上げられました。
イベントではないのであえて記録からは外しましたが、野田さんは2011年10月3日、17日、18日の夜、サックス・ソロ(ピアノ/山本京子、西村奈菜)による音楽をサロンで録音されました。 心を癒すサキソフォンの調べ。かつては現代音楽のスペシャリストとして自作のみならず松下眞一やシュトックハウゼンなどを奏でていた音楽家による、知られた旋律の小品ばかりが集められた「愛奏曲集」です。 録音セッションに立ち会って驚いたのは、まだ舞台では聴かせて頂いたことがないベートーヴェンの「田園ソナタ」(ピアノソナタ第15番)の第2楽章が選ばれていたことです。 それらを収めたCDは、2012年春には発売されるだろう、ということです。私も小文を寄せる予定です。
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20世紀の音盤をみなさまとともに聴いて、お茶を楽しんでいただく、という会を、もう13年以上続けています。まず、SPから始まりました。母の友人だった方から寄贈していただいた米国ビクターの「片面の赤盤」数十枚がきっかけです。戦災から焼け残り、震災にも耐えたSPレコードを、どこへ寄贈しようと問い合せても断られるばかり、というのです。それらを受け取り、自宅のプレーヤー(もちろんSP用のカートリッジ)で聴いてみると、すごい雑音の中から、まさに「天来の妙音」というべき音楽が流れているのです。パッハマンのショパンでした。パデレフフスキーもラフマニノフも同様でした。
こういう貴重な音盤は私一人のものにしておいてはいけない。古いものは1929年に求められたもの。昭和の初頭に生まれ戦争までの時代に青春期を送った母の世代の人たちは、親の世代が求めたこのようなレコードを聴いておられた。そして大型手巻き式蓄音機クレデンザをサロンに入れて、SPレコードも段々に自分で集めていって「クレデンザ・コンサート SPレコードを楽しむ会」が始まったのでした。すると意外にもお客さまは多く、ガリ=クルチをかけたときには「ありがとう。わしは60年ぶりにあの歌を聴いた」と懐かしむ男性ファンから握手を求められたときには、本当にこれを始めてよかった、と思いました。
子供の頃には家には少々のSPレコードがあったものの、父の聴いていたものは西宮の空襲で焼けて失われ、わが家に音楽をLPで聴ける環境が整ったのは小学校4年生のときです。もともと父はクラシックが好きだったので、まず「ワルターの田園」を私を連れて神戸三宮の「葵レコード」で買い求め、二人で何度も聴きました。そのレコードは現在も手元に残していますが、SPを聴きはじめると、気になったのは震災に耐えて残ったLPでした。実は私は1984年頃からLPをあまり聴かなくなり、それに代わってCDを聴くようになっていたのです。盤面のノイズを気にしなくてもいい、操作が簡便、といった理由です。
そんなわけでLPの海外初期盤などを求める「マニア」になったのは震災後のことです。震災で死なずに生き残って、音盤100年の歴史を生きなおす、ということが始まったのです。英国デッカ盤が好きです。それをかける電気蓄音機は「デッカ・デコラ」以外にありません。 そうした経緯で開かれている山村サロンのレコード・コンサート。新企画ではオペラの全曲を聴こう、という「OPERA SPECIAL」もあります。 音楽は人生のある一瞬において記憶されている。お客さまと話を交わすとき、いつもそのことを思います。ある男性ファンは「ビルマの前線で戦ってる時にフルトヴェングラーの『運命』、ニキッシュの『運命』が頭の中で鳴っていた」と。
8 いま、小田実さんが生きていれば、という問いかけ。それはかつて小田さんとともに動いたことがある人ならば、みんな自分に問いかけているのではないでしょうか。あるいは動きをともにしていなくても、話を聞いた人ならば誰でも思うことでしょう。 小田さんは、足元を西宮・芦屋に置いて、世界と日本を考え抜いた人でした。世界が平和なありさまからはずれるような動きを見せれば警告を発し、市民が見棄てられて、安心して生きていける状態ではないときには「市民=議員立法」活動を開始して「被災者生活再建支援法」をつくりあげました。
しかし、小田実さんは高校生以来、最後の病床にいたるまで、徹頭徹尾「小説家」でした。2007年夏、小田実さんがこの世を去ったあとに残されたものは、われわれの記憶のほかには膨大な著作だけでした。 小田実さんをまず有名にしたのは『何でも見てやろう』という一冊の本でした。そして市民運動家として『ベ平連』(ベトナムに平和を!市民連合)の代表として動いたときでした。各紙の追悼記事は、その二点をもって「小田実」という「社会現象」を説いたものがほとんどでした。
本はともかくとして、市民運動はその役割を終えれば活動を閉じます。そして運動をともにして、小田さんと泣いたり怒ったり笑ったりしたことも、いずれ語り部がいなくなれば伝える人間がいなくなる。『べ平連』事務局長だった吉川勇一さんは本を書いておられるし、『市民=議員立法実現推進本部』事務局長だった私もまた『自録・市民立法』(藤原書店)を書いています。しかし本であって「市民運動」それ自体ではないのです。
結局は本だけが残っていく。本に記された言葉だけが。 小田実さんの展開した市民運動だけをともにされた人たちは、中には「小田さんは小説みたいなん書かんと運動をもっとやったらええねん」と極端なことをいう人がいます。しかし、考えてみてほしい。 運動は思想からはじまる。怒りという情動が先にあったかも知れなくても、それを他に訴え他を衝き動かしていくのは、思想を核とし、説得力を伴った修辞の力のほかにはありません。私たちの場合にスローガンになった「これは人間の国か」という小田実さんの言葉はエッセイの表題でしたが、それ自体が怒りの本体から表わされた高度な文芸でした。「べ平連」の岡本太郎の揮毫による「殺すな」も同じく高度な芸術です。 くりかえして書いておきます。小田さんは徹頭徹尾、小説を書く芸術家でした。『何でも見てやろう』のときには左翼陣営から「変な右翼が出てきた」と思われ、「べ平連」以後は左翼とみなされもしました。しかし彼の思想は、ぶれたことがない。彼は12歳の夏に大阪大空襲に逃げまどう少年であり、走るさなかに、あるいは爆撃後に、虫けらのように焼き殺された人間の山を見て、腹の底からの怒りを覚えました。それが小田実の文学の原点です。いや、すべての市民運動を含む彼の活動の原点です。
だから私たちは彼の小説を読んでいく「小田実を読む」を始めました。高校時代に開始された小説のなかから、すでに彼の思想は見えていたはずと。報告誌『りいどみい』も2冊目まで発刊。私の担当の柱は「震災」と「アメリカ」で、「小田実と震災」については多くの時間をともにしたのでいくらでもお話しすることができるとしても、「小田実とアメリカ」については読書を通じてしか探り得ません。『HIROSHIMA』、『玄』、『何でも見てやろう』、そして今期の『アメリカ』まで辿りつきました。戦争の無慈悲さ、少数者への差別、などなど小田実の小説全体を貫くテーマがいずれにも読み取れます。しかし、私の興味を引き、皆さんにお聞きいただきたかったのは、ひとつ「小田実とアメリカ」についてでした。
以上がサロンで開かれた小田実さんに係わる今期の集会の歩みです。小田さんの存命時には、主な会場を大阪にして「市民の意見30・関西」の集会が毎月開かれていました。その場では小田さんは、世界と日本の現実が抱える問題を提起し、あるいは市民の政策をみんなで考え、つくりあげ、さらには時代に合った「市民の意見30」の名前の元である「30に箇条書きされた市民の意見」の刷新をも考えていました。
「市民の意見30・関西」に私が参加するようになったのは、もちろん小田さんにお招きを受けてからです。大阪での集会の後、打上げをしてゲストの講師をねぎらう。その後、次回をどうするかの打ち合わせ。深夜の大阪の街から小田さんと私はタクシーに乗り込んで帰ります。まず西宮のご自宅までお送りし、至近の距離にある私の芦屋の自宅まで乗り継いでいく。
私はそんな深夜のタクシーの幾たびにもわたる車中と、「市民=議員立法実現推進本部」の活動で何度にも及ぶ手弁当での新幹線の東京への往復車中で、じつに多岐にわたる対話をしてきました。濃密な時間でした。政治家に会いに行くときには、そこで何を喋るかの話は5分で終わる。互いに彼らに言いたいことは同じだからです。帰りの新幹線でも「よかったじゃない」「はい」で、その件は終了。あとは彼らの問題だったからです。 残された膨大な時間に、なにを話していたかといえば、まず小田さんがそのときに書いている小説の話。そして文学一般から、音楽の話。ソクラテスと古代ギリシアの話や、小田さんが出会った年長の人たち、たとえば丸山真男さんや久野収さんらの話。ここでも、まず彼は小説家でした。
以下に掲載するのは、私が「小田実を読む」で2010.12.18と2011.2.19に2回がかりで展開した『何でも見てやろう』の講義メモの前半部分です。完結したノートにはしていません。
長年にわたって童謡を歌い続けている、神戸童謡グループ「雪やこんこ」の20周年記念のコンサートが開かれました。神戸新聞に紹介されたので、ご覧ください。
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2012年 1月 1日 発行 著 者 山村 雅治 発行者 山村 雅治 発行所 山村サロン e-mail yamamura@y-salon.com H P www.y-salon.com Facebook www.facebook.com/yamamurasalon
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