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<< Vol. 44 2011前期- Vol.45 Vol. 46 >> |
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「東日本大震災」以後のために
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2011年3月11日に起きた「東日本大震災」以前と以後とでは、日本の「全体」が大きく変わりました。
1995年1月17日に、私たちは「阪神淡路大震災」に被災しましたが、直後の東京発信の全国放送の解説者は「これが東京で起きなくてよかったですねー!」といってのけ、受けるアナウンサーも「本当にそうですね」と深くうなづいている始末。被災地では、まだ人がたくさん瓦礫の下に埋もれたままになっていたときに、です。 おおむね西宮市と尼崎市をへだてる武庫川から東の人にとっては、私たちの被災は「関係ない」ことであり、のみならず全国の多くの人たちにとっては、こたつに温もりミカンを食べながらテレビ画面で楽しむ「蜜より甘い人の不幸」にすぎませんでした。それは単なる「地方の自然災害」でしかない。
もちろんそれは、東京発信のマスコミの報道姿勢の結果でした。午後のワイドショーで「生き埋め現場からの生中継!」。この無神経さ。マスコミは今も昔も政権のスポークスマンであり、当時は公共広告機構(ACジャパン)がさかんにボランティア募集を呼び掛けていた(今回は「ポポポポーン」、正式名称は「あいさつの魔法」)のは、被災者の暮らしの援助を、民間の善意の、無報酬の力と汗に頼りきろうとし、国、自治体は汗も力もお金も出さない、という魂胆が透けて見えました。
いろいろと呆れることがありました。海外からの医師や救助犬を活動させないこと、ドイツで義援金を集めるためにコンサートを開いたピアニストからのお金を、その地の日本の役人は「我が国日本は金持ち国であるから、よその国からのお金は必要ない」といい、はねつけたこと。もう腹が立つのを通り越して、当時から「嗤うべき国」。そして、今回の大震災にさいしても「阪神淡路大震災」のことが何も生かされていない。何も学習されていない。被災者が立ち上がるために必要なものは、何よりも義援金・支援金なのに、この給付の遅れはなんだ。
今回の震災が東北3県を津波を伴って大災害に巻き込み、東京をも震度5で襲ったために、初めて東京発信のマスコミは「私たちの自然災害でもある」と認識できたと思います。私たちが、被災者に公的援助をもたらすための「被災者生活再建支援法」を「市民=議員立法」で創りあげるために東京で喋るたびに「この法律案は私たちの問題だけじゃない。あなたたちの問題でもある」ということを繰り返し発言しましたが、その言葉がようやく届いたような気がします。じっさい「阪神淡路大震災」時の東京のマスコミにとっては、被災者は娯楽のネタにすぎなかった。
広範囲にわたる「自然災害」(「天災」)のみならず、今回の震災には福島原発が巻き込まれ、電力消費量の問題と汚染の問題とで、文字通りに「全国規模」の「人災」にのしあがりました。いろいろな問題が絡みあっています。「セシウム牛肉」を例にあげていえば、福島の牛が他県の稲わらを餌にして食べさせていて、その稲わらが汚染されていた、ということです。ということは避難区域何十キロ云々の問題ではない。メルトスルーした福島原発からの30キロの同心円だけが「危険区域」なのではなく、食料を通じて全国に広がる問題であり、さらにいえば、空中に飛散した毒物は全地球的な汚染を引き起こしています。すでにして海へ垂れ流し。日本一国の問題ではありません。
こうしたことに関しても報道は政権と一体になり、明るみに出すことよりも隠すことの方が多い。
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さて、「阪神淡路大震災」に被災し「被災者生活再建支援法」を小田実さんらとともに創りあげた当時の仲間たちとともに、弁護士の伊賀興一さんの事務所に集まって、今回の震災被災者の皆さんへの「提言」をつくりました。われわれの経験を無駄にしてはならなかったからです。基本は、自然災害被災者への公的援助を求める。人災に関しては、それを引き起こした企業が賠償する。
これを含んだ文章を最近「市民の意見30・東京」のために書きました。以下に転載します。この文章の一部は2011年7月16日に東京・YMCAアジア青少年センターで開かれた「『3.11』後の今こそ『人間の国』へ」(第一部「小田実の文学と思想」 第二部「二つの大震災被災者が思いのたけを語り継ぐ」)という集会で私からのメッセージとして読みあげられました。
そして今日。7月に入った。猛暑と土砂降りの雨、突風の荒れる列島。ニュースは、といえば松本龍復興担当大臣辞任とか。じつは彼の現地での言動を見るにつけ「阪神淡路大震災」当時の村山富一首相以下内閣の面々を思い出していた。また「市民=議員立法」運動を始めた当時の橋本龍太郎首相以下内閣の面々を思い出して失笑していた。同じじゃないか。上記「提言」にも「当時、村山首相は「生活再建は自助努力が原則」と言い放ち、棄民の態度をとりました」とある通りだが、今回の菅直人内閣の誰一人として「阪神淡路大震災」の経験が生かされていないことに唖然たる思いがする。 それは徹底された「初心者」=「素人」を思わせるもので、「被災者にはお金が必要だ。そうでなければ自助はできない」という災害救援の初歩がわかってない。なされていない。
小田実代表は当時「これは人間の国か」という評論を「朝日」に書き、その言葉が私たちの運動のスローガンになりました。日本はまだ、人間の国ではない。
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3.11以後、ただちにチャリティコンサートを開こう! とサロンに働きかけてこられたのは、野田燎さんです。サックス奏者にして作曲家、そしてまた音楽療法家。「阪神淡路大震災」以前からの縁が深い音楽家のコンサートについて、新聞紙上に大きく取り上げられました。
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3.11当日にもコンサートはありました。もうお馴染みになったヴァイオリニスト、デヴィッド・ジュリッツ(David Juritz)さんのチャリティコンサートです。「アフリカエイズ孤児の音楽教育のために」開かれた音楽会。ジュリッツさんは南アフリカ・ケープタウン生まれ。英国王立音楽大学を首席卒業後、イギリス室内管弦楽団に入団。1985年以後ソリストとしても活動。2007年貧困地域の子供たちの音楽教育支援募金のためミューズクオリティー(www.musequality.com)を設立。ヨーロッパをはじめ世界各地で演奏活動を展開されています。
2時46分は、私はホールではなく、練習の音が聞こえてくる事務所にいました。ゆっくりとした横揺れが意外に長く続き、これは遠くで大きな地震が起きたにちがいない、と直感しました。パソコンで情報を得て、息を呑みました。地震の規模の大きさもさることながら、町や村に津波が襲いかかる怖ろしさ。
芦屋は震度2。建物も演奏会を夜の時間に開くのに支障はなく、予定通りに決行されました。南アフリカケープタウンに生まれたジュリッツさんは、白人社会と黒人社会の、あらゆる意味での「差」について考え続けてこられたにちがいありません。この後、ニール・ブロムカンプ監督の長編映画デビュー作品『第9地区』を見ましたが、それはヨハネスブルグ上空から下りてきた異星人をめぐるSFです。ブロムカンプは怒りを下敷きに映画を撮った。ジュリッツさんは愛をもってヴァイオリンを奏で続ける。芸術が自己でなく「他」の命に捧げられるとき、その言葉は地の果てにまで届きます。
終演後「明日は東京へ行くことになってるんだけど、主催者に電話がつながらないんだ」という心配そうなお顔が気になりました。当夜の東京のコンサートは中止もあり決行もあり大変だったようです。電車が止まって、帰宅を徒歩で何時間もかけて、という人がたくさんいました。 彼は3月13日にブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」を演奏する予定でした。「新日本交響楽団 第86回定期演奏会 13:30開演 すみだトリフォニーホール 指揮:橘 直貴」という演奏会です。この演奏会は「こんなときだからこそ、我々音楽をしている人間にできることは「この状況下でも、音楽を通して人々に少しでも勇気や癒しを与えることが出来るなら、今こそ演奏するべきである」と予定通り開かれました。 http://snso-tokyo.com/concert/messageには当日急遽あつめた義援金についても触れられています。
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3.11以後、徐々に明るみになった福島原発事故の影響は、音楽界にとっても深刻なものでした。海外からの音楽家の来日があいついでキャンセルされ、とくに東京以東の会場は払い戻し作業に追われました。関西も同じようなもので、大阪でやるアーティストは東京でもやる人が多いので、この「海外アーティスト来日キャンセル」の嵐は、結果、全国を吹き荒れることになりました。海外美術館の所蔵品を展示する「美術展」もキャンセルが多くて、芦屋にあるサロンの音楽会も、この先行きは不安でした。
「本当に演奏会あるんですか? デムス先生、来られるんですか?」と日が近づくにつれて問い合わせが多くなりました。じっさい、どの演奏会でもそうなのですが、サロンの玄関に演奏者が現れるまでは、主催者としては安心できないのです。この日ほど演奏者の到着を待ち焦がれたことはありませんでした。
デムスさんは来た。悠然として、微笑みながらエスカレーターから3階のフロアへ。そしてサロンへ。うれしくてうれしくて、私は玄関で両手で彼の手を握って「日本へ来てくださって、ありがとうございます。あなたの来日は僕らを勇気づけてくださるものです!」と申し上げました。すると「そうだよ。私はそれをしに来たんだ」と手を握り返されたものです。
デムスさんは、2010年11月7日にも来演されていました。例年は春の一回なのですが、シューマンとショパンの生誕200年の記念の年にデムスさんからのお申し出で開くことになりました。ことにシューマンはすばらしい。音色は夢を湛えて乾かず、起伏も沈潜もある心の流れは滞ることがない。ドイツ・ロマン派を体現したピアニストに終演後、「まるでシューマン自身のピアノを聴いてるようでしたよ」と伝えると、満面の笑みで「ダンケ、ダンケ」。
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東日本大震災から丸ひと月経ち、報道は福島原発のもたらす災厄が多くをしめるようになってきました。「実はこうでした」という後出しの発表ばかりで真相が明らかにされないので、世間の不安は高まるばかり。海外では福島原発周辺区域のみならず、日本全体が危険国ということになり海外アーティストはますます来日をキャンセルすることになりました。
4月12日の音楽会をお世話いただいたのはリヒャルト・フランクさんですが、3.11の頃はヨーロッパにいて、その数日後に国際電話で「コンサートできますか?」とお尋ねがありました。「関西は何も変わらず、大丈夫です。やりましょう」と申し上げて、決行が決まりました。フランクさんのお申し出で「チャリティコンサート」になりました。
ピニエーロ・ナージ(Pineiro Nagy)はスペイン人ギタリストで、1968年からポルトガルで教育活動を始めました。若いミクロ・デュオ(Mikro Duo)のペドロ・ルイス(Pedro Luis)とミゲル・ヴィエラ・ダ・シルバ(Miguel Vieira da Silva)は、リスボン音楽院でナージに師事。 アンコールにナージさんはソロで日本古謡「さくら」を弾かれました。終演後に感謝とともに「ポルトガルと日本は古いつながりがありました」と申し上げると、にっこり笑って「知ってるよ。だから今日は新しい友達をつくりに来たんだ」と。収益はフランクさんによって寄付されています。
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ある日、かつて取材を受けたことがある『ウォロ』誌の村岡正司さんから連絡がありました。前にサロンで「ウイグル祭」をやった、あの人たちが義援金を送るためにコンサートを開きたいと提案がありました。ついては、ということで会場を彼らのためにお貸ししました。にぎやかな大盛会になり、収益は子供たちを支援するために現地へ直接送られました。
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阪神淡路大震災以降、毎年行われていたチャリティコンサートが2年の休みを経て復活しました。ノイズ・ミュージックの石上和也、炭鎌悠、VELTZとギター弾き語りの穂高亜希子さんの4人による会になりました。ずっと「阪神淡路大震災 復興支援」で開かれてきました。「阪神淡路」の被災者の生活は、本当にはまだ復興していないからです。しかし、今回は東日本大震災が起きてしまい、両方の「大震災」被災者に捧げるものになりました。 穂高亜希子さんとソロ・ユニットVELTZの松岡亮さんは東京在住。お二人とも東日本大震災復興支援のための活動を、すでに展開されていました。
いつの頃からノイズ・ミュージックと呼ばれるようになったのか。中学生のときにレコードでシュトックハウゼンの『若者の歌』『コンタクテ』を聴き、クラシックの「電子音楽」に魅了されました。楽器の音ではなく電気が生み出すノイズの連続。旋律も和声もリズムもなく五線譜から全くかけ離れた「音楽」。日本では黛敏郎がその分野の先駆者でした。そして70年大阪万博ドイツ館でシュトックハウゼンの『シュティムンク』、ラジオを使った『短波』(だったかな、題名は)のライヴに接するに及んで息が詰まるほどの衝撃と感動を覚えました。ドイツ館のオーディトリアムはシュトックハウゼン自身が監修したもので、会期中にはシュトックハウゼンの「音楽」がつねに演奏されていたのです。
現在のノイズを聴けば、必然として中高生だったときのシュトックハウゼンが甦ります。彼は日本へ種を蒔きに来た。日本のノイズ・ミュージックは関西を中心に発展してきたようです。1980年代にシンセサイザーが長足の進歩を遂げて、若者たちに扱いやすい機材が現われ、クラシックの「電子音楽」とは別の味をもつ音楽が現われてきたのです。
今回の3人のノイズ、石上和也、炭鎌悠、VELTZ各氏の音楽は三者三様。むしろクラシックの「電子音楽」。いまを生きる「現代音楽」であり、意識と方法、実現させていく技術に磨きぬかれたもの。音色感に彼らの個性がみえて、局面の変化に時間の感覚が現われます。穂高亜希子さんのヴォーカルも含めて、場内には、ぴんと張りつめた心地よさと「やさしさ」でした。 このコンサートの収益は75,000円。日本赤十字社と、あしなが育英会に寄付させていただきました。関係各位に感謝申し上げます。
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京都のテアトロ・マロン、朝倉泰子さんからもチャリティ・コンサートのお申し出がありました。朝倉さんは「阪神淡路大震災」時にも早速コンサートを開いてくださいました。山村サロンの入るビル「ラポルテ本館」は半壊し、半年の間休業を余儀なくされました。物販が入る1階と2階は11月再開になりましたが、サロンがある3階以上は7月から再開。しかし、あのような状況ではただ暇なだけで、私は自宅と職場と職場の入るビル全体の修理費の金策に走る毎日でした。スタッフの失業給付金を得るために西宮まで歩きもしました。震災の年1995年の小田実さんの呼びかけで始まった「市民救援基金」活動のお手伝いも同時に進行させていましたが、西宮以西、神戸市長田区までのボランティア・スタッフは全員が私と同じく自宅も職場もつぶれた人たちでした。
朝倉さんは1995年7月、再開なったサロンに、まず梁さんのチェロとロトさんのピアノのデュオをお呼びくださいました。柔らかさをきわめたピアノのトーンに美しいチェロの音色がうたう。チェロの奏でる音域は人間の男の声域に似て、上機嫌のベルカントも振り絞る号泣も、心からの祈りも肉声のように聞こえるときがあります。朝倉さんはチェロがお好きです。今回のコンサートは、関西のチェリスト6人が結集した「他にない」企画になりました。 林裕さんが柱となられてのアンサンブル。プログラムもチェロの力を縦横に発揮する多彩なもの。クレンゲルとポッパーにコンサートの心が集約されていました。
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私自身の「東日本大震災」直後の活動について書いておきましょう。
企画自体はもちろんすべて3.11以前から決まっていたものですが、直後にその震災・津波災害と福島原発事故について、直接みなさんに語りかけたのは3月23日の「デッカ・デコラ コンサート」においてでした。ワーグナーの楽劇の歩みを説明しながら、今回の天災と人災について思うところを述べました。『神々の黄昏』という標題は象徴的です。権力欲と物欲にまみれ、倫理の歯止めを失った「地上の神々」がたそがれていく。ヒトラーはワーグナーを愛しましたが、ヒトラー自身は、たそがれていく「地上の王」の一人にすぎなかった。
次に「喋るためにだけ」神戸へ出かけました。4月17日のカフェ・フィロ「書評カフェ」です。まず、案内のちらしのために書いた文章の原文を載せておきます。(現物のちらしには藤本啓子さんの手が加えられています。末尾に「ドリンクを片手に、参加者同士、平和について考えましょう」。)
そして当日を迎えました。JR灘駅、阪急王子公園駅の灘区の水道筋商店街は昭和のにおいがする店が並び、東灘区や芦屋の商店街が壊滅したのに比べれば、大きな被災からは免れていたのが分かります。藤本啓子さんは神戸大学の学生だったときにこのあたりに住み、歩いて阪急六甲駅からの坂道を上って学校へ通われた由。
会場のカフェP/Sは商店街のはずれにあります。2010年6月にプラトン『ソクラテスの弁明』を語って以来の会場でしたが、2009年ベルグソン『笑い』からの常連のお顔も見えて、じゅんじゅんと語り始めました。私が「小田実」の最晩年の諸活動を通して共にあったことは知られているとおりであり、それなのに「平和」を語るに際して「渡辺一夫」の本を選んだのはどうしてなのか。 それを書いた文章を次に引用します。これは後日にしたためたものです。
「書評カフェ」の当日は満員で、折しも3月11日に襲った「東日本大震災」や「福島原発事故」をめぐっての発言に盛り上がった。その沸騰するような様子は到底狭い紙幅では描ききれない。そして、いつも思うことだが「カフェ・フィロ」では私は、古代ギリシアのアゴラで喋る人間になる。今回もまた、そうなれた。
「会報」前期では前年11月から本年4月までを扱いますが、この演劇公演『新トロイアの女たち」のみ先取りで扱うことにします。なぜならこの作品もまた震災/人災の影が色濃く立ち込めていたからです。作・演出の北野辰一さんは、プログラムにこんな一文を書いています。 「元暦二年(寿永三年)三月二四日、平家は壇の浦に散った。無数の蝶が、羽根をもぎ取られ海に捨てられるかのように。勝ったのは勇気ではなく、掟を破る野蛮な振る舞い。赤白の旗は折り棄てられて、波間に浮かぶ屍とともに西方へと流れゆく。時の声は、つかの間に、静かな凪に揺れる木の葉のすれる音と化す。男たちは死んだ。一人残らず死に絶えた。神と霊と人間の和讃。残された女たちのもの語りが今はじまる」。 始まりと終わりが4人の琵琶法師の語り。ある言葉をきっかけに登場人物の一人が立ち上がり、物語がはじまります。エウリピデス、サルトルの「トロイアの女」と「平家物語」が残された女たちの悲しみにおいて溶け合わされ、廃墟と化した都への未練と執着と絶望が謳いあげられていきます。
私の役は琵琶法師の「烏揚羽」、「POSEIDON…オロチ」、「HEKABE…二位の尼」。女たちの物語なので男優3人、それぞれに女の役がありました。私の役「二位の尼」は重く、運命に呻吟する極楽から地獄に突き落とされた存在。幽霊なのですが、うたを歌い、杖を片手に舞うシーンもつくられました。ご覧いただいた方の中に私の所作と動き、台詞回し、10分間の舞に「能楽」がある、と指摘された方がいらっしゃいました。その通りです。幽霊の女が過去への執着から世に出てきて謳い、舞う。これは能楽の一つの典型でもあります。そして、われながら面白かったのが、演出家・北野さんと舞の型をつくって行く過程で、小学校2年のころに神戸の藤井久雄師に習った『鞍馬天狗』の動きが突如甦ってきたことです。 私の体の中には、そして、能楽のリズム、仕舞の動き、謡(うたい)の抑揚が今もあります。琵琶法師の語りも発声は謡のそれで。そうしたことを通じて、今回の舞台は「私自身の中にある邦楽(日本の伝統音楽)総ざらえ」といった楽しみもあったのです。
音楽は、山村サロン女声合唱団が歌ったのは「Lassie Wi’ the Yellow Coatie」。スコットランド民謡です。ジーン・レッドパス(Jean Redpath)が歌ったレコードが好きで、その旋律に北野さんが日本語の歌詞を付けました。それ以外の劇中曲、序奏の「挽歌」、琵琶法師の場面の「凪」、後奏の「終わりとはじまり」の3曲は円藤正吾の作品です。
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ここからは「東日本大震災」前の、あるいは前からの継続催事を報告します。 11月に私の能楽の師匠だった藤井久雄師のご子息完治師の能楽の会「観謳会」がありました。久雄師は亡母つね子の師匠でもありました。母は短歌に打ち込んだ時期がありましたが、中年以降は能楽と茶道に生き、そのせいで山村サロンは能舞台と茶室を備えたものになりました。母は亡くなるその日まで『神歌』という笛の教本を枕元に置いて会に備えて頭の中で稽古していました。謡と仕舞に加えて小鼓に始まり、大鼓、太鼓、笛の四拍子の全てをやりましたから、よほど極めたいと願っていたのでしょう。私は幼稚園児のときに「習わせられ」ました。こうした稽古事は「強制」に始まること、誰しもそのようで。
通っていた崇信幼稚園は、保育の時間が終わるとお母さんたちが集まる「カルチャー・センター」のようなこともしていました。その中に能楽の泉先生の時間があって親子ともども稽古が始まりました。藤井先生との出会いがいつだったのか、いつの日にか電車に乗って神戸の稽古場へ出かけるということになりました。こちらは小学一年生くらいですから余り記憶にないのです。 藤井完治師はお父君の久雄師に、外貌も声もよく似ておられます。あれから半世紀。そこには久雄師も母もこどもの私もいませんが、あのころとなにも変わらない「能楽」が繰り広げられました。日本の伝統芸は、思うにどの分野においてもきわめて精確に継承されてきたものと思われてなりません。
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野田ファミリー・コンサートシリーズに薩摩琵琶の田中之雄師をお迎えできたのは望外の喜びでした。田中之雄師は鶴田錦史師に薩摩琵琶を師事、2010年10月2日に京都の旧嵯峨御所大覚寺門跡で野田燎さんの『清経』を共演され、この日の芦屋公演につながりました。当時は12月の渡米、15日にはニューヨークカーネギーホールで小沢征爾指揮サイトウ・キネン・オーケストラと武満徹『ノヴェンバー・ステップス』を演奏、16日にはコロンビア大学・ミラーシアターで『日本伝統音楽の栄光 管と弦の変遷』に出演される予定でした。
『清経』は野田燎さんがパリで現代音楽のスペシャリストとして活躍されていたときの、フランス放送局ならびにパリ市近代美術館委嘱作品です。その作品と伝統曲として伝わる「平家物語『壇の浦』」。 終演後、琵琶について、音曲について、いろいろとお話を聞かせていただきました。かつては盲人の法師たちが路上で語っていた芸の形が現在受け継がれているものになってきたのは大正時代だろう、とのこと、などなど。 この舞台に接したときの耳の記憶が、5月の芝居『新・トロイアの女たち』の語りに生かされたことはいうまでもありません。
野田ファミリーはクリスマス・イヴにも、障害を背負うこどもたちを集めた楽しいコンサートをやりました。サンタクロースに扮された「野田先生」は、とてもやさしい「音楽療法」の先生でした。
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久保洋子さんとアルトーさんによるバッハ、モーツァルト、シューマンと、現代の武満徹、シュニトケ、近藤圭、そして久保さんの初演作。ざっと300年にわたる作品年代の幅がありますが、それぞれの様式感がおもしろく一般の音楽ファンにもお楽しみいただけたものと思います。 久保洋子さんの初演作『ユーフォニー』は、久保さんの解説によれば「好音調」という意味です。料理とよく合うお酒のように「フルートとピアノが同時に演奏する事で得られる、美しい広がりを持つ作品を書きたいと思った」。阪神淡路大震災に被災されてから、久保洋子さんの作品は直観を武器にのびやかなひろがりを見せてきました。いかにでも構築できる技術をもちながら、構築はむしろ自由な羽ばたき、あるいは航跡、または芽生えのあとに残るもの。それは、天災に生き残った人間として、表現者として選びとった「小さな存在としての人間」が自己を超えるための方法でした。外からは構築しない。しかし、のこされた音楽は硬質の輝きがあり、簡潔な美しさがあります。
フランスに縁のある音楽会を続けて書いておきます。 フランスシターの「シター」はチロル地方の「ツィター」と語源が同じです。指ではじいて音を出す横置きの撥弦楽器。新しい楽器なのですが起源は古く、旧約聖書の時代に求められます。たとえば詩篇のなかに「竪琴を奏で 楽の音に合わせて」というものがありますが、その響きを再現しようとされた楽器です。南フランスの修道士が弾いていて、サロンにもダミアン神父が来演したことがあります。
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ジョヴァンニ・クルトゥレーラさんは1970年生まれ。まだ青年の面影が残るイタリア人のピアニストです。V.ベッリーニ音楽院とエウテルペー国際音楽院に学び、師はボリス・ペトゥシャンスキー、イェルク・デムス、ディター・ツェヒリン。 年に一回、母の少女時代からの生涯の友だった廣瀬忠子さん(芦屋市婦人会長、芦屋ユネスコ協会会長、芦屋市立美術博物館館長)と山村サロンが共催、リヒャルト・フランクさんの企画で続けています。 お手伝いくださった方々に、いつもながら深く感謝申し上げます。
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カフェ・フィロの藤本啓子さんは「風舎」のこともなさっていて、彼女の企画でこの講演会が催されました。ちらしにはこう書かれています。 「生きている方がいい…死なないにこしたことはない…そんなことは重々承知しながら、それでもなお自ら命をたたなければならないほどの何かを抱えてしまった多くの人々。そしてその人々の死を、どういう出来事として受け止めてよいのか途方に暮れる、さらに多くの人々。自死(自殺)は、遺族や周囲の人々にとって、そしてひょっとすると不帰の本人にとってさえも、事柄の切実さに反比例するかのように、つかみ、うけとめることが難しいものではないでしょうか。 今回の講演会では、哲学者の鷲田清一先生をお招きし、自死と私たち一人一人がどのように向き合っていくのか、そのヒントを参加者のみなさまとともに考えたいと思います」。 鷲田清一さんの専門は現象学、臨床哲学。しかし私は30代の頃はファッションに関する彼の本しか読んだことがなくて、しかもそこにある見識は傾聴に値するものだったので、その道の人だと思い込んでいました。この守備範囲の広さは好きです。人間のするたくさんの分野のことを掘り進める学者こそ、私の信頼する人です。 警察庁統計資料によれば、日本の自殺者数は平成10年の24,391名から翌平成11年の32,863名へ一挙に増加し、平成22年31,690名に至るまで3万人以上の人が自死を遂げています。22年は50代男性(5,024名)が最も多い。つぎが60代(4,377名)、40代(4,279名)がほぼ同じくらいに多いです。その次が30代(3,377名)ですから、その多くが家庭を持つ男性とみていいでしょう。 場内は満員になりました。お話は諄々と、終始あたたかい空気をもって説き進めていかれました。
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以下は私自身が係わる催事をまとめておきます。
私の指揮する山村サロン女声合唱団『平和の祈り よたび』については前号に報告しておいた通りです。充実したコンサートになりました。しかし、これだけ精根を打ち込んだ会は、毎年はできない、という合唱団のほうからの意向で2011年は『新・トロイアの女たち』と6月の『クラヴィーアの会』賛助出演で打ち止めです。ひとり一人の力を蓄えます。典礼聖歌『やまとのささげうた』は是非ともやっておきたいし、『カントゥス・マリアーレス』も。楽しみにお待ちくださいますように。
レコード・コンサートも変わらず続いています。震災直後のカラヤン/ベルリンのワーグナー管弦楽曲集の回については始めの方に書いたように、世紀末から現代へ至る「時代」を暗示した象徴的な音楽に聴こえました。そういえば続く4月はフルトヴェングラー、オペラもクナッパーツブッシュで、ワーグナーが続きました。78回転のSPレコードを手回し式大型蓄音機「クレデンザ」で、33回転のLPレコードをステレオ電気蓄音機「デッカ・デコラ」で、もう10年余りも皆さまとともに楽しんで参りました。かつての名演奏が復刻CDではなく、そのままのかたちで現代になまなましく甦ります。
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『小田実を読む』は、巷間「反戦平和」の「市民活動家」、「べ平連」の人としてしか認識されなかった(阪神淡路大震災が「地方の災害」であるにすぎなくて「自分の問題でもある」と考えさえもしなかった多くの東京の人たちは、とくにそうです。「市民=議員立法」のことさえ知らない)小田実が生涯を賭けた「小説」を読んでいこう、と企図された会です。 長大な作品が多いのですが、彼は短編も巧かった。時代が過ぎれば言葉が残る。言葉だけが残る。「なにごとかをやった」人間のことが書き継がれ、語り継がれていくとしても、100年後の少年たちはその「行為」に興味を抱くと同時に、その人が書いた言葉を通じて、その人について深く知ろうとします。小田実は活動家としても多くの市民運動をやりました。「べ平連」、「市民=議員立法」以外にも。また評論はあまたあり、小説も山とあります。 毎朝言葉を原稿用紙に書いていた多作型の巨人でした。
私の担当した『何でも見てやろう』は初版当時(1961年)の大ベストセラーで、ある年代以上の人なら知らない人はいません。お金のない若者の世界旅行記といった外面は痛快であり、日本を元気づける言葉も随所にありますから、これを読んだ当時の左翼の陣営からは「変な右翼が出てきた」と思われたそうです。私のレジュメは長大なもの。講義ノートを縮小しても、やはり長くなりました。それを一括掲載することを考えていましたが、その紙幅はなさそうです。
下記の12月と3月の集会は「市民の意見30・関西」の主催事業です。その例会は小田実存命時には、毎回小田さんがゲストを呼ばれたり一人で喋ったりして、現代の日本と世界の問題について鋭い問題提起をされてきました。
阪神淡路大震災の追悼の日、1月17日が来れば毎年その近辺の日に集会をもつことにしています。年に一度だけ「市民=議員立法実現推進本部 事務局長」に戻って、あの日々のことから「現在」を考えてきました。 そして2011年3月11日、「東日本大震災」が起きてしまいました。あの頃のメンバー、早川和男、伊賀興一、中島絢子の諸氏と私とで「阪神淡路大震災被災者から東日本大震災被災者への提言」を早速にまとめあげ、4月11日には世に出しました。(詳しくは、本号冒頭へ戻ってくださいますように!)
青山斎場での弔辞で、芦屋のサロンでの挨拶で、私は「小田実は死なない」と申し上げました。「提言」の言葉のなかにも、仲間に並んで小田さんの引き締まった顔があります。
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2011年 8月 15日 発行 著 者 山村 雅治 発行者 山村 雅治 発行所 山村サロン e-mail yamamura@y-salon.com H P www.y-salon.com Facebook www.facebook.com/yamamurasalon
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