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<< Vol. 43 2010後期- Vol.44 Vol. 45 >> |
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これは日付からいえば次号に掲載するべきものですが、お聴き下さったかたがたに、まずお礼申し上げるためにのせました。 合唱団のメンバーは、次の12名です。
一同とともに、もう一度深々とご挨拶させていただきます。ありがとうございました。
松井美保子『Y氏肖像・緑』 2010年5月 於:天王寺 「東光会展」出品作
カフェ・フィロはお茶を飲みながら哲学を皆が分かることばで語り合おう、という試みです。藤本啓子さんのお誘いを受けて過去2回(林達夫とベルグソン)、サロンを離れて神戸に出かけて語りました。プラトンの「対話編」ですが欧文表記は「Operas」です。もともとが市民の言葉で書かれていて、当時の哲学者たちは、路上で人びとと語り合うことでレトリック(修辞学というよりは説得術)を磨きました。 『弁明』と『クリトン』は読み方を変えれば、つまり真理において圧倒的に優位に立つソクラテスが民衆に向って「反語」を述べた、とすれば、彼の死はむしろ「悪魔的高笑い」を伴っていたものだ。そんなことを語りたかったのですが。
私が役者として参加する「北辰旅団」公演 『大逆百年ノ孤独』については、前号(山村サロン会報2010前期Vol.43)に詳述しました。高知公演がおわって若い団員はすぐに帰途に着きましたが、北野座長と私と摩弥はもう一泊することにして、打ち上げに参加。酒好きの土佐の人たちにしこたま飲まされたことでした。いや、土佐の男はすごいです。土佐鶴という酒が定番で、あとからあとから注がれます。つまみはウツボの唐揚げ、なまのちりめんじゃことか。 いずれにしても、表向きには龍馬で沸く高知に行って「大逆事件」の幸徳秋水の芝居をやった私たちは、現地の人たちに喜んでいただきました。このご縁で、たとえば、
という催しに高知から公文豪さんをお招きすることができました。公文さんは高知近代史研究会副会長、高知市自由民権会館非常勤調査員。お話では、安重根の弁護活動を担ったのが自由民権運動を積極的に展開した「土佐人」だったことが熱く語られました。 また『大逆百年ノ孤独』の2011年1月23日の四万十市中村公演も決まりました。秋水が処刑されてから、ちょうど100年目にあたります。2月には毎日放送の「大逆事件」に関わるドキュメンタリー番組が放映される予定です。稽古場から芦屋と高知の本番までカメラが回されていました。
夏場は「なよ竹のかぐやひめ」のための六甲合宿も含めての練習にあけくれました。私たち役者4人のほかは、けま きらくえんのスタッフの皆さんで、登場人物の多い芝居をつくりあげていきました。けま きらくえんは、特別養護老人ホームで、日ごろは皆さんは介護、調理、会計などの忙しい業務に携わっておられます。
「喜楽苑」そのものとは、総帥の市川禮子さんに初めてお会いしたのが震災直後の1995年4月。小田実さんとともに「市民救援基金」の活動を通じてのことでした。彼女の福祉の思想は従来の考え方を一新するものでした。 けま・きらくえんも10年を経て、お祝いに集まられたかた多数。
芝居本番は、みんながんばりました。雨がざあざあ降るなかで、出ずっぱりの人はびしょ濡れになって。それでも落ち着いて台詞を飛ばさず。このまま劇団に残ればいいのに、と思うスタッフさん多数。私の役どころは「ミカド」。いにしえの奈良のことばと、芝居の最後にでてきて全体を締める和歌の朗誦に心を砕きました。
■音楽会
秦はるひさんは芦屋市立山手中学校の同窓生で、私は中学生のときに彼女が弾いたベートーヴェンの「田園ソナタ」をよく覚えています。もうすでにびくともしない安定感があり、音楽科の松島正之助先生も「彼女のピアノは安心して聴いてられるねえ」と笑顔で私に話しかけられました。彼女は当時からずばぬけていました。
サロンを開いてしばらくしてから、バッハを弾きに来られて、その折に彼女のこどものときからの先生、横井和子さんにもめぐりあいました。横井さんは同時代の作曲家の作品をたくさん初演なさっています。高田三郎、松下真一、奥村一、そのほかにも。 秦はるひさんも、若いころから同時代を生きる作曲家の作品を弾いてこられましたが、今回のリサイタルでは若い二人の作曲家に新作を委嘱。ピアニストにかぎらず演奏家は、どんどん「現代の音楽」をやるべきです。作曲と演奏の分業がふつうになった今、自作自演型の作曲家/演奏家はむしろ稀で、孤独な若い作曲家は「いつか誰かが演奏してくれる」かも知れない楽譜を書きためています。(「いわれてつくる」怠惰な連中には、そもそも現在の創造への衝動がなく、したがって未来もありません)。
田村修平さんの『朱月の夜』と松岡あさひさんの『青いリズム』。奇しくも「朱」と「青」の色彩の対照。新鮮な感覚による響きの美しさは二作ともにあり、それでいて異なる個性が底に見えていました。大成を期待します。
ラフマニノフ『サロン小品集』は革命前の優雅なロシア。ヨーロッパそのものを目指したモスクワ楽派は、民族性を押し出す国民楽派に批判されました。ラフマニノフはアメリカへ渡った晩年にいたるまで終生、繊細な魂とロマンティックなまでの人恋しさを書きました。
一転してプロコフィエフは革命の時代を変転しながら生きた人。スターリンと同じ年、同じ日に亡くなりました。彼のピアノソナタは、私の若いころにはリヒテルの演奏でよく聴きました。力と力がぶつかりあう中に、透明な抒情がほとばしり出て。完成された9曲のなかでどれが好き? と訊かれれば「5番」と答えます。それは秦さんも同意見でした! 秦さんの演奏は全編におちついた力がみなぎり、多彩な音色と鋭さ、やわらかさの対比、あるいは強弱で語りかける雄弁さなど技術の限りをつくしながら、しかも現れてくる音楽は「ピアノ音楽」を弾く、聴く、その喜びにあふれていたのです。
秦さんの「私の好きな国々」、ロシア、日本の次に訪れたのはフランスです。 プーランクとフォーレが選ばれましたが、これも対照的な二人です。プーランクの表現の幅は広く、同時代の批評家クロード・ロスタンに「ガキ大将と聖職者が同居している」といわれました。機知に富む明るい音楽があり、生真面目な合唱曲、宗教音楽もあり。「5つのノクターン」は30歳から36歳にかけての作品で、秦さんはあたかも一篇の物語のように弾かれました。
プーランクが「肌に合わない」と公言していたフォーレは、若いころには輝くような外面性がありましたが『レクイエム』を含む中期以降は、より簡素な語法へ収斂していき、リズムも調性も輪郭の定まらないものになっていきます。フォーレの音楽の底には初期の作品のなかにさえ耳を澄ませてじっと聴き入るような「静けさ」や「典雅さ」があったはずです。
「私の好きな国々T」は、かくしていろいろなことを教えてくれるコンサートになりました。「U」は、はたしてどこの国々へお連れ下さるのでしょうか。
待ちに待った大井浩明さんの「シェーンベルク・コンサート」! ピアノ独奏曲はシェーンベルクのみならず、ベルク、ヴェーベルンを伴った「新ウィーン楽派」そろい踏みであり、シェーンベルクでは初演の時に行けなかった「黄金の仔牛の踊り」(川島素晴編)と、なによりも嬉しい柴田暦さんをお迎えしての「月に憑かれたピエロ」まで、という豪華版です。このようなコンサートは他に類例がありません。内心はもう、お祭り騒ぎですよ。
サロンではJ.S.バッハをずっと弾いてこられた大井さんは、彼を知る人ならどなたもご存じなように「現代音楽」をかたっぱしから弾いてこられているピアニストでもあります。スイスのベルンへ留学する機会を得て、かの地で古楽器(チェンバロ、オルガンほか)の奏法も修得。いまや、あらゆる時代のあらゆる鍵盤音楽が彼によって征服されつつあります。
最近の大きな仕事はベートーヴェンの「ピアノソナタ」とベートーヴェン/リストのピアノ独奏版「交響曲」の全曲ツィクルスでしょう。それらはCDがリリースされつつあります。使用楽器も作曲された当時のフォルテピアノ数種を使い分けられました。シューベルトの最晩年の3曲の「ピアノソナタ」にも打たれました。20歳代の頃から彼を知っていますが、40歳を過ぎてますます活動は盛んです。
いま現在はPOC(Portraits of Composers)という企画の真っ最中で、日本の作曲家ばかりを採りあげたコンサート・シリーズ。会場はいずれも東京 門仲天井ホール、19時開演。
さて、今回の「新ウィーン楽派ピアノ曲集成」。 冒頭にベルクの作品1。これはもう「後期ロマン派」のむせかえるようなピアノ曲です。歌の作曲家が師 シェーンベルクの「発展的変奏」を使った作品。作品の構造も抒情もすべては明るみに弾かれました。 以下、コンサートの前半はシェーンベルクのピアノ独奏曲のすべて。1909年から1931年にかけて作曲された5曲には、ヨーロッパの芸術史の上でも興味深い様式の変転があった20世紀初頭、作品が書かれたそれぞれの時代のシェーンベルクの発見や試みが充満しています。
世紀末のヴァーグナーに予兆されていたロマンティックの終焉、1911年から始まったカンディンスキーとの交流と「青騎士」参加。それは、シェーンベルクの音楽に感銘を受け手紙を書き、のちにはアマチュアの絵描きにすぎない絵を評価してくれた画家カンディンスキーとのいわば「異業種交流」で、シェーンベルクは自分が音楽でなしとげつつある理念が、広く芸術全般に適用できるという信念を抱くに至っただろうことは疑いえません。だからヴァーグナー以後の「総合芸術」を考えます。そして戦争(第一次大戦)がもたらす不安、あらゆる分野でのモダニスム。
作品11『3つのピアノ曲』と作品19『6つのピアノ小品』は、12音以前の無調の作品。しかし、この2曲のわずか2年の間にも大きな違いがあります。作品11は、まだ古典の目で読める構造があるのに対して、作品19には見ることができないばかりか、すべてが切り捨てられています。9小節しかない曲が4曲。「あらゆる形式、あらゆる結合と論理の象徴からの完全な解放」を求めている、とシェーンベルクはブゾーニへの手紙に書きました。(当日配布の冊子の解説による。筆者はYuuki Ohta氏)。
作品23『5つのピアノ曲』は音列の技法が駆使されました。また「装飾音、分散和音、対位法、技巧的パッセージ、アーティキュレーションなど、伝統的なピアノ奏法が半音階的な楽想に拡大、応用され、革新的なピアノ作品の可能性が示されている」(前掲書)。そして作品25の『ピアノ組曲』に至り、シェーンベルクは12音技法を使った「最初の大きな作品」としました。「組曲」というバロックの器に盛られた前衛の優雅な音楽です。作品33aと33bは完全に12音技法がきわめられた作品。これ以後、シェーンベルクはピアノ独奏のための作品を書いていません。しかし、1曲ごとに移り変わる歩幅の凄さ。 プログラム後半は『黄金の仔牛の踊り』(川島素晴編)で始まります。未完に終わったオペラ『モーゼとアロン』こそ、人類がもった最高の音楽作品です。シナイ山に登って帰ってこないモーゼを待ちきれなくなったイスラエルの民。その要求にこたえてアロンは黄金の仔牛を祀る祭壇をつくります。モーゼが無調の伴奏でシュプレヒシュティンメ(旋律的でない話すような歌声)で民を導こうとするのに対して、アロンはテノールで調性感のある音楽をうたいます。『黄金の仔牛の踊り』の場面は、安っぽい偶像を喜び、崇拝して、狂喜乱舞する群衆の描写。大井さんのピアノによって「巨大な塊状の音が津波のように押し寄せ嵐のように暴れ回る」(前掲書)様が活写されました。ピアノ1台での川島版は、そう誰にでも弾きこなせるとは思いませんが広まればいい。
ヴェーベルンの作品27『ピアノのための変奏曲』は、彼のたったひとつのピアノ独奏曲。厳格かつ禁欲的な12音技法の結晶体です。この曲を演奏してきたピアニストたちはあまたいます。しかし、私はどの演奏にも「ちがうなあ!」と感じ続けていました。彼らは緊張を強いすぎます。息をつめすぎて、あまりにも堅苦しい音楽にしています。考えても見てください。シェーンベルクらがもともと考えていたのは、調性の枠組みからの完全な自由、完全な解放であって、別の「12音技法」にがんじがらめに囚われて不自由になることではないのです。だから、たいていのピアニストから聴こえてくるのは「囚人の音楽」。大井さんはちがいました。第1音から次の音への歩みがすでに自由でした。ヴェーベルンのこの曲は、彼が弾いたような音楽です。
そしてヴォーカルの柴田暦さんを迎えての『月に憑かれたピエロ』。シェーンベルクは1901年から翌年にかけてベルリンのキャバレーUberbrettl の音楽監督をつとめて「キャバレー・ソング」をつくりました。ヴォーカルは「歌と語り、囁きと叫びの間を官能的に揺れ動く」(前掲書)シュプレヒシュティンメの使用があり、伴奏部をピアノ1台が受け持つとき、この作品が「キャバレー・ソング」を最高の芸術作品に高めたものであることが分かります。編曲はシェーンベルクの弟子のエルヴィン・シュタイン。
柴田暦さんによる『月に憑かれたピエロ』は、以前からたびたび共演を重ねてきた大井さんの企てによります。彼女にはできるだろう! 声楽家ではなく女優であり、女優ならではの表現力が発揮されて、舞台には新鮮きわまりない『ピエロ』があらわれたのです。 かつて、毒婦のような妖婦のような、どぎついまでの極限の表現力をみせてくれたソプラノ歌手がいました。そのスタイルでは世界最高。その奈良ゆみさん(ピアノは寺島陸也氏)のものとは根本的に描かれる世界がちがいました。それは澄んだ声で語りうたわれる、穢れを知らぬ少女の『ピエロ』! 東京公演へも行きました。そこでは柴田暦さんのご両親、柴田翔さんと三宅榛名さんにお目にかかれて、なつかしい再会。家族3人で応援に行ったのですが、いろいろな感慨におそわれました。榛名さんがかつて弾き語りした『れきちゃんのセーター』の「れきちゃん」が、いまや『ピエロ』に新鮮な解釈をみせるヴォーカリストに。大井さんのピアノも考えぬかれたもので、隅々まで表現への意志にみなぎるものでした。
ピエール・モンティさんをお招きしての今回の「21世紀音楽浴」。継続する企画をおし進める久保洋子さんは作曲家/ピアニストで、大阪音大教授として後進の指導にあたり、すぐれた作曲家を輩出させています。パリで「久保洋子楽派」のコンサートが開かれたことなど、新聞・雑誌に採りあげられるべきことなのですが、活動拠点が西宮・芦屋、でなければパリなので、東京中心の報道からは洩れてしまいます。作曲家・久保洋子の作品の楽譜も日本ではなくパリで出版されています。
かんがえてみれば、もともと世界水準をもとめて孤独に穴を掘り進めている芸術家は、自分がいる場所が「中心」なのであって、台湾育ちの彼女にしてみれば東京よりもパリのほうが肌に合っていたのでしょう。はじめから日本でなく、地球の上で彼女は生きてきたのです。
「寒天ダイエット」に成功し、すっきりと痩せられてから彼女は、バレエと能楽の稽古を始められました。そのことが作品に反映しないわけがない。 新作『エグジベランス』は、繁茂、ありあまる豊かさ、陽気さ、にぎやかさという意味。日本の伝統音楽と西洋音楽のぶつかり、あるいは融和について、久保さんはいつもかんがえてこられました。そして、この2,3年はますます音符の数が少なくなり、より簡素な作品が発表されてきています。それも推敲のはてに不要な音を削ぎ落とす、という様子はなく、のびやかに広げていって簡素なのです。必要な響き、必要な音だけを奏でていく。構造はあとからおのずと備わっていく。
久保さんの師・近藤圭さんの作品は、2002年10月の「21世紀音楽浴」(山村サロン)で初演された作品です。歌舞伎、人形浄瑠璃『艶容女舞−酒屋の段』から生まれた音楽作品で、近藤さんの場合はより直接的に、日本の伝統芸能を西洋の「現代音楽」に持ち込んでいます。明治期の作曲家・北村季晴はさまざまな古典邦楽を西洋音楽の五線譜に移しました。近藤さんの作品に、ふと彼のことを思いました。
さわやかな後味の残る演奏会でした。シュタルケルが信頼した練木繁夫氏にも師事された藤本紀子さんの今後のご活躍を祈ります。
今年もクレアリー和子さんはお元気でリサイタルを開かれました。ヨーゼフ・ホフマンやブゾーニら19世紀末から20世紀初頭のピアニズムを彷彿とさせる演奏。彼女はフジ子・ヘミングの友人でもあります。根差している音楽性も、どこか似ているようです。
サロンではめずらしいポップス系のピアノ・コンサート。かと思えばクラシックも現れて。おしゃべりで楽しく盛り上げる上質のエンターテインメントです。
■ 小田実を読む
1
早いもので、小田実さんがあちらの住居へ移られてから3年が経ちました。あちらへ引っ越されてからもなお、混迷する現代(世紀初めなのに世紀末のような)を、ともに歩いています。もっとも彼は「イデオロギー」の思想家ではなかったので、「オダ主義」などというものはありません。
非武装、非暴力の平和主義者。人が小田実さんの思想を語るときに、まずそう言われます。「べ平連」代表として。あるいは震災後の「良心的軍事拒否国家日本実現の会」代表として。しかし「小田実の思想」の全体は、それだけにとどまるものではありません。
彼はまず、大阪大空襲に逃げまどった少年で、高校生のときから小説を書いていた芸術家であり、鶴見俊輔さんらの誘いで市民運動「べ平連」代表を務めるようになったのは『何でも見てやろう』がベストセラーになり、有名になってからのことです。
「知行」という言葉があります。知識と行いが直接的な意味ですが、もっと広げれば「思想と行動」。古典ギリシア語を東京大学で学んだ青年が「フルブライト留学生」になって、ハーヴァード大学に留学することになります。お金がないという現実は、無銭旅行で行く先々の各国の「街の底」の現実にぶつからせ、すでに長編小説を2冊も出版していた小説家でもあるという立場は、各国のハイ・ソサエティの生活を見ることに役立ち、あるいは世界的な著名人との会見も体験できることになりました。 ハーヴァードではライシャワー、講演会でパール・バック、メキシコでシケイロス、パリではロブ=グリエなど。いずれも単なる旅行者では身近に接することは至難です。パリでは森有正にも会って話をしています。
2
まだ船旅の時代でした。アメリカ留学に出かける小田さんは、トーマス・ウルフと馬鹿でかいものが大好きで、ニューヨークの摩天楼とミシシッピ河とテキサスの原野に憧れて、まずハワイに着き、そしてアメリカ本土のシアトルに到着した。 そこからは大陸横断鉄道。汽車「帝国建設者」(エンパイア・ビルダー)号でシカゴまで50時間の旅。シカゴは「憧れの都会」。「わが故郷大阪と似ている」「活力に満ちていて、在野精神に富んでいて、お金の町であり、工場の群がるところであり、汚くてそして無限に美しい」。「詩的(ポエティック)だ」。
9月からハーバード大学に。その所在するボストンからニューヨークにしばしば行って「タダで宿を提供してくれる」友人宅に長逗留。
「ZEN」という語が当時の日本の代表的なイメージとして、アメリカだけでなく世界のいたるところで出てきます。「ZENブッディスト」は、たとえばアメリカの女の子には魅力的だったのです。ヨーロッパの文化人にとっても、日本の精神文化を書いた代表的な書物が「ZEN」を書いた鈴木大拙でした。『茶の本』の岡倉天心や『武士道』の新渡戸稲造よりも。 鈴木大拙は1950年より1958年の間は、アメリカに住み、ハワイ大学、エール大学、ハーバード大学、プリンストン大学などで仏教思想に関する講義を行なった。鈴木はカール・グスタフ・ユングとも親交がありました。
3
最初のニューヨーク行での宿はTとKが住むアパートでした。TとKは「夫婦」で、ホモセクシュアルだったのです。三室の一室に「夫婦」が眠り、中央のリビング・キッチンを隔てて「私の室」がある。「ゲイ・バーの憂鬱」には「アメリカ社会の底」という副題が付けられています。ゲイの男たちの生態が描かれる。女装する「ドラッグ」のことも出てきますが、そのことは後年の小田さんの小説『玄』に活写されることになります。
「アメリカの匂い」には「ビート」が描かれます。「ビート」は、「さびしい逃亡者」だ。「ビートのなかにも多くのゲイがいた」。ゲイもビートも大型スーパーマーケットに代表される「アメリカの匂い」からの逃亡者であり「画一主義(コンフォーミズム)」を、それに満ちたアメリカ社会を嫌い、憎み、嗤う。小児退行現象であって、彼らをそこまで追い込んだものは何か。20世紀文明の重み。「袋小路にまで行きついて出口を探している」極限のかたち。小田さんが見たすべてのアメリカの芸術は「ビート的」であり「出口なし」。ギリギリのせっぱつまったもの、やぶれかぶれの迫力。
郊外地には「アメリカの匂い」しかありませんが、ニューヨークやシカゴのような大都会では脱出することができます。映画ならハリウッド映画を見ずに「知的で芸術的で高級な『ラシャモン』(「羅生門」のことである)とやらを見ることだって可能である」。 ここで黒沢明の映画に言及されます。「クロサワ」もまたヨーロッパでも有名であり、日本の文化を代表する名前だったことが分かります。「ZEN」と「クロサワ」のおかげで海外の日本人は明らかに得をしていました。
小田さんは日本に胸を張る。喫茶店のこと。 そして「ヒバチからZENまで」―アメリカの「日本ブーム」の章。P.63。 『何でも見てやろう』の初版は1961年7月15日付。小田さんは青年であり、大人たちは敗戦の記憶もまだ生々しいものがあっただろう。日本人は打ちのめされた。だから、この小田さんの「日本自慢」には胸のすく思いをもって読んだ読者が多いと思われます。日本人は多かれ少なかれ欧米人に劣等感(コンプレックス)をもっていたのではないか。ことによると今も。
そしてこのあたりから、『何でも見てやろう』を思想書として読むときの思考のスタイルが鮮やかになってきます。一つ一つの国の社会の「上」と「下」を観察し、そのどちらにも身を投じて「体験」する。そしてそこには日本はどうか、という眼差しがつねにあります。
講談社文庫版には1971年5月に書かれた「あとがき3」が併収されていて、そのなかで、酒場でのインテリたちの会話が聞こえてきたことが書かれています。『何でも見てやろう』について「あいつは歩きまわっているだけだよ。あんな本に思想などあるものか」。彼らインテリたちの「思想」と小田実の「思想」は決定的にちがいます。頭でっかちの観念にあらず、すべては血肉化されて、路上で鍛え上げられたものです。古代ギリシアの哲学者のごとくですが、これが哲学のまぎれもない「正統」です。
じつはそのことを語ろうとしたのが12月18日の私がレポーターになっての『何でも見てやろう』の回なのでした。
4
さて、2010年7月24日「小田実と歩く」。第1部「小田実を語る」。 ロマン・ローゼンバウムさんは1966年オーストリアのウィーン生まれの日本文学の研究者。早稲田大学大学院で博士論文研究。シドニー大学で博士号取得、同大学の名誉アソシエイト。2004年に小田実『玉砕』を読み感銘を受け、以後、小田実研究に励まれています。 ドナルド・キーンさんが『玉砕』の英訳をされました。ローゼンバウムさんはおそらくその本を読んだのでしょう。キーンさんの蒔いた種は見事に発芽し成長し、花を咲かせようとしているのです。「世界に広がる」小田実文学。
彼のことを語った玄順恵さんは、小田実さんの「人生の同行者」として創作の現場をいちばんよく知る人です。現在刊行中の講談社版『小田実全集』に全作品の解説を書いておられます。彼女はまた、2010年6月の「市民の意見30・関西」例会において「世界に戦禍があるかぎり、市民の闘いは続く」-「四・三〇解放」35周年記念式典に参加して-という話をされました。ベトナム戦争終結、サイゴン解放の日から35年。ベトナム政府は20余か国から国賓を招き、現ホーチミン市で「開放式典」を開きました。玄さんも招かれて出席されました。
海老坂武さんの『戦争と文学』は重厚な講演でした。しかし語り口は平明。ユーモアを織り交ぜて、誰にもわかるように諄々と説いていかれるのです。戦後の日本文学に現れた「戦争文学」。小田さんのなかでは「HIROSHIMA」が最高傑作、といわれたことは私も同じように思います。地上の人すべてに、これは日本だけの問題ではない、と迫る迫力において、原爆を扱った「世界文学」であることにおいて。
そして第2部「小田実を読む」。私がレポーターになり『玄』を読みました。『何でも見てやろう』では、アメリカのゲイの世界の鳥羽口が描かれていたに過ぎませんが、『玄』では、さらに奥深くへ踏み込まれています。 以下、諸作についてのレポートは近刊の『りいど・みい』第2号をお読みください。
音楽療法家の医学博士。そして作曲家にしてサックス奏者で、大阪芸大教授。かつてはパリとニューヨークの聴衆を自作自演の『清経』で沸かせた「現代音楽」のスペシャリストであり、音楽史上の事実として「サックスによる現代音楽」は、野田燎さんが初めて吹き鳴らしました。 パリだけでなく、ニューヨークへも飛んで奏法の幅を広げられ、そのころの代表作「無伴奏サキソフォンによる即興曲」( Improvisation for Solo Saxophone)は、いまなお世界中のサックス奏者によって演奏されています。
「野田燎ファミリーコンサートシリーズV」の「V」は、3年目という意味です。できるかぎり毎月行うことをめざして順調に進んでいます。「野田ファミリー」には、野田さんの音楽療法にピアノや声楽で関与する人たち、そして大阪芸大関係のサックス専攻の人たちがいて、その他にも野田さんの友人の音楽家が出演されます。 マイケル・チンさんはその一人。日本人なのですが髪も眉毛も気合の入った金髪で、国籍不明の外見のまま、名前はアメリカ系中国人を名乗り、アフリカン・ドラムを叩きます。しかも曲間に入るおしゃべりは全く正統的な関西弁なのです。
この日の最後の野田さんが加わっての二人の即興はおもしろかった。野田さんのこれ以上はあり得ない乗りは生命の充溢そのものであり、創造と追及のはげしさ、鋭さが開放へ導くユーモアを伴って現れてくる場面など、最高の音楽の連続でした。終演後も「あれは二度とできない」と。こんな時間が訪れますから、ぜひ!とお勧めする次第です。
サックスの「アンサンブル・カプチーノ」は重低音から最高音までの各種のサキソフォンがずらりと並ぶもの。オーケストラのスコアが演奏可能であり、「運命」や「40番」を含めての多彩なプログラム。「星条旗よ永遠なれ」のピッコロのパートは、もちろん野田さんが受け持たれます。楽しいレパートリーの一つになりました。
これらのレコード・コンサート、昔を知ってる人も「温故知新」の若い人も。音楽の記録音盤の楽しみは尽きません。
松井美保子『Y氏肖像』 2010年11月 「兵庫県綜合水彩画展」出品作
松井さんは、ほかにも、あしや喜楽苑ギャラリーと芦屋市男女共同参画センター ウィザスあしやで、2010年10月に『松井美保子 油彩・水彩展』を開かれ、『Y氏』シリーズの旧作も展示されました。
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2011年 1月 1日 発行 著 者 山村 雅治 発行者 山村 雅治 発行所 山村サロン
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