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<< Vol.42 2010前期-Vol.43 Vol. 44 >> |
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役者としての2度目の舞台は『大逆百年ノ孤独』。北辰旅団座長の北野辰一さんが、ちょうど100年前の悪夢のような「大逆事件」をとりあげた芝居です。
彼の案内文にいわく「大逆事件の歴史的意味は、この百年の日本の舵取りと決して無縁ではありません。また、今日ほど大逆事件の内包していた社会的問題がうかがい知れる時期はないように思われるのです。当時、絞台の露と消えた幸徳秋水や、一高で『謀反論』の演説をした徳富蘆花もいい残しているように、百年後の人間がこの事件をどう理解するか、その歴史認識がいま問われているのではないでしょうか」と。 またいわく「大逆事件と韓国併合は、その後の日本の歩みを定めたものとして決して別物ではないと思われます。また、平和と人権を希求する全ての人に対して等しく開かれた歴史として大逆事件は、私たちの未来を創造する歴史的事件として在ることを知ってもらいたいと思っております」と。
2009年9月の『宇宙の種まく捨聖』が北野さんの「芸術的表現」の、おそらくは極北にあるもので、その次の2009年11月の『新・黄楊の小櫛』から作風が変わってきます。『捨聖』の言葉の世界は抽象的かつ難解で、場所も現世にあるのかそうでないのか定かではありません。今回の『大逆百年ノ孤独』は歴史の事実に即した、資料からの言葉がそのまま並べられ、作家の想像によってつくられた言葉はむしろ少ない。すべてのシーンがどこであるのか特定できるし、その出典もあきらかにできます。すなわち、わかりやすい。時代の歌も象徴性を帯びたものを入れる。歴史を演劇化することの、これ以外にはない正攻法です。
群衆の役は合唱団と演劇部のみなさんに手伝っていただきましたが、役者5人はなにしろ登場人物が多いもので大変でした。私は五役を務めました。 芝居の開始は、まず歌。『椰子の実』。続く「群読」は役者5人で。「大逆事件」に連座し処刑された幸徳秋水らに呼びかけるものです。はけると「爆裂男」(宮下太吉)が現われ、「群衆」にとっちめられ逃げます。そこへ「怪人坊」(内山愚童)登場。「無政府共産」についての素朴にして力強い辻説法です。「預言者」が出てきて「爆裂男」と対話。「革命歌」(ああ革命は近づけり)を歌う労働者、小作人たちの行進。捕えられる彼ら。「預言者」の怒り。「爆裂男」は「爆裂弾」の実験成功。 暗転。『カチューシャの唄』。「女学生」(神近市子)と「夢絵描」(竹久夢二)の牧歌的シーン。「夢絵描」の独白に「預言者」が現われて、短い対話。爆裂弾の爆音が響くと「爆裂男」登場。4人の刑事に追い詰められて連行される。
暗転。『宵待草』。「石デコ」(石川啄木)が現われ、明治政府のやみくもな弾圧に鋭い批判。「ココアのひと匙」を詠む。「預言者」も捕えられている。「検事」による「預言者」への取り調べ。刑に服する者たちが「富の鎖」を歌う。 絞首台の床が落ちる音。オルゴールの音。夢絵描が絵を描きながら独白。「刑法七三条 天皇、大皇太后、皇太后、皇后、皇太子、又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」。この法律に基づいて処刑された者の名前が読み上げられ、「夢絵描」は嘆き、怒る。 場面は現代。100年後の「少年」が登場。「預言者」も現われ、二人の独白が交互に展開される。刑吏の声。「幸徳伝次郎、時間だ」。そこへ「レフ」(徳富蘆花)が飛び込んできて、事件後に一高で行った講演「謀反論」を語る。「新しいものは常に謀反である」「我々は生きねばならぬ。生きる為に常に謀反しなければならぬ」「幸徳君らは乱臣賊子として絞台の露と消えた。しかし、百年の公論は必ずそのことを惜しんで、その志を悲しむであろう」。「少年」の独白。「ぼくらの物語は、これで幕を閉じる。が、閉じられてからこそ、本当の物語が始まる」………
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戦後、日本は「非戦」の国となり、国民主権の「民主主義」に大きく変わり、「神としての天皇」も「人間天皇」になりました。「日本国憲法」には、幸徳秋水が命をかけて書いたことばの内容があちこちに聞こえます。それらは舞台上にも響いていたはずです。 秋水が民主主義をサンフランシスコで学んだとき、同地は大地震に見舞われました。そのときに無心で人々が助け合う姿を見て、彼はそこに理想の社会を垣間見ました。
高知公演も「高知詩の会」と「自由民権友の会」の後援を得て、盛況でした。島村三津夫さん、梅原孝司さんはじめ現地のみなさまのご厚情を感謝申し上げます。高知は目下のところ坂本龍馬がえらい人気で、どこへ行っても龍馬龍馬で、秋水は「自由民権記念館」にしかありませんでした。そこには地下出版された彼の本があるし、つぶされては別の場所からしぶとく出した「平民新聞」がありました。竹久夢二は挿絵を描いていたのです。
公演前に高知県の西部にある中村市を訪れました。幸徳秋水のお墓参り。横に坂本清馬のお墓。清馬のものは最近なので新しいお墓ですが、秋水のは、さすがに百年の歳月を感じさせるものでした。実際に処刑されたのは、事件の翌1月のこと。ちょうど百年後は来年1月24日なのです。その日の近辺に、この芝居の再演をその地で実現する運びが進められています。 また「毎日放送」のドキュメント番組のクルーが、私たちの練習段階からカメラを回して記録していることも付け加えておきましょう。「大逆事件」百年の、この国の人々の動きのすべてがまとめられた番組のオンエアは、来年2011年の早春の予定と聞きました。 北辰旅団は続きます。2010年10月には、特養老人施設、尼崎けま喜楽苑でお年寄りたちに喜んでもらうための芝居をやります。
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毎年、晩秋のお楽しみ。芦屋市婦人会会長や芦屋市ユネスコ協会会長などを長年にわたり務められている廣瀬忠子さんと山村サロンの共催で、リヒャルト・フランクさんがヨーロッパからお連れになった音楽家をお招きして、お話と音楽を楽しみつつ、アイディア溢れるおつまみに舌鼓を打ちながらのティー・パーティです。80歳を越えられてからの廣瀬さんは、ますますお元気で、毎日なにやかにやで飛び回っておられます。
ベルトラーン・ジローさんはパリ出身。パリとジュネーヴの音楽院卒業で、ピアノをアンドラーシュ・シフ、ブルーノ・カニーノらに師事しています。前半がジローさんの独奏。後半はフランクさんとの連弾で、有名なフォーレとドビュッシーの曲の間に、初めて聴く作曲家の作品が弾かれました。 アルフレッド・トカイアー(Alfred Tokayer, 1900-1943)。ドイツのケーテン生まれ。母がブルーノ・ワルターの従妹。エルンスト・トッホに師事した後、1930年までブレーメンの歌劇場で指揮者、ヴォイス・トレーナーとして活躍し、そのときの音楽監督は日本人にも親しいマンフレッド・グルリットでした。その後ベルリン・フォルクスオパーの指揮者、ヴォイス・トレーナーを務めますが、ナチスに迫害されパリに逃れることになります。レイナルド・アーンやロラン・マニュエルと親交を結びます。1936年には初期トーキー映画の名作「盗賊交響曲」(フェーエル監督)の音楽も担当しますが、ナチスに強制収容所に送られ、1943年にソビボルで亡くなったとされます。(以上、Donald Curry氏のブログhttp://justtryingtosortitout.blogspot.com/2009/06/music-of-alfred-tokayer.html)を参照しました)。
トカイヤーの作品は、2006年になってようやくカナダで蘇演されました。そしてフランスでジローさんが南仏演奏会を開き、トカイヤーの愛娘であるイレーネさん(Irene Tokayer-Curie)に会い、黄ばんだ手稿のコピーをパリへ送りました。現存する作品のすべてはジローさんが主宰する《Anima Records》によりCD化されています。彼は軽音楽の作曲家でもあり、非常に豊かな才能を感じました。
このレーベルは、ベルトラン・ジロー氏自身の録音やフランスの若手音楽家の演奏などを積極的に録音、リリースしています。
神戸市出身の辻野陽子さんはワシントン大学でスコーノフに師事、以後数回にわたって故ルイ・モイーズのマスタークラスを受講されました。モイーズ先生でつながった松本市出身の篠山由紀子さんと、カナダ生まれのピアニスト、高島春樹さんの若い3人による世界をめぐるコンサート。今回は演奏順に、ドイツ、イギリス、アメリカ、フランス、フランス、ハンガリー。とくにショッカー(Schocker,1959〜)とボリング(Bolling,1930〜)は珍しく、ことによると日本初演だったのではないでしょうか。 4
人は死にます。いずれ死にます。人は誰も、動かすことができない有限の時間と空間の中に生きています。それは人が「あらかじめ」限定された「枠」のなかにしかいないことを示し、「自由」や「無限」を求めてやまない魂は、痛切に存在の本質を感じる人のものです。そして、人は一人では生きられず、「あなた」や「かれ」「かのじょ」なしには干からびてしまいます。人間の「生老病死」を、釈尊は「苦」と喝破しました。なかでも「愛別離苦」(愛する人別れる苦しみ)と「怨憎会苦」(憎しみを覚える人と会う苦しみ)。
これは「カフェ・フィロ」の藤本啓子さんの企画の催し。私は彼女のお誘いを受けて、林達夫とベルグソンを「書評カフェ」で語りました。それとは別の分野の藤本さんの「ライフワーク」と申し上げて差し支えないと思いますが、今回は「風舎」としての主催になりました。前回の主催は「患者のウェルリビングを考える会」。「死の理解」がテーマです。その場で私と山村サロン女声合唱団が「グレゴリオ聖歌」と高田三郎「典礼聖歌」を歌い、話者としても「死と再生」について話をしました。メインゲストの清水哲郎さんも含蓄のある話をされました。
こどものころは、わが家は大家族で、まずばあさん、次にじいさん、そして長生きしたひいばあさんと、肉親の死はつねに身近にありました。大人になってからは、震災前後に両親とも長い介護のはてに送り届けました。肉親を失う悲しさは、私はよく知っています。父は脳梗塞で寝たきりになり四年間。母は癌の闘病五年間。だから介護のたいへんさも知っています。また、若いころの恩人である編集者の最期の時期に、横須賀までホスピスを訪ねたこともあります。人は誰も、こうしたことから逃げることができません。拙著『宗教的人間』のなかで私は「宗教家は死の専門家であるべきだ」と書きました。
今回の講師、松本市の神宮寺住職・高橋卓志さんのお話は、まさに「死の専門家」の面目躍如たるものがありました。ゴーギャンの第二次タヒチ滞在期に描かれた「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」がスクリーンに大きく示されて、お話はむしろ明るさを帯びた色調で進められました。 「現代社会に充満する「苦」の現場に伝統仏教がかかわらないのなら、存在価値は無く、消滅に向かう―」。高橋さんはご著書『寺よ、変われ』(岩波新書)のなかで、こう書いておられます。29歳の時。ニューギニアのビアク島で戦没者の慰霊に立ち会い、最期に訪れたであろう苦しみ、痛み、不条理に圧倒され、「苦」を真正面から見ることを教えられた、といいます。以来30年間、寺を拠点にチェルノブイリ原発事故の被曝(ひばく)者やタイのHIV感染者らへの支援のほか、地域でのターミナルケアや高齢者ケアなど「いのちの汀(みぎわ)」で活動を続けてこられ、「生老病死すべてにかかわれる拠点はお寺以外ない」と主張されています。 終了後、高橋さんにお話をうかがう時間がありました。小田実さんとも会って話を交わされたことがあった、との由。縁は不思議なものです。人はやはりひとりではありません。 4
小田実さんは生きています、と亡くなった後に開いた会で私は宣言しました。今年はシューマンとショパンの生誕200年ですが、演奏家が彼らの曲を弾き、ファンが支持するかぎり、彼らは生き続けます。美術も文学も同じことです。哲学はどうか、といえば、すぐれた哲学は文学としてもすぐれているから、例えをひとりだけ挙げればプラトンは残ります。神話や聖典は別として、個人の表現としての、小説家の最古の人は紫式部。詩はホメロス。劇作家の古いのは、古代ギリシアのアイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデス、アリストファネスら。千年、二千年を楽々と生き残る「人間のことばの力」とは何か。
小田さんは大学生のころから、古代ローマ時代末期の文芸批評家ロンギノスを読むことを通じて、そのことを考え続けた作家でした。人として何をするか、は市民運動で。何を書くか、は評論で。そして、いかに書くか、の修辞を文学で。それらのなかで、最も技術が求められるのは文学です。芸術は技術に裏打ちされて時間に耐える硬度を備え、力が脱ければぬけるほど、その及ぶ輝きは全地におよび全時間を貫いていきます。ラブレーやセルバンテスは、かくして世界文学となり、彼らはそれぞれに鋭い同時代の批評家であり、同時代を動かした文学者でもありました。
作家・小田実が「彼ら」の水準、世界水準を自らの基準としてあらゆる「ことばの仕事」をしていたことを私は知っています。人は誰も、表現を生涯の仕事と定めたならば、低い水準に甘んじることなく、世界水準を知り、歴史を学び、自らの仕事の基準をそこに律していくべきです。小田さんは、そうされていました。そして、真実そうであったかどうかは、後世の私たち、あるいは「百年後の少年」たちが彼を読むかどうかに問われているのです。その時空への礎を築くべく、営々として私たちは「小田実を読む」の月々をつづけています。ゲストとしてお呼びした子安宣邦さん、坂上弘さんには衷心より感謝申し上げます。
次頁以降、坂上弘さんの新聞記事と、私の「オモニ太平記」レジュメを添付しておきます。「小説」と「評論」の境界は、じつはあいまいなのです。坂上さんは『何でも見てやろう』を「小説である」といいきられました。 「市民運動」に関しては、阪神淡路大震災の1月の催しが、なお続けられます。「市民=議員立法実現推進本部」は、いまだ恒久的に市民が安全にして安心に暮らせる「立法」を実現していないからです。「小田実を読む」とともに、息の長い活動です。「市民立法」草案時の早川和男さん、伊賀興一さん、私も、「実戦部隊」として前衛に立った中島絢子さんら、そして東京で奮闘した玄香実さんらもまだまだくたばりません。 小田さんの「人生の同行者」、玄順恵さんはどの集まりにも元気なお顔を見せてくださっています。このほど「小田実全集」が講談社から「電子書籍」としてもリリースされました。全巻の解説は彼女の書き下ろしです。
以上、小田実の Symphonia Domestica 『オモニ太平記』の楽曲解説でした。 5
小田実さん一家と親しくされて、一人娘のならさんにピアノを教えていた「久保先生」の音楽会。この日、私は「芦屋川ロータリークラブ20周年式典」で、久保洋子さんの音楽会を初めて逃しました。その日、北辰旅団の芝居「新・黄楊の小櫛」初演があり、北野辰一さんの劇作の「第二期」(わかりやすいことばを用いながら高みを示唆する)の展示があったからです。ですから、なまの音として聴いていません。
新作「エグザラシオン」は「自分の内なるエネルギーを音を通じて外に発散させる」音楽。録音された音源からの印象は、一筋の光がやがて虹色の素早い変化を見せつつ変容し空無の中に溶け込んでいく。作曲者の体をするりと脱けて、音楽は自由です。パリで門下を連れて「久保洋子楽派」音楽会を開かれた「グラン・メートル」は、いま自由です。 6
大井浩明さんの演奏会のひとつひとつは、あたかも修行僧のごとき禁欲と修練の成果といえますが、見かけはそうでも、じつは探究する喜び(彼は果てしなく探究します)と発見する楽しさ(彼はきりがなく発見します)に満ちています。今回も、たとえばチェリストがバッハの「無伴奏チェロ組曲」全6曲を一夜で演奏してのけるようなコンサートの二夜連続。バッハがよほど好きなファンでなければこういうコンサートに来られませんが、さいわい、なによりもバッハがお好きなファンが集まりました。現代音楽のスペシャリストは、いつのまにか古楽器のスペシャリストとしても知られる存在となり、近辺のチェンバロ奏者もお見えになっていたようです。
今回の「創意」「発明」は、「フランス組曲」にクープラン以下フランスの作曲家とバッハ自作の「前奏曲」を枕に演奏されたこと。バッハの「組曲」は「すべてアルマンド(ドイツ)、クーラント(イタリア)、サラバンド(スペイン)、ジーグ(イギリス)と、4つの国の舞曲を緩、急、緩、急の順で並べる配列を基礎として」(当日配布パンフのYuuki Ohta氏の解説)いるのはいいとしても、「イギリス組曲」にも見られる「前奏曲」が「フランス組曲」にはない。これを演奏するときには、即興であるにせよ「前奏曲」を第一曲「アルマンド」に先んじて弾いていたのではないか。
大井さんは、同時代の作曲家の、それぞれに等しい調性と、ふさわしいキャラクターの「前奏曲」をさがしだし、ここに敢然と演奏したのです。この解釈の正当性に異論をはさむ余地はありません。のみならず、はからずもバッハとフランス・バロックの作曲家とのコラボレーションが図らずも(図ってに決まっていますが)出現して、豊かな音楽の時間になりました。 「イギリス組曲」は、正面からのアプローチ。「解釈」すら排したごとく、真摯な音楽の表情が硬質なバッハを浮かび上がらせていました。これで、大井さんはサロンでバッハの鍵盤作品の主なものをだいたい弾かれたことになります。未踏の山は「インヴェンションとシンフォニア」くらいでしょうか。「トッカータ」は嫌い、というのは同感。しかし、「ゴールドベルク変奏曲」や「フーガの技法」は、また楽器を替えて(同じでも)何度でも聞きたいと思います。ブゾーニ以降、近現代の作曲家・演奏家によるオルガン曲などのアレンジ集なんかもおもしろいと思う。そこには三宅榛名さんの「逆シャコンヌ考」や高橋悠治さんの「主よ、憐れみたまえ」も入る。それらにシェーンベルクら「新ウィーン楽派」による「アレンジド・バッハ」、やれそうなものがいくつかあるのかな。
バッハに先立って、大井浩明さんは京都で松下眞一の「追悼演奏会」を開きました。これも重要な演奏会。大阪茨木の旧家に生まれた作曲家で、長らく大々的に採りあげる演奏家がいませんでした。
独学で作曲を学んだ松下眞一(1922−1990)は、1958年に「8人の奏者のための室内コンポジション」で軽井沢第2回現代音楽祭作曲コンクールに入賞。同年大阪で結成した作曲グループ「えらん」や、翌年、上野晃らと「現代音楽研究所」の活動を始め、第4回「現代音楽祭」の大阪開催(1961)を経て、「大阪の秋」国際現代音楽祭(1963−1977)に発展しました。彼はまた大阪市大とハンブルク大学で教える数学者でありました。作曲には群論や理論物理学の方程式が応用されたものがあり、また仏教の「声明」や「和讃」を取り入れたものもあります。
大井浩明さんは、非常な熱意と力をつくして楽譜を集め、図形楽譜の「リアライゼーション」(実際の「音」への現実化)に立ち向かい、世界初演を含む今回の壮挙をなしとげたのでした。曲間に松下と同年代で、同じく数学を愛した作曲家・クセナキスが演奏されました。曲の並びはほぼ作曲順で、一人の作曲家の生成と発展の歴史が手に取るようにわかりました。大井さんの演奏は同じ一台のピアノを弾いても多彩を極め、曲が変われば音色も響きも曲にふさわしいものに変える。「スペクトラ第2番」の厳しく静かな佇まいは、まさしく日本の、日本人の現代音楽。
世界初演の「スペクトラ第5番」は、美しい図形楽譜(それは水彩で描かれたもの。ロビーに展示されていました。絵のようなものに見えますが、絵ではなく、音楽を喚起する「図形楽譜」です)を、「こんな感じ」という甘いところでの「印象」ではなく、独自の精緻な分析による「音高」「音の重なり」「音価」「音色」と「沈黙」の総合的な演奏家の「コンポジション」でもありました。これ以上の「世界初演」はあり得ない。
もっとも激しく楽器が轟然と鳴ったのは「スペクトラ第3番」。怒りにも慟哭にも聴こえる、人間の全体をかけて演奏された、噴き上げてくるような火山の音楽でした。打楽器助演の宮本妥子さんにも惜しみない賛辞をささげます。最後の「スペクトラ第6番」は、全12曲で構想されていた未完の作品。もはや作曲家は力こぶをむき出しにすることはありません。ベートーヴェンの晩年の「バガテル」にも似て、必要なだけの音が響き、しかも横を向かず正面からの作曲家の顔を見せています。終わりのほうで、寂しさを感じてしまったことを告白しておきますが、おそらくそれは、大井さんによる「松下眞一復活ののろし」が、これで終わってしまうという寂しさだったにちがいありません。
サロンには、松下眞一に縁があった音楽家がすでに何人も訪れていました。 まず、芦屋在住のピアニスト 横井和子さん。ピアノのための三楽章《可測な時間と位相的時間》の世界初演は1959年3月31日に、横井和子さんによって大阪でなされました。(ヨーロッパ初演は1965年10月11日、ヘルムート・ロロフ/ベルリン)。1962年音楽之友社より出版。第3曲の最後のページに、被献呈者・横井和子の名前(片仮名で「ヨ・コ・イ」)が、五線譜上の8分音符と16分音符で描かれています。そのことを最近も愉快そうにお話になっておられました。 そして、大阪芸大で作曲を教え、ヤナーチェク四重奏団のために作品を書いた芦屋在住の作曲家 龍野順義さんは、大井さんのバッハに来られましたが、その折に松下眞一の名を出すと「よく知ってるよ」。「大阪の秋」で、ともに活動されたことがあったのでしょう。そして、西宮在住のサックス奏者/作曲家の野田燎さんです。彼は松下眞一の任意楽器のための《精神集中 Konzentration――劫・虚・律》をサックスで演奏した思い出を語ってくれました。「あれは図形楽譜で!」と。
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野田燎さんのこのコンサート・シリーズがいかに意味のあるものかについては、前号(会報2009後期 Vol.42)に詳しく書きました。初めてサロン「会報」を読まれるかたのために、要約して記しておきます。1972年大阪音大を卒業後、米国ノースウェスタン大学院へ留学。のち渡仏し、ボルドー音楽院に学び、1974年「フランス作曲家協会賞(管弦楽曲)」受賞。1975年「フランス政府公認作曲家演奏家資格取得。以後、サックス奏者/現代音楽の作曲家としてパリをはじめとする欧米、日本で活躍。 帰国は1986年、山村サロンが開かれた年ですが、1987年〜1988年の米仏公演は「ニューヨークタイムズ」「ルモンド」両紙で絶賛されました。サロンでもたびたび演奏会を開くなど日本での活動中に「阪神淡路大震災」に被災。
そこから野田燎さんは、従来から進めていた「音楽療法」活動に大きく舵を切っていきます。「音楽家がひとりの命を救えるならば、拍手喝采を受けるステージよりも生き甲斐がある」と、彼はそのときの決意を書いています。
ステージに復帰されたのは、ようやく2008年1月のこと。ソロ・リサイタル「戦いと平和」を皮切りに、自ら信頼する若い音楽家たちとともに「野田ファミリー・コンサート・シリーズ」が始まりました。T、U、Vは通し番号ではなく、年度の番号。つまり2010年は3年目ということです。ほとんど毎月、年1−2回のやむなきお休みがあるだけで、いまの野田燎さんの「公開演奏会」の拠点としてサロンはあります。ソロ以外のものにも野田さんは、ひとこま出演。このシリーズを逃すのは音楽ファンにとって、小さからぬ損失だと断言します。
なぜなら野田さんは、一度「現代音楽」を世界レベルで極めた音楽家。その人が「音楽療法」に身をささげて、体の機能障害を負った人たちにサックスで音楽を聞かせ、機能をよみがえらせる「音楽の力」を全面的に展開される。最も「わかりやすい」音楽のなかに、最も深い音楽の作用が示される。ときには演歌。またはアニメの主題歌。そのリズムに節に、障害を負った人の障害が癒えていくのです。新作「ロボティック・エレファント」は、あたらしい可能性をもった「現代音楽」にして、遊びながら「癒し」を推し進める力を持った音楽でした。あらゆる意味(意味を求めるならば)を含んでの「音楽」が、ここにあります。嘘だと思うなら、どうぞお越しください。
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イェルク・デムス(Jörg Demus)さんは1928年12月生まれですから。今年82歳になられます。11歳でウィーン音楽院入学という神童は、ようやく戦後を迎えてから活躍の時を迎えました。1953年、ウィーン・デビュー。57年、ブゾーニ国際コンクール第一位とブゾーニ賞。そこから彼は活躍の場を世界に広げます。 私がはじめてデムスさんのピアノを聴いたのは、ステレオ録音になってからのLPレコードです。父が海外出張時に持ち帰ってくれたドイツ・グラモフォン盤のシューベルト/五重奏曲「鱒」。イェルク・デムス(ピアノ)、シューベルト四重奏団(実体はアントン・カンパー以下「ウィーン・コンツェルトハウス四重奏団」の演奏。デムスさんがサロンに来演された初めての折、そのレコードにサインを求めるとにっこりされて「これはいいレコードだ」といわれたことを覚えています。
必ずベートーヴェンのソナタを入れる、というのが、デムスさんのお世話を長年にわたってしてくださっている鈴江比沙子さんと、私と、デムスさんの約束事です。 今回は、「幻想曲」がテーマになった一夜。モーツァルトは有名なニ短調、ハ短調に先立って、K395(ハ長調)とK396(ハ短調)が弾かれました。かなしいモーツァルト。間を詰め、先へ急ぐ足取りは涙をぬぐうのももどかしい、生き急ぐアマデウスの音楽でした。 シューマンは、デムスさんは全曲を録音しています。自他ともに認めるスペシャリストといえますが、「アベッグ変奏曲」はコンサートでは演奏されません。同様に、ベートーヴェンでは「ハンマークラヴィーア」は、いくらリクエストしても採りあげてもらえません。演奏家は年輪を重ねると、レパートリーが限定されてくるようです。もちろん、それでいいのです。バックハウスも晩年は同じ曲をくりかえし弾いていました。そのかわり、彼らが演奏会で採りあげる曲は、いずれも自家薬篭中のものばかり。 シューマンの「幻想曲」こそ、デムスさんが自身の音楽として、開始から終結までとぎれることのない熱い流れを創造した演奏。まさに、シューマン自身が弾いていたかのごとくでした。 ベートーヴェンの「月光」ソナタは、有名なわりに演奏会で採りあげられることは、あまりありません。冒頭楽章がむずかしい。「30番」も同じく。こちらは全曲がむずかしい。やはりヨーロッパの巨匠は、からだのなかにそれらの音楽があるから、一瞬の逡巡もなく、しかも、その場で生まれた感興にしたがっての表情をくわえながら、確固たる「デムスのベートーヴェン」が示されていました。
今年は11月7日に、もう一度サロンに来て演奏会を開きます。シューマンとショパンの生誕200年にあたり、デムスさんは2度来日されるのです。プログラムは、もちろんシューマンとショパン。ウィーンの音楽家のショパンもいいものなので、ぜひ。
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中村八千代さんを中心にした㈶アルカディア音楽芸術振興財団は、活動を継続されて、ますます隆盛です。今回は、進境いちじるしい寺本郁子さんの「ソプラノ・コンサート」。若いときには出せなかったものが、いまはことごとく表に出てきます。ピアノの八木昭子さんも、長いアルカディアのメンバーになりました。皆さまの末永いご活躍を祈ります。
これらふたつは、サロンの能舞台を生かしてくださった「能楽」の催しです。もともとは永年にわたり「能楽」(謡、仕舞、小鼓、大鼓、太鼓、能管)の稽古をかさねてきた母の夢の実現として、1986年にサロンをつくったときに「能舞台」を設置しました。ところが1994年に母は亡くなってしまい、その後も母の師匠たちも活動を閉じられるなどがあり、能舞台が能舞台として使われることが少なくなってまいりました。
観謳会の主宰は藤井完治さん。母が終生、私も子供のころに就いていた師匠、藤井久雄先生のご子息で、お顔がよく似ておられて懐かしさのかぎりでした。 澤田宏司さんの催しは、一般のかたがたに「能楽」を紹介する、啓蒙の会。このような催しは、伝統芸能には必要です。及ばずながら、力になれれば、と願います。
いつもクリスマスどきには、フランス・シターの演奏会があります。この楽器は形も美しく、一目惚れして、私もレッスンを受けに通ったものです。「第三の男」のツィターとは別物で、左手で和声、右手で旋律をかき鳴らす。ですから、ピアノを弾ける人なら、その場で弾けるようになります。今年も予定されています。
東京芸大からジュリアード音楽院へ留学されたお二人が、ジュリアードへ行ってから意気投合してデュオを組んだ、ということでした。ラフマニノフが渾身の演奏でした。お世話いただいた荒井成子さんには感謝申し上げます。
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サロンのレコード・コンサートは、かかさず来てくださるお客さまが多いです。これはとても幸せなことで、古い、捨てられた、無視された、SPやLPのレコードたちにとっても、ものすごく幸せなことです。 いまや私も「IT化」の波を泳ぐ身になり、電子書籍は「小田実全集」が既刊分の数冊が並び、アマゾン・キンドルには西洋古典がずらりと並んでいます。携帯電話も「iPhone」(アイフォンと)いう最新式のもの。付属している「iPod」(アイポッド)には、CDなどの次の手法「DL」(ダウンロード)を駆使して、それでしか手に入らないものを聴いています。この流れは誰にも止める術がなく、新しい世代は、生まれた時から「IT」で大きくなっていくのです。値段の安さが、すべての「IT」(Information Technology 情報技術)を牛耳っていくのです。
にもかかわらず私は、SP,LPをこよなく愛し、東京へ行けば神田の古本屋で古本をあさります。それらでしか味わえないものが確かにあるからで、ときにはグーテンベルク以前の手彫りの版の時代に思いをはせたりもいたします。手づくりのぬくもりは、他にかけがえのない「生きる人」の味わいです。オペラの会が加わって、レコード・コンサートは、より豊かになりました。この味わいを求めている人は、じつは多いのです。
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2010年 8月 15日 発行 著 者 山村 雅治 発行者 山村 雅治 発行所 山村サロン
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