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<< Vol.41 2009後期-Vol.42 Vol. 43 >> |
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力と手段と表現と 1 私にとっての、これは大きなイベントでした。幼稚園の頃から母に能楽を習うよう仕向けられ、小学校高学年になるまでの間に舞台に立って以来の舞台「役者」になりました。能ではなく、現代の演劇です。
私の今の「演劇する力」を知らずに舞台へ押し上げた北野辰二さんは、芸術交響空間◎北辰旅団の主宰者です。2004年4月に同劇団を結成されてから、手塩にかけて育ててこられた劇団員とともに、それまで18回の公演を重ねてこられました。 私と劇団の関わりは2008年6月1日、大阪フジハラビルでの第18回公演『なでしこと五円玉』に観客としてたのしみ、その後のパーティ『小田実生誕76周年記念祭』に参加したのが始まりでした。その後のほとんどすべての公演は見てきたものの、私自身が出演することになろうとは、露ほども思っていませんでした。 ところがところが。今となってはうろ覚えなのですが、5月の終わりか6月の初めに新作の台本を手渡され、「じゃ、山村さんは7月の初めから稽古に来てください。海霊(うなだま)とツクヨミの二役です」と最後通牒を宣告されて、逃げることができなくなりました。その時点では北野さんは、私が集会などでマイクを通して低い声でぼそぼそと喋ることを知っているだけです。だからこれは、劇作家/演出家として凄い勇気だったと思います。 とはいえ、演劇にはむかしから少なからぬ興味と情熱と憧れがありました。むかし、というのは自覚的に詩を書きはじめた高校生の頃からです。まず文学、そして音楽、美術となんでも興味があって、今にいたるまで表現を模索し続けていますが、それらの諸分野を通じて私の好きな表現や私がやればそうなるであろう表現は、その底に「劇」が潜むものです。ここでの「劇」は、かつてエウヘーニオ・ドールスが『バロック論』で書いていた「双反する要素の対立と和合」ということ。いつもバッハが好きなのはそのせいだし、詩を発表したとき(『現代詩手帖』1973年6月号)行分け詩を書いていたにもかかわらず、すぐに物語性の濃い散文詩に転じた(1974年以降1986年までの『小原流挿花』誌)のも、そのせいです。 サロンを開館すれば、ただちに詩を発表するのをやめていますが、それはサロン自体を私の「詩作品」にしたいという望みがあったからです。だから、自分は出ませんでした。 1991年、サロンの思想を書いた『マリア・ユージナがいた』というエッセイを単行本で上梓。その本がきっかけで小田実さんの知遇を得ます。そして1993年、小田さんに帯のことばをいただいた『宗教的人間』というエッセイを上梓。ついで『G』という小説二冊本を上梓。これら4冊は、いずれリブロ社から出しました。小田さんにお贈りしたあと「あんたは小説を書け」といわれましたが、続編はまだ果たせずにいます。 そんな時期に1991年12月から「文芸講座」の講師として小田実さんを招くなど、これはと思う人を舞台に押し上げて、いろいろな分野の芸術家、文化人と交流するのが、初期のサロンの私の仕事になっていました。 1995年1月17日の震災以来、それは徐々に変わってきます。 日本は金融機関には「公的援助」を行なうくせに、自己責任のない自然災害被災者には一切しない。小田実さんと共有する怒りがあったから、被災者に公的援助を求める市民運動を展開しました。「代表・小田実 事務局長・山村雅治」としての「市民=議員立法実現推進本部」がそれで、一転して私は語る人になりました。それも芸術を語るのではない。いかに被災者に公的援助が必要なのかを議員会館へ出かけ、あらゆる国会議員に語りかけ、集会では被災地と東京の市民に語りかけ、あるときは銀座の街頭で、あるときは弁護士会の壇上で、私は語りました。文章を書きもしました。これも詩などではなく、いかに被災者に公的援助が必要なのかを、『朝日』論壇を皮切りに『世界』『婦人の友』など、あまたの紙誌に書きました。 それら運動のさなかで書いた「宣言」や「決議」や「声明」などを「詩のようだ」と読んでくださった人がいたのは、むず痒いと同時に苦笑いもしましたが、ようするに人の心を打つべく、行動に向かわせる力を後押しするべく書いたもので、人はあれらを「詩」であるとは思っていません。 運動を経て、震災後のサロンで始めたのは、戦災にも震災にも生き残った78回転のSPレコードを手巻き式蓄音器「クレデンザ」で聴く会でした。ここで私は音楽について、作曲家と演奏家について語りはじめます。のちにLPレコードをステレオ電気蓄音器「デッカ・デコラ」で聴く会を追ってはじめます。洋楽好きな父親と能楽三昧だった母がいて、ちいさいときから音楽は私を喜ばせてくれました。SPレコードは生まれる前の父の時代、祖父の時代の音盤です。語ることが山ほどあり、両方の企画に加えて「オペラ・スペシャル」というオペラの全曲を聴く会もはじまりましたから、終わりそうにはありません。音楽を語りたい、という熱病じみた衝動は、やがて愛する音楽を自分の手で演奏したい、につながっていきました。 2002年、私の満50歳の年、いろいろな人の協力を得てヘンデルの『メサイア』を指揮。それは高校生のとき以来の夢でもありました。それから4年を経て、山村摩弥の尽力で女声合唱団を集めて2006年、サロン開館20年の記念に高田三郎の『典礼聖歌』ばかりのコンサートをやりました。翌年からは「山村サロン女声合唱団」が結成されて、音楽活動がはじまりました。 そうはいっても、思想を書く活動、語る活動が止んだわけではありません。 2000年、小田実さんが「良心的軍事拒否国家日本実現の会」をつくり、やはり「代表・小田実、事務局長・山村雅治」で展開。戦争に正義などはない。日本は憲法9条に即して、あらゆる軍事を拒否する平和国家としての役割を果たすべきである。これも東京で集会をやり、デモもやりました。 小田さんはいつも、年季の入った大きな手提げ鞄を持ち、その中に書きかけの原稿を入れてデモも歩きました。完全に一人になるホテルの時間に、彼は小説を書き進めていたのです。 2007年7月30日、小田実さんが永眠されました。弔辞を読ませていただきました。ミューズに加護を祈り一篇の詩を書き、朗読させていただきました。ミューズは、最晩年にホメロスを訳した小田実さんの、終生の文芸を照らし出していたギリシアの神であり、詩と音楽を生きてきた私の守護神でもあります。 2 私の「表現史」とは厳密にはいえませんが、2005年秋から松井美保子さんの絵のモデルを務めることになりました。芦屋の「九条の会」の立上げ前の準備会で彼女は私を見て、そのときから私を描きたいと思われた由。着衣から半裸を経て全裸まで、もう何枚の絵になったことでしょう。毎年のように大きな展覧会に出品されています。 「表現史」の上でも新しいことがありました。藤本啓子さんからのお誘いで、お茶をいただきながら哲学を語る「カフェ・フィロ」のなかの「書評カフェ」で語ることになりました。 詩は、実は哲学に近いところにあります。用いられる言葉は、できるかぎりふつうの言葉が望ましい。なぜなら専門家にだけ分かる詩も哲学も意味がないからです。もっと尖鋭に世の中を変革しようとする「革命思想」にもなれば、なおさらそうでしょう。深く、街の底に沈み、人の心の奥底にまで到達し、沁み込んでいかないと、あらゆる言葉には意味がない。 プラトンがどんな本よりもおもしろくて、どんどん岩波の全集を読みふけっていたのは、別にそこに深遠な思想やそのように生きるべき倫理や道徳が書かれていたからではありません。そんなものが読みたくて、少年が本を読むでしょうか。靴屋のおじさんとも哲学論議をしたというソクラテス。ふつうの言葉で、街の路上で、誰とでも話をしながら真理へと導こうとする哲学者の繰り出される言葉に魅了されました。なによりも言葉のやりとりがおもしろい、それは「劇」であり、大学生のときにオックスフォードのバーネット版の「プラトン全集」を手に入れたときに、表題が『OPERAS』だったことに、思わず声を上げました。それは「オペラ」だったのです。だから楽しかったのです。 2008年10月18日、私の初回の「書評カフェ」は、林達夫を語りました。報告は「山村サロン会報Vol.40 2008後期」にあります。2009年2月15日には、清水哲郎さんをお招きして、私とのジョイントで「コンサート&カフェ 死の理解」。山村サロン女声合唱団も『グレゴリオ聖歌』と『典礼聖歌』を歌いました(同 Vol.41 2009前期)。
2009年5月30日には、神戸へ出向いて「書評カフェ」でベルグソンを語りました。その時期には、新型インフルエンザが母校である神戸高校の生徒が日本での初めての患者になり、神戸は全国的には立入禁止ゾーンになっていたにもかかわらず、地元近辺のたくさんの人が集まりました。対話がこの上なくおもしろかったのは、やはり題材が「笑い」だったからでしょうか。ベルグソンは、笑いについての考察は、喜劇作家モリエールをおもな教材としてなされたようですが、質疑応答のときに「日本の笑い」についての質問があり、そこで私が紹介したのが鶴見俊輔さんがお書きになった『アメノウズメ伝』でした。すべての壁を突き抜けていく軽やかにして、根源的な力を持つアメノウズメの笑い。 ベルグソンは社会的にも立派な哲学者でしたが、軽演劇(たとえていえば吉本新喜劇のような)がとても好きでした。哲学者は芝居好きでなければいけません! さて、哲学者は芝居にも出るのだよ。 とベルグソン先生なら、ほくそ笑んだかどうか。私の稽古は7月18日の第5回「小田実を読む」『大地と星輝く天の子』を終えたあとの月曜日の夜から始まりました。本読みの段階から、ひさびさに血が騒いできました。18歳、浪人生として東京で暮らすことにしてからというもの、詩を通じて交流がはじまった芝山幹郎さんと「状況劇場」や土方巽、麿赤児らの舞台公演などに通いつめ(それだけではありません。歌舞伎座で錦之助の「鞍馬天狗」を見たり、映画や寄席へもご一緒しました。馬生、正蔵、小さん、円生らの元気な舞台を見ました)、とりわけ唐十郎、李麗仙らの「状況劇場」の芝居にはしびれました。不破万作、根津甚八らも圧倒的にエネルギーに満ち、金粉ダンスを見せてくれた無名の役者たちの姿も、いまも忘れることはできません。少し後になってから、個人的に蜷川幸雄さんとの交流が始まりますが、それはすぐに終わり、東京に住んでいた頃の芝居といえば私にとっては「状況劇場」以外にはありません。 とはいえ、東京ではなく稽古場は西宮の鳴尾であり、すでに1970年代ではなく、震災後の2009年です。北野辰二さんの台本も、先行する劇作家の誰ともちがう個性があり、本読みの最初の一句からして(彼のものが名を戴いた異郷の地に参ってからというもの、という若干時代がかった台詞です)、私は地を剥きだしにしなければできないことを感じていました。何度かの稽古を重ねて、8月の盆すぎに信州戸隠へ合宿に。そして9月を迎え、ようやく形になったのは本番3日前でした。 北野さんからの私への最終的なアドバイスは「顔の表情をつけて」というものでした。お別れしてから、んーん、とばかりに考えた挙げ句、分かったことがありました。こどもの頃に私の体にしみついている「舞台役者」は、「能役者」のそれであり、仕舞を見せるときにも泣いたり笑ったりはしません。能は寡黙な劇であり、面の角度で優美さや無気味さを出します。江戸時代たけなわの歌舞伎は大衆演劇として、広く観客に語りかける見得というものがあり、表情は大げさを極めなければ芸にならない。そういうことか、と膝を打ち、本番3日前の木曜日の稽古でやってみると「いいです」になり、本番を迎えました。 山村摩弥が率いる「山村サロン女声合唱団」も劇の「前奏」と「後奏」を合唱で彩りました。ギリシア風の衣装を楽しむこともできました。私はその指揮者もあったので、劇中二役とあわせて忙しいことでした。評価は見た人に委せます。ただ私としては「やりきった」思いがあり、すがすがしい気分になりました。あらためて「舞台が好き」なことを自覚しました。2010年の公演にも参加させていただく予定です。おそらく2010年5月になるだろうと思いますが、詳細は未定です。 それにしても、これはいい体験でした。普段の私しか知らない人は、口を揃えて「あんなに大きい声が出せるなんて」と驚かれました。しかし本当は、あの大きい声で「何をやったか」「役をどう演じたか」を見ていただきたかったのですが。また、私を生まれたときから知っている叔母に「お母さんに感謝せなあかんよ」といわれました。ちいさい頃にやっておくと、それが何であれ役に立つことはあるものです。感謝すると同時に、その頃の私の能楽の先生の名を書いておきましょう。もう13回忌を迎えた藤井久雄師です。 3
「今 生きる 小田実」は、小田実さんの三回忌の集いです。「市民=議員立法実現推進本部」の東京での活動に、東京事務局長として尽力していただいた玄香実さんの協力で、韓国の国会議員をされた舞踊家、姜恵淑さんをお迎えして開きました。講演の田中利幸さんも木戸衛一さんも、国際的な視野で世界の平和のために日本がどう歩むべきかを考究されている学者であり、小田さんはお二人とも信頼されていました。木戸さんはドイツ政治史が専門で、田中さんは日本の戦争犯罪が専門だと思っていましたが、今回の田中さんのお話は、なんと手塚治虫がテーマになり、小田さんと同年代の大漫画家の思想が形成された背景と体験について、おもしろいお話が聞けました。 姜恵淑さんは、前に一度サロンで踊られたことがあります。そのことを覚えていてくださいました。凛としたたたずまいには重みも加わったようです。集会後には、韓国と日本の芸能の成立について、じつに興味深いお話を聞くことができました。日本では、世阿弥にせよ出雲の阿國にせよ、天才が芸能のかたちをつくってきたんですけれど、と水を向けると「韓国ではそうじゃなくて、みんなで、みんなの力でつくってきました」と。その響きは、ことによるとユン・イサンの音楽にもあるんじゃないですか、とお尋ねしたら、笑顔でうなずかれました。 「市民の意見30・関西」の「福祉」についての市川禮子さんと早川和男さんのお話は、それぞれが現場に立つ人としての、体験に裏打ちされた識見を述べられました。「市民の政策」を持たなければ、という小田実さんの遺志を継ぐ集まりです。現在は「福祉」に関する政策を考えています。
小田実さんは生涯「表現者」であり、最期の床にあっても、なお「口述筆記」という形で小説を書き進めておられました。その力は、まさに巨大であり、手段は小説・評論を中心とする「文筆」と、「べ平連」「市民=議員立法実現推進本部」「良心的軍事拒否国家日本実現の会」などの「市民運動」の大きくは二つに分かれていました。 ところが多くの人びとは、いまなお、反戦平和を求めた「べ平連」の小田実、という認知にとどまりがちでいます。これには、いくつかの理由があります。「べ平連」当時は、小田さんは『何でも見てやろう』という大ベストセラー本の作家であり、誰でもが名前と風貌を知っていた「スター」でした。そして、活動の拠点は東京にあり、小田さんの言動のすべては、たちどころに「全国紙」に載り、津々浦々にまで広がりました。 神戸、そして後に西宮に住むことになってから、小田さんは新聞の扱いについて「ここで新聞記者を集めても支局止まりや」と嘆かれたことがあります。すでに「全国区」の知名度があった彼をなげかせたのは、情報の東京一極集中、人を選ばぬ情報の中央集権でした。 「べ平連」解散後にも、小田実さんは旅をし、小説を書き、評論を書き続けました。神戸のUHF局の「サン・テレビ」のニュース・キャスターを務めるほかには、全国放送の『朝まで生テレビ』のコメンテーターとして出演されましたが、東京の人の記憶は、それが小田さんがテレビで喋った最後になるのではないかと察します。大阪局では『上岡龍太郎の Xテレビ』というバラエティ番組に出演されたことがあります。これも「力と手段と表現と」のなかの一手段でした。いずれにしても、以後、東京では極端に露出が少なくなり、人びとの記憶には「べ平連の小田実」だけが残ることになりました。 震災後も、しばらくは同じことでした。被災地で私たちがやったことが新聞の全国版に出ない。こと、問題は全国の市民の問題であり、人口過密の東京の市民にとっては不可避の、そして切実な問題であるというのに。その「地方」と「中央」の壁をぶちぬくために、私は筆者の名も知らぬ「朝日」の「素粒子」担当の方宛に手紙を書いたのでした。発端は、私の書いた「論壇」が東京版には掲載されなかったことにありました。永田町や霞ヶ関の人たちにこそ読んでほしかったのに、これはどういうことなのか。「素粒子」は応えてくださり、以後、法案が成立するまで、かわらぬご厚情をもって被災者のことを書き続けてくださいました。その筆者の名は、轡田隆史さんです。はじめて有楽町で街頭演説をしたとき、彼はそこにいました。 小田さんと私が何度も東京へ行ったのは、賛同される超党派の議員たち(そのまとめ役が、先ごろ亡くなった田英夫さんでした)と打ち合わせをするのが主たる目的でしたが、もうひとつには、東京のマスコミに会い、話をして、これは日本の全市民の問題である、ということを口を酸っぱくして説明することも必ずやって帰りました。 しかし、今になって思うのですが、これだけ交通と通信の手段が発達した21世紀に、いつまで情報の一極集中をやっておるのか、ということです。東京への中央集権に固執している限りは、やがては東京の力をも失わせていくでしょう。私もかつては東京都民、武蔵野市民でしたから、東京を愛することにかけては人後に落ちるものではありません。しかし、東京から発信しなければ全国に広がらない、という旧体制(新聞、テレビ、出版など)の情報発信は滅びの道を辿るしかないでしょう。新聞の売れ行きが落ち、テレビの視聴率が下がりスポンサーが引き、ベストセラーが稀少になり雑誌が次々と廃刊する現実は、そろそろと人びとは「東京に飽きてきた」「東京の市民たちでさえ飽きてきた」という事実を示しています。「価値」と「嗜好」のモデルを東京でつくり全国に発信して、人びとの「価値」も「嗜好」も全国的に「企画統一」されてきたわけですが、これも「官僚主導」の「国づくり」の罪のひとつです。 じっさい、歴史を新しくする重要な運動は地方で芽吹くことがある。重要な音楽会がつつましく地方都市で開かれることがある。天才的な芸術家のデビューが、いつも東京でなされるとはかぎりません。 インターネットの世界が壁を突き破りつつあります。イギリスの無名の女声の歌声が、ネットだけで世界をかけ巡りました。しかし、私たちの「運動」の時代には、旧体制のメディアしかなかったのです。 小田さんは、国会へ乗り込むときに「私はべ平連のときに国会議員をようけ(たくさん)知ってる。しかし、あいつら使うのは嫌や」といわれました。被災者に公的援助を求める運動は、べ平連とはまったくちがう運動だからです。だから、初期の文書の署名はいずれも「事務局長・山村雅治」になっています。私が地ならしをして、小田さんが出る。あるいは、小田さんが怒鳴りちらして、あとで私がなだめにまわる。おおよそ、そんなふうなコンビネーションで、あらゆる局面に立ち向かいました。 このとき、力を表現する「手段」は、「弁舌」であり、二人揃ったときには「役回り」のある「役者」じみてもいて、それらを総合して、古代ギリシアの「政治的レトリック(修辞学)」そのものでした。二年半にわたる戦いを経て、法案が成立したときには、地方版の片隅にしか載らなかった運動が、全国紙の一面に掲載されることになっていました。やれやれ、でした。 「べ平連のときもそうやったけど、おんなじやな」と小田実さんはこぼしたことがあります。運動を一緒にやっている震災被災者の皆さんもまた、小田さんの小説は読んだことがないのでした。読んでいても、かつての国民的大ベストセラー『何でも見てやろう』。これはどんな集まりでも、ほぼ変わらないのではないでしょうか。 小田さんは自分を Novelist ではなく Writer だ、と定めました。日本語では、いずれも「作家」といえばいいでしょうが、ようするに自分は「小説も書く作家」である。小田さんがのこした「小説」は膨大ですが、「評論」もまた膨大です。多作型の作家であり、毎日仕事する作家でもあったと思います。小説と評論は車の両輪であり、それらをまとめた文筆と市民運動もまた、車の両輪でした。『難死の思想』とか『世直しの倫理と論理』などは、まだ読まれているほうです。小田実さんの没後、こころざしある人たちで「小田実を読む」集まりを企画し、最も読まれない小田さんの表現の「手段」である「小説」を読もう、ということにしました。 第1回から第7回までは、玄順恵さん、北野辰二さんと私の三人の持ち回り。玄順恵さんは小田実さんの「人生の同行者」、私は書いてきたような関係ですが、北野さんは私たちの後続の世代で、運動に参加するどころか小田さんに会ったことすらありません。私たちの願いは、ひとつ小田実さんの「力と手段と表現と」をつないでいくことですから、初期小説を演劇化されもした北野さんのレポートには興味深いものがあります。 それらの記録は、まとめて冊子にする予定です。北野辰二編集長のもと、委員全員が全員の原稿をチェックする作業は終わりました。12月19日の第10回『オモニ太平記』(レポーター/山村雅治)の日には完成しているかも知れません。 第8回は、小田実さんとほぼ同年代の作家、澤地久枝さんにお出ましいただきました。前夜も遅くまで仕事をされていたという、壮者をもしのぐ力強さ。当日は、現在アフガニスタンで「ペシャワール会医療サービス総院長」としての活動を続ける中村哲医師のすばらしさが語られた後、小田実さんの文学について、じゅんじゅんと説かれました。痛感したのは、彼女は「パトス(激情)の話者」として凄まじい魅力があり、そうであることにおいて小田実さんと同じである、ということです。 この企画「小田実を読む」は続きます。毎月の集まりとして、一冊ずつを読み続けます。かりに全著作を読み終わる日が来るとしましょうか。そしたら、次の月から、また新しく初回の本から読み続けます。 2010年1月16日(土)午後1時半から、震災から15年『被災地は、生きているのか』という集会があります。「小田実を読む」第11回は、翌1月17日(日)午後2時から『さかさ吊りの穴』(レポーター/北野辰二)です。読んで来られない方でも、お越しください。粗筋は親切丁寧に、まず噛み砕いてご説明する時間が設けられています。レポート後にも、語りあえる時間をつくっています。 4
「力と手段と表現と」というテーマは、音楽家/野田燎さんについて語るときにも、非常に多くのモティーフを与えてくれます。変節が変節でなく、一本の筋道を行くための変容であり、1948年生まれ、還暦を過ぎられた今、ながれる川筋は、より水量を豊かにして「結局はひとつ」の音楽を奏でておられます。 最近では「音楽運動療法」の先生として、その療法が成果をあげた井上智史さんとともに、2009年9月9日放送のフジテレビ系列「ベストハウス123」に出演されたことが「全国発信」の登場でした。しかし、若い頃のサックス奏者/作曲家としての野田燎さんを覚えておられる方には、驚き以外のなにものでもなかったのではないでしょうか。 かつて野田さんは、飛ぶ鳥を落とす勢いの若手サックス奏者/作曲家でした。今も「現代音楽のスペシャリスト」として、「有名な独奏曲 インプロヴィゼイション」の作曲者としての彼を語るサックス・ファンがいます。野田燎さんは1972年大阪音大を卒業後、米国ノースウェスタン大学院へ留学。のち渡仏しボルドー音楽院で学び、1974年「フランス作曲家協会賞(管弦楽曲)」受賞。1975年仏政府公認作曲家演奏家資格取得。以後パリに住み、欧州各地の音楽祭や放送に出演。日本でもNHK・FMや、民放「題名のない音楽会」(当時は黛敏郎氏が司会)にたびたび出演。教師としてもパリ音楽院、バーゼル音楽院、ノースウェスタン大学など欧米の大学から招かれており、パリの現代音楽センター IRCAM には、日本の現代サクソフォーン作品を紹介するために招かれました。 また作曲では、仏国文化省、教育省委嘱によるバレエ、劇、視聴覚教育などの教育作品の上演、NHK放送文化基金講演助成や、フランス放送局ならびにパリ市近代美術館委嘱作品『清経』を上演。その後、ニューヨークとモントリオールの上演。1987〜88年の米国、仏国での公演は「ニューヨークタイムズ」「ル・モンド」両紙で高く評価されました。 帰国は1986年でした。奇しくも山村サロンを開いた年です。三宅榛名さんと高橋悠治さんで幕を明けたサロンは、ほどなく私と同じく現代音楽が好きな人を寄せて、鬼塚正勝さんの企画で「ETWAS NEUES W 吉岡紘子 + 三木稔」が開かれました。ゲストに呼ばれたのが『ベロ出しチョンマ』のバリトン/山田健司さんと、『秋の曲』のソプラノ・サックス/野田燎さんなのでした。1990年1月9日です。当時の「会報」で、私はこんなことを書いています。 「野田燎氏は、もともと尺八のために書かれた曲をソプラノサックスで吹かれました。はじめからおわりまで、音色と楽器の限りをこえて、ただ美しい響きに場内は満たされました。楽器を感じさせない音楽」。 野田燎さんを聴くのは、それが初めてのことでした。以後、私は独自に働きかけて彼を「バッハ・シリーズ」などにお招きすることになります。しかし、その頃すでに彼は徐々に着実に、彼の「音楽運動療法」を完成させていきます。震災前年の1994年11月24日、私も手伝いに行った『病める不死鳥』公演を大阪・いずみホールでやったあと、震災後には1995年9月23日にサロンで『立ちあがるためのコンサート』。その後いくつかのコンサートを開き、野田燎さんが初めて療法の著しい成果をあげた井上智史さんのために『井上智史 書と絵画展』を開いたのは、1998年12月18〜20日のことでした。 震災以後、野田さんは震災直後、生埋めになった人びとを素手で引き出され、そのなかにはもう助かりようのない人たちもいて精神に打撃を受けます。睡眠障害と自己の無力感にさいなまれ「音楽家の生き方」を問う毎日が続いたといいます。 そんなとき、ふとサックスを手にとり『サマータイム』を吹くと「自ら吹き、聴き、音の美しさに打たれ、身体中の悲しみを涙で流し落としました。サックスのすばらしさとともに音楽家である自分に誇りと喜びが蘇ってきました。この間の苦しい体験を生かすのは音楽運動療法の実践だと悟りました。音楽家がひとりの命を救えるならば、拍手喝采を受けるステージよりも生き甲斐がある」。 そして2008年1月27日、サクソフォン・ソロ・リサイタル『戦いと平和』で、野田燎さんはサロンに復帰されます。2月17日以降、原則として毎月『野田ファミリー・コンサート』が開かれることにもなりました。かつての「現代音楽の寵児」としての諸々はもう、どうでもいい。音楽家としてのステージを駆け登ることにもなんの興味もない。いっぱいのお客さんを前にしての拍手喝采などは、もういらない。もはや動かない生き方を定めた野田さんは、いっそすがすがしくもありました。 彼の音楽家としての力はまさに巨人的なものがあり、サックス一本で、大オーケストラに負けない迫力と人の心に浸透していく最高の音楽が奏でられます。なによりも、そのサックスが障害を負うひとりひとりの人生を救ってきた。音楽の不思議は、演奏行為しだいで生き死にしますが「音楽運動療法」の研究と実践をつうじて、野田燎さんば「自分を生かし、ひとを生かす」音楽への一本の道を探り当てられました。 復帰後も折にふれて「現代音楽」時代の作品を吹かれます。ミニマル・ミュージックが作曲家としての基本にあります。やはり、とても美しい。 野田ファミリーとは、「音楽運動療法」に関わる若い音楽家、また大阪芸大の学生たちによるアンサンブルで、いずれのコンサートにも野田さんの「教師」としての力が及び、場数をかさねるごとに練れてきています。それにしても「音楽運動療法家」の医学博士でもある野田燎さんが企画されるこのシリーズ、ときには野田さんのソロ・リサイタルもあるこの音楽会シリーズは、私にはいろいろな意味で重要な意味があると思えてなりません。ほかに書く人もいないので、私が書いておきます。 余談ですが、2009年10月に藪田真魅さんが弾かれた久石譲さんについてですが、浪人生のころ、まだ音大受験のオプションが残っていたときに、国立(くにたち)音大生の藤沢守さんだった頃に、レッスン生として受験科目のいろいろを習っていたことがあります。 彼はすでに映画の伴奏音楽を書くなどの仕事を始めていました。しかし本領は「現代音楽」、とくにミニマル・ミュージックでした。最近、ようやく久石譲としてのミニマル・アルバムのCDが世に出されたことはうれしい限りです。何十年かけてでもやらなければならなかった仕事を、彼はしたのです。若い作曲家だった彼に作品発表の音楽会のチケットをさばくことを頼まれたことがありました。一枚も売れませんでした。「現代音楽」は、むかしから売れないのでした。こちらはあれから音大を受験さえせずに去りましたから、向こうは覚えておられるとは到底思えませんが、私には覚えていることがあります。当時の藤沢守先生に「好きな作曲家は誰ですか」とお尋ねしたときに、あっと驚くような答えが返ってきたのです。「チャイコフスキーだよ」と。 5
久保洋子さんは西宮市在住の作曲家/ピアニストで、芦屋・西宮とパリを往復して演奏活動と教育に活躍されています。サロンは彼女の拠点のひとつです。ご依頼もあり「山村サロン会報」の創刊号から見直す機会がありました。いずれは私が久保さんについて書いた記事のコピーをお渡しするつもりです。初めてサロンで演奏会を開いたのは1989年12月12日の「久保洋子 ピアノリサイタル」。ブーレーズとメシアンのあとに自作3曲を弾かれました。「クリスタリザシオン(1988)」「コンタンプラシオン(1989,世界初演)」、そして「ヴェルベラシオン(1989)」です。当時の会報で私は「最も鮮烈だったのは「ヴェルベラシオン」。創意と驚きとユーモアに充ちた作品」と書いています。 その後、久保さんはゲストを招いて「主催・久保洋子現代音楽研究所」主催で、ピアニストとして独奏/合わせものの演奏会を続けられます。1990年10月25日に奈良ゆみさんとメシアンの「ハラウィ」。5日後の同30日にチェロのミヒャエル・バッハのときの初演作品は「フルーヴ」です。1991年にはオーリオルとフーシェのデュオでしたが、初演作は久保さんがピアノを弾いて「アンスピラシオン」。これは力のこもった作品でした。1992年4月1日に、フルートのピエール‐イヴ・アルトーさんが初登場します。震災の前、1994年11月21日にはフルートのカスタニエ、オーボエのピエルロらパリ管楽五重奏団が来演し、久保さんは自身のピアノを含めた「六重奏曲(1994 パリ管楽五重奏団委嘱)を演奏されています。 震災後は1995年9月3日、再びオーリオルとフーシェのデュオ。1996年1月15日に、奈良ゆみさんと久保洋子現代音楽研究所の共同企画で、奈良さんと共演。メシアン「ハラウィ」《愛と死の歌》。このときには私は、メシアンの薫陶を受けたお二人が被災地で「ハラウィ」を演奏する意味について、またメシアンとロマンティシズムについて演奏の前後にお話しました。仏文学者の海老坂武さんと片山正樹さんが客席におられたことを知ったのは終演後のこと。ご縁というのはありがたいことだと思います。そして、1996年7月14日のソロの「久保洋子ピアノリサイタル」を経て、ようやく1997年5月3日に現在の形式の「20世紀音楽浴 Vol.1」が立ち上がります。ゲストはピエール‐イヴ・アルトー。 およそ20年にもわたるサロンでの活動は、以上のごとく相当はしょらなければ書ききれないものです。いちばん初めに彼女の音楽に感じた「創意と驚きとユーモア」は、いまも生き生きとして、あります。 2009年7月11日のこのコンサートで初演された作品は「コノタシオン」。暗示的意味、共示、含意、内包のこと。「発せられた1つの音に内包された様々な情報を、暗示的な段階で留めておく、いわば東洋神秘主義に基づく部分、その情報を言い直す事によってある意味での再認識をさせている部分の融合によって書かれている」と作曲家は説明しています。続けて「深くて繊細な音楽が今の私の理想である」と。 これは音を聴く耳のよさ、という作曲家の武器のひとつを全面に稼動させた作品です。もうひとつの武器は「音で語る」という力ですが、震災を境にして久保さんは、その力を保持しながらも、より虚心に繊細に「音に耳を澄ませて音を書く」作品が美しく響くことになりました。倍音が効果的に用いられ、残されたピアノの響きが宙空に倍音をたちのぼらせるや、フルートが微細にきらめく倍音のひとつを捕え、「つかまえたぞ、これだ」とばかりに音楽の連歌をつなぎます。響きの深みは共鳴する倍音によってもたらされます。そして今回の「音楽浴」のテーマである「主観と客観」は、全体として意識的に構築された作品自体が示しています。 ほかの作品では、名ピアニスト/名ピアノ教師として有名なラザール・レヴィの作品を聴くことができたこと。19世紀生まれの演奏家は、自ら曲を書く音楽家が多く、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲をSP録音時代に初めてのこしたアルトゥール・シュナーベルも12音の作品を書いたそうです。作曲家もまた演奏家でした。現代音楽の分野では、私の好きな三宅榛名さん、高橋悠治さん、野田燎さん、そして久保さんと、みんな自作自演型の作曲家です。つまり、作曲と演奏が完全に分業する前の、かつてそうであった、音楽家がそうあるべきかたちの音楽家たちです。 6
大井浩明さんのバッハのコンサート。活動拠点を日本に移すやいなや、怒濤のような活躍ぶりです。昨年のベートーヴェン全ソナタとベートーヴェン/リストの全交響曲の連続演奏会は、最近のあらゆるコンサート・シリーズのなかでも世界的に見ても類例のないものでした。あれには驚かされました。高峰が並ぶ連山を次々に踏破していく様には感動を覚えました。これを果たすまでの年月の、大井さんとの交流のあれこれが思い出されました。早くCDが出揃えば、と願うばかりです。 彼についても、初めてのサロンの演奏会のことを書いておきましょう。それは1992年12月23日のこと。「Concert essai - <発音I>o new
works for piano solo」大井浩明(ピアノ)というタイトルで、ラッヘンマン(1970年の作品)、ルイジ・ノーノ(1976の作品)、リゲティ『エテュード集よりT,U,\,Y』(1990, 日本初演)のほかは、すべて日本の若い世代(当時)の作曲家たちの新作初演でした。副島猛、川島素晴、田中吉史、野村誠、小内将人、伊東乾、野田雅巳、福井知子の諸氏で、総勢8名の8新作! これら「新作」は、本当にできたてほやほやの新作で、前夜にようやくFAXでサロンに届いた、という猛者もいました。川島さんのがそれで、大井さんはついに高熱を発してしまう始末。当日は、サロンに辿り着くや、力なく巨体が揺れ、ばたんと前のめりに倒れ込んでしまいました。本番は、リゲティのときにカセット(の時代です)で音を補うのを手伝いました。しかし、はらはらどきどき。私はまるで保護者ならずとも「親戚のお兄ちゃん」程度には「身内」の気分で、舞台上の彼を見守るばかりでした。川島さんの作品にいちばん早く目を通したのはFAXを受け取った私ですが、難しくて到底一夜漬けの練習で弾けるものとも思えませんでした。しかし、大井さんは見事に弾ききりました。すばらしく「耳のいい」作曲家の作品として。川島さんは後年、大井さんのためにシェーンベルクの『モーセとアロン』の「金の仔牛」の部分をピアノ独奏用に編曲することになります。私はその演奏会には他の用があり行けませんでしたが、つくづく残念なことでした。楽譜が届いたのが、またしても前夜ではなかったことを、とそればかりを遠くの地で祈っていました。 次に大井さんがサロンで演奏会を開いたのは、1994年4月29日。作曲家シリーズ《POC》第1回 西村朗個展。この日には、作曲家/西村朗さんも来られて「お話」を聴かせていただき、演奏はピアノの大井さんのほか、フルートの三宅由紀さん、打楽器のリズム・プロジェクトSechseck。プログラムは「エクタール」「ピアノ・ソナタ」「三つの旋律系」「法悦の鐘」「カヤール」「星の鐘」、そして「ケチャ」。ここでも世界初演がありました。作曲家19歳のときの未発表作品「ピアノ・ソナタ」です。 三宅榛名さんのコンサートに来て、初めて話したのがどのコンサートだったのか。そのときに大井さんは「まだ未来しかない」若者でした。音楽大学へ行ってないことが話題になり、そのとき私は「そんなの関係ないから。音楽はそれをやるべき人がやってきたし、昔も今も。行く人は行くし行かない人だってたくさんいた。学校行くのはいい先生にめぐりあうきっかけのひとつでしかない。昔はみんな個人教授ですよ。シェーンベルク独学。モーツァルトもベートーヴェンも音大行ってない。てか、あの時代なかったか。フルトヴェングラーは個人教授。行くならいきなり海外というのもあって、三宅榛名さんがそうだよ。日本の音大行かなくて、ジュリアード。」というようなことをいって励ましました。 1994年4月の時点で、大井さんの得た評価は、1993年のアリオン賞の奨励賞受賞。そこから各賞の受賞歴が幕を明け、私のほうは1995年の震災。大井さんはそのうちにスイス連邦政府給費留学生ならびに文化庁派遣芸術家在外研修員としてスイスのベルン芸術大学にもぐりこみ、ブルーノ・カニーノ先生にピアノを、またディルク・ベルナー先生にチェンバロと通奏低音を学ぶ身となりました。以後、海外でもメシアン・コンクール入賞などの受賞歴を築きました。彼の名を世界に轟かせたのはクセナキス「シナファイ」のCDで、それは2002年につくられています。 さて、2009年9月20日と21日のバッハです。ピアノとチェンバロのみならず、クラヴィコードやピアノフォルテ、オルガンに至るまでの鍵盤楽器の発展史に出てくるすべての楽器を弾きこなしてきた大井さんにとっても、この三日連続のバッハ演奏会(山村サロンで2回やる前に、前日の9月19日、京都でオルガンを弾いています。曲目は「ドイツ・オルガン・ミサ」全曲、「前奏曲とフーガ 変ホ長調 BWV552」「教理問答コラール集 BWV669-689」「小フーガ ト短調 BWV578」、そして三宅榛名「オルガン独奏のための《風の夜 The
NightBreeze》(2007)。これら3日間のプログラムを見て、まず感じたのは「これじゃまるで千日回峰行だ!」。大井さんは、どうも生来「修行」のような企画が好きらしい。目の前に困難な壁を立て、それを徹夜してでも練習し、ひとつひとつの難関を乗り越えていく。もっとも世の中には、鼻歌まじりで得意な曲だけを演奏して帰っていく、なんのために人前で演奏するのか、その意味が不明な演奏家もいますから、大井さんの「回峰行」には、理屈抜きに応援したくなるものがあります。 バッハの「パルティータ」全曲。ジャーマンモデル二段鍵盤のチェンバロは415Hz、ヴァロッティ調律が施され、現代楽器よりははるかに落ちついた音調で1番冒頭が鳴り響きはじめました。力が脱けていますから、音が自律的に歩んでいきます。バッハの演奏は難しい。感情をこめてもどうにもならないからで、メカニックな動きがその音楽の本質のひとつをなしていること、それを大井さんは喜びとして弾く。2番、3番と後の楽曲へ進むにつれて、より理想的な脱力に近づいたようです。バッハの作品の密度の濃さに、「現代音楽」が息抜きとなりました。等々力政彦さんの委嘱初演作《豊かな森》は、南シベリアのトゥバ族の喉歌(フーメイ)の技法を駆使した作品は鮮烈な魅力を持つものでした。 二日目は「イタリア協奏曲」「フランス風序曲」と佐野敏幸さんの委嘱初演作が前半で、後半は「ゴルトベルク変奏曲」の15変奏と16変奏の間に川上統さんの委嘱初演作が挟みこまれるという奇策に出ました。これは大井さんならではのプログラミング。大作「ゴルトベルク変奏曲」の演奏について、どの変奏のあそこでどうしたこうした、ということを書いていると、終わりそうにないのでやめておきます。まだ残暑が残る二日間、現代音楽に鍛えられ、バッハにも真正面から鍛えられてきた大井浩明というピアニストの力を実感しました。 大井さんはその後、2009年12月6日に堺市の「スペース クリストフォーリ 堺」で「シューベルト最後の三つのソナタ」を弾いています。使用楽器は1820年のマテウス・シュタイン(ウィーン)で、シューベルト「クラヴィア・ソナタ
第19番 ハ短調 D958」「同 第20番イ長調 D959」、そして「同 第21番 変ロ長調
D960」です。これも「回峰行」だ、と思いメールを送ると「いやいや自家薬籠中のものですから」と返信がきました。行って、聴いて、私はうなりました。前半はイ長調の第2楽章の徹底された表現が白眉であり、ついで同じ曲の終楽章。後半の変ロ長調にいたっては、これまでに聴いたことがないほどの悲しみと明るさが同居する音楽が貫きました。あらゆる音の色、あらゆる音がしない「間」、すべてが晩年のシューベルトの魂を伝えてやまないのでした。第2楽章なかばから胸を衝かれて瞼が熱くなりました。 2010年3月1日(月)と3日(水)、両日とも19:00開演で、大井さんはバッハを弾きにサロンへ戻ってこられます。1日は「フランス組曲」全曲。3日は「イギリス組曲」全曲。全自由席 ¥3,000 です。これも、ひとりの音楽家が力と手段をつくして表現に立ち向かう「重要なコンサート」のひとつになりそうです。ご来場を乞い願います。 7
リスト協会スイス・日本のリヒャルト・フランクさんの企画の演奏会。今回はイタリアのヴァイオリンとピアノのデュオで、まぎれもない「イタリア楽派」の弦の響きを楽しみました。イタリア人の音楽家といえば、まず一般のファンはパヴァロッティら「楽譜も読めないテノール馬鹿」と敬愛をこめて思い浮かべられる人が多いのではないでしょうか。しかし、作曲家や器楽奏者はちがいます。ミケランジェリやポリーニ、指揮者のジュリーニなど、いずれも紙面を貫き通すばかりに楽譜を読みこみ、響きも透徹をきわめたものでした。彼ら二人もまた、知性がかがやくイタリア人音楽家。「純正イタリアン」の風味を披露していただけたのは、コレルリとパガニーニです。もはや別格。ベートーヴェンの「春」も、彼としては「歌」に充ちた楽曲ですから文句なし。ですから私の興味は、ドイツ音楽としても最も渋い部類に属するシューマンとブラームスでした。これら2曲はドイツ音楽好きの日本でも、一般のファンには遠いものです。 イタリアの音楽家には、おそらく「イタリアが音楽の中心にある」という強烈な自負が、いまもあると思います。あらゆる音は曇りがなく迷いがなく、抜けきった青空のように、その青空へ向かってカンタービレに徹して歌われていきました。いわば「ベルカント唱法」。その表現が徹底されているために、音楽に硬度がそなわり、影の出現を許さない「光の音楽」が立ち現れたのでした。
かのブゾーニの孫弟子であり、20世紀初頭の大ピアニストらのピアニズムを今に伝えるクレアリー和子さんの「オール・ショパン・プログラム」。フジコ・ヘミングさんが彼女の演奏を愛しているように、私もこよなく大切なものとして、いつも胸に抱いています。多言は費やしません。
京都の朝倉泰子さんの企画で、若い人たちもまじえて「アルバート・ロトと仲間たち」という室内楽のコンサートが開かれました。大人の三人の音楽家たちには、もう何度も出演していただいています。いちばんおつきあいの長いのが、いちばん若い水谷川優子さんです。父上の水谷川(みやがわ)忠俊さんは、最初期のサロンの音楽会をコーディネートしてくださった方で、優子さんはまだ高校生のお嬢さまとして芦屋に来られたのでした。 ソロありデュオあり、トリオあり、出ずっぱりだったのはピアノのロトさんですが、終始余裕をもって大きな音楽の器を創造し、結果、のびのびとソリストたちが弦楽器を弾く喜びに満たされて。若林暢さんは、いずれバッハの「無伴奏」を聴かせていただければ、と願っています。最も真摯にして艶やかな、彼女ならではのバッハが聴けるにちがいないと思います。
「子供から大人まで楽しめる初夏のコンサート」と題して、童謡など耳になじみのある曲が演奏されました。この音楽会を通じて、あらためて子供たちにとり、NHK「みんなのうた」は大切な仕事を何年も続けていると再認識しました。いきなりグスタフ・マーラーを聴く子供はいません。「アイアイ」など、娘が園児だったころを思いだしました。意義のある音楽会でした。
花柳廸彦太さんは、たびたび門下の日本舞踊のおさらい会をサロンの能舞台で開いておられます。「はなやぎ・みちひこた」と読み、最近は「ひこたん」という愛称で呼ばれながら芸能活動もされています。まだ若い「お師匠さん」ですから、これからも応援していきたいと思っています。
これは長年開いているサロン主催の展示会です。2009年は、山内和子さんの「あい染」と山城建司さんの「陶芸」の二人展になりました。だから少し規模縮小で和室で開催。しかしやはり終始お客さまでにぎわい、円熟へ向かうお二人の作品に堪能されたようです。
こちらはプロ・アマ混合の手工芸の展示会。山村摩弥が「“Atelier Maya”の布バック」をもって参加させていただきました。出品された皆さまのお友だちでにぎやかな二日間。山村摩弥は、高い素材で作って安く売ったために、利益はでなかったそうですが「喜んでもらえたらいいのよ」と申しております。もちろん彼女はアマチュアです。 8
SPとLPのレコード・コンサート。いちばん古いクレデンザ・コンサートは、もう11年あまり続いています。クレデンザもデッカ・デコラもオペラ・スペシャルも、年6回の企画です。「ガンジス河の真砂より あまたおわする」レコードたち。まだまだ続いていきます。料金は、お茶つきで
¥1,000。予約はいりません。
9 私の属する芦屋川ロータリークラブの20周年記念事業の一環として、夏休みのおわりに2日間、山村サロンとお向かいのラポルテホールで一日中さまざまな音楽会をお楽しみいただく、という企画がありました。 山村サロンでは以上の催し。29日は私のコーディネートで、30日は野田燎さんにお委せしました。音楽運動療法家として、実践を含めてふたこま。音楽家としてふたこま。 また11月15日、ノボテル甲子園で地区内のロータリアンにご参集いただいて「芦屋川ロータリークラブ創立20周年記念例会並びに祝宴」を挙行いたしましたが、その折に実行委員のひとりだった私が北野辰二さんに依頼して「新・黄楊の小櫛」という芝居を北辰旅団に演じていただきました。 2009年は、山村サロン女声合唱団の活動は、この「音楽縁日」と、9月13日の芝居のコーラスの二つでした。2010年は、従来のコンサート形式に戻るつもりです。予定では11月に。 |
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2010年 1月 1日 発行 著 者 山村 雅治 発行者 山村 雅治 発行所 山村サロン e-mail yamamura@y-salon.com H P www.y-salon.com Facebook www.facebook.com/yamamurasalon Twitter http://twitter.com/masa_yamr
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