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<< Vol.40 2009前期-Vol.41 Vol. 42 >> |
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100年後の少年
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ピアニストの大井浩明さんの、べートーヴェン「ピアノ・ソナタ」と「交響曲」(リスト編)全曲を演奏する『大井浩明 Beethovenfries』は、2009年3月25日の第13回公演をもって無事に終わりました。会場は京都文化博物館の別館ホール。三条烏丸は京都ならではの古い建物が残っていて、とても好きです。同ホールは明治39年竣工の旧日本銀行京都支店で、壁面が赤レンガの天井の高い、響きの豊かな空間です。開演前には必ずイノダでコーヒーを飲んでから、演奏会に臨みました。 ベートーヴェン中期作品のシリーズは、2008年10月30日の『テンペスト』『ヴァルトシュタイン』から同12月26日の『交響曲第7番』『同第8番』『連作歌曲集/遙かなる恋人に寄す』(いずれもリスト編)まで。また、後期作品は、明けて2009年3月10日のソナタ『第27番』『第28番』『第29番 ハンマークラヴィーア』などから3月25日の『交響曲第9番 合唱』などで結ばれました。『第九』の夜には、前半にアルカン編『カヴァティーナ』とウィンクラー編『大フーガ』が演奏されました。
13回にわたる連続演奏会の第一の独創は、ベートーヴェンのソナタ全曲をそれぞれの作曲年代別のフォルテピアノで弾きわけてきたことです。ソナタで6種類。第15番『田園』と2曲の『ソナチネ』(第19番と20番)までがウィーン式(A.シュタインとヴァルター)、それ以降第32番まではイギリス式(ジョーンズ=ラウンド、ムツィオ・クレメンティ、ジョン・ブロードウッド)。第29番『ハンマークラヴィーア』は、ブロードウッドとシュタインの併用。シュタインは新旧2型ありました。そしてリスト編の交響曲は、ウィーンのシュトライヒャー、パリのプレイエル、パリのエラールの3種類が用いられました。
それにしてもこれらの楽器をコレクションされている山本宣夫さんの、修復への情熱と技術には舌を巻きます。これらの楽器を自在に弾きこなした大井浩明さんの情熱と技術とともに。生まれ出たフォルテピアノの音楽は、まぎれもなくその時代に「今できた」新作のソナタであって、その時代の、いきのいい「現代音楽」なのでした。 私はいずれの回にもいちばん楽器に近い場所で聴いたので(できれば響板に顔を突っ込んで聴きたかったもの!)、耳の記憶は鮮明ですが、リリースされたCDも現代の機械にできる最善の音で記録できていると思います。 4『思い人』、8『悲愴』、19と20の『ソナチネ』(販売/キング・インターナショナルMOCP10003)。9、10、11(MOCP10004)。12『葬送』、13『幻想曲風ソナタ』、14『月光』(MOCP10005)。ヴィンクラー編の弦楽四重奏曲第1番より第1楽章、リスト編の交響曲第1番と第2番(MOCP10006)。 たとえば『悲愴』。考えぬき、試しぬいた後、すべてを離れて体当たりしているような凄味があります。嵐がうねる。そして、第一楽章終結の五つの四分音符は、音価と音量がすべてちがう。終楽章つまり全曲の終結も、一気に詰め寄るスタッカート。他の諸曲についても語りたいことは山とあります。
まだリリースされていないもので楽しみなのは、まず第17番『テンペスト』の第3楽章。タッチが脱力をきわめていて、分散和音が夢のように響くユニークな『テンペスト』!第21番『ヴァルトシュタイン』も全編、『オーロラ』と呼ばれる別名のごとく響きました。
表面の美しさとは裏腹に、内部にはものすごい力が渦巻いています。交響曲第5番『運命』第1楽章のなにげない経過句ひとつにも音の表情に打たれる場面があり、全曲を通じて随所に現れる遊びを楽しみ、「リスト編」交響曲が全曲リリースされれば音楽ファンの大きな楽しみになることでしょう。
大井さんは、そのリスト編ベートーヴェン「交響曲」について、こういっています。「華美な効果を目指したロマンチックな編曲、と批判する向きもありましょうが、ドイツ語を母語とし、ベートーヴェンと直接面識もあった人物が、ベートーヴェンの死後わずか20〜30年しか経っていない頃に丹精込めて換骨奪胎したわけですから、百数十年後のモダン・オケあるいは古楽オケとくらべて、どちらが『オーセンティック』なのか、っちゅう話です」。
勝負は明らかです。リストは「典拠のある」「真性の」ベートーヴェンの継承者です。そしてちなみに、遊びといえば、抱腹絶倒の諧謔は、もともとベートーヴェンの持っているものでした。ある種、豪傑的な高笑い。それを、最も深みを書いた作曲家にして希代のショーマンでもあり得たリストが編曲。演奏する大井さんは京都生まれ京都育ちの、クセナキスにも漫才にも詳しいピアニストであり、上方漫才の「ボケ」と「ツッコミ」をキーワードにしてバッハの『フーガの技法』を解析したりもしています。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 1770-1827。 フランツ・リスト 1811-1886。 リストはベートーヴェンが41歳のときに生まれ、ベートーヴェンの師であったサリエリと、ベートーヴェンの弟子のツェルニーに学んでいます。 そして、大井浩明さんは1968年生まれ。リストがベートーヴェンの交響曲を編曲し終えたのは1864年とされていますから、およそ、100年後の少年。
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2009年7月18日、東京で「小田実さんを偲ぶ会(没後2年)」が開かれました。当日はサロンで「小田実を読む」の会があったので、メッセージを送りました。次の通りです。
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小田実さんと同年代、共通する時代を生きてこられた作家によるお話。何度も何度も、澤地さんのお話をお聴きしたいと願います。まさに火を吐くような思いの吐露がありました。
小田実さんとの交流は、1992年9月から始まりました。サロンを1986年に開いてから数年経ってから「サロンの思想」と具体的な自主催事の記録をまとめ、一冊の本にしたのをお送りしたのがきっかけでした。『マリア・ユージナがいた』(リブロ社)という本です。小田さんからすぐにお便りが届いたのには、びっくりしました。会いましょう、と。小田さんは「人生の同行者です」と玄順恵さんを伴われて、サロンに現れました。 その席で「山村サロン自主講座」にお呼びしたいことをお願いしました。すると、小田さんは「政治の話はしたくない。文学の話に絞ってやりたい」といわれました。賛成でした。 「山村サロン自主講座」シリーズは、その年の12月23日、小田さんの独演を皮切りに、以後、久野収さん、中村真一郎さんらをお招きして続けていました。間にニューヨーク州立大学へ講義に行かれて中断しましたが、帰国後には1994年秋の「韓国の文化人をお迎えして」の回まで続けていました。
1995年1月17日。阪神淡路大震災が、小田さんと家族を襲い、私と家族を襲い、被災地のすべての人を襲いました。互いに一時的に親族の家に疎開し、数日を経て再び会ったときには二人とも怒りで身が震えていました。被災者を救うために、なにもしない国や行政に対しての怒りです。 テレビでは「ボランティア」募集の呼びかけが盛んに映し出される。これは行政が自らは動きたくないことの表明としか、私たちには受け取れない。また、ワイドショーの中では「生き埋め現場からの生中継」。高価そうな毛皮のコートを着た女性キャスターが瓦礫の現場からレポートするくだらなさ。とりわけ腹が立ったのは、海外からの医師たちや救助犬が、各省庁の縦割り行政のために数日間足止めをくらったこと。また、ヘリコプター中継の騒音で、そのときはまだ生きていた人たちの助けを呼ぶ声が掻き消されていたにちがいないこと。 ドイツ在住の親しい日本人ピアニストは、すぐさま日本の震災被災者を助けるべくチャリティ・コンサートを開きました。その収益を本国に送り届けて頂くべく当地の領事館へ出向くと、跳ね返されました。役人がいうには「わが国は自国の民は自国の力で助けるのである。したがって他国からの援助金は受け取らないのである」と。ピアニストの友人が怒り嘆いてその顛末を教えてくれた電話の声が、いまでも忘れられません。なんという国だ!
この国は、他国に赴任する役人には偉そうなことをいって、自国の被災者には民間からの義援金を配って頬被りするだけでした。それも全壊家屋の所帯に第一次配布の10万円と、第二次配布の10万円。計20万円。その前に起こった北海道奥尻島の震災時には、同所帯あたり千数百万円ばかりが配布されて、住宅再建ができたのです。阪神淡路は、被災者が多すぎる、 というのがこの国の「えらい人たち」の言い分でした。しかし、考えてみてください。家が壊れて住めなくなった家族のことを。ご自分がそうなったときのことを。
ガス電気水道、いわゆるライフラインが切断された私たちに、まず必要だったのは水です。飲める水。洗う水。あらゆることに使う水。次に食糧。店にもその日の在庫が売り切れれば、次の入荷はいつになるか分かりません。道路にも家が飛び出してきている。道路にも陥没した区域がある。幹線道路は動く車が残った人たちが逃げるために、西行きも東行きも砂塵のなかを大渋滞。そして、寝床。雨露をしのげる暖かい寝床です。これらについては、あたりまえのことですが、配水車、配給(これらの多くは他市からの援助によってです)、そして非難所におちついて、とりあえずはほっと一息つくことができたと思います。いざ、ことが起こると人間は「生物」としての心配をする。さあ、それからです。
被災者が気づくときが訪れます。お金がない。 家を持っていた人は建て直さなければならない。職場が壊れた人は再建しなければならない。震災は、いやおうなく市民の生活基盤を破壊し、経済基盤をくつがえします。それに対して義援金20万円の配布だけで済ませているこの国はなにか。
震災直後に小田実さんは、市民が市民を助ける「市民救援基金」を設立。1995年4月から9月まで、全国の市民から集まってきたお金を「行政の隙間にある」施設や外国人学校などに配って回りました。明けて1996年3月、西宮の小田さんと芦屋の私が、神戸の早川和男さん、中島絢子さんらとつながって「阪神淡路大震災 被災地からの緊急・要求声明の会」を設立。ここで小田さんはアメリカの危機管理庁FEMAの例にならって、全壊所帯に500万円、半壊所帯に300万円という要求額を明示しています。 自己責任というなら、金融機関住専に対してどうして多額の税金を注ぎ込むのか。彼らこそ経営責任を問われなければならないだろう。被災者は自然災害に巻き込まれたのにすぎない。米国は、災害に巻き込まれた国民の危機は民主主義の危機だ、という思想があり、ノースリッジの地震の際には、すぐさま小切手を配って回ったのだ。
それでも国は動きませんでした。1996年5月、災害被災者を公的援助する法律がないというなら、自分たちで作ろう。サロンでそのための「市民立法」案を、小田さん、早川さん、そして早川さんの信頼する伊賀興一さん、私の四人で作り上げ、「市民=議員立法実現推進本部」の活動が始まったのです。市民立法を現実のものとするために、超党派の国会議員に働きかけ、議員立法に重ねあわせて実現させよう、という企て。
それから2年半、厳しいたたかいの末に、まがりなりにも被災者生活再建支援法は成立しました。そこを「橋頭堡」として、と成立時の声明に私たちは書きましたが、まさに「橋頭堡」をつなぐ議員らの力で、年収や年齢の制限が撤廃され、住宅の建設・補修もはじめて対象になる「改正被災者生活再建支援法」が、2007年11月に成立しました。支給限度額の引き上げや半壊世帯への支給がないなどの問題点はなお残りますが、10年越しの大きな前進でした。2007年7月30日、小田実さん逝去。天から「おまえ、もっとやらんか!」と議員たちにはっぱをかけていられたような気がしてなりません。
この運動に係わった期間、私たちは被災地で東京で手を組み、デモをし、街頭演説をやりました。その間にも被災地の非人間的な環境におかれた仮設住宅や、非難所、区画整理地区へ赴き、そのときどきに聞いた話が、小説『深い音』にはちりばめられているのです。話の「全体」はつくりごとですが、「細部」は実話です。たとえばビルマ戦線の兵士の頭のなかに、白兵戦の銃声轟くなか突如としてベートーヴェンの『運命』が鳴り響いた話など。
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小田実さんの小説『深い音』に登場する市民たちは、いずれも内部に闇を抱えつつうごめきます。語り手となる橋本園子の中年女性の関西弁のニュアンスが、全体の重さが過剰になるのを救っています。『源氏物語』も京都の女ことばで書かれた小説ですから、まさに正統的な日本語の小説です。人物描写を通じて現れる震災直後の被災地は、凄惨をきわめたもの。
橋本園子は喫茶店レモンを経営していましたが、1995年1月17日午前5時46分、地震により家が倒壊、『深い音』を聞き、生き埋めになりました。通りかかった黒川紀一郎と孫の三郎に助けられました。三郎は体の大きな中学生で、市役所職員の父を憎み、殺す意志を持っていました。その計画を打ち明けられた紀一郎は、彼の父−すなわち紀一郎の息子を殺すというなら、自分をその前に自分を殺せ、といいました。しかし、わしはお前と戦う。死ぬのがどちらになるのかは分からない。泊まりに来い、といわれて、三郎が泊まりに行ったのが地震の前夜なのでした。殺しあいをしていたかも知れない二人に命を救われた園子は、離婚後ひとりで生きてきました。
園子はレモン店員のヨシ子の友人、木下芳美と病院で出会います。お多福顔の芳美は、震災前から盲腸炎で入院していたのです。退院後、園子は芳美のワンルームマンションでしばらく過ごし、仮設住宅に移ります。ある夜、さかりのついた体の大きな中学生の三郎が訪れます。園子は襲われ、強姦されそうになりますが、月のものの血を見せて萎えさせます。 ビルマ戦線の兵士だった紀一郎は、左手首と下腹部に戦傷を負った戦争体験から、日本は「官憲横暴」と考えていました。上官を殺害しました。震災後の被災地のありさま−「官憲横暴」がまかり通った区画整理事業にはじまり、公的援助なしの被災者の救いのなさ、その他、山とある「官憲横暴」のすべて−にも、煮えくり返る怒りを持っていました。
登場人物のなかで、ほとんどただひとり明るい笑顔を見せているのは芳美です。彼女にはたくさんの男友達がいて、その一人にベトナム人のグエンがいます。ベトナム戦争に巻き込まれたボートピープルで、逃げるときに多くの人を見殺しにしてきたことなどで、心に深く傷を負っています。妻とは別れ、子供は自殺。両親は病死し、ケミカルシューズの工場で働き、兄と弟の面倒を見ています。芳美は、神戸市長田区の被災者避難所の「ベトナム村」へボランティアに行って、グエンといい仲になりました。グエンは性的不能にもなっていました。
園子は、その後、紀一郎と互いの仮設住宅を訪問しあうなどの交流を重ねて、恋仲になっていきます。小説中「安心」という言葉が数回出てきますが、病院に落ち着いたときの「安心」は、いのちの安心。黒川に肩に手をかけられたときの「安心」は、より深く、自分は独りではない、という生き続けていく上での安心です。園子にしても、きれいな人生ばかりを送ってきたわけではありませんでした。レモン再建時には、若い山村少年を新しく雇い、震災まで働いていたにもかかわらず再雇用しなかった小沢を仮設住宅で孤独死させている。それは、あんたが殺したんや、と紀一郎にいわれます。
園子の束の間の安心は続きません。「官憲横暴」を怒り、追悼式場を爆破しようとタクシーに乗り込んだ紀一郎は、その車中で脳梗塞になり死亡。山村少年が婦女暴行で捕まるなど、登場人物のことごとくが現実の闇のなかへ沈んでいきますが、ただひとつ明るい話題が浮上します。お多福顔の芳美は、グエン以外の「誰だか分からない」男との間に子供を身籠もりましたが、グエンはそれを知りつつ芳美と結婚することを決めました。膨らみつつある芳美のお腹に耳をあてると『深い音』がする−
いのちの対話。きれいごとでない、いのちのやりとり。 震災直後の被災地の被災者、私たちは、かくのごとくの阿鼻叫喚を生きていました。みんなが生きること、稼ぐことと食べることに懸命であり、それゆえに政府に公的援助を求めるたたかいも必死でした。それは、いのちと引き換えのもの。 小田実さんの小説『深い音』を「小田実を読む」シリーズで読んだのは、私です。ともにたたかった、いわば「同時代の少年」。
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ベートーヴェン=リストの「100年後の少年」、大井浩明さんは、しかし、まっしぐらにベートーヴェン=リストを弾くことを目標にして歩んでこられたわけではありません。彼がはじめて私の目の前に現れたとき、彼はまだ学生で、その夜にサロンで開く三宅榛名さんのコンサートのあとで「僕を三宅榛名さんに会わせてください」と申し出を受けたのでした。それはサロンを開いてからまだ間もないときのこと。地震に襲われることなど想像だにできなかったころ。彼は大男であり、ピアノを弾くというものの一見して普通の音大生には見えませんでした。話を聞くと京都大学工学部です、と。これはおもしろいと思いました。コーヒーを飲みながら話を聞きます。現代音楽をすごく聴いている。まちがった聴き方はしていなさそうだ。話しぶりも素直で、虚飾のない人柄に魅かれるものがありました。
彼のピアニストとしての戸口は、かく開かれました。三宅榛名さんの音楽が好きだ、ということ自体、見所があります。音楽アカデミズムから離れたところでの自由にして闊達な、路上の、生活する人間の現代音楽。彼女は「たったひとり」の音楽家でした。その覇気にどれほどのファンが勇気づけられてきたことか。大井さんは三宅榛名さんに会い、この自作自演型の作曲家(20世紀初頭までは、ほとんどすべての作曲家は自作自演型でした)の三宅榛名さんの作品、たとえば『捨子エレジー』を、大井さんは後年、自らのコンサートで演奏することになります。
それから彼は、サロンで若い作曲家(川島素晴さんら)の作品をあつめたコンサートや、西村朗さんを招きその作品をあつめたコンサートを開きました。それらは、いまや「前史」の、いわば彼の滑走路の時代。力を貯えつつ東京でもコンサートを開くうちに「スイス連邦政府給費留学生」ならびに「文化庁派遣芸術家在外研修員」の資格を得て、ベルン芸術大学に留学。先生はブルーノ・カニーノでした。また古楽もきわめようとします。チェンバロと通奏低音をディルク・ベルナーに学び、ほかバロック・オルガンとクラヴィコードの講習会を受けます。快進撃がはじまります。 クセナキスの『シナファイ』のCD(仏TIMPANI)は世界を驚かせ、日本でもベストセラーになりました。古楽器を用いてのバッハ、モーツァルトのコンサートがいずれもすばらしいものでした。そして、今回のベートーヴェン『ソナタ』とベートーヴェン=リストの『交響曲』という概略の歩みです。すべての「温故知新」が、そこへ集積した感があります。そしてこれさえも、将来の大井さんにとっては、すべての音楽を当時の現代音楽」として弾く、という壮大な仕事につながっていくのだろうと思います。現代の「現代音楽」を忘れているわけではありません。彼の友人たちには、いい作曲家がいます。現代音楽は、このベートーヴェン・フリースのなかにも、随時はさまれていました。
30代のうちにベートーヴェンを全部やってしまおう! と願って、やりとげた大井浩明さんは、バッハの『6つのパルティータ BWV825-830』などを2009年9月20日(日)16:00開演で、また同『イタリア協奏曲』『フランス風序曲』『ゴルトベルク変奏曲』などを9月21日(月・祝)16:00開演で、いずれも山村サロンでやります。楽器は珍しいものが運ばれてくるということです。 いつまで経っても26歳くらいと思っていた大井さんですが、そういえば最近は風格めいたものを帯びてきて、なにもかもを呑み込むガルガンチュアに見えたり、なにもかもを笑い飛ばすフォールスタッフに見えたりもします。最新のCDは、バッハの『フーガの技法』(ENZO EZCD10004)。聴き終えるのが惜しいほどの、全編がおもしろいバッハ。バッハの音楽が抹香くさく感じられたり、教科書っぽくて退屈としか感じられなかった人にこそ、お勧めです。大井浩明さんの演奏会について、詳しいことを載せておきます。
小田実さん生誕 「100年後の少年・少女」が語り出す日を心待ちにしつつ「小田実を読む」は、2009年 8月22日(土)14:00−16:00 『河』A 玄順恵、同 9月19日(土)同 『終らない旅』 北野辰二、同10月17日(土)「記念講演・小田実さんの文学」 澤地久枝 と続きます。
毎年のお楽しみ。恒例になった、広瀬忠子さんがお集まりのまんなかにいる音楽パーティです。フランクさんが呼ばれたピアニストは、ポーランド生まれの女流ピアニスト、コーネリア・オゴルコフナさんノショパンの音楽と、お茶、そして有志のかたがたのお心のこもったお菓子などを頂きながら、楽しい時間が過ぎていきました。 当日は、広瀬忠子さんが「芦屋市民文化賞」を受賞された日。午前中に式典を済まされて、大急ぎで駆けつけてくださいました。広瀬さんが会長をつとめる「芦屋ユネスコ協会」が受賞の栄に輝いたのですが、同協会は昭和22年8月、「戦争は人の心の中に生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かねばならない」というユネスコ憲章に基づき、教育、科学、コミュニケーションを通じて「平和の志」を高く掲げ、草の根の市民運動を発展させることを目的に発足。その長年にわたる活動が「多くの市民に平和の尊さを訴えるとともに、活動を通して市民文化の向上発展にも大きく貢献されました」として、今回の受賞にいたりました。 たとえば、2009年3月17日、桂吉弥さんを招かれての会。講師をかえて、サロンで毎月開かれている「芦屋ユネスコ・レディース・セミナーハウス」も、広瀬会長はじめ、芦屋ユネスコのメンバーによって力強く続けられています。
『ウォロ』(市民活動総合情報誌)の編集者でもある村岡正司さんは、アジア留学生との多文化交流を推進するNPOの活動もされていて、今回の催しにつながりました。天山文化交流協会という、日本と新疆ウイグルをむすぶ活動も10年を迎え、今回の『ウイグル音楽祭』は盛大なものになりました。
今年(2009年)になってからの7月、ウルムチで起きた「ウイグル暴動」には心が痛みました。彼らウイグル族は、トルコ系イスラム教徒。陽気で、歌や踊りを心底楽しみ、私たち日本人との異文化交流を喜ぶ、平和な人たちだからです。漢族との関係のなかで、よほど溜まったものがなければ「暴動」に発展するわけがないと思います。日本の一市民としての願いは、中国が国内の多民族間、ことに大多数を占める漢族と少数民族の間の、あらゆる意味を含んだ一民族間差別や偏見の解消、経済格差の解消(、ウイグルには原油などの資源があるにかかわらず、移住してきた漢族ばかりが豊かになっている)など ― 平和をつくる大きな国になることです。 亡命ウイグル人組織「世界ウイグル会議」の主席、ラビア・カーディルさんが今夏、来日しました。中国政府が暴動の「扇動の黒幕」と名指しで非難した人ですが、チベットにおけるダライ・ラマ14世と同じ扱いを受けているのです。そして、中国政府はカーディルさんの来日を許した日本政府を非難しています。力による強引な異民族支配は、いずれは破綻します。今後の世界を牽引するに違いない中国は、やはり牽引していくだろうインドと並んで「東洋の知恵」の大国でもあるはずなのに、残念なことです。
天山文化交流協会のこれからの発展を、こころから祈ります。 天山文化交流協会創立10周年記念 ウイグル音楽祭 2008.11.23 撮影/村岡正司さん(上) 山村雅治(下)
野田燎さん主宰の「野田ファミリー・コンサート」は快調に進んでいます。
2008年特別クリスマスコンサートは、“井上智史の世界” 詩と歌と絵と音楽の饗宴と題された夢に満ちたもの。野田さんの音楽療法の最初の被験者だった井上さんは1974年生まれ、生後1ヵ月頃、風邪が元で髄膜炎になりいその後水頭症になりました。脳、とくに前頭葉に絶望的な損傷を受け、手術のさい医師から「助かるかどうかは50%、助かったとしでも一生笑うことはないでしょう」と告げられました。 1979年5歳、芦崖市立みどり学級に通いはじめます、四肢の麻痺があり、介助なしでは座ることもできず、言語の障害はもとより、形の認識能力も色彩感覚もないと考えられていたため、知性の発達は2歳の壁を越すのがむずかしいといわれる状態が続いていました、
1993年19歳。野田燎さんと出会い音楽療法が開始されまず。音楽に合わせてトランポリンを跳ぶことから始まり、効果はめざましく、7か月目で徐々に一人で歩くことができるようになりました。文字が書けるようにもなり、自らの思いを伝えることができるようになりました。1995年22歳、野田さんの友人で画家の吉仲正直さんに出会い、書画を描き始めます。翌1996年22歳、川畑勝美さんが主宰する絵画教室「アガペ」に通いはじめて、さらに自己表現の世界が広がりました。そして、1998年24歳、12月に山村サロンで個展を開き、以後、神戸、大阪、旭川などで個展。2005年には、あしや喜楽苑ギャラリーで個展を開きました。 2007年31歳、井上智史さんは詩を書きはじめました。
この一連の回復は、奇跡としかいいようがないでしょう。心のケアをめざすだけではなく、失われた機能回復をさせる力をもつ野田さんの音楽療法は、もともとサックス演奏家/作曲家として世界の水準で活躍していた(そのキャリアもパリとニューヨークを沸かせた凄いものです)音楽の能力を活かしきったものだったからにちがいありません。
この日、井上さんはご家族とともに上機嫌でした。笑うことがないとされた赤ちゃんが、大きくなって、自分の詩が歌になったものを聴いで、私たちもしあわせになりました。 私も思います。「タイガースが1番です」!
ファミリーの音楽家たちもそれぞれ回を重ねて、いい感じです。野田燎さんのソロとカプチーノのコンサートは、サックスという楽器の可能性の追求があり、バロックから演歌やアニソン「宇宙船艦ヤマト」までの膨大なレパートリーを誇っています。
神戸チタークラブは「第三の男」のドイツ/オーストリアのチターです、芦屋で教室を開かれてから10年。ドイツからチター製作者のホルスト・ヴィンシュの二人のお孫さん夫妻を招かれて、盛大に開かれました。 日仏文化サロンのシターは、フランス・シターです。楽器の形も音色もちがいます。こちらのほうは、私もレッスンを受けたことがあるのと、長谷川さんとは長いおつきあいになるのとで、第8回目を迎えました。 両会のますますの発展を祈るばかりです。
「アルカディア」の活動の継続を祝います、近年は、当日も行なわれた寺本郁子さん(ソプラノ)、中村八千代さん(フルート)、八木昭子さん(ピアノ)の「アルカディア・トリオ」で、よくコンサートを開かれます。よほど気が合い、音楽性も合うのか、回を重ねるごとに、より楽しいステージになってきています。寺本さんの声はいよいよ伸びやかな自在さを増し、バロックからミュージカルまでの諸曲を鮮やかに歌いあげます。
マルティン・ジョストは1939年パリ生まれ、パリ国立高等音楽院を卒業。ピアノをイヴ・ナットに師事しています。その後の活躍は現代音楽の面でもめざましく、ジョン・ケージとシルヴァーノ・ブゾッティが彼女のために作曲したのをはじめ、多くの作曲家が彼女のために曲を作っています。レパートリーは広く、CDもハイドン、シューベルトなどたくさん出ていますが、ジョン・ケージ作品集一枚を、とくにこれを、という様子で、私は彼女から頂きました。のびやかで楽しみに満ちた音楽が広がります。ジョン・ケージがなぜ大きな作曲家だったのか、をあらためて知る機会になりました。
毎年2回のペースで、西宮在住の作曲家/ピアニストの久保洋子さんの「21世紀音楽浴」は開かれています、震災前の「20世紀」からはじまっていますから「音楽浴」は16回目どころではないのです。互いに30代からのおつきあいですから「幼なじみ」に似た感覚があります。久保さんは多くの自作初演をサロンでしてこられました。学んできた西洋の音楽と、血のなかの東洋との葛藤。あるいは格闘。師の近藤圭さんと抱えるテーマは共通のものでしたが、現れる音楽はまったく別の表情を持つものです。近藤さんは構築をめざし、縦と横、右と左の空間に雄渾な太い筆の運びで立体をあらわしていく。
久保洋子さんは、岩から水が滲み出してくる、その初めの水の流れを逃さない。その水は生きていて、日が射せば輝き、小石に遮られれば乗り越え、呼ばれて流れるのか呼ばれなくても流れたいから流れていくのか、渇いた鳥が来れば潤し、葉っぱが落ちてくればやさしく浮かせたり、また沈めたり。彼女の音楽には、まず自由があります。生きる力そのものの自由です。作風の変化は震災を経て、まず現れました。語ることが多かったのに、聴く耳が音楽を書きはじめた。震災に生き残って、また新しく生きることをはじめたのは私も同じでした。ふと、体の内部の音が聞こえる。血がながれる音。鼓動の律動。呼吸する音。いのちそのものとの対話を虚心に音楽に書きはじめられたのです。
もっとも本源の意味での「エロス」の音楽。 あれから14年。かつてのフランス政府給費留学生としてパリに学んだ彼女は、パリ第一大学大学院博士課程修了。ソルボンヌ大学やバリ国立高等音楽院などで教鞭をとるのみならず、大阪音楽大学教授としで後進を育て「久保洋子楽派」をたちあげるまでになりました。 新作『ヴェイキュール』は、媒介物、媒体という意味です。『日本人の芸術家が西洋の語法を使って創作する場合、東洋神秘主義と西洋合理主義の間で揺れ動く」と久保さんは書きます。自由の流れにも律がいる。律は多くの場合、久保さんは自律の経路を辿られてきました。この新作では、珍しく他律。外側から意識的に倍音を用いて作曲されています。創作は行きつ戻りつ。無意識と意識のはてしないインヴェンションです。
アフリカのエイズ孤児の音楽教育のために開かれたチャリティ・コンサート。 デイヴィッド・ジュリッツさんは、南アフリカ・ケープタウン生まれ、英国王立音楽大学を卒業後、イギリス室内管弦楽団に入団し、1985年以降ソリストとしても活動を始められました。1991年、ロンドン・モーツァルト・プレイヤーズのコンサートマスターに就任。2007年には貧困地域に住む子供たちの音楽教育のための募金活動として、4ヵ月半をかけてヨーロッパ、アフリカ、オーストラリア、アジア、アメリカの順に演奏旅行を行ないました。 彼によって設立された財団は、Musequality(ミューズクォリティ)といいます、www.musequality.org がそのホームページのアドレスです。 終演後、彼の活動をたたえるとともに、イギリス室内管弦楽団在籍当時の指揮者について尋ねてみました。LP、CDともに少なからず聴いてきたからです。「バレンボイム?もちろん知ってるさ。でも、いちばんよく弾いたのはジェフリー・テイトだね、彼はすばらしい指揮者だ!」と彼はいいました。だとすれば、発売当時に出るごとに聴いた、内田光子さんとテイト/イギリス室内管のモーツァルトの『ピアノ協奏曲』全集に、彼の弾くヴァイオリンが聴こえていたはずなのです。
毎年、春のイェルク・デムスさんのリサイタルです。ベートーヴェンのソナタをどれか、というのが決まりごとで、今回は「8番・悲槍」と「31番」が選ばれました。いずれも再演か、3度目のもの。不思議なことに「29番・ハンマークラヴィーア」だけはお嫌いだそうで、昔は弾かれたことがあるにちがいないと思うのですが、弾かれません。もっとも、80歳を越えられた大ピアニストです。レパートリーが限られてくるのは当然のことなのかも知れません。愛する同じ曲を繰り返し弾《。前半のバッハもシューベルトも、かつて弾かれた曲でした。しかし、ベートーヴェンをも含めて、音楽は前とはちがう。いくぶん聞を詰めて先へ急ぐのは意識的にだったのでしょうか。 それにしても、どの曲の細部にも、音楽の「宝の山」がつめこまれています。おそらくそれは、芸術家の「即興」の感興のなかで演奏するなかでしか現れない、閃きの表現です。今日はきのうとちがう。その夜ピアノを弾いた芸術家は、来年もまたリサイタルを開く予定です。当夜とはまたちがう、あたらしく生きる音楽を奏でてくれるでしょう。
以上は、イギリスのデッカ社製ステレオ電気蓄音器「デッカ・デコラ」を用いてのLPレコードを聴く会『デッカ・デコラコンサート』と、アメリカのビクトローラ社製手巻き式大型蓄音器「クレデンザ」を用いてのSPレコードを聴く会、そして新企画の「デッカデコラ オペラ・スペシャル」というオペラの全曲を楽しむコンサートの記録です。 CDや、それより進んだ機器のせいで、音楽ソフトの『音質』将来については、明るい見通しを持てないでいます。私の世代のLPや、父の世代のSPを、その時代の再生装置で聴けば、その音の深さ、温かさ、広がりなどに驚くばかりだからです。偶数月にクレデンザ、奇数月にデッカデコラ、第四水曜日の音盤ファンのお楽しみの時間です。
カフェ・フィロの藤本啓子さんの企画で、東京から清水哲郎さん、をお招きして『死の理解』についての歌とことばの会をもちました。清水さんは東京大学教授。かつてニコラウス・クザーヌスなど中世のカトリック神学の本を読んでいたころ、ウィリアム・オッカムヘの入門は、清水さんがお書きになっていたものによってでした。現在は「中世哲学」のみならず『臨床倫理学』と「死生学」にも力を注いでおられます、藤本さんは「患者のウェル・リビングを考える会」のなかで、清水さんと交流をされてきました。
死というものは、考えはじめると厄介なものです。誰もが死ぬ、その後があるのかないのか。宗教は、それぞれに答えを用意していました。キリスト教では、世の終わりに墓からすべての人が復活し、神の裁きが下る。義しい人は天国に上げられて、不義の人は地獄に突き落とされる。絵ではミケランジェロの『最期の審判』、歌ではグレゴリオ聖歌の『ディエス・イレ』が、裁きへの恐怖を描いています。至福の復活への願いがあるからこそ、芸術家はたえず同じテーマで創作を続けてきています。
『ディエス・イレ』かの日こそ怒りの日、のラテン語歌詞を書いたのは、13世紀のチェラノのトマス(1200頃−1255)。1226年に亡くなった聖人『アシジの聖フランチェスコ伝』を残した人でもあります。人祭唱、キリエなど伝統的な典礼文に続いて、続唱(セクエンツア)は9世紀頃から加えられるようになりました。『ディエス・イレ』はその一つです。トリエント公会議では、続唱のほとんどが『典礼に世俗的な要素が加わる』として禁止されましたが、『ディエス・イレ』は残り、のちのモーツァルトやヴェルディらの凄絶な『ディエス・イレ』につながっていきます。
1960年代の第2バチカン公会議では、再び『ディエス・イレ』は歌われなくなりました。「恐怖心を煽る」とみなされたといいます。殺戮の20世紀、第二次大戦後のカトリックは、自らの殼を打ち破るべく、さまざまな変貌を遂げようとしました、その一つの成果が、典礼聖歌を各国の言葉で歌ってよし、という画期的なもの、それまではひとつラテン語の典礼文を歌っていたのです。日本では、高田三郎さんが柱になって「日本語による典礼聖歌」がつくられていきました。フランスヘ赴き、サン・ピエール・ド・ソレーム修道院で修道士とともに生活し、グレゴリオ聖歌を学び、日本では日本の伝統音楽に学びつつ、簡潔をきわめた『ミサ』をはじめ、膨大な数の典礼聖歌を生み出しました。 当日私たちが歌ったのは、イエスの受難、イエスを見守りともに立ちつくした母マリア、そしてイエスの復活をめぐる諸曲です。
生命の有限。いずれ死ぬ。分かりきったことであっても、人は祈らずにはいられません。「死と復活」や「永遠の生命」について。 キリスト教文化にもとづいた私の話に続いて、清水哲郎さんは、鮮やかな「対論」を展開されました。日本の死の理解。その後の来場者の皆さんとの対話は弾みました。 カフェ・フイロ『書評カフェ』では、2009年5月にベルグソンの『笑い』についてのお話をしました。こうした時間が持てることを幸せに感じています。(報告は次号に)
さて、私は50歳を迎えてから自分を解き放つことにしました。震災以来、国会へ出向いて議員諸氏、役人諸氏と面談する用向きが増えたため、ダークスーツを毎日着ていました。髪だけは伸びたままにしていました。50になったとき、あれは「やるな」というダイモニオンの声ではなく、『やれ』というエンジェルの声がして、ある日突然、ノーネクタイのカジュアルな服装でサロンに行くようになりました。ところがこれが好評。冠婚葬祭にかかわる催事のときには、もちろんぴしっと決めますが、通常の文化催事の折にはカジュアル+アルファのスタイルで臨んでいます。ファッションは、自己表現の一環です。 そうした姿をご覧になった画家・松井美保子さんから、絵のモデルのオファーを受けて、その後、何枚も描かれて、2009年春の最新作が「読売賞」を受賞。表紙と裏表紙にその絵を載せています。私をモデルにした絵は、まだ描きます、とおっしゃっています。
山村摩弥の尽力で「山村サロン女声合唱団」を結成したのは、サロン20年の2006年。大学生のときに心を奪われた、高田三郎『典礼聖歌』を、自分の手でやりたかったのです。夢というものがあれば、それは何十年かかってもやりぬくもの。やりとげるもの。指揮法に関しては、これも大学生のときに「教会音楽講習会」で福永陽一郎先生の「指揮法」を受講したことがあり、直後に法政の「コール・アカデミー」定期演奏会へも行き、先生の指揮ぶりを見ていたものでした。高田作品は宇野功芳指揮KTU合唱団の『水のいのち』が手始めで、何度か宇野さんの指揮するコンサートに行きました。これらには『典礼聖歌』は含まれませんでした。作曲家の指揮によるものは、学生による高田三郎合唱団で『心の四季』など。 作曲家の指揮で『典礼聖歌』を聴くことができたのは、摩弥と結婚してからです。豊中混声合唱団が、毎年高田さんを招き、ワン・ステージを高田作品で埋めていました。白髪で小柄な、引き締まった美しい人。
いまになって悔やまれるのは、どうして押しかけていってでも、高田三郎さんに会いに行かなかったのか、です。せっかく生きる時間が重なっていたのに、いろいろと質問したいことがありました。手がかりになるのは、楽譜と作曲家自演のCDを別にすれば、ことばとしての一冊の本『典礼聖歌を作曲して』(オリエンス宗教研究所)だけです。100年後の少年も、その本は熟読することでしょう。
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山村サロン女声合唱団は、2009年8月29日(土)12:40から13:15に、高田三郎『典礼聖歌』を歌います。また、14:00から14:35には山田耕筰から戦後歌謡曲までの『日本の愛唱歌』を歌います。芦屋川ロータリークラブ創立20周年記念事業の15:20から15:55までと、16:40から17:15までのふたこまは、河田健さん(As)と高瀬芙紀子さん(Pf & Vo)によるジャズ・コンサートもあり、同じく入場無料のコンサート。
野田燎さんとファミリーによる8月30日(日)は、12:40から13:15に野田燎さんの『音楽療法講演』。14:00から14:35は、同じく『音楽運動療法体験セミナー』。15:20から15:55には伊勢美香さんと木村美泉さんの2台のマリンバと野田燎さんのアフリカンドラムによるコンサート。16:40から17:15は『サックスアンサンブルによる名曲集』で、出演は野田燎さんが率いるアンサンブル・カプチーノです。いずれも場所は山村サロンで、入場無料です。
芸術交響空間◎北辰旅団第十九回公演が、山村サロンで行なわれます。『宇宙の種まく捨聖』北野辰二作。これには北野さんからのオファーを勢いで受けてしまって、私、山村雅治が座員の三ツ樹零、防人鼎、綱島正午、八州晃に混じって(というか闖入して)役者となって参加します。なんと驚くべきことに、山村サロン女声合唱団も、衣装をつけて歌をうたうのです! 詳しくはちらしをご覧ください。2009年9月13日(日)お昼の公演が14:00開演。夕べの公演が17:00開演。チケットは前売り2,000円、当日2,500円で発売中です。
以上、この上なくつつましく宣伝させていただきました。 やれやれ、今度はなにをしでかすやら、というあの世の両親のトホホ顔が見えるようですが、たぶん北野辰二さんとは宿縁にむすばれていたもの、と、いただいた体と声への感謝を、あの世にメールを送っておきましょう、お盆どきですから、混雑しているでしょうか。 クリックで拡大
松井美保子『Y氏肖像(サロン)』 (第65回記念 関西水彩画展 読売賞受賞)
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2009年 8月 15日 発行 著 者 山村 雅治 発行者 山村 雅治 発行所 山村サロン
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