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レオナルド・ダ・ヴィンチ『聖アンナと聖母子』(ルーブル美術館) 精神史−林達夫の本をよりどころにして 1
林達夫の名前を、いまの若い人たちは知らないかも知れません。私にしたところで1971年以降、大学に入ったころに『林達夫著作集』全六巻(平凡社)をまとめて読んだのが最初ですから、遅れてきた読者です。そのころ、林さんはもう仕事の大半を終えられていました。 林さんは1896年生まれ。第一高等学校から京都帝国大学文学部哲学科で美術および美術史を修了。三木清と机を並べて波多野精一先生の講義を聴いたという、そういう世代の人です。一高時代に『歌舞伎劇に関するある考察』(1918年)を書き、大学の卒業論文は『希臘悲劇の起源』(1922年)でした。ここまでは日本とギリシアの劇。以後の仕事の幅の広さは、この世代の知識人としては例を見ないものです。 1923年、ブセット『イエス』の翻訳を岩波書店から刊行−『林達夫セレクション3 精神史』(鶴見俊輔監修/平凡社)の巻末年表による。以下同じ−。1924年、ストリントベルク『痴人の告白』を和辻哲郎と共訳で岩波書店から刊行。1927年から雑誌『思想』の編集にたずさわり、1930年、ファーブル『昆虫記』を1934年12月までかかって山田吉彦(きだみのる)と共訳で岩波文庫から刊行。ブセットとストリントベルクとアンリ・ファーブルをつなぐものが何か。 1931年、月刊グラフ雑誌『ソヴィエートの友』を発刊。1933年5月、写真家集団日本工房の顧問となり、同年8月『文芸復興』を小山書店から刊行。この本が初めての林さんの単行本で、そのとき彼は37歳でした。 2 林さんの本を読むようになったきっかけは、澁澤龍彦を読む中で林さんの名前が出てきたからでした。ヨーロッパの紋章学について話をお伺いするために鵠沼へ、といったエッセイのなかで、この上なく魅力的な「学問の先達」として林さんは登場していました。私は澁澤さんのスタイリッシュな文体とともに、同じくスタイリッシュな学風が好きでした。いうまでもなく彼はエッセイストですが、誠実にして精緻をきわめた学問が彼の基底にあったことは見逃すべきではありません。 マルキ・ド・サドの翻訳をめぐる「サド裁判」(1961年から1969年。最高裁で罰金7万円の有罪確定)騒動が、澁澤さんに関する日本人の記憶に大きいのでしょうが、マルキ・ド・サドは生真面目な文学者でした。澁澤さんが書いた、サドをめぐっての性と政治と権力にかかわる考察は、あの時代の本を読む少年はみな読んでいました。 当時、高校時代の私は詩を書くことに没頭していました。同時に世界を解読したいという欲望にとりつかれていました。文明の歪みが音を立てて軋みはじめた時代です。すでに水俣病などの工業廃棄物による人体の破壊があり、大気汚染はスモッグという「公害」を起こして、西暦1999年に終末が来るという予言が巷間に流布していました。賢くなってきていたはずの人類の「精神の歴史」が気になっていました。世界について感じ方が似ている友達は17歳、高校2年のときに発見しました。ニーチェやドストエフスキーを同じ時期に偶然読んでいたのです。彼とはみっちり2年間、密度の濃い交流ができました。 考え方や感じ方は似ていても、表現の仕方に違いがありました。彼は理系で医者志望、論理の人。私は文型で芸術家志望。ロゴスに根があるのか、パトスに根があるのか。彼は、私が「哲学」を書こうとしても「どうしても詩になってしまう」といいました。「詩のようだ」とは、1996年以降の小田実さんとともに動いた震災被災者に公的援助を求める運動、「市民=議員立法推進本部」名で何度も書いた「宣言」「書簡」「声明」を読んだ、市民の仲間からもいわれたことでした。 自覚的に詩を書きはじめたのは17歳のときです。友達に見せるためにです。同時に「学校のこと」が遠のきはじめ、教室では文庫本ばかり読み、家では絵や音楽、詩作の合間にまた読書といった毎日でした。大切なことだけをやる。3歳のときに祖母の死に接してから、人は死ぬ、という事実に立ち止まったまま、自分のいる、たしかにあるだろう足元を掘り続けていました。小学校の教育は愚劣でした。中学でも高校でも同じことでした。それを知ればどんなことがあっても生きていける「存在の意味」を示唆し、教えるのは学校の役目ではありませんでした。 当然のことながら受験は失敗。東京で浪人生活を送ることになりましたが、私の詩を持っていた人が見知らぬ人を介して、ある若手の詩人の元に届けました。私の知らないうちに、です。読んでいただいて、会おう、と呼びかけられました。芝山幹郎さんにはじめてお目にかかったのは真夏の下北沢のラーメン屋でした。噴き出る汗のなかで、こみあげてくる嬉しさを隠していたかどうか。芝山さんのお宅に遊びに行けば、松山俊太郎さんや谷川晃一さん、若い詩人たちがいて、一緒に劇場や画廊へ行けば、あの時代、70年代初頭の綺羅星のような文化人がいました。土方巽さん、加藤郁乎さんもそうですが、私が読んでおもしろかったのは、いわゆる「澁澤サロン」、澁澤龍彦のまわりにいた人たちでした。(最近、片山正樹さんから同人雑誌『未定』第13号(2008年11月1日発行)をいただきました。澁澤さんは『未定』の同人だった由。貴重な資料をありがとうございました)。 3 どっぷりと「澁澤文化圏」に浸かっていたと思います。さて、その澁澤さんが尊敬する林達夫とは、どんな本を書いていたのか。まず読んだのは『著作集』第一巻「芸術へのチチェローネ」の中の『精神史』でした。型破りの学者でした。ふつう学問の成果を著わすときには、学者は練りに練り推敲を重ねて無駄を省き、一枚の正確なカードを刻みつけるように本を書きます。吉川幸次郎はそういう学者でした。その厳しさに打たれます。ところがレオナルド・ダ・ヴィンチの絵をめぐっての林さんのこれは、本来そうした「学問の作法」を誰よりも知っているのに、進んで自らを解き放ち、好奇心の赴くままに、精神史の「研究の現場における、あれやこれやの、てんやわんやの操作」を書く、と宣言し「普通ならばn.g.にしてしまうようなところも敢えて残しておく。『方法』を語るには、それこそほかに方法はないと思うからだ」と胸のすくような啖呵を切るのです。『精神史−ひとつの方法序説−』というのが、この文章の正式な題名です。以下、『林達夫セレクション3 精神史』(鶴見俊輔監修 平凡社刊)から随時引用していきます。 アンドレ・シャステルの『バロックと死』のなかでの指摘、レオナルドの「聖アンナ母子像」の聖アンナの足許に、血がにじんだみたいな、奇妙な小さな切れっぱしとも「もつ」ともつかぬものが散見される。それは血管がすいてみえる胎盤の切れっぱしと、切断された小さな胎児に該当する−この記述に林さんは「寝耳に水のような衝撃を受けた」。その一瞬が起こした波紋の記録が、いきいきと描かれていきます。 まず、ヨーゼフ・ガントナーを読みます。レオナルドの「独創性は『空間の意味における現実性の程度の差異』の表現法にあり、このことは人物群を中心とする前景に対する『背景の薄明化』と言い直しても差し支えなかろう」。そこで「聖アンナ母子像」を見ればマリアの母アンナは膝にマリアを乗せているが、「アンナはマリアに比してより透明であり、より非実在的であり、より影像的であり、より彼岸的である」。 またガントナー。『大洪水と世界の滅亡についてのレオナルドのヴィジョン』に触発されて、レオナルドの手稿の数多くのスケッチが示しているように『その解剖学的構造に従っての人間の内部的組織』と、『やがては没落に辿りゆく地上界の暗い運命』のミクロコスモスとマクロコスモスとが、実は「聖アンナ母子像」に語られている。「つまりそれは『人間的ならびに植物的生がその出現をなす惑星−地球のヴィジョン』なのである」。 「聖書の世界観からは何と程遠いコスモロジーであろう」と、林さんは嘆じます。 そしてルネサンスの二人の巨人を、こう比較します。「『異教』に妥協しながらも結局聖史を彼の世界=人類史とするミケランジェロと、逆に『聖史』に妥協しながらも結局世界=人類史を宇宙生成史の気の遠くなるようなコンテキストの中へ組み入れずにはおかぬレオナルドと」。 そして、シャステルに立ち戻り、聖アンナ、マリア、イエスの「聖家族はお互いに離脱することも、合一することもできない人物のつながり」であるとする説を紹介し、三人を取り囲む自然と、聖アンナの足許の「もつ」までが描き込まれていたとすれば、「そうなると、聖アンナ、聖母、そしてイエスのピラミッド型が象っている生のすがたは、伝統的な三代ではもはやなくて、四代(胎内期間を加えて)といわねばならぬ」と、ひとまずの結論を得ます。次に調べなければならないのは「レダ」の絵だ。同じように、神話と科学とが一緒になっているだろうか。 4 「レオナルド・ダヴィンチの『レダ』について」という、林さんが高校時代の先生、八代幸雄の1931年の論文に触れます。「若年のわたくしは氏の論文を貪るように読んだ」と述懐します。『精神史』は1969年初出、林さんは73歳。学問は何年もかけてやりぬくもの。50余年がかりの「レダとその卵」の謎に、いまこそ彼は挑みます。 バッハオーフェンの「宗教においては、卵は万物の物質的みなもと、arche geneseos(創造の始原)である。それ自身からしてすべての生をもたらし、生成と滅亡とのいずれをも包含する事物のみなもとである。それは自然の明るい側面と暗い側面とのいずれをも含む」という記述が引かれます。 宇宙卵、宇宙生成卵の神話的モティーフは、古代ギリシアのアリストファネスなどにも「全くのオルフェウス教」の反映として見られ、キリスト教でも卵は復活祭の供物です。死と復活ないしは新生との深いつながり。この「卵」の神話の変奏曲の一つがレオナルドの「レダ」にも関係のあるディオスクロイ(カストルとポリュデウケス)の双生児神話です。二人の子供は一つの卵から生まれ出て「相反する生と死とをいわば交替制で営むことを運命づけられている次第だ」。 「もう一つ」と林さんは続けます。卵の形がコスモスの形に擬せられるとき、天と地は卵の「黒い半分は地となり、白い半分は天となる。黒い半分は女性的なものの原理、白い半分は男性的の無形的ポーテンシー。しかしひとたび離れ離れになると、かつて一つであった、これらの二つの部分はその再結合にあこがれてやまない」。 ここでプラトンの『饗宴』に語られた「両性具有神話」が思い出されます。しかし、卵の両半の再結合への切望は、すべての事物の起源と生成の流れと同じくらい強力な死と破滅とへの反対の流れを引き起こすとするディオニュソス宗教の中心観念を知れば、「二色の卵は、女性的なもの(質料)に内在する一つの神意=運命としてのうつろいの世界を支配している至上法則を示すとされているのである」。 レオナルドの「レダ」ではレダの足許に孵ったばかりの二つの卵から姿を現わした二組の双生児が見られるが、一組は和合と友愛、他は不和と争闘をあらわすという通説を示し、しかしそれだけではなく、という援用にケネス・クラークを引きます。レオナルドは「その中に、性の交わりの喜びと美しさではなしに、そのミステリーを、そして自然の創造的プロセスとのアナロジーを見たのだ」と。 5 この「レダ」についての章は、すでに澁澤龍彦の本で「宇宙卵」についてのことなどを読んでいたので、そして注釈に出てくるグスタフ・ルネ・ホッケ『迷宮としての世界』も種村季弘訳で愛読していたので、すでに親しい世界でした。ミルチャ・エリアーデの著作集が出たのは後のことですが、神話や宗教についての広汎な記述に圧倒され魅了されたものです。その一冊、『悪魔と両性具有』なんて、なんと魅力的な題名! エリアーデについては『精神史』の注釈に出てきます。訳書として堀一郎訳『大地・農耕・女性』が紹介されていますが、その堀さんのその本についての講義を、芸術三昧の「生活。そんなものは家来どもに任せておけ」の一浪を経て受かった法政文学部の教室で聞くことができたのは僥倖でした。のみならずラテン語を桝田啓三郎、フランス語を清岡卓行、渡辺広士の諸先生に学べたことは喜びでした。桝田さんは岩波文庫のキェルケゴールの訳者、清岡さんは渡辺一夫門下の小説家・詩人で原口統三に係わる人。そして渡辺広士さんは愛読していたロートレアモンの訳者です。 そして法学部の安井郁先生の知遇を得たことは、生涯の宝物を得た思いがしてなりません。いうまでもなく戦後日本を代表する「平和の使徒」のひとりです。ご自宅にまで何度も押しかけて、ベートーヴェンやドストエフスキーなどの話を聞いていただいたものです。 高校を出るまでは学校が嫌いで嫌いで仕方なかったくせに、いつの間にか毎日通うようになっていました。かつてはリラダンの訳者、斎藤磯雄がいた仏文科はなくなっていて、英文科に進みましたが、荒正人さんが語る「英米文学概論」はおもしろい講義でした。その他、古英語、チョーサーの時代の中英語、当時スターだったノーム・チョムスキーを扱う言語学などなど、次第にいつの間にか、学問のおもしろさを知るようになっていました。当時関心があったことは今でも関心があります。林さんのように、最晩年のベルグソン『笑』あとがき『ベルクソン以後』のように「私の学問にも年季が入ってきた」までになるには何度も生まれ直さなければなりません。それどころか、まだ戸口にまで辿り着いているかどうか。 6 閑話休題。『精神史』に戻ります。ケネス・クラークの言葉のついでに私も付け加えます。レオナルドは女性の裸像を残していません。「レダ」にしても弟子の模写が残っているのにすぎないのです。そして残された「レダ」の女性裸像にしても「性の交わりの喜び」などは、どこにもありません。同時代の画家、たとえばボッティチェッリなどは、女性の美しい裸像を見たい貴族の求めに応じてせっせと描いたにもかかわらず、です。人間性の解放=エロスの解放の時代に、ひとりレオナルドは蝋燭の明かりを頼りに人体解剖をし、詳細な解剖図を描き、雲や水の流れの様子や、空を飛ぶ機械や自転車などの機械図面を描き、ひたすら「存在」への探究を続けていました。生涯独身。財産を養子のフランチェスコ・メルツィに遺贈し、67歳で亡くなったとき、大切にしていた3枚の絵だけが手元に置かれていました。「モナ・リザ」「聖アンナと聖母子」。そして「モナ・リザ」以上に謎めいていて、いっそ妖艶といいたい不思議な微笑をたたえた「洗礼者ヨハネ」です。両性具有の「洗礼者ヨハネ」。 以下、レオナルドの生涯については、最新の研究成果が反映されている『世界の美術館 1 ルーブル美術館@』講談社刊を参照しています。 『ダ・ヴィンチ・コード』以来、彼についての好奇心はとどまるところを知りません。レオナルドの手記の一つ『マドリッド手稿』の完全なファクシミリが岩波書店から出たときに、私は学生でしたが、早速に神田の田村書店の店頭に出ているのをみつけ、父に無理をいって送金してもらいました。地震に耐えた箱入りのその本は、いまも大切に持っています。林さんは、『マドリッド手稿』の発見を、20世紀の三大発見の一つと位置づけました。まず『死海文書』。次に中国の『馬王堆の遺跡』。そしてレオナルドの『マドリッド手稿』だ、と。 林さんの『精神史』にも注釈部分にほのめかされていますが、レオナルドは同性愛者でした。実母はレオナルドを産んですぐに他の男と結婚。かわいがってくれた継母も12歳の時に亡くなりました。17歳になりフィレンツェのヴェロッキオの工房に入門。そこで腕を磨いて、瞬く間に師をしのぐ力量を示します。21歳のとき『受胎告知』完成。容姿にも恵まれていたレオナルドは工房でモデルも務めたといいますが、24歳の時に「男色」を告発されます。有罪宣告されれば「火あぶり」の刑です。実情は不明として釈放されます。レオナルドはこれについては何も語っていません。 いえないことについて緘黙を守ったとすれば、これも一時期「書かないことが私の表現だ」と緘黙を貫いた林達夫は、彼に似ています。戦争の時代を潜り抜けてきた思想家は、何も書かない時期がありました。戦中にも赤いセーターを着、戦後はスカートを穿いたファッション・イラストレーターの長沢節は、文化学院在学中に林達夫の講義を聞き「コンフォルミスム・デギゼ(仮装せる順応主義)」いうことを説く、これはまたこの時代にえらい先生がいたものだ、と書き残しています。 『反語的精神』(1946年に発表)には、教会の圧力を重く感じつつ、自分の思想を伝えるためにとったデカルトの「戦術」(それを林さんは「コンフォルミスム・デギゼ」と名付けます。また、ソクラテスのことを「コンフォルミスム・イロニック(反語的順応主義)」と呼ばれたことについて、こう続けます。「彼はイロニスト(反語家)にはちがいないが、しかしいつも大多数であるふりをしている、大衆と一緒になって声を合わせて合唱をやっている、俗衆の先頭に立って何食わぬ顔で音頭さえとっている−しかしそうしながら、実は、あらゆる通念、正統、権威を瓦解させ、嘲弄していたのです」と。 これはおそるべき洞察でした。『デカルトのポリティーク』(1939年)と併せて、思想を伝えるにも「戦略」が必要であることを訴えています。 1481年、レオナルド29歳のとき、工房の友人ボッティチェッリが教皇に招かれヴァティカンの壁画制作をはじめます。とりのこされた失意がレオナルドを襲います。「男色告発歴」が災いしたのかどうかは不明ですが、ロレンツォ・ディ・メディチに遣わされてミラノへ赴くことになります。求めに応じて宗教画の傑作『岩窟の聖母』や、1495年の『最後の晩餐』を書きますが、彼の関心は林さんが書いてきたように、「コスモロジー」にあったようです。教会がタブーとしていた人体解剖を30体をも敢然としてきた科学者は、いつの間にかキリスト教の制約を離れ、宗教的な題材を描くときにも自己の得た「コスモロジー」、生成から破滅へ至る宇宙論をぶちこめずにはいられなかったのです。レオナルドのなかでは、母の愛情をほとんど知らずに育った彼は同性愛に安らいだ、そのことで「火あぶり」にするぞと脅す教会への愛などとっくに吹き飛んでいたと思われます。 その意味では『ダ・ヴィンチ・コード』は、基本的なところでの勉強不足が目につきすぎる「学者」ならぬ「雑文業」の人の仕事でしたが、発想は分からなくはありません。科学者が「処女懐胎」や「死後の復活」などを容易に信じるでしょうか。科学で説明のつかないものごとを信じるから「信仰」なのですが、レオナルドはあまりに信仰から自由でした。しかし、彼が「イエスがマグダラのマリアと結ばれていた」という説を採っていたかどうかは、直接的な資料はなにもありません。 最近の発見では、フィクションではない本物の発見では、それよりも『ユダによる福音書』のほうが興味深いものでした。『死海文書』から延々と続いている古文書のなかでも、これは悪人と目されていたユダが、じつはイエスが最も信頼していた弟子であったことが記されています。グノーシス派の文書です。さまざまな文書から四福音書が正典と定められたのは紀元4世紀のこと。それでも、そこから弾き飛ばされた文書を外典・偽典として残されてきました。この文書については、さほど大きな反響がないようですが、「キリストは日本で死んでいた」とする民間伝承を信じている人たちの間では、ユダはむしろイエスの側にいた、という見解を採っています。信仰は信仰として大切に。それとは別に歴史の真実があれば、どんなことでも明るみになればいいと思います。 7 林達夫の文章は、いずれも短く、簡潔です。そこにはしかし、古今東西の文献を無数に渉猟してきた気配が立ち込め、誰がこういった、ということを紹介はするものの、私はこう考える、という強さがあります。学者にとどまらない思想家の毅然とした強さです。『共産主義的人間』(1951年)には、フルシチョフのはるか以前に徹底的なスターリン批判が展開されています。「『スターリンは間違ったことがない。生涯のうち只の一度も間違ったことがない』という独裁者スターリンの『不可謬性のローマ教皇』のような神聖な『無謬性』への信仰」などを断固として糾弾されていたのです。 それにしても、林達夫の残した文章は多岐にわたる分野におよび、かつての1971-72年初版の『林達夫著作集』(久野収/花田清輝編、平凡社)全6巻の表題は次の通りです。「芸術へのチチェローネ」「精神史への探究」「無神論としての唯物論」「批評の弁証法」「政治のフォークロア」「書籍の周囲」。ずっと後になって1987年になって第7巻「書簡」が出ました。あとは林達夫と久野収の対談『思想のドラマトゥルギー』(1974年初版)が、この上なくおもしろい本です。 小田実さんとの出会いは1991年。1986年にサロンを開館させてから3〜4年経ったとき、私は「サロンの思想」をまとめておこうと『マリア・ユージナがいた』という題名の本を書きました。副題は「小サキ都ニ山村さろんナル館ヲ開キタルコト」。 1986年といえば私は34歳。細々と詩を書くことは続けてはいたものの、それだけでは表現しきれないものが多く、英文学だけでなくフランスやロシアの文学も本が増えるばかりで、なお音楽もやりたいし、あいかわらず美術も好きで、いろいろな事物についてももっとよく知りたい−私はあまりにも欲張りでした。 再開発事業をきっかけに、ビルの中で自由に使える空間を得て、そこに現在のサロンを開いたのは、この場所であらゆる分野のことをやりたいからでした。自主催事としては文化・芸術・学術に関する会を開きます。のみならず、広く貸会場として皆さんに使っていただくときには、宴会もできるように、冠婚葬祭のあらゆることにも対応できるようにしました。また、商売をされる人にも商品の展示場として使っていただく。多目的な平らな床の上で、サロンでは、どんな人も対等平等にして、自由です。その場所で一つの出しものをめぐって、異なる分野の人たちが談論風発。その気風が地域に根差し、地域から世界へ広がる文化を創造する力になれば、と願いました。だから、この本にはそれまでに私が知り得たさまざまな分野のことが書いてあります。本当は、林達夫さんに読んでほしい本だったのです。お元気だったら、ついに残されなかった『三つのドン・ファン』の構想を講演会を開き、お伺いしたかった。 本は、旧知の詩人、音楽家の皆さんに贈り、未知の人、小田実さんにも贈りました。小田さんの本は1970年頃に少年・青年だった年代ならば誰でも読んでいたでしょう。とくに打たれたのは、思想を語るときには難しい言葉を使うな。誰にでもわかる言葉で喋れ、と当時の学生たちにアドバイスしていたこと。これはソクラテスです。ソクラテスは路上で靴屋のおじさんと哲学問答をし、真理への道を示し得た思想家です。小田さんの他の行文よりも、その一行に行動する思想家としての凄味を感じていたから、贈りました。1991年、すでに「べ平連」は1974年に終わり、小田さんが中央のマスコミからは遠ざかっていましたが、そんなことはどうでもよかったのです。 会いましょう、と独特の筆跡のお手紙をいただきました。暖かい文面でした。 やはり型破りに大きく見えた小田さんは、サロンで文芸講座を、という私の願いを快諾され、早速12月から始まることになりました。政治よりも文学を語る会にする。方針はそれだけであり、翌1992年以降、高校生だった小田実さんの小説を認め、世に出した中村真一郎さんや、ベ平連でデモにも歩かれた哲学者・久野収さんらが小田さんとともに講座の講師として、サロンに現れました。 久野さんといえば、私にはなによりも『思想のドラマトゥルギー』における林達夫の話を引き出す対話者としての久野収でした。『歴史的理性批判』もおおいに共感をもって読みましたが。私は久野さんがお話されるとき、その後ろにいそうな林さんをはじめ、その時代の大先達たちの影を見るようで、なにか感慨を覚えたものでした。久野さんにも『マリア・ユージナがいた』を贈りました。返書には「山村学兄」と記されていて、うれしい限りでした。 そういえば、その本は「旧制高校」の世代の方にもよく読まれました。おそらく父の影響もあるからでしょう。父はその世代、大正8年生まれの羊年で、加藤周一さんと同年です。『羊の歌』が好きだ、と生前いっていました。加藤周一さんも、小田さんに続き亡くなってしまいました。講座はありませんでしたが、小田さん、加藤さん、私の三人でサロンでお茶を飲んだことがあります。 * 以上は「カフェ・フィロ」のために書いた講義ノートの前半部分の補筆版です。これで、まだ『精神史』の半分までも読みおえていなくて、延々3時間半ほど喋り通しでした。続きはまた、機会があれば、ということにいたします。林さんは次の章で「ミケランジェロのレダ」を見ます。そして「墓廟の芸術家」ミケランジェロの本質に迫り、再びレオナルドへ戻り「洞窟」についての考えをめぐらせます。そして彼はこうしめくくります。 「わたくしがこの文章でやったことは」「これはわたくし流の」、「一つの『学問のすすめ』になっているかもしれない」。 8 『林達夫セレクション』は、鶴見俊輔さんの監修です。鶴見さんとは、小田さんと「市民=議員立法」後に興した「良心的軍事拒否国家日本実現の会」が東京へ出かけた折に、渋谷公会堂で集会をし、その後宮下公園までデモをいっしょに歩いたのが、私にとって最初の共同行動でした。それは2002年12月13日のこと。その後、鶴見さんは小田さんに呼ばれて、大阪と芦屋でお話をしていただき、昨年のサロンでの「小田実さんを偲ぶ会」にも出席してくださり、サロンについて「ここが小田のホームグラウンドだったんだなあ」とつぶやかれました。 その通り、何人かの音楽家がそうしているように、小田さんもまた、サロンを本拠地として、晩年の思想と行動を広げていきました。いまもなお、続けています。「小田さんは死んでも死なない」と、いいました。このようにして。仲間たちで。
「ロンギノス」と小田実共著の『崇高について』(河合文化教育研究所)を語りました。パトス(激情)を伴っての言葉こそが最高のレトリック(修辞学)だ。それこそが人間を崇高へ導く言葉である。ローマ時代のギリシア人批評家「ロンギノス」の主張を、小田さんは若いときから知っていて、そのような小説を書きたいと望みました。大学ではギリシア語を呉茂一、高津春繁両氏に師事、卒業論文も「ロンギノス」でした。1957年、25歳。そして、1999年、67歳にして『崇高について』を上梓します。小田さんは42年の歳月をかけて、若いときからやり続けていた学問を完成させました。 何年も何年もかけて、人は一つの穴を掘り下げ続け、一つの井戸から水を汲み続ける。私の好きな大先達は、みなそういう人たちでした。
坂口卓也さんが企画する例年のチャリティ・コンサートです。 この日のコンサートは、出演者の奏でる音楽の多彩さもあり、力に満ちていました。若い客層を前に、まず石上和也さんの電子音響。私は高校生のときにシュトックハウゼンの「電子音楽」と呼ばれていたものを聴いて、一時期夢中になりました。あの種類の音楽が昔は大きなスタジオでしかできなかったのが、今やノートパソコンと軽い機材で「出張公演」が可能になっています。呼び名が定まっているのかどうかは分かりません。「ノイズ・ミュージック」といったり「フリー・ミュージック」のなかに扱われることもあります。「エレクトロニクス・ミュージック」(電子音楽)が分かりやすいと思います。 石上和也さんのそれを、坂口さんは「頭の中を常に渦巻く情念、生きて記憶を蓄積して来た者ならば回避できるはずも無い自己を浸食してしまう様な記憶の緩やかな嵐とそれを呼んでも良いかもしれません」と、これ以上ない的確なことばで書かれています。付け加えることばはありません。 美川俊治さんの同じくエレクトロニクスは、生々しい肉感に満ちた真にユニークな創造性に輝いていました。肉感、あるいは肉体性は、まぎれもなく男の鍛えられた筋肉の力であり、声も取り入れられるときそれはいよいよ高みへのぼりつめ、高められた格闘技の選手の精神を垣間見るようでした。「電子音楽」でこんなことをやるとは! そして、ザ・リラダンズ。高山謙一さんと頭士奈生樹さんは、それぞれにかつて単独でこのコンサートに出演されています。かつて同じバンドを組んでいた二人が、今回小林旅人さんが加入しての、かつてのバンド名「ザ・リラダンズ」。ここには長く活動を続けてきての再会を祝しあう喜びが弾けるようで、しかも音楽は若いころのロックです。エレキギター2本と小林さんのエレキベース。約20年ぶりというザ・リラダンズは、昔の彼らを知る人たちにはたまらなく魅力的に響いたことでしょう。この10年ばかりの知己である私さえ、寄せては返す歌のうねりに心地よく翻弄されるままでした。 終演後の打ち上げで、美川さんにプロレスの話をしてみると、やはり来たか、とばかりに熱弁を振るわれました。そちらのマニアぶりも凄いです。 また、高山さんにヴィリエ・ド・リラダンの『残酷物語』読んだでしょう、と訊きました。当たりでした。斎藤磯雄訳の筑摩書房から出ていた本です。ああ、ここにリラダンの友がいた。美川さん、高山さん、そして頭士さん、小林さん、石上さん、ありがとうございました。坂口卓也さんにもあらためて感謝申し上げます。
陣門華子さんは、京都市立芸術大学を経てフランスのリヨン国立高等音楽院で学ばれた「フランス楽派」です。プログラムが意欲的で、よほど得意でなければできない音楽が並びました。プリュデルマッシェールやチッコリーニの講座も受講された若いピアニストが、これらの曲を弾ききり、随所にすぐれた音楽性を見せてくれました。
フランス発のシャンソンは、翻訳も盛んにされて日本に根付き、私も若いころは年長のファンの方に銀座・銀巴里や吉祥寺のベル・エポックなどのシャンソン酒場へ連れていってもらいました。その二つの店で、私は古賀力さんの歌声を聴いたことがありました。あの頃、1970年代前半の日本のシャンソン歌手で、不意打ちのように当時活躍していた人の名前を訊かれるとすれば、まず古賀力という名前が記憶の筆頭にきます。シャンソンを歌う人は星の数ほどいたというのに。けっして巧い人ではなく、むしろ所作なども無器用に見えましたが、これはどの年月を経で、なお覚えていたのは、彼の歌声に真実の個性、彼でなければ歌えない歌があったからです。 サロンで公演をした男性のシャンソン歌手は、まず石川功さん。少し後れて、田中朗さんでした。それぞれに揺るがない個性があり、いずれの日にかの再演を願っていました。半田知子さんから、山村サロンで古賀さんの公演をしたいんですが、と電話がかかってきたとき、古賀さんをあれから30年以上も聴いていないのに、あのころの歌う古賀さんの姿が即座に蘇ったのは、われながら驚きでした。 半田知子さんは、かつてヘフリガーさんをサロンに呼んでください、と熱烈に働きかけられ、実現を果たされた方。そのための文通を重ねるなかで、私の「心の友」といえる人になりました。サロンのレコード・コンサートの出席者でもあります。半田さんがいうには『古賀力さん、芳賀子勢子さんのご夫妻でお呼びしたい。そしてシャンソン評論家の永瀧達二さんを呼んで、山村さんとシャンソン談義をしてほしい。それが前からの私の願いでした』と。最後のところだけは自信がなかったのですが、拙著『マリア・ユージナがいた』には少しばかりですが、シャンソンを語っている場面があるのは確かでした。 私は言いました。『わかりました。今度は半田さんがプロデューサーになってくださいね。あとのことはやりますから』と、その日から夢の実現へ向けて、半田さんの熱い動きが始まりました。 当日が来ました。古賀さん、芳賀さん、そして永瀧さんの3人は、いうまでもなくプロのなかのプロ。私には何の心配もありませんでした。永瀧さんは1949年神戸生まれの大阪育ち。魅力ある大人です。前座の私たちの「シャンソン談義」がつつがなく終わり、いよいよ古賀さん、芳賀さんの登場です。もう立ちこめる空気がちがいます。大きくて、どこか寂とした味わい。年輪を重ねてかさねて、大切な歌を幹のまんなかで育ててこられた大樹の気配。1964年から結婚され、古賀さんを支えてこられ、みずからも歌を深めてこられた芳賀さんにも、この上ない暖かいものを感じました。もう、お二人がステ−ジにおられるだけで! と思ったのも束の間。歌が始まりました。お二人は歌いに芦屋ヘやってこられたのです。古賀さんのスタイルは昔の通り。一点一角もゆるがせにしない折り目正しい歌い方で、高い声の音程も正確に決めてこられます。清潔をきわめた目本語のシャンソンは、「ふるさとの山」「先生のオルガン」「オ−ヴェルニュの人に捧げる歌」「バラはあこがれ」「風歌い』「狼犬」「バカンスの小鳥」「誠実」そして「アコーディオン弾き」など。芳賀さんは「ゲッティンゲン」「哀れがリュトブフ」「考える暇もなく時は過ぎてゆく」「自転車」「平野の国」「大根役者」「人生は美しい」、そしてポリス・ヴィアンの「大統領閣下」などでした。 出演者の皆さま、ありがとうございました。半田さん、お疲れ様でした!
サロンを本拠地にしてパリと往復する作曲家/ピアニストの久保洋子さんの会。今回のゲストは最多出場の記録を塗り替える、フルートのビエール-イヴ=アルトーさんです。 子供のころのモーツァルトに不意を突かれました。なんて素直で強い音楽。音階の意味を知り抜いているかのような、何も足せないし、付け加えるものも何もない音楽です。 イギリスの現代の作曲家、フアーニホウのは彼の22歳の作品。現在はMIT教授です。最小の空間に緻密な凝縮があり、独特の緊張感に支配された作品です。 久保さんの新作をいつも楽しみにしています。今回は「ピュリフイカシオン」で、その意味はフランス語で浄化、純化といった意味。彼女は自作に関してこう述べています。 「自分の感性を頼りに、出来るだけ磨ぎ澄まされた音を使った作品を目指している。私の音感覚を通して得られた音は、決して、偶然から出て来たものではない。それは『知的直覚』と呼ばれている。過去の経験に基づいて、私が直感的に選んだ音である。自分の耳の中で、本当に聴こえて来た音だけを使って、作品を構成して行く」。 久保さん、ありがとう。私は最近は、いつも久保さんの作品を評して「会報」に同じことを書いてきました。まず「かたち」があるのではなく、聴こえてくる音に連れられる。今回の作品は、自覚的にその方法を押し進められたもので、洗練されて(文字通りに洗われて、練れて)突き抜けた自由さが美しい作品になっていました。 久保さんから、「会報」バックナンバーの久保さんに関するすべての批評を抜いておいてほしい、と依頼されています。「山村さんのお書きになるものを読んで、はじめて私が作曲で何をやっているのかが分かったことがしばしばあった」と。これはとっても嬉しいことでした。私の耳は「節穴」ではなかったからです。
かぎりなく優雅な舞踏の会。衣装の美しさはお話のほかで、やはりフランスの生地をお使いになったとのこと。夢のようなひとときでした。
サロンには地震の前からしばしば来演されていた野田燎さんが、長いインターバルを経て戻ってこられています。のみならず、サロンを本拠地に毎月のように音楽会を開くぞ。と力強い宣言をされています。野田さんとは、なにか強い絆のようなものを感じでいただけに、そのことばを聞いてしばらくは喜びをかみしめていました。 『脳科学と芸術』小泉英明編著(工作舎)を、先日、野田さんからいただきました。小泉さんを含めて32人の人の文章・対話が収められた大冊です。音楽家・音楽療法家として野田燎さんも文章を寄せられていて、実践の実績を踏まえての説得力が圧倒的です。 音楽療法への関心は、すでに学生時代からあったこと。そのときの先生の教室で初めてトランポリンが用いられたこと。サックスには力があると信じ、吹き、ピアノ演奏と併せて自閉症児の療法に参加されました。「ライフワークになる」と直感されたとのこと。 1972年からはアメリカとフランスで、サックス奏者/作曲家として活躍されます。瞠目すべきものがあります。1986年帰国。これはサロンが始まった年。1993年、芦屋のみどり学級で、野田さんの療法による第一号受験者の井上智史さんに出会います。彼はめざましい回復を見せました。 震災のときの記述こそが現在の野田さんの動かない基盤です。「家が倒壊し、生き埋めになった人々を素手で引き出しました。しかし、近所の幼い小学生を引き出したものの冷たくなった身体を腕に抱き、線路横に毛布をかけて並べるしかありませんでした。精神的ショックは甚大で、睡眠障害と自己の無力感に苛まれ、「音楽家の生き方」を問う毎日が続きました」。「私はサックスを手に取り、『サマータイム』を吹きました。自ら吹き、聴き、音の美しさに打たれ、身体中の悲しみを涙で流し落としました。サックスのすばらしさとともに音楽家である自分に誇りと喜びが蘇ってきました。この間の苦しい経験を生かすのは音楽運動療法の実践だと悟りました。音楽家がひとりの命を救えるならば、拍手喝采を受けるステージよりも生き甲斐がある」。 野田さんは歩き続けます。そのなかで、ふと欧米の大劇場で喝采を受けたころの旧作を振り返り「妖精の歌」の本邦初演などをしてみせてくれます。魅力ある響きが妖精の羽根のようにはばたいで、とても美しい歌でした。
これは一年に一度の高島仔さんの企画されていたオペプ歌手による華やかなコンサート。今回は岩田昭治さんとの共同企画で、いつものようにワイン・飲物付。オペラ・ファンには、たまらない日曜日の午後になったことでしょう。
サロンで呼吸法で痩せて美しい身体になるトレーニング「シーン、ボディ」講座を始められた北原利紗さんは素敵な女性です。 2008年具現展人選上二科展デザイン部門準人選という絵の腕前を持たれ、水墨画の藤村土筆さんとの二人展を開催されました。 北原さんは1970年OSKを卒業後、二代目京マチ子として抜擢、1973年サンフランシスコに渡り「カブキシアター」に出演。1975〜1981年オーストラリアのシドニーをはじめ各地を公演。 ジャズシンガーとしても活躍。その開、ロス・コーマンに師事、シャーリー・マクレーンとも共演しました。1981〜2007年、ニューヨークのブロードウェイ(アルビン・エイリー)プロクラス。「キャバレー」など多くのミュージカルに出演。振り付けをも行ないました。 そのような厳しい舞台生活で鍛えぬかれた「美しい身体」を作る方法を、実践とともに学ぶのが「シーン・ボディ」です。12月と1月はお休みで、2月から再開です。
すっかり定着したサロンのレコード・コンサードです。 デッカ・デコラでは、英国盤をデッカ・レーベルを中心にかけています。状態のいい初期盤をかけたときの極上の音の鳴りようは、ほんとうに気持ちが晴れる気がします。セルのベートーヴェンではウィーン・フィルが指揮者次第で見せる独特の厳しさを。ロンドンとのヘンデルでは華やかさと、静かな古雅のバロックを。という具合に書いていけばきりがありません。クナッパーツブッシュ/ウィーンでは即興精神に満ちた、裂帛の気合い。枯れたマーチの絶妙のリズム感。カラヤンのブラームスも、内燃する情熱がすばらしく、炎がくすぶったまま、あるいは燃え上がり、フラームスの内面の火を終始保った演奏でした。 クレデンザは昔の手回し式蓄音器。この中で一番古いものはリリー・レーマンで、100年前の歌声を聴きました。ヴァーグナーの『ニーベルングの指輪』の初演に参加した歴史的な歌手です。シューベルトばかりの3回。ワルターもカザルスも何度聴いても溜め息がでるほど美しい。スレザークの陶酔的な歌声にせよ、音楽の演奏表現は、現在あまりにも窮屈で喜びに欠ける人が多い。そんな嘆きも。 年季の入ったファンの人たちと聴きますので、お茶の時間も話が弾んでいます。初めての方もぜひ。音楽にすべてを忘れる時間です。
巻頭エッセイで内容について詳述しましたが、この会「カフェ・フィロ」について書いていませんでした。カフェ・フィロソフィー、哲学カフェ。この会の案内文にそくしていえば、発祥地はフランスで、1992年マルクソーテという人が「カフェーデ・ファール」ではじめました。その後活動に共感する人々がパリを中心に活動を広げていきました。現在はフランス圏外へと広かっています。呼称はソクラテスカフェ、カフェフィロなど様々です。代表は大阪大学の本間直樹さんですが、私はまだお会いしていません。神戸の藤本啓子さんが窓口として、数々ある「カフェ・フィロ」のイベントのなかの「書評カフェ」の講師としてお招きいただいた次第です。それまではお話ししたこともなく、どうやら藤本さんは日頃の私の言動を見ておられたようです。 サロンはもともとこういった趣旨で開いた場。思想家・小田実のサロンだったし、芦屋婦人会会長・広瀬忠子さんのサロンであり、音楽家・久保洋子さん、野田燎さんのサロンでもあります。私が喋るサロンはレコードコンサートを続けできました。サロンと「カフェ・フィロ」の出会いは自然なことでした。つまり「お茶でも飲みながら世界と人生を語りましょう」は、日頃私たちがやっていることでした。今後は年に1・2回、出演する方向です。 次回は、2009年2月15日(日)午後2時〜5時(開場1時30分)。場所は山村サロン。 『コンサートとお話 コンサート&カフエ』と題して行ないます。 コンサート/山村サロン女声合唱団(指揮/山村雅治) 曲目:『グレゴリオ聖歌』から「キリエ」「ディエス・イレ」 『典礼聖歌』(高田三郎)から「しあわせなかたマリア」 「元后あわれみの母」「母は立つ」「神を求めよ」「私は復活し」 お話:清水哲郎(東京大学教授)、 山村雅治(山村サロン) テーマ:『死の理解』 参加費/チケット代1000円(ドリンク代は実費) ちらしに記された藤本啓子さんの案内文は以下の通りです。 「山村さんには、宗教音楽の歴史とイエスの『死と復活』という物語について、清水先生には日本の死の理解と、『死と復活』という考えが生まれた土壌における死の理解との違いについてお話いただき、皆・さまと『ターミナル』について考えでみたいと思います、ふるってご参加ください」。 共催/山村サロン、患者のウェル・リビングを考える会 連絡先/山村サロンまで 山村サロン女声合唱団の演奏会は11月15日に開きました。 2008年の公開演奏会はこれだけになるかもしれませんニそれにして巻頭エッセイには書き残したことがまだまだあります。私個人の「精神史」に及ぼした音楽や宗教などのこと。払と同じくアシジの聖フランシスコを愛した人としで、林達夫もいたのです。 松井美保子さんの絵 表紙は松井美保子さんの新作『Y氏肖像(2008)』の部分です。上が全体像。指先がどこかレオナルド・ダ・ヴィンチの『洗礼者ヨハネ』に似ていて、とても好きな絵です。 2005年から松井美保子さんは、私をモデルにした絵を描き続けておられます。「芦屋・九条の会」の準備会、雨の夜の芦屋市民会館の一室で松井さんは私の姿を見て気にかかり、少し経ってから、当時の松本幸子会長を通して、サロンで初めてお目にかかりました。まず座像。そして横たわる姿。上半身を裸にした座像と横たわる姿。それらを一枚の画面に組み合わせた着衣と半裸の絵。展覧会に新作が展示されるたびに新しい驚きがありました。 小田実さんも、彼女が描く絵を評価されました。着衣で座像と横たわる姿を組み合わせた大作についてです。小田さんがご覧になったのは、半裸像までです。全裸やないとあかんな、と洩らされました。じつは、この絵の前に後ろ向きに椅子に腰掛けた全裸像がありました。まずバックを緑のやわらかい微光に包まれたもの。ぞして同じ構図で、紺の厳しさに白く背面が浮き上がるもの。それらは色のついた画面で見るほうがいいと思われるので、いずれ実物をご覧いただければ、と念じます。私はモデルであるにすぎず、皆さまがご覧になるのは画家を通して表現された「芸術作品」ですから、楽しいだけです。 2008年4月には、ラ・モール芦屋の2階「芦屋男女共同参画センター」で一ヵ月間、松井美保子さんは個展を開かれる予定です。私をモデルにした絵も展示されるとのことで、どの絵に会えるか楽しみです。
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2009年 1月 1日 発行 著 者 山村 雅治 発行者 山村 雅治 発行所 山村サロン
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