|
|||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||
精神と力の継承について 2008年7月27日、小田実さんの一周忌が近い日に『小田実さんの文学と市民運動−その思想的変遷−』と題した集会をサロンで開きました。集まった「小さい人」である私たちのなかに、いまなお力強く生きている小田実さんを語りあう会です。偲ぶ会ではなく、黙祷もありません。明るく笑う小田さんの大きな写真の前で、集会の前奏として、浜渦章盛さんとローゼンビート音楽館のメンバーが歌を歌い、サックスを吹き、ピアノを弾きました。浜渦さんの『ダニー・ボーイ』には万感がこもり、今後は小田さんに示唆されたオペラを書くことをいわれました。暖かい人であり、聴く人を芯から温めてくれる音楽家です。 そして、小田さんの今もっての「人生の同行者」玄順恵さんが、いろいろなエピソードを交えながら、テーマについての基調の話。遺作の大長編小説『河』に至るまでの小田さんの「文学と市民運動」が手際よく述べられました。まず少年時代の大阪大空襲の体験。「難死」の思想の芽生え。高校時代の処女作。古典ギリシアとの出会い。「ロンギノス」『崇高について』の発見。『なんでも見てやろう』の留学と出版。「ベ平連」運動。「阪神・淡路大震災」被災と「市民=議員立法」運動。それらのすべてが、遺作『河』へ流れこみ豊かな文学を結んだわけですが、ひとつだけつけ加えておきます。玄順恵さんとの出会いなく、小田ならさんという一子がなければ『河』はなかった。小説、評論を問わず、ものすごい枚数の原稿を小田実さんは書いてきた。練達の「writer」だった小田さんの技術の粋がここにあると同時に、思想の到達点も、最も親密な妻子ふたりへの真率なことばさえ織り込まれていると思います。それが未完に終わったことも小田さんらしい。なぜなら、旅は終わらないから。小田さん自身の、旅した人の旅は、なお私たちが続く道を歩いている限り、終わらないから。 中嶌哲演さんは小浜市で原発反対運動にも挺身される僧侶です。住職を務められる明通寺にあった「己が身に引き比べて、殺すな、殺させるな、殺すことを見逃すな(ブッダのことば)」を通じて、小田さんとの対話がはじまったとのこと。豊富な読書を通じて深められた思索を開陳する仏教者は、同時に行動する僧侶でもあり、含蓄の深い話を伺いました。 次にお願いしたのは、私たちのいちばん新しい友人である北野辰二さん。劇団「北辰旅団」座長であり、小田実さんの小説を演劇化する活動を始めています。この世にいた小田さんに会ったことがなかったといいます。 休憩を挟み、劇団員による小田さんの作品からの朗読。歌もありました。 後半の初めには、東京から駆けつけた玄香実さん(順恵さんのお姉さん)が、7月20日に文京シビックセンターで開かれた「小田実さんが掘った『井戸』を掘り続けよう」と題された集会についての報告。そこで配布された資料「第142回国会 参議院災害対策特別委員会会議録第六号」のなかの小田さんの「参考人発言」は、元議院秘書の今村直さんによって発掘されたものですが、私はこのときの現場にいて興奮を禁じえませんでした。市民=議員立法実現推進本部代表として、国に「被災者への公的援助」が必要であると説く、このときの小田さんの弁舌こそ、古代ギリシアの広場で行なわれたごとくの最高のレトリック(どのように相手を説得するかの術)があったからです。小田さんは何度も何度も、そもそもの基本から語りはじめる。このときもそうでした。誰にもわかることばでいう。いいぬく。 後日、この東京での会については、吉川勇一さんからもご教示をいただきました。 また、澤地久枝さんからメッセージが玄順恵さんのもとに届いていたので、私が全文を読ませていただきました。 小田実さんの息をつないでいくこと。小田さんの魂とともに、いまもなお在りつづけること。後半、マイクの前に立った語り手−辻公雄さん(イラク派遣違憲訴訟弁護団長)、木戸衛一さん(大阪大学教員・ドイツ政治史)、伊賀興一(弁護士・「市民立法」起草者のひとり)、市川禮子さん(きらくえん理事長)、早川和男さん(神戸大学名誉教授・「市民立法」起草者のひとり)−も、それぞれに専門を極められた方ばかりですが、小田さんは恐るべき多面体であり、それぞれの専門を通じて語られた小田さんの姿も、鮮明に映しだされた「なんでも見て」「なんでもやった」文学者・小田実の全体がありました。 小田さんには、いわば野性の思考がありました。野性とは、中央や権威などにはばかることなく専門を越境し、はだしの足で踏み込み、素手で本質をつかみとる天才の素性です。野性児のアマチュアリズムだけが、人間の知の範囲と行動の範囲を押し広げていきます。 集会の最後には、小田ならさん(ピアノ)と関口美奈子さん(ヴァイオリン)の二重奏。ならさんが小さなときからヴァイオリンを習っていた関口さんは、元大阪フィルのヴァイオリン奏者で、朝比奈隆さんの指揮のもとに雄大なブルックナーやベートーヴェンを弾いておられました。曲は、マルティーニのカヴォットとベートーヴェンのメヌエット。 小田さんは「writer」としては終生「ロンギノス」とともにあり、崇高をめざしていました。「ロンギノス」の論のなかで、とくに重要視されたのは「パトス」(激情)です。激情をもって語られたことばこそが「崇高」に至りうる。 過去の芸術家でいちばん小田さんに似ているのは、ベートーヴェンです。なによりもいかつい男らしい外貌。そして、ひたすらに高みをめざす人並みはずれた情熱のすさまじさ。 病床にながされていたというベートーヴェンの『ピアノ協奏曲第五番 皇帝』は、2007年8月、青山斎場にもながれていました。あれから私は、この曲を聴いていません。 2 2008年7月29日と31日の両日は、京都文化博物館別館ホールで、大井浩明さんのベートーヴェン連続演奏会を聴きました。クセナキスの『シナファイ』のCDで超絶技巧を鮮やかに示していたかと思えば、近年には歴史的鍵盤楽器を用いて古典の作品を演奏することに力を入れておられます。クラヴィコードによるバッハはサロンでも演奏されました。フォルテピアノによるモーツァルトは、東京まで出かけて聴きました。古楽器の奏法についての研鑽は凄いものがあります。大井さんほどの「練習の鬼」はいない。巨匠が遺した音楽は、技術=芸術が高みにおいても深みにおいても一致するからです。 2007年8月31日の柴田暦さん(うた)を迎えたコンサート以来の再会でした。彼のベートーヴェン・フリーズは、しかし2008年4月から始まっていて、その3回目までの日は、いずれも用事が重なり聴くことができなかったのです。ソナタを1番から順番に、作曲当時の楽器で弾いていく、という試み。初期のソナタも好きなので、聴けなかったことが悔やまれます。 29日は『大井浩明 Beethovenfries 第四回公演《なりなりてゆくソナタ》』。12番『葬送』(1800/01)、13番(1800/01)、14番『月光』(1801)、15番『田園』(1801)。ほかに河村真衣さんと安野太郎さんの委嘱新作初演がありました。 使用楽器はアントン・ヴァルターのフォルテピアノです。 現代ピアノよりもいかにも音量が弱そうな楽器だったので、一番前の席で聴きました。とてもやわらかい音。選ばれたテンポも楽器が美しく鳴り響くテンポであり、速すぎず遅すぎない。唸りをあげたのは第三楽章の「葬送行進曲」の中間部。そして13番の冒頭のなんというやさしさ。14番『月光』は、1970年ベートーヴェン生誕200年を迎えるにあたり、たしか1967年、大阪森ノ宮で「ベートーヴェン展」が開かれ、そこで当時を復元したブロードウッド・ピアノの音色で聴いたことを思いだしました。そのとき私は中学三年生。どこかごつごつした感触だけが印象に残っています。音が溶けあわなかった。しかし、大井さんが弾くアントン・ヴァルターはちがう。音が溶けあい、混ざりあって、水彩の淡い色調さえ生みだしていました。第三楽章は当時の前衛。荒れ狂うパトスの音楽は、おそらく当時の楽器を超えていたものでしょう。アントン・ヴァルターの低音は芯を剥き出しにしてがんばっていました。大井さんによれば、初版の楽譜には、この『月光』までが「フォルテピアノ、チェンバロのための」と記されていたそうです。15番『田園』からが「フォルテピアノのための」ソナタ。この曲にもある思い出があり、大好きなソナタのひとつです。 河村真衣さんは、サロンを本拠にする久保洋子さんに師事されました。日本と西洋の音楽のちがいについて考えてこられたとのこと、久保洋子さんもそうでした。前半2曲に続いて演奏された『フォルテピアノのめの《クロスローズ》』には、この上ない初演者を得ました。後半はじめに演奏された安野太郎さんの『mp3音源を伴ったフォルテピアノ独奏のための《帰ってこないあなた》』は、チベットの子供の歌の旋律がくりかえされていく「ボレロ」のような魅力をもった作品でした。 31日は『第五回公演《莟(つぼみ)とは汝れも知らずよ》』。ベートーヴェン作曲/L.ヴィンクラー編曲『弦楽四重奏曲第1番 ヘ長調 作品18-1』(1798/1800) から第1楽章、同/F.リスト編曲『交響曲第1番 ハ長調 作品21』(1799/1800)、同/同『交響曲第2番 二長調 作品36』(1800/2)。 使用楽器はヨハン・バプティスト・シュトライヒャー。1846年製で85鍵あります。リストの時代の楽器です。響きはすばらしく、音量も充分です。やはり最前列に座り、細かい音型や速い連打も、すべてをくっきりと聴きました。 作品18-1は日頃はあまり聴きません。しかし、ピアノフォルテに編曲されると、私だけだと思われますが、原曲よりおもしろい曲に聞こえました(作品18ならば後半の三曲のほうが魅力があります)。チェロ・パートが雄弁に弾かれたからかも知れません。そして曲がヘ長調の主和音で結ばれるや、休みなくその調の属七の和音が響き渡りました。第一交響曲が始まったのです。これは、やるな、やったね、という驚きと喜び。 ハ長調の交響曲の序奏部が、下属調の属七の和音で開始されるという、当時の「現代音楽」がそこに鮮やかに蘇ったのです。ハイドンの交響曲に倣って序奏部をつけましたが、わずかに12小節。ヘ長調、イ短調、ト長調と移りゆき、不安定な歩みがハ長調にたどり着いて序奏主題が奏でられたとき、若い日のベートーヴェンの奔放な魂が、堂々として歩きだしました。アレグロに移れば、さらに大井さんの演奏は力と輝きを増します。リストの編曲は音符の数がどう考えても多すぎるのですが、ある局面では怪獣と格闘するヘラクレスを思わせるほど。 第二交響曲は、さらに作品がベートーヴェン自身に近づき、スケールが大きくなってきます。第一交響曲では第3楽章がメヌエットになっていましたが、第二ではスケルツォ。音が抜けてもなにがあっても、大井さんは委細かまわず突き進み、傍若無人なまでの力の充溢と高揚感こそがベートーヴェンその人の音楽を思わせました。 3 表現者は意欲が大きければ大きいほど、時代の趣味や常識をこえていきます。ベートーヴェンも然り。彼が書いた革新的な作品の数々はまぎれもなく当時の「現代音楽」であり、後期の作品群など『第九』を除いては、いまもってコンサートで「客を呼べる」レパートリーではないのです。『大フーガ』などは時代をこえた傑作だと思うのですが。 当時の『交響曲第二番』の初演時の批評はこうです。 「《交響曲第二番》は寧猛な怪物、激しくのたうちまわる手負いの大蛇である。息絶えることを拒み、血を流しながら終局(終曲)を迎えてもなお、ピンと伸ばした尾を狂ったように打ち鳴らしている。(Zeitung f〓r die Elegente Welt,ウィーン、1804年5月)」(『名曲悪口事典 N.スロニムスキー編/伊藤制子訳(この項)
音楽之友社刊)。 いやはやグロテスクなイメージを持たれたようです。将来の巨匠は、『第三交響曲 英雄』では、さらにさらにスケールアップして巨大な歩みを見せます。「あまりにも長すぎる」と、今度はロンドンの批評家が匙を投げています。 天才はひとりで天才になるのではありません。先を行く年長の天才が認めてはじめて天才は天才を自ら育てる。少年時代の師・ネーフェのもとで研鑽を積んできたベートーヴェンは、先行する14歳年上の先輩モーツァルトに憧れ、1786年16歳のときにウィーンでモーツァルトと対面。しかし、ウィーン滞在中に母の訃報が届きボンへ帰らざるを得なくなり、弟子入りは果たせず。モーツァルトは、その4年後にはこの世を去っていきます。そして1792年22歳のとき、ボンを訪れた38歳年上の巨匠ハイドンに作品を認められ、弟子になることを許されました。ネーフェにJ.S.バッハの『平均律クラヴィア曲集』を習った少年は、長じてハイドンに対位法のレッスンを受けます。作品1の『ピアノ三重奏曲』は1794年の作品。同年、作品2の3つのソナタをハイドンの面前で演奏し、師・ハイドンに捧げました。かつてモーツァルトが弦楽四重奏曲『ハイドン・セット』6曲を、敬愛するハイドンに捧げたように。 青年作曲家の前途は洋々たるものでした。しかし、1798年28歳のときに、ベートーヴェンは自分の耳が聞こえにくくなっていることを自覚します。1802年10月に、耳疾に苦しみ死を思った気持ちを切々とのべた「ハイリゲンシュタットの遺書」を書きます。作品18の6曲の弦楽四重奏曲と作品21『交響曲第一番』は1801年の初演。作品36の『交響曲第二番』は1803年の初演です。作曲当時、ベートーヴェンの内面は地獄でした。 芸術家を、その精神と表現を、深めていくものはなにか。 批評家ではないことだけは確かです。おそらく、孤独の深さだけが彼を深める。 聴覚を失ってからのベートーヴェンは、くりかえし「奇妙な和声」が批評家たちによって糾弾されますが、まさに「神のごとき歩み」をみせます。「ハイリゲンシュタットの遺書」には、自殺を踏みとどまらせたのは芸術であり、「ああ、課せられた使命、そのすべてを終えてからでなければ私は死ねそうにない」と綴られます。死にゆく人の告別のことばではなく、新しく生きる芸術家の決意表明。 大なり小なり、芸術家には一生それをやっていこうとする決意をもたせる契機があります。ベートーヴェンにはピアニストとしての道は閉ざされても、作曲が残り、頭のなかで自由に音を奏でられたし技術も習得していた。自信がなければ「使命」を感じるということばは書けません。 4 『小田実さんの文学と市民運動』集会で、私がしきりに考えていたのは、小田さんが文学や市民運動を通じて示していた、その精神と力の継承についてでした。ハイドンからモーツァルト、そしてベートーヴェンの三人が同時に生きて音楽を書いていたことは心踊るものがあります。そのことを考えていました。ベートーヴェンがモーツァルトに会ったころ、モーツァルトは『フィガロの結婚』を成功させ、得意の絶頂にありました。『第一交響曲』を初演した1801年は、ハイドンが晩年の大作オラトリオ『四季』を初演した年でもあります。 学ぶとは「まねぶ」。つまり先達に倣うことから始まります。モーツァルトもベートーヴェンも大先達ハイドンから学んでいます。そして、モーツァルトはやがてモーツァルト自身になり、ベートーヴェンはベートーヴェン自身に脱皮して、ハイドンのなかにあった、バッハを含めての人類の「崇高」を表現する「音楽の歴史」をも溶けこませた偉大な芸術家になりました。天才は決して「後から来たものが威張る」という愚行をおかしません。なぜなら過去のどの時代に生きた人であれ、天才は天才としての匂いを漂わせ、時代をこえた輝きを放っているからです。むやみに先人を批判する芸術家には、ろくな人がいない。小田さんは「ロンギノス」との共著『崇高について』のなかで、戦後文学の先輩たちについて−野間宏、埴谷雄高、堀田善衛、中村真一郎ら−について美しい賛辞を書いています。語るべきものがない作家については一行もふれない。これが彼の批評の作法です。 現在において、小田実さんの若いころの本は非常に求めにくい情勢になっています。ベストセラー『なんでも見てやろう』が、書店にあるほとんど唯一の文庫本です。かつては「スター」と呼ばれるにふさわしい作家だったのに、いまは読む人が少ない。なぜか敬遠されているようです。小田さんは、ハイドンにたとえるよりも、シェーンベルクにたとえたほうが、より近いのかもしれません。 2008年8月3日、大阪天満宮のフジハラビルで北辰旅団の演劇公演を見ました。集会でも紹介された北野辰二脚本・演出による『「明後日」という処女作』。 北野さんは生前に小田さんと会ったことがない、集会当日の語り手のなかで唯一の人でした。6月に『なでしこと五円玉』を、小田さんの小説『知覧・五円銅貨』をもとにして劇化し上演。今度は処女作『明後日の手記』をもとにして、小田さんの原点をさぐるシアター・ピースを創造されました。この小説は小田さんが高校二年の夏休みに書いたもの。中村真一郎がこの小説を認め、1951年19歳のときに出版されました。北野さんは、この本を手に入れるのは結構骨の折れる作業だった、と述懐されています。考古学のようだ、と。 北辰旅団フルメンバーによる舞台は、北野さんのギターと田久保友妃さんのヴァイオリンによる音楽とメンバーがうたう歌に彩られ、重さと生真面目さが支配する厳粛な劇になっていました。 それにしても、北野辰二さんの意欲と情熱と実行力のすばらしさ。45歳という年齢にして、著作だけを通じて親しんでこられた「作家・小田実」の作品の戯曲化が開幕したのです。なるほど、そう来たか、という意表を衝かれた驚きと喜びがありました。劇団員は20代の若者です。小田さんの本を読んでいます。彼らによる「精神と力の継承」が、今後も続けられていくことを祈るばかりです。 このように小田実さんの命日を挟んだ8日間は、私にとっては「小田実/ベートーヴェン週間」に図らずもなりました。 5
これらが、体をもつ小田実さんがいなくなっても続けている「市民の集会」です。私が深く関わってきたのは「震災」問題ですが、地震も年を経るごとに「地方の地震」というよりも「地球の天変地異」規模の「地形の大変動」を引き起こすような凄味を増してきています。加うるに小林多喜二が脚光を浴びる貧困時代。9月13日(土)13:00から「新たな市民立法」を考える会を開きます。 ほかに2点、いわば私の「個人公演」ですが、『カフェ・フィロ』(哲学カフェ)という所から呼ばれて、林達夫について語ります。10月18日(土)13:30から。そして女声合唱団を指揮する音楽会は11月15日(土)14:00からの予定です。場所はいずれも山村サロン。
21世紀音楽浴という催しは、ここには取りあげない学生たちの小さなコンサートが先行して開かれています。学生たちが先に講師のピエールーイヴ・アルトーさんと久保洋子さんにレッスンを受け、その成果を発表する一時間ばかりの小さなコンサートが三本。先生どうしのコンサートがこれで、終了後の打ち上げのときに再び師弟が混じりあいます。今回は、自作を弾く人はなく、フルートの学生が主でした。作曲科の学生が自作を「世界初演」することもあります。大井浩明さんが京都でその作品を弾いた河村真衣さんも、この場で力を磨いてきたひとりです。彼女は2007年7月16日に『永遠なる瞬間の中で』を角南真理子さんのチェロとともに、ピアノを弾いて初演されています。そのときのプロフィールには「20世紀音楽浴」から参加していたとのことですから、長いです。河村さんだけでなく、ほかにもぐんぐん伸びていく人がいます。久保洋子さんは名教師です。「大阪音大・久保洋子楽派」と名づけてもよいだけの威容がやがて見えてくるでしょう。 ≪ピエール-イヴ・アルトー&久保洋子デュオ≫は1987年に初共演して、翌年に結成。二人ともが作曲家であり演奏家です。今回のプログラムは、久保さんの日本での師・近藤圭さんを除いては、オリヴィエ・メシアンとメシアン門下の作曲家がずらりと並びました。日本の音楽家にもメシアンの知遇を得た人は少なくありません。別宮貞雄さん(1922年生まれ)はパリでミヨーとメシアンを師として学ばれた作曲家。久保洋子さんは1956年生まれ。この二人の間の世代にも何人の作曲家がメシアンの下で学んだことでしょう。ソプラノ歌手の奈良ゆみさんもメシアンから賛辞を得た音楽家のひとりです。大井浩明さんは2000年に開かれた「第一回メシアン国際ピアノコンクール」に入賞しましたが、このときすでにメシアンは他界していました。メシアン本人が大井さんの演奏を聴いていれば、と悔やまれます。 久保洋子さんの新作『ジャイスマン』は、噴出・湧出・(感情の)ほとぱしり、(考えなどの)ひらめきという意味のフランス語。いつのころからか、おそらくは「日本の伝統芸術と現代音楽」に関する博士論文を書き上げ、成果がパリで認められたころ、あるいは近年すっきりと痩せられてバレエと能楽の仕舞いを習いはじめよその両方の先生から容赦なく叱っていただく、という新鮮にしてありがたい経験をされるようになってからか、久保洋子さんの作風はより自由な風が吹いてきました。労作をしていた、手法を試みていた、曲を創ることに必死で全力を傾けていた若いころの久保さんは、もはや修錬の時代をするりと脱けて『久保洋子自身』に泳ぎ着かれたようです。やはり契機は50歳。人間は50歳まで生きられれば、それまでの間をたゆみなく歩いていれば祝福が訪れる。この曲には削ぎ落とされたシンプルさが備わっていますから、いずれは広くフルート曲として認知されていくでしょう。 『フリュクチュアシオン』は1988年の旧作。能楽の影響を受けた作品ですが、最後に演奏された近藤圭さんの『大物の浦』と「対」として聴けば、感慨深いものがありました。
2007年も芦屋婦人会長の廣瀬忠子さんを中心にして、楽しいパーティを開きました。 今回のゲストは1985年生まれ22歳のイタリアから来た若いピアニスト、ダリオ・ボヌッチェッリさんです。ラッパロに生まれて、2004年パガニー一二音楽院卒業、現在ピネローロ音楽院で勉強中。フランコ・スカーラ、ブルーノ・カニーノ、アルド・チッコリーニに師事。多くの国内外ピアノ・コンクールに入賞され、すでにピアニストとしてヨーロッパのほとんどの国で演奏されています。坊やの面影が残っている若者は、典型的な「神童」として少年時代を送ってきたのでしょう。このようなサロンの集まりでピアノを弾くことも慣れていたにちがいありません。ヨーロッパでは誰かの館に呼ばれて、広間(サロン)で少人数を相手に演奏することは普通のことですから。 物怖じしない若者の勢いがありました。プログラム中、注意深く聴いたのはリストです。リストは自作のみならず先人の名作を、自分で弾いて聴かせるためにピアノ一台で弾けるようにした音楽家で、彼の編曲作品は少なくありません。大きなものではベートーヴェンの交響曲ですし、小さなものではこの日に弾かれたシューベルトの歌曲の数々。『冬の旅』からも12曲をピアノ独奏曲に編んでいます。イタリア人の歌はベルカント。美しいピアノの歌でした。 廣瀬忠子さんをはじめ、ご協力下さった皆様に感謝申し上げます。
ルイ・モイーズ先生門下のお二人によるフルート・コンサート。ルイ・モイーズは1912年に往年の名フルーティスト/マルセル・モイーズを父として生まれたフルーティスト・作曲家です、2007年7月にモイーズ先生が他界されて、直後のコンサートになりました。先生の「ファースト・ソナタ」は追悼の意をこめて演奏されました。父マルセルは作曲はしませんでしたが、息子ルイは曲を残しています。編曲作品も多いです。 場内には、お元気だったころの写真も飾られ、濱田陽子さんたちの思いがいっぱいこもった演奏会になりました。
恒例の「アルカディア音楽芸術振興財団」中村八千代さんプロデュースによるコンサートです。彼女は音楽会場に盲導犬を入れてのコンサートを。誰よりも早く実行した人です。自らフルートを吹きますが、コンサートの主役はソプラノの寺本郁子さんです。すばらしい教師に巡り会われて以来、発声が無理のない伸びやかなものになって、バロックからディズニーまでを気持ちよく聴かせてくれます。ピアノの八木昭子さんを含め、全員ごく若いころから知っているので、なにか幼馴染みのような気持ちを禁じ得ません。
日仏文化サロン・日本シター協会は、長谷川亘利さんが主宰されています。オルガンやチェンバロなどの古楽器に詳しい方ですが、最近は「フランス・シター」という楽器を広めることにご尽力されでいます。オーストリアのツィターとも異なる楽器です。インドのシタールも、おそらく語源は同じなのでしょうが全然ちがいますノ前に置いて、椅子に座って指で弦をはじいて音を出します。左手が和音、右手が旋律。古代ギリシア、旧約聖書の時代に起源を持つ楽器です。もう何年前になるでしょうか。長谷川さんから楽器を見たときに一目惚れ。このご活動の草創期にレッスンに通っていました。楽器も大小2台を手に入れました。 あのころから思えば、この日に出た奏者は30名を優にこえる広かりです。中には専門的に「フランス・シター」での演奏活動をされている方もおられ、益々のご発展を祈るばかりです。
これは若くて魅力的な女性が独力で企画した素敵なお集まりでした、大体が私はコスチューム・パーティ大好き人間です。ロリ(ロリータのこと)は無理ですが、ゴス(ゴシック)は私の好きなファッションの基本形のひとつです。黒ずくめが、まずその特徴です。あとは蘊蓄かたむければきりがないので省略しますが、ドレスコードが「ゴスロリ」で、格調高いバロックダンスを踊りましょう、というのですから、企画者のただならぬ趣味の高さが伺えます。本名よりもブログ上のハンドルネームで書いたほうがいいんでしょうね。 きょん姫さん、あなたはすばらしい。サロンでやって下さって、ありがとうございました。
これについては前号(会報2007後期 Vol.38)に詳述したので、略します。 女声合唱団を私が指揮してのコンサートは今年も開きます。2008年11月15日(土)午後2時開演(予定八この日のコンサート終了後のスピーチで、次回は私のボーカルで美輪明宏の歌をうたうなどとあらぬことを口走ってしまいました。もちろん、それはやめます。少し規模が小さくなった女声アンサンブルで、みんなの知っている世界の歌、中田喜直の歌と高田三郎「典礼聖歌」をやります。
野田燎さんが戻ってこられました。音楽療法に一身を捧げて、機能障害さえ克服させる尊い活動のその分野でのご活躍を祈るばかりでした。私は野田さんの新しい音楽が聴きたいと願っていました。そして機が熟したのです。野田燎さんが「コンサート」の世界に戻る祝典として「大人とこどものためのクリスマス前コンサート」。そして「野田燎サクソホン・ソロリサイタル 戦いと平和」こそが、フェニックスのように蘇った音楽家の初期作品から最新の初演作までの堂々たる展示でした。私はもう、ただ嬉しいだけで、新作2曲のみならず、全編にわたって舞台でサックスを吹く野田さんの音楽に打たれていました。音楽療法の「野田先生」しか知らない人のために書いておきます。野田さんは、かつてサックス自作自演を通じての「現代音楽」の最も先鋭な音楽家でした。
音楽家としての輝かしいキャリアをなげうって、野田燎さんは音楽療法を究められました。そのときにはそれが最も重要なことだったからです。いのちとはなにか。音楽とはなにか。音楽は、いのちに、なにができるか。障害を負っていても、人間らしく生きられるまでに蘇らせることは、音楽の力によってできるはずではないのか。 現に私は、野田燎さんのサックスによる音楽療法で、車椅子に乗ってしか移動できなかった少年が、自分の足で立ち、ご両親に支えられながら歩くまでに機能回復を果たしたのを見てきています。麻痺を克服した彼は、文字を書き、絵を描き、個性ある画面を創造できるまでになりました。 その「音楽の力」を、野田さんはソロ・リサイタルで存分に発揮されました。障害を背負う人たちも反応されました。音楽家として、ひたすらにまっすぐな道を歩いてこられた証として、新作「ディナンの夜」はありました。初演されたのはパリでもなくニューヨークでもなく芦屋のサロンでしたが、パリを沸かせた「清経」などに劣らず、大きく記念すべき作品になりました。 野田燎さんの復活のはばたきは、ソロ・リサイタルに終わりません。以後、毎月野田さんに係わる若い人たちのコンサートを開き、自分も出ることにする、という「野田ファミリー・コンサート」シリーズを企画されました。これはいろいろな意味で意義があります。 野田さんは大阪芸大教授でもあり、サックスの学生らで「アンサンブル・カプチーノ」を率いてもおられる。彼ら彼女ら学校関係の演奏家が出ることもあれば、音楽療法を通じて「野田ファミリー」になった音楽家も出ます。究極はひとつなのだと思われますが、たとえば音楽療法で歌をうたう望月恵理さんの場合、音楽のまっすぐな姿勢、自然な呼吸、無理な力がどこにも入っていない脱力が、美しい声で歌われていました。安易な自己表現とは一線を画した、これは純粋に音楽性だけが問われる厳しい表現です。
リヒャルト・フランクさんはリスト協会スイス・日本の主宰者で、ヨーロッパと日本を行き来しながら、ヨーロッパの知られざる音楽家を連れてこられます。11月のパーティーのボヌッチェッリさんもフランクさんが紹介して下さいました。 フランソワーズ・ショヴォーさんは、ピアニストであり作曲家。北フランス(ユーロ・レジオン、フランスとベルギーの国境、ルイ14世時代までは元フランドル州)に生まれ、リル音楽院卒業後パリのエコール・ノルマルで学ぶ。その後アメリカに渡りニューヨークのジュリアード音楽院に学ばれました。その後の活躍の範囲は世界中。ロシアやリトアニアも。韓国と日本のデビューが今回で、ですからショボー作品のすべては日本初演になりました、ミヨーの「ボヴァリ夫人」も、ことによるとそうかも知れません。 フランス人の音楽家でパリにとどまらす、ジュリアードヘ行った人は数多くはないと思います。求めるものがあったのでしょう。作曲家としては多作家で、現在150の作品があり。「藍色の交響曲」「白い交響曲」などの管弦楽曲、「フランダースの思い出」「アメリカ」などの弦楽四重奏曲、室内楽曲、ほかにはオペラもありピアノ曲あり、2003年、にはカーネギーホールで自作「Hudson River for
violin and piano」を初演されました。作品のCDは海外盤で出ていますし、ピアニストとしての「ダリウス・ミヨービアノ作品集」はロングセラーになっているそうです。われわれ日本の音楽ファンが知らないだけの「すごい人」。 前半がミヨーとショヴォーの作品。私には初めての作品でした。ほとんどの人にとっても初めてだったことでしょう。ミヨーもおそるべき多作家ですが、ピアノ独奏曲もあったのか、というほど日本では知られていません。(ちなみにマルセルーメイエルというモノラル時代の名ピアニストは、シャブリエのピアノ曲をLP2枚分残しています。シャブリエにピアノ曲があったのか! フローベルの小説「マダム・ボヴァリー」のキャラクターを描いた曲のようですが、器用な作曲家は、さすがに耳を飽きさせません。ショヴォーさんの自作は、アヴァンギャルドではなく、ドビュッシーらフランス近代音楽の技法を彼女の音楽的個性で表現したもの、といっていいでしょう。高雅で、どこか濡れた寂しさがあり、響きは淡彩の透明感が美しく、それぞれが一篇の詩のようでした。 後半のドビュッシーとサン=サーンスも、彼女が弾けばこうなるのか、と唸りました。すべてを突き放して、しかも自分のなかに生かして。とくにドビュッシーは、もっともっと聴きたいと願いました。ラヴェルの「夜のギャスパール」なども、どのように弾かれるのか。イマジネーションとファンタジーに満ちたコンサートでした。
毎年の春恒例のイェルク・デムス リサイタルです。ベートーヴェンのソナタを中核にして、今年はモーツァルトが対になる作曲家に選ばれました。曲目はデムスさん自身で決められたものですが、短調の曲2曲と長調の曲1曲を前半と後半にもってきています。 「幻想曲」K396とK397は、1782年の作品。「ソナタ」K330は、1781-1783年に作曲されたと考えられ、1784年に出版されています。この頃、1770年生まれのベートーヴェンは12歳、14歳です。お父さんによって「モーツァルトの再来」になるように厳しく仕込まれていたベートーヴェンは、11歳のときにネーフェ先生にめぐりあい、ネーフェはその後次々と少年ベートーヴェンの作品を出版することに力を注ぎました。1783年13歳のときの「選帝候ソナタ」3曲 WoO47は、そのひとつです。 「アダージョ」K540は1788年、「ロンド」K511は1787年、「小さなジーグ」K574は1789年にそれぞれ作曲されています。ベートーヴェンは1787年3月下旬にウィーンを訪れ、モーツァルトに会っています。満16歳のときの一度きりの出会い。その後、ハイドンに師事することになったベートーヴェンは1794年に至って、24歳で作品1を発表します。「月光」ソナタは1801年31歳になる年の作品。モーツァルトはすでに10年前の1791年に他界していました。リサイタル最後に弾かれたベートーヴェンの最後のソナタ32番作品111は、1822年52歳の作品。長生きしたハイドンも1809年(ベートーヴェンは「皇帝協奏曲」「ハープ四重奏曲」を発表)に他界し、聴覚を完全に失ってからの音楽は深みをきわめられたものになりました。後続の世代、シューベルトやベルリオーズには仰ぎ見るような存在だったことでしょう。 イェルク・デムスさんは1928年生まれですから、もう80歳になられます。11歳でウィーン音楽院に学んだ神童は、ピアノをエトヴィン・フィッシャーに師事しています。これはベートーヴェン − ツェルニー
− リストとつながれてきたピアノ演奏の系譜に、まっすぐに連なる系譜です。フィッシャーの師のマルティン・クラウゼはリストの弟子のひとりだからです。 この日の演奏は気迫にみなぎる格別なものになりました。弱音主体で寡黙に進められたモーツァルトの二つの「幻想曲」の後、春の花が開花したようなハ長調のソナタ。「月光」も隅々まで「こうでなければならない」表情が徹底されていました。終楽章の爆発も壮者をしのぐ凄味がありました。後半のモーツァルト「アダージョ」と「ロンド」は、寂しさと悲しさを踏んでいく孤独な音楽。独自に徹した、異常なまでに深められたモーツァルト。長調の「小さなジーグ」も童心の踊りが切ないまでに、黄泉で仄見えた明かりのような音楽に。 そしてベートーヴェンの作品111こそが、一期一会の音楽でした。張りつめた緊張が一瞬たりとも緩むことなく、狂乱怒濤も夢に見る楽園も、あらゆる細部に至るまで描ききられました。そこには80歳を迎えて、なおほとばしる情熱の焔があり、なにものかに憑かれたような驚異的な集中がありました。デムスさんとしても最高の一夜だったことでしょう。
京都の朝倉泰子さんの企画による春のコンサート。 若林暢さんもアルバート・ロトさんも、これまでにしばしば来演されています。そのひとつひとつに、それぞれに忘れ難い印象を刻みつけられています。若林さんは、ジュリアード音楽院で「音楽に登場する悪魔」の研究で1995年博士号を取得。ロトさんも同じジュリアード音楽院で1979年「アイヴズの作品と哲学について」で博士号を取得。朝倉さんは、ちらしに「ドクターニ人」というキャッチコピーを付けられました。 そうはいっても、彼らの音楽は頭でっかちなものではありません。アイヴズという「はみだしもの」の魅力については、日本では、いち早く作曲家/ピアニストの三宅榛名さんが『アイヴスを聴いてごらんよ』(筑摩書房1977)で楽しげに書いておられました。自由な精神を存分にはばたかせた作曲家です。三宅さんもジュリアード音楽院で作曲を学ばれました。ロトさんの音楽の根っ子にアイヴズがいて、若林暢さんの根っ子には「音楽の悪魔」が。これは楽しいことです。タルティーニの「悪魔のトリル」は、夢に出てきた悪魔が弾いて聴かせた曲。ヴァイオリニストにとっては、気になる存在です。パガニーニの肖像画も、パガニーニが悪魔にしか見えないものがあります。ここでの「悪魔」とは、倫理における善悪の悪をなさせる(地獄の使いとしての)悪魔ではなく、超自然にいて人間に霊感として働きかける霊、デーモンのことです。古代ギリシアの哲人ソクラテスもダイモニオン(神霊、鬼神)の声に従いました。 そのように、お二人の音楽は確かな技巧に支えられつつ、自由な霊感に導かれて日常を脱します。ブ’ログラム前半の小品集は、歴史に残るヴァイオリニスト/作曲家への頌歌です。ヴィヴァルディは司祭でもあった音楽家。彼の音楽はイタリアの抜け切った青空のように、生きる悲しさもその中に溶け込んでしまうくらいに、明るいもの。パガニーニ「カンタービレ」は歌に酔いしれ、息絶えるまで歌いぬく歌馬鹿の悪魔さん。ヴィニアフスキは、その名が冠せられる国際コンクールも開かれているポーランドの人、なつかしさに溶けました。彼は1880年に亡くなっていますから録音はなく、本人の演奏は想像するほかありません。次に演奏されたサラサーテは自作録音が残っています。心を乗せて歌う楽器として、情念の濃さを音色の濃さとして表現できる楽器として、若林さんは、サラサーテの野性もイザイの厳しさもフバイの華麗さも、親密なリスベクトをこめて奏でられました。 特筆すべきは、ベートーヴェン「クロイツェル・ソナタ」の演奏です。1803年33歳、すでに「中期」の「傑作の森」こさしかかり、ベートーヴェンの筆は充実の時を迎えていました。第一楽章の展開部は、いのちをかけた戦いそのものであり、第三楽章では狂気に達する高まりがあります。「クロイツェル」は、まさに彼らが演奏したような悪魔の音楽です。
これは当初、アメリカからフルートのキース・アンダーウッドさんが再来日されるということで、キースさん、角家さん、弘井さんの三人でのプログラムを組んでいたものです。しかし、公演直前にキースさんが急病のため来日不可能になったので、少ない準備期間のなか、この三人でのコンサートに練り直されました。結果、角家さんと弘井さんの出番が大幅に増えたわけですが、プログラムに並ぶ作曲家の多彩さもあり、充分に楽しめるコンサートになったと思います。キースさんを聴きたくてサロンにいらして下さったお客さまには、あらためてお詫び申し上げます。 来られなかったキース・アンターウッドさんは、アメリカでのフルートの第一人者です。 演奏の幅は広く、古典のみならずロッド・ステュワートやセリーヌ・ディオンとも共演。角家道子さんは、彼のもと、ニューヨーク大学大学院、ジュリアード音楽院で研究に従事されました。角家さんはカーネギーホール・デビューも果たされています。渡米前には桐朋学園大学卒。ピアノの伊藤遊子も同校卒後、渡米。インディアナ大学大学院ピアノ科で修士号を取得されました。 前半はお二人による小コンサート。古典のカール・フィリップ・エマヌエル・バッハに始まり、フランス近代のフォーレ、ドビュッシー、プーランクが続き、現代のピアソラでしめくくる。管楽器のための作品は、フランス近代が質量ともに豊かなようです。C.P.E.バッハでは音色のちがう楽器がからみあう織物を楽しんでいましたが、フォーレになれば、フルートがフルートであるための、違う楽器では有り得ない「フルート音楽」を聴く感がありました。ドビュッシーもまさにそう。涼しげな音色に「わび」も「さび」も盛り込まれて、神話時代の「葦笛と竪琴」の響きを追い求めているようです。プーランク、ピアソラとリズミックに盛り上げて前半終了。 後半は弘井俊雄さんのギター・ソロを楽しませていただきました。いずれも何度も弾かれてきた曲で、バッハにもこの上ない安定感があります。すべての音が立って響き、崩れないリズムが美しい。そして洗練の極みが素朴さに達していて、なんてきれいな音楽なんだ、と溜め息をついたソルとターレガ。しめくくりの弘井さんと角家さんのデュオは、もはやキースさんの不在などどうでもよくなったほどの力のこもった演奏でした。
奇数月にはLPレコード、偶数月にはSPレコードを聴く会を開いています。いずれも第4水曜日の午後2時から4時頃まで。LPレコードは長年にわたる私の手持ちのレコードからデッカを主にして英国でプレスされたものをかけてきています。ステレオ電蓄は英国製のデッカ・デコラです。SPレコードは、震災(1995年の阪神淡路大震災です〉後に、ある人から持ち込まれた古い米国ビクター「片面の赤盤」)数十枚を基礎にして、私自身も中古盤を求めはじめるうちに、いろいろな方からの寄贈盤も集まってきました。その中には、貴志康一の姉上からの「貴志康一とレオ・シロタが二人で勉強のために聴いていた」古いものもあります。手回しの大型蓄音器は、米国製のクレデンザです。 もはや興味のない人にとっては、SPもLPも粗大ゴミらしい。現に「片面の赤盤」は、どの施設からも寄贈そのものを断られたといいます。なんと惜しいこと。宝物がいっぱいあります。すばらしい音楽が刻み込まれています。当時のレコードを当時の装置でそのままに再現すれば、復刻されたCDよりも遥かに生々しく豊かな音楽が蘇ります。たとえばカザルスのバッハ「無伴奏チェロ組曲」などは、さいたるもの。どんな復刻LPよりもどんな処理を施されて化粧した復刻CDよりも、生(なま)です。常連のお客さまが多いのも、その真価をご理解下さるからですが、新規ご加入は歓迎いたします。嘘だと思って、どうぞ。 |
|||||||||||||||||||||||||
2008年 8月 15日 発行 著 者 山村 雅治 発行者 山村 雅治 発行所 山村サロン
e-mail yamamura@y-salon.com H P www.y-salon.com Facebook www.facebook.com/yamamurasalon
Twitter http://twitter.com/masa_yamr (山村雅治) Blog http://masa-yamr.cocolog-nifty.com/blog/ ( 同 ) Facebook www.facebook.com/masaharu.yamamura ( 同 )
TEL 0797-38-2585 FAX 0797-38-5252 〒659-0093 芦屋市船戸町 4-1-301 JR芦屋駅前 ラポルテ本館 3階 YAMAMURA SALON Ashiya La-Porte Bldg. 3rd Floor 4-1-301 Funado-cho, Ashiya 659-0093 JAPAN
|
|||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||
TEL 0797-38-2585 FAX 0797-38-5252 e-mail yamamura@y-salon.com
〒659-0093 芦屋市船戸町4-1-301「ラポルテ本館」3階 <毎週木曜・定休>