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<< 小田実 追悼 補遺 2007後期-Vol.38 Vol.39 >> |
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山村サロンの20年 1 最近出した本『芦屋私記』(リブロ社刊)から、まず引用します。この本はサロンの20年を記念する意味で、「会報」の震災以後からのものをまとめておく意図がありました。しかしやってみると膨大な厚さになってしまうので、1995年「会報号外」から1998年「後期」分までが手頃な一冊にまとまりました。その「まえがき」から。
2 震災の3年前ころから文学者・小田実さんとの交流が始まり、彼を中心としての「文芸講座」が開かれていました。震災の1995年はサロンにとっては、よりサロンの機能と範囲を拡張する機会になりました。被災者に公的援助を求める、小田実さんらとともに展開した市民運動「市民=議員立法実現推進本部」の事務局をサロンに置いたからです。その後の委細は略します。 そして2006年。サロンのクリスマスパーティの日に訪れたのは、私の初心の「ヨーロッパの詩と音楽のサロン」に他なりませんでした。母の幼馴染みだった広瀬忠子さん(芦屋婦人会長)との共同主催で、イタリアから朗読とピアノのデュオをお招きして、まずは「定番」としての文化サロンが現れたのです。
これはなんという楽しいクリスマスパーティになったことでしょう。イタリアからの女性二人の「デュオ・サティ」。パロマーレスさんの詩の朗読と、ノッキエロさんのピアノで、ヨーロッパのサロン文化の粋を目の当りにさせていただきました。私自身が二十歳代に詩に没頭していましたから、これらの詩は懐かしさのかぎりでした。シェリーなど「冬来たりなば春遠からじ」という日本語を何年ぶりで声に出して読んだことでしょう。ロッシーニでは演劇の要素があり、これは私もステージに上って共演しました。いい経験になりました。 広瀬忠子さんとご友人の方々には、たいへんお世話になりました。お料理、お菓子、飾り付けのすべてにわたってのご尽力を、深く感謝申し上げます。 左からR.フランクさん、廣瀬忠子さん、山村 左からノッキエロさん、一人おいてパロマーレスさん、山村 3 小田実さんの最後の市民集会
2007年7月30日、小田実さんが逝去されました。詳報は前回の「会報2007前期 Vol.37」にまとめた通りでした。癌が発見されたときには、すでに末期であったということが悔やまれてなりません。震災の前からの文学を通じての交流は、震災に遭い「市民=議員立法運動」としてより強い絆をむすび、その後は戦争が絶えない世界のなかでの日本の進むべき道を問いかける「良心的軍事拒否国家日本実現の会」の立上げ、市民の意見30・関西との合同で「市民の政策」を作りあげていく、という道程のなかにありました。さらにさらに、小田さんにはいっぱいやりたいことがありました。 小田さんはまず小説家であり、私はまず詩を書き音楽をやる人間でした。そのことが小田=山村の活動の、ひとつの決定的な「要素」であり「性格」だったと思います。小田さんも私も、言葉とは何かを考えぬいてきた人間だし、言葉の力を信じ、言葉こそが新しい世界を切り開いてきた歴史の事実を知りぬいていました。 プラトンの「対話篇」は、英訳書では「Operas」です。オペラなのです。さすれば一篇のオペラのごとく世界を語り尽くすこと。それは私の今後の文学上の課題でもあります。小田さんの「全体小説」もまた、全てを書き尽くすことでしたから。 文学では解決のつかない諸問題について、直接に政治に働きかけなければならない場合に、小田さんは市民運動をやりました。市民運動の代表を辞するという肉声に接したのは4月の下旬のこと。それまでの最後の4つのサロンでの市民集会がこれらのものです。
市民は「難死」を迫られる側にいる。空襲や震災後の棄民政策によって、市民は死ななくてもよかった死を遂げさせられた。「する」側でなく「される」側。最晩年の小田さんの本には、しばしば「小さな人間」という表現が出てきます。 遺稿・絶筆となった『世直し大観』から引きます。「『大きな人間』という存在が、その大きな力を行使して政治や経済、文化の中心をかたちづくる。個人の問題としても、制度の問題としても、必ずしもいいものをつくりだすとは限らない。めちゃくちゃするということが必ず起こってくる。それに対して『小さな人間』が、デモス・クラトス、自分たちの小さな力を信じて、反対する、抗議する、あるいはやり直しをさせる、是正する、あるいは変更する、変革する。それが『小さな人間』のやることです。私はこれがデモクラシーだと思うのです」(『世界』2007年12月号 岩波書店刊) 大きな人間が、憲法の改正を声高に叫び、戦争をする国家のために奉仕する人間を育成することをめざしました。私たちは、いかなる戦争も悪であると考えています。だから、「小さな人間」=市民は、対抗する「教育政策」を考え、練りあげました。 次に取り組んでいるのが「福祉」です。国家は、市民をどう助けるのか。どうなってしまった人間にも救いはあるのか。生きていけるのか。 震災以来、私たち「市民=議員立法実現推進本部」は、いかにすれば市民は絶対的に安心して、安全にこの国に住めるのか、という主題を何度も追求してきました。福祉が及ぶ範囲については論議が必要になりそうですが、なにかが理由で受けられないという制限があってはなりません。ことに現今は、経済的に豊かな人しか生きられない−病状に適応した、いい治療を受けられない−困った時代の到来です。たらいまわしされて死んだ「ちいさな人」は、まさに「難死」そのものといえましょう。 小田実さんの市民活動の根には、つねに怒りがありました。少年時代に被災した大阪大空襲での焼け焦げた無数の市民の「難死」が、根です。そこからすべての小田さんの精神の活動がはじまり、死の一刻までも保っておられたと思います。揺るがない人でした。蒼古たる風格を帯びた大樹のような知識人でした。 4 私自身の20年についても書いておきたい衝動にかられます。1994年母を亡くし、1995年震災に見舞われ、1997年父を亡くし、あのころはずたずたでした。私を支えていたのは、本人にその気がなくても、まちがいなく、小田実さんという一人の男の存在でした。彼がいるから、私は歩けた。 被災した人間は誰しも、震災前、震災後という自らの生の二分割を知らず知らずのうちに行なっています。震災直後の瓦礫のなかで、職場半壊の絶望のなかで、また呼び出されるのは食事配給のメガホンだけのなかで、私は完全に散髪しなければならない理由を失いました。震災前のショートヘアは別人のようです。そして50歳を迎えた年からスーツを脱ぎ棄てました。社会の鎧甲を脱いでしまって、私は無防備です。より、あるがままの自分でありたいという渇望のままに、とくに近年は生きているようです。 50歳記念の「メサイア」公演に続いて、2006年にはサロンの20周年記念「平和の祈り」コンサート。つい先日、2007年12月1日には「平和の祈り・再び」コンサートを決行したばかりです。こうしたことも、私はむかし「ステージに人を乗せるのが仕事で、自分はステージには乗らない」と宣言していたのを考えると、時代も変わったものです。いや、時代でなく、私自身が変わったのです。 今後は、より積極的に自己表現に突き進んでいきたいと考えています。 そして、心の底に沈んでいる小田実さんのことばがあります。 「あんたは小説を書け」。 いろいろなことをしなければならない50代。人生の時間が尽きるまでに、あれやこれやでじたばたするつもりです。よいお年を。(Dec.15, 2007) 『芦屋私記 山村サロン会報抄』山村雅治(リブロ社 1,600円+税)
濱田陽子さんは神戸出身のフルート奏者。同じくルイ・モイーズ門下の篠山由紀子さんとのデュオでコンサートを開きました。ルイ・モイーズは、かの世紀の音楽家の一人であるマルセル・モイーズの子息であり、フルート奏者・作曲家のみならず、教育者としても優れた音楽家でした。濱田陽子さんと篠山由紀子さんのデュオには、師を同じくするものどうしの共通の息づかいがあり、人を安らぎへ導くやさしい音楽が響いていました。
リスト協会スイス・日本のリヒャルト・フランクさんのご紹介でやって来たベルトラーン・ジローさんはフランスから来たピアニスト。パリジャンで、パリとジュネーブの音楽院を卒業され、シフやカニーノのマスタークラスを経てきました。 ヨーロッパの若手ピアニストを毎年のように聴くことができて、とても楽しく興味深く感じています。技巧的には、みなさん凄く上手い。指の回りの速さ。和音を完璧に鳴らしきる指のコントロール。そして、近年は、より強く自己を出す表現力の豊かな人が多くなってきたようです。クラシック音楽の未来は、なお洋々たるものがあります。
山村サロン開館20周年記念コンサート このコンサートについての詳細は「会報2006後期 Vol.36」に書いた通りです。 あれから、このときに賜ったお励ましに勇気を得て、ほとんど変わらないメンバーで「山村サロン女声合唱団」を結成し、練習を重ねてきました。 その成果は2007年12月1日に発表したばかりです。そしてまた、2008年にもコンサートを開く予定です。
京都の朝倉泰子さんの企画で、サロンとは古い縁がある水谷川優子さんがチェロに入るテオフィルス・トリオの演奏会が開かれました。朝倉さんから私に希望曲を尋ねられたとき、即座にリクエストしたのがブラームスの作品8でした。この曲のとくに第2楽章は、本当に美しい。コンサートは、まず20歳のモーツァルト。そして念願だった、21歳のときに書き上げられたブラームスの作品8。ロトさんも、子どもの頃からこの曲が大好きだったといいます。曲頭、柔らかい響きで弾き始められると、もうたまりません。ヴァイオリンのゴトーニさんは、フィンランド出身の6歳でシベリウス・アカデミーに入学したという逸材。彼の音もじつに美しくピアノが紡ぎだす憧れの音楽に添い、近衛秀麿を祖父に持つ水谷川優子さんのチェロが優しい低音で歌います。第2楽章も、ただただ音楽の美しさに心を奪われるばかりでした。造形も音色もテーマのフレージングも、すべてはロ卜さんの大きな音楽の中に若い二人の清新な表情が息づき、これほどまでの演奏を実演で聴くことができて幸せでした。 それにしても、ブラームスの室内楽はどれもすばらしいのに、どうしてもっと頻繁に演奏されないのか。この曲とかシェーンベルクが愛し管弦楽に編曲した「ピアノ四重奏曲 第1番」や、冒頭のピアノが美しい「同第2番」、のっけから光が放射されるような「弦楽五重奏曲第2番」など、疑いなく「この世でもっとも美しい音楽」のひとつです。 いやしかし、後半に演奏されたドヴォルザークにはびっくりしました。初めて聴いた曲でしたが、ぐんぐんと心に響いてきます。それというのもあとからあとから泉のごとく楽想が湧き出してきて、ドヴォルザークはそれを惜しげもなく撒き散らしているのです。 ブラームスは、シェーンベルクが評した「節約の豊かさ」を地で行った、最小限の楽想から雄大な造型を構築していく「職人」としての腕がありました。 ドヴォルザークを認め世に出る手助けをしたのはブラームスその人でしたが、若いドヴォルザークの腕以前の、溢れだしてやまない「音楽」に魅せられたのでしょう。この曲もテオフィルス・トリオの重要なレパートリーとして、演奏を重ねてほしいものです。 水谷川優子さんとの「古い縁」について、サロンも20年を越える歴史を持つようになり、知らない人もたくさんいらっしゃいますから、昔のことを書いておきましょう。 1986年11月に山村サロン開館。翌87年4月から「サロンメンバー制」のイベント5種を開始。それぞれ数年間続いた社交ダンスの「舞踏会」、「茶花を愛でる会」、「文楽を楽しむ会」、村山リウさんの「源氏物語講座」、そして近衛音楽財団の水谷川忠俊(みやがわ・ただとし)さんが若い音楽家を紹介される「音楽サロン」。ここで登場したのが、若き日の沼尻竜典さん(指揮者)、野原みどりさん(ピアニスト)、津田真理さん(同)、三木香代さん、大学2年の近藤嘉宏さ(同)、樋口あゆ子さん(同)らでした。優子さんがチェロを弾かれたのも同シリーズで。あれからおよそ20年を経て、感慨もひとしおでした。益々のご活躍を祈ります。
イェルク・デムスさんは、サロンのピアノ(ハンブルク・スタインウェイ)がお好きで、毎年春にリサイタルを開いて下さいます。クラシック音楽のファンなら、どなたもご存知なピアニストなので、ちらしにも経歴を入れたことがありません。紹介しておきましょう。 1928年、オーストリアのザンクト・ペルテンに生まれ、1940年11歳のときから1945年16歳にかけてウィーン音楽院に学びました。ピアノをエドウィン・フィッシャー、指揮をヨーゼフ・クリップスに師事。その間、1942年14歳のときにはウィーン楽友協会のコンサートに出演、高い評価を受けて、1947年には同協会から栄誉賞を受賞。その後、イヅ・ナット、ワルター・ギーゼキング、アルトゥーロ・ベネデッティ=ミケランジェリ、ヴィルヘルム・ケンプにも師事。1953年ウィーン・デビュー後、1956年ブゾーニ国際コンクールで第1位とブソーニ賞を受賞されました。戦後の荒廃したウィーンから立ち上がる若い力のひとりとして、フリードリッヒ・グルダ、バウル・バドゥラ=スコダらとともに「ウィーンの三羽烏」と呼ばれました。 経歴のごくはじめの部分でわかるように、彼は神童でした。彼を教え得た人たちも、似たような経歴を持つ人が多い。ヨーロッパには、こうした人たちがいて、大切な大切な音楽の精神のバトンリレーがなされてきています。 イヴ・ナットからはシューマン、ケンプからベートーヴェン、ギーゼキングからドビュッシー。青年時代にそれぞれの師が得意とした楽曲のエッセンスを学んで、歳月を経て、デムスさんはこのとき79歳。 最近の毎年、必ずプログラムに入れていただくのは、ベートーヴェンのソナタです。まず最後の32番から始まりました。29番「ハンマークラヴィーア」は省略して、今年は24番。ベートーヴェンとしては規模の小さな、やさしさに満ちたソナタでした。これを挟んで前半はシューマン2曲、後半がドビュッシー2曲。 79歳のピアニストの「子どもの情景」と「子どもの領分」に打たれました。これらの音楽はすでに彼の掌の上で自在です。おじいさんが暖炉のそばで孫に語りかける温かさを保ちつつ、なおほの見える閃くような火花がなんだったのでしょう。彼は、現在もなお、より美しい表現を追求しでやまない芸術家でした。心をもつ人、感じる心が弾けば、「フモレスケ」は悲しいばかりに美しい。疑いもなくデムスさんはロマン派の音楽家。ベートーヴェンの24番は、あまりコンサートにかけられることはありませんが、大好きな曲です。力を剥き出しにするベートーヴェンよりも、いまは15番、18番、この24番あたりに魅かれています。 デムスさんのドビュッシーは、彼の音楽性をもって昇華されつくした独白のもの。「月の光」さえ、情景の響きではなく、人間の心の響きとして。
リスト協会スイス・日本のリヒャルト・フランクさんの企画で、ウィーン出身のゲルノート・ヴィニッシュホーファーさんと、金子浩三さんのデュオリサイタルが開かれました。ヴィニッシュホーファーさんはウィーン音楽院でシャンドール・ヴェーグらに師事。その後、モスクワのチャイコフスキー音楽院でヴァレリー・クリモフに師事。最優秀で卒業後、ドイツのオーケストラに属しながら、ウィーン楽友協会、プラハの春、ブタペストの春などでソロリサイタルを行なう。1992年から市立音楽院ヴァイオリン科教授。東西音楽祭の創始者で、アート・ディレクターでもあります。 ピアノもそうですが、ヴァイオリンにも強力な「ロシア楽派」があります。ウィーン育ちの若者が、ダヴィッド・オイストラフの弟子であるクリモフ先生の前に立ったときの気持ちの高揚はわかる気がします。ヴィニッシュホーファーさんのリサイタルを聴きおえてまず感じたのはそのことでした。彼は冷たいほどの美音を奏でましたが、その音はナタン・ミルシュタインに似ていました。楽器も1590年の「オレ・ブル」という名器を使用されていましたが、ことに後半、チャイコフスキーとサラサーテは情感と突き抜けた技巧を伴って、ロシアの名手を聴いている感がしました。 ヴィヴァルディ「春」は、ソロ・ヴァイオリンによって表情が変わる音楽です。コンチェルトの合奏部を金子さんは見事に弾きこなしておられました。4月6日、芦屋に春が訪れました。ベートーヴェンの「春」も、何度も実演を聴いてきました。やはり名曲。冒頭からヴァイオリニストが持っているものが全て出てしまう、厳しい曲でもあります。ここでのヴァイオリンはウィーン全開。 後半はクライスラーから矢野正文までの小品が並びました。矢野さんの「宇目の唄げんか」は、この日が「ヴァイオリン独奏版初演」だったので、特記しておきます。 矢野正文さんは、宮崎と大分の県境にある宇目に古くから伝わる旋律を、2006年11月にチェロとピアノの曲として生まれ変わらせました。アダルベルト・スコチッチさんによるチェロで初演。プログラム・ノートに、金子浩三さんは「非常にシンプルに仕上げられたこの曲は、長閑で懐かしく何か不思議な光景を想像させてくれる幻想的なへ短調の曲である」と記されています。コンサート全体にわたっての金子さんのご尽力に感謝申し上げます。
ゴールデンウィーク恒例のコンサー卜です。といっても普段のクラシックのコンサートとちがって、これはよりポピュラーミュージックに近いジャンルの音楽会。前衛といってもいい現代音楽の側面もあって、三者それぞれの人間の存在がかけられた独自のパフォーマンスでした。もうすでに揺るがない意志と気迫と思いの濃さ。俺はここにいるという叫びが、ときには血を吐くような凄絶さを伴って響きわたりました。 はじめに石上さんの電子音楽ですが、同じ音程を持続させていく手法。1970年万博ドイツ館でシュトックハウゼンの作品に接して親しんで以来、このシリーズでAUBEの作品に喜んでいましたが、彼の後にようやく現れたのが石上さんでした。安らぎと怯え、持続と断絶。ドイツ国営放送局から作品演奏を委嘱されたほどの実力は、電子音で「いのち」を語ることができる人だったからにちがいありません。初登場でした。 高山謙一さんは6度目のステージ。小池克典さんはピアノ伴奏者として4度目。高山さんもいい意味で頑固な人です。ひとつの歌をうたい続けてきた。高校時代に作った「傷だらけの天使」から最新作「四つ目の橋から」までを貫く炎は、同じ熱さのあかい炎です。変わりようがない。声も決してオペラ歌手のような美声ではなく、むしろその対極にある。しかし、それらのこと全てが、筋のきれいな人間の心を歌いあげていくことに、また人間を語り尽くしていくことに、見事に生かされていきます。8曲の長いステージが、いつまでも続いてほしいと感じていました。 頭士奈生樹さんは、4度目の出演。もっと多いと思うのですが。やさしげな風貌の音楽家ですが、ときにこの人は自分の心を切り刻んでみせます。どろりとした黒い粘液のようなものが流れだして、その上を平然と鼻歌まじりで歩いてもみせる。かつてシリーズの常連だった「渚にて」の狂気はやわらかい外見と放胆なユーモアを含むものでしたが、彼の狂気はときに歯止めがきかず、狂乱怒濤のまま歓喜へ到達してしまいます。われわれはなぜ「やさしさ」を愛するのか。その答えは、彼の歌に明らかです、「やさしさ」を遮る非情さにも残酷さにも通じてきたからです。
2年に一度、サロン主催で工芸展を開いています。かつての加藤淡斎先生の「茶花を愛でる会」で親しくさせていただき、それ以来のもつきあいの山内和子さんの染め物と、山城建司さんの陶器の二本立てで始まりました。以来、ゲスト出品者をお招きすることになり、近年は漆の森義文さんに作品を出していただいています。今回はもうひとりゲストをお呼びしました。「NHKおしやれ工房」でおなじみの竹田耕三さんです。ゆったりとした時間がながれていく二日間。工芸は時間を背負ったものとして在りますから。
久保洋子さんが前世紀末から展開してきたこのシリーズは、ずっと山村サロンを本拠地として続けられてきたもの。現代を生きる作曲家/ピアニストとして、大学で後継者を育てながら、作曲と演奏のみならず、音楽学も究めてこられた久保さんは、最近とみに痩せて美しくなられて、バレエや能楽(謡と仕舞)の稽古に励んでおられます。 彼女の師、近藤圭さんは能楽や歌舞伎、文楽など日本の伝統芸能に通じた作曲家でした。西洋音楽の楽器で、それをどうやって西洋音楽として響かせることができるのか。近藤さんは構築の作曲家であり、かつて毎回新作をここで発表されていたころには、文字通りの西洋と日本の葛藤が、作曲の格闘として生々しく表わされていました。この夜演奏された「諧謔」は例外的な近藤圭の「スケルツォ」です。オペラの大作」出雲の阿雲」を仕上げ初演も果たして、肩の力がぬけていたころに訪れた「諧謔」の時。 近藤さんは初演当時、こう述べられています。「この作品は、狂言『棒縛』(ぼうしばり)を思い浮かべながら作曲した。私は、狂言の”こっけいさ“が、絶え開ない『間』と『様式』の創造的な発見によって、能舞台で演じられていることに感銘を受けている。その語りや動きを抽象的な音で表現出来るか否かを試みた」。 あるときは太郎冠者になり、次の局面では客席にもいて、緊張と緩和が織りなす日本の舞台芸能の笑いの世界を、彼は書きました。 久保洋子さんの新作「アンシェヌマン」とは、フランス語で連鎖、つながり、脈絡、場面転換の間をつなぐ台詞といった意味です。日本にも西洋にも「型」はあり、たとえば仕舞では「指シ込ミ」や「ヒラキ」、バレエでは「アラベスク」や「アティテュード」。型から型への移り変わりが「アンシェヌマン」です。 久保さんの作曲は、また新しい展開を迎えています。能楽とバレエの稽古をはじめられてから、なにか寂として広々とした空間が現出し、芽吹いた花のつぼみから開花へ至るように一切の力みなく音楽が始まり、果てる。あるいは蜜を求めて芳香をもとめて、空間に知らずしらずに絵を描く蝶の航跡。 能楽は、謡と仕舞は、私も幼稚園児のころから小学校高学年まで稽古していました。手ほどきは泉先生。いつのころからか藤井久雄先生に母ともども稽古に通っていたものです。で、久保さんいわく「バレエいっしょに習いましよ!」と会うたびに。タイツが怖いです。
これは本当に楽しいコンサートでした。この企画はもともと東京・渋谷でやったものでしたが、関西でもぜひ、ということで喜んでさせていただきました、どこからお話すればいいのか、まあ20年ばかりを遡らねば。 山村サロンが開いたとき、まさにそのときに、私か東京からお招きしたのは作曲家/ピアニストの三宅榛名さんと高橋悠治さんでした。三宅榛名さんはその後しばしばサロンでコンサートを開いてくださり、そのお客として、まだ学生時代の大井浩明さんがいました。当時はまだ、柴田暦さんは、三宅さんの作品「お馬ちゃんのセーター」に登場する「れきちゃん」なのでした。もう少し大きくなっておられたかもですが。 ざっとそういう次第の時間を積み重ねてきた、私を含めて四人の歴史がここに集積した、という感慨がありました。まだ泣くほどの年齢ではありませんが。みんな。 榛名さんと何度か、このコンサートについてお話できたのも大きな喜び。少し前に神戸のライヴハウスで暦さんが登場されたとき、そして渋谷公演についてと、今回のコンサートについて、サロンでは、ぜひ榛名さんの作品を、というのが私の切望でした。 渋谷公演には私もいました。それはまさに初演で、今回は若い二人がさらに練りこんで、より楽しくそれぞれの歌を聴かせていただけました。 前半の山は榛名さんの「薔薇物語」。表現力の豊かさと空気を切り裂くような鮮烈さ。大井さんの巨体が「体重減らそう」と歌う愉快な曲で前半が終わり、後半はモーツァルトの歌詞の新訳がすばらしい現代のことばでした。もはや文語訳では古めかしいです。伴奏ピアノも大井さんの様式への追求が生かされたもので、新鮮に響きました。そして大井さんが榛名さんの「鳥の影」を弾くとき、もう私はいても立ってもいられなくなり。
吉岡孝悦さんとの交流は長いです。震災前からのもの。そしてピアノを受け持った作曲家中川俊郎さんとも、震災前の一度、サロンにお招きしたことがありました。あれは先日お亡くなりになった松村禎三さんをお迎えしてのコンサート。 かつての若者もいまや、みんな大人になりました。私を含めてのことですよ。といっても、吉岡さんの茶目っ気は、なお衰えを知らず、中川さんとの競作の「森のくまさん」など、お二人の「遊びのめし」が爆発した怪作でした。「運命」も「春の祭典」も出現。冗談音楽はきまじめにやればやるほど爆笑を誘うという好例です。巨匠にはならない気がする。巨匠になるだけの技術も音楽もお持ちなのですが、どこか吉岡さんも中川さんも「たったひとりの音楽家」でいたい、という気配があります。 吉岡孝悦さんは、平岡養一さんに憧れてマリンバ奏者になられました。だからステージパフォーマンスの楽しさが、まずあります。子どもが見て「かっこいいなあ」「素敵だなあ」「すばらしいなあ」「マリンバって凄いんだ」という、その楽しさ。だから、今は吉岡さんに憧れて木琴を叩き始める子どもがあちこちにいるはずです。これはとても大切なことだと思います。 中川俊郎さんは、むかしはもっと過激にして前衛的な曲を書いていました。この日に弾かれた「ピアノ小品集」は、ああいった音楽を経てきたからこその「単純」も「素朴」もあり、そのことに打たれました。中川さんの地の音楽が裸で、しかも胸を張って。誰ともちがう中川さんの響きで。 私たちの再会を企画してくださった京都の朝倉さんに、改めて感謝申し上げます。
高島仔さんは年に一度、ワインつきの華やかなオペラコンサートを開かれます。 高島さんは、ちらしにこう書かれています。 「音の輪が限りなく広がる/群れ集う人々の輪が共鳴し揺れ動く/人の輪が溶け合い音の輪が人の和となって広がって行く/そんなコンサートをこれからも続けたい」 この日のプリマドンナ、高山景子さんは兵庫県出身。大阪音大と京都市立芸大学院修了後、2003年からドイツ政府奨学生として渡独。ベルリン国立芸術大学に入学し、2006年卒業。卒業演奏では満場一致の最高得点を得ました。その後の活躍はめざましく、第10回の松方ホール音楽賞(リート部門)大賞を受賞されました。今後のさらなる活躍を祈ります。
音盤100年の楽しみ
クレデンザでSPの名盤を、デッカ・デコラで英国デッカを基本にしLPの名盤を聴いています。よくこれだけ続いているものだと感心されますが、それぞれに質も量も無尽蔵です。お客さまも私と同じく「一期一会」の時間を楽しんでいます。 音盤100年の歴史の、ごく最初期の蝋管などを経て定着した円盤型が、シェラックのSP、塩化ビニールのLPに続いて現在のCDに受け継がれています。 戦前にプレスされたSP盤の音溝を眺めていると、ふと胸に迫るものを覚えます。古いものは関東大震災に耐えて残ったもの。そして戦争の大空襲に焼かれずに、また阪神淡路大震災にも割れずに生きてきた。レコードは、つねに人間とともに在りました。触れた人、聴いた人、愛した人がいました一枚のSPを手にするとき、ふと前の持ち主の存在を強烈に感じることがあります。大切にしてくれてありがとう。私も今、ともに聴くよ、と。 レコードは、これらの会で「みんなのもの」になります。文化遺産の真実の意味は、そういうことだと思っています。幸せな時間を、まだまだ続けてまいります。 小田さんは、ここにいます
小田実さんのご葬儀で弔辞を読ませていただきました。結びに「小田さんは死んでも死なない」と申し上げました。そのときにも今も、私の感じかたは同じです。まず、市民の政策を作っていくことは「市民の意見30 ・ 関西」の課題として残されています。そのために小田さんは、さまざまな分野の卓越した講師のかたを呼ばれてきました。その人脈こそが宝物であり、彼がのこした遺産です。海老坂武さんらを軸にした「教育」についての市民の政策をまとめおえて、次にとりかかっているのは「福祉」です。震災以来の小田さんと私の知己、市川禮子さんが軸になってくださいます。それが6月と10月。 関西でも小田実さんを「偲ぶ会」を開きました。鶴見俊輔さんと吉川勇一さんをお迎えできたのは望外の喜びでした。場内に入りきれないほど、人が溢れかえりました。詳しい様子は、1月発刊予定の冊子『小田実追悼補遺』に新聞切り抜きなどの記録でお読み下されば幸甚です。 山村サロン文芸講座は、震災前に小田さんとやっていた「自主講座」の続編です。文学を語ります。折しも小田さんの「人生の同行者」(今も)玄順恵さんが新著『私の祖国は世界です』(岩波書店)を出されたので、ここから再開です。すばらしい本です。
これはやったばかりのコンサートです。昨年末の「平和の祈り」コンサートが望外の成功裡におわり、さまざまな皆さま、先生方のお励ましに力を得て再演致しました。 2007年はいろいろなことがありました。なかでも大きな出来事は、小田実さんが亡くなったことでした。ご病気の事実を告げられた四月の初めころには、音楽どころではありませんでした。アマチュアオーケストラの練習指揮もやめざるを得なくなり、神戸大学斎田ゼミで「指揮法」の基礎を「斎藤メソッド」で習いはじめていたのも、中断したままです。 しかし、すべてが、人生の体験と、音楽の体験のすべてが、この演奏会に集約したように思えてならないのです。斎田先生は、くりかえし「脱力」を説かれました。指揮法の基礎も、明らかに知らないでいるよりは知っていたほうがよかった。 この演奏会のプログラムに、私はこんなことを書きました。 「この世から去ってしまわれた高田三郎氏、そしてこの夏逝去された、地上における『平和の使徒』小田実氏の魂にも届きますように」。 アシジの聖フランシスコの平和の祈りは、「神よ あなたの平和のために わたしのすべてを用いてください」と歌いはじめられます。これは私の祈りでもあります。 私たちはこれからも公演を重ねでいくつもりですが、つねにこの歌はうたわれていくでしょう。これからもよろしくお見守りください。 2008年は、ちょっとおもしろいことをやるつもりです。 |
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2008年 1月 1日 発行 著 者 山村 雅治 発行者 山村 雅治 発行所 山村サロン
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