弔 辞
小田実さんに九〇年代はじめに出会い、最晩年に至るまでつねに身近にともに歩いたものとして、感謝の言葉を捧げます。
私は少しだけ生まれてくるのが遅れ、小田さんの本はたくさん読んでいたものの、ベ平連はおろか、一切の学生運動・市民運動の体験がありませんでした。だから、私が小田さんの前に現れたとき、私はまるで「カラマーゾフの兄弟」の登場人物でいえば、コーリャのような少年として映っただろうと思っています。
一九八六年、こつこつと一人だけで市民文化をつくる活動を始めました。芦屋に山村サロンという場をつくり、誰もが対等、平等な地平において、借り物でない自分の言葉で、自由にものごとを語りあう。文化はそこからしか生まれない。やがてはそこから生まれる平和の思想を全地におしひろげる力も生み出せるかも知れない。
そんな考えをこめて、はじめて小田さんに手紙を書いたのは、すでに西宮に移られてからです。山村サロンの自主イベントは、私の好きな音楽家を呼んで音楽会を開くことが主でした。至近の距離に住まれる小田さんに文学講座を開くことをお願いしたのです。
初めてお会いした小田さんは、やはり大きな人でした。しかし人懐っこい笑顔で「私はサロンが好きや」とおっしゃいました。中村真一郎さんや久野収さん、そして韓国の文化人たちをゲストに招き豊穣な文学講座は続いていました。
そして一九九五年一月一七日。
阪神淡路大震災に遭い、小田さんは西宮で、私は芦屋で被災しました。そこから先のことは、小田さんご自身が膨大な量の評論と一冊の長編小説『深い音』のなかで書かれています。
小田さんと私は、政府・自治体への怒りを共有していました。義援金配布のみに頼り、市民は棄てられていました。
まず「市民が市民を救う」という考え方で立てられた「市民救援基金」活動を一年やり、その後、それでも被災者の支援を義援金だけで済まそうとしていた政府と自治体に支援金を要求する「被災者からの緊急・要求声明」を神戸の市民たちとともに発し、九六年五月からは「市民=議員立法実現推進本部」の活動が始まりました。
「私が代表をやるから、事務局長はあんたがやれ。事務局は山村サロンや」と即刻決まり、ほかに場所を借りる余裕もない私たちの市民活動の拠点が、私の職場でもある山村サロンになったのです。半壊の修理に半年間を費やし、再オープンしても仕事はありません。スタッフも被災者ばかりで、書類づくり、国会議員全員への宛名書き、袋詰めなどの作業を繰り返す時間はたっぷりとありました。
同じ怒りを共有する市民も超党派の議員もがんばりました。その活動は九八年に「被災者生活再建支援法」として結実し、それは財産の個人補償にあたるから住宅本体には適用されない等、私たちが成立後もたびたび衝いてきた制限に満ちたものでしたが、小田さんが亡くなったこの七月三十日、まさにその日に、同法の検討会で、ようやく「住宅本体への拡大」が国として検討課題として明記されたのです。
小田さんは、だから、なお生きておられます。小田さんの意志は地上に残り、なお世の中に働きかけています。
不可能だと誰もが思っていた「震災被災者に公的援助を」という運動で、世論を動かし、国会を動かしたのは、まず小田実さんの言葉の力でした。古代ギリシャを通じてロゴスとレトリックを知り抜いた小田さんの政治の現場を動かす言葉を、論破できた国会議員はいません。
学問も、芸術行為としての文学も、小田実さんは最期の病床にあっても続けておられました。小田実さんと何度新幹線で往復したか数え切れませんが、車中での話は政治の話はお互い避けて、文学や音楽、芸術の話ばかりをしていました。小田さんは、そういう人でした。人は日頃は生業に打ち込むが、これはいくらなんでもひどすぎるというときに、決然として市民運動をやる。少年時代の空襲体験という原点を見据える眼が震災時にも輝き、自然災害ではなく人災として、無駄に人を死なせていく政府の罪を糾弾し抜いたのでした。これは人間の国か、と。
市民が安心して生きていける国。人間の国であることを求めて、ネット上にメッセージを掲げる「良心的軍事拒否国家日本実現の会」を、小田さんと二人で立ち上げたのは二〇〇〇年の秋でした。そのあたりから小田実さんは市民運動の集大成に向かわれます。運動の原理においていささかの矛盾もなく同じだから、私も「市民の政策づくり」をめざす、小田実さんのライフワークになるはずだった「市民の意見30・関西」の集会に合流し、新しくつくられた「日本・ベトナム市民交流」にも参加し、イベントも共催が常態になっていくことになります。そして、ご病気の発覚。 この四月の終わりに、小田さんは大阪と芦屋の運動の要になっている私たちを西宮の病床に 呼ばれ、あらゆる市民運動の代表を辞任されることを告げられました。
小田さん。小田さんは死んでも死なない。
小田さんはすでに、私のなかに生きていて、みんなのなかにも生きていて、ひとりで歩くようになっても、つねに前には大きな小田さんの背中があり、横にも小田さんが歩いていて、急な坂では小田さんに背中を押されている気がするはずです。
安らかにお眠りくださいとは、いいたくありません。
小田さんは、あなたの魂、あなたの言葉は、なお平和を求めてやまない地上に生き続けているからです。
ありがとうございました。
二〇〇七年八月四日
山村雅治
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