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2007年のために 1 2006年は、たてつづけに新しい体験が続いた年でした。 まず、画家・松井美保子さんに「絵のモデルになって」と依頼され、引き受け、絵画作品として結実したこと。はじめに着衣の水彩画2点があいついで仕上げられ、それらの画面を合体させた油絵の大作が1点仕上がりました。そして、この秋にはセミヌードの水彩画が1点、それぞれ神戸のギャラリーで展示されました。油絵は、天王寺の美術館でも展示されました。これはおもしろい体験で、私がほかの芸術家から見て、どんな人物に映っているのか、松井さんは私に興味津々で、私も松井さんの絵に興味津々でした。 いや、過去形で書くのは早すぎます。まだ、画家とモデルのコラボレーションは続いています。セミヌードの絵は上半身裸ですが、かつてジャコメッティはモデルとしての矢内原伊作を「見えるままに」描きました。松井さんも同じく「見えるままに」私をお描きになっているはずです。ついこないだも、20周年記念コンサートの総練習のときにサロンヘ来られ、女声合唱を指揮する私をスケッチされていました。 そのコンサートは、山村サロン20周年記念として、アシジの聖フランシスコによる「平和の祈り」と題して開いた、女声合唱とオルガン伴奏の音楽会。案内のちらしに、こんなことを書きました。 なお、地上では争いが絶えません。戦後60年、平和憲法を持つ日本の現状は、子供の安全と親の安心が脅かされています。人間は、あらゆる意昧での平和と自由を希求しつつ生きてきました。私たちも同じく、祈りを歌に。高田三郎作曲の日本語歌詞のカトリック典礼聖歌は広く聴かれ、歌われるべき作品です。山村サロン20周年を機に、アマチュアの女声合唱団を結成しました。練習を重ねて重ねて、心から心へ届く歌声になりますように。 なお、私白身がカトリックではありませんから、広く皆さまのご来場をお待ちします。収益は戦乱の犠牲になった子供たちへ届くように。彼らの助けになるように。 12月2日が、その本番の日。客席には親類やご近所の方など一般のお客さまにまじり、35年来、カトリック芦屋教会で年に一回、大きなミサ曲を指揮されてきた住吉武さん、高田三郎氏の指揮のもとでオルガンを弾いてこられた木島美紗子さん、大阪フィルで長年にわたり朝比奈隆氏のもとで第一ヴァイオリンを弾いてこられた、大フィルOGの関口美奈子さん、声楽界の重鎮である畑きみ子さんら、そうそうたるプロの先生がたがいらっしゃいました。 結果は、心から心へと、たしかに届くコンサートになったようです。先生がたからも、それぞれに身の引き締まるような、望外のお励ましの言葉を頂戴いたしました。予想もしていなかったのは、すでに活躍されている合唱団のかたがたからのご挨拶を受けたことでした。そして、非常にたくさんの方から「二回目をぜひ」と。 私たちは、すでにそのつもりになって動き始めています。毎年12月の最初の土曜日を、女声合唱団の定期公演の日に定めます。団の名前がまだないのが悩みといえば悩みですが、これもいずれは天から降ってくるでしょう。 2 当日のプログラムには、自己紹介にこんな文を書きました。
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音楽は市民の文化活動にほかなりませんが、音楽以外では、市民の意見30 ・ 関西の代表の小田実さんや、海老坂武さんらとともに、教育に関する「市民の政策」づくりに係わっていました。回を重ねた集会に、回を重ねた少人数での議論を経て、11月初旬にようやくまとまり、14日付の文書として全国会議員に送付しました。「市民・教育の権利宣言とそれに基づいた「市民・政策提言」などです。 いま、やらせの「タウン・ミーティング」までせっせと開いて、現行の「教育基本法」を強引に変えようとする安倍政権の動きはまちがっています。市民無視の姑息な法改悪は、日本を再び過去の悪夢の再現へ導くだけです。「主権在民」の原則が蹂躙されています。私たち市民は、教育の理想をこう考える。提案の基本にあるのは、まず現行の「教育基本法」と、その元にある「日本国憲法」です。また「世界人権宣言」「国際人権規約」「子どもの権利条約」など人類の叡智の集積にも依拠して全体構想を考えています。だから、あなたがたはこの提案をまじめに読み、考えていただきたい。そうした手紙を添えて、私たちは国会議員諸氏へ送りました。成立しないうちに。 特色は、まず「義務教育」ではなく「権利教育」を。国家が国民に課す義務ではなく、教育は市民の権利である、ということです。 「すべての市民は、ひとしく、その発達の必要に応じた教育への権利を持つ。憲法第二十六条第一項に明示されているごとく、教育は市民の権利であっで、義務ではない。社会と国は、その市民の「義務教育」ならぬ「権利教育」の実現を、法制度、財政的措置を含めて全力を挙げて支える」。 次には、教育は無償で行なわれるべきということ。 「市民は、大学にいたるまで無償で教育を受ける権利を持つ。これは国際人権規約がなされるべきこととして規定していることだが、ヨーロッパ諸国ではすでに長年当然のこととしでなされて来ていることで、何も異常なことではない。日本や米国や韓国のように無償で大学教育がなされていない国のほうが異常だ。子どもの学費が心配なので子どももおちおち持てないという声が多いなかで、どうして「少子化」対策にかかわってこの問題が討議されないのか」。 「義務教育」ならぬ「権利教育」の期間は、こ。の十四年間である。小学校、中学校、高校の段階においては、入学試験はいっさい行なわない。大学入試のあり方は、受験資格を含めて各大学が決める。共通一次試験はやめる」。 以下は「民学共同」「検定廃止」「四権分立」「教育委員会」についてなど。 「市民の学校、教育に対する基金は大幅な税控除の対象とし『民学共同』への道を開く。これは米国などですでに行なわれている。『産学共同JIだけでは教育のあり方が歪む』。 「教科書検定制度は廃止する。教科書などの選定は、教える教師が行なう」。 「立法・行政・司法の各機関は各学校の教育内容に干渉してはならない。立法・行政・司法・教育の四権分立を国の基本のあり方とする」。 「教育委員会は市民の教育への権利を保障して、市民の意思を教育に反映する機関としてある。したがって、委員はすべて公選で選出される。教育委員会と各学校は対等。平等の関係に立つ」。 そして「権利教育」の核心部分は、こうです。 「市民は学校へ行く権利を持つとともに、行かない権利をも持つ。行かなくとも学習する権利が保障されるように、保護者・国・社会は、法制度を含めて全力で支え、学校へ行かないことで不利益が生じないようにしなければならない」。 4 それら教育に関する「市民の政策」を練っていくなかで、私の出したペーパーは簡潔にして、ある意味破壊的なものでした。「学校は諸悪の根源。学校は人を駄目にする」。 これを語りつくすのは、そうとうな紙幅が必要ですが、体験と、現今の社会を見れば、この結論に到達せざるを得ませんでした。学校があっていいと思うのは、同年代の友が得られる(かも知れない)ことと、運がよければ師にめぐりあえる(かも知れない)ことの2点に尽きます。私は運があっで、友にも師にもめぐりあえました。しかし、私がほんとうに知りたいこととか究めたいことについては、ひとりで自分の鉱脈を掘り下げていくことでしか得られませんでした。中学3年のころ、自分は分野はまだはっきりしないものの、芸術の世界で生きる人間だと直感しました。高校に上がるや、詩作とピアノと絵を描くことに没頭しました、いい先生とは、私の邪魔をしなかった先生でした。 5 そんな折に、神戸アルバトロスという市民団体から「男女共同参画フォーラム2006市民企画事業」として、私に講演の依頼がありました。 2006年10月15日、あすてっぷ神戸。「父親として人間として子育て・教育を語る」というタイトルでした。震災以来の盟友、中島絢子さんが主催団体のメンバーであり、彼女からの依頼をお断りする理由もないので出かけてしゃべりました。 世の中には子どもの不登校に悩むお母さんが、なんと多いこと。のみならず、学校制度そのものが多くの市民を傷つけているのです。たとえば進学校へ進めば勝ち組で、そうじやなければ負け組、とか馬鹿馬鹿しさの極みなのに。 私たちの娘も中学1年の一学期だけこなして、夏休みが終わっても行こうとせず、そのまま不登校になりました。自分をさがしてるんだ、かつての私のように、と理解しました。もし私が、「いい学校に進むことだけが人間に幸せを生む」という「本尊が東京大学の学歴神社」という、圧倒的大多数の人が巻き込まれている「民間信仰」の信者だったら、さぞ焦っていたことでしょう。もっと大切なことが、あるはずだ。ことに中学、高校という多感な少年少女が、大人になったらきれいに忘れてしまうような「受験勉強」に憂き身をやつすのは、どう考えても時間を空費させているとしか思えなかった。人間は、その人にとって大切なことだけを追求するべきです。それで、世の中に出ていく時がくれば、ほっといても子どもは出ていきます。 そう信じて、早く帰れる日にはできるだけ娘といっしょにいて、いろんなことを語り合いました。中学三年の終わりころ、高校へ行く、といいだしました。PTAネットワークを通じて、連れ合いが娘に合うような高校をリサーチ。結果、この上ない学校に入学。いうまでもなく、偏差値云々の高校ではありません。それでいいのです。競争は子どもを歪めます。三年間を通じて、クラブ活動にも精を出したため、家よりも学校にいた時間がはるかに多くなりました。変わり得るのです。人はなじめる環境にしか生きられない。そして、環境が合っていれば、生きる喜びさえ感じることができるのです。 そして、大切なことを究めるにはどうするか。 漢字の碩学で『字統』『字訓』『字通』などの著作を通じて知られている白川静さんは、「学問は独学でしか成しえない。そうでしかあり得ない」と明解に述べておられます。定説をくつがえす、ゆっくりとしで確かさを追いつめる作業は、まことに独立独歩を行く人でなければ不可能でした。 芸術も同じです。いかなる優秀な師も技術は伝えることができても、肝心要のことは教えようがない。神ならぬ人間は、感じる才能、表現ずる才能を、弟子に授けることができない。いうまでもなく、学問も芸術も社会的な評価の場にさらされることが必要です。そこで不足と過剰がわかり、いる場所がわかる。そして水準をどこに定めるかといえば、独学者は、つねに歴史を仰いでの最高の水準をめざしています。 ちなみに私の場合、大学時代に読んだ詩のいろいろが大いに役立つ場合もありました。フランスの象徴詩人とドビュッシーやサティらの関係を話しました。英詩が卒論でしたけれど。それは12月6日のクリスマス・パーティでのことですが、それについては次号に。
角正之さんは、地震の前からの知己。三宅榛名さんのリサイタルにダンスで出演。被災されて再起し、現在に至るというのは私も同じですが、その間、こちらからは「会報」を送り、角さんからはイベントの案内が来る、というつながりでした。一度だけしかお話しなかったものの、私が角さんに親近感を抱いたのは、私が暮らした1970年以降の東京を共通体験したこともあったのかも知れません。 あの頃私はまだ18歳。偶然のことで私の詩を読んでくださった23歳の詩人、芝山幹郎さんとあちこちの劇場や酒場をめぐり、見るもの聴くものすべてを吸収していました。当時浪人中のみでしたが、もちろんそうした生活のほうがおもしろいし、私のやりたい大切なことへの示唆が満ちていて、受験がどうでもいいものになりました。年長の詩人、画家、評論家、舞踏家、役者の人たちの話を側で聴いているだけで、これは滅多に得られない最高の「学校」なんだ、と。 渋谷パルコ劇場『静かな家』公演の土方巽の舞台は、いまも忘れられません。はねた後の車座のなかの土方巽の空気もまた。私には踊りの原型が土方巽であり、芝居の原型が唐十郎であるというのは、その当時の私の受けた刺激の強さによります。それがオーソドックスかどうかなど知ったこっちやないことでした。あのころ、新宿の夜を徘徊する芸術家は、みな心に刃を磨ぎ澄ませて、ぎらぎらと自らを発光させていました。 角正之さんにも、どこかそういう気配があります。60歳を迎えたダンサーの体は、なお鋼のごとく引き締まり、待ちの静止も動きだす力も無駄が削ぎ落とされて、いっそ優美でした。舞踏ではなくバレエでもない、角正之さんの「たったひとりの踊り」に、小谷ちず子さんと越久豊子さんの二人の女性のダンスが色を添え、場内中央の柱を生かした角さんの演出には舌を巻きました。 久田舜一郎さんは能楽の大蔵流小鼓方として知られていますが、他分野とのコラボレーションをなさることも知る人ぞ知るところです。冒頭は小鼓。音と動きの空間と時間が定められていきます。そして充分に間をおいてのカン・テ・ファンさんのアルトサックスの、なんという振り絞るような音色。楽音による嘆き、哄笑、そして泣きの切実さは、肉声によらないから、さらに体の芯にまで届くものに。これは至芸です。 大きな構成だけが決められていて、細部のいっさいは即興によるものでした。舞台に立つ人間は、即興ができる人間とできない人間に分かれます。人を感動させる力は、即興の力といっていい。なぜなら、舞台の上にこそ演者の生きる場所があるからで、その人の命そのものは、つねに揺らいでいるからです。それがどの一瞬にも反映されていなければ、芸術とはいえません。稽古で固めたものをそのまま舞台に上げるのは、しろうとの方の発表会ならともかく、私たちは一瞬一瞬の移り変わりに命をかけた、芸術家の技芸にこそ感動するのです。それが創造です。いのちがけの真剣さ、純粋さのなかに、子どものような遊びの風情がながれるとき、ふと至純ということばを思います。
この演奏会の企画は、一度はひとりの出演者のお怪我により流れましたが、無事に復活して実現の日を迎えました。安田謙一郎さんは、震災前に丁度サロンを訪れておられます。私は彼のチェロが大好きなので、待ち遠しいことでした。それに加えて、別宮貞雄さんが自作が演奏されるこの機会に、会場にお見えになることを聞き、大先輩にまみえることも大きな楽しみでした。 大先輩とは、学校の大先輩という意味もあります。別宮さんは、私か卒業した神戸高校の前身の旧制神戸一中の卒業生です。在学中、授業中にも本を読みふける私の邪魔をしなかった、どころか、私には受験勉強よりも大切なことがあることに理解を示してくださった先生がいました。鍬方建一郎先生。現代国語、古文、漢文の教師であり、学年主任でした。私はいつも職員会議の話題になる変わり者の生徒で、かといって分かりやすい非行に走るわけでもないので、扱いに困った先生が多いようでした。三年に進級させるかさせないかの会議で、鍬方先生は「させるべきだ。なぜならばこの子は」と他の先生を説得してくださったということです。それはだいぶ大人になってから聞いた話です。 授業中、教科以外の話をされることがありました、神戸一中の卒業生である鍬方先生は君らの先輩に、という話で、文化芸術関係では津村秀夫と親しい同級生に別宮貞雄さんがいて、と聞かされました。当時は文化祭の講演に小説家・田宮虎彦が来たりして、神戸一中卒業生は現役中の現役として活躍されていました。 その当時に日本の作曲家の作品がレコード化されることは稀で、注意深くNHK-FMに耳を澄ませているほかありませんでした。大学に入ってから別宮さんの著書『音楽の不思議』を読みました。意見が違うところがあるのは、いわばあたりまえのこと。そうでなければ本を読む意味がありません。物理を専攻された作曲家としてのひとつの見識に貫かれた、男らしい本でした。とくに数と音楽との係わりについての章には、学ぶところがありました。メシアン門下の音楽家に、不思議に縁があります。メシアンは、シュトックハウゼンを落としで、別宮さんを合格させ、作曲を教えたのです。 別宮貞雄氏(右)と楽屋口で 現在、別宮さんの作品はナクソス盤などのCDで、数点が求められます。明治以来の日本の作曲家が再認識されようとしています。日本人が西洋音楽を書きはじめてから、まだ百年ばかり。ナクソスのシリーズを聴き進めていると、おもしろいです。それぞれに確かな個性が刻まれています。長い年月を自己を偽らず、信念に立って揺らがなかった別宮さんの音楽。それをなまで、作曲者も臨席する客席でともに聴けるというのは、これはもう一大イベントなのでした。 それにしでも、このプログラミングは見事でした。このトリオは桐朋出身者ばかりで、音楽合奏の基盤が共通しているために、ハイドンではウィーン古典派の形式美がきわだち、ドビュッシーではフランスの音色感と和声感を鮮やかに表出しましたトそれぞれソロのベリオの現代の烈しさも圧倒的でした。 別宮さんのトリオが響きはじめるや、なにか故郷へ帰ってきたかのような懐かしさが立ち込めました。あれはいったいなんだったのか。私たちの母国語で音楽が書かれている。そんな懐かしさ。かつて内田光子さんが「音楽には音楽語というものがある。音楽家は音楽語がわかる人のこと」と発言されていました。そして、その音楽語なかに、母語というべきものが、どうやらあったようなのです。 手法、技法は違いますが、三宅榛名さんの音楽にも、私の音楽の母国語が聞こえる。そして、高田三郎の「典礼聖歌」にもそれが聞こえる。音楽は不思議です。もう一度、別宮貞雄先生の『音楽の不思議』を読んでみようと思います。 安田明子、安田謙一郎、佐藤祐子、滅多と得難い時間を、どうもありがとうございました。
地震の前からの長いおつきあいですから、私ほど身近に久保洋子さんの新作を聴き続けてきた人間は、第三者としでは、いません(と断言)。ほとんど「幼なじみ」の関係といえます。それぞれの、いわば「仕事はじめ」の時期から、私はサロンで、久保さんは作曲とピアノで、地震による被災を挟んで時間を過ごしできました。 久保さんは西宮・芦屋とパリを拠点に活躍する作曲家・ピアニストで、大阪音大と同大学院教授を務めるかたわら、2005年と2006年にはパリ・ソルボンヌ大学で客員教授を務められています。日本で同大学院を卒業後、フランス政府給費留学生としてパリに留学。ブーレーズが所長を務めるIRCAMに給費研究員として招待され、そのさいにメシアンはじめ、そうそうたるパリの音楽家たちの知遇を得られています。それが現在にも。 ここに招かれるパリの音楽家は、現代音楽の演奏家として名の知られた人ばかり。クロード・エルフェのときなど、高校生以来の現代音楽ウォッチャーでしたから興奮を覚えたほどです。クセナキスやブーレーズの初演者といったら、それはもう。 今回のゲスト、マルティン・ジョストさんは二度目の来演。かのイヴ・ナットに師事されたピアニスト。ジョン・ケージやブソッティなど、多くの作曲家が彼女のために作品を書いています。今回のジョン・ケージは、やはりこの作曲家が「脱力の天才」であることを示す名演奏でした。 20世紀の作曲家として、やはりジョン・ケージはいてもらわないと困ります。 久保洋子さんの初演新作「シルフィッド」は、フランス語で「風の精」の意味。オーヴェルニュ地方の風景からのインスピレーションを受けて書いていたオーヴェルニュ・シリーズに続き、今回からスピリット(精)・シリーズを。「直観で物事を捉え、そのイメージを広げていくという、日本伝統芸術の特性を生かした作品を書こうと試みた」とあります。 また、初演新作「イポテーズ」は、フランス語で仮定、仮説、想定、可能性のこと。「日本の伝統芸術は根本的に西洋の芸術とは正確を異にするが、日本固有のものと思われていたものが、本当にそうなのか。対峙と融合の試みが作品のコンセプト」。 久保さんは「音楽語」のボキャブラリーが、きわめて豊富な作曲家です。ついこうなる、というマンネリも、過去の自作の自己模倣もあり得ず、つねに新しい音楽を創造されています。どこかから吹いてくる芳香をともなった風のように音がやってきて、音楽がはじまり、うねりふくらみ、どこかへ消え去る。どこにも「人間の手」を感じさせない音楽です。 この日は、アラン・ゴーサンさんも来て、場内には久保さん、近藤圭さんも含めて三人の作曲家がいたことになります。
久保洋子さんの21世紀音楽浴は、夏と秋の2回開かれています。今回のゲストは、最多登場を誇るフルート界の重鎮、ピエール-イヴ・アルトーさんです。サロンは、おそらく彼にとってもっとも安らぎと親しみを覚える、日本の演奏会場ではないでしょうか。 アルトー=久保のデュオは1987年、パリで初めて共演、翌年にデュオ結成。お二人とも作曲家であり演奏家であることから、気も合うのでしょう。やがて20年にもなります。音楽の時代的レパートリーの広さも、プログラムを見れば一目瞭然。 久保さんの初演新作「エクスパンシオン」は、フランス語で発展、拡大などの意味。日本の伝統音楽においての、一音とそこから瞬時に感じられたイメージを自由に膨らます空間など「日本の伝統芸術は、直観とそれをきっかけに膨らます豊かなイメージという関係の基に成り立つ。この作品においては、一音がきっかけとなって得られたイメージを西洋の語法を使って膨らませている」と、久保さんは書いています。 能楽からの印象を生かしているのか、音じたいと同じくらい、聞が美しい音楽。明治以来、日本の作曲家は「日本と西洋」のはざまで葛藤してきました。葛藤が必要ない人もいたと思います。しかし、大阪音大の近藤圭さんから久保洋子さんへの連なりは、葛藤の世代的変容を凝縮した形で示して余すところがありません。近藤さんの師は信時潔とヒンデミット。信時さんの師は東京音楽学校卒業後のドイツ留学でのゲオルク・シューマン。近藤さんの作品は、男性的な力業で音を構築していきます。造形も、彼のからだの中にある能楽の序破急に酷似しでいます。 そして、久保さんからはフランス近代の和声やしゃれたエスプリが入り込み、無調も対位法も旋法も調性も自由に駆使して、場合によっては「重層的な単声」を感じさせる局面もあります。彼女の造形感覚こそ、おそらく天性のもの。男は外からも作品をつくっていきます。建築に似た作業をやります。コンポジションとは、その意味です。久保さんは、造形を意識していない。あるいは最重要のものとは意識されていない。そんな野暮なことよりも、鳴りだした音、響きだした音楽に身を任せ、耳を澄ませて、やってくるきらめく音を捕獲する。苦闘の成果というよりも、遊戯と喜びに満ちた作曲の作業。もちろん悩みがなければ人は作品をつくりません。創作の現場は驚きと喜びがなければ。そして、音のほうから消えていく。残ったものは、人間の手作業でなく、始めに鳴った音の自由な航跡。ある曲では、私は白百合の輪郭を見ました。 それにしても、前回からの久保洋子さんの外見の変貌ぶりは鮮やかです。寒天ダイエット法が功を奏して10キロを超える体重減。すっきりと痩せて、若く新しい習い事も始められたとのこと。能楽とバレエ。私は能楽は子どものころに稽古をしていました。そこで彼女は「バレエいっしょにやろうよ」と。やるかも知れない自分が怖いです
いやー、これはなんという音量の小さな楽器。楽器が搬入されて、ただちにリハーサルが始められました。ずっと前にハンガリーの民俗楽器のツィンバロンの演奏会を開いたことがありますが、そのときのリハーサルはわざと弦を響かせないように、小音量でされました。ところが、クラヴィコードは本番もこのままだ、と。で、置場所が検討されました。結論は舞台上、ピアノの前。これほど集中を要求されるコンサートは、かつてありませんでした。結果は上々。私は例によって場内いちばん後ろのミキシングルームの壁にはりついて聴いていました。至福の時でしたノ音量で攻めまくるクセナキスとは、なんとちがったJ.S.バッハ。大井浩明さんは無敵である、と快哉です。 まず、楽器のことから。ピアノの発明以前にあった鍵盤楽器で、チェンバロよりも安価で運びやすく音量も小さなことから、人々の生活のなかの楽器として、クラヴィコードはありました。モーツァルトも自宅にこの楽器があり、作曲に使われたといいます。夜に弾いてもご近所の睡眠の邪魔にならないほどの音量。ということは、私もぜひ一台欲しい。深夜、ヘッドフォンを装着して、シンセサイザーをやたらと鳴らしていた時期がありました。すると隣の部屋から「鍵盤ががたがたいうのがうるさい」と家人に責められたので、それっきりになっています。 カール-フィリップ-エマヌエル・バッハが、クラヴィコードを推奨しています。「クラヴィコードを上手に弾ける人はフリューゲルもうまく弾けるが、逆はあり得ない。良い演奏を習得するためにはクラヴィコードを、指の力を身に付けるためにはブリューゲルを」。 いろいろな専門家の講習を、大井さんは受けてこられました。バッハがついこないだまでここにいた、というヨーロッパの街角で。まずすでにチェンバロを修得されていた大井さんはシュパーニ先生とともにタッチのちがいを微細にわたる角度から研究されています。手首、てのひら、指それぞれに繊細なコントロールが必要なのです。 かくて修得された「バッハ・タッチ」による「平均律第2巻」全曲は、最初こそ都会の夜に北極星をさがすごとく、星の光に慣れなければ聴き取りにくい音量と感じましたが、やがてカシオペアとこぐま座をみつけ、ひしゃくの長さを測り等倍していくうちに、しかと自らを輝かせる星の光が見えてきました。聴衆の人の気配も天の川のごとく。 第3番あたりになると、皆さんの耳も慣れてこられたと察します。ごくわずかな強度の変化や、音のニュアンスの繊細な変化など、大井さんの「手仕事の確かさ」が見えてくれば、ますますおもしろい。私は、いわば「バッハおたく」みたいなものですから、対位法の構築が大好き。世界には重力があり、ものみな落下する空間に逆らって、バッハは高い塔を建てていく、それが抽象的な音の遊びに終わるものだったら、バッハの音楽は残っていません。そこに感情を含んだ人間の生活があるから、バッハはおもしろい。 人間はいつも揺らいでいます。好きなのに嫌いよ、といってしまう。フーガは、その二つながらの感情を描くことができる形式です。相容れない二つの要素が同居する。それがバロックです。 その辺のことを、大井さんは巧みな戯文で当日プログラムに書いておられます。《平均律》と吉本漫才の比較。ボケとツッコミを軸に解説された洒脱な文章です。興味ある方にはコピーで差し上げますので、ご連絡を。
以上、華やかな声楽と宮廷舞踏のコンサート。企画の方、出演された方、ありがとうございました。宮廷舞踏は珍しいので、思わず携帯で撮った画像を載せておきます。これは、私も身につけてみたいです。
竹屋茂子さんとも震災前からの交流があります。しばらくぶりの芦屋公演でした。秋田出身で、東京芸大卒業後ずっとハンブルグに拠点をおいて活躍されているピアニスト。震災時に当地で被災地に収益を送るチャリティ・コンサートを開催。お金を領事館に持っていったら、役人に「日本は金持ち国であるから、海外からのお金は受け取らない」と突き返されたということを聞き、当時国際電話でともに日本の度し難い官僚体質を怒りました、私はそのことを文章で発表もしました。その後も個人的にも支援していただき、サロンはなんとかやってきました。彼女は恩人でもあるのです。 当日の私の楽しみは、なんといってもブラームスでした。ピアノ五重奏曲よりも、二つの三重奏曲、三つの四重奏曲が好きで、シェーンベルクが愛して自ら管弦楽に編曲した作品25、冒頭から心をつかまれる作品26、そして内容のつまった作品60、いずれも家でよくレコードで聴く作品でした。ハンブルク生まれのブラームスを、当地で暮らす竹屋さんが仲間とともに演奏される。このさいだと思って、大判のスコアも買いこんだことでした。 本番は、モーツァルトから。ともかく、なまの楽器のアンサンブルで、こんなに身近に聴くのですからたまりません。ブラームスでは、やはり勉強になることばかり。驚いたのは初めて聴いたドヴォルジャークで、あとからあとから楽想が湧き出してきて収拾がつかないほど。「節約の豊かさ」を実践したブラームスだったら、ここに惜しみなく繰り広げられた楽想で、三曲は創ることができたでしょう。
クレアリー和子さんのリサイタルレ今年は10月に開かれて、プログラムはオール・ベートーヴェン。ブゾーニの孫弟子にあたる彼女のピアニズムは、20世紀初頭に活躍したSP時代のパッハマンやパデレフスキーなどと共通するものです。そのことを発見し、それを書いてから、あちこちの公演ブロフィールに私の文章を載せていただくようになりました。最近ではパリ公演をなさったとのこと。 いまでは前身の力をかけて、轟然と楽器を響かせる弾き方が主流となっています。大きなホールで管弦楽に負けない音量が求められるからです。しかし、音楽はもともとサロンのもの。音量よりも音色。ニュアンスの豊かさと、静寂さのなかの生きる喜び。
恒例のレコード・コンサート(お茶付)は、私の興趣の赴くままに続けられています。 LPレコードは、英国製デッカ・デコラで。SPレコードは、米国製クレデンザで。それぞれレコードの会社や年代により得手不得手がある、個性豊かな「楽器」としての音盤再生装置です。盤との相性がぴったり合えば、それはもう、極上の音質というも愚かで、ただただ音楽の花園に遊ぶ思い。 思えば長い間にわたって、音盤とつきあってきたものです。音の出るおもちゃが、いつしか真面目になにごとかを語り合う友になったり、勉強のための参考にしたり。ハイドンの交響曲全集なんて、資料以外のなにものでもありませんでした。それら愛する音盤について、いつかは一冊の本にしたいもの。でも、売れないでしょうね。SPとLPが、あまりにも多いから。ためいき。 松井美保子「Y氏肖像」 松井美保子「Y氏肖像」(セミヌード) |
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2007年 1月 1日 発行 著 者 山村 雅治 発行者 山村 雅治 発行所 山村サロン
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