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20周年、そしてこれから 1 1986年11月1日が山村サロン発祥の日。芦屋市の再開発事業によりラポルテ本館、西館とホテル棟の三つのビルが落成し、本館3階に入ったサロンも20年を迎えることになります。JR駅前にあった父祖の代からの土地建物が新ビルの床に置き換えられ、本館の100坪余りの床が自由に使えることになりました。母は長年稽古を積んできた能楽と茶道の振興に寄与しようと、能舞台と茶室をつくり、私は音楽会にも使えるようにとスタインウェイのピアノを入れて、夢が合体すると和洋折衷の不思議な空間ができあがりました。 私は自由と平和を愛しています。サロンでは集まる誰もが対等であり、互いを認めあい、自らに誇りを待った表現者が臆するところなく作品を発表します。その上で活発な議論、賞賛、批評が沸き起こり、誰もが高いものや深いものをめざして歩んでいく、われわれの精神の基盤、いいかえれば文化が創造されていくでしょう。マルセル・プルーストのサロン、ドビュッシーがピアノを弾き、マラルメが詩を読んだサロン。かつてはフランスでランブイエ、スキュデリー、ラ・ファイエットら女性が開いていたサロンを蘇らせたいという思いがありました。サロンは同時代の芸術家を見出し、擁護し、はばたかせます。のみならず言論を生みだし、世に先んじで新しい世界を拓いていくことばが渦巻く場所でもあります。サロンに鍛えられたことばが、やがて世の中にじわじわと浸透して世の中を変えていくこともある。フランス革命の萌芽もまた、ひとつのサロンから胚胎したにちがいありません。闇に光を。対立するところはひとつに。争いには平和を。完全になにものからも自由な精神は、あらゆる組織から脱却した大人のサロンからしか生まれてきません。 あのころはバブル経済の時代。なにもかもが右肩上がりに成長していくと脳天気なことを、誰も彼もが考えていた時代でした。金あまりということばがありました。人びとはお金が余ってしようがない。海外旅行でブランド品を買い漁り、国内では温泉・グルメに遊び呆ける。主婦の財テクということばもありました。新聞には、いつも投資の指南が掲載されていたものです。企業が信じられないほどの札束を積み上げたから、家を手放し、働くのをやめた人もいます。その時代にはその時代なりに、サロンは高額商品の展示会などににぎわい、人の協力も得て、たくさんの音楽家、文化人を招き、会を催していたものでした。 忙しくて、私はバブルを知らないのです。株を賭博と同列に見なしていた父は、私に一株も買うなといいました。その父がそのころに脳梗塞で倒れ、1989年に母が癌に倒れて、それぞれに入退院をくりかえし、看病に明け暮れていたという状態では、サロン活動に打ち込むほかは、海外旅行や温泉・グルメに浸る間もなかうたのです。 サロンにいる私と離れた私は明らかに別人でした。病人介護、老人介護ということを自然に学んでいったのです。たとえば病名の告知の問題にはじまり、余命というものが医師の経験則によるものでしかないこと、多すぎる薬で満腹にしてもしようがないこと、老人手帳や障害者手帳は使えば役に立つこともあること。完全看護でなければ、病室に付添いさんを頼めばいいのだけれど、たいへんな仕事だから出費もかさむこと。その入院に何が必要で何がいらないか。検査や手術のときにどこでどうしていればいいか。あるいは、人院をくりかえすたびに衰えていくそのときに、どんな会話が生きる力を生み出すか。半身不随になった父は最後は在宅で過ごしました。記憶も神経もおぼろになり、私は老人用おしめの素早い取り替え方などを覚えることができました。母は最期までしっかりしていて、死期も悟り、母は死ぬ稽古を積み、私は別れる稽古を重ねました。母は地震の前年に世を去り、父は地震後二年生きて亡くなりました。サロンは主に母と私の生きる場所であり、父は後方から見守っていた。1997年から、完全に私はひとりになりました。 2 1995年1月17日午前5時46分。被災地の人間ならば、この日付と時刻を忘れることができないでしょう。激震に見舞われ、本棚が倒れ本とCDに部屋じゅうが埋めつくされて、ようやく立ち上がった私自身がなかなか部屋から外へ出られなかった。自分のいのちの心配がないことを確認すれば、家族が大丈夫かどうか、確かめたい気持ちが焦ります。部屋から脱出すると、そこには私が生きているかどうか心配する妻子がいました。父も無事でした。母の一周忌をあと数日で迎えることになっていた父は、離れの寝室で、立とうにも立てない状態で恐怖のときをやり過ごしていたのです。 その日にもサロンでイベントが予定されていました。第三火曜日恒例の「芦屋ユネスコレディースセミナーハウス」の例会。芦屋の女性たちが講師の先生を毎月招き、お話を聞き、ともに昼食を囲むという、これこそ芦屋という催しのひとつです。家のなかの割れ物を片づけたり、水も電気もガスも止まっていたので、状況を知りたく携帯ラジオの雑音混じりのアナウンスに聞き入っていたりで、家を出たのは九時半過ぎになりました。芦屋では200名が生き埋め、というのが私の聞いた報道でした。 スーツにネクタイをやめ、セ一ター、ジーンズにコートで。車をやめて徒歩で。家からラポルテヘの道程は、次第に被災の度が増していき、ラポルテに近くなれば大きな石燈寵の頭の部分が道の真中にごろりと落ちていて、一階がつぶれて屋根が低くなった全壊の家もありました。到着すれば、ちょうど十時。「ラポルテはただいまから営業いたします」と館内放送が間抜けな録音音声を響かせました。日立のエレベーターも停止したまま。階段をのぼりサロンに着くと誰もいません。玄関の扉がレールから外れ、レジスター前のガラスを割っています。喫茶のほうはもう無茶苦茶。観音開きの食器棚からグラスというグラスが飛び出して、破片は玄関にまで及んでいます。そして事務所の扉が、ものでつかえて開きませんでした。ホールの中へ入る扉も右のほうが足場を失って傾いている始末。正面上の空調が枠ごと飛び出して、舞台の置き板が北へ二枚落下していました。置き板とは、能舞台の桧の床を保護するために置く畳一帖の大きさの板で、その上に重いグランドピアノを乗せています。かなり重いものです。地震に突き上げられた瞬間、万物が跳ね上がり、次の激しい横揺れに、二枚の板が落下した。ピアノは脚がうまい具合に板の隙間にはまり、水平を保っていました。 電話は不通。スタッフの家にも、主催者の方のお宅へも。ほどなく料理長が汗だくで戻ってきて、私にいいました。「今日の催しは無理です!」 3 あれから11年。半壊のラポルテ本館と自宅の修理に半年かかって、それぞれの修理代金の金策に追われました。会社員なら給料をもらうほかに見舞い金が出たということを聞きましたが、自営業者は働く場がなくなれば収入の道は途絶します。ラポルテ本館は大部分がそうした地元の自営業者でした。そして理解に苦しんだのが、さかのぼって保険料を払い込めば従業員には失業保険金がおりるというのに、代表者にはおりない、という不思議でした。妻子を堺へ疎開させていた三ヵ月ばかり、私は配給で食いつないでいたのです。おしるこや豚汁、粕汁など、温かいものを腹に流し込むとき、無名の善意の人たちの心と行ないに感謝を感じないではいられませんでした。被災して、必要なものは、まず水。次に食糧。生物としての生き延びる用件を満たさなければなりません。そして夜露をしのぐ屋根と暖かい寝床。眠れれば、その間だけは平和です。どんな夢だって見ることができます。しばらく経ってから、卒然として人は気づきます。家を建て直すのに、職場を修理するのには、お金が必要だ、と。
小田実さんとは震災前から「文芸講座」をお願いして、交流が始まっていました。震災後、数日を経て荒れ果てたサロンの中で話を交わしました。お互いに行政の無為無策ぶりに怒りをぶつけあいました。これが、以後の市民運動の基礎にある、絶えずある感情でした。震災の年には、小田実さんが呼びかけた『市民救援基金』
−市民が市民を助けるという理念− のお手伝いをして、あちこちの救援の手が及ばない施設へお金を届けてまわりました。翌1996年になっても、政府はまだ、被災者には民間からの義援金を十万、二十万円渡すだけで終わろうとしていました。被災者がそれぞれに立ち上がっていくには、規模の大きな公的援助が必要でした。私たちは神戸の早川和男さんらにも呼びかけて、三月、 「阪神淡路大震災被災地からの緊急・要求声明の会」を結成、私が事務局長になりました。その会で一度東京へ行き、集会を開きました。そして5月、これを「市民=議員立法」の手法でやろう、と小田実さんは、早川和男さん、弁護士の伊賀興一さんを芦屋に呼ばれ、私をまじえた四人で、まず震災被災者に公的援助金を支給するための「市民立法」の原案をつくりあげました。前の「声明」と同じく、全壊世帯には五百万、半壊世帯には三百万円の支給を記しています。 そこから現行法が成立するまでの過程については、新著『これは人間の国か』(リブロ社刊)か、旧著『自録・市民立法JIをお読みください、ぶあつい本にしか書ききれない、きれいごとではない記録です。 2006年1月17日の集会には、伊賀興一さんに喋っていただきました。私たちが運動を進めていたころ、米国危機管理庁はノースリッジの震災に際し、被災者にただちに最高三百万円以上の小切手を配布してまわった、という実績がありました。根拠は、市民の生活が破綻すれば、民主主義国家の根幹が破綻する、という端的にして明解な思想でした。 ところが2005年に米国南部を襲ったハリケーン・カトリーナの被災者は、まるであのころの私たちのように棄てられたまま。これは何か。米国危機管理庁は、いまでは独立性を失い政府の機関となり、対テロが主眼となって自国の自然災害被災者を「生物学的解決」に任せようとしているのです。そうしたことを第一部では話しあい、第二部ではお茶を飲みながら、ローゼンビート音楽研究所の浜渦章盛さんらの歌と音楽を楽しみました。 それにしても、震災については、私は直後から新聞や雑誌、会報や本などにたくさんの文章を書いてきていますが、現在に至っても、書くたびに今まで書かなかったことを書いています。たぶん、書きつくせないのです。あとからあとから、いいたいことが体の奥から噴き出してくるようです。
「市民の意見・30」は、震災前からの、市民の政策を包括的に提言することをめざす市民の集まりで、大阪で開かれることが多いです。近年はしばしばサロンで開かれるようになりました。こちらの世話役は北川靖一郎さん。最近では継続的に「教育」についての討議を重ねています。政府が「教育基本法」の改正をいいはじめて、愛国心やら何やら、うさんくさい状況になりつつあるからです。市民は子供たちは、戦争ヘ一丸となって突き進ませようとする国家の奴隷ではありません。 一橋大学や関西学院大学で教えてこられた海老坂武さんから、教育無用論者の私に至るまで、侃々諤々の議論は楽しいものです。この成果は、やがて冊子としてまとめられる予定です。そこには収録されないと思いますが、この集まりのために『不可能な子供たち』という小文を寄せました。同じ題名の小説をぼちぼちと書きはじめています。 4 震災後の十年余は、あっという間に過ぎたような気がします。なんとかなるだろうという楽天性は有効でした。瓦礫にたたずむことになっても、生きてさえいればなんとかなります。そして、困難な局面においては正面きって戦いつつ、乗り越えてきたように思います。不安というものは暇人が覚える感情にすぎなくて、どうしようもなければ、必死に、全力でなんとかするしかないでしょう。震災が教えてくれたことは、ひとつ、死ぬときは死ぬ。予定も展望も、じつは役に立たない。時間の矢印が続いていくだろうという甘い信仰は棄てました。だから、前にもまして一期一会。時間の密度が圧倒的に濃くなりました。 そのぶん、私は年をとらなくなった、というのが不思議ではあります。震災後の外見的な変貌ぶりは、あるとき忽然とダークスーツを脱ぎ捨てた日に始まりました。国会へ行く用事の多い「市民=議員立法」の運動期間は、いわば戦闘服として着用しました。死の影を宿した喪服でした。現在、それは軍服に見えます。 忠誠心を示す服として、軍服は体を包みます。会社員だってスーツに身を包み、会社に忠誠心を示していたはずなのに、中年の盛りのときにリストラを宣告されてしまう時代です。男の制服としてのスーツは、本質的にうさんくさいのではないか。現代の日本では、それは「共倒れ」への忠誠を示す衣服に見えてきました。憲法九条で内外に宣言した平和国家をかなぐり捨てて、空前の赤字国家が戦争国家への道を進めば、官民総「共倒れ」になるのは明らかです。ゼロ金利解除の決定は早すぎました。預金金利が上がるのはいいことですが、その額をはるかに上回る運転資金を借りている中小以下の企業はますます困難になり、倒産が続出するでしょうし、市民もまた預金をはるかに上回る住宅ローンの金利負担に苦しむだけです。景気回復など、世の中を知らない役人の捏造した数字にすぎないのです。人間が働き、生活する現場を知らない、中枢にいる政治家も役人も俗悪な顔をしています。彼らとは離れて、別の道を歩きます。 というわけで、ファッションの冒険はとどまるところを知りません。自由に服を着てみれば興趣がつきません。私は痩せていて、レディースにも対応できる体格ですから、もうやりたい放題。かつて、エッセイ『ドブネズミ色の男たち』で、男の服装を痛烈に非難した花森安治(『暮らしの手帖』編集者)や、「モノセックス・ファッション」を提唱し、銀座の街をスカートをはいた男たちにパレードさせた長沢節(ファッション・イラストレーター)らに、かぎりない共感を抱きます。 震災後のサロンは、ぼちぼちとまた人が集まりはじめました。震災前からのつながりを大切にしてくださり、オーストリアのピアノの巨匠イエルク・デムスさん、ドイツのペーター・シュマールフースさんのピアノ・リサイタルが継続しています。アメリカ在住のクレアリー和子さん、ドイツ在住の竹屋茂子さんらも帰国されるたびにお声をかけてくださいます。また、サロンから世界にはばたいたピアノの大井浩明さん、ヴァイオリンの吉田亜矢子さんらも、たまたま20周年になる今年、再び堂々たるステージを見せてくださいました。地元の音楽家はいうに及ばずです。三宅榛名さんと共演されたダンスの角正之さんが、久々にパフォーマンスを見せてくださり、深甚な被災を受けられた作曲とピアノの久保洋子さん、ギターの弘井俊雄さんらも、もはや生死をともにしたつながりを感じています。 新企画は、往年のSPレコードを聴く『名器クレデンザ・コンサート』と、LPレコードを聴く『デッカデコラ・コンサート』です。震災がなければ、私はSPレコードの真価を知らないまま過ごしていたでしょう。母の幼馴染みの方から、ご自身のお母さまの形見のSPレコードを寄贈していただいたことが発端でした。両企画とも私が音楽や演奏家の話をしながら、楽しく続けています。それは、心から平和を感謝できるひとときです。とくに昭和初期にプレスされたSP盤は、それ自体が戦火を逃れ、震災にも割れずに、たくましく生き延びてきたものですから、なおさらに。 ここで謹んでのお知らせをひとつ。 21世紀になっても、まだ地上に戦争が絶えない世界に向かって、12月2日(上)午後2時開演のコンサートを開きます。女声合唱でオルガン伴奏による、高田三郎作曲の『典礼聖歌』。私の指揮です。先年『メサイア』をやりましたが、その続編です。入場無料。後日、ご案内させていただきます。
広瀬忠子さん(芦屋市婦人会会長、芦屋ユネスコ・レディースセミナーハウス理事長)のご協力をいただいての楽しいティー・パーティーを、また開くことができました。出演者のご紹介は、前回と同じくリスト協会のリヒャルト・フランクさん。 メトロ/フォーティ夫妻はイタリアの音楽家で、ある年のウィーンのニューイヤーコンサートに出席してウィンナ・ワルツの虜になったといいます。カンターレ!の明るさと楽しさ。飽きさせない舞台人としての魅力。曲の間に廣瀬さんのお喋りや、おいしいお菓子を食べ、お茶を飲んで、瞬く間に時間が過ぎていきました。 時期として、ハロウィン・パーティーになりました。こうなればコスチューム・パーティーのマニアとしては普通の格好で出席するわけにはいきません。黄色いかぼちゃなどの小道具をどっさりと廣瀬さんに買い込んでいただきました。その中に黒くて大きな三角帽子があり、 「それかぶって魔女になれば」と仰せつかりました。当日はその衣装とメイクで朝から過ごしました。この上なく楽しく!
これら四本のコンサートも忘れることができないもの。 高島仟さんが企画した高野久美子さんの「蝶々夫人」は、テノールの青山伸郎さん、ヴァイオリンの高橋玲さん、ピアノの浜野千津さんらの共演を得て、盛り上がりました。 二本のフルート、ピアノ、ハープの演奏会は出演者が全員女性で、華やいだコンサートになりました。 フランス・シターのコンサートは、クリスマスの季節を選ばれての会。寒くて空気が乾燥しているほうが、音程がしっかりしていいのです。私もフランス・シターは大・小の二台を所有。日仏文化サロンの長谷川氏邸でレッスンにも励みました。熟達すれば「天来の妙音」が響きます。私は遠慮したので、当日は熟達した人ばかり。「天来の妙音」が場内いっぱいに響きました。 坂口卓也さんの企画の「阪神淡路大震災復興支援チャリティ・コンサート」は、ゴールデン・ウィーク恒例のものになりました。高山謙一さんは、今回も小池克典さんのピアノ伴奏で自作を歌われました。なかに一曲「傷だらけの天使」という高校時代に作られた歌がありました。現在の高山さん、いまもぶれていません同じひとつの歌。 渚にては、三人編成で、柴山さんと雅子さんに、田代さんがウッドベースで加わりました。柴山さんのヴォーカル、ますます力強さと響きの澄明さを増して、こちらも変わらないひとつの歌が磨ぎ澄まされていきます。 当日の様子は、坂口卓也さんのブログのアドレスを記しておきますので、ご覧ください。 http://onyak.at.webry.info/200605/article_1.html
ブラヴォー、吉田亜矢子さん。再び彼女をサロンにお迎えする日が来ると信じてはいたものの、あれから7年!私の前にヴァイオリンをさげて現れた少女は、いまや堂々たる風格さえ備えるヴァイオリニストになっていました。いや、正確にいえば7年前の1998年10月3日のリサイタルで、すでに彼女は初々しく力強く、自ら信じるところを雄弁に語る芸術家でした。当時の会報(1998後期 Vol.20)に、私は書いていました。「すぐれた音楽家は最初の一音から、すでに自分を語っています。それはじつは、どれはどの訓練を重ねても、生まれつき備えているものがなければ、なかなか手に入らない」と。 彼女は2歳半からヴァイオリンを始め、第35回全日本学生音楽コンクール全国第一位受賞。14歳でアメリカに留学。16歳でロサンジェルスフィルハーモニー交響楽団と、メンデルスゾーン「ヴァイオリン協奏曲」を演奏。17歳でカーチス音楽院入学。以後はアメリカで活躍し、1992、93年にはマールボロ音楽祭に参加。93年、ニューヨークのコンサートアーチストギルド国際コンクールで優勝。94、95年、アンドレ・プレヴィンとキャラモア音楽祭で共演。アメリカ各地で演奏会を開き、1996年、カーネギー・リサイタルホールでリサイタル・デビュー。1998年、芦屋・山村サロンで帰国演奏会。 その後は1999、2000、01年、ドイツのアウグスブルク州立歌劇場管弦楽団に招かれて、エルガーの協奏曲を演奏。同年のワシントンDCナショナルギャラリーでのリサイタルは全米に放送。02年にはシカゴでイギリス人作曲家A.アルヴァニスの作品を初演。以後はヨーロッパ各地で演奏活動を展開され、現在の拠点はロンドンです。 この七年間のあいだに2回、じつは彼女はサロンを訪れています。一度目は数年前の夏休みのころ、ふらりと遊びに来られて、SPレコードを何枚か聴いてお話しました。2度目は去年。NHK神戸局のロビーでの演奏会の宣伝録画に、カメラ、音声さんを伴って。吉田亜矢子さんにとって、サロンは懐かしい場所と思っていただいているのです。私も彼女の演奏は忘れたことかありません。 アメリカで活躍された経験がある人は、自分の見せ方が上手です。まず楽しんでもらいながら、技術のすべてを展示しつつ、自分の真実、聴いてほしい音楽を聴衆の心に届けていく。タルティーニはイタリアバロックのヴァイオリン曲の粋です。ヴァイオリン曲を聴く喜び。プロコフィエフはロシアの近代。メカニカルな音の動きのなかに詩情が浮き上がります。アルヴァニスは現代の作品。これは「短いシャコンヌ」のような傑作です。シュトラウスの一曲しかないソナタは、知る人ぞ知る美しい音楽です。音盤にも恵まれていません。彼女の演奏が最高でした。最後のリストは、これはもう…… 場内は興奮のるつぼ。またひとつ、忘れることができない演奏会が増えました。ますますのご活躍を祈ります。
ペーター・シュマルフースが、またやってきました。せっかく日本に来るのだから、ほかでも仕事を作ればいいのに、サロンでだけの5回のコンサート。私との友情のために彼は来て、集まったのが少人数の夜にも、まごころのこもった音楽を残して帰っていきました。先にデムスが訪れていました。後輩のペーターを「知っている」と。ペーターもデムスを「もちろん知っている」と。二人とも、戦後の独欧の共通の音楽的基盤を生きてきたピアニストです。ペーターの師の一人がヴィルヘルム・ケンプ。ぶあつい音楽的教養を備えたピアニストの集大成としての五夜でした。白眉はシューベルト! わけても変口長調の遺作ソナタは、死の淵をさまようシューベルトが、それでも踊れるリズムをさがし、歌える旋律をさぐる、はるかな場所からの親密な呼びかけが聞こえてきました。
アメリカから幅広い活躍をしているフルート奏者キース・アンダーウッドが日本に来るから、というので、角家道子さんが弘井俊雄さんに連絡をとられ、弘井さんから私に電話があり、即決で開くことになりました。後日、角家さんからプログラムが送られてきました。ビシンギンニャ、アゼヴェード、ヴァーデリイーの三人は読み方も定かでないローマ字の不思議な綴りの作曲家でした。日本初演だったかも知れません。 キースさんはニューヨーク・フィルをはじめニューヨークの主な楽団と共演するほか、アンソニー・ニューマン、ロッド・ステュワート、キャスリン・パドル、セリーヌ・ディオンらとも共演やレコーディングに活躍。現在はコープランド音楽院やニューヨーク州立大学大学院で教鞭をとり、ジュリアード音楽院など複数の大学でマスタークラスを行なっています。ようするに、驚異的な実力の持ち主です。人柄はしかし、アメリカ人らしい親しみやすさ。演奏ぶりも、難しいことをやっているはずなのですが、楽器の限界や呼吸の限界といった、管楽器そのものの困難をまるで感じさせません。フランスのピエール=イヴ・アルトーといい、アメリカの彼といい、すごい人がいるものです。バッハをどうやるのかが興味の的でした。ジャズ風にスウィング感を出したものになるかと思いきや、堂々たる正攻法の演奏。清潔を極めたフレージングに聴き入るばかりでした。 フルート2本の曲は、クヴァンツ、ピシンギンニャ(Pixinguinha)、アゼヴェード(Azevedo)。キースさんのソロがバッハ。角家さんのソロが佐橋裕子(1957年生まれの作曲家です)角家さんと弘井さんのデュオが、ミヨーとテデスコ。そして、キースさんと弘井さんのデュオが、ヴァーデリイー(Verdery)とピアソラ。初めで聴く曲が多いのに、そしてヨーロッパの古典、近代からアメリカ大陸と日本の現代までを横断して展示するプログラムなのに、この楽しさはなんでしょう。生きる場所によって時代によって、音楽のかたちがちがう/しかし、人が音楽をつくり音楽を演奏する、その原始的な生き物としての衝動は変わらないのです。モーツァルトが生きた時代、音楽の中心はイタリアでした、現代はどうでしょう。個人がインターネットを通じてメッセージを世界に向かって発信できる時代です。創作が潮流などではなく、深い孤独のなかから生み出されるべきだとすれば、私たちがそれぞれに生きでいる場が中心です。そんなことを考えたコンサートでした。
若い二人の演奏家による、創意と発見にあふれる音楽会でした。黒衣に徹した大井浩明さんは、ちらしの表からも名を隠し、裏に小さく回る始末。しかし全体のコンセプト、企画と構成は、まぎれもなく彼の主導による合作でした。音楽家のほかの誰がチョーサーの原文を引用できますか。冗談の中の真実。真実はあまりにデリケートで壊れやすいものだから、 人はしばしば相手を笑わせながら鋭い針を忍ばせます。素裸で人前に立てる真実はよほどの肉体を持つ真実であり、芸術作品で語られる真実は例外なく「低き声にて語れ」の伝統があります。心の真実だからです。 狙いはこうです。大井さんが書いたちらしの文を引きます。
これは、たしかに壮大な冗談のような演奏会の狙いです。 結果は楽しみのつきない音楽会になりました。人をうっとりさせるのではなく、人の眼を醒まさせる、まさに現代音楽がそうあるべき音楽会。新古典主義、あるいは擬古典主義のストラヴィンスキーが始まったとたんに、ピアノの音色が響かない古楽器のごとく歌われ始めました。本歌の響きのよみがえり! ロシアの芸術家にはイタリアヘの憧れやみがたいものがありますが、こんなふうに演奏されたらストラヴィンスキーは血相を変えて怒って帰るか、満面に笑みを湛えてブラヴォーを叫ぶか、二つに一つです。他はありません。 ドビュッシーの優雅さは、ボードレールやマラルメの優雅に似ていると思います。ボードレールもマラルメも、内面は地獄を生きていました。寂しさと爆発が瞬時に交代するから、造形は堅固なものにしなければ。ディアギレフがニジンスキーを連れてロシア・バレエ団の公演をしてパリが沸いた数年間、パリは歴史上おそらく初めて「音楽の都」になりました。そのときの作曲家のスターは、胡散くささにも欠けてはいないストラヴィンスキーでした。『春の祭典』の音楽が難解で、聴衆が怒って指揮者モントゥーの背中に卵をぶつけるほどの「大受け」でした。ドビュッシーの作品もニジンスキーの台本で『遊戯』があるのですが、ドビュッシーは華やかな興業作品はどうも向いていなかったようです。オペラを書いても『ペレアスとメリザンド』。あるいは神秘劇『聖セバスティアンの殉教』。いやになるほど娯楽の要素に欠ける作曲家は、最晩年に新古典主義、擬古典主義と呼ばれるべき『6つのコンセール』を構想しました。6つの異なる楽器のための曲集。『チェロ・ソナタ』は最初にできたもので、『フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ』と『ヴァイオリン・ソナタ』までが完成されました。ラモーやクープランに流れる、わび、さびの空気。優雅な狂気。 ブラームスの『チェロ・ソナタ第1番』の本歌、J.S.バッハの『フーガの技法』から二曲を大井さんが弾かれ、主題の「反行形」や「鏡像・倒立形」の面白さと不思議さを聴き、いよいよブラームス! じつは最近、ブラームスがおもしろくて仕方ないのです。ひところはシェーンベルクにのめりこんで調べ直していました。そのシェーンベルクがブラームスについて言及していたことにも魅かれました。1933年、ブラームス生誕100年祭で彼は「ブラームスの芸術は過去の反映であるばかりでなく、作曲技法の面で根本的な改革をなしとげたのだ」と敢然と主張しています。若きブラームスを発見したのはロベルト・シューマンでした。20世紀に再発見したのはアルノルト・シェーンベルクで、彼はブラームスが音楽を単位要素に分解し、それらを組織的に組み上げて曲を作っていたことを発見したのです。これは、現代音楽の技法の芽吹きにほかなりません。シェーンベルクが管弦楽用に編曲したブラームス『ピアノ四重奏曲 第1番 ト短調 作品25』は、偉大な先輩への美しい頌歌です。「節約、それでいて豊かであること」を、彼はブラームスから学んだ一つに挙げています。第一楽章の冒頭の主題は、たった一小節の四つの四分音符をもとにして組み立てられているのであり、その主題をもとにして楽章全体が展開されていくのです。 バッハもまた、『フーガの技法』では徹底的な「節約、それでいて豊かであること」を実践しました。明るくもなく悲しくもない曇り空のような主題は、それだからこそ反行や鏡像・倒立などの変容に堪え得て、豊穣きわまりない音楽の時空間を構築していくのです。 じっさい、当夜のブラームス『チェロ・ソナタ』はおもしろかった! いても立ってもいられないほどの喜びを感じていました。頭のなかではブラームスが鳴り、バッハが響く。そして私はひそかに、シェーンベルク万歳!を叫んでいました。 (Style and Idea,
Arnord Shoenberg / University of Calihornia Press のなかのp.398 "Brahms the Progressive" と、p.172 "National Music (2) "に上記のことが書いてあります)。
イェルク・デムスさんを初めて聴いたのは、もちろん、LPレコードで、でした。小学校6年のとき、父は会社の仕事で海外出張をすることになって、わが家には、香港の新美公司で父が買って帰ったドイツ・グラモフォン盤が数枚ずつ増えていきました。時は1964年12月。カラヤン/ベルリン・フィルのベートーヴェン「第九交響曲」「第八交響曲」の、あずき色のカートンボックス2枚組と、香港の代理店のおやじさんにプレゼントされた、マルケヴィッナ/コンセール・ラムルー管弦楽団のベルリオーズ「幻想交響曲」が最初の収穫でした。父も私も引き込まれ、とくに「幻想」は何度も何度も聴きました1960年代いっぱいが父が海外出張にあけくれた年代で、その時代の独グラモフォン盤は父との思い出もあり、終生手放すことはないでしょう。シュナイダーハンがあり、ケンプがあり、フルニエがあります。そしてごイェルク・デムスさんとシューベルト四重奏団のシューベルト『ピアノ五重奏曲・鱒』があります。 シューベルトを聴いている聞は、シューベルトがいちばん好きな作曲家になります。いや、なにも聴いていないときでさえ、シューベルトの音楽はいつも体の中にあります。いちばん身近に思う、と書くのが正しいでしょうか。1960年代、ワルター/ニューヨークの「未完成」が、この世で最も美しい音楽だ、と中学生の私は思っていました。寂しさが懐かしさにかわり、悲しさが美しさにかわっていく変転自在な転調こそ、音楽の神秘でした。歌は、ハインリッヒ・シュルスメスの日本グラモフオン盤が好きでした。デムスさんの「鱒」とアマデウス弦楽四重奏団の「死と乙女」が、シューベルトの室内楽の初体験でした。さわやかな「鱒」と、激しい悲劇性を帯びた「死と乙女」。当時は年を取った近親者が相次でなくなっていく時期だったので、不吉な感じがする「死と乙女」よりは、よく「鱒」を聴いていました。 シューベルトとデムスの間には、なにもありません。およそなにか効果を狙うとか、頭で考える必要もなく、すべてがありのままのシューベルトとして音が生まれ、歌い、青い空へぬけていきます。 毎年の春、デムスさんはサロンに来られます。サロンのハンブルク・スタインウェイを気に入ってくださり、プログラムもお世話の鈴江比沙子さん、をまじえて三人で決めています。今回はベートーヴェンのピアノソナタ
第27番 作品90が、まず決まって、次にシューベルト、そしてモーツァルトと一瞬で決まりました。デムスさんは意外にも「ハンマークラヴィア」を弾かれません。デムスさんはロマン派です。ドビュッシーを弾かれてもロマン派になります。今回のシューベルトにしても、子供のころから何回弾いてこられてきたことか。余分なものを削ぎおとしても、なお人間の心が満ちあふれてきます。モーツァルトのK330の第二楽章はため息のような歌の楽章。ベートーヴェンの第二楽章もつきることのない泉のような歌の音楽。 デムスさんは作曲もされます。つい今しがた、二枚組のCDが送られてきました。ホフマンスタールの「愚かものと死」に曲をつけられた大作です。日本での発売を願います。
世の中にはあまりに名盤が多くて、いつ果てるともなくSP、LPのレコードコンサートを続けています。エジソンやベルリナーが発明した音を記録、再生させる機械や蝋管、音盤が発明されてから100年余。私の領分は、1920年代のビクター「片面の赤盤」からこちらの平円盤に限られます。それにしても豊穣な質と量。むかしは貴重なものでしたから、吹き込む音楽家も聴くほうも、片面4分半にものすごく集中していました。現代はボタンひとつで70分鳴ってくれるCD、iPodだと最長20時間鳴ってくれる(2006年7月現在)時代ですから、音楽の聴き方もずいぶんと変わってきたものです。 片面の収録時間が25分前後というのもおもしろい。ハイドンやモーツァルトの名曲がすっぽり収まる長さです。私はクラシック音楽をBGMとして聴く習慣がなく、家でもいちいちターンテーブルにレコードを乗せて、真剣に聴き:こんでいます。そのほうがいろいろなものが見えてきて、おもしろいのです。最近の再発見はブラームスの室内楽やピアノ曲で、おもしろくて仕方ありません。さて、レコードコンサートのほうは、折しもモーツァルト生誕250年で、モーツァルトの歴史的名盤を主に楽しんでいます。もう、唸るばかり。 SPのほうではシモン・ゴールドベルクとリリー・クラウスの「ヴァイオリン・ソナタ」もかけました。 表紙について この会報の表紙は、松井美保子さんが描いた『Y氏肖像』の部分です。2006年2月、兵庫立美術館・原田の森ギャラリ一における「こうべ芸文美術展」で展示されました。「Y氏」とは私のことで、他にこの100号の大作に先立つ小さな水彩画を、座像・横たわった像各-一点を個展で展示されました。 画家との出会いはひょんなことでした。
2005年たしか9月の雨降りの夜、芦屋市民会館の一室で「憲法九条の会・芦屋」を立ち上げる準備会があるというので出向きました。駐車場が混んでいたので、少し遅れて部屋に入っていきました。その瞬間から、画家の眼は私に釘付けになったそうです。しばらく経ってから「九条の会」の松本幸子さんから連絡があり、かくかくしかじかと。で、彼女の絵のモデルになることを引き受けたのです。 あのときの服装で、ということでした。あの日の私は、かなり個性を剥き出しにした衣装でした。アリス・アウアアの黒の楊柳カットソーは紐垂れの装飾的なもの。ディオール・オムの黒のコーティング・クラッシュ・デニムに、ナンバーナインの赤アーガイル・チェックのヒップパッチ前と後ろ。パンツの裾を入れ込んだブーツはアンダーカバイズムでした。アクセサリーはクロムハーツ。 開館のときから玄関には石阪春生さんの100号『五人の女J』展示されていました。その絵を小磯記念美術館に貸し出し期間中、松井美保子さんの絵をかけています。両方ご覧くだされば幸いです。「石阪春生展」は、石阪先生の初期の抽象画から現在の『女のいる風景』連作までの全貌が伺える大規模な展覧会です。緻密な構築性にかけた男の絵。いつまでも朽ちない画面を、よくもここまで執拗に描き込み続けてこられたもの!『石阪春生展』おめでとうございます。 |
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2006年 8月 15日 発行 著 者 山村 雅治 発行者 山村 雅治 発行所 山村サロン
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