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世の終わりについて あるいは 深き淵から
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いま私が子供だったら、世界にNO!と叫ぶ。 僕が生きるこの世界は何か。なにこれ。安心できる場所がどこにあるの。 いま、日本では、連日のように子供が殺されています。学校からの帰り道で殺され、塾の教室で殺され、家では親からの虐待を受けて殺される。大人が子供を殺し、子供どうしで子供を殺す。世も末。私たちは地獄の中を生きています。子供が震えながら、おびえながら、毎朝を迎えなければならない時代は、地獄の他に名づけようがありません。ほかの何よりも人間が怖い。人間がいちばんおそろしい。
19世紀の帝政ロシアに生きた作家ドストエフスキーは、大作『カラマーゾフの兄弟』のなかで、イワンに虐殺される子供たちのことを、これでもかといわんばかりに語らせています。私も彼にならって話を子供のことに限定します。「大人は知恵の実を食べ、善悪を知った。しかし、子供たちはまだ食べていないから、何の罪もない」からです。 イワンは語ります。ブルガリアでの反乱のなか、トルコ人は性的快感を味わいながら子供たちを痛めつける。妊婦の腹から短剣で赤ん坊をえぐりだす。母親の目の前で赤ん坊を宙に放りあげ、銃剣で受けとめる。あやして笑わせた乳飲み子の頭を至近距離からぶちぬく。ロシアでは、こっぴどくぶん殴るのが手近な快楽だ。現に教養あるインテリの紳士と奥さんが、七歳の自分の娘を細枝で鞭打っている。父親は枝が節瘤だらけなのを喜んで「このほうがこたえるだろう」とうそぶき、しごきにかかる。鞭を打つごとに興奮し、性的快感を覚え、ますますひどく効き目があるように打ちすえる。子供は泣き叫び、ついにはあえぐだけになってしまう。それが裁判になったとき「この事件は、ごくありふれた家庭内の問題であり、父親が娘にお仕置をしただけの話であります」という弁護士の三百代言を聞き、陪審員たちは無罪の判決をもたらしたものだ。傍聴人たちは迫害者たちが無罪になったうれしさにどよめいた…… もっとすごいのもある。同じくロシアのわずか五歳の女の子を、両親が、教養豊かで礼儀正しく、官位も高い尊敬すべき人士が、ひどく憎んだ話だ。人間の多くは幼児虐待の嗜好をそなえている。まさに子供たちのかよわさが迫害者の心をそそりたてるんだ。逃げ場なく、頼るべき人もいない子供たちの信じやすい心、これが迫害者のいまわしい血を燃え上がらせる。もちろん、どんな人間にもけだものはひそんでいる。怒りやすいけだもの、痛めつけられるいけにえの悲鳴に性的快感を催すけだものなど。教養豊かな両親は、この五歳の女の子をありとあらゆる手で痛めうけた。殴る、鞭打つ、足蹴にして全身を痣だらけにした。そのうちついに、真冬の寒い日に一晩中、女の子を便所に閉じ込めた。夜中にうんちを知らせなかったという理由でだ。その罰に、まず顔じゅうにうんちをなすりつけ、うんちを食べさせたりした。実の母親がだ。しかもこの母親は、かわいそうな子供の呻き声が夜中に便所から聞こえてくるというのに、ぬくぬくと寝ていられるんだ…… もうひとつ、ロシアの古文書からこんな話がある。 19世紀初め、農奴制下のいちばん陰惨な時代の男の子の話だ。ある将軍は二千人もの農奴を擁する領地に暮らし、威張りかえっていた。犬舎には数百匹の猟犬がいるし、百人近い大番がみな揃いの制服を着て、馬に乗っていた。 ところがある日、召使の悴で、せいぜい八つかそこらの男の子が、遊んでいるはずみに石を投げて、将軍お気に入りのロシア・ハウンドの足を怪我させてしまった。将軍は少年をにらみつけて「こいつを引っ捕えろ」と命ずる。少年は母親の手からひきはがされ捕えられ、一晩じゅう牢につながれた。翌朝、将軍は狩猟用の盛装をこらして馬にまたがる。まわりには大勢の人。いちばん前には罪を犯した少年の母親が据えられた。やがて少年が牢から引き出される。霧のたちこめる、寒く陰欝な秋の朝だ。裸にしろという将軍の命令で、少年は素裸にされる。恐ろしさのあまり泣き叫ぶこともできない。 「そいつを追え」。将軍が命令する。「走れ、走れ」と犬番たちにわめかれて、少年は走りだす。「襲え!」将軍は絶叫し、ボルゾイ大の群れを一度に放った。犬どもは少年をずたずたにひきちぎってしまった。将軍は、母親の目の前で犬に男の子を噛み殺させたんだよ。
(以上『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー/原卓也訳の新潮文庫版から自由な引用』)
2
私が『カラマーゾフの兄弟』を読み、可能な限りのドストエフスキーの作品を読みあさったのは17歳の初夏から秋にかけてでした。小学生のころは少し昔に思いますが、17歳の私はすでに今の私に似ていで、ついこないだのことのように感じます。 17歳の私は、小学生の後半三年間から中学にかけて受け続けていた大人からの暴力について、すこしは考える力を得た少年になっていました。あきらかに性的興奮を剥き出しにする大人がいました。 17歳の私が抱えていた闇も地獄も、それが核です。「人はいずれ死ぬ」という事実に慄然としたのは3歳の時に祖母の死に接して以来でしたが、「生きる人間」として解かなければならない問題は17歳の時に自覚して、そのころから「表現」を試みはじめました。詩はそのひとつの手段でした。 現在の世界は、あの時代となにも変わらない。戦争があり子供が死に、戦争がない地域でも子供が殺されている。20世紀末までは、あと30年ばかりあった私の17歳、21世紀になるころには、世界から戦争が駆逐され、国境が消滅し、そのころの国家がすべて世界連邦の州のようなものになっているにちがいないと夢想をたくましくしたものでした。広大な大地に線が引かれていることがおかしい。それ以上に一国のなかで、ベトナムに線を引いたのは誰で、朝鮮半島に線を引いたのは誰で、ドイツを分断したのは誰か。 私は1952年生まれ。ものごころついたら朝鮮戦争は終わっていて、アジア・アフリカや中南米の諸国の革命や独立の報道があいついでいました。そのために流されたおびただしい血については、まだなにも知りませんでした。まず小学校高学年のときに『三光』(光文社刊)を読み、日本軍が南京でなにをやったかを知りました。そして、私が全身に震えが走り総毛立ったのは、ベトナム戦争を伝える一枚の写真でした。戦場で裸の少女が泣きながら逃げまどっている白黒写真。そこには、圧倒的な米軍ナパーム弾の暴力から身をかわそうとして、泣き叫ぶ裸の子供がいで、それは子供のころの僕だ、僕なんだ、と衝撃を受けました。具体的な爆撃がある現実の戦争の下にも私がいて、具体的な戦争なき時代にも、子供たちは戦争を生きているのです。日本の現在の子供たちも、また。
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早乙女勝元さんは、1945年3月10日未明の東京大空襲に逃げまどう13歳の少年でした。彼は、町じゅうを火の海に焼きつくした大空襲を、いまに語り継ぎます。その空襲だけで10万人もの都民の命が奪われました。軍人ではない一般市民を、大人も子供も焼きつくすというのが戦争です。早乙女さんは20歳のとき『下町の故郷』を出版し、作家として立ち、以来、一貫して反戦平和を訴えつづけて来られました。ことにライフワークといえる東京大空襲の語り部としての活動として「東京空襲を記録する会」を発足させ、1975年には5年がかりでまとめた『東京大空襲・戦災誌』が菊池寛賞を受賞しました。
「九条の会」は、2004年6月に発足した市民の会で、憲法九条を激動する世界に輝かせようとする九人の訴えからはじまりました。井上ひさし、梅原猛、大江健三郎、奥平康弘、小田実、加藤周一、澤地久枝、鶴見俊輔、三木睦子各氏の九人です。この動きはたちまち全国に広がり、芦屋でもこの日、結成されました。早乙女さんの講演に先だって、小林陽子さんの歌があり、人形アニメ『おかあちゃんごめんね』(製作/翼プロダクション)が上映されました。原作は、大阪の「戦争体験を記録する会」がまとめた記録のひとつ。当時6歳だった浜野絹子さんの体験をもとに、早乙女勝元さんが一冊の本にされています。 1945年7月10日は、堺の市民にとって決して忘れることができない日。その日、米軍の空襲によって1860人が死に、970人が怪我を負いました。「絹ちゃん」は、いまでも炎の夜を忘れません。
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子供に迫る脅威は、同時に親である大人への脅威でもあります。広島・長崎の原爆を経て8月14日の大阪大空襲(小田実さんは、桃谷の家で200メートル先に1トン爆弾を落とされ、死屍累々の焼け野原を体験した13歳の少年でした)に終結した戦争で、日本は戦争放棄と戦力を持たぬことを規定した九条をもつ憲法を制定し、国際紛争の解決のために武力を行使しないという意志を世界に宣言しました。現在の「憲法改正」の動きは、その意図を、日本を再びアメリカに従って戦争をする国に変えることに照準を定めています。そして、子供たちを「戦争をする国」を担う存在にするために「教育基本法」さえ変えようとしています。出生率が1.29に、年末の発表でまた下がったこともあたりまえでしょう。子供を産んでも、不安ばかりがあるからです。 戦後のベビーブームは、帰還した兵士や空襲をくぐりぬけた若者が結婚し、新憲法を得た戦後の日本に自由を感じ、ああこれで戦争は二度とないのだ、平和なのだ、という安心感があったからこそでしょう。生活は、これはなんとかなるだろうという気分だったと察します。産めよ殖えよ地に満てよ。神ならぬ政治が市民にそういいたければ、絶対に安心して人生の喜びを満喫できる「くに」を実現させなければ、無理です。
愛国心ということばが強制されざるものとして、自然にそういうものを持てる社会にしなければ。この国では、愛国心とは若者を戦争に赴かせるための「奴隷の心がけ」にすぎなかった。大人を戦争に協力させるための便利な「餌のついた拘束具」にすぎなかった。 まず、生きている自分がいて「生まれてよかった」ならば、自分を愛し家族を愛することができるでしょう。そして周りにいる人たちを愛することができれば、自然に「くに」を、郷里を愛するようになります。他国の誰かも同じように感じているにちがいない。誰が他国のそんな誰かを殺しに行きますか? だから、私の理解する愛国心とは、戦争を起こす心の対極にあり、むしろどこまでも平和的な手段を貫いて、世界に平和を築こうとする心と意志のことにほかなりません。私にはそういう信念がありますから、戦争には協力しません。そのことが時の法令違反ならば、日本は私を牢屋にぶちこめばいい。あとは日本の問題です。
1995年1月17日、阪神淡路大震災に被災しました。あの日に生まれた赤ちゃんも、すでに小学校5年生の3学期ですね。この間のすべての私の関わった市民運動については、先ごろ上梓した『これは人間の国か』(市民=議員立法実現推進本部編/リブロ社刊)という本に、すべて記録をまとめました。いま世間を騒がせているのは、マンションなどの耐震強度偽装問題ですが、該当住居を取得した人たちに「公的支援」を行なうことになりました。その「公的支援」あるいは「公的援助」という言葉を10年前に叫びはじめたのが、私たち「市民=議員立法推進本部」などの震災被災者です。私たち市民が政府に向かって「被災者に公的援助を!」と迫り、超党派の議員団とともに展開したその運動がなければ、現行の「支援法」は決して成立しませんでした。 そして、現在、私たちは、いまなお活動をやめず、さらに抜本的な一本化した包括法を理想として「法案」を練りつつあります。 2006年1月17日、午後6時からサロンで集会を持ちます。 日本に住む市民すべてが、安心をもって暮らしでいけること。災害に遭って、すべてを失っても、義援金配布だけで打ち棄てられていた10年前があります。 1998年の現行法成立後も鳥取県など各地の自治体からの公的援助金配布の実績があり、私たちの、棄民にあい、死ねば問題解決だ、とうそぶかれた1995年よりは「まし」な状態になったことは確かでしょう。しかし、まだ「大安心」までは、はるかに遠い。
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市民の意見30 ・ 関西は、大阪を拠点に「市民の政策」を考え、つくり、提起する市民団体で、震災前から小田実さんが代表として活動を続けてきました。私もいつからか、参加者として合流しています。 村山富市旧社会党党首の自衛隊容認以来、なしくずし的に日本は「戦争国家」、それもアメリカの家来としての「戦争国家」の道を進めてきています。大人も若者も政治への関心がなく、目の前のことだけに集中。この国の徹底的な愚民化政策は完成しました。市民がなにも考えなくなるのは都合がいいからです。消費へ向かわせる情報だけが徹底的にながされる。日本人は買い物をする家畜であり、おとなしく税金をしぼりとられる農奴であり、人とちがうことをいえば叩かれるからものいわず、ちがう格好をすれば弾き出されるから隣の人と似た服を着る。すでに内面からの自由さえない
自民一強の時代に、国の行き方がちがうことを訴え示すには、自由な市民の側からの多岐にわたる政策提示が必要です。「反対」だけではなく。たとえば、軍国を推進させようとする人たちの「国民国家」という考え方では、愛国心については「国家があって自分がいる」という思考の回路をたどります。しかし、私たちの「市民国家」では真逆です。まず市民がいて、人間としての尊厳があり、それは誰のものでも尊重されるべきであり、国家でさえもそれを踏みにじることは許されない。そう考えます。私たちが考えている「災害基本法」も、そうした考え方の上にあるものです。
日高六郎さんのやわらかさ、のびやかさは稀有のものだと思います。中国・青島市生まれの米寿を迎えた社会学者は、パリ郊外に住むようになってから15年。久々に帰国され、日程が奇跡的にあい、この会が実現しました。著書『戦争の中で考えたこと』には、戦時下の家族の話が書かれています。「多様を尊重しながら連帯する」という考え方の原点がここにあります。お父さんは保守・伝統主義者でありながら、満州事変は道徳的に間違っていると考えた。弟の八郎さんが家族だけで回し読みする新聞を発行し、お父さんも兄弟も反戦的なことを書いていた。「思想的にはひとりひとりちがいもあった。しかし平和が大切という点で一致していた」とのことです。 日高さんは「靖国問題も憲法改正も国内問題ではなく、国際問題だ」と的確な指摘をされました。中国に住んでいた彼は、日本の動き次第で、隣国の人たちが強い感情を呼び起こすことを知っておられるからです。
日高六郎さんによれば、いま日本は「閉じている」。黒船来航で「開いた」のが「軍国天皇制」で閉じ、敗戦で開かれたはずが、現在再び近隣諸国を見ない閉じた状態ではないか、と。
その通り、日本はアメリカ一辺倒の「鎖国状態」になっているのではありませんか。去る12月14日、ジョージ・ブッシュはワシントン市内で演説し、「旧フセイン政権の大量破壊兵器に関する機密情報は間違っていた」と認めた上で「旧フセイン政権を打倒したのは正しい決断だった」として開き直っています。もう無茶苦茶。もはや論理も倫理もかなぐり棄てたわけですね。これではジョージ・ブッシュは、「あの子が僕を愛してくれないから、殺しちゃった」という女児殺害の塾講師と変わるところのない心「サダムは俺のいうことを聞かないから、やっちゃった」を持ち、戦争に踏み切ったということです。なんたる幼稚さ。なんたる野蛮さ。 大統領就任式で、ジョージ・ブッシュは『聖書』に手を置き宣誓したはずですが、彼本人にいちばんよく似た『聖書』の登場人物は、『ヨハネの黙示録』に出てくる怪物です。彼は世界を破壊する。彼は「殺すなかれ」「偽りの証を立てるなかれ」を含む「モーゼの十戒」を心ゆくまで笑いのめし、イエスの教えの全体を完膚なきまでに愚弄しています。
そして小泉。彼は靖国に祀られる英霊の声に、もっと耳を澄ますべきです。私は靖国に最も近い大学「法政」に通う学生でしたが、休講つづきの時間に靖国へ行き、参拝したことがあります。シベリア抑留帰りの父の戦友もそこにいると思って。そこで私が聞いたのは、圧し殺されたような静かな声。「俺たちは愚劣な戦争に死んだ。俺たちの血と涙と叫びを踏み台にして、日本は憲法九条を掲げる平和国家へと歩みだしたのだ。あなたがたは死んでもその条文を棄てるな」と。それとも彼、小泉は英霊の声に「日本を再び軍国化して、アメリカに追従する戦争国家として蘇らせよ」と聞くのか。聞いたのか。英霊の魂を辱しめているのは、ほかならぬ彼、小泉です。 日本の全体を再び戦争に巻きこませ、戦死するだろう若者を再び靖国に祀るために、まさにそのためにだけ、彼が参拝を続けているのならば、欺隔の参拝だ。兵士になる市民のいのちをもてあそび、アメリカの戦争に殉じた霊を、戦争美化の道具として祀ること。吐き気がします。もともと人霊を神として祀るのは、崇りを恐れてのこと。祀られている英霊たちの魂こそが救われるべきです。
みずからの欲望のために、暴力による世界支配のために、あらゆる虚言妄言を弄しながら戦争を遂行しようとする為政者たち、大規模テロリストたち。あなたがたは児童虐殺者たちの王であるにすぎない。あなたがたには夜が深みへ沈んでいく時間に、ふと声が聞こえてくることがありませんか。見知らぬ戦地の男の子の、銃弾に裂かれた肉の痛さに、歯を食いしばる呻き声。女の子が、家族がみな死んで、ひとりぼっちになってしまって、寂しさのあまり啜り泣く声。あの報道写真のベトナムの女の子が何人もいて、同じような男の子が何人もいて、存在を脅かす強大な力から逃げながら泣く。子供を殺すな。私たちは、みなが親ではありませんが、みんな子供でした。大切な子供。かけがえのない、ひとりの子供だったのだから。あなたがたもまた、子供だったのだから。 (Dec.19.2005)
今期は二つのコンサート。芦屋/西宮とパリを往復しつつ、作曲家/ピアニストの久保洋子さんは着々とキャリアを重ねてこられました。2005年、2006年にはパリヤノルボンヌ大学客員教授を務められます。 日本初演作「イムヌ」(讃歌)は、フランスのサンシー夏のフェスティバルで世界初演されたもの。ピッコロのパートには微分音程やポルタメントが多用されていて、能管のイメージがあります。世界初演作「エクストラポラシオン」は、仏語で推定、演繹といった意味です。曲全体を細部まで構成する西洋音楽と、余白の部分で膨らんでいく要素をもつ日本伝統音楽との融合を試みた作品です。おなじく「ディナミスム」(ダイナミズム)は、外面的な量の力と内へ向かう質の力を融合させることが試みられました。もう、自由自在。技術というものから解放された感さえありました。彼女の師である近藤圭さんの「冷え」を含めて、私は彼ら、日本と西洋の葛藤のなかで続けてきた作曲家の作品の「造形」に、ひたすら目をこらしていました。近藤さんの作品は「序破急」。能楽そのものの美しさ。終演後、お二人に「日本人にはソナタ形式が合いませんね」と感想を伝えたところ、お二人とも破顔一笑して「そうなんですよ」と。 うすうすと感じでいたことですが、キャリアある作曲家二人の朗らかな断言に、胸のつかえがおりた気がしました。第一主題と第二主題の葛藤というのが、どうやら「和をもって尊しとなす」日本人には不向きなようなのです。異論歓迎。語りあいましょう。
クレアリー和子さんが復調され、二年ぶりに山村サロンに帰ってこられました。ヨーゼフ・ホフマンの高弟シーン・ベーレント、ブゾーニの最期の弟子エドワード・ワイスにピアノを師事されたクレアリー和子さんは、SPに聴くパデレフスキーやパッハマンのような音色、ピアノのテクニックで美しい音楽を奏でられます。すなわち20世紀初頭に活躍した大ピアニストたちのピアニズムが彼女の演奏には息づいている。サンフランシスコ在住、ホーリイネームス大学でピアノを教えておられますが、学生たちは幸せです。指のメカニックだけに偏らない、音楽を演奏するための古典的なピアノの技術を学べるのですから。 クレアリー和子さんの交流の広さにも驚きます。フジ子ヘミングさんと親しいことや、かつて田中佐和さんにピアノを教えておられたこと。当日、田中佐和さんもこのリサイタルに来られて、ほどなく電話がかかり、次のコンサートのお話をされたのでした。
田中佐和さんの旧知の男性ユニットBIGBELLは、作曲/ピアノのDAISUKEと、ヴォーカル/ピアノのTAKAOの二人組。ともに大阪音大声楽家卒。2001年にユニットを結成して活躍中。テレビ朝日系『旅の香り時の遊びJIのオープニング曲に「真実の扉」、エンディング曲に「ひかりのかけら」が採用され、東芝EMIから出た『アジアのトップアーティストによる「なつかしく洗練された新しい音楽」』がキーワードのアルバムに坂本龍一、久石譲、東儀秀樹らとともに選ばれメジャーデビューを果たしています。2005年にはNHKホールでデビューコンサートを行ない、ソロアルバム『ひかりのかけら』をリリース。東芝EMIからは『ASIANVISION』として同曲が再リリースされました。 縁というのはおもしろいものです。縁は大切にしたいと思います。
京都の朝倉泰子さんの企画によるコンサートには、いつも楽しみがあります。前に吉田隆子の作品に初めて接し、驚いたのは若林暢さんのヴァイオリンによってでした。あのときはモーツァルトのソナタも美しかった。今回は、珍しい弦楽三重奏、二重奏です。 なかでも、ベートーヴェンの「セレナーデ」は、SPのゴールドベルク/ヒンデミット/フォイアマンの三人による演奏が、録音ともに絶美で、いつか生演奏を聴いてみたいと願っていました。LP もCDも、残念ながらゴールドベルクのチームにとって替わるべき演奏が出てこなかったのです。思うに、初期のベートーヴェンは不当に扱われがちです。作品1のピアノトリオ、作品2のピアノソナタからして、青年の創意と覇気に充ちる若きベートーヴェンの自信作でした。モーツァルト型の天才少年ではなかったベートーヴェンには、時間が必要でした。力を込めた中期を経て、脱けた後期のピアノソナタに、彼は若いときに書いた旋律を用いたものでした。青春のベートーヴェンのいちばん大きなものは「交響曲第1番」「2番」。弦楽四重奏曲は作品18の6曲。私は5番と6番が好きです。ピアノソナタは、どのあたりまでが純然たる初期の作風なのか。「悲愴大ソナタ」以前に限れば、3番、4番、7番が好き。ところで、私が「セレナーデ」を知ったのは、震災後のSPとの出会いのとき。あまりの美しさ、楽しさに、なかば呆然として針を通していった記憶はいまも生々しくあります。
演奏者の紹介を書いておきましょう。ヨンチャン・チョーは韓国ソウル生まれ。アメリカヘ留学。カーティスとニューイングランドに学び、卒業後渡欧。パルムとロストロポーヴィチに学びました。現在はドイツのエッセン音楽大学教授。 ライナー・モークはドイツ・ケルン生まれ。ケルン、デトモルトを経て、アメリカのジュリアード音楽院に留学。カラヤン率いるベルリン・フィルの首席ソロ・ヴィオラ奏者を務めた後、ケルン音楽大学教授に就任。ベルリン・フィル八重奏団のメンバーであり、アマデウス四重奏団が五重奏を行なうときのヴィオラ奏者でもありました。 若林暢さんは、東京芸術大学、同大学院を経てジュリアード音楽院卒。カーネギーホールでのデビューリサイタル以後、国際コンクール優勝、入賞など、大活躍のヴァイオリニストであり、私は彼女のヴァイオリンがとても好きです。当日のプログラムでは、若林さんだけが出ずっぱりで、まさに獅子奮迅の舞台でした。それにしても、内声(ここではヴィオラ)に人を得れば、室内楽は楽しいです。かつてのヤナーチェク四重奏団は第2ヴァイオリンのアドルフ・シーコラが全体をつくっていたし、ウィーン・フィルの全歴史のなかでも、オットー・シュトラッサーが第2ヴァイオリンの首席に座っていた頃が、いちばん引き締まっていたと思います。カラヤンやアマデウスにつながるモークさんは、さすがのキャリア。この人がいるから安心、という存在感でした。
先般のチャリティコンサート以来、弘井俊雄さんのギター演奏を聴いてクラシックギターの魅力に気づいた人は多いのです。いろいろなファンの方から「また聴きたい」という声が寄せられました。そして、待望のギター・リサイタルが実現したのです。 弘井さんと私とのつながりは長く、ほとんどサロンを始めたばかりのころから、互いに被災した震災をはさみ、20年にも及ぼうとしています。演奏会を準備する、しないに関わらず、お互いよくいろんな話をしてきました。街角で自転車の弘井さんを呼び止めたこともあるし、ふらっと弘井さんがサロンに訪れることも何度も。世相から音楽、音楽からボクシングの話と制限時間がなければ、いつまでも話を続けていられます。 セゴヴィアがカザルスやランドフスカに匹敵する大音楽家であることとか、ABM−アルトゥーロ・ベネデッティ==ミケランジェリのピアノ演奏が理想だとか、モハメド・アリとショー・ブレイザー、ジョージ・フォアマンの死闘についてとか、明石の魚棚市場では生きた蛸が歩いてる、とか。すべてが大事な話であり、おもしろい話です。
リサイタルは盛況。そして、私との時間の積み重ね、そこからの感慨を抜きにしても、すばらしいコンサートになりました。お客さまは胸に熱いものを持って帰られたことと思います。バッハは私にとっても弘井さんにとっても「特別な作曲家」。音が響き出したとたんに、涙があふれそうになりました。ああそうか、それが弘井さんのバッハだ、そうなんだそうなんだ、と頷きながら。古典に続く現代のブローウェルでは技巧の粋と、隠しきれない人間の感情がはちきれてきて。ギター音楽の国スペインのグラナドスは、よりギターという楽器の本能のままの音楽を。後半冒頭のフーガにも確信がみなぎった揺るぎないバッハがあり、傑作「黒いデカメロン」三曲の描き分けは正しく「演劇的」であり、ベネデッティ=ミケランジェリのシューマン「謝肉祭」の演奏を思い起こさせました。そして、何度も何度もくりかえし弾いてこられたヴィラロボス! もはや音楽に身を委ねるのみ。ことばなしです。 アンコールのカタロニア民謡「アメリア姫の遺言」も、この上なく美しい音楽。使用楽器はイタリアのドン・ピラーツ。 お聴きになった方、私のいったことは本当だったでしょう?クラシック・ギターは、かくも素晴らしいのです!
毎年黄金週間に坂口卓也さんの企画で開かれているコンサート。今回は、若いころにひとつのバンドとして組んでいた人たちが一堂に会して、独立した「今」の歌をそれぞれに聴かせていただきました。渚にては柴山伸二、竹田雅子の夫妻ユニット。さらに不要なものが棄てられて、真水に洗いすすがれたような楽曲になっていました『本当の世界』は、ますます硬質の輝きを帯びて、磨ぎ澄まされてきています。頭士奈生樹さんの今回は、エレキギターを使ったもの。内面の烈しさをどう表現するか。これは若いときには誰も悩みます。ご一見心優しい外面を持つ人が音楽をやる人間には多いですが、心は野獣。エレキギターが、ここぞというときに吠え、牙を剥き出し、長い年月をかけて身に付けた技術がそのまま表現に奉仕するものとして用いられる職人の見事さ。まちがいなく、それが芸術。 「ことばと音楽」のコラボ作品をつくるにさいして、より古典的なロック以前の音楽にも足場を置かれているかのような高山謙一さんは、ピアノの小池克典さんとともに。選ばれた詞は西条八十、与田準一、野口雨情、北原白秋、巽聖歌たち大正から昭和初期の童謡詩人の作品群。これは意表をつかれました。なつかしく、美しい。『高山謙一 童謡を歌う』は、ぜひ残されるべきです。ただひとり2001年の詩人、深水扉で、高山さんの筆名ですか。
以下記録のために河野保人さんの公演は今年で終了とのこと。長いおつきあいでした。
音盤の楽しみはつきません。小学生のころからLPやEPを聴き続け、震災を期にSPにめぐりあい、1980年代なかばからのCDを併せて、音盤100年の歴史を飛びまわり、豊かな花園に遊ぶ蜜蜂のような毎日です。もっとも蝋管や縦振動といったSPでも最初期のものは持っていませんが、ヴァーグナーの『ニーベルンクの指環』初演に参加したリリー・レーマンの歌声や伝説の大ヴァイオリニスト、ウジェーヌ・イザイの小品などを耳にするとき、19世紀はついこないだのこと、と感じてしまいます。 レコードは偉大な発明。エジソンとベルリナーは永遠に称えられるべき人たちです。反面くりかえして聴かれるから、刻まれる演奏にはノー・ミスが求められ、作曲と演奏の分業が進んだのだ、という説があります。たしかに昔は作曲家は自作自演で新曲を発表していたものでした。そしてレコードには、そうそうたる大家たちの名演奏が豊かに残っています。同曲異盤についてファン同士で語りあうのは楽しいものです。 しかし、名演奏に順番をつけたりする趣味は、私にはありません。どの演奏にも、その人にしか出せない響き、音色、楽器のバランスなどの鮮やかな個性があれば、私はそれを楽しみます。もともと、どちらかといえば作曲家を聴く耳のほうが優先されていたので、演奏は最低限度の技術があればいいと思っています。 そんなわけで、延々とこれからも、よろしくお付き合いくださいますように。
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2006年 1月 1日 発行 著 者 山村 雅治 発行者 山村 雅治 発行所 山村サロン
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