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震災10年の8月に 1 いまでも容易にあのときのこと、1995年1月17日の朝がどんなふうだったかを思い出せます。私だけでなく、被災地にいた人だったらみんなそうでしょう。数日後に「阪神淡路大震災」という名前がつけられたあの地震に直撃されたことを契機に、私は新しい命を生き直してきたようです。 直前に目が覚めていました。突き上げられれば、あとは自由がきかなくなり、蒲団の中で激震を耐えるだけでした。揺れが収まれば、本やCDが体に山のごとく覆い被さっていました。部屋の外へ出ようと思っても落ちた本が開閉の邪魔になって、なかなか脱出できませんでした。細い隙間ができると強引に擦り抜けで、妻と小学校一年の娘がいる寝室へ。その夜は偶然、北のほうのベッドで二人が寝ていて、南のほうに娘がいつものように一人で寝ていたら、本棚に頭を直撃されているところでした。私が声をかけたときにも、なおまだ妻は娘の体の上に、娘を護る母の姿勢のままでした。地震やな。怖かったね。そんな短い会話のあと、とりあえず家族の早い朝が始まりました。そのあと私が何をしたかというと、いつものように洗面所で顔を洗い歯を磨きました。まだ、水が出ていたのです。 だんだんと明るくなり、家の中が見えてきました。階段の踊り場の本棚が傾いて、容易に階下へ下りられない。だいたい、本がありすぎ!一階の居間へ下りても、本棚といわず食器棚といわず、背の高い家具が軒並み倒れています。観音開きの飾り棚からは、中のものが全て落下、台所の食器も落下、そして破砕、散乱。スリッパよりも、運動靴が、私たちには必要でした。 寝たきりの父は無事か。飛び出して母屋へ向かうと、南北に走る白い分厚い塀が東側へ見事に倒れて、家が丸見えになっています。離れには、父と付き添いのおばさん。おばさんは小さな体で、倒れて傾いた本棚を支えていました。そのまま倒れでいたら、父は頭を直撃されていたはずでした。父は鼻の下に小さな傷。まず何かが落ちてきて、やられた傷。それで済んでよかった!その本棚を元に戻し、こちらの無事を報告。帰りに母屋の居間の景色を眺めれば、電子レンジと大きなテレビがどすん、と垂直に落ちていました。それらを元に戻して家に戻り、サロンヘ行くことにしました。 いつものように白シャツにネクタイを結んでいると、妻がいいました。「今日はスーツと違うよ」。平常に仕事の日々が続くことを、それでも私は希望していたのです。適当なものに着がえて、車ではなく歩きで、私はサロンヘ向かいはじめました。妻と玄関へ出ると、向こう三軒両隣の人たちが揃っていました。みんなの無事を喜びあうものの、事態がよく分からないので、車を道路に出して、そのカーラジオから流れてくる報道に耳を傾けていたのです。 その日は第三火曜日。芦屋ユネスコ・レディースの催しが開催される日でした。家から坂を下りて、山手商店街を西へ。どの店も扉は閉ざされていたようです。阪急芦屋川駅までは西山町の町内です。本屋の奥さんが本がみんな落ちて汚れて、と嘆かれ、古い家の屋根や安楽寺の山門の屋根が落ちていましたが、まだ町内は、ましだったようです。月若橋を渡り芦屋川を越えると松ノ内町。東西の道路に大きな石灯寵の頭石が落ちています。のみならず、一階がつぶれて二階が一階の高さになってしまった家があります。まだ寝間着姿でその家の玄関にたたずみ、私には見えない誰かとことばを交わす女の人を見て、胸が締め付けられました。 2 サロンが3階に入るビル、JR芦屋駅前のラポルテ本館に到着したのは9時半ごろ。西側の通用口の自動扉が開けたままになっていて、そこから入りました。エレベーターはいつもなら使えますが、通電なく動かぬまま。階段を上がり3階へ行けば、廊下が濡れています。サロンの北側の壁の掲示板が落下して、壁の傷跡がめくれています。サロンの扉は開いていました。左手の喫茶部のガラスの食器の破片が足下にあり、不思議に思って奥を見れば、観音開きの食器棚の中身がすべて落下、破砕、散乱!固定されない動くものは、すべて動いて、あるべきところにありませんでした。 ホールを覗けば、なんと檜の能舞台の上にピアノを乗せるための敷板が、これは一枚が畳大で、かなり重いものですが、二枚が北側に落下していました。地震の凄さ。その瞬間、万物は突き上げられて、横揺れの幅の広さの向こうに落下する。ピアノは、残りの板が不思議に立体に組み合わさって、その狭間に脚が固定され、奇跡のように無事でした。壁面の鱗(ひび)は、空調機が飛び出してできたもの。天井にも罅。白熱球部分の照明器具がだらしなくぶら下がり、寄せ木の床にも目地が広くなったところがあります。そして、ミキシングルームの音響機械が、スチール棚の大きな傾きによって全面的に破壊されていました。しかし、これでもホール中央の建物の天地を貫く太い柱によって、大きく救われていたのです。 当日は、芦屋の女性たちが講師を招いてお話を聞き、そのあとで会食をする催し。私より先に準備に来ていたのは、料理担当の北浜・花外楼の面々でした。会食の卓に並べられた一人づつの会席盆は、ずれていても一枚として落ちていませんでした。料理長の嘉手刈さんが現れました。「今日は無理です!」と、隣接した花外楼のガラス壁が砕け散っているのを私に見せ、大きな眼を開いていいました。 10時きっかり、ラポルテはただいまから開業いたします、と機械的な録音の声のアナウンス。どこか、営業をはじめる店があっただろうか。下へ行くほど水浸しなのに。 今日はできないことをお知らせするために、お客さまへ電話をかけるが不通。スタッフも誰も来ないので、心配になり電話するも不通。料理長と話をしていると、調理の松本くんが肩で息をしながらやってきました。凄いことになっています。人が埋まってるんです。さっきまで助けていたんです! 彼の話を耳にして、私はようやく事態が飲み込めてきました。料理よりも大事なことがあるから、松本くんは手を泥だらけにしていたのです。彼は5時すぎには店に入り、料理の仕込みをしていました。地震のそのとき、サロンにいたのは清掃会社のおばさんと松本くんら調理の若いスタッフ。喫茶のテーブルの下に隠れて収まるのを待ったおばさん。松本くんらは、いったん国道2号線に近い寮に帰り、その被害の大きさを目の当りにし、そして見知らぬ人の命のために戦っていたのです。 心配ばかりが募ります。親戚にさえ電話がつながりません。気分を落ち着けるために、コーヒーを飲みたくなりました。隣のホテルヘ行こうとしましたが、すぐに「待てよ。どこも同じだ」と思い直しました。どの電車も不通。 JR芦屋駅もつぶれた。いろいろな情報が、帰り道に人と会うたびにもたらされます。口コミの情報は、おおむね正確なものでした。その後の配給情報も含めて、です。 3 震災の朝から4日ばかりは芦屋にとどまっていました。寝たきりの父と付き添いさんのために水を確保し、下を洗うのにお湯がいるというので煉瓦を組んで即席のかまどを作り、小枝や枯れ葉を燃やして、大きな薬罐(やかん)に湯を沸かす作業。町内のお宅で井戸が開放されていることを知り、それにはずいぶん助けられました。そこへ水を汲みに行く作業とお湯を沸かす作業は、もちろん一日に一度では足りません。薬罐も私も煤(すす)だらけ。足が張り、腰を痛めてしまいました。サロンヘは17日の朝と翌日も行くには行きましたが、誰にも会えず。玄関にメモ帳と鉛筆を吊るして、そのままにしていました。前面の掲示板も落下したまま。 最近は私の外見が話題になるので外見のことを書けば、あの頃は黒いジーンズに黒のとっくりセーター、黒のレザーのフード付きショートコートが、散乱した寝室の手近にあったコーディネートだったので、毎日そればかり。底の厚い運動靴をはいて、始業時の10時前にサロンの惨状を見に行ったときもそうだったし、「関連死」を遂げた親類の葬儀にもそのまま参列しました。あのころは服装にかまっていられたのは、運よく服を収納している部屋とクローゼットに激震が及ばなかった人です。 また、水が出ないので風呂がない。髪も長い間洗えませんでした。おまけに髭ぼうぼう。父と付き添いのおばさんの疎開病院に快諾を得た5日目に、西山町の自宅から阪急西宮北口まで妻子とともに三人で歩き、地下鉄と南海線を乗りついで、疎開先の堺の妻の実家へようやくのことで辿りついたとき、義母の第一声は「まず、お風呂へどうぞ!」でした。 ライフラインの回復は、まず電気。これは早かった。リビングで寝ていると冷蔵庫のモーター音が響いてきて気づきました。水道の復活は2月になってから。ガスが復旧したのは3月なかばで、家で風呂に入れるようになってから、すでに1月25日に芦屋へ戻っていた私は、妻子を芦屋に呼び戻したのでした。 地震の前の日までは、私の髪はベリーショート。整髪料で立たせているのが好きでした。そしていかにもサロンの主らしく、びしっとスーツを決めていました。暑くてもやせ我慢のネクタイ。青年実業家に見える人には見えたはずです。 地震は、しかし、私のまとっていた外皮を徐々に剥ぎとってくれたわけです。春になり夏になり、秋を迎えれば私は長髪になっていて、鏡を見れば学生時代の私がそこにいました。このほうが、私は私自身でいられる。地震以来、まず散髪しましょう、という気持ちが日に日に薄くなっていたのは感づいていました。そして、ついには消えてしまいました。 私が私自身でいられる、という気持ち。地震前の私も私自身であるにちがいなかったのですが、どこか自分を社会人として見せようとする気持ちが「短髪・スーツ」の外見を選ばせていたようです。 しかし、本来、私はボヘミアンです。詩を書く少年であり、音楽や絵も好きな青年でした。半壊のサロンにたたずんで一つの時代が終わったことを知り、2月2日にサロンで小田実さんと再会し、「同じ怒り」を共有していることを知ったとき、私は次に何をすべきかが閃光のように見えた気がしました。私が私自身として。 市民運動は未知の航海でした。しかし、山村サロンは文化の市民運動にほかならず、いわば領域がぐんと広がっただけ。民主主義を実現する戦いは、思想を現実化する動きといえるから、市民=議員立法の運動は、大きな文化活動でもありました。 4
前段階として、市民救援基金の運動がありました。 1995年、震災直後の1月24日付の毎日新聞紙上で、小田実さんが提唱。その翌朝の25日に、私はJRが復旧した芦屋へ戻り、不在の小田さん宅を訪ねています。基金を集める期間が過ぎた春から、具体的に「行政の隙間」へ配分する運動を開始。ラポルテ本館は半壊認定。立入禁止の工事期間中、私の責任で音楽会を開きもし、1月27日からスタッフと定期的に集まったりしていたものの、サロンの仕事は物理的にできなかった。収入も途絶。会社としては建物修復の区分所有者としての割り当て分と、個人としての自宅修復の金額と、それから生活費をどうしようかと思案投げ首。 しかし、気持ちがあり体が動くから、その運動はやりがいがあったし、それまでは決して知ることがなかった世界をくまなく知ることができました。 翌1996年3月に「阪神淡路大震災被災地からの緊急要求声明」を出し、その会を結成。5月に、被災者に公的援助をおこなう法律がないからできないのなら作れ、の趣旨で、小田実、早川和男、伊賀興一、私の四人で市民立法を創案。それを国会で成立させるには議員立法と重ねあわせる必要があるから、議員に働きかける「市民=議員立法実現推進本部」設立。 以後、活動2年半を経て、憲政史上初めての市民発案から生まれた法律「被災者生活再建支援法」が成立。不足不備、矛盾を抱えたままのこれを越えて、さらに抜本的、総合的な災害救助法が必要だと、震災十年の節目の日に集会で素案を提出しました。 活動十年総括の本が出ました。
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震災の前年、1994年に母を亡くしていました。父は震災後、なお生き延び、なだらかにたそがれていき、母はもういなくなったにもかかわらず、そして葬儀のときに大泣きに泣いたにもかかわらず、「2階にいるから呼んできて」とか、見舞いの別れ際に「おかあちゃんによろしくな」というのが常でした。ほんとうに辛い事実は、意識さえも記憶さえも、なきものにされていく。これを「ぼけ」と呼ぶならば、「ぼけ」は、誤解を恐れずにいえば、賢者の心の働きに似ています。深淵が足下にあれば飛び越えてしまえ、ということです。 しかし、そんな父にも、ものすごい形相と声でうなされる寝顔がときにありました。8月が来るたびに「戦争はあかんで。どんな戦争もあかん」と私が子供の頃から、徴兵体験者として、終戦後に3年間のシベリア抑留体験者として、くりかえしいいました。凄惨の極だったにちがいない抑留体験のことを、父は少しばかりしか語ってくれませんでした。 雪にまみれて重くなった堅いサッカーボールでサッカーもできた。バターや煙草が手に入ったら嬉しくてな。寒いときは胸を張ったほうが寒くないんや……。 私の体験では、女はなにもかもを誰かにぶちまけてから、おさらばする。男は、いえないことのすべてを墓場の下まで持っていく。あの形相と呻き声は、まさに地獄でした。 ベトナム戦争の頃、私はまだ子供でしたし、芸術や文学に深く耽溺していましたから、「べ平連」には参加していません。ついでに書いておけば、大学進学後も学生運動は、内ゲバ(セクトどうしの抗争で、学生どうしが殺しあう)の退廃期で、いっさい参加せずです。しかし、家には「週刊アンポ」や「朝日ジャーナル」、「世界」があり、河上肇、三木清など古い本の下の段に羽仁五郎、久野収。その隣に新書本がずらっと並び、そのなかに小田実さんの本がありました。「何でも見てやろう」は、当時、本を読む人がいるすべての家にありました。父は、それ以外の小田さんの本をも読む人でした。そして私は、父の書架に並ぶ本を読むのが好きでした。京都大学でマルクス経済学を学んだ父は、加藤周一と同じ未年で親近感を抱いていたし、佐伯彰一とは旧制富山高校の同窓生でした。 さて、上記集会には、当時「ベトナムに平和を!市民連合」(べ平連)に参加した人たちが多く集まりました。鶴見俊輔さんの呼びかけで小田実さんが参加、代表として活動された「べ平連」は、志あれば一人でも「べ平連」を名乗り活動してもいいという、革命的に自由な気風を持った市民の連帯でした。脱走兵をかくまい、逃がす運動は、のべ何人の人が関わったのか。 鶴見俊輔さんは「不良少年」だったとよくいわれます。私もそうですから、共感します。小田実さんとともに、現在は「憲法第九条を激動する世界に輝かせたい」とする「九条の会」を結成されています。平和は平和的な手段をもってしか達成されない。父がいまも元気ならば、私の活動を後押ししてくれていたことでしょう。
西宮市在住の作曲家/ピアニストの久保洋子さんとは、もう震災前からの長い交流を楽しんでいます。震災のその朝、揺られて目覚めた久保さんは、天井の代わりに空が見えて、足が動かなかったといいます。そして、その後どうされたかというと「仕方がないから、また寝た」と。音楽会の日には、久保さんのご両親、妹さんとその夫君と小さな息子さんの総出で来られます。スケールの大きい「お姉ちゃん」である久保洋子さんには、仲がいい家族があり、住居の復旧も音楽会の再開もご家族が一丸となっての十年の成果にちがいありません。ご両親が健在であり家族の仲がいい、というのは幸せなことです。もはや両親ともに亡くしてしまった私は、つい「失われた時を求めて」、どこかに私の両親の影をさがしています。 今回の久保さんの初演作は「グロット」。鍾乳洞という意味のフランス語です。情景描写ではなく「年月をかけて常に変化し続ける生き物から感じられるエネルギーを音を通して表現したい」とコメントされています。久保さんの音楽を、第三者としては私がいちばん身近に、かつ継続的に聴いている人間だと自認します。最初のサロン登場の時の「ピアノ・リサイタル」は、若い芸術家の奔放な才気にあふれたもの。プリペアド・ピアノあり、鍵盤下の板を叩いたり、かけ声あり。放胆な狂気さえ、派手に大きい花のような袖のドレスをまとった作曲家/ピアニストは見せていました。 お互いに、あれから同じだけの年月を過ごしました。やはり久保さんの音楽も震災を契機に変容を遂げました。才気よりも技術よりも、より生きている人間の「いのち」に近い音を、耳の外からではなく、体の中に探っているかのような音楽が流れはじめました。 たいせつなことだけを書く。もはや大きく見せる必要がないから、音符の数も少なくなり、結晶のような、あるいはきりりと輪郭を結んだ花のような作品が、香気をともなって鳴り響きます。旋律を出すことを怖がらない。和声が響くことを恐れない。無調も調性も自在に行き来し、音が内発的にいのちの呼び声に従って発展していくさまは、これこそが世界水準の音楽といえます。久保さんの音楽は日本でよりもフランスで評価され、パリの Editions du Petit Page からクラリネット曲が発売中。同出版社から室内楽曲集の、 Editions Combre からUFAMI国際音楽コンクールピッコロ部門課題曲≪Hymne≫の楽譜が近日に発売されます。 久保さんの日本での師匠である近藤圭さんのピアノとフルートのための≪OKINA≫も Gerard Billaudot, Editeur から発売されています。近藤さんは、日本の伝統芸能の音と西洋の音とのはざまで戦ってきた息の長い作曲家。初演作「伝統と構造[」は、日本の美意識
−縦に構築するのではなく、横に拡がる− を表現した作品。男性的な造形への意志が、私にはいつも居心地よく響きます。音楽もやはり造形作品です。
リスト協会のリヒャルト・フランクさんのご紹介で、ドイツのピアニスト、アンドレアス・ヘンケルさんのピアノ・リサイタルを開くことができました。 ヘンケルさんの演奏は、まずフランクさんから送られてきたバッハのCDをMDにダビングしたものを試聴して、響きの透明な清潔さに驚きました。1967年にザクセン州フライベルクで生まれ、ドレスデン国立音楽大学を卒業。バッハとベートーヴェンをレパートリーの中心にしている、文字通りの「ドイツのピアニスト」です。 とはいえ、ベートーヴェンのピアノ曲を教えてきた偉大なピアノ教師のひとりが、フランツ・リストその人。プログラムは有名曲を織りまぜて、しかもヘンケルさんの音楽性を鮮やかに展示する内容になりました。 バックハウスとケンプが生きた時代が終わり、音楽界は彼らの次の世代のドイツのピアニストの出現を待ってきました。リヒター=パーサーは途なかぱで倒れ、エッシェンバッハは指揮者に転向。サロンではシュマールフースをたびたび招いてベートーヴェンを弾いて頂きましたが、彼は残念なことに日本ではあまり有名ではありません。 それにしても、1960年代なかば以降、アルゲリッチの衝撃的な出現やポリーニの再デビューの独グラモフォン盤以来、ピアノ音楽のまんなかにあったベートーヴェンが外れてきたようです。ポリーニは技巧のデモンストレーションとしてベートーヴェン後期のソナタはLP時代に弾きましたが、アルゲリッチはわずかに協奏曲が一曲あるだけでした。以後、ショパン・コンクール優勝者および、落選したもののアルゲリッチに「彼は天才よ」と叫ばせたポゴレリチらが、レコード・リリースの一線に並ぶことになります。 そのドイツ・グラモフォンでベートーヴェンの全集を、ケンプの次に録音したのが南米出身のバレンボイムでしたが、さっぱり評価されず、むしろ当時ソ連のギレリスの連続録音のほうが優れていました。デッカは、バックハウスの次にベートーヴェンを全集で録音 したのは、西へ亡命したソ連生まれのアシュケナージ。両レーベルともに、ドイツ人ピアニストの影さえありませんでした。 教会や貴族に隷従せず、音楽史上初めて徹頭徹尾「市民」として生き抜いた作曲家ベートーヴェンは、アルトゥーロ=ベネデッテイ・ミケランジェリによれば「オランダの作曲家」、またベートーヴェン自身も当時の音楽の本山だったイタリアの人間に擬してルートヴィヒをルイージと書き替えたこともありますが、それでもやはりベートーヴェンのソナタを上手に弾くドイツ人のピアニストはいてほしい。ダルムシュタットのシュマールフースは「ドイツでさえ『月光』『悲槍』『熱情』ばっかり弾けといわれるんだ!」と嘆いていました。ヘンケルさんは、まだ若い。今後さらに積極果敢にベートーヴェンに取り組み、いずれは「ソナタ全曲ツィクルス」を展開してほしいものです。もちろん、日本では私のサロンで!
次のような案内のことばを、ちらしに載せました。 「1995年の阪神淡路大震災に半壊した山村サロンの、被災後はじめての音楽会は、同じく市内で被災した里井宏次・純子夫妻の呼びかけで開いた、みんなが被災者のチャリティ・コンサートでした。お客さまも、壊れた家からの、避難所からの、着のみ着のまま。 ようやく修復が完了したのは半年が過ぎたころでした。旧知の音楽家が、東京から、アメリカから、ドイツから韓国からサロンを訪れて、つぎつぎと無報酬の義援音楽会を開いてくださいました。もちろん、芦屋市内で被災された弘井俊雄さんとも、ともに立ち上がるために、しばしば音楽会を開いてきました。 今回の呼びかけは、まずギターの弘井俊雄さんからの電話に始まりました。 2004年の後半は、自然災害が猛威を振るいました。たくさんの人が、なお震えながら暮らしています。私たちが1995年に、全国からの義援金で助けられた、そのお返しをしませんか。集まったお金は、新潟の震災被災地へ送ります」。 器楽あり歌ありのヴァラエティ豊かなコンサートになりました。私が話をして会を進行させる例のスタイル。小さなリコーダーにスポットをあてたり、ちょっとした話を聞いていただきながら音楽を。私自身も楽しく、お客さまにも楽しんで頂けました。 現在活躍中の吉松隆のピアノ曲にはじまり、リコーダーとメゾソプラノ独唱。休憩をはさみ、ギター・ソロと混声合唱。山田耕筰のいくつかは、被災後はじめての音楽会にも流れた歌。しめくくりが、タローの最近のレパートリーである武満徹の親しみやすい歌。内容的にも、二度開くのは難しい、いい意味で「なりゆき」の輝かしい成果でした。
藤原晴美さんは震災の前年、1994年11月にピアノで、12月にピアノで「10年に一度のゴルトベルク変奏曲」を、サロンでお弾きになっています。直後の震災時、5日間の疎開から芦屋に戻った1月25日から、知人や友人や昔の先生たちの安否を確かめるために、瓦礫の中を歩き回り始めました。新聞もテレビも見落としているかも知れない。AM神戸で聞き落としているかも知れない。電話は相変わらず運がよくないとつながらないし、自分の眼でたしかめなければ気が済まなかったのです。 青いビニールシートを屋根に覆った私の家は、南面に大きなXクラックが入っていました。芦屋市西山町の家屋の被災は比較的おだやかで、この東西の通りでは全壊家屋は古い空き家の一件だけでした。半壊と一部損壊の家々の通りに、大半の人はそのまま暮らしていました。 国道2号線にまっすぐにつながる南北の道には、国道から北上してくる車が多い。もし会えれば分けあって食べようと思っていた食料と飲物を、リュックに詰めて背負い、黒づくめの服装で南下していくと、阪急電車の踏切を過ぎ、JRをまたぐ橋を渡ったあたりから惨状が拡がり始めます。前田町、そして清水町は全壊家屋が目立ち、国道の向こうの津知町はみんな潰れています。目の前の国道2号線は排気ガスと粉塵にまみれ、東行きの二車線を車がぎっしりと占めて動きません。ほとんど止まっていて、思い出したかのように30センチばかり動く。 信号は役に立ちません。横断歩道にまで止まっている車と車の間を擦り抜けて、津知町へ。そして西へ。あの頃は、被災地から疎開する人は、できるだけ東へ行きました。「武庫川から東は全然ちがうよ。なにごともなかったかのよう」ということ、なんとなくみんなが知っていました。だから、家財と家族を積んで、重い車体を重い気持ちで動かして、東へ向かう。西へ向かうのは、私のような人か、救援が目的の車。 歩きながら、涙が出てきました。津知町はすべてが潰れていました。一階がなくなり、二階が被さっている。その間に赤い蒲団が見える。北の壁が落ちて、居間がまるで舞台装置のように丸見えになり、人がいない。かしぐ鉄筋のマンション。ねじれる鉄の外階段。電柱は45度の傾きをもって壊れた屋根に支えられ、電線が無力にたるんで揺れています。 神戸市東灘区に入っても、瓦礫、瓦礫、瓦礫。救われたのは、大きな交差点に配給所があり、好きなだけ持ってっていいから、と声をかけられたことでした。水が何よりも貴重だったので、水を頂きました。また、すれちがいざまに「これ食べて!元気出して!」と片言の少年に弁当を持たされたことも不思議な思い出です。 田中交差点を過ぎ、藤原晴美さんの啓心館が近くなります。そして、啓心館は倒れず、かしがず、直立していました。東隣の店舗は全壊。私は嬉しくなり、交差点も走って車の列を擦り抜けて渡ったと思います。インターフォンの応答の後、晴美さんと再会。お互い生きていることを確かめあい、笑いあい、飲食物を交換しあって、束の間の幸せをかみしめました。束の間と書いたのは、ほかには悲しいことがいっぱいあったからでした。 さほど頻繁に会わなくても、数年ばかり交流が途切れていても、どこか互いが思いあい、支えあっている、という人間どうしのつながりがあります。親友と名づけるか、盟友とでも名づけるか、自分自身のようにたいせつな人。そういう人が私には何人かいて、藤原晴美さんは、その一人です。 私は藤原晴美さんの鍵盤楽器の演奏が好きです。表に出る自由さの裏側に血のにじむような研讃と意志の力があり、とくにモーツァルトの一夜などは今でも隅から隅まで覚えています。アラ・トゥルカ(トルコ行進曲)の指を引っかけてテーマを弾くあのやり方、最近フォルテピアノを弾いたアンドレアス・シュタイアーの演奏で再現されました。 大バッハの「ゴルトベルク変奏曲」は、晴美さんの「運命の曲」。10年に一回、と決意されて、今回は第4回です。震災直前の「第3回」は、ピアノとチェンバロでそれぞれ全曲を弾かれた、いわば贅沢なコンサートでした。思いの熱さ、打ち込みかたの熾烈さ。真摯な眼差しが一貫した真剣勝負でした。大きな山は見事に征服されたのです。 今回は、別の意味で、とても贅沢な「ゴルトベルク変奏曲」。ピアノ演奏者よりもピアノ教育者としての晴美さんを聴かせる「ゴルトベルク」! まずテーマを晴美さんが弾く。変奏曲は啓心館マスタークラスの生徒たちが替わりばんこで弾き進める。最後のアリアで晴美さんが締めくくる。 リラックス、リラックス。演奏前に、藤原晴美さんはみんなを集めて、心も体も開放すべく、体操を始めます。なにごとかを教えた経験がある人にはお分かりかと思われますが、どんなに優秀な教師も、神ならぬ人間だから、才能を生徒にあげることはできません。しかし、天からの啓示が光となって入りやすくすることはできる。自我に執着する心は演奏には邪魔だから、体からも心からも、暗い自我の影を追い出す。体を開く。心を開く。 かくして紡ぎ出された「ゴルトベルク」は、平均年齢45歳という9人の生徒が交代するたびに新鮮な空気が突き抜け、共通のメソッドを持つから均質のピアノの響きが保たれて、連歌を楽しむように進んでいきました。 私はレコード・ファンですから、この曲の多くの演奏を知っています。 SP時代のランドフスカ、LPのヴァルヒヤ、装飾音を抜いてアリアのテーマを弾いたヴィルヘルム・ケンプ、有名なグレン・グールドの2枚からシトコヴェツキー編曲の弦楽合奏版まで。 それらに伍して、これは真にユニークな「ゴルトベルク変奏曲」の体験でした。誰もこんなやり方を思いつきもしませんでした。 あれから正月が過ぎ、瞬く間に日が経ち、暑い夏です。藤原晴美さんとは再び互いの 「会報」を送りあうだけです。電話をわざわざかけようとも思わないのもおたがいさまです。中元歳暮のやりとりもなく賀状もなくて、ただそれだけ。 便りのないのは良い知らせとか。今度ことを起こされるときには、またお手伝いしますからね!
京都の朝倉泰子さんから電話で、その人の名前を聞いたとき、なつかしさでいっぱいになりました。その人の名は水谷川優子(みやがわ・ゆうこ)さん。 1986年11月にJR(当時は国鉄)芦屋駅前にラポルテ(複合商業ビル)開業と同時に、同ビル3階に山村サロンを開館。翌春からはじめたサロンの会員制イベントとして、東京から優子さんのお父上の水谷川忠俊さんを招いて音楽会のシリーズを開いたのでした。前途有望な若い音楽家の演奏を聴き、水谷川さんの話や演奏家の話を聞きながらディナーを食べる、という企画でした。当時は私の両親も元気でした。 水谷川忠俊さんは、日本の音楽界の草分けの大指揮者、近衛秀麿の子息であり、作曲をされています。当日は長兄の近衛秀建氏の法事のために、芦屋で再会することが叶いませんでした。あの頃サロンにお連れ下さった若い人たちの現在の活躍ぶりを目にするたびに、水谷川さんの眼力の確かさに敬服します。私は大学2年の近藤嘉宏さんを聴きました。樋口あゆ子さんはまだ高校生でしたっけ。いま指揮者として活躍する沼尻竜典さんはサティをピアノで演奏し、野原みどりさん、津田真理さん、三木香代さんの若い演奏も鮮明に覚えています。 優子さんは、そのシリーズの1987年8月と、最終回の1988年9月に登場されています。おじいさまの勧めにより6歳からチェロを勝田総一氏に就いて始められました。桐朋学園大学ディプロマコースで松波恵子氏に学び、1990年ザルツブルクのモーツァルテウム音楽院に入学、ハイディー・リチャウアー氏に師事。ヨーロッパで演奏活動を始め、以後、国内や海外の複数の国際コンクールで優勝と入賞を重ね、ソリスト、室内楽奏者としてオーストリア、イタリア、フィンランドを中心に各種音楽祭に出演。1995年から日本で定期的なコンサートを開くことにして、現在はドイツと日本を拠点において演奏活動中。 ベートーヴェンのソナタ第3番は、試金石のような曲。伸びやかな上向音形を、優子さんはこの上なく自然に弾きだされました。ロトさんのピアノが巧い。音楽の器は完璧にロトさんがつくり、その中を優子さんは自由に泳ぐ。無伴奏のクジェークは、クルシェネークと読んだほうが私の世代にはわかりやすいですが、若いチェリストとしての覇気がみなぎり、ショスタコーヴィチは私の大好きな曲で、実演を聴いたのは初めてでした。 ショスタコーヴィチの室内楽全曲ツィクルスをサロンでやるのは、一つの夢です。優子さんにとっては、20世紀、21世紀の音楽も、ふつうの音楽として捉えられていると思われます。すべてが自然に、あるがままに、それがあるように。このスケールの大きい音楽性は、まさしく近衛秀麿のお孫さんです。
イェルク・デムスさんとも震災の時期をはさんで、長いおつきあいになっています。震災前に初めてデムスさんをサロンにお迎えしたときには、まるで夢心地でした。レコードでしか知らなかった人が眼前に立ち、挨拶を交わして握手をしている現実が幸せでした。 もっとも、私の場合は1950年代の古いウェストミンスター盤のデムス(戦後の若者。グルダ、バドゥラ=スコダ、デムスが「ウィーンの三羽烏」と呼ばれて、将来を嘱望されていました)ではなく、1960年代のドイツ・グラモフォン盤のデムスを聴いて好きになっていたのですが。 その頃、私は小学校高学年、父の会社の部署が輸出にかわり、定期的に香港へ出張することになりました。すでにわが家にはステレオ電蓄があり、ディスク社の「世界名曲アルバム」というソノシートや、歌謡曲のドーナツ盤(クレイジー・キャッツ、坂本九など)のほかに、燦然と輝くばかりのブルーノ・ワルターの「田園」などのクラシックのLP盤がありました。 父は会社の製品を売りに香港へ出かける。そこで会社から出る滞在費を浮かして、レコードを買う、という作戦を立てたのです。初対面のクライアントに好かれる人徳というか愛嬌というべきか、そのようなものが幸いにして父にはあって、ホテルに泊まらずクライアントのゲストルームに泊めてもらい、食事はご馳走になって、出張の回数が増えるごとに持って帰ってくるレコードの枚数が増えたものでした。父はドイツ・グラモフォンに憧れがあったようです。香港の特約店は、当時「新美公司」というレコード店。英語名は Schmidt & company だったと思います。いまでもあるのかどうか。初めて持ち帰ってきたのが当時新録音のカラヤン/ベルリン・フィルのベートーヴェン:交響曲第七番。小豆色のカートン・ボックスに入った同第八番と第九番「合唱」。クライアントの蒙国平さんに頂いたとして、マルケヴィッチ/コンセール・ラムルーのベルリオーズ「幻想交響曲」も、すごく嬉しいおみやげでした。 なにせ私はまだ子供でしたから、なんでも聴いて吸収したい。新美公司のスタンプが裏表紙に押してあるドイツ・グラモフォンのレコード・カタログをためつすがめつ眺めながら、父の出張のたびにリクエストするのです。シューベルトのピアノ五重奏曲「鱒」は、たしか二度目の出張の成果でした。シューベルト四重奏団にピアノ独奏はイェルク・デムス。厳しい戦いの音楽ではなく、ここには親密さと安らぎがあり、これも父と二人でよく聴きました。私は、ふとしたときに過ぎる寂しさの音やかなしみの響きに、はるかなものへの懐かしさやあこがれを感じて、好きでした。シューベルトはいまも好きです。このレコードと、ジェラール・スゼーの歌声、ワルター/ニューヨークの「未完成」が、私のシューベルトの原点でした。 シューマン、ショパンに続いて、デムスさんのシューベルト! もうなにもいうことはありません。音楽の至福の時がながれました。
徳末悦子さんは関西の音楽界の重鎮のひとりで、ピアニスト、ピアノ教育者として長いキャリアを重ねて来られています。サロンでは「ピアノ十文芸」の企画を何回か開かれ、その折の川柳とピアノ演奏にみなぎっていた、みずみずしい感性に驚きました。 今回は、傘寿(数え80歳)のお祝いの会。場内はピアノと川柳の関係者、お慕いする生徒の皆さんで満員になりました。 とくに感心することは、キャリアの古い方が、自国の、現代の音楽を演奏され、かつ、誰も弾かないような西洋音楽を弾かれることです。これは前に横井和子さんのリサイタルについて書いたときにも指摘したことで、そのとき横井さんは高田三郎やスメタナのピアノ曲を弾かれたのでした。 私の中学同窓の秦はるひさんは、横井先生の薫陶を受けたピアニストですから、日本の現代曲もやります。しかし、多くの著名なピアニストは、日本の現代曲や西洋の埋もれた曲を積極的にとりあげようとしないのです。戦前にすでに学生、大人だった世代のほうが、よっぽど「進取の気性」に富んでいます。東京音楽学校(現・東京芸術大学)に、徳末悦子さんも学ばれましたが、学校の気風も学生の水準も、おそろしく高かっだのではないかと推測します。 平吉毅州さんは、サロンにお招きしたことがあります。神戸出身の作曲家。とても温厚なお人柄で、ピアノで自作を聴かせていただきましたが、とてもデリケートでやさしい音楽でした。内面の強さを表出するよりは、詩的な音楽がとても素敵でした。 彼のピアノ曲は3曲。山田耕筰のピアノ曲も初めて聴かれた方が多かったのでは。なんといっても「歌曲」が有名ですから。ドイツ留学の折にヒンデミットに和声、作曲を習った日本人「初代の世代の作曲家」は、毀誉褒 をつきぬけて偉大だったと思っています。ドビュッシーは有名な曲。しかし、KaskiとGriffesは、初めて聴く曲。シベリウスもあまり弾かれない曲です。それらの音楽を、徳末悦子さんは平然と弾かれる! 川柳に、やはり独特なスタイルと個性が宿っています。母親としての年輪を重ねてこられた思い。ひとりの女としての不安、孤独、愛への焦がれ。かなしみも疑いも埋めたはずの内面の火も、意地も火傷も悔いも、徳末さんの思いのなにもかもがこれらの川柳には寵められています。 「ピアノ+文芸」は、徳末悦子さんだけの真にユニークな芸術表現です。傘寿のお祝い、おめでとうございました。 若い人たちの会
いずれも、若い人たちの会です。洋楽も日本の古典芸能も、未来を開いていくのは若者です。志芸の会を主宰する善竹忠重さんは昭和22年生まれ。能狂言の世界には70、80代の名人たちが元気に活躍されていますから、50代は「若手」なのです。 私の亡くなった母は30年あまりも能の稽古に励んでいましたが、舞台を見に行くときには、いつも80歳を越えた人の至芸(たとえば大鼓の谷口喜代三さん)に酔いしれていたものでした。茂山千作さんの舞台も、私は30年来、折にふれては見てきています。 世阿弥の「花伝書」を読んだのは高校三年生のころでした。芸術家の成長の過程について、長い「現場」の生活を経た賢者のことば。もちろん観念的にしか読めませんでした。そして、やがて私も50歳を迎え、過ぎました。まだ青いな、と苦笑しています。 洋楽は、フルートとクラリネット。古典と現代を組み合わせたプログラミングに拍手を送りたいと思います。20世紀の音楽が「難解」に聞こえるのは、演奏会数や記録された音盤が少なく(日本人作曲家の場合、初版のみ。即廃盤の憂き目を見ます)、したがって一般ファンの耳に届かないからです。ベートーヴェンにしてもショパンにしても、単純な作曲家ではありませんから、何度も聞き込む機会があったからこそ、一般ファンにも浸透してきたのです。今後も現代曲を積極的に演奏されることを願います。
これらステレオ電蓄「デッカ・デコラ」でLPを聴く会と、手巻き式大型蓄音器「クレデンザ」でSPレコードを聴く会は、毎月楽しみに通ってくださるお客さまを得て、続いています。エジソン、ベルリナー以来のレコード100年の歴史は、途中1985年頃にCDにとって替わられましたが、現在もなおシェラックや塩化ビニールの円盤に刻みつけられた音は、信じがたいほどの瑞々しさを保っています。 私は決してオーディオ・マニアではなく、SPは当時の手巻き式蓄音器で聴きたいと思い、レコードを電気で再生するにせよ「より音楽的な音」で聴きたいと願って、この二つの装置にたどり着きました。マニアだったらいろいろといじるでしょうが、これらの「ありのまま」の音は、それぞれにかけがえのない個性を持っています。いうならば「楽器」のごときもの。 小学校6年の夏休みにワルター/コロンビアの「田園」(日本コロムビア盤)を父に買ってもらい、以後ずっとレコード・ファンです。 1985年頃から地震に見舞われた1995年まではCDだけを聴いていました。震災にめげず残ったSPを、ある人から寄贈されたのがSPとの本格的な出会いでした。手持ちのLPもいとおしくなり、また聴くようになりました。 結果、いまでは三種の音盤を録音時期に応じて楽しむ毎日です。みんながかけがえのない個性を持っているから、それにどちらかといえば作曲家を聴いていますから、どの演奏家が一番、などという好事家的な聴き方からはますます遠ざかっています。というか、大きな個性を誇る大演奏家は、そもそも序列からはみだしています。そのような演奏が刻まれた音盤を、今後もかけていきます。 |
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2005年 8月 15日 発行 著 者 山村 雅治 発行者 山村 雅治 発行所 山村サロン
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