|
|||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||
僕が僕であるために
1
もう長く、震災をはさんで、バブル経済の1986年から現在まで、19年もの年月をサロンは過ごしてきました。まだ思い出話に明け暮れる年齢ではなく、じっさいそれどころではない日常ですが、神戸新聞への連載をきっかけにして、すでに歴史が刻まれていることを実感しています。徒手空拳。日々が新しい体験の毎日。はじめて取りあげられたころの新聞記事を眺めてみると、ショートヘアなのが、われながら照れてしまいます。 どうしてあんなヘアにしていたのか。若気の至りとはいえ、昔の写真は見たくありません。40歳前には一人前に細いなりに、中年太りの体型でしたし。 サロンでは、そこに集まる人間は対等・平等であり、言論も思想も尊重されます。おおげさにいえば、人間の社会がそうあるべき「平和な空間」を創造したかったのです。
考えてみれば、私は子どものころ、けっして平和な日常を歩いていたわけではありません。もちろん戦争やテロの爆撃にあうことはありませんでしたが、戦争のない平和な時代にも、大人は大人で戦争をし、子どもは子どもで戦争をしていました。 2004年5月28日に、市民の意見30・関西主催の「市民の政策づくりにむけて(8)」の話者として話をしました。進行役が小田実さん、「学校は人間を駄目にする!」論者が私、そして「学校は何の役に立つか」を中学教諭の島村三津夫さんが話されました。 人はそれぞれ。学校教育が必要で、学校が好きな人がいる。学歴が大切で、自慢する人には、それはご苦労様でした、とねぎらう気持ちはありますし、否定しないどころか、そう思えるような学校教育を受けてみたかったと夢想さえします。あ、嘘だ。
ただ、私自身は、あまりにも子どもを測る価値尺度が「ひとつ」しかなく、ほしいままに子ども相手に、渾身の暴力を振るう教師が支配する「恐怖の飼育所」としての小学校時代は、地獄でした。そこで私は、家族さえ巻き込んだ「民間信仰」の愚かさと、一般的な「悪」としての権力の構造をからだで理解していました。権力は序列をつくります。 そのほかにも、学校嫌いになった要因はあります。「なぜ僕がここにいるのか」について、私はひとりで穴を掘ってかんがえていくしかありませんでした。本を読めば少し分かり、絵を描けば少し分かり、楽器を奏でればまた少し分かり。まねごとの詩や短歌や俳句は小学校四年から作っていました。それはもう、どうでもいいようなもの。自覚的に、これが自分のことばだと、奔流のように詩が湧き出してきたのが17歳。高校三年生の6月でした。
そのころすでに、受験にはまったく関心がなくなってしまっていました。そんなことよりはるかに血沸き肉踊ることを発見したからで、授業の昼間には文庫本を読み、夜は絵を描いたり、ことばを書いたりという受験生でした。で、呼びだし。「きみは頑ななまでに受験勉強しないんだね」と学年主任に嘆かれました。が、眼が微笑んでいたようだったので、救われました。きみはそれで行け、と。 友人からは「おまえは超越してるな」と揶揄されましたが、ニーチェのような「超越」でなく、脱落したのです。能動的ドロップアウト。競争の埓外で生きるスタイルを模索しはじめて、その果実が「山村サロン」だったというわけです。
2
いや、話ができすぎているかも知れません。ともあれ人生はなりゆきです。とともに、意志の現実化でもあります。私は地上に平和をつくりたい。 そこで、サロン主催で、こんな催しも開きました。
まず、この集会の案内文書を掲げておきます。
7月7日はちょうど67年前、1937年に「盧溝橋事件」が起こった日です。この日を皮切りに、かつての日本は中国との全面戦争、ひいては太平洋戦争・第二次世界大戦への泥沼にのめりこんでいきました。盧構橋での現地停戦協定が結ばれたにもかかわらず、11日には内地師団派兵を決定、28日には総攻撃に出て北京・天津一帯を占領という無謀な「侵略戦争」でした。
昨年11月、この催しの第一回目をやりました。アメリカの反戦フォークソングや、シェーンベルクの「ワルソーからの生き残り」などの音楽を聴き、さらに、文学作品の朗読もやりました。小田実さんが自作「子供たちの戦争」(講談社)を読まれるなど、滅多になかったこうしたイベントは、大いに盛り上がりました。
今回は、小田実さんは、その1937年の中国を描いた中国小説について語られ、日本軍がやがて体験した「玉砕」を描いた自作小説『玉砕』の一部を朗読されます。 海老坂武さんは、フランスの詩人・シャンソン歌手ボリス・ヴィアンのシャンソン「脱走兵」のCDを持ち込まれて、その歌声を聴き、アルジェリア戦争時のことなどを語られます。イギリスの詩人オーデンの詩にブリテンが曲をつけた「戦争レクイエム」の一部を聴きます。オーデンの詩について知ってほしい。朗読をする予定です。
人間の願いや祈りや、他者、世界へ向けてのメッセージが、芸術作品には凝縮されています。平和はいつか、歌とともに訪れる。怒りと嘆きに明け暮れるばかりが能ではありません。災害・戦争、すなわち有事。そのさいにも、私たちは組み込まれる歯車としてではなく、人間としで生きていたい。その明確な意志が、この日に聴く音楽や、文学作品にはあります。音楽ファン、文学ファンのみならず、平和を希求するすべての人たちに、この集まりに参加されることを呼びかけます。
3
「反戦」ということばが、いまや忌みことばなのか、この単語を掲げただけで「キチガイサヨク」のように扱われる昨今です。前の戦争が終わって新憲法が発布されたときには、みんなこぞって「非戦」の誓いに胸を熱くしたはずなのに。この自発的な他発的な(漱石は内発的、外発的ということばを使いました)言論統制にはあきれます。 この面では「華氏911」の監督マイケル・ムーアが自由な言論を展開できるアメリカは、さすがです。ジョージ・ブッシュの演説の背後であくびを連発する少年が、延々とテレビ画面に映し出されていたこともすばらしい。
Anti War。あるいはNo Warのスローガンならクリスチャン・ディオールのレディースのデザイナー、ジョン・ガリアーノが2005年春夏物プレタポルテのTシャツに書き入れています。作裂する拳のイラストをはさんで、DIORとNOT WAR。 開かれた口でアイスキャンデーを舐めるイラストをはさんで、DIORとFOR PEACE。 ジョン・ガリアーノは、いま世界でいちばんぶっ飛んだデザインを世に問う最先端のデザイナーです。世界の戦争推進者の奥方やお嬢さまに、ぜひ着ていただきたい2005年の新作です。
日本人のデザイナーにも「反戦」のメッセージを籠めた服を、すでに2004年1月のパリ・コレクションで発表した人がいます。宮下貴裕。男ものばかりのナンバー・ナインのデザイナーです。軍パンも空軍ジャケット(MA-1、N2B、M65など)も、ハートが涙を流すモティーフが絡まり迷彩柄になったもの。おまけに軍パンは、体を締めつけるボンデージ仕様でパンク・ロック仕立てになっています。ここまでで、完全に戦争の役には立たない男子の衣装の完成です。まだ、ありました。黒の、あちこちが裂けた半袖Tシャツの胸に書かれたメッセージは、痛烈にジョージ・ブッシュを皮肉るものでした。
ANTIBUSHES と LET‘S GET OUT OF THE BUSHES (ブッシュを辞めさせよう)の2着は、サロンの集会に着てきました。ほか、何種類も出ているのです。
PRESIDENT DUMB ASS YOU BET I‘M BETTER PLUCK THE BUSH LIKE FATHER LIKE SON THE ONLY BUSH I TRUST IS MY OWN MINDLESS OBEDIENCE IS UN AMERICAN
などなど優に種類を十種類を超える豊富さです。これらは、宮下さん自身が「憧憬の念をもつ国、アメリカが、あるひとりの人間によって本来の姿を失いつつあることに問いかける、辛らつなメッセージ」(メンズ・ノンノ誌2004年9月号)です。
ところが、このコレクションを見た日本人スタイリストは、デザイナーの「きっちりと言っておきたいメッセージがあった。ブッシュに対する嫌悪感。アメリカはどこへ行くの?戦争だってひとつのテロリズム、日本の自衛隊をどうするつもりだよ、と。アメリカはすごく好きな国。でもだからこそ伝えたかった。伝えたいものがないと洋服は作れない」という発言に続いてTシャツのメッセージにふれ、「でもあれニューヨークのショップで売って大丈夫なんですか。もろ反米のとかブッシュ批判のとかありましたよね」と心配しています。 いつのまにか権力者の批判をしなくなった腰抜けな日本人!小泉をとびこえて、小泉がひれ伏すブッシュ批判への心配とは!(発言はPOPEYE誌676号から要約)
4
さて、反戦平和文化集会。私はもちろんナンバーナインの衣装で参加しました。新聞告知が一切なかったのに、たくさんの人が集まりました。つかしんのローゼンビート音楽館の浜渦章盛さんがスタッフのかたがたもお連れくださいました。浜渦さんは、私と同じくシベリア抑留体験がある父親をもち、平和を訴える歌を歌い続けてこられました。 「31年間、訴え続けてきましたが、今が一番発言しにくい。『反戦』というと変わり者扱いされる。社会がおかしくなっている気がします」(毎日新聞2004年6月1日付朝刊)と、まるで私たちと同じ感覚で現代を生きておられるバリトン歌手。
この集会は開いた日付に意味がありました。盧溝橋事件に端を発して、南京陥落、南京虐殺へと坂道を転げるように戦争の泥沼へと日本軍は突き進んでいきました。小田実さんが、そのころの南京市民のラブ・ストーリーを描いた、葉兆言の「南京・1937」について話をされました。南京虐殺は、泥と麦畑のなかでだけ虐殺が行なわれたのではなく、近代都市・南京で展開された虐殺でした。自作『玉砕』(新潮社刊)から一部が朗読されましたが、こちらは「アジア・太平洋戦争」末期の兵士たちの悲惨の極限が描かれたもの。
海老阪武さんとは、ソプラノ歌手の奈良ゆみさんを通じて旧知でしたが、こうやって同じ集会でやるのは初めてでした。サルトルの研究家ですが、この日にはボリス・ヴィアンについて話され、ヴィアンの歌声を聴きました。ボリス・ヴィアンは詩人であり、シャンソン歌手としても活躍しました。しかし、アルジェリア戦争のあいだ、歌うことを禁じられていました。「脱走兵」には、こんなことばがあります。
大統領閣下 私は戦争はしたくありません 可哀想な人たちを殺すために 生まれてきたかちではないからです 私は人々に訴えます 服従を拒むんだ 戦争を拒むんだ 戦争に行ってはいけない 出征を拒むんだ 私を追跡するのなら 憲兵たちに伝えてください私は何の武器ももっていないので 撃ち殺してもいい、と
私は『戦争レクイエム』の話をし、デッカ・デコラで英国デッカ盤のLPをかけました。ウィルフレッド・オーウェンの詩(とラテン語典礼文)に、ベンジャミン・ブリテンが作曲した作品。戦後の平和への祈りをこめて、独唱者に露・英・独の3人が参加しています。 オーウェンは第一次世界大戦に出征し、1918年、25歳で戦死した詩人です。オーウェンの詩は感傷からはかけはなれ、一点の慰めのない戦争を一滴の涙もこぼさずに書いたものでした。
私は、君が殺した敵なのだ、友よ 私は、この暗闇の中で、君を知っていた だからこそ、昨日君は、刺し殺しながら私に嫌な顔をしてみせたのだ 私はそれを受け流した、でも、私の手は嫌がって、冷えきってしまった さあ、みな、眠ろうではないか……
2005年1月17日、震災10年を迎えます。原点に戻って、これからを考える集会を開きます。被災者に公的援助をする法案を実現させるために、ともに戦った「市民」「議員」が語り、浜渦章盛さんが歌います。それにしても、あれから10年が経ちました!
芦屋市出身、ニューヨークに在住する濱田あやさんは、神戸女学院大学音楽学部を首席で卒業後、渡米、ルース・ラレードに師事し、マンハッタン音楽院大学院卒業。ジュリアード音楽院修士課程修了。ロンドン音楽祭コンクール第一位、ジョセフ・ホフマンピアノコンクール第二位などの成果をおさめ、日本、米国、英国でリサイタルを開催。現在、ニューヨーク・シンフォニック・アンサンブルの首席ピアノ・チェンバロ奏者。フジコ・ヘミングさんのリハーサルピアニストを務めておられます。
濱田さんの自主リサイタル。 2003年にはアゴックスの「アポロニア」を世界初演されるなど、現代の音楽もお弾きになる鍵盤奏者の、チェンバロによるバロック・プログラムです。ニューヨーク州立大学ニューパルツ校マッケーナシアターで開かれたリサイタルで「すでに成熟したアーティスト。彼女の演奏は完全なテクニックからなる妙技と音楽への鋭い洞察力によって特徴づけられている」と評されたということですが、私も付け加えることばはありません。ただ、しきりにDie Kunst ということばを考えていました。英語ではArt。芸術とは技術であり、技術とは芸術であるところの、Die Kunst です。
日本では、なにか芸術のほうが技術よりも価値が高いことになっているようで、職人の技はすなわち小手先の技にすぎず、芸術家はそんなつまらぬことに惑わされず、高い精神性をのみ求めている、という「美学」あるいは「信仰」が、いまなお残っているようです。 バッハの楽譜の手稿をご覧になったことがありますか。書き直しなしの手工芸的な美しさ。たえず曲を作らなければならなかった多産の作曲家こそが、誰よりも雄弁に「技術」=「芸術」であることを示しています。
また、長谷川亘利さん所有の、響板に絵が描かれている美しいチェンバロから流れる音楽に耳を傾けながら、楽器を作る職人もまた「技術」=「芸術」を突き詰めてきたことを思いました。最近『海峡を渡るバイオリン』(陳昌鉉)という本を読み、その本が原作になったテレビドラマ(タイトルは同じ。草g剛主演)を見ました。在日韓国人の陳さんの作ったヴァイオリンは「東洋のストラディバリ」と呼ばれていますが、その人の半生の物語には打たれました。歴史に翻弄され、差別を跳ね返してきた陳さんは、一途にストラドを追いかけ、造形も音色もニスの色も美しい楽器を作るために戦ってこられた。 サロンに響いたチェンバロは、濱田さんに奏でられて、ひときわ輝いていました。
なつかしいピアニストの再来演!1990年4月27日以来、オール・ヒナステラ・リサイタル以来、14年ぶりの再会でした。これには、震災後久々にサロンを訪れられた山浦菊子さんとの再会がまずあって、あのときにお世話いただいた思い出に話が弾み、またやりましょう、ということになったのでした。通算3度目の来演です。
アルゼンチン・ロザリオ生まれ。8歳で初リサイタルを開いた神童は、スカラムーツアに師事。アルゲリッチやゲルバーと同門。イタリアを経て渡米。マンハッタン音楽院に学び、生前のヒナステラ、ピアソラと親交が厚く、彼らの音楽のよき紹介者として貢献している。1989年から6年間、神戸女学院大学などで客員教授を歴任。現在はカリフォルニア州立大学教授。かたわら、演奏活動やコンクール審査員などの多彩な活動を展開。2002年にはブエノス・アイレスのテアトロ・コロンで、マルタ・アルゲリッチとのデュオ・リサイタルを開きました。
映画「コンペティション」に流れるピアノを弾いていたのは、若き日の彼であり、また、ニューヨーク・タイムズには「千の音を持つピアニスト」と評されたヴィルテュオーソですが、素顔のデルガードさんは、今なお少年のように活発で人なつっこい性格です。三宅一生の服が芦屋で買えないことを嘆いておられました。 バッハから現代までの広範囲にわたるレパートリーを誇るピアニスト。私がサロンで最初に聴いたのが、ハイドンの「アンダンテ、コン・ヴァリアツィオーニ」でしたが、冒頭の音色とリズムに、すでに寂しさも、寂しさを耐える人間の美しさも溢れ出ていて、息を呑む思いがしました。あの演奏は今でも覚えています。神戸でブーニンを聴いたときにも、偶然会場でデルガードさんにお会いしました。彼はブーニンのハイドンに怒りを隠しませんでした。たしかに、彼は音の喜遊性よりもさらに深く、存在の深みまで降り立ったハイドンを奏でる人でした。
アルゼンチンには土から生まれた踊りがあります。市民が踊るタンゴがあります。そして首都ブエノス・アイレスの名門テアトロ・コロンでは、ウィーン・フィルの指揮者でもあったエーリッヒ・クライバーが西洋音楽を指揮していました。息子カルロスも当地の生まれです。だから、バッハもシューマンも紛い物ではない本物がアルゼンチンにはあり、デルガードさんにとっても「自分の音楽」として演奏されました。バロックはバロックとして。熱にうなされるようなロマンはロマンとして。 踊りがある国は、音楽は強い。バッハの音楽にしても、源泉は踊りの音楽。アルゼンチンの作曲家たちも、激しい情熱を爆発させ、あるいは悲嘆の淵に沈み、誘惑と惑い、弾ける歓喜や、生きる強い意志を繰り広げます。ブラヴォー。
日本人が西洋音楽と出会ったのは、古くは天正少年使節の伊東マンショ、千々石ミゲルらがローマで習ったオルガン曲などを披露したことに始まるにせよ、一般市民のなかで広まったのは明治時代になってからです。長崎の隠れキリシタンのなかではグレゴリオ聖歌が歌いつがれてきたにせよ、です。 そのなかで、専門家になろうとした人たちは、私たちの想像を絶するような苦労を重ねてきたにちがいありません。ミッション系の女学校では、キリスト教の布教のために賛美歌が教えられましたが、日本の伝統芸能の四七抜き音階(ドレミソラド)が体に染みついていたために、西洋音階(ドレミファソラシド)が歌えない。こりゃ、あかんわ、と宣教師でもある音楽教師は匙を投げたということです。
作曲家も演奏家も、果敢な冒険者が数あまたいました。私は彼らを愛してやみません。分野がなんであれ、それまで誰もやらなかったことをやり抜く人の、パイオニア・スピリットに敬意を抱きます。客観的に眺めれば、当時はたしかに、日本人が西洋の古典音楽を演奏することは、西洋人が能や歌舞伎を演じることに等しく、作曲家の場合も同じだからです。 私のからだの中にも、幼稚園から小学校四年まで習っていた能の謡と仕舞が、今なお生き残っています。そして現在の日常は、おもに西洋音楽とつきあっています。日本と西洋は、とても違います。
明治から130年余。いまや西洋音楽の世界のまんなかにいて、世界中から聴きに来る人がいる日本人が数多くいます。勤勉な日本人は、西洋から優秀な教師を呼び、またある人は留学し、まず、楽器の演奏や声楽から世界の水準を学びました。 さて、作曲が難しい。私がおもしろいと思う日本の作曲家と、西洋がおもしろいと思う作曲家がちがう。私の好きな作曲家は、いずれも孤独であり、体内から湧き出る音に耳を澄ませて、嘘も飾りもない音楽を書く人たちです。
久保洋子さんの初演作「ブラサージュ」は、混合、混淆、かき混ぜる事という意味。ひとつの閃きから、まだ見ぬ花の芽が出てきました。一作ごとのインベンションが貴重です。 近藤圭さんの初演作「伝統と構造Z」は、ひとつ上の世代の、武骨なまでの男らしさを感じさせる「クラリネットとピアノのためのパッサカリア」でした。鍛え上げられた造形の美しさ。これは、ぜひ再演を期待します。 ヴィダルさんも何度目かの来演。フランスを代表するクラリネット奏者です。
2003年9月の中之島公会堂でパラシュケヴォフさんのリサイタルを聴いて、再びサロンにお招きするオファーを出しました。2002年にはソロで、厳しい曲ばかりを私の好みで演奏していただいたので、今回はピアノとの二重奏。
中之島公会堂の会で驚いたのは、後半のロマン派小品での音色の多彩さと表現力の雄弁さでした。元来、彼の持ち味は清潔をきわめた音楽性を土台にした、真摯な精神性にあると思っていました。彼の師、ヘンリック・シェリングと同じように。だから、2002年のソロ・リサイタルでは、バッハ、バルトーク、イザイを弾いていただき、単色の墨絵の凄味を堪能させていただきました。曇り空の美しさ。そこには閃光も嵐も隠れている、凄まじい力が秘められた単色が貫かれた世界。 しかし、メンデルスゾーンとサラサーテでは、いささかの抑制もなく、ヴァイオリンという楽器が本能のままに泣き、憧れ、歌い、喜びを爆発させていました。
プログラムは二転三転。サラサーテなどの小品をも希望しましたが、第一希望が「クロイツェル」だったので、それを中心に考えて、ヘンデル、シューベルトが前半に弾かれました。ヘンデルのソナタは、SP時代のジョルジュ・エネスコの演奏が忘れられないものですが、まるであれが生で鳴り響くかのよう……。力が抜けていて、古雅のきわみで、前回のバッハとも、描かれる音楽の世界は別のものでした。 シューベルトは感情の音楽。きれいな歌はみんな悲しい、とつぶやいたシューベルトの音楽は、どれも悲しい。この曲も「シューベルティアーデ」という、部屋に友人たちが集まった少人数の音楽会で発表されたものでしょうか。シューベルトがピアノを弾き、友人がヴァイオリンを弾いて。私はロマン派の音楽家では、結局のところ、シューベルトがいちばん好きだ、という結論に(ごく最近)達しました。歌、歌、歌、溺れるまで歌。溺れても歌! ソナチネは簡潔で、ほかの室内楽曲の多くのように、音が多すぎることはありません。パラシュケヴォフの堅固な造形から、シューベルトの心が秘めても秘めても溢れてこぼれ落ちてくる! クロイツェル・ソナタは、完全にヴァイオリンとピアノが対等にぶつかりあう葛藤の音楽です。一作ごとにあたらしい世界を切り開いてきたベートーヴェンの、はげしい意志がみなぎる傑作。完璧な技巧を持たれるパラシュケヴォフさんは、あらゆる難所を顔色ひとつ変えずに通過されるのですが、音には感情も意志も力強く乗り、戦いも涙も立ち上がる気力も、すべては「人間の音楽」として描ききられていました。
終演後は、ウィーン・フィルのコンサート・マスターを務められていたころの興味深いお話を伺いました。カルロス・クライバー死去については悲しそうな表情を浮かべられて。「彼は天才だった。『トリスタンとイゾルデ』をやったときこそ凄かった。彼とカラヤンは天才だった。カラヤンとはフレーニが主役を歌ってる『蝶々夫人』のレコーディングにも参加している。あれは美しいでしょう!」
秋に集中して、日頃は大阪で行なわれていた集会が、芦屋で開かれました。 6月19日には港区民センターで、「中山千夏さんと矢崎泰久さんと小田実さんこの時代に物申す」という集会も、市民の意見30・関西の主催で開かれていました。その後で中山さんからメールをいただきました。 反暴力、反戦、反死刑のグループ「おんな組いのち」に入りませんか、と。趣旨には一も二もなく賛同して入会を決めました。つまるところ、マッチョ至上の戦争志向の男社会では、私は非暴力をつらぬく「おんな」です。ファッションについてのエッセーを書いて、とお誘いを受けながらもそのままになっているのが心残りです。
9月の「M.バナール著 『黒いアテナ』が問いかけるもの」。 この本については、かねがね「市民=議員立法」運動の最中に、新幹線車中で、小田さんから話を伺っていました。古代ギリシアはヨーロッパに起源をもつのではなく、「黒い」フェニキア・エジプトに起源をもつのだ、と強烈に主張する本です。実証に動員されたのは、考古学、言語学、文献、神話など、すべてを総合して行なわれ、欧米社会で一大センセーションを巻き起こしました。 小田実さんは「元来が本質的に『黒いアテナ』だったのを『白いアテナ』に変えたのは、1785年に始まるドイツを中心とした『ヨーロッパ、西洋』の歴史の『偽造』だと、これもまた、強力鮮烈に主張した」と紹介されています。 M.バナール『黒いアテナ』金井和子訳(藤原書店刊)
数年ぶりにアイヒホルンさんをサロンにお迎えした10月3日の会。 日本とドイツは、前の戦争で「焼き、奪い、殺し」の罪過を背負い、しかも「焼かれ、奪われ、殺しつくされた」体験をもつ国です。日本とドイツから、世界に向けての平和へのメッセージを、さらに強く発信しなければなりません。 10月30日は、ベトナム訪問団報告会。10月7日から16日まで「日越市民交流」が主催する「ベトナム反戦の旅」がありました。小田実さんが団長でした。あいにく私は参加できませんでしたが、いつかの機会には是非参加したいものです。市民が交流するのは、戦争をくいとめる力に、絶対なると信じているからです。
おもしろいコンサートでした! 飛び込みで、どなたのご紹介があるわけでもなく、今泉仁志さんが突然私の目の前に現れて、こんなコンサートをしたいので、といわれました。 シリーズ「声を巡るワークショップとレクチャーコンサート」は、異分野の五人の歌い手が各回のメインの演者となり、さまざまな歌声と音楽のモードを楽しんでいく、という企画です。第一回は等々力政彦さん/トゥバ民族音楽演奏家。第二回は児玉宝謹さん/日本民謡。第三回は今泉仁志さん/西洋音楽。そして今回の中井孝さん/狂言。ちなみに第五回は緋田芳江さん/17世紀モノディ、第六回は総集編と続いて、11月25日に千秋楽を迎えました。
なにがおもしろいかというと、西洋音楽ばかりが音楽ではない、ということの鮮やかな展示がここにあったからです。歴史も定説も常識も、すべては勢力争いの成果にほかならず、西洋音階が地球の全体を覆ったかに見えても、なお、その規格外の音、リズム、音楽は幅広くたくましく根を張っています。ベルカント唱法に代表される歌の発声法も、地球の上では、ごくごく一部の発声法にすぎないのです。 等々力さんの南シベリア・トゥバ族の喉歌(フーメイ)の、児玉さんの日本民謡の、なんという力強さ、美しさ。緋田さんの「グレゴリオ聖歌」と、まったく等価の「人間の歌」がそこにありました。
多芸な人が揃っています。狂言を演じた中井さんはバロック・オーボエ奏者であり、今泉さんは声楽家ですが狂言を演じられるし、民族音楽の等々力さんも狂言を演じられる。ここでも大切なことがひとつ伝えられています。専門とはなにか。 どうもこの国では、大学へいって資格でもとって、あるいはコンクールを受けて入賞して、はじめて「専門家」と見なす習性があり、それ以外は認めない風潮があります。こういう「規格」も破壊したい。 SP時代には、大学へ行く必要すらない人たちが活躍していました。モーツァルトもベートーヴェンも、音楽大学へなど行ってません。 才能がある人が舞台に立てばいいのです。好きで得意で、やることが楽しくてたまらない人。お客さまが感動してくだされば、そんな人こそが「専門家」なのです。
芦屋の夏、河野保人さんのツィター。震災前から、もう何年目になるのでしょうか。いつも満員になり、いつも皆さんが豊かになったような様子でお帰りになります。私もこの日には、アルプスの涼やかな風にそよがれて、さわやかな気分になります。 どうぞ、また来年も!
3つのチャリティ・コンサート
震災以来、継続しているコンサートです。いつの間にか、私が少しお話をさせていただく(え?初回からでしたっけ)ことにもなって、ゴールデン・ウィークの楽しみのひとつになっています。 高山謙一さんは、今回はピアノの小池さんとのデュオ。一切の真似事を排した、日本のシャンソン歌手がここにいました。力を溜めに溜めてきた人の静けさがあり、スケールは巨大、美声ではありませんが、心の歌には美声が邪魔になります。ここまで自分の世界を築かれたら、もう年齢を重ねるのは楽しみなだけ。 渚にては、新作アルバム発表を目前にして、初演曲もまじえてのステージ。柴山さんは喉の調子がすこぶるよく、高音がはっきりと音程を保ったまま伸びて、全体が硬質な響きを帯びた「作品」になっていました。 坂口さんも含めて、ともに白髪の生えるまで! そうそう、坂口卓也さんは『音薬楼』というサイトを作っておられます。じつは医学博士で、専門分野の「脳漫画」もあるので、お勧めしておきます。前から水木しげるの大ファンということは知っていましたが、画風が内容とマッチしていて、いずれは世界中の大学で教材に使われたら楽しいですね。
7月のクラシック・チャリティ・コンサートは、3人の音楽家が、このプログラムをもって中国へ演奏旅行に行かれる直前のタイミングで実現しました。ありがとうございました。
9月の盲導犬コンサートは、本番の日には私は不在。残念至極! でも、中村八千代さん、寺本郁子さんらとは、交流は長いので、コンサートの様子は想像できます。ハートフルな人たちですから、ハートフルな演奏。 聴かれたかた、そうだったでしょ?
すこぶる快調に「デッカ・デコラ」も「クレデンザ」も、音楽を鳴らしてくれています。 両機とも長い長い休息の年月を経て、サロンに流れ着きました。それぞれ二ヵ月ごとの定期演奏会ですが、あたらしく生きる場所を得て、自信のみなぎる音になってきました。 あちこちから流れ着いたSPレコードや、LPレコードにも同じことがいえます。元の持ち主は、すでにこの世にいらっしゃらない場合が多いです。しかし、サロンでは、レコードの音が蘇れば、聴いた人の人生が蘇ります。
最近、山本尚志さんが書かれた『レオ・シロタ』(毎日新聞社刊)という本が出ました。著者からの贈呈本を一気に読み上げましたが、そのなかに、レオ・シロタと貴志康一がいっしょに聴いたSPレコードが、現在は山村サロンにあることが書かれていました。 この本には、シロタが戦後不当な扱いを受け、無視されてきた理由が書かれています。ブソーニの弟子だったシロタの奏法が、どうけなされてきて、どうそれが定説になってきたのか。まことに興味深い、音楽の世界の一種の怪談話のごとき趣がありました。 両コンサートについては『SPレコード』誌の記事を、どうぞお読みください。 カラヤンとウィーン・フィルのカルショー録音は、LPの歴史のなかでも大輪の花。機械から出てくる電気の音として、最高に艶やかであり、美しいものです。ケルテスは若くして亡くなりましたが、刻まれている音楽も若いまま、いつまでも残ります。 SPのレーケンパーやロージングの歌は、いまはもう忘れている人が多いです。やらなければならないものとして、かけました。フランスの音楽家、モイーズ、フルニエ、マレシャル。いずれも情緒が明晰で、濁りません。
|
|||||||||||||||||
2005年 1月 1日 発行 著 者 山村 雅治 発行者 山村 雅治 発行所 山村サロン
e-mail yamamura@y-salon.com H P www.y-salon.com Facebook www.facebook.com/yamamurasalon
Twitter http://twitter.com/masa_yamr (山村雅治) Blog http://masa-yamr.cocolog-nifty.com/blog/ ( 同 ) Facebook www.facebook.com/masaharu.yamamura ( 同 )
TEL 0797-38-2585 FAX 0797-38-5252 〒659-0093 芦屋市船戸町 4-1-301 JR芦屋駅前 ラポルテ本館 3階 YAMAMURA SALON Ashiya La-Porte Bldg. 3rd Floor 4-1-301 Funado-cho, Ashiya 659-0093 JAPAN
|
|||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||
TEL 0797-38-2585 FAX 0797-38-5252 e-mail yamamura@y-salon.com
〒659-0093 芦屋市船戸町4-1-301「ラポルテ本館」3階 <毎週木曜・定休>