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来し方について
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ずっと走ってきたように思います。1986年にサロンを開館させてからはサロンのことに。1995年に阪神淡路大震災に被災してからは、被災者への公的援助のことに。そして9・11テロの前後からは、私たちにとっていちばん大切なことのために。振り返る間もなく、世界と日本は泥沼へ落ちこんでいきます。
そんなときに「神戸新聞」の震災のときに知り合った記者から、文化面に連載エッセーを書くようにお誘いがありました。自分の作品について書く、ということなので、まずは20歳の詩の処女作のことから書きはじめました。 書いているうちに、あれやこれやと思い出すものです。 思い出しては、書きついでいます。 ちょうど復刊された『宗教的人間』の紹介まで、この「会報」で皆さんのお目にかけることができます。
自分語りということに、これまで私は消極的すぎました。 2003年の秋に、神戸北野のギャラリー島田で私がゲストの集まりがあり、島田誠さんと愉快な対話をさせていただきました。また、今年の春には「市民の意見30・関西」の集まりで、「学校はいかに人を駄目にするか」というテーマで話をしました。そうしたことがきっかけで、何人かの方とは、いっそうつながりが濃くなって、うれしく思っています。 「反戦平和文化集会」(2003.11.30)は、その意味では私にとっても「一皮むけた」ような画期的なイベントになりました。
2
少年時代からの変えようがない私がいて、私はいまでも「詩を書く少年」です。 定型とか行分けとか、そうした形式でなければ詩ではないという意見を、すでに私は持っていません。詩は生活であり、肉声であり、私が生きる現場から遊離したものではありません。ましてや現実逃避の自慰道具でもなければ、人を夢見心地に誘う甘い幻想でもありません。
詩はむしろ、人をしっかりと覚醒させるものです。 ことばのやさしさ、ことばのこわさ。 ことばの豊かさ。と、ことばの鋭さ。 ことばが世界を変えてきました。ことばが、あたらしい歴史を切り開いてきました。
平和のための「声明」は、いつも小田実さんと相談してつくっています。そして私がまとめます。私はここでも、詩を書いています。 4月に出した「今こそ兵を引け」と5月の「有事七法案を通すな」を巻末に掲載しておきます。 今号は掲載物が多くて、いつもより大部になりました。巻頭エッセーも、ここまでです。 (山村雅治 Aug. 10. 2003)
リスト協会のリヒャルト・フランクさんのご紹介で、スイスの売れっ子の美女トリオをお招きし、クリスマス・パーティを開きました。 トリオのキャラクターとして、がちがちの音楽会にしないほうがいいと判断しました。 前回の西本智美さん(ロシア・ボリショイ交響楽団ミレニウム首席指揮者)をお招きしてのパーティがとても楽しかったので、ふたたび芦屋ユネスコ・レディース・セミナーハウスの広瀬忠子さんをお誘いして、クリスマス・パーティを開くことになったのです。前回のご出席者はもちろんのこと、それは楽しそうだということで多くのお客さまがあつまりました。
広瀬さんは遊び心のある方です。今回の出席者の条件は、クリスマスに関係するアクセサリーを身に付けてくること。 やはり皆さん、おしゃれです。皆さんのパーティ用の衣装とアクセサリーが時と場所と目的を得て、震災以来では最高に華やいだ空間が実現しました。芦屋は滅びません。
以上は、この集会のちらしに書いた文章です。たくさんの人があつまり、楽しい会になりました。文字通りの「サロン」がここにあったからです。1960年ころに製造されたステレオ電蓄「デッカ・デコラ」も、反戦歌をかければよく鳴ってくれました。 世界中にべトナム反戦運動が高まってきた1960年代のレコードですから、そのはずです。 オーデンの詩とラテン語典礼文にブリテンが作曲した「戦争レクイエム」、体験者に話を聞き、詞も曲もシェーンベルクが作った「ワルソーからの生き残り」の痛切さ。
また、作家の自作朗読という催しは日本ではあまりないもので、小田実さんの「子供たちの戦争」の肉声は貴重でした。玄順恵さんのハングル朗読も、めったに耳にできない体験です。若いころにアメリカに行ったとき、よく「詩を書いているんだろう。お前の詩を日本語で読んでみてくれないか」といわれたものです。リズムを聞きたい、と。詩は、とくに原語の響きが大切です。
「日越市民交流」は、2001年にホーチミン市の「戦争証跡博物館」が「べ平連」(「ベトナムに平和を!」市民連合)の活動資料を常設展示しておきたいという申し出があったことから始まりました。そして2002年2月27日から3月5日まで、小田実さん、吉川勇一さんら、かつての「べ平連」運動の参加者らが「ホーチミン市戦争証跡博物館に日本のベトナム反戦市民運動の資料を送る運動のベトナム訪問団」を結成してベトナムヘ。
2度目は同年4月26日から5月3日までで、3度目が2003年7月25日から8月1日までの訪問でした。小田実さんは、ベトナム側に「今やアメリカがベトナム戦争の過去を無視するようにして、力の政策を強行して世界は危機にさらされている。今、ベトナムの役割は重大だ。私たちはそれぞれに動いている。あなたがたも」という意味のことをいわれ、それに応えて、交流がはじまり、続いています。今年も10月に訪問する予定です。
『小田実のアジア紀行』については、出版記念会の案内文を採録いたします。
一年に二度のペースで聞かれている、作曲家・ピアニスト久保洋子さんの「21世紀音楽浴」。今回はもっとも出演回数が多いフランスのフルート奏者、ピエール-イヴ・アルトーさんをお迎えして彩り豊かなプログラムのコンサートになりました。 「音楽における社会性」がテーマになるときに、モーツァルトとベートーヴェンの名は重要です。貴族の庇護から脱却して、市民が市民のために音楽を書く時代を切り開こうとした作曲家。1764年、8歳のモーツァルトは、やはりモーツァルト。1790年、20歳のベートーヴェンは、まぎれもないベートーヴェン。個性の刻印こそが、抜きんでた才能の証です。
尹伊桑(ユン・イサン1917-1995)は大韓民国に生まれ、政治的理由によりベルリンを本拠地にした作曲家。パブロ(1930-)はスペインの作曲家で、グェンーチェン・ダオはヴェトナム系フランス人の作曲家。そして久保洋子さんと近藤圭さんの新作が加わるのですから、これは音楽における「民族性」や「社会性」が反映されざるを得ない好プログラムでした。
徒手空拳、才能だけが世を渡る道具だったモーツァルトは、当時のイタリア音楽至上のヨーロッパを、就職口を求めて旅回りしましたが、ドイツ語をしゃべる田舎の猿にすぎませんでした。ザルツブルク生まれの天才作曲家は、イタリア語を台本としたオペラを書いて市民の世界で売れました。ドイツ語の歌芝居(ジングシュピール)などは野卑な見世物でしかなかったのです。そして、最晩年に至高のジングシュピール「魔笛」を書きますが、これはそれまでのイタリア語のオペラを軽々と抜き去った大傑作になりました。
自分の母語で書く。尹伊桑の音楽を聴くたびに、骨の太さ、音のいのちのしぶとさに圧倒されます。非情に孤独な人だったと思われますが、異国の地から、彼は母国だけでなく、地の果てに住む人間に届く「音のことば」を刻みつけていました。 久保洋子さんも近藤圭さんも、音楽の世界で「西洋と東洋」について考え、たたかい続けてきた作曲家です。自然から得た直感から音を構成していく「ニンフ」。跳躍が美しい踊りとして現れます。久保さんは立ち止まらない。 常磐津節『関の扉−積恋雪関扉』の情念を再構築した「伝統と構造VI」。近藤圭さんの作品は日本の伝統芸能に根差しています。ときに室町、ときに江戸時代の日本語が肉声として聞こえてくる。じつにユニークな「現代音楽」!
これはお部屋貸しの催しですが、記録のために残しておきます。
なぜなら私はリヒャルト・ヴァーグナーの音楽が大好きだからです。ヴァーグナーなしには生きられないほどの中毒症状にかかっていた時期があるからです。 ユダヤ人ダニエル・バレンボイムは、ごく最近、禁じられていたヴァーグナーをイスラエル国内で敢然と演奏し、同国で物議をかもしました。私は、この件に関するかぎりはバレンボイムを支持します。ヴァーグナーの音楽はヒトラーおよびナチスに利用されたのにすぎず、ヴァーグナーの楽劇自体は、権力に狂い溺れるヒトラー的な人間存在を徹底的なまでに否定しています。「神々のたそがれ」とは権力に狂い溺れた、自分が神と思い上がった人間たちの滅びの劇です。 ナチスはベートーヴェンの「第九」も大好きでした。「第九」はよくてヴァーグナーは駄目というならば、論理的な矛盾があります。じつは、そのことも書いておきたかった。
川村奈菜さんは桐朋を経てブリュッセル王立音楽院に留学、修士課程を首席で卒業後、パリ国立高等音楽院で学ばれ、現在はベルギーの母校でゲスト・プロフェッサーとして堀込ゆず子のアシスタントをつとめるかたわら、ソロ、室内楽と内外で意欲的な演奏活動をされています。 今回のコンサートは奈菜さんが、芦屋にお住まいになる、おばあさまのために開かれました。そうしたところ、縁が縁を呼んで私の叔母までもがお客として現れましたから、世の中は狭いものです。 艶のある美音が、さすがにベルギー楽派を感じさせました。清潔で真摯な音楽性が大成されることを祈ります。加藤洋之さんのピアノは、とくに「クロイツェル」に創造的な試みがあり、楽しめました。順調にキャリアを築かれています。
「ロマンティックな時を重ねて」というサブ・タイトルがついたデュオ・リサイタルは、2年間のドイツ留学生活を終えた仲田真弓さんの企画。愛媛の松山市民会館と芦屋・山村サロンの2ヵ所で開かれました。 デムスさんは日本人の若手の音楽家との共演も多く、共演の経験がある人は例外なくデムスさんのすばらしさを語ります。たとえばソプラノ歌手など、レッスンの日には次から次からエンドレスで歌わされてしまう、彼はあらゆる歌曲のピアノが弾けるんじゃないかとびっくりしました、と。
仲田眞弓さんは8年間にわたるデムスさんとの関わりをもち、その間、オーストリアで共演されました。1995年、ザルツブルクで毎夏開かれるデムスさんの講習会で、はじめて演奏したシューマンがデムスさんの耳にとまり、すぐに若きモーツァルトも演奏したことがあるミラベル宮殿で演奏することを勧められました。 そして、のちにデムスさんが作曲したヴィオラ・ソナタのクラリネットヘの編曲を委ねられて完成したのが、当夜の最後を飾るプログラムになりました。「クラリネット・ソナタ」の初演です。
作曲家としてのデムスさんの作品を、私たちは過去のソロ・リサイタルで折にふれて聴いてきました。作風はドビュッシー風の和声も現れる、純粋なまでのオーストリア・ロマン派です。響きの美しさは、ときに夢に聴くようであり、音楽のあちこちに童心と賢者の透徹が見え隠れしています。この「イル・トラモント」(落陽、落日)も、最初から「ソナタ」として作曲されたものではなく、旧作の歌曲「秋のヴィオロン」の編曲などが織りまぜられた作品。 仲田さんは、ほかにドビュッシーとブラームス、思い出の曲のシューマンを演奏され、デムスさんはソロで、シューベルトとシューマンを弾かれました。何度聴いても、デムスさんの初期ロマン派はすばらしい!完全に「自分の歌」として奏でられているからです。最初の一音からして、じつに豊かな音楽の空間が、薫りをともなって拡がります。
仲田さんのクラリネットの先生は、E.ブルンナー氏。私はレコードを通じてしかブルンナの演奏を知りませんが、知るかぎりにおいて世界でいちばん好きなクラリネット奏者です。ドイツKOCHから出たR.シュトラウス、ブルッフ、ルトスワフスキの作品が集められた一枚こそすばらしい。 トゥーネマンのファゴットと共演したR.シュトラウスの「クラリネットとファゴットのための二重コンチェルティーノ」の美しさは言語に絶します。「最後の四つの歌」が、さらに脱けきった器楽だけの絶唱。 すばらしい師を二人も得た仲田眞弓さんの、さらなるご精進を祈ります。
ベートーヴェンのピアノ・ソナタは、いつ、どれを聴いても懐かしい。高校・大学時代には弾いてみた曲もいくつかあり、小学生のころからケンプやバックハウスのレコードをよく聴いていたこともあります。ベートーヴェンの場合は、作風の変遷が初期、中期、後期と明瞭であり、内容も底知れないまでに深くなっていきます。 あのころは「テンペスト」が好きでした。きっかけは、音楽大学に通っていた友人の家へ遊びに行ったときに弾いて生の音を聴かせてくれたことです。第一楽章、左手の力強い分散和音に、右手が三連音符を重ねる場面のすばらしさ! 翌る日からは自分の大学へ行かずに、彼の通う学校へ一緒に通って、勝手にピアノ練習棟の一室へ潜り込んで「テンペスト」を練習したものでした。おもしろいと思えばすぐやる性格は、いまでもあまり変わっていないようです。
デムスさんには、毎年の来演にベートーヴェンの後期のソナタを一曲ずつ弾いていただいてきました。前回の終演後に、今回のためには「28番」をまず希望しました。「ほかに何がいい?」と訪ねられたときに思わず「テンペスト」と口走ってしまい、「それなら、あとは作品 2-1 と Les adieux だ。ベートーヴェン・アンソロジーをやろう」と、瞬く間にプログラムが決まりました。 「1番」から「7番」、つまり「悲槍大ソナタ」以前の諸曲のよさに気づかされたのは、10年ほど前のことでした。シュマールフースさんの圧倒的に見事な演奏にサロンで生で接して以来、一曲一曲を見直していました。だから、ベートーヴェンの32曲のピアノ・ソナタの全貌が見えてきたのは最近のことなのです。ほかのピアノ・ソロ作品では「ディアベリ変奏曲」がとてつもない怪作=傑作に思えています。
ベートーヴェンのソナタの諸曲をイェルク・デムスさんのピアノで聴けるのは、この上ない喜びです。「これだけは来ないと行けないから」と、ご夫入の介添えを得て駆けつけてくださった老齢のファンの方も同じ気持ちだったのではないでしょうか。 青年ベートーヴェンが、初めて胸を張って世に出した「1番」のソナタ。中期の入り口にシェイクスピアにインスパイヤされて書いたという「テンペスト」。中期と後期のはざまの作風が美しい「告別」。そして、はっきりと後期が始まる「28番」。 わけても「28番」の美しさ!第一楽章のなんという親密さ。人恋しさだけが響く音楽。晩年のベートーヴェンは、もはや力こぶを見せることなく、ついに得られなかった愛への憧れをしみじみと歌う。苦しくて突進する第二楽章。終楽章は、裸の心が音になった序奏と、主部はフーガを駆使した偉大な音の構築。 この曲の実演をはじめて聴いたのは、大阪フェスティバルホールでのケンプでした。私はまだ中学生。それ以来の大きな感動を覚えた、デムスさんの「28番」でした。
2002年4月13日、エリーザベト・ガンターさんのクラリネットとピエトロ・マーサさんのピアノのデュオ・コンサートを開きました。リハーサル前に到着されたマーサさんが、ガンターさんを待つためにコーヒーを飲みながら、トーマス・マンの「ドクトル・ファウスト」の原語語本を読んでいたのをみつけて、私と彼との会話が始まりました。この小説の主人公レーヴァーキューンは、シェーンベルクがモデルになっています。シェーンベルク本人は怒りましたが。
「ピエトロ、きみはアルノルト・シェーンベルクが好き?」 「とても好きだよ。みんなは彼の音楽を好んでないみたいだけどさ」
という切り出しで、シェーンベルクのあの作品、この作品を語りあい、しばし盛り上がりました。彼も、シェーンベルクを語りあえる相手が、おそらくいなかった。
「ピアノ曲なら、どれを弾く?」 「作品19 ! 」
そのときは、オール・シェーンベルクのコンサートを夢見ました。しかしメールをやりとりして相談するうちに、彼はとても気の利いたプログラムを考えだしてきました。1973年ミラノ生まれ、チッコリーニらに師事し、ピアノと作曲だけではなく、ギリシア語でも学位を取得した彼は抜群の知性とアイディアを閃かせます。 ブラームス晩年の名作に続いてのシェーンベルクの作品19。シェーンベルク白身、ブラームスの楽譜から得た成果をいろいろと理論書で紹介しています。新しい音楽の形式を創造した天才は、先人たちの楽譜を読みぬく天才でもあったのです。過去に深くつながるから前衛なのであり、彼は過去を否定したのではありません。
1911年に作曲された音楽が続きます。ロシアではスクリアビンが孤独な創作を試み続けていました。和音に色がある、ということを言い始めるなど「神秘主義者」と呼ばれもしました。 1911年はロシアではストルイピンが暗殺された革命前夜の年。 1915年に没するまでの数年間こそ、ロシア音楽が彼が創造した「神秘和音」「プロメテ和音」を通じて「無調」にかぎりなく接近した「進歩の時代」でした。それもきわめて孤独な。
シューマンの「クライスレリアーナ」で、やっと聴きなれたロマン派の音楽が流れだしました。しかし、これもそうとう変な音楽です。いやいや、斬新な音楽です。ひとつの場所にとどまって構築物を組み立てるのではなく、性格がことなる小品の連続。古典的な和声感と形式感から逸脱したい青年シューマンの不輯奔放な精神が、ロマンそのものでした。
マーサさんのピアノ演奏は、磨きぬかれた透明なクリスタルの音色と呼吸の深さ、深沈とした趣きの静けさが、どの曲にもありました。最高の意味で知性的であり、音楽の美しさを輝かせていました。ブラヴォー、ピエトロ!
京都の朝倉さんの企画です。いつものようにすばらしい試みでした。 すでに何度も来演されているロトさんのご夫人は、「雪は天からの手紙である」と記された科学者・随筆家の中谷宇吉郎さんの三女・中谷三代子さんです。縁は異なもの。だから、ロトさんの義父。これは、このほど暮しの手帖社から絵本『浦島太郎』(文/中谷宇吉郎、影絵/藤城清治、写真/松本政利)が、52年ぶりに復刊したことを記念するコンサートです初版は1951年。私よりも一年早くこの世に出された絵本です。
雑誌『暮しの手帖』の花森安治さんへの共感については、前回の会報の巻頭に記しました、小学校の高学年ころから、私は『暮しの手帖』を愛読していましたが、私のほかには同じような小学生男子はいないようでした。母は、よくこの雑誌を購読してくれていたものだと、いまさらながらに感謝の念が湧きます。「運命」と「未完成」のレコード案内の記事が載った1世紀68号から、私は読み始めました。回を重ねるごとに他の記事、たとえば商品テストなどにも目を通しはじめ、ついには家にある限りのバックナンバーもくりかえし読み漁りました。 他社の広告を載せない(つまり、あらゆる他社からお金をもらわない)『暮しの手帖』の商品テストの徹底性は、たとえば各社のボールペンが、それぞれロール紙の何メートルまでインクがもつか、そこまでやるものでした。このテストで推奨されたアラジン社の石油ストーブ「ブルー・フレーム」は、わが家でも20年ばかりは部屋を温めていました。 松本政利さんの料理の写真はほんとうにおいしそうに、しかも上品に撮れていて、しばしば生唾をごくりと呑み込んだものでした。それよりもなによりも、こどもだった私には、藤城清治さんの影絵が素敵でした。カラーになってからの作品は、いずれも穴が開くほどくりかえし、くりかえし見て、しかも全然飽きなかったことを覚えています。
中谷宇吉郎さんの『浦島太郎』は、彼が実際にこどもたちに、毎晩床の中で話して聞かせた話を、その口調のままに記したものです。こんな具合に始まります。 「むかしむかしあるところに、浦島太郎さんという人がいたんだって。知ってるでしょう。浦島さんというのは、お魚をとる漁師なんだね。漁師って、おうちは海の近くにあるんでしょう。だから浦島さんのおうちも、海の近くにあったのね」。 この文体(というよりも口調)で「さあおしまい」まで、ずっと続きます。こどもたちが途中で寝入ることもあり、宇吉郎さん自身が先に眠ってしまうこともあったといいます。絵本は、松本政利さんが写真にとった、当時28歳の藤城清治さんの影絵が添えられています。
当日の能舞と語りは、狂言師の安藤伸元さん。大蔵流狂言方で「大和座狂言事務所」を主宰。教育、文筆活動もさかんに展開されています。山村サロンの能舞台には、やはりぴたりとはまる舞い姿であり、立ち姿。目を閉じて中谷宇吉郎版『浦島太郎』を聴いていると、声の年季(不思議なもので年齢とは関係ありません)に安心感を覚え、ぐいぐいと話に引き込まれてしまいました。父性のやさしさが、これほどまでに表現された日本語があったでしょうか。
かつて日本の父は「地震、雷、火事、親父」と恐いものの代表であり、「お国のために」出征し、帰ってくれば「会社のために」奉公し、家にはあまりいなくて、いてもあまりしゃべらない存在でした。だから、この絵本を出版したのも、まさに大橋銀子さんと花森安治さんの「暮しの手帖」の仕事だと思いました。「やさしい父」をなにげない絵本のかたちで提出することで、じつに多くのことを社会に問いかけていたのです。
私がこの絵本を読んだこどもだったら、こう考えたでしょう。 ぼくは毎晩こんなふうなお父さんの話をききたい。だから、お父さんが戦争へでかけるのはいやだ。やさしいお父さんが人を殺すのはいやだ。殺されるのもいやだ。だって、もうお話をきくことができなくなっちゃうよ。そんなのいやだ。ぜったい、やだ。 「何だか少し水が冷たくなってきたかな。浦島さんは、しっかり亀の首につかまって、ぶくぶく、ぶくぶくって、もぐって行ったのさ」。 ロトさんが繊細にきらめく波の音を奏でます。ラヴェル、シューマン、モーツァルト、リストの諸曲が、あるときは背景として、あるときは心の描写として流れます。舞いと語り、そしてピアノ音楽が一体となった「音草紙コンサート」は、お伽の国のような薫りに充ちて、虹色の微光に包まれていました。
ロトさんはロサンジェルス大地震を知るアメリカ人で、阪神淡路大震災のときには、いちはやく芦屋に駆けつけ、チャリティ・コンサートを開かれたピアニスト。
やさしさとは何か。 強さとは何か。
アルバート・ロトさんのピアノは、つねに問いかけています。 私たちひとりひとりはあらかじめ孤独であり、寂しさを感じぬいた人が芸術家になります。 生きることは己を燃やすことにほかならず、炎のまぶしさ、炎の温もりに人は感動を覚えます。羽毛のようにやわらかいタッチで口卜さんはピアノを鳴らしますが、根底にながれるのは寂しさと情熱であり、挺子でも動かぬ図太くたくましい音楽の芯があります。
ステレオ電気蓄音器「デッカ・デコラ」(英国製)と手巻き式大型蓄音器「クレデンザ」(戦前の米国製)の二つのレコード・コンサートについては、『SPレコード』誌から阪口昭夫さんが書かれた記事を転載いたします。
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2004年 8月 15日 発行 著 者 山村 雅治 発行者 山村 雅治 発行所 山村サロン
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