|
||||||||||||
|
||||||||||||
|
||||||||||||
|
||||||||||||
カーキ色に染まるとき 1 さいきん、職場でも遊びに行くときにもスーツを着なくなりました。 きっかけは工芸・秋の出会い展からでしたが、そのときの私服がお客さまにもスタッフにも好評で、以後、とどまることを知らない「変な服」のエスカレートは続いています。どんな服かといえば、まあ、一度見に来てください。 スーツは、なによりも便利でした。 初対面の人に安心感を持ってもらうことができるし、一人前の男であることを着てみせているようなもの。そういえば、震災がらみの市民=議員立法の運動の全過程では、払は紺のスーツしか着ませんでした。それは弔意と、かなしみと、底に沈めた怒りと、変わらぬ意志の、私なりの地味な表現でした。国会議員や役人とわたりあったり、ともに動くときに、紺のスーツと白いワイシャツは、なかなかに有効な「戦闘服」でもありました。 そう。スーツは「戦闘服」です。企業人、組織人の「制服」でもあります。 最近のスーツはつまらない、と思い始めていました。 基調は黒。電車に乗ると、勤め人諸氏はみんなお葬式の帰りなのか、という感じがします。ファッションは、まさに時代の到来を告げています。喪の時代。 日本は死んだのだ、と。企業は死に、永続する勤務への信頼は崩壊し、もはやなにものにも忠誠心をもてない時代へのむなしい思い。 そして、今日また日本は死んだ。海外派兵を決定したことにより、憲法は死に、平和な日本は死んだのだ、と。 やがて市民の自由さえ、いずれは死ぬのだ、と現在のファッションは告げています。 それとも、世の中全体が絶望の黒に染まりつつあるのか。 自分の手首をナイフで切りつける自己破壊衝動。先にも今にも望みがないから生まれた、生よりも死を愛好する性癖。自分よ死ね、という情熱と、邪魔ものは消せ、という暗い怨念。若者も大人も、世相に現れる事件に共通するのは、ただやみくもな破壊衝動です。 若者の一都に熱狂的なファンがいるゴシック・ファッションは、もっとも鮮烈に現代を表わすスタイルです。ここでも基調は黒。胸までのコルセットに締めつけられた、身体的自由の拘束。無意味なまでの過剰さを見せるフリルの装飾。アクセサリーとしての首輪。現代を生きなければならない若者の端的な自己表現がそこにあります。絶望を生きる人間の、痛切な自己表現です。 日本は、悲しすぎる。 日本人は、ここまで追いつめられています。 私は、それでも死なずに生きていて、生きて平和をつくろうと思っていますから、まず 黒いスーツを脱ぎました。 カーキ色に染まる時代がくる。 そのときにも、私は時代の制服を身につけることはないでしょう。 2 かつて日本がカーキ色に染めあげられた時代に、肘が抜けた赤いセーターを着続けた絵描きがいました。長沢節です。 1917年生まれ。ファッション・イラストレーターとしても有名になった水彩画家。強度の近眼で徴兵検査では丙種。少年時代からの痩せた体は戦争には向いていず、文学や絵に心を奪われていました。軍事教練がいやで、旧制会津中学では卒業時に教練不合格。それが原因で官立大学へは進めずに、西村伊作がつくった文化学院に入学。在学時に、すでに水彩画を認められていました。仕事としては、中原淳一の推挙で女性雑誌の挿絵を描きました。 彼は、戦意を高揚させるための戦争画は、一枚も描きませんでした。 戦争が激しくなり、挿絵の画風に当局から「痩せて病的。ヤマトナデシコがもんぺもはかず、胸に日の丸をつけていないのがけしからん。不健全な美人画家だ」とクレームをつけられ、ついには執筆停止処分になりました。 にもかかわらず、彼は軍人は描きたくなかったのです。国民服もゲートルも、戦闘帽も彼は持っていませんでした。赤いセーター、ゲートルの替わりに荒縄。そして戦闘帽の替わりに古いハンチング、というのが彼のスタイルでした。 弱いから、好き。弱いから、美しい。それが彼の美学であり、生きた時間を貴いた一途な生き方でもありました。強くたくましいマッチョな男性美にまっこうから対立して「孤独で弱い男性の美しさ……それは全く兵隊の役には立ちそうもない男性美」(『弱いから、好き。』長沢節・文化出版局)を主張しました。 1954年に開いた「セツ・モード・セミナー」のデッサンのモデルに選ばれるのは痩せた体の持ち主ばかり。その生徒らをモデルにして1964年に「モノセックスショー」を開き、男女の区別を服からなくし、好きな服を自分のサイズで着る、という実験的な試みでした。男がスカートをはいてみせたのです。 1970年には「ホモ・ジュッピーズ」、スカートをはいた男だけのショーをやります。若き日のデザイナー、渡辺雪三郎も参加。171センチ・38キロの極細の体に超ミニのギャザースカートをはき、上はトップレスで、銀座の街を練り歩きもしました。 もっとも、1946年に、すでに長沢節その人がスカートをはいて銀座を歩いていたのを「朝日」の記者が発見。写真が翌日の紙面を飾り「男もスカートをはく平和な夏が到来した−そんな記事の街頭スナップだった」(『長沢節物語』西村勝・マガジンハウス)。人からもらったジャワ更紗を民俗衣装のロンジー(筒形のスカート)にして彼ははき、まず最寄りの推名町の駅、そして池袋、度胸も座って銀座へも、という次第だったそうです。 私はまず、長沢節の裸体デッサンを見て魅せられ、つぎに水彩画を見て驚き、画家として出会ったのが最初でした。さらに1980年代に「MR.ハイファッション」に連載された『セツのダンディズム講座』を読み進めて魅了され、上に挙げた書物など、彼の書物、彼に関する書物をのこらず読んできました。 ここに僕がいる、と激しく共感を覚えることばがいくつもあります。「世界中、みんなみなしご」など、とくにそう。根っからの反戦主義者は、根っからの自由人であり、根っからの芸術家なのでした。1999年の訃報の紙面に、私は不覚にも涙をながしました。 3 私自身が、体育の嫌いな痩せた少年でした。 運動は不得意ではありませんが、体育の授業が嫌いでした。前へ習え。右向け右。回れ右。番号始め。これに頑右〈かしら、みぎ)を加えれば、もう嫌。歯車のひとつになるのが人間牲を奪われるようで、軍国の臭いがして。それだけでなく、「学校」制度全体を少年時代の私は憎んでいました。「学校」は、生徒を十把一終げにたったひとつのところへ導こうとしている。線路からそもそも外れていた私は、ただ外れているしかありませんでした。 見かけがマッチョとはかけ離れた体格で、本や音楽に耽溺していたため「男らしくしろ」と教師に怒鳴られる始末。でも、できないもん。男らしさでなく、女らしさでなく、人は自由に、人間らしくあるべきです。 人間と人間の間に横たわる、あらゆる壁を超えたい。性別の壁さえをも超えたい、という渇望は高校のころから激しくなりました。ときは70年安保前夜。私は見に合う女物の花柄のブラウスを着て街を歩いていました。そして、いま。中年特有の肉のだぶつきから完全に解放されて、払の体格は20歳前後のサイズに戻りました。だから、男物女物の区別なく、服を着ます。そうとう変わった服も着ます。ゴシックもパンクもスカートもありです。 さて、そんなわけで、2002年の年末に「メサイア」公演の指揮をして、恥をさらけだすことに無上の快感を覚えて以来、私は自分の「地金」をもっと出さねば、と肚が座ってきたようです。もっとやりたいこともあります。 具体的には、私自身が出るステージ・パフォーマンスをなにかやりたい。まだ夢の段階ですが、いくつかの楽器や声楽が入る朗読劇。脚本もなにも、まだありませんので、いつになるかは分かりません。詩の朗読会なら、すぐにでもできますが。 また、サロンは「女性が装って集う揚」でありますが、男性ももっとお洒落をしましょうよ、という呼びかけの気持ちが払にはあります。 かつて、スカートをはいていた、という伝説がある花森安治が「ドブネズミ色の若者たち」と題したエッセイで、男の服装のことを『暮しの手帖』誌で語りかけたのは、1967年のことでした。あれから男の服の基本はなにも変わっていません。男たちの目つきも同じです。 というか、思えば人類が文明をもって以来、もっとも面白味のない服装を戦後このかたの男子はしてきて、社会人として働いていると思います。スーツの利便性、横能性をしのぐ、美しい装飾性をもつ新しい男性の衣服を、デザイナーは考案すべきです。 未来の男の服は、軍服がモデルではない、兵士には絶対にふさわしくない、もはや戦うことが過去のものになった、優雅をきわめたものでなければなりません。戦わない。殺しあわない。目の前の人間を愛することだけをする男。 この地上は、絶対に平和でなければならない。 原爆はいらないし、劣化ウラン弾もいらない。生物化学兵器はいらないし、対戦車砲、無反動砲はいらない。武器はなくなれ。「地球の上の、すべての臥すべての民族、すべての人間が一人残らず滅びてしまうまで、ついに武器を捨てることができないなんて。ぼくたち、この人間とは、そんなにまで愚かなものだとはおもえない。ぼくは、人間を信じている。ぼくは、人間に絶望しない」(『一戔五厘の旗』から「武器をすてよう」花森安治・暮しの手帖社)。 4 花森安治は同じ文章のなかで、こんなことも書いています。 日本国憲法第九条が、「単なる理想なら、全力をあげて、これを現実にしようではないか。全世界に向って、武器を捨てよう、ということができるのは、日本だけである。日本は、それをいう権利がある。日本には、それをいわなければならぬ義務がある.総理大臣は、全世界百三十六の国の責任者に、武器を捨てることを訴えなさい。なにをたわけたこと、と一笑に附されるだろうとおもう。そうしたら、もう一度呼びかけなさい。そこでバカ扱いにされたら、もう一度訴えなさい。十回でも百回でも千回でも、世界中がその気になるまで、くり返し、くり返し、呼びかけ、説き訴えなさい」と。 1968年に書かれたこのことばは、いまこそ重要です。学者でもなんでもない、ひとりの雑誌編集者が、市民の頭でかんがえ、市民のことばで書いた、かがやくようなことばです。 5 「市民安全法」実現推進集会を、10月までに4度サロンで開きました。
国会では「有事法制」や「国民保護法制」が与党を中心に進められていました。「有事法制」では、アメリカ軍と自衝隊の活動が最優先に定められ、「国民保護法制」では、国家に従う国民を保護するにすぎない文言が並びます。市民の生命と安全を徹底的に確保する法律が必要です。それを基本にして、すべてを考えるべきです。 私たちは震災のとき、自然災害被災者を救う法律がなかったから、市民の「有事」にさいしての市民のための「有事立法」は必要だと痛感しました。2年半を経て支援法を成立させた「市民=議員立法」運動は、市民のための「有事法制」づくりだったのです。 「市民安全法」案には、自然災害も戦争も含む、市民のあらゆる「有事」に対応する、生命と安全の確保が訴えられています。集まったみんなで意見を出しあい、遠い人からはメールで意見をもらって、練り上げてきました。 小田実さんが「毎日」東京版に書かれた記事をもとにして、一人ひとりが自らの人権と主権をもつ存在として、生存権、居住福祉権、暮らしの安全確保権、生活基盤回復権、平和をつくる権利、軍・官からの命令拒否権、中立権、非武装都市・地域宣言権、敵・味方の軍・官に対する抵抗権、自主交渉権、自由独立権、白旗を掲げて生命・安全の確保をはかる「白旗権」などをうたったものを、震災のときと同じく、弁護士・伊賀興一さんがまとめあげました。 全文は、ご希望の方には差し上げます。また、パソコンをお持ちの方は、次のアドレスでホームページをご覧下さい。http://www.y-salon.com/jitugennokai_001.htm そこには、最新の、イラク派兵に反対する「2003.12.3声明」も掲載しています。 希望を投げ出さないで、今年も歩いていきます。 いい年に、おもしろい一年にしていきましょう。
西宮在住の作曲家・ピアニスト、久保洋子さんのシリーズも着実に歩みを続けています。 今回は夏に控えるフランス、ル・モンドールでの「サンシー国際音楽アカデミー&サンシー夏のフェスティバル」での久保さんの同僚、ピエール・モンティさんをお迎えしての音楽会になりました。先立つ受講生たちのコンサートでは、学生自作の初演作品が6曲あり、楽器演奏もうまくなって、若者の意欲を頼もしく感じました。久保さんが学生たちに、なにをどう教えておられるのか、私は知る術もありませんが、ようするに久保さんの「人間」全体から「よき感化」を受けているにちがいありません。「久保スクール」の音楽は、ますます豊かです。 モンティさんは1956年生まれ。ヴェルサイユ国立音楽院をフルートで1等賞を得て卒業。ブルダンに師事。エコール・ノルマルではモイーズやランパルにも師事し、ピッコロをプルヴォに師事。世界各国でコンサートやマスター・クラスを行ない、精力的に活躍しているフルーティストでピッコロ奏者です。 久保洋子さんは大阪音楽大学で近藤圭に師事し、フランス政府給費留学生としてパリ留学。ブーレーズが所長を務めるIRCAMに給費研修員として招待され、メシアン、クセナキス、工ロワ、ロリオ、ペトレスクらに師事されました。 いわば「フランス20世紀楽派」のメチエを修得された久保さんは、西洋と東洋の音楽について、たえず考えてきてこられました。海外で受けるのは、ある意味安っぽい「民族性」を表現したものです。よくもわるくも、です。たとえば浅利慶太演出のオペラ『蝶々婦人』の演出はあざといものでした。武満徹の音楽にも、わかりやすい「日本」があったから、あれだけ人気を博したのだと思います。 しかし、久保洋子さんは別の道を歩いてきた。震災を挟んで、もう十数年も久保さんの新作を聴き続けてきていますが、久保さんの耳は内側に向けられています。体内といえばいいのか、細胞に耳を澄ませて、そこに閃き踊る音をつかまえている。理屈で音符を埋めるのではなく、きこえてくる音楽を書く。 プログラムはおおむねフランスの作曲家ばかりです。ブルダン、ギオ、ラヴェル、デュティーユ、そしてアラン・ゴーサン。冒頭にJ.S.バッハ。まんなかに久保洋子。しめくくりが野太く蒼古な風格を帯びた近藤圭の新作。主張のあるプログラムは、しかしいつものことです。 久保さんの新作「アンスタン」は、直観という意味。百合の花のようでした。凛とした白さ。はりつめた輪郭をもった花弁と、色素の強い花粉を支える雄蕊の群生の中央に、すっくと伸びた太い雌蕊の先が、うるわしく濡れています。
足羽俊夫さんはパリ在住の画家。縁ある方にサロンのことを聞かれて、直接にパリから電話を頂き、交流が始まりました。鳥取県日南町出身で、日南町美術館の名誉美術館長を務めておられます。 1931年生まれ。日野農林高等学校に在学中、早川幾忠に師事し、文学、美術、演劇を学ぶ。 1961年、渡仏。パリ高等美術学校で油絵と石版画を学び、卒業作品展では石版画部門で最優秀賞を受賞。1964年から日本人初の同校助手として石版画を教えた。1967年以降は創作活動に専念し、同年出版の石版詩画集『愛の賛歌』がフランス政府買い上げとなる。フランスのル・モンド紙は「足羽は、日本的なものとはまったく絶縁した絵画を作っている。彼が属しているのは、夢を描く画家という一族だ」と評しています。 『私の絵画』という文章で、足羽さんは、こんなことを書いておられます。 「昭和20年、わずか13歳で少年兵として藤沢海軍航空隊に入隊し、その年の夏に敗戦を迎えたことが、私の人生を決定的に変え、『もうどんなことがあっても、ウソで作り上げた世界に生きたくない』と思った。『時代を越え、国境を越えた真実の人間価値はないか。自分の人生を捧げるに値するものはないか』と探した果て、『それは芸術である』と確信した」。 道なき道を歩む、独立独歩の人が好きです。私にはどうも、そういう傾向があります。気が合うし。いつか日南美術館へ足を運んで、足羽さんの油絵の大作を見たいと願っています。
クレアリー和子さんは、今年もサロンを訪れ、一場の夢のようなコンサートを聞かれました。美しいピアノの音色を珠のように転がす技法に加えて、天性の叙情性は、シューベルトの「即興曲」のような作品で、最も魅力的な音楽の芳香を場内にまき散らせます。 もう10年になるのでしょうか。はじめてクレアリー和子さんの演奏をサロンで聴き、強い印象を受けた日のことを調べてみれば、1993年4月11日でした。その日のプログラムは、シューベルト:即興曲作品142-2,142-3、ベートーヴェン:ワルトシュタイン・ソナタ、武満徹:遮られない休息、ショパン:ワルツ作品70-1 ノクターン作品27-2バラード 作品23-1、でした。あのときの「ワルトシュタイン」こそ虹のように美しく、その響きがいつまでも
―― じつはいまでも ―― 耳の底に残っています。人生には忘れられない音楽会がいくつかはあるもので、サロンで開いた音楽会を除けば、たとえば万博時の大阪で聴いたバーンスタインのマーラー「九番」や、上野で聴いたカルロス・クライバーの「薔薇の騎士」など、大規模なスペクタクル的なものに肩をならべるほどの感銘を受けたのです。 リヒテルやミケランジェリも聴いています。ケンプもリリー・クラウスも聴いています。その他、内外のほとんど無数のピアニストたちを聴いてきています。そして、クレアリー和子さんの、あの「ワルトシュタイン」は、いつまでも残っているのです。 スペクタクルに背を向けた、まったくの個人の心情の吐露。あるいは美しいと信じる音色の提示と、よどみない無心の音楽の流れ。クレアリー和子さんは、ただ、そうしたピアノを弾いているだけなのに。 スペクタクルは、ときとして空しくなります。ここには、ただ、自然だけがあります。夜明け。空が白むと鳥がお互いを呼び交わしはじめ、風が吹けば葉がそよぐ。水のながれ。早朝の空気はしんとして、しかし、ものすごいエネルギーを秘めています。 たとえば、そんなシューベルトを、クレアリー和子さんはこの日も弾かれました。シューベルトの音楽ほど「かなしい歌は、みんな美しい」ことを実感させるものはありません。飛翔しようとする旋律も沈み込む旋律も、叩き付ける激情もやさしい慰撫も、すべては内面からはとばしり、しかも作曲家の肉声は彼方から聞こえてくるのです。シューマンは、はるかに人間臭いロマンティクの音楽。人は情熱をもって詩を書くのではなく、情熱そのものが詩であることを雄弁に示すピアノ曲。武満徹に続けて、休みなくショパンにつなぐアイディアは、彼女の独創です。なんの違和感もありません。武満徹は充分にメロディをもった人だったから、内心はショパンのような音楽をいっぱい書きたかったのではないでしょうか。 埼玉県、松伏町の田園ホール・エローラで、2003年12月7日にクレアリーさんのリサイタルが開かれました。ちらしにあったフジ子・ヘミングさんとの写真を掲載しておきます。
これら二つのコンサートは、出演者が共通する善意のコンサートです。 (財)アルカディア音楽芸術振興財団の中村八千代さんは、ソプラノ歌手・寺本郁子さんらとともに、最も早くコンサート会場に盲導犬を入れ、目の不自由な人になまの音楽を楽しんでもらう企画を実行したひとりです。はじめはどこの会場でも難色を示したそうですから、今昔の感があります。盲導犬の行儀のいいこと! 国際ソロプチミスト芦屋も、折にふれてサロンでイベントを開催されます。今回は「芦屋市公立小学校8校に図書を贈る」という趣旨でした。こどもにとっては、読む本が多すぎるということはありません。溺れるほど読んでほしいです。どんな本でも。 いずれのコンサートにも、選ばれたプログラムは、よく知られた名曲ばかり。 しばらく会わない間に、寺本郁子さんの進境が著しいことに驚きました。なにより発声がより自然になり、高音にどこまでも芯を貫いていく強さが備わったこと。それには、師としてシンディア・シーデンにめぐりあったことが大きいそうです。よき師とのめぐりあいを祝います。中村さんともども、アルカディアの更なる発展を祈ります。
かわらず皆さまとご一緒に楽しませて頂いています。今回の朗報は、この会のことを「SPレコード」誌(アナログリレネッサンス・クラブ)に記事を書いていただける記者兼カメラマンさんが現れたことです。
リスト協会のリヒャルト・フランクさんの企画による「国際交流コンサート」。今回はスペインから、現在もっとも幅広く活躍するピアニストの一人、カルロス・ガッラルドさんをお迎えいたしました。 スペイン王立マドリッド音楽院でヴァイオリンを専攻。卒業後、ハンガリー国立リストアカデミー(ブタペスト)でピアノを専攻して卒業。コンピューター音楽にも興味を持ち、作曲家としてもオーケストラ、室内楽、ピアノ曲など78曲がある。 という経歴をもつガッラルドさんのレパートリーは広く、リストの全作品とスペインのロマン派音楽を得意とし、この音楽会では、それらの音楽が演奏されました。 スペイン音楽は、まずリズムにからだが揺らされます。ギター音楽でもピアノ作品でも、特有のリズムの中に、憂いも喜びも、涙や笑いが明滅します。 絵画では、リベラ、ムリーリョ、エル・グレコ、そしてゴヤ。私の好きなスペインには、陰が濃く、同時に光をはげしく渇望している芸術家がたくさんいます。近代でも、ガルシアェロルカの劇や詩にスペインの魂を感じます。ガウディもピカソもカザルスも、人類史上にかがやく巨人です。みんな陰が濃くて、暗闇に生を享けたから自らを発光させようとしたかのような、強烈な表現への意志に生きた人たちです。 グラナドスやアルベニスは、スペインの音楽を世界の人のものにするために努力した作曲家です。ファリャは彼らの後輩で、彼らの手によってスペイン音楽は16世紀の栄光を取り戻しました。いずれもパリで活躍する音楽家たちと交流し、学び、活動しています。作風は、グラナドスがより内省的で、アルベニスはより華やかという、対照的な個性のちがいがあります。アルベニスは旅先で病死。グラナドスは、第一次大戦下のイギリス海峡で、乗っていた船がドイツ潜水艦に撃沈され死亡。まだ49歳でした。 リストの小品は「愛の夢」でも「ラ・カンパネラ」でもなく、忘れられがちなリストの作品でした。リストの全貌を知り、真価を知る人は、まだきわめて少ないと思われます。 「無調小曲」など、1958年になるまで発見されませんでした。「無調」のパイオニア!シェーンベルクがその楽譜を知っていたら!
いっさいの興行から離れて、芦屋ユネスコ・レディス・セミナーハウスの広瀬忠子さんが、きわめて私的なパーティを開かれました。公開のイベントにしなかったのは、ゲストの西本智実さんが非常な人気者であること、出演料なしのご厚意でパーティのゲストとして出席していただけたこと、などの理由からでした。 広瀬さんは私の亡母とはこどものころからのつながりがあり、サロンを開いたときにも「ここから文化を発信しよう」と意気投合した同志でもありました。母は1994年に亡くなりましたが、母が生きていれば、この日も幸せな笑顔を見せていたことでしょう。 広瀬忠子さんとサロンが心を合わせてのパーティは、素敵なものになりました。 西本智実さんについては、もはや知らない人はいないでしょう。大阪出身で大阪音大卒業後、ロシアに留学。国立サンクト・ペテルブルク音楽院で、フェドートフ、ムーシンに学ぶ。1996年、京都市交響楽団を指揮して日本デビューを飾るや、あとは飛ぶ鳥を落とす勢いの大活躍が始まりました。現在はロシア・ボリショイ交響楽団”ミレニウム”の、東洋人初の首席指揮者に就任されています。 パンツ・スーツがぴたりと決まる、彼女の容姿の美しいこと。それに加えて、人柄のよさ。率直な若々しさ。出席された皆さんは、彼女の魅力のとりこになられたようでした。エビス・ミュージック・ロフトの戎洋子さんも同行され、西本さんとピアノを連弾してくださる、という嬉しい時間もありました。 写真は、上段中央が西本智実さん。サロンに集った女性たちが華やいでいます。とても楽しいひとときでしたから、また機会があれば、こんなパーティを開きます。
|
||||||||||||
2004年 1月 1日 発行 著 者 山村 雅治 発行者 山村 雅治 発行所 山村サロン
e-mail yamamura@y-salon.com H P www.y-salon.com Facebook www.facebook.com/yamamurasalon
Twitter http://twitter.com/masa_yamr (山村雅治) Blog http://masa-yamr.cocolog-nifty.com/blog/ ( 同 ) Facebook www.facebook.com/masaharu.yamamura ( 同 )
TEL 0797-38-2585 FAX 0797-38-5252 〒659-0093 芦屋市船戸町 4-1-301 JR芦屋駅前 ラポルテ本館 3階 YAMAMURA SALON Ashiya La-Porte Bldg. 3rd Floor 4-1-301 Funado-cho, Ashiya 659-0093 JAPAN
|
||||||||||||
|
||||||||||||
TEL 0797-38-2585 FAX 0797-38-5252 e-mail yamamura@y-salon.com
〒659-0093 芦屋市船戸町4-1-301「ラポルテ本館」3階 <毎週木曜・定休>