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残酷な人間が支配する 1 日本のみならず、世界が黒い雲に覆われていると感じているのは、なにも私だけではなく、ラブレーやエラスムスの昔、いやそれよりももっと前の古代の人たちさえ、そうでした。古代ギリシアの哲人たちは、人間と世界の無法に深く傷ついていたゆえに、あるべき国家と民主主義について彫り深く考えぬいていたはずです。迷信や占いや呪いに支配された世の中を、そこから脱却させようとして「理性」を発見したように。 杜甫など中国の詩人たちさえ、政治のなかで翻弄されざるを得ませんでした。宗教と政治が不可分な時代のヨーロッパ諸国のなかでは、カトリックと英国国教会のはざまで苦しんだウィリアム・バードの胸中をおもいます。また、フランス革命前夜の異端の小説家、マルキ・ド・サドには「権力」というものを考察する透徹した哲学的知性を感じています。 私はこどものころ、理不尽に暴力をふるう教師に出会ったおかげで、「権力」の性質を知ることができました。権力は暴力とともにある。その味を知った人は無間奈落。人間性が落ちるところまで落ちていきます。反面教師が行き過ぎたのか、私は高校時代にはすっかり「アナーキスト」になっていました。以来、脱権力が私のテーマとなり、権力からはできるだけ遠くに身をおく習慣ができました。 「歴史はサバイバルゲームの記録でしょうか。サバイバルとは生き残りのゲームであり、生き残るためには目の前の他人を滅ぼし、滅ぼしきれなかったものの自由を奪って鎖につながなければならない。東で西で南で北でそうした征伐をくりかえし、われわれの歴史の最後には、ほんとうにひとりの強い勝利者が残ることになるのでしょうか」。 「そのようにして、残った最後のひとりは心から嬉しいでしょうか。対等にことばを交わす隣人がひとりもいない人、もしくは国家。『地の王』からかぎりなくへだたった場所に、私はいたいと思います。そうでなければ誰ともことばを交わせないからです」。 以上は、1992年に出した私の本『宗教的人間』からの引用です。 書いてから10年あまり。湾岸戦争のアメリカに『地の王』、「世界の警察国家」の匂いを嗅いでいましたが、2003年「イラク戦争」のアメリカは、まさにサバイバルゲームに勝ち残る「最後のひとり」をめざしています。公 言さえしています。 いまアメリカを牛耳るネオ・コン(新保守主義者)たちは、アメリカを複数の戦争を行ない得る大軍事国家にし、「アメリカ帝国」を頂点とする世界再構成をなしとげて、21世紀を「アメリカの世紀」にすると吠えています。 『宗教的人間』は、宗教と権力の結びつきを破壊したいから書いた本でしたが、いまやアメリカには「神」さえなくなりました。純粋な暴力への心酔と誇示だけがある。 この種の自己陶酔に狂う人間を、人間の世界では「変態」と呼んでいます。その呼び方は好きではありませんが、力こぶを見せつけ、従え、と鞭をふるい世界を威嚇するさまは、どう見てもマルキ・ド・サドの世界ではありませんか? 彼らの戦争は、だから「快楽殺人」でしかあり得ません。日本の少年犯罪にそれが現れ、日本じゅうが揺れましたが、どうしてアメリカの「サディズム」には不感症で、のみならず、家来として付き従おうとするのでしょうか。 2 昨年出した「2002.9.11声明」は、「誰がどう考えても、アメリカがイラクを先制攻撃するのは間違っている。私たち、日本、世界の市民は反対する。アメリカは国連からの孤立も辞さないし、核による無差別殺戮の可能性さえ断言している。日本はアメリカともイラクとも友好関係を保つ国である。日本は、その立場で、一方的にアメリカのイラク攻撃に加担してはならない。日本は、両国の間で仲介の労を惜しまず、あらゆる戦争行為をやめさせるようにせよ。」という簡潔なものでしたが、英文にも訳してインターネットにのせ、日本と世界の多くの市民から賛同を得ました。ノーム・チョムスキー氏もそのひとりでした。 中山千夏さん、澤地久枝さん、矢崎泰久さん、鶴見俊輔さん、佐高信さん、大島孝一さんらとともに渋谷の街で集会を開き、デモにくりだした2002年12月13日以後も、私たちは折にふれては「声明」を出し、「集会」を開いてきました。 3 2003年
4 地上になにがいらないか、と問われれば、まず「地の王」と答えます。「神」はそれぞれの心に在るものですから、ご自由に。神は、いわば『天』そのもの。私が嫌ってやまないのは、地上で「神」のごとく振る舞い、人間を支配しようとする「地の王」です。 彼らの性質は古今を問わず共通なのに、どうして人類の知性、理性は、彼らの野蛮を凌駕することができなかったのか。 さて、ここから先は、先賢たちの書をひもといても書いてありません。いま私たちは、未見、未聞の領域に足を踏み入れています。ひとりひとりが自分の足で立ち、自分の頭で考え、自分のことばで語ること。必要なものは勇気です。へこたれないことです。そして、笑っていることです。 (2003.8.2 山村雅治)
芦屋ユネスコ協会主催のこの催しは、「国際的な文化・教養を身につけ、新しい婦人のサロン文化を創造し、ユネスコ精神に基づき国際社会に貢献できる女性を育むことを目的」として、1989年4月18日から、8月と12月を除いて毎月開催されてまいりました。 山村サロンは1986年10月30日にラポルテ本館ともども開きましたから、ほぼ開館まもなくのころに、この催しが始まったといえます。もう14年も続いています。 1994年1月までは母も生きていて、この集まりには必ず参加していたものでした。講師の先生のお話を聞くのが楽しみで、料亭、北浜・花外楼のお弁当をいただくのが楽しみで、そして気のおけない友人たちと語らうことが、何よりも待ち遠しい時間だったことでしょう。 とぎれたのは、あの地震の日でした。母の一周忌を目前に控えた1995年1月17日は火曜日でした。前日にこの催しの設営を終え、明日はなにごともなく続くはずでした。はげしい縦揺れに体を飛ばされ(その一瞬前に目は覚めていました)、蒲団をかぶりながら、ただ揺られるまま。ようやく動けるようになってからサロンにたどり着けば、私たちのサロンは無惨なことになっていました。お世話役の廣瀬忠子さんには電話がつながりません。それどころか、サロンのスタッフにも誰ひとりとして電話がつながりません。それぞれに戦っていたのです。生きるために。 震災の日々を経て、私たちの現在があります。 芦屋は芦屋。山があり海がある街。私たちの気風は風土に似て、風通しがよく、停滞しません。それが吉原治良らの「具体美術」や、中山岩太らの「芦屋カメラクラブ」の革新性、前衛性を支える力にもなっていました。震災がもたらした苦痛はなお残り、いまなお血のしたたる傷跡はふさがりません。 しかし、市民は、震災直後のあの阿鼻叫喚のさなかにあっても生きようとしました。1995年3月5日に里井宏次・純子夫妻のお申し出により開いた合唱の無料コンサートには、壊れた家や避難所から出てこられた、いわゆる「被災者ルック」(スパッツに運動靴。リュック)の市民が100名あまりも集まり、ともに歌をうたって瞼を涙であふれさせました。 まだ電気・水道・ガスなどの「ライフライン」は完全には戻されていません。仕事も再開のめどは全然立っていません。私も含めて、水も食べ物も配給に頼っていました。 つぶされたくなかった。歌がながれれば、市民はその輪にはいりに来て、ともに歌った。それが、それこそが、芦屋でした。その後、旧知の音楽家がドイツから、アメリカから、韓国から、東京から駆けつけてくれ、彼らの鎮魂と励ましと祈りの音楽に、生きていく力を得ました。芦屋では芸術は飾りではありません。生活です。芦屋にかぎらず、阪神間に住む人たちは、戦前から精神生活が豊かでした。 よりよい生活をすることに渇望があるから、おしゃれにもなります。洋服は身に合うものを着るのが常識ですから、仕立ててもらう。あるいは布地一枚から自分でデザインして自分で仕立てる。ブランドを渇望するのは田舎ものにすぎません。よその街へ出かけると、明らかに身に合ってない、ブランドの服に「着られた」日本人体型の女の人をよく見かけます。そういえば、日本の洋服文化の草分けともいえる田中千代さんの洋裁学校も、芦屋でした。 女の人のファッションがよみがえらないと、街は復興したといえません。家屋は、まだまだかつての雰囲気をとりもどすには至っていません。それどころか、かつてのお座敷が取り壊され、駐車場やマンションに徐々にかわりつつあるのが現状です。震災で芦屋は多くのものを破壊されました。税収も減り、芦屋市もとうとう交付団体に転落。家屋や家財、お金がなくなっても、それでも芦屋は芦屋です。お金で買えるものと買えないものがあることを、市民はよく知っていて、買えないもののほうがより本質的に人を豊かにすることがわかっているからです。 世間には広く蔓延している誤解があります。芦屋の人たちはお金持ちである、と。 たしかに昭和10年代に開発された六麓荘町をぐるりとまわれば、いまも大邸宅が並び、お金持ちの街を実感せざるを得ません。 しかし、私の先祖はだいたい元禄年間から芦屋に住みついていましたが、まだ同じところに家がある町内には、阪急電車の駅があり、商店街があり、こどものころの遊び友だちはお店のこどもが多かったし、これはけっこう庶民的といえばいえる町です。秋祭りの「だんじり巡行」のお囃子がきこえてくれば血が騒ぎ、いてもたってもいられなくなるのは今もです。寺や神社が、近代的な町内会やコミュニティ・スクールに先んじた「寄り合いの場」としてすでにあり、これらはいまも続いています。震災のときには、私は大いにご近所の人に助けられました。「粕汁の配給が来たよ!」と大声で呼んでくれたりしましたから、このいかにも「隣組」のような風景は、ことによると世間の芦屋の通念をくつがえすものかも知れません。これも芦屋なのです。 私が知っている、いちばん古い芦屋の人は明治13年(1881年)生まれの人でした。ひいばあさんです。長生きして、私の高校2年のときまで、いろんな話を聞きました。髪は髭を結い、いつも着物。真夏の暑い日だけ、あれは洋服というのでしょうか、ぺらぺらの薄い服を着ていました。こう、という名前。娘だくさんで、あい、てい、ゆう、きん、といったひらがな2文字の名前をそれぞれにつけていました。その人の昔話のいくつかを覚えていますが、鮮明に記憶しているのは「よさり」ということばを彼女が使ったことです。これは「夜になるころ」という意味の古語で、調べたところ「竹取物語」に用例がありました。由緒の古い日本語です。思えば彼女の両親は江戸時代末期に生まれた人たちで、祖父母の4人はさらに一世代前の人。彼女の親や祖父母がふつうに使っていた、この「よさり」ということばを通じていま再び考えたことは、持続あるいは継承ということです。 人間の生活、あらゆる文化活動を含めた「生きること」としての生活においては、「変わらないもの」「動かないもの」「昔からあったもの」が、普遍的に残っていくものです。だからこそ、それを守りたい。世の中のほうが変な「流行」に押し流されているから、私は震災後は「市民=議員立法」運動をやったしいまは「良心的軍事拒否国家日本実現の会」運動をやっています。人類の精神の歴史を踏みにじるのは、震災被災者に公的援助をしようとしなかった1998年までの日本だったし、アメリカの戦争に盲目的に追従、加担する現在の日本です。 さて、人はそれぞれ。 ここにご紹介する新聞記事で、芦屋ユネスコ協会の廣瀬忠子さんは「社交の記憶」を語られています。やはり、廣瀬さんも「変わらないもの」「昔からあった」ものを大切になさっています。サロンを舞台にして、すばらしい女性たちが芦屋にあつまります。 巻末の2ベージは、私の書いた「あの頃の芦屋」という文章です。連載2回目にして打ち切りになり、3回目はありません。この項で、少しばかり、私の「芦屋物語」を書いたつもりですが、いずれは長くまとまったものを小説形式で書ければ、と願っています。ひいばあさんの生きた明治から、祖父母が生きた大正から昭和。戦争に行きシベリア抑留の3年間を経て帰還した父の生きた時代。そして昭和生まれの母の人生。
合唱の楽しみは、なににも替えがたいものがあります。高校時代には芸術科目で音楽をとり、授業で練習した「メサイア」からの「And the glory of the Lord」(かくて主の栄光あらわれ)と「Hallelujah」(ハレルヤ)の2曲を、オーケストラ部の「序曲」に続いて音楽会で歌いました。 1968年と69年、神戸国際会館。指揮はいまもお元気な平田勝先生でした。 合唱のいいところは、たとえ素人の発声でも心があつまれば、感動的な音楽になることでしょう。声の質などは皆それぞれ違います。それに音程だって徴妙にとる音が違います。音楽大学を出た人もいて、出てない人もいて、しかし、心の歌声が集積すれば、と祈っていました。だいいち、私さえ音楽大学は行ってません。指揮は学生時代に福永陽一郎先生の講習受けていた、という「前科」があるのみでした。 もともとは、ピアノの山村摩弥とソプラノの田井中由幾子さんが大学以来の友人で、「メサイア」をやりたい、という話を私を交えた3人で話をしたのが発端でした。私自身、自らの実力もかえりみず、いつか「メサイア」を指揮したい、という年来の願いがあり、やってみることを決めました。各曲ごとに解釈のアイディアはあったのです。ここはピアニシモで、とか。ひきずるような表情で、とか。テンポの激変でドラマを創造する、とか。 メンバーが決まったのは7月でした。9月から練習開始。少ない器楽陣も、精一杯の努力をして多彩な音色を工夫してくれました。ピアノとオルガンはサロン備え付けのもの。トランペットとヴァイオリンが入れば、華やかさも叙情も生まれます。合唱も芯になってくれる人がいて大いに助かりました。声楽のソリストたちは、キャリア豊かなプロの歌手です。 さて本番。私はやりたいようにやれたようです。皆さんの助けのおかげで! それ以上は、書くことを慎みます。ただ、このような大がかりなプロジェクトは毎年は無理です。数年に一度。夢をひとつ記しておくと、オーケストラをつけてやりたい、と。 戦争に泣く子供たちに、飢えと病気に泣く世界中の市民たちに、そして日本の親を失った子供たちにと願い、収益を「ユニセフ」「国境なき医師団」「あしなが育英基金」に贈りました。ヘンデル存命中から「メサイア」は義援のために公演された歴史があります。
デムスさんはこのところ毎年サロンに来演。会場の雰囲気と、場内のピアノ、1986年製のハンブルク・スタインウェイを気に入っていただいています。このピアノも年季が入ってまいりました。調律は番匠守さんにサロン創設の1986年以来おまかせしています。震災の年に大がかりな調整をお願いし、スタインウェイの工場に運んで隅から隅まで調整してもらいました。ピアノも震災後は、私たちと同じく新たないのちを生き直しています。 デムスさんのリハーサルは入念をきわめたものです。数え切れないくらいの回数を、どの曲も少年時代からお弾きになっているはず。そして本番のためのすべての曲を練習し終えたころには、ピアノは完全に音色さえも「デムスの楽器」に生まれ変わっているのです。 デムスさんは自ら曲を書かれる芸術家です。そういえば私は「作曲家・ピアニスト」なり「作曲家・楽器奏者」のかたがたが好きです。音楽家はもともとは自作を演奏する作曲家でした。演奏家が専門の演奏家として独立したのは、音楽の歴史から見れば、ごく最近のことなのです。SP時代の巨匠たち、クライスラーやパデレフスキーらに19世紀までの音楽家の姿を見ることができるようです。完全に自分の曲として、彼らは他の人の曲も弾く。パッハマンなどは、やはり気質は19世紀のピアニストそのものですから、ショパンを弾いてもショパンでなくてパッハマンになっています。それでいいんです。それが芸術です。 現代の機能性の行きすぎた演奏スタイルは、たとえば定規ではかって、分度器ではかって人体を絵に描くようなもので、おもしろくもなんともありません。客観とすらいえません。主観がもともとないのだから。 自己表現を追求して ことがない芸術家を、私は愛しています。なによりも芸術は自己を語ること。真実だとおもうことを語り。善いと信じることを悟り、美しいものについて語ることです。ほかのことは、誰か他人にまかせておけばいいのです。 心に沁みるような弱音と柔らかい音色に貫かれたハ長調プレリュードにはじまったバッハは、第1巻と第2巻の「ハ長調」「ト短調」「イ短調」が対比されました。二短調 幻想曲のモーツァルトを経て、当夜のメインプログラム、ベートーヴェンの31番のソナタが弾かれました。この曲は私の最愛のベートーヴェンのひとつです。デムスさんの弾かれるソナタの一音一音に、私のあたらしい発見と喜びがありました。後半はロマンティックな自作曲を経て、ドビュッシー。これがまた美しさをきわめた演奏でした。プログラムはベートーヴェンまでがこちらからのリクエストでしたが、後半はデムスさんが決められたもの。夢見るような幻想とか、光のたゆたいとか、これも一筋縄ではいかない芸術家の一面です。
ゲルノット・ヴィニッシュホーファーさんはウィーン出身のヴァイオリニスト。まずウィーン国立音楽大学でシャンドール・ヴェーグらに学び、その後モスクワのチャイコフスキー音楽院で3年間ヴァレリー・クリモフ(ダヴィッド・オイストラフの弟子)のレッスンを受ける。国内や国際の音楽賞を数多く受賞。ウィーン楽友協会、プラハの春、ブタペストの春などでソロ・リサイタルを開催。1992年からウィーン市立音楽院ヴァイオリン科教授。オーストリアのクレムス市の東西音楽祭の総監督を務めていらっしゃいます。 リスト協会スイス・日本のリヒャルト・フランクさんは日本在住のピアニストでもありますが、これまでにも世界各国から実力ある演奏家をしばしば日本に招かれ、サロンにもご紹介下さっています。今回は、ピアノに若くて有望な、三人のお弟子さんを抜擢されたのが特色でした。フランクさんのピアノの先生は、ベートーヴェン、ツェルニー、リスト、ブゾーニと続く系譜にある、とお聞きしていますが、その系譜に日本人の四人の女性もつながっているわけです。 そんなことを書いてみたのは、ヴィニッシュホーファーさんのヴァイオリン演奏を聴いていて、たしかに「ウィーン」のヴァイオリンなのですが、奏法や音色などに「ロシア」のヴァイオリンを聴くことができたからです。ウィーン生まれのロシア楽派のユニークなヴァイオリニスト! 20世紀の大ヴァイオリニスト、ダヴィッド・オイストラフは5歳のとき、すでに名教師として知られたピョートル・ストリアルスキーに師事しました。オイストラフに師事したクリモフがヴィニッシュホーファーさんの先生だったのですから、これはたしかに「ロシア楽派」の匂いが濃くなるはずです。技芸の継承は個人から個人へ。いまも「学校」という枠はありますが、個人から個人へ、の基本は同じはずです。 人間に賢いところがあるとすれば、技芸に生きる人たちのように、先達から学ぶ、ということができること。連綿と続いてきた音楽芸術の芯棒には、師匠との交流のなかで自ら鍛え、自ら磨いた技芸があります。過去とつながっているから、あたらしいこともわかる、できる。出演された皆さんの大きな開花を期待してやみません。
このチャリティ・コンサートも6年を経て、渚にては6回目、高山謙一さんは2度目の出演になりました。オウブの中嶋昭文さんも出演の予定でしたが、やむを得ない事情により出られなくなりました。機材のみを貸していただいて、当日の音響がつくられました。 まず、高山謙一さん。とても繊細で、とても強い、たったひとりで地上に立つ「男の歌」です。ギターの音色の美しさも空気感のひろがりも、彼が心で楽器を弾いているからです。ことばを大切にしているから、聴いただけでなにを歌っているのかわかります。自作のほかにジルベール・ベコーの歌をカヴァー。私もシャンソン好きですから、これは望外のデザートでした。そういえば、自作の諸曲にもシャンソンの匂いを感じます。ベコーやイヴ・モンタン、レオ・フェレやジョルジュ・ブラッサンス、ジャック・ブレル。彼らの「詩人の魂」を、高山謙一さんは持っています。 そして、渚にて。柴山さんはギター、ヴォーカル。竹田さんはトライアングル、オカリナ、鉄琴とヴォーカル。彼と彼女のデュオは、いよいよあらゆる意味で多彩になってきました。はじまりが、背の低い異星人の早口のおしゃべりのような電子音。おもしろいなあ。 リヒャルト・ヴァーグナーは、たったひとつのテンポで、すべての楽劇を書きましたが、同じことを柴山さんはしてきました。どの歌も時空の支えがなくなったかのような世界を、ひたすらにながれます。そこには情熱も怒りも、諧謔もかなしみもあります。そして、俺の歌はこれだ、という深く、たしかな確信。 特筆すべきは、柴山さんの歌声が前にもまして澄んで響き、高音もすこーんときれいに伸びていました。かくして得られたものは、造型の輪郭の強さと、硬質な音楽の響きです。 前の会報で、私は林直人さんのことを書きました。 「林さんの話はすばらしいものでした。なによりも、心で生きてきた人であることが声に出ているし、人間の心を感じる人であることが、話しぶりから溢れていました。歌えなくても、林直人さんは、話しことばで、強い歌、力強い人間の歌をうたわれました。 渚にての歌に、けものには帰る家がある、という歌詞があったけれども、人間には帰る家がない人もいる……」 別れ際に、私と林さんは両手を固くにぎりあって、来年また会おう、と約束したはずでした。彼に会えなかったのは、かえすがえすも無念です。ご病気と聞いていました。会えないまま7月に、林直人さんは亡くなってしまいました。 まさに一期一会。あれが一期一会の出会いと、互いへの共感と、別れでした。 彼の歌、FLAMEのように、彼は旅立ったのでしょう。
林さん、また会いましょう。そちらで酒でも飲みましょう。 あなたのよく行ったという、天王寺のバーのような酒場で。
往年の大型手捲き式蓄音器、クレデンザを用いてのSPレコードのコンサートです。 回を追うごとに「昔なつかしい」年代のかたはもとより、「はじめて見る、聴く」若い世代のお客さまがちらほらとお見えになっています。まったく電気を通さないでも音が鳴ることのおもしろさ。コンセントがなければ、ヴォリュームのつまみもないのですから、これは不思議な機械と驚くはかないでしょう。 動力はぜんまい。一分間に78回転の猛烈な速度でターンテーブルが回転します。黒い円盤状のSPレコードは重くて、割れやすい性質を持っています。材質はシェラックという天然素材。鉄4あるいは竹の針でレコードに刻まれた溝をトレースすると、その音の振動はサウンドボックスからスピーカーヘと直接伝わり、増幅されます。 テープレコーダーによる「つぎはぎ」は一切できなかったので、片面4分半ほどの時間は真剣勝負でした。ほか、あらゆる電気的効果のつけ加えなどもありません。演奏家は文字通りの「いのち」をかけて集音器に立ち向かいました。 そして、聴く側も「ながら」はできません。大曲も片面ごとに分断されて収められていますから、面を替える、ぜんまいを捲く、針を落とす、という作業も、なかば息をつめて行なわなければ集中がとぎれてしまいます。テンポの早いトスカニーニの「運命」交響曲は4枚8面。一気呵成の迫力のなかに、すばらしいカンタービレがあり、力と歌の両面を兼ね備えたトスカニーニは、さすがに大指揮者です。オーケストラの統率力も図抜けています。もちろん統率力だけでは、単に「揃っている」だけですが、彼のは次元がちがいます。桁外れの情熱と、ぎりぎりにまで切り詰められた造型が、奇跡のようなアンサンブルに結実しています。 クライスラーと、メルバら名歌手たちの饗宴の二回は、クレデンザ・コンサートの原点といえる米ビクトローラ・片面の赤盤のコレクションが中心でした。震災の年に亡き母の友人、前田和子さまから、実家の母上の遺品を寄贈されました。 1929年前後に求められていたもの。一部は戦争で焼けてしまい、一部は震災で割れてしまいました。いま、サロンで鳴り響く片面の赤盤は、「レコードとはなにか」を端的に語りかけてくれています。個人から発した音楽が、遠い日本の個人に届き、はるかな時空をこえて芦屋に漂着し、皆さまとともに楽しむ。 SPレコードが発明されたのが20世紀のはじめの年。両大戦と、関東と阪神淡路の大震災を経て、なお生き残ってきたSPレコードこそ宝です。もっとも、前田さんは放送局や図書館に寄贈を申し込んだけれども、断られた、といいますから、いいなおせば、わかる人には宝です。こうした文化遺産こそ、大切にされなければいけないと思います。聴いてきた人たちの人生が、そこにあったからでもあります。
英国デッカ社は、戦後まずモノラルのスピーカーひとつの機種を出しましたが、ステレオ時代に入って、左右にスピーカーがあるステレオのデッカ・デコラを出しました。これはクレデンザ・コンサートが軌道に乗ったころ、私の手持ちのLPを皆さんといっしょに楽しめれば、と考えて始めました。 だいたい私はオーディオ・マニアではないのです。たまたま高校時代に、レコード雑誌のグラビアにこの機械をみつけて、いつかは手に入れたいと思ったのが発端でした。写っていた人物は、指揮者ゲオルク・ショルティとレコード・ディレクターのジョン・カルショーの二人。見えているレコード・ジャケットは、新録音の楽劇「ヴァルキューレ」のそれでした。 思えば、そのレコードで完結した「ニーベルンクの指環」四部作の大プロジェクトこそが、英国デッカが社運をかけて、優秀録音ができる会社であることを世界に示したものでした。 そして長いこと、そのレコードの英国盤もデッカ・デコラも手に入れずにきていました。震災までの10年間はCDに切り替えていたのですが、震災後のSPとの出会いとともに、家に残っていたLPと再会。少年時代に小遣いをためて買ったものなどには、ちょっと涙が出てきそうにもなりました。私のコレクションにも、まちがいなく私の半生が溶け込んでいたからです。 いま、人生の不思議を思います。あの地震によく生き残れたものだ、と。まさしくあの地震が転機になって、私はレコードの100年間のすべてを味わうことができるようになったし、なんと30年越しにデッカ・デコラと「二―ベルンクの指環」の英国盤まで手に入れることができました。若い人には、本当に手に入れなければならないものがあれば、何年かかっても、何十年かかっても、それが手に入るときがくる、と励ましています。この両者の場合も、金額の問題よりは、売り物として滅多に出回らないことが問題なのでした。レアなものに出会うのは一瞬にしてきり結ばれた、その物品との「緑」でした。 人との緑もおなじことです。いまどき珍しいLPやSPのレコード・コンサートに来てくださるお客さまとのご緑こそを、私はもっともうれしいものに感じています。 |
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2003年 8月 15日 発行 著 者 山村 雅治 発行者 山村 雅治 発行所 山村サロン
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