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戦争か平和か
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誰がどう考えても、 アメリカがイラクを先制攻撃するのは間違っている。 私たち、日本、世界の市民は反対する。 アメリカは国連からの孤立も辞さないし、 核による無差別殺戮の可能性さえ断言している。 日本はアメリカともイラクとも友好関係を保つ国である。 日本は、その立場で、一方的にアメリカのイラク攻撃に加担してはならない。 日本は、両国の間で仲介の労を惜しまず、 あらゆる戦争行為をやめさせるようにせよ。
私たち「良心的軍事拒否国家日本実現の会」「市民の意見30・関西」が発した「2002.9.11声明」は、すぐさま英訳もされ、文言をそれぞれの国に替えて書き直して広めてもいいと書き添え、12月16日の時点で日本と世界の900人以上の市民から賛同署名をいただいています。 戦争が平和を生み出すことは決してない。帰って新たな報復への恨みと暴力を誘発し、はてることのない報復の連鎖を呼びつづけるだけです。 平和は、平和によってしか達成されません。平和憲法を持つ日本は、平和に徹して、それぞれが友好国であるアメリカとイラクに、武器を捨てろと説得すべきです。日本にしか、それはできない。古今に唯一の、戦争をしない宣言を持つ「憲法」が、日本にはある。
先進国では徴兵にさいして、宗教上の理由などに即しての「良心的兵役拒否」の制度が確立されています。日本は、その思想と原理を国の規模に広げて、「良心的軍事拒否国家」として、世界の先端を歩むべきです。 なんのために私たちの親が祖父が戦争へ行き、死に、なんのために普通の市民が無差別空襲で「難死」を遂げなければならなかったのか。世界へ向けての恒久的な「平和宣言」が、日本国憲法ではありませんでしたか。
2002年12月13日、渋谷公会堂で集会。公園通りから宮下公園までデモ。2,100人を集める大きなものになりました。この集まりへの呼びかけ人は、永六輔・大島孝一・大津健一・小田実・小室等・佐高信・澤地久枝・鶴見俊輔・中山千夏・なだいなだ・矢崎泰久・山口幸夫の諸氏。また、志位和夫氏、土井たか子氏も参加、発言されました。 市民がはっきりと意思表示すべきです。戦争はいやだ、と。
2
今年は前半に集中的に「新ウィーン楽派」とその周辺を調べなおしていた事もあり、戦争と芸術、芸術家について考えつづけた1年でもありました。人生がいきなりへし折られる。そうでなくても、ねじ曲げられる。外出禁止令が出ていたにもかかわらず、煙草を吸いに出たところを射殺されたアントン・ヴェーベルン! ユダヤ人のシェーンベルクは。仕事もないままにアメリカへ亡命しなければならなかったし、同じくユダヤ人の指揮者ブルーノ・ワルターは近い親類を、ナチのガス室で殺されました。もっとも、戦争が奪うのは芸術家の人生ばかりではなく、あらゆる市民の生活を奪うもの。むごさは等しくありますが、志しなかばに倒れた芸術家の無念さ、かなしさが、私にはとりわけ痛切に響きます。 ショスタコーヴィチはスターリンのソビエト連邦を生き延びました。まわりでは才能ある音楽家がどんどん弾圧され、殺されていました。ショスタコーヴィチは「私の作品は彼らへの墓碑銘だ」と洩らしていました。
日本の若いチェリスト、赤松稔の名を知る人はどれだけいるでしょうか。また、彼の演奏を記憶にとどめる人はどれだけいるでしょう。1942年、彼はピアニストの横井和子さんと結婚し、1944年、ビルマで戦死を遂げました。
2002年10月10日、大阪いずみホールで、音楽生活60周年記念の「横井和子 ピアノ・コンサート」が開かれました。私は、横井先生に指示された秦はるひさんの中学時代の同窓生であり、サロンで秦さんの演奏会を開くうちに、ときどき先生にお目にかかり、お話を伺う機会に恵まれることになりました。 お若いときから現代音楽を弾かれ、とくに同時代を生きる日本人の新作初演を積極的になさっていたことは、現代の若いピアニストには是非見習ってほしい姿勢だと思います。 リサイタルでは高田三郎の「前奏曲集」より「U.風に踊る陽の光」と「V.藍色の谿間」と、奥村一の「ピアノのためのカプリッチョ」がとりあげられました。いずれも「手書きの楽譜を直接書いた」とプログラムノートに書かれています。透徹した美しい響きに、音彩があざやかに描かれています。そして、まぎれもなく日本の音の響きがありました。 ガルッピの「ソナタ ニ長調」や、スメタナのピアノ独奏曲の数々も、横井さんのほかに聴かせてくれるピアニストはいません。誰も知らない隠れた名品を聴く喜びは大きいです。
後半に日下部吉彦さんとの対談があり、戦時の思い出が語られました。 1942年12月、東京音楽学校を安宅賞を得て卒業。1942年1月、赤松稔と結婚。2月、宝塚大劇場でデビュー。11月、夫出征。1943年8月、長男誕生。1944年2月、夫ビルマにて戦死。 激流のような日々です!戦後はご愛息を赤松家に託し、離れて住まなければならなかったともお聞きしました。しかし、音楽の上でのご活躍ぶりのめざましさは、皆様もご存じのごとくです。記念のCDも場内で頒布されていましたが、ヴェートーベンの4番と3番のコンチェルトが選ばれていました。気韻の高い、すばらしい演奏です。
赤松稔さんとの結婚生活は短いものでした。「ブラームスのチェロソナタを二人で演奏したかった」とおっしゃったことばには胸がつまりました。若い二人の芸術家の夢は叶いませんでしたが、その夢は二人の音楽を知る無数のファンの夢でもあったのです。
震災後から毎年、坂口卓也さんの企画で開催してきたコンサートです。オウブと渚にては例年通りの出演。今回は、高山謙一さんが参加してくれました。 ノイズ・ミュージックのオウブの演奏の素材音は、今回は時計の音でした。「チッチッ」という音がまず現われ、変化し、膨らんでいきます。それは大きな古時計にも、梵鐘の音にも変化しました。時計の音が喚起するものは、私たち震災被災者にとっては表現しつくせないものがあります。午前5時46分という時刻は生きている限りは覚えています。1995年1月17日という日付も同じです。その日のその時刻、被災地の市民たちの「生の流れ」が、いきなり断ち切られました。 6,500を超える数の人が命を落としました。生き延びた私たちにせよ、昨日の生活を今日からも続けていくことは、断念しなければならなくなりました。それでも時は過ぎる。過ぎていく…… 会場で販売されたCDR<01170546>には、今回の縮小阪が収められていて、それぞれ1分17秒と5分46秒です。
渚にては、アコースティック・ギターと、太鼓、テルミンを伴奏に、柴山・竹田夫妻の2人ともがヴォーカルも。最初の歌は、小さな太鼓をはさんで向かい合わせになって。 彼らは、おもしろいバンドです。脱力の極みにみせているのに、内部ではものすごい情熱が渦巻いていたり。必ず「お−っ」と叫びたくなるような驚きを見せてくれるのは、今回も同様でした。 高山謙一さんは、イディオット・オクロックというバンドで活動していた人。最近ソロ・アルバムを出されました。ギター弾き語り。ただし、エレキ・ギター。音量は絞って、美しい音色で。歌の世界は、苦み走った男の味。「ツメタイイキノママ…」が好きです。
マイクを握って話をしたのは、坂口卓也さんと私はいつものことでしたが、場内に林直人さんがおられたので話をしていただきました。彼はアウシュビッツというバンドのヴォー力リストでした。しかし、病気のために、このチャリティ・コンサートには歌で参加できないことを悔やまれました。 林さんの話はすばらしいものでした。なによりも、心で生きてきた人であることが声に出ているし、人間の心を感じる人であることが、話しぶりから溢れていました。歌えなくても、林直人さんは、話ことばで、強い歌、力強い人間の歌をうたわれました。 渚にての歌に「けものには帰る家がある」という歌詞があったけれども、人間には帰る家がない人もいる……
林さんもいったように、この集まりも一期一会。 明日はないかも知れない、というのが、震災が私たちに教えてくれた「人生の真実」でした。時は過ぎます。生きるのをやめないで、みんな歯を食いしばって生きています。 2003年は、4月29日に予定。続きます。
人が音楽に感動するのは、演奏者の技術に感動するのではありません。技術は誰の目にもみえますが、芸術は見える人にしか見えません。現代は空しい技術だけを誇示する音楽家があまりに多く、意味のない音響が右から左へ、ただ目の前を通り過ぎていきます。心から発する音楽でなければ、人の心へ届かない。技術を磨くには心は邪魔になるから、音楽からどんどん心が抜け落ちてきています。 クレアリー和子さんのピアノ・リサイタルは、毎年、回を重ねるごとに「大切なこと」だけが磨ぎ澄まされて、耳へ心へ届きます。 「彼女のピアノ奏法は、現在では珍しいユニークなものです。なによりも重力のない空間を珠玉のような音色が転がる妙味は、あまり聴いたことがありません。クレアリー和子さんはフェルッチョ・ブゾーニやヨーゼフ・ホフマンの孫弟子であり、十九世紀末から二十世紀初頭にかけて活躍した大ピアニストの奏法を、正確に継承されているのです」という、1999年の「会報」の評文は、オークランドの「スタインウェイ・リサイタル・ホール」でのリサイタルのときにもアメリカで紹介されました。 SPレコードを通じて、パッハマンやパデレフスキーらのピアノ演奏に魅せられるものがあればこそ、クレアリー和子さんの奏法が見えてきたのでした。
だから「月光」は、スタイルの上では、ほかの誰よりもパデレフスキーに似ていました。音色自体はむしろ軽くきらきらと煌めきながら、終楽章は音楽に没入し、音楽と呼吸をともにしつつ、内面の燃焼に身を捧げた演奏。それがたとえば、音量の増大とか、これみよがしの曲芸的技巧の誇示とか、むやみな加速とかという外面に現れることは決してないのです。表面しか見えない人には、彼女の芸術は見えない。 音色は涼やかにきらめいたまま、奥に広がる響きには、詩情を湛えたなつかしさを感じます。「ワルトシュタイン」や、初期ロマン派のシューベルトやシューマンは、自分の歌をうたうことが、そのまま音楽の心を伝えることにつながっていきました。 2002年10月19日、クレアリー和子さんは、埼玉県松伏町の田園ホール・エローラでリサイタルをもちました。終演後のアンケート結果をお送りいただきましたが「心から豊かになり幸せな気分になりました」、「いわゆるピアニストとは違った何かとても人間的な暖か味、親しみの伝わってくる、心のある優しい音」など、心から出た音楽が心へ届いたさまがわかります。「フジコさんのようなピアニスト」という記入もあります。 そのフジ子・ヘミングさんも、クレアリー和子さんのピアノ演奏が大好きなのです。ここにカリフォルニアで書かれた一文があります。「秋の夜、サンフランシスコで、クレアリー和子さんの弾くショパンの繊細な美しいひびきで、私はうっとりしました。フジ子・ヘミング」。
京都の朝倉泰子さんの企画による音楽会。この3人の演奏家のアンサンブルを芦屋のファンにも是非お聴きいただきたい、というお申し出を受けて、喜んで共催させていただきました。 朝倉さんのテアトロ・マロンは、1986年創立の山村サロンよりも歴史は古く、同じように「勝手に一人で企画して、音楽会をやる」場所。採算は度外視、というのも同じです。震災前には、しばしば共通の企画で芦屋・京都の連夜公演も開催したものでした。
アルバート・ロトさんは、けっして鍵盤を叩きつけることがないピアニストです。ブゾーニ編曲の「ラ・カンパネラ」は、いうまでもない難曲です。しかし、そこに創造されたピアノの響きのなんと羽毛のように軽やかなこと。せせらぎか、小枝を渡る朝の風のような開始部の浮遊感!不思議なことに、ここでも思い出されたのは、かのパデレフスキーのSP盤に聴く「ラ・カンパネラ」なのでした。ジュリアード音楽院卒、1966年にブゾーニ国際コンクール金賞受賞などというキャリアをもつロトさんの奏法にも、現代の機械的なものではない昔ながらの美しい音楽への感性と奏法が生きているのです。
ヤン・ソンウォンさんは、ロトさんとともに震災後、まっさきに義援コンサートを開くために駆けつけてくださった音楽家のひとりでした。大きく頑丈そうな体格は、武道の有段者のようであり、舞台姿も自信に溢れた安心感がみなぎります。とはいえ、バッハの無伴奏。バッハは人を謙虚にさせます。厳格なシステムに即して、こうとしか歩みようのない音符が連なり、そうとしか生きようがない人間を、いつしか真実へ、善へ、美へ連れ去っている。呼吸がいつの間にか深くなり、心臓の鼓動が落ち着きます。歩みも瞑想も踊りも、すべてが奥底から噴き出る喜びのかたちとして生まれてくる。ヤンさんの演奏は、音符にすべてを語らせようとする誠実なものでした。
若林暢(わかばやし・のぶ)さんのヴァイオリンには、2001年12月14日にサロンで開かれたコンサートで初めて接し、熾烈な表現意欲と、それを余さず音化していく技術に魅せられたばかりでした。とりわけ吉田隆子作品の演奏は、凄いの一言。 今回のモーツァルトは、有名なト長調のソナタ。過去の名演奏家のどのレコード、どの実演を通じても「若林・ロト」デュオの演奏がいちばん好きです。どんなテーマ、ただ四分音符が並んでいるだけのどんな経過句にさえ、若林さんは瞬時にゆらめくモーツァルトの音楽を捉え、どの四分音符にも異なる強さと長さとニュアンスが与えられていました。 さらに驚くべきは、ピアノが歌っていくところに長い音符を鳴らす場面。彼女はワン・ボウで弾ききり、その結果、浸透的かつ陶酔的な、彼女だけの響きを創造したのです。ワン・ボウで一つの高さの音を弾く時間のなかにも、無限の音色の変化がありました。 彼ら三人によるメンデルスゾーンは、それぞれ異なる音楽性をもつ音楽家たちの「合わせ」の楽しみ。私も、ただ楽しんでいました。
Vesselin Paraschkevov と書きます。ブルガリア、ソフィアに生まれた名ヴァイオリニストは、1973年からウィーン・フィルの、1975年からはケルン放送交響楽団の第一コンサートマスターを務め、1980年からエッセン音楽大学教授。 彼をサロンにお招きできたのは、まず大阪フィルのヴァイオリン奏者である関口美奈子さんの発案と、そのご友人の加藤禎子さんのご協力があったからでした。加藤さんは、ケルン市立歌劇場のヴァイオリニストであり、パラシュケヴォフさんの奥様でもあります。事前に関口さんから数枚のCDをお借りしました。山村サロンで彼のリサイタルを開く場合に、最善のプログラムは、古今の無伴奏のヴァイオリン曲を並べることと思いつき、打診しました。 パラシュケヴォフさんは、即、快諾。日程も、彼の台湾への演奏旅行の期間と、関口さんの大阪フィルの演奏会のない日を選んで、この日に決まりました。
有名な「シャコンヌ」を終楽章にもつ、J.S.バッハの「パルティータ第2番」は、サロンではソロ・ヴァイオリンを弾いてくださる方には、必ずお願いしてきた作品です。清水高師さん、高橋満保子さん、そして吉田亜矢子さんら。この曲は好き嫌いを超越した作品ですから、どなたの演奏にも敬意と謝意を抱いています。いずれも全身全霊をぶつけられた、人間が「全体」として偉大な作品に挑んだ「芸術」でした。
パラシュケヴォフさんの演奏も同じです。「パルティータ」冒頭の音量は控え目であり、大げさな身振りも、声高な抑揚もいっさいありません。いったん水が湧き出せば、こんこんとあとからあとから湧いてくる、泉のごとき前奏曲。音色はきらびやかさを遠ざけて、むしろ短調の曇り空そのままです。 晴れた日や雨の日が美しいように、曇り空は美しい。バッハの最後の作品「フーガの技法」は、ほとんど全編が曇り空の広大さに支配されています。明るい太陽は雲の向こうに輝いているし、雨粒は霊のなかに内包されています。ポリフォニー自体が対立するものを同時に進行させる技法であれば、バッハの音楽は、なるほど曇り空の美しさもあり得るわけです。 「シャコンヌ」に至っても、パラシュケヴォフさんは人為を感じさせぬままに、泉を湧かせ続けます。この上なく豊かな泉。水底は、すでに果てしなく深く、光の届かない闇の世界の音もあり、光を求める水の祈りが聞こえてき、悲しさと絶望が渦巻き、あらゆる叫びと戦いと、なぐさめと励ましと、ついに水底まで貫通する光と、光が泉の全体に広がっていく輝かしいさまと……
バルトークとイザイは、無伴奏ヴァイオリンのための20世紀の傑作です。 バルトークは、1944年にユーディ・メニューインのために、実験的な手法を用いたソナタを作曲しました。イザイは、自身が偉大なヴァイオリニストで、6曲ある彼の「ソナタ」は、1924年に書かれ、それぞれ同時代を生きた名ヴァイオリニストに捧げられたものでした。 イザイもバルトークも、もはや古典です。パラシュケヴォフさんの演奏には無用な尖りが一切なく、あるがままに彫り進めて、音楽の構築を示すものでした。
恒例になった河野保人さんのツィター演奏会です。夏になれば、アルプスの谷間に谺するようなツィターの響きが涼やかに、なつかしく、サロンに響きます。 絃をつまびく、という楽器はほとんど無限の種類があります。打楽器や笛を含めて、民俗楽器を見れば、つい音を出したくなりますが、それは民俗楽器が、普通の人間の普通の生活がより凝縮された「音楽」を奏でる楽器だからです。 河野保人さんは、たくさんのツィターをお持ちになっています。たとえば下の左図。 2002年2月17日にダミアン原田さんが弾かれた「フランス・シター」は右図のような楽器です。左手で和音を響かせ、右手で旋律を弾くのが基本です。
フランス・シターに興味をお持ちの方は、どうぞ下記までご連絡ください
日仏文化サロン・日本シター協会(主宰・長谷川亘利さん) TEL 078-841-2309 FAX 078-841-2728 E-mail hasenobu@apricot.ocn.nejp
小田実さんが代表になっていた「べ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)は、1964年に「ベトナムに平和を!」「ベトナムはベトナム人の手に」「日本は戦争に協力するな」の三つの目的のもと、1974年に解散するまでつづいた市民運動でした。このほどホーチミン市の戦争証跡博物館から「べ平連」運動の資料を保存・展示したいと申し出があり、小田実さんを含めて30人がベトナムを訪問されました。平和を求めるベトナムと日本の市民の交流は、今年の夏、サロンでも行われました。
サロンにあるパイプオルガンの所有者、宮田乃梨子さんは古典から現代に至るまでの広範なレパートリーをお持ちになっています。精力的に海外へ演奏旅行もされますが、サロンでは私の話とSPレコードを交えて、広く音楽を楽しむ企画を考えました。 今回はゲストに、ヴァイオリニストの西川富貴さんをお招きしました。西川さんはヴァイオリンを教えるかたわら、善意で施設へ出かけて、音楽の喜びを届けることもなさっています。「日本歌曲集」からの、たとえば「赤とんぼ」などは、何人もの身寄りのない人たちの心を慰めてきたことでしょう。「アヴェ・マリア」以下の3曲にも気持ちがこめられていました。
オルガン独奏の諸曲は、一般的にはあまり聴かれているとはいえないものばかり。名曲揃いなのに。モーツァルトに関していえば、たしかにこの「アンダンテ」をもって彼の代表作であるとはいいません。しかし、世のモーツァルト好きの皆さんには、かのアマデウスも一時期、猛烈にフーガの勉強をしてオルガン曲も書いた、ということを知っておいてほしいと思います。ブラームスのオルガン曲にも、ブラームスならではの味と個性の刻印があります。マックス・レーガーは、むかしから好きでした。「マリアの子守歌」や、いくつもの「変奏曲とフーガ」など。
私の未知だった作曲家、この演奏会がなければ出会えなかった作曲家は、アランです。 ジュアン=アリスト・アラン。Jeha-Ariste Alain, 1911-1940。彼は名オルガニスト、マリーニクレール・アランの兄で、音楽一家に生まれた人でした。 1927年、パリ高等音楽院へ入学。マルセル・デュプレにオルガンを、ポール・デュカに作曲を学び、即興・作曲・和声・対位法の四部門で一等賞。1936年から教会オルガニストを務めています。 1940年、29歳で夭折。病気ではありません。軍属として警備中、ドイツ兵により殺害されました。 「リタニー」Litaiesは、連祷の意。 1937年に書かれた祈りの音楽です。感動しました。
それにしても、若い才能が戦争に巻き込まれ、つぶされたことには怒りを禁じ得ません。銃殺されたアントン・ヴェーベルン、スペイン内乱で惨殺されたフェデリコ=ガルシア・ロルカ。ガス室へ送り込まれた有名無名の、ユダヤ人の優れた才能!・・・・・・ ジュアン・アランについては、詳細をきわめたホーム・ページがあります。覗いてみてください。http://jehanalain.com/ です。
久保洋子さんと若い同士たちの「音楽の旅」は、21世紀にも続きます。というのも、久保さんの新作発表の場でもある「デュオ・リサイタル」に先だって、受講生によるコンサートがあり、その全体が「21世紀音楽浴」だからです。回ごとのテーマを追って、論文も提出されます。なかなかにアカデミックな空気があって、受講生のコンサートでは、私はただただ目を細めているばかり。将来、活躍するだろうな、と確信できる若者がいます。 継続は力とか。 久保洋子さんとの交流は、すでに10年をはるかに超えました。久保さんの自作ばかりのピアノ・リサイタルが皮切りでした。あのころ私はまだ30代。久保さんも創意と冒険がおもしろくて仕方がない感じの、若手の作曲家/ピアニストでした。 私は1995年の震災を契機に、人生が変わりました。久保さんも、明らかに作風が変わりました。地震に目が覚めたら、いきなり空が見えていた、という久保さんの眼差しは、より内面へ向けられているようです。精神も肉体もある私たちの命。その根源へ。 だから、作品にエロスの表現が出てきたのだし、透徹した感覚は抽象的な「音の詩」を生み出しもしました。久保さんには、もはや新奇なものはいらない。 ほんとうのことをいうときに、人は声が低くなり、ことばの数が少なくなる。きりつめられて、選び抜かれたことばだけでいい。
そのように、久保洋子さんの新作は、どんどん短くなっていきます。これは私も予感していたことでしたが。 今回の初演作「ピュルテ」は「純粋さ」「正確さ」「端正さ」の意。「非合理的なものを、西洋の語法で出来るだけ詳細に正確に表現することを試みた」とノートにはあります。 非合理的なものとは何か。愛かもしれないし、神かもしれない。いえることはただひとつ、この作品はほとんど人為の跡をみせない、閃きと気品の高さを感じさせる作品でした。
近藤圭さんの初演作「伝統と構造W『行灯』」は、文楽「艶容女舞衣―酒屋の段」から生まれた音楽作品であるとのこと。オペラ「出雲の阿国」(1995年初演)の作曲者であり、日本の伝統芸能一般にとても詳しい作曲家の連作「伝統と構造」には、いつも野太い力を感じます。風雪をとりこみながら逞しく苔むした巨木。 近藤圭さんは、シェーンベルクやバッハよりも、むしろまっすぐに世阿弥や竹本義太夫や河竹黙阿弥らと直接につながる作曲家です。こんな人は、ほかにいません。
手巻き式大型蓄音器・クレデンザでSPレコードを聴く会も、順調に続いています。 最初のころは、なんだかおそるおそる鳴らしていました。クレデンザがまだ部屋になじまないでいるとき、音量が小さく感じられる日もありました。針も試行錯誤しました。盤も、皆さまのご厚意の寄贈盤が積み重なり、また自分でも集め、徐々に充実してきました。
一枚いちまい、私は盤の重みを感じながら洗浄していく。その時間が至福のとき。なぜなら世間ではゴミ扱いされるほかないSPレコードが、その時間を経て、私たちが生きている現在に蘇るからです。寄贈盤の場合には、とくに、愛聴されていた方の体温や息吹や感動を感じることがあります。幸運にも戦災で焼け残り、震災にも割れ残った、昭和初期から戦後すぐまでのSPレコードは、それぞれに前の持ち主の人生が沁み込んでいます。 レコードは貴重なものでした。ふつうのファンは、一食抜いてでも、電車をあきらめて歩いて帰宅してでも、一枚のレコードを求めたものでした。聴くほうは真剣勝負。演奏家も、そのころはテープ編集ができなかったために、一発勝負。片面が4分半ほどしか収められないので、大曲の場合には「ながら」鑑賞はできません。
もっとも、SPレコードの最初期(1900年の発明から1920年代いっぱいの旧吹込み)は、カルーソーやメルバらの短い歌を通じて普及しました。そしてパッハマンやパデレフスキーらのショパンの音楽、カザルスやクライスラーの弦楽の小品など。交響曲やオペラは、さすがにもっと録音技術が熟してから現れます。 あのころは巨人的な大指揮者、弦楽奏者、ピアニスト、歌手たちが、命をかけて音を刻み、聴くほうも命をかけて聴いた。私たちも、そのようにして回を重ねています。
こちらはステレオ電気蓄音機、英国デッカ社「デコラ」を用いてのLPレコードの鑑賞会です。ものごころつけば、もうステレオLPの時代でした。おもしろく思うのは、クレデンザの会のお客さまとブルーノ・ワルターの話をしたときに「私はワルターの田園を聴いて音楽が好きになった」とお聞きして、思わず「僕もです」といったのですが、彼はウィーン・フィルとのSP盤、私はコロンビア交響楽団とのステレオLPだったのです。
それが小学校6年の夏休みのこと。音楽が好きなのは、もちろんそれ以前からでしたが、LPを自分のものとして買ってもらったのは、その日本コロムビア盤(OS193)が最初の盤でした。それまではディスク社のソノ・シートしか、わが家にはなく、「運命」も「ジュピター」も「悲憤」も薄いシート・レコードで聴いていました。思うにこれは、いちばんよくかける私が子供だったからで、子供は何をしでかすか判らない、高価なLPを触らすわけにはいかない、という父親の配慮だったにちがいありません。 父はもともとクラシック音楽が好きで、SPレコードもたくさん持っていました。しかし戦災で全焼失。終戦時には満州にいて、シベリア抑留。昭和23年に舞鶴港へ帰還。結婚して会社員として会社と北新地(!)で働く日々には、なかなか「また音楽を聴く」時間が訪れなかったようです。私と父の「LP集めの旅」は、共有の体験として「ワルターの田園」から始まることになりました。
さて、一挙に現在を迎えました。両親ともに、すでにこの世にはいません。レコードをかけると、私はいつも思い出します。父が海外出張から帰ってきたとき、収穫物としてのドイツ・グラモフォン盤をかけるときの胸のときめきと、温かい紅茶の湯気。そしてアラジンの石油ストーブの青い炎。デコラ・コンサートは、私としてはその延長としてあります。 21世紀のための新刊・新譜告知版(新企画/掲載時)
まず書物、小田実さんの平和の思想が「戦争か、平和か」と題された一冊の本にまとめられました。大月書店刊。
現代は「正義の戦争」をふりかざす「戦争主義」と、いかなる戦争にも正義はあり得ない、どこまでも非暴力手段で問題解決をめざすべきと考える「平和主義」がせめぎあっています。 これは、きわめて分かりやすく「原理」「原則」が述べられた本になっています。
テロリストも戦争国家も「妄念」に支配されています。「平和主義」を定めた憲法をもつ日本は「良心的軍事拒否国家」として、堂々と21世紀の世界に自己を主張すべきです。 CDは、この一枚を。 大井浩明さんのピアノ。タマヨ指揮のルクセンブルク・フィルによる演奏で、クセナキス作曲「シナファイ」が入る一枚。MIC1068(M-plus Domestic, 日本盤)。
大井さんとは、彼がサロンへ三宅榛名さんのコンサートを聴くために来たとき以来の交流があります。これは彼の、世界にリリースされたCDデビュー盤です。 現代音楽は難しい、と敬遠される方は、この奔流のような音楽のエネルギーに、ただ身を任せてみてください。おもしろいです。
1970年、万博の鉄鋼館で「ヒビキ・ハナ・マ」を聴き、クセナキスを知りました。彼の音楽は無機的でも退屈でもなく、むしろ途方もない自己主張の力に満ちたものです。 俺はここにいる。その叫びは、古今の芸術家が誰しも持っていたものです。
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2003年 1月 1日 発行 著 者 山村 雅治 発行者 山村 雅治 発行所 山村サロン
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