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不死の人
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パリで活躍される奈良ゆみさんは、帰国されれば必ずサロンに来られます。2001年11月18日ご来訪時には、12月の大阪でのリサイタルについての話が主になりましたが、なによりも作曲家・松平頼則(まつだいら・よりつね)さんのご逝去に関する話に胸をしめつけられました。 94歳にして、なお五線紙に向かう日々を続けられていた、世界の作曲界の長老の活動は、当初から世界を相手にしたもので、チェレプニン賞やワインガルトナー賞を受賞して、海外で早くから演奏されました。尹伊桑(ユン・イサン)も「自分を始め、アジアの作曲家たちへの大きな励みになった」といったとのこと。彼は雅楽を研究し、西洋近代和声と融合させることで独自の音楽を創造しました。 作曲家は、自分の書く音楽を、いのちあるものとして再創造できる演奏家が発見すれば、その人のために曲を書く。松平さんにとっては、ソプラノ歌手・奈良ゆみさんが創造の霊感を吹き込むためのミューズでした。モノオペラ「源氏物語」や、三好達治の「いにしへの日」、そして百人一首。絶筆となったのも彼女のために書かれた作品「鳥の急−迦陵頻 −」でした。 ご逝去の日のわずか一週間前に、新作についての自筆の手紙がファックスで奈良さんのお宅に届き、松平さんの死の数時間後に、パリの奈良さんの手元に届けられた……。 12月12日のフェニックス・ホールでのリサイタル「いま、魂の歌を!」は、すばらしいコンサートになりました。ジョン・ケージがあり山田耕作がある。ファリャがあり、ヴァイルがあり、シャンソンもある。高貴も卑俗も、前衛も大衆も、ぜんぶ引き受けて、しかも歌っているのは奈良ゆみさん以外のなにものでもない、というすがすがしさ。 すべてのプログラムが終わって、奈良ゆみさんは松平頼則さんとの縁を話され、彼の曲を歌いました。分けても「七月の歌」!圧倒的な超絶技巧が駆使された歌曲で、奈良さんでなければ、という作曲家の思いまで伝わります。 栄誉をうけながら、松平さんの最晩年は幸せではありませんでした。ひたすらに奈良ゆみさんの歌声を求めて曲を書いて、果てた。ゆみさんは歌う。そして、ゆみさんの歌を聴いた次の世代の歌手が松平作品に挑むでしょう。 だから、作曲家・松平頼則は、死なない。 2 コンサートで、ほかに衝撃を受けたのは、シェーンベルクでした。おそらく10年以上は聴いていませんでした。「月に憑かれたピエロ」から「月に酔い」と「夜」。高校生のころ、新ウィーン楽派は、少年たちの流行でした。いつの間にか遠ざかっていたのですが、奈良ゆみさんのなまなましい歌声に突き動かされ、血が逆流するほどの上気を覚えました。ああ、僕はシェーンベルクが大好きだったんだ、と。 アーノルド・シェーンベルクは、2002年初版のArnord Schoenberg's Journey / Allen Shawn (Farrar, Straus and Giroux)のカバー見返しにいわく、「聴かれるよりも多く議論され、愛されるよりもずっと多く我慢されてきた」。 グレン・グールドがあれだけ多くの説得力ある文章を書いても、チャールズ・ローゼンがコンパクトなロングセラー本を書いても、なお世界中でシェーンベルクは「お客を呼べない」作曲家なのです。本なら、それらよりもシェーンベルク本人が書いたものを数冊読めば、どれだけ真摯に古典を勉強した人なのかがわかるし、それよりも大切なのは、彼の音楽を聞くことです。 彼は12音音楽を、調性から開放されるものとして書いたはずです。解き放たれる喜びがなければ彼の音楽ではありません。たとえば「弦楽四重奏曲第2番 嬰へ短調 作品10」は、ソプラノ独唱を伴った独創的な作品ですが、シュテファン・ゲオルゲの詩の内容とともに音楽の手法が変化します。終楽章では、ついに調号による調性の固定が放棄されているのみならず、調性そのものから脱却します。契機となった詩にはこうあります。 「私は他の遊星からの大気を感じる。親しげに私の方を振り向いた多くの顔が暗闇にかすむ。…私は音のなかに溶けていく。旋回し、うごめきながら。いわれのない感謝と、名もない賛美のうちに、偉大な息吹に、望みもなく身を委ねながら」。 初演は当時のウィーン・フィルのコンサートマスターだったアルノルト・ロゼが率いるロゼ四重奏団と宮廷歌劇場の歌手、マリア・グートハイル=ショーダー。シェーンベルクの理解者たちは、たまらない興奮と喜びを覚えただろうと推察できます。しかし聴衆の反応は以前のどの作品の初演時をしのぐ反感と憎悪のみ。「波のような笑い声と野次と口笛とが巻き起こり、演奏は聴こえないほどだった」と、伝えられます。 シェーンベルクの人生は、想像を絶するまでの戦いの連続でした。1874年に生まれ1951年に没した彼は、時代にも翻弄されました。ユダヤ人だった彼は、クレンペラーの意見を入れたコーリッシュからの電報にしたがって1933年にベルリンを脱出。収入の道も閉ざされたままアメリカに向かいます。「ナポレオンへの頌歌」と「ワルソーからの生き残り」は、ヒトラーとナチスへの弾劾の音楽です。シェーンベルクが「ぐれの歌」を作曲していたころから、100年立ちました。彼の再評価と、真の音楽の巨人としての復活が、やがて始まります。 3 息をつなぐものがいる。偉大な芸術家には、いつかきっと、全身を受けとめて、その人の作品を再創造する人間があらわれる。 彼が時代の前衛に立っていたからだけではありません。それよりも多く、むかしからそうであった、変わらない古典にも土台を据えていたからです。それが、あたらしい、ということ。ひとりの芸術家は、偉大な先人の息をつないできました。その人は、だから朽ちない。むかしもいまも、そして未来にも、誰かによってその息をつながれていく、不死の人です。 (2002.8.3 山村雅治)
京都テアトロ・マロンの朝倉泰子さんの企画で、すばらしい音楽会を開くことができました。2001年9月11日のニューヨーク・テロを受けて、すぐさまジョージ・ブッシュはアフガニスタン空爆を開始。しゃにむにアメリカに追随しようとする日本。 朝倉泰子さんは戦争を体験された女性です。彼女が訴えたかったのは、吉田隆子の作品に熱く流れる人間の心です。 作曲家・吉田隆子は1910年東京上目黒の広大な屋敷に生まれ、ピアノをローゼンスタントに、作曲を橋本國彦・菅原明朗に師事。1929年、人形劇団「プーク」の創設に参加。1932年にはプロレタリア音楽同盟に加盟しました。官憲による弾圧を4度にわたり受け、1940年の逮捕のさい、獄中で結核性腹膜炎を患い、戦中を病床で遇ごした後、戦後奇跡的に回後して作曲活動を再開しました。 1956年、46歳で逝去。 与謝野晶子の詩はあまりにも有名です。日露戦争戦に参加している弟に捧げられた詩です。あなたは死ぬな、と。旅順囗包囲軍の中に在る弟を嘆きつつ。 ああおとうとよ君を泣く/君死にたもうことなかれ/末に生まれし君なれば/ 親のなさけはまさりしも/親は刃(やいば)をにぎらせて/人を殺せとおしえしや/ 人を殺して死ねよとて/二十四までを育てしや に始まる、5連にわたる痛烈な詩。 「お百度詣」は大塚楠緒子の詩。漱石に小説を、和歌を佐々木弘鋼・信綱、絵を橋本雅邦に学んだ大塚楠範子は、才色兼備の人でした。しかし惜しくも夭折。1875年から1910年までの35年の生涯でした。 ひとあし踏みて夫恩ひ/ふたあし圃を恩へども/三足ふたたび夫おもふ/女心に咎ありや/ 朝日に匂う日の本の/國は世界に只一つ/妻と呼ばれて契りてし/人は此世に只ひとり/ かくて御國と我夫と/いづれ重しととはれなぱ/ただ答へずに泣かんのみ/ お百度詣ああ咎ありや 初出は「太陽」明治38年1月号。日露戦争の時代に、このような詩が掲載された雑誌が、公然と刊行されていたのです。 ヴァイオリンとピアノのための「お百度詣」は、この歌曲を編曲したものです。 ヴァイオリン・ソナタは、1938年に、夫の久保栄の戯曲「火山灰地」のために付けた音楽が原曲です。作品の舞台lは帯広と音更。ソナタには、きりりとした3楽章形式のなかに、北海道の民謡「あみおこし唄」「舟こぎ唄」「死んだ娘の歌」、そして「部落祭り/昼」が響きます。 これら2曲の歌と2曲のヴァイオリンとピアノの音楽は、いま虚心に耳を傾けられるべきです。なぜなら21世紀の現在、プロレタリア芸術、もしくは社会主義的リアリズムという概念・芸術運動は、もはや影も形もなく、ここにあるのは、ただ裸形の魂を厳しく造形化したすぐれた音楽だけだからです。 なにか色眼鏡で見られていたからか、作曲家・吉田隆子は、日本のいちばん広範な音楽事典「新訂・標準音楽辞典」(音楽の友社)にも載っていません。おおきな音楽家なのに。 私はかねてから小松耕輔、杉山長谷夫らがのこした、戦前の日本歌曲が好きでした。信時潔や清瀬保二を含めて、それらの魅力は、最晩年の柳兼子の歌唱を通じて知ったものでした。清潔な情緒。平明、簡潔な音楽の姿。それまでは邦楽しかなく、自身にも身についた邦楽から断絶することなく、日本語の歌詞に西洋音楽の旋律と和声を付ける仕事は、とくに「明冶」を生きた音楽家にとっては新鮮なものだったにちがいありません。 その「初心」が吉田隆子の音楽にはあります。文語の七五調には、それ自体に凛とした気韻が籠められていますが、定型の厳しさを自由な想像力をもって抉り、彫り深く、しかも親しみやすい旋律を探り当てていきます。 かなしみ。それは情緒です。情緒だけなら崩れ落ちていきます。 吉田隆子には、かなしみをこえて歩む祈りがあり、造形をめざす強さがあります。 ヴァイオリンとピアノのための「お百度詣」は、短いけれども圧倒的な印象を与える作品でした。最高音に祈りと叫びがぎりぎりまで秘められた、音の優雅な、しかし熾烈をきわめた舞い! さらにヴァイオリン・ソナタには彼女の劇性が現れます。モデラート-レント-ヴィヴォの3楽章制は、あたかも能の序破急に対応するかのようです。破の楽章で、より遅くなる。なつかしさを湛えたうたが寂しくゆらめくとき、音楽は泣いていました。 それにしても、ヴァイオリンの若林暢さんの表現の見事さ! およそ豊麗とか艷麗といった、一般的なヴァイオリンの美音とはちがう、透徹した芯の強い美しい音色。かすれるような音も、くっきりとした重音の連続も、すべてが吉田隆子の音楽の訴えを現代に蘇らせることに奉仕していました。 うたの浅井順子さんは、デビュ一の公演をサロンで開かれた方で、なつかしいかぎりでした。口卜さんは、もう何度も来演されています。アイヴズの専門家であり、当夜は最初から最後までピアノを弾いていただきました。 なんのために音楽会を開くのか。そのひとつのことに気持ちを集めた3人の音楽家に拍手です。とくに吉田隆子の音楽をはじめて聴かせてくださったことには、こころからの感謝を捧げます。
ときどきですが、演奏家を紹介していただくことがあります。そして、プロフィールや、あればCDなどをお借りして、コンサートを開くことになる場合があります。 サラ・D・ビュクナーさんのコンサートは、勢川加代子さんからのご紹介で開かれました。 ビュクナーさんはアメリカ、ボルティモア生まれ。幼少期からレイナルド・レイズにピアノを学び、16歳でジュリアード音楽院に入学。ルドルフ・フィルクスニーに師事した。1984年、ジーナ・バッカウアー国際コンクール1位をはじめ、国際コンクール入賞歴多数。ニューヨーク・フィル、フィラデルフィア管弦楽団、クリーヴランド管弦楽団をはじめ、オーケストラとの共演歴も多数。 85ものコンチェルトを含む広大なレパートリーがあり、現在、ニューヨーク大学で教鞭をとるかたわら、各地でマスターコースを教えている。 CDはガーシュインのソロ作品の一枚が1994年5月「ステレオファイル」誌の「今月の優秀レコード」に選ばれるほか、バッハ=ブゾーニの「ゴールドベルク変奏曲」、トゥリーナ、ストラヴィンスキー、ジョセフ・ラムなどをリリースしている。 これほどの人ですが、日本では知られていません。私は知られていない人は、まず自分で知りたい。「お客は僕ひとりかも知れませんよ」との申し出に快諾されたビュクナーさんは、笑顔でサロンに現れました。 経験によれば、アメリカで活躍する音楽家は、自分をプレゼンテーションするプログラム作りが上手です。生き馬の目を抜くような競争社会。星の数ほどいるピアニストの中で生き残っていくためには、勝負をかけるプログラムが必要です。 後半はじめのフリムルは水を得た魚のよう! フリムルは、あまり日本では知られていません。 Rudolf Friml(1879-1972)。チェコのプラハ生まれの作曲家/ピアニスト。1910-29年代のアメリカでオペレッタ作曲家として活躍した人。彼の経歴がなかなかいいです。 貧しいパン屋の子として産まれたが、幼いころから音楽の才能を見せ、10歳のとき書いた「舟歌」が出版されました。幸運にも売れて、その印税でプラハ音楽院に入学。名ヴァイオリニスト、ヤン・クーベリックに望まれて、伴奏ピアニストになりました。アメリカにとどまったのは1901年、1906年にクーベリックに従って演奏旅行に出かけ、アメリカが気に入ったからでした。 1912年、ビクター・ハーバートに代わって音楽劇の作曲を引き受け、成功したことからオペレッタ作曲家として人気を確立しました。 人生は、縁です。ビュクナーさんを知り、フリムルの音楽を生きたものとして聴くことができたのも、縁のたまものでした!
阪神淡路大震災から7年。私たちは震災を通じて、そこからの市民の立ち上がりの経過を通じて知った、貧しい行政の現実と、より豊かに市民社会を築いていくにはどうすればいいか、という問いかけ、そしてまた、あるべき解答へ至る思考の経過を、どうしても「震災ローカル」なものにとどめておくことはできない。 むしろ、今後の日本と世界をかんがえる上で、私たちの経験と思想は、日本と世界に、より普遍化したかたちで伝えていくべきです。 納税者たる市民は、自然災害において「公的援助」を受けるべきである。破壊された生活基盤を回復するに足る「公的援助金」を、国の責任において支給すべきである。その思想は、市民=議員立法のかたちにおいて、まず第一歩となる法案を可決させました。 被災者に最高100万円を支給する現行の「被災者自立支援金」制度には、かずかずの矛盾点がありました。萩原操さんの場合、世帯用件に撥ねつけられてきました。萩原さんは震災当時は一人暮しで全壊被災。その後、非被災地の男性と結婚。しかし、制度は、それが成立した1998年7月時点での世帯主を対象に支給することにしたものでした。 ここには抜きがたい女性差別、世帯主差別がありました。萩原さんが怒るのは当然です。訴訟を起こして2年余。第一審、勝訴。復興基金財団が上告。第二審、勝訴。基金側、上告断念の結論が出たのは、ようやく2002年7月20日のことでした。神戸地裁も大阪高裁も、その判決は鮮やかなものでした。抵抗する「復興基金」とは、なんだったのか。 たたかいは、誰も好んでしません。しなければ愚劣が世にはびこるから、そのせいで自分がつぶされてしまうから、やむなく市民はたたかうのです。 都市について考えをめぐらしたのも、震災が契機でした。 被災者がまだ避難所で、その日その日を必死に生き延びているときに、行政はすばやく区画整理や再開発事業をきめてしまう。あげくに土地を渡せ、立ち退け。これでは当該地区の市民はたまりません。なんのための、誰のための街づくりなのか。 まず、もと居た場所に復帰させることが最良ではありませんか? 環境ががらっと変わったさびしい場所に、いくつもの「復興住宅」が建てられました。福祉の対象になる人たちは、とくに高齢者は、街のまんなかに住むのが、あらゆる意味でいいと思いませんか? 人間の国を創造したい。震災被災を通じて私たちが知ったのは、この国・日本のいびつな仕組みです。人間を踏みにじって、なぜいつまでも土建最優先なのか。能なし、知恵なしの政治家たちには退場をお願いするしかありません。 2002年6月2日、良心的軍事拒否国家日本実現の会の代表でもある小田実さんの、喜寿のお祝いの会を大阪で開きました。日本の各地から市民が集まり、世界からメッセージが寄せられました。ノーム・チョムスキー、デイヴ・デリンジャー、ジェロム・ローシェンバーグ各氏らはアメリカから。ディーター・マズール、オイゲン・アイヒホルン各氏らはドイツから。マリア・アルギラキ氏はギリシアから。ムフタル・シャハノフ氏はカザフスタンから。グエン・クォック・フン、グエン・バン・フン、ヴー・スアン・ホン各氏らはベトナムから。玄基栄氏は韓国から、李錦g氏は中国北京からなど。 4月にはタイム誌アジア版で「アジアの最も活力に満ちた英雄」25大のなかに選ばれるなど、世界は小田さんをずばぬけた存在と認めています。それも当然で、はじめから彼は「世界水準」で、ものを書き、講演し、行動していました。 新刊の長編小説『深い音』(新潮社刊)をお読みになればいいと思います。 阪神淡路大震災にまきこまれ、被災した市民たちが主人公です。そのなかには小田さんがいて、私もいて、話者の園子や、黒川老人、山村少年らがいました。のみならず、ベトナム難民の青年グエンがいて、お多福顔の芳美がいました。 ここには震災を経て打撃を受けながらも立ち上がり、語り合い、笑いもすれば泣きもしてきた市民がいます。弱者切り捨ての行政の横暴に、怒り戦う市民。恋もした市民。怯えも恐れも絶望も、人を殺そうとする人間の暗黒面さえも、正面から彫り深く描かれていますが、忘れ得ない地震の「深い音」に始まり、委曲をつくして、新しいいのちの音としての「深い音」に結ばれるとき、いつのまにか、未来を拓こうとする市民の静かな笑顔が胸のなかに大きく広がっています。 話者、園子の独自体が貫かれます。彼女は離婚歴のある50歳を過ぎた女性。この文体が、全体のむごさをいかにやわらげていることか。やわらかさといえば『深い音』は『細雪』に近い。人間と社会のすべて、つまり「時代」がホメロスのような叙事詩として結実された感があります。 ちなみに山村少年は高校中退者。私があのとき17歳なら、彼のごとくであった……かな?
日仏文化サロン・日本シター協会の長谷川亘利さんとは、長いおつきあいです。河合楽器にお勤めだったころ、チェンバロの復元楽器をサロンにお持ち込みになったのが最初でした。その楽器で何度かコンサートを開き、震災。いつの間にか退職のときを迎えられた長谷川さんは、神戸に移られて、日仏文化サロンを開かれていました。 再開のとき、かばんから「こんなものをやりはじめたんです」と見せていただいたのが、フランス・シターの美しい写真でした。そのとき、直感したのです。これは僕の楽器だ、と。 旧約聖書の詩編に、いくつもの詩句に「竪琴」は出てきます。 こどものころからずっと、この竪琴の響きってどんなのだろう、と想像してきました。 板にギターや三味線の弦を張って、ピタゴラスが発見した音程の比率の目印を作り、はじいて夢中になって遊んだこともあります。 でも、あれは旧約の竪琴からは、たぶん、かぎりなく遠かった……。 手に入れたフランス・シターは、現代の楽器です。起源はむかしの竪琴にまちがいありませんが、縦でなく横に置きます。左手は和音を弾きます。右手で旋律を弾きます。それが基本ですから、ピアノに親しい人ならその場で弾けます。調弦も自分でできます。それも魅力です。武田先生にレッスンを受けましたが、武田先生の先生がダミアン原田さんです。 ダミアンさんは1947年、福岡生まれ。国立音大付高を経て、イタリア教皇庁立ウルバノ大学布教神学科、サンタ・チェツィリア音楽院オルガン・チェンバロ科などを卒業。 1993年、フランスのエルサレム会修道士になり、現在はヴェズレーのサン・マリー・マドレーヌ聖堂(世界文化遺産)のオルガニスト。1999年、フランス・シター協会主催の即興演奏コンクールで優勝されました。 ダビデの歌。これこそが求めていた旧約の竪琴の響き…… 当日は、長谷川さんと私が予想したよりも、はるかに多くのお客さまが来られました。 フランス・シターだけの日本初公演の成功を祝います。 フランス・シターが欲しい、習いたい、という方は、日仏文化サロンまで。 TEL 078-841-2309 FAX 078-841-2728 です。 たて琴をかなで 楽の音に合わせて わたしは神をほめ歌う (典礼聖歌) いとたかき者よヱホバにかんしやし 聖名をほめたゝふるは善かな あしたに汝のいつくしみをあらはし 夜々なんぢの眞賓をあらはすに 十絃のなりものと筆とをもちゐ 琴の妙なる音をもちゐるは いと善かな (旧約聖書 詩編第92番)
サロン備え付けのパイプオルガンの持ち主、宮田乃梨子さんは精力的に海外演奏旅行もされるオルガニストです。宮田さんのオルガン演奏会は、これまでは合唱やチェンバロとの共演で催してきました。今回は新機軸で、SPレコードなどの「音の記録」との共演で、さらに幅広く「音楽の楽しみ」を深めていきたいと考えました。 初回は手巻き式蓄音器「クレデンザ」で、アルベルト・シュヴァイツァーの貴重な録音から数曲。「森の聖者」シュヴァイツァー博士は、酷暑のアフリカ、ランバレネで、無償の医療活動を続けたヒューマニストとしても著名です。1875年生まれ。 1965年逝去。
1952年にはノーベル平和賞受賞。オルガンはヴィドールの弟子で、学者としてバッハに関する本もあります。 こういう立派な人物は、かならず後世にけちをつけられます。賀川豊彦もそうだったように。完全な人間などいません。誤謬は誰にもあります。音楽家としてのシュヴァイツァーの真実は、初出のSPレコードに刻み込まれています。 1935年から36年にかけて録音されたシュヴァイツァーのバッハは、はっとするほど美しい音色に驚かされます。彼自身が、彼の旧世代のスタイルを否定していただけあって、テンポもフレージングも清潔です。そして気韻の高さ。構築が立ち上がるにつれ、音楽に熱が増していきます。テンポやリズムで情熱を語ろうとする素人からは、明らかに別ものです。飽きないのです。一日中、このバッハに浸っていたいと思えるほど! バッハの演奏様式は、戦前から戦後、そして21世紀にかけて、日々変わりつつあります。メングルベルク、カザルス、セゴビア、ランドフスカ、そしてシュヴァイツァーらのバッハは、しかし普遍的な価値をもつものです。自分を語ることがバッハを語ることになるまでに、彼らの音楽はつきつめられています。 宮田乃梨子さんのプログラムは、今回はバッハ、フィオッコ、パッヘルベルというバロック時代のものでした。次回はレーガー、リスト、ブラームスなどのオルガン曲を。
スイスのクラリネット奏者、エリサベート・ガンターさんは、サロンで演奏するのがお好きで、日本へ来られるときには必ず日程をこちらに打診し、演奏会を聞かれます。 今回のプログラムで、めずらしいのはガーデの曲でした。 Gade, Niels Wilhelm。1817-1890。デンマークの作曲家で、国民楽派の黎明期にスカンディナビア国民楽派の基礎をつくった人。ゲーゼとも表記されることがあります。私には未知の作曲家の音楽を聴かせてくださったことに、まず喜びを覚えました。 世の中には、聴かれないままになった作曲家の作品があまりに多い。淘汰といえばそれまでですが、たとえばバッハの音楽は存命中にすでに「古い」とされていました。音楽も急速に忘れられました。蘇らせたのは100年後のメンデルスゾーン。「マタイ受難曲」の蘇演によって、ふたたび聴衆はバッハの存在の大きさに気づいたのです。「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ」は、またその後代の少年ヨアヒムの手で初演され、「無伴奏チェロ組曲」は、そのまた後代の少年パブロ・カザルスにより発見されるまで、人びとは知ることがなかったのです。 だから、演奏家の役割は、音楽の歴史にとって重大です。 ピアニスト、ピエトロ・マーサさんは、1973年にミラノで生まれた若いピアニストです。ジェノア音楽院でアルド・チッコリーニらにピアノを学び、パヴィア大学文学部でギリシア語史の学位を取得。 当日はマーサさんのほうが早く到着されたので、私と二人でいろいろな話をすることができました。コーヒーを飲みながら、彼が読んでいたのはトーマス・マンの「ファウスト博士」のドイツ語原書でした。この小説の主人公レーヴァーキューンは、シェーンベルクがモデルになっています。シェーンベルク本人は怒りましたが。 そこで「きみはアーノルド・シェーンベルク好き?」と訊くと、 「とても好きだ。みんなは彼の音楽を好んでないみたいだけど」。 日本でも世界でも、聴衆はシェーンベルクを遠ざけているのです。私はちなみに、シェーンベルクは最も好きな作曲家のひとりです。気づまりなのは、演奏が気づまりなのです。 「彼のピアノ曲は弾くんでしょ?」 「もちろんだよ。作品19!」 私は作品25も劣らず好きです。とても典雅なピアノ曲。あの楽しい「室内交響曲第1番」や「セレナーデ作品24」の伸びやかさを、なんでみんな分からないのかなあ……。 語りあううちに、いつの間にか、シェーンベルクだけの音楽会シリーズをやろう、という夢のような話に盛りあがっていました。で、ガンターさん、到着。リハーサルが始まりましたが、私は現在もシェーンベルク・コンサートの夢を捨てきれていません。やりたいと希望される方は、ぜひ、ご連絡を!
今年もデムスさんをお迎えすることができました。 こちらからのリクエストはベートーヅェンとシューマンでしたが、デムスさんはベート−ヴェンまでの前半をvariations、後半をimagesとして構成され、自作も入れたすばらしいプログラムをつくって下さいました。 1928年生まれのデムスさんは、今年74歳。戦後の若者。グルダ、バドゥラ=スコダとともに「ウィーンの三羽烏」と称えられたピアニストであることを、中年以上のファンは誰でも知っています。 1948年ごろから各地へ演奏旅行に出られたそうですから、年季が入っています。風貌には、なお若々しさがあります。じっさいに74歳といえば、若いです。 もう何度も何度も弾いてこられた曲ばかりなのでしょう。しかし、昼下がりに来られて、綿密なリハーサルに没頭されます。モーツァルトの経過句の,同じ場所をくりかえし。思うような音色と膨らみが出るまで。あれだけ弾ける人が、いや、あれだけ弾ける人だからこそ、どんな細部にも妥協できないのです。 人生は変奏曲(Variation)に似たものであるかも知れない。次の局面に移るさいにはドラマがあり、あたらしい旋律は必然のものとして導きだされなければならない。 かくして、「ロザムンデ」の音楽を主題(Theme)としたシューベルトも、親密さを土台にしつつ委曲をつくした「人間の劇」にあふれていました。 ベートーヴェンの30番のソナタは、終楽章が変奏曲で書かれています。 最晩年のベートーヴェンは過去をいつくしむように冒頭楽章をはじめます。あこがれながら下降する美しい音の雫。リズムが光を、和声が色を生み、この上なく美しい音楽の世界が広がります。 生きる(生きた?)力をぶつける、はげしい中間楽章を経て、終楽章の主題は、なんと静かでさびしいこと。ベートーヴェンは、たったひとりの人でした。家族や親族に恵まれないといった寂しさでなく、ここにあるのは、人間が生きる根源的なさびしさです。 だから彼は天を見上げる。つながっているはずの、存在の根源を音で探る。だから、終結部の爆発のあと、私たちはすべてが開示された広大な空間に、天空のまばゆい星ぼしを見るのです。 後半の諸曲は、さらにファンタジーを羽ばたかせ、デムスさん白身を全面に出せる音楽。ウィーン生まれの音楽家はドビュッシーが大好きなピアニストでもありました。シューマンは、スペシャリストとされたことがあります。 自作「バラード」は完全にロマン派の音楽です。シューマン風かと思えば、ドビュッシー風の和声あり。自分が自分であることを、デムスさんは舞台で示される。 彼もまた、たったひとりの人……。
久保洋子さん企画の「21世紀音楽浴」、今回は「21世紀のロマン」です。いつものように、セミナー受講生たちの演奏会とシンポジウムがあり、このデュオ・リサイタルが行なわれました。 ドミニック・ヴィダルさんは、パリ国立高等音楽院をクラリネットと室内楽で1等賞を得て卒業。以後、演奏にも教育にも力を注いでおられます。サロンには再来演。 彼は、いまがいちばん楽器を吹ける時期のまっただなかにいます。音が裏返らないのはもちろんのこと、現代音楽が求める奏法も軽がると聴かせてしまうし、なによりも楽器特有の匂いを超えて、音楽そのものが薫るような豊かな音楽性が美しい。 ショーソン、ドビュッシー、ヴィドール、そしてプーランクは、いずれもヴィダルさんの母国語の音楽です。共通の土台を持った作曲家たちですが、プーランクは1963年まで生きていて、イソナタ」は1962年の作品です。 1913年のベルクは、やはりすばらしい。1904年からシェーンベルクに師事したベルクは、アントン・ヴェーベルンと並んでシェーンベルクが切り拓いた道を歩きました。邦訳が出ていませんが「ベルクーシェーンベルク往復書簡集」(The Berg-Schoenberg Correspondence:Selected
Letters / W.W.Norton &Company)は、とてもおもしろい本です。若いベルクが、たとえばウィーンでの音楽会の様子を、生き生きと先生に知らせています。グスタフ・マーラーの「第8交響曲」のブルーノ・ワルター指揮での初演時の報告など、若者の興奮が昨日のことのように蘇ります。 久保洋子さんの新作「シャラード」は、言葉遊びの一種。ひとつの単語をシラブルに分けて示し、その単語を当てさせるというもの。 or(金) + ange(天使)=Orange(オレンジ)のごとく。久保さんはこの遊びを音楽に応用されました。「いくつかのフラグメントを組み合わせることによって、一つの音型を作り、それが合わさって又、違う音型を作る。これを繰り返すことによって、音楽は表情を変えて行く」とされています。 近藤圭さんの新作「伝統と構造V『行』」は、変わらぬ課題である、日本の音とヨーロッパの音の矛盾と対立が底にながれています。表現の山として、同じことを5回くりかえす局面を聴きました。嘆き、悲しみ、怒り、憧れ、祈りの反復5連でした。 いつの時代の作曲家にも夢があるはず。夢でなければ、理想。「私の音楽」はそのベクトル上にしかありませんから。シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルンの3人は、彼らの「スタイルとイデア」を追いかけました。その行為がロマン。久保洋子さんと近藤圭さんの作品の軌跡にも、濃厚に21世紀のロマンがあります。
エジソンやベルリナーが音を記録する装置と盤を発明して、100年余。アメリカ製の大型蓄音器「クレデンザ」は、1920年代に製作されたということですから、だいたい70年以上を経た年季ものです。SPレコードだって負けていません。1910年代の古いものが、生き生きとした音で蘇ります。電気を通さない。ぜんまいの力でターンテーブルを回転させ、鉄針(場合によっては竹針)で拾った音を、サウンドボックスを経て直接スピーカーで鳴らす。盤は材料がシェラックだから、重くて割れやすいのが難点といえば難点。しかし丁寧に扱っていさえすれば、人間のいのちをはるかに超えて、蓄音器もSPレコードも生き残っていきます。 震災後、戦災に焼け残り、家屋全壊にもかかわらず割れ残った、前田和子さんの母上が大切にされていた数十枚のアメリカ・ビクター盤がサロンに寄贈されました。それらの中にはガリ・クルチやカルーソーがあり、パッハマンやパデレフスキーがありました。それら、幸いにも生き残ったSP盤を皆さんとともに聴いて楽しもう。 それが発端であり、かわらぬ初心です。 戦前から戦後の数年開まで、日本の家には卓上型か大型か、さもなくばポータブルの蓄音器がありました。素謡、義太夫、小唄、そして流行歌。タンゴ、映画音楽、ジャズ、そしてクラシック。膨大な数の蓄音器は粗大ゴミと化し、SPレコードの多くもまた、割って遊ぶだけの玩具になりました。 21世紀に、しかし今なお、SPレコードは逞しく鳴っています。その後もお客さまからの寄贈はたえず、たとえば第22回の「魔笛」もそうでした。田邊敏夫さんが大切にされていたビーチャム/ベルリン・フィルの「魔笛」には、夜の女王にエルナ・ベルガー、パパゲーノにゲルハルト・ヒュッシュが参加しています。やわらかく、しかもきびきびとした管弦楽に乗って、歌手たちも好調です。 SPは片面4分半ほどしか入りませんが、「魔笛」の場合は比較的短い「歌」をつないでいくオペラですから、障害はなにもありません。いまでも「魔笛」はこれがいちばん好きだ、とおっしゃる方がいるのは理解できます。 第23回、第24回は、貴志康一の妹さんの山本あやさんから寄贈された古い盤です。作曲家・ヴァイオリニストだった若き日の貴志康一は、レオ・シロタとともにこれらの盤を聴き、勉強していた、とのことです。
LPレコードとの再会も震災後でした。長い間CDばかり聴いていたからで、地震後の荷物を片づけているうちに、子供のころから大事にしていたLPが無事であることを発見。その瞬間、ひとかたまりになって震災を耐えていたLPが、たまらなくいとおしいものに思えました。久々に聴いてみると、CDとは全然音がちがう。善し悪しはいいません。ちがうのです。 中古LP探しが、あたらしい趣味になりました。もう大人ですから、できるかぎり初版に近いものを探す。とはいえ、むやみに高価な「マニアの世界」には、足を踏み入れないようにしています。 デッカ・デコラという美しい姿をしたイギリス製のステレオ電気蓄音器は、独特の音と響きをもちます。ことに英デッカのステレオ初期盤などは、陶酔的なまでの美音に失神しそうなほど。響きは深く、音像は機械をこえて背後の壁に広がり、高音も低音も過不足ありません。「全体」として完結していますから、足すことなく引くことなく、デッカ・デコラに合ったレコードを聴いていれば幸せです。 その意味で、イシュトヴァン・ケルテス指揮ウィーン・フィルのドボルザーク「新世界交響曲」は、よく合ったものでした。第一楽章の盤面に針飛びを起こす部分があったので、その楽章だけアメリカ・ロンドン盤を用いましたが、それも英国デッカ・プレスです。音色が英国盤よりも明るい感じがするのがロンドン盤の特色です。 英国デッカは、アメリカ・ビクター原盤の英国RCA盤のプレスもしていました。ピエール・モントゥーのものがたくさんあって、米ビクターのリビング・ステレオよりも、SB規格の英国盤が好きです。これはまあ、趣味ですね。シベリウスの「交響曲第2番」は初発売時から名盤として評価が商い盤です。 2001年12月の「第九」は、奇数月でないのに挙行した特別コンサート。英国EMI初版盤のフルトヴェングラー/バイロイト祝祭管弦楽団他による、ベートーヴェン「第九交響曲」です。「第九」を聴きなれてしまった人も、これには驚かれたと思います。空気がちがう。響きがちがう。なによりも語りかけてやまない、音楽の力がちがいます。圧倒的な重量感と、沈潜の深さと、飛翔するエネルギー。
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2002年 8月 15日 発行 著 者 山村 雅治 発行者 山村 雅治 発行所 山村サロン
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