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On humanity
1
「人間は怪我をしたら痛いと感じる。血がながれてくれば、血は温かかった。寒い夜に飲む缶コーヒーには救われる思いがするし、なによりも、かじかんだ手をこうやってこすり合わせる。この感じがたまらなくいいんだ」。
ヴィム・ヴェンダース監督の映画『ベルリン・天使の詩』のなかで、『刑事コロンボ』の名優ピーター・フォークが演じるダミエルはそういいます。ダミエルは元天使で、人間の女性に恋をしてしまったから、いまは人間。映画の全体よりも、このシーン、この台詞が印象深く残っています。 人間が生きる味わいについて、ふだんは考えることがないでしょう。ダミエルは、たしか続けて、煙草の煙をながめることや、甘酸っぱいりんごをかじること、また音楽を聴くことについて語ったと記憶しています。
続けてみましょうか。 人間はおなかが空けば、なにか食べたくなるんだ。 これは震災に遭ったとき、不眠不休の壊れた時間のなかで、われしらず思いついたことばでした。眠らなければ眠くなる。だから泥のように眠りこけました。あのような非常時、私は分別ある人間ではなく、修羅のごとき生きものだったのだと思います。
いや、こうしたことは、むしろ小さな子供の頃の記憶を書くほうが、豊かにことばが溢れてきます。 ……真夏に氷をかじることの幸福。 冷えたすいかを白い部分までかじりつくす喜び。部屋に吊った蚊帳の匂い。 夕立のあとの匂い。蚊に刺されたところの膨らみに爪を立てて遊んだこと。 汗と痒さと団扇と裸の夏休みが大好きだったこと。 歯が痛んだときの苦痛と、痛みが引くときの恍惚感。 立ちくらみの、ちょっとした気持ち良さ。 殴られる痛さ。殴りかえす痛さ。喧嘩のあとのやりきれなさ。
空豆のさやの柔らかい繊毛のやさしさ。筋の通った蕗の長さ。 れんこんの穴の不思議。大根の白さや人参の赤さがきれいだった。 美しく紅葉した落ち葉を集めました。 空の青さと雲の白さの美しさ。繁る樹の葉裏から太陽が射す、あの色彩と光と陰の美しさ。 山で遊べば擦り傷だらけ。自転車に乗れば転んでばかり。 だから、自分の血の味は親しいもの。 おしっこの温度も私はよく知っています。温かいです……
ふっと緊張がほどけたときに、私たちは人間に戻ります。 その喜ぶことは世界中同じであり、悲しむことや怒ることも、人間ならばどこでも同じ、誰でも同じです。そのはずです。
2
震災後ただちの時点では、被災したみんなが食べ物と水に困りました。店は閉まり、電気ガス・水道が一瞬にして止まり、なにもできない。
あの頃、それでもみんなのために炊き出しを始めた人たちがいました。家族を疎開させてひとりで芦屋にいた私は、彼らのおかげで助けられました。彼らは「人間は腹が減れば、なにか食べたいと感じる」から一歩進んだ「腹が減っている人間がいれば、ひもじいだろう。食べ物を作って配ってやろう!」という段階の人たちでした。芦屋市内の人たちのグループもあったし、遠い見知らぬ町の人たちのグループもありました。
彼らこそが「人間」でした。知人・友人の安否を確認するために、車も電車もない状態の私は、ただただ長い距離を瓦礫を踏みしめながら歩き回る毎日でした。私は、配給のテントを見るたびに立ち止まり、ほっと一息ついて「人間」に戻りました。
人間は、人間のために働いてこそ、より「人間」らしさが出てくるもののようです。 そして人間に接すれば、人間を失っていた人間は人間に戻ります。
3
「子供だった頃、いつも不思議だった。なぜ、僕は僕で、君でない?」。これも、映画『ベルリン・天使の詩』に出てくることばです。 「なぜ、僕はここにいて、そこにいない?見るもの、聞くもの、嗅ぐものは、この世の前の幻?悪があるってほんと?いったい、どんなだった。僕が僕になる前は?僕が僕でなくなった後、いったい僕は、何になる?」
私たちは、ここにいます。いること自体が不思議なことです。地震のあと、生きていることの不思議を実感したのは、私だけではないはずです。私の町でも、みんな家からぞろぞろ出てきて、日頃は話をしないご近所とも、あれやこれやとお喋りしました。水や食べ物の配給情報も瞬時に伝わり、並びに行ったものでした。
あのとき、みんなが一挙に無一物のどん底へ突き落とされたとき、「あなたは私で、私はあなた」「私はあなたと同じ場所にいる」という「人間」の時空間が現出していたのです。 私たちはもはや子供ではなく大人でした。神秘ではなく現実でした。偶然にして生き残った人間は、乏しさを分けあって、励ましつつ、なお生き延びてきました。 これが市民社会です。地震や洪水、噴火などの自然災害に遭っても、人が生きることをやめなかったのは、市民社会に支えられていたからです。 戦争や内乱やテロに巻き込まれても、人間を支えていたのは人間の市民社会です。 それは大昔からあったものです。政治や宗教の成立、国家や国境の成立、戒律や法律の成立などよりも、はるか昔からあったものです。
そして、悪があるってほんと? この市民社会を破壊する力を、悪といいます。
4
テロリストはいうに及ばず、戦争指導者は、どうしてあれだけ卑しい顔つきになるのか。 テロや戦争には大義があり、その大義が「神」になる。彼らは、なんでもありの「神」を背負っているから、無差別に人間を殺し、市民社会を破壊する。 国連憲章第33条「いかなる紛争も(略)平和的手段による解決を求めなければならない」。 ジュネーブ条約・第1議定書第48条「軍事行動を軍事目標に対してのみ向けなければいけない」。また第51条C「無差別攻撃は禁止する。無差別攻撃とは(略)軍事目標と文民(一般市民)または民間物に区別なしに打撃を加える性質を持つものである」。 これらの国際法も馬鹿にされたものです。
ノーム・チョムスキーさんは、学生時代に学んだ言語学のテキストの著者でした。彼の名は言語学者として、その頃から鮮明な存在でしたが、反戦を訴える論客としても活動を続けておられます。アメリカの言論界では、同時多発テロ事件以来、ナショナリズム的な締め付けがきつくなったといいます。彼は批判を恐れない。勇気ある美しい人です。
彼は新著『9・11アメリカに報復する資格はない!』(文藝春秋)のなかで、今回のテロは「文明の衝突」ではなく「人類への犯罪」であり、パレスチナの人々には「破滅的な一撃」を与えたと厳しく批判。必要なのはテロリストを生む「怨念と憤激の貯水池の解決だ、と指摘します。その上で、アメリカが理性的な反応をしない理由については、アメリカこそが1986年に二カラグア介入で、国際司法裁判所から「有罪判決」を受けた国であり、国連決議を無視した前歴があることなどを挙げています。
また、ケイティ・シエラさんという15歳の少女の名を、私は書いておきたい。 彼女はアフガン空爆に心を痛め、通学するシソンビル高校内で「反戦クラブ」を組織しようとして、停学処分を受けました。処分を取り消すよう提訴しましたが、裁判官も「この時期の反政府活動は教育現場を混乱させる」と停学を支持した、ということです。 彼女は10月中旬から反戦を訴えることばを書いたTシャツを着て登校。戦争中止を訴えるビラを校内でまき、20人の賛同者を得ていました。これを知った校長は「この難局下に反政府主義を標榜するのは、真珠湾攻撃の直後のアメリカで日の丸を振りかざすようなものだ」と3日間の停学処分にし、教育委員会も全面的に支持しました。
審理では彼女自ら出廷し、「アメリカがアフガンの人々に対して今やっていることは、テロリストがアメリカ国民に対してしたことと同じ。どちらも間違い。戦争中止のメッセージを学校の仲間に伝えたかった」と陳述しました。(参考 asahi.com 2001年11月2日)
チョムスキーもケイティ・シエラも、同じ場所にいる人間です。私たちの、昔からあり現在もあり、未来にもつぶれない市民社会には、彼らのような人間が生きています。 最大の悪である戦争の狂気のなかでも、理性を保ち、人間らしさを保つこと。「ひとりでもやる、ひとりでもやめる」(小田実さんの著書の題名。筑摩書房)こと。 ことに十字軍の中世以降、人類の「精神史」は進んだかと思えば、また後ずさりして、野蛮に転落しがちです。戦争がある限りは人間ではなく、私たちはまだなお野獣に等しい存在です。 いま、私たちに必要なものは、澄み切った理性のことばです。 (2001.12.17)
「アメリカ同時多発テロ」「報復戦争」直前の8月に、私たちはこのようなシンポジウム等を開きました。12ページに報告があります。
震災後に開始されたこの企画は、演奏される音楽の性質上、「若者」があつまるコンサートでもあります。オウブはノイズ・ミュージック(むかしシュトックハウゼンがケルンのスタジオでやっていた「電子音楽」の延長上のものとして、私は聴きます)。渚にては、アコースティック・ギターとテルミンなどを使っての「歌」。柴山さんの、ときに太棹を思わせるようなギターの迫力。頭士さんは、ギター1本の弾き語りの「歌」。 このコンサートに係わるのは、すでに充分「大人」の年齢に達した、すばらしい人たちです。誰にも似ていない「音楽」をやる。たゆまずに、ぺんぺんと自分が納得する音楽をやってきて、動かぬものを手に入れた「大人の音楽」。およそクラシックだ、ロックだ、などのジャンル分けがここでは溶解してしまいます。 あの地震のあと、さまざまな人の熱意、いろいろな人の善意が集積し、チャリティ・コンサートがあちこちで聞かれていました。もうすぐ震災から丸七年。被災者のことは、すでに忘れられて久しい年月が経過しています。 2002年もこの企画は予定されています。場内では、また私がいちばん最年長者かな?
リスト協会スイス・日本のリヒャルト・フランクさんの紹介で、イタリアの若いピアニストの音楽会を開くことになりました。1965年シシリー島メッシーナ生まれのカルロ・ベルナーヴァさんは、メッシーナ音楽院を卒業後、オーストリアのザルツブルグに渡りモーツァルテウム音楽院でS・ペルティカローリ氏とハンス・グラーフ氏に学ぶ。国内・国際コンクールでは99年、タラントでのヨーロピアン・コンクール優勝など受賞歴多数。異例の若さでレッジョ・カラブリア音楽院ピアノ科教授に任命されています。
ベートーヴェンの初期のソナタ「第3番」から、というプログラムは素敵でした。ベートーヴェンのソナタは全部好きですから、あまり弾かれない初期の曲を取り上げるピアニストにはつい応援したくなってしまいます。抜け切った青空の下で、ベルカント唱法で奏でられた青春のベートーヴェン。やはりB=ミケランジェリを生んだ国の精鋭ピアニストです。 技巧が冴えると、さすがにピアノがよく鳴ります。ショパンは、とくにソナタにめざましい響きがありました。それよりもダッラピッコラとブソーニの見事さ! ある局面では「超絶技巧」の連続ですが、ただただ愉しい。ブゾーニは、編曲ものが日本人には身近なせいか、実力が誤解されがちですが、大きな音楽家だったと私は思っています。
山村サロンには、宮田乃梨子さん所蔵のパイプ・オルガンと、長谷川亘利さん所蔵のチェンバロがあります。このコンサートは両方を使った、古雅なバロック・コンサートです。 宮田乃梨子さんは、神戸女学院音楽学部ピアノ科卒業後、アメリカ、ベルギー王立音楽院オルガン科に留学。1974年、同音楽院を一等賞で卒業。 NHKオーディション合格。第1回オルガンコンクール人選。1984年、スイス国営チューリッヒ放送で録音。スイス、ベルギー、スウェーデン各地でリサイタル。以後、シカゴ、ニューヨーク、ブルガリアなどにも場を広げて、国際的に活躍されています。現在、神戸ユニオン教会と宝塚ベガ・ホールのオルガニスト。サロンにもしばしば来演されています。
シュテファン・パルムさんは1962年、ドイツ・アーヘン生まれ。11歳で初めてのコンサートを行ない、ギムナジウム在学中にケルンやアーヘンの音楽大学で学ぶことを認めらました。教会音楽家、およびコンサート・オルガニスト、チェンバリスト、ピアニストの国家資格を取得。三種の楽器で三種のソリスト資格を得たのは、それまでに彼一人だった、といいます。1986-87年、ドイツの奨学金を得て、アメリカのジュリアード音楽院に留学。「マスター・オヴ・ミュージック」取得。以後は10回のコンクールで優勝・入賞、テレビやラジオの放送やCD製作など、大活躍です。現在、スイスのマリーエン教会のオルガニストを務めています。
彼は音楽をするために生れてきた人。なんでもない素朴な古楽がぴちぴちと息を吹きかえし、新鮮ないのちを蘇らせます。プログラムのなかで、もっともよく知られていたのは宮田さんの弾かれたト短調の「小フーガ」と並んで、パルムさんがチェンバロで弾かれた「イタリア協奏曲」でしたが、冒頭から音色の美しさと自在な呼吸に驚かされ、全体は前進する気迫に満ちた迫力ある演奏でした。チェンバロは音量の小さな楽器ですが、音楽の迫力と、音量の迫力はなんの関係もないのです。 フレスコバルディは、バッハよりおよそ100年前の、鍵盤音楽の偉大な作曲家です。当時の最高峰で、その数字に誇張があるにせよ、ローマのサン・ピエトロ大聖堂におけるフレスコバルディのオルガン演奏には3万人の市民が集まった、といわれます。パルムさんがコンサートの開始曲に選んだ「トッカータ・プリマ」は斬新な作品。 ルイ・クープランは、35歳で世を去った夭折の作曲家でした。「大クープラン」として知られたフランソワ・クープランは、彼の弟シャルルの息子です。1995年にようやく未刊行の手写譜本の出版が解禁されました。深い陰影の底から光のような甘美さが閃く趣きが、彼の最高の作品にはあります。彼の「組曲 へ長調」のほか、滅多に実演を聴くことができない曲ばかり。 ハイドンのオルガン曲は、パルムさんが弾かれました。「7つのフルート時計のための小曲」ですが、この音楽の、いや可愛らしいこと!オルガンの持つ響きは豪壮だけではなく、おもちやの鳩笛のごとき可憐さもあるのです。パパ・ハイドンは、素敵な音楽をいっぱい書いて残してくれていた。
クレアリー和子さんは一年に一度、山村サロンで演奏会を開かれます。あの美しいピアノの響き、20世紀初頭の大ピアニストからまっすぐに孫弟子として受け継がれた奏法がユニークだから、私も楽しみにしています。ゴットチャルクを舞台にかけるピアニストも、非常に稀です。現代のアメリカ人は、ゴットチャルクやチャールズ・アイヴズを聴く機会を充分に持っているでしょうか。 1994年5月14日に、クレアリー和子さんはカーネギー・ホールのウェイル・リサイタル・ホールで演奏会を開きました。「ニューヨーク・コンサート・レビュー」誌(June /July 1994)に掲載されたパート・ウェッスラー氏の批評文を以下にご紹介します。
クレアリー和子さんは2002年1月27日に、カリフォルニアのオークランドでリサイタルを聞かれますが、その案内に、このウェッスラー氏の評文と、私の「会報」の評分の抜粋が載せられています。会報 1999 後期 Vol.22のこの部分です。 「彼女のピアノ奏法は、現在では珍しいユニークなものです。なによりも重力のない空間を珠玉のような音色が転がる妙味は、あまり聴いたことがありません。クレアリー和子さんはフェルッチョ・ブゾーニやヨーゼフ・ホフマンの孫弟子であり、十九世紀末から二十世紀初頭にかけて活躍した大ピアニストの奏法を、正確に継承されているのです」。 お便りによれば、クレアリーさんがいくつかのレビューを提出された中から、この2つが選ばれた、とのこと。嬉しい、と記されていましたが、私にもこの上なく嬉しいことでした。 2002年のクレアリー和子さんのサロンでのリサイタルは、6月2日の日曜日です。
朝倉康子さんの肝煎りで、ロトさんとプレヴォさんのデュオ・コンサートを開くことができました。初来演のトーマ・プレヴォさんはジュネーヴ音楽院、パリ音楽院卒。モントリオール国際コンクール入賞後、たくさんの著名なオーケストラでソリストの地位を確立。現在はエコール・ノルマルで教鞭をとりつつ、フランス国営放送交響楽団首席フルーティストを務めておられます。
やはりフランスの木管の美しさには独特の空気があり、とくにフルートはSP時代のマルセル・モイーズ以来、前衛にいるピエール・イヴ=アルトーに至るまで、そうそうたる人材の厚みを誇っています。プレヴォさんもまた、最初の一音から「パリのフルート」を実感させる音色の美しさ。真水のように澄んでいて、しかも滋味があり、深みも厚みにも欠けず、しかも黄金色に輝いている。音だけで音楽性の高さが明らかにされる。 ベートーヴェンよりもフォーレ。あれはフォーレそのもの。さらにそれよりもプロコフィエフ!機械的に奏してもプロコフィエフは音楽になりますが、プレヴォさんとロトさんのデュオは、さすがにちがう。プロコフィエフの厳しさの奥にある「人間の温もり」を絶えず感じさせる、生きた音楽。
アルバート・ロトさんは、もう何度も来演されているピアニストです。ジュリアード音楽院卒。 1965年、第1回モントリオール国際コンクール優勝。1966年、ブゾーニ国際コンクール金賞。1999年12月にはイスラエルで、イツァーク・パールマン主催の音楽セミナーのピアノ部門で講師を務める。また、アメリカの作曲家チャールズ・アイヴズの論文により博士号を受けた優れた研究者でもあります。 彼のピアノほど、「美しいピアノ演奏は、美しい人間性が奏でさせる」ことを実感させるものはありません。打鍵においては、暴力的、威圧的な音は一切なく、基調はむしろ天使のような、羽毛のような肌触りをもつ柔らかいタッチです。技巧が優れているから力む必要がない。かくして、どんな難曲であれ圧倒的な余裕があり、どの指も自在に動くから必要な音を浮き立たせつつ、力を100パーセント籠める部分の迫力の凄まじさったらない! ソロで弾かれたショパンもリストも、過剰な身振りとは無縁です。そこには楽器も演奏者もいない。ただ、音楽があっただけです。
彼は「力」を知り抜いた人だと思います。自然の「力」になぎ倒された、震災後の私たちを真っ先に励ましに来てくれた音楽家たちのなかに、彼もいました。 私はそれ以来、ロトさんのピアノを忘れたことがない。だから、2001年1月20日に大阪で行なわれた「中谷宇吉郎生誕100年記念コンサート」の当日配布プログラムに、次の一文を寄稿しました。ちなみに、雪の科学者・中谷宇吉郎はアルバート夫人中谷美代子さんの父上です。
芦屋の夏には、毎年ツィターの演奏会があります。河野保人さんには年来のファンが多く、いつも満員になります。なんといっても河野さんのお人柄の魅力。そして楽器そのものの魅力には抗しがたいものがあります。アントン・カラスの「第三の男」のテーマ、といえば一挙に身近な楽器として思い出されるのではないでしょうか。
民俗楽器で珍しいものでは、サロンでは、ハンガリーのツィンバロンの演奏会をやったことがあります。あれも独特の魅力。コダーイの「ハーリ・ヤーノシュ」で活躍する楽器です。 2002年2月17日の日曜日には、待望のフランス・シターの演奏会が予定されています。
次第に破滅へ向かって「戦争」に突き進む世界のなかで、日本・アメリカ・ドイツの市民で語り合おう。21世紀を迎えたいまもなお「正義の戦争はある」という考え方が世界を覆っています。私たちは「戦争が平和をつくる」というこのような考え方に対し、「正義の戦争はない」と主張します。個人における「良心的兵役拒否」の思想を、国家レベルに生かし、「良心的軍事拒否国家」の実現をめざすべきです。
ジェイムズ・キーンさんは元米軍兵士。 17年間ベトナムで戦い、サイゴン陥落の日に、アメリ力大使館屋上で、大使以下のアメリカ人救出作戦を指揮しました。 オイゲン・アイヒホルン氏は、ナチス・ドイツという重い過去を持つ(西)ドイツで、長年反戦・平和運動を主体的に行なってきたドイツ人です。 小田実さんにとっては、8月14日という日付には特別なものがあります。少年時代の小田さんは、当時住んでいた大阪市内の自宅で終戦直前の「大阪空襲」に遭い、逃げ惑いました。 市民が無駄に殺される戦争の愚に直撃された。小田さんの書斎には、当時のアメリカの新聞に載った大阪空襲の空から見た写真が掲げられています。小田さんの「文学」の原点であり、「思想」の原点です。
この3人の話をもとに、ただ、お互いの過去を語るだけでなく、過去の体験を土台にして、互いの国の現在をどう見据えるのか。そこから、互いの国とそこに深く関わる未来をどう考えていくのか。満員の聴衆の皆さんとも率直な交流ができました。
「日米独市民交流」は、この芦屋を皮切りに3つの催しがなされました。 13日・被災地市民との交流(尼崎・神戸) 14日・日米独反戦市民集会最後の大空襲の地=大阪から平和主義を発信する!(大阪) 16日・「日・米・独、われわれはどこに行こうとしているのか?」(東京) 全貌については、別刷りの冊子があります。サロンまでお問い合わせ下さい。
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以上は2001年8月のこと。一ヵ月を経ずして2001年9月11日、衝撃的な事件が起きました。ニューヨーク世界貿易センタービルに旅客機が突っ込む、ビルが根こそぎ崩落する、という映像は、世界の市民を震撼させました。それに対してブッシュ大統領は「報復戦争」をただちに始め、小泉首相は一も二もなく追従し、自衛隊の海外派兵を実現させてしまう。もう歯止めもきかず、泥沼です。 そこで私たちは、以下に掲げる「アメリカ合衆国の『報復戦争』に対する声明」を出しました。賛同者を募っています。アメリカでは『9・11アメリカに報復する資格はない!』(文藝春秋刊)の著者、ノーム・チョムスキー氏も署名されています。
作曲家・ピアニストとして芦屋・西宮とパリを拠点に国際的に活躍する久保洋子さんの、新世紀の音楽浴シリーズの開幕です。 クロード・エルフェさんは大好きなピアニストの一人であるだけでなく、20世紀の現代音楽の演奏者として敬意を抱いています。1922年パリ生まれ。5歳からピアノを始め、ロベール・カサドシュが彼の演奏に興味を覚え、第2次大戦が始まるまで指導した、ということです。 ベリオ、ブーレーズ、シュトックハウゼン、クセナキスらが彼のために作品を書きました。録音も多く、私は彼のシェーンベルクやバルトークをCDで聴き、ラヴェル、ラモーの作品集をLPで愛聴しています。
コンサート開始曲は、その懐かしいラヴェルでした。エルフェさんにとっては、あたかも「自分の音楽」をよくこなれた「母国語」で語るようなもの。あらゆる音色と表情が新鮮でした。雰囲気を弾かない。立体的で流動的な色と形を弾く。その結果、構造がはっきりと立ち上がるからです。 ギリシャ人、クセナキスの「ヘルマ」の実演をはじめて聴いたのは、1970年代前半の学生時代に、高橋悠治さんの演奏でした。クセナキスは建築家でもあり、物理学、数学的原理を音楽に応用しました。相当な難曲です。古代ギリシャでは音楽と数学、それと神秘学は、ことにピタゴラス学派においては同じものでした。ピタゴラス教団、とも呼ばれます。数と音との考察を現代に蘇らせたクセナキスの音楽を弾くエルフェさんは、頬を紅潮させ、青年のような覇気をみなぎらせていました。
近藤圭さんの新作「伝統と構造」については「声明の響きの如く、『無を有に』『有を無に』する試みに挑戦してみました。作品には日本の古典芸能の影響があります。また、この作品は、最もヨーロッパ的と云える楽器ピアノと、私達の伝統楽器、とくにその構成法を媒体として作られています」と語られています。近藤圭さんの作品が本来持つ「野太い力」がエルフェさんによって全開しました。感動的な音楽でした。 以上が、ソロ・ピアノです。
久保洋子さんとの二台のピアノ・デュオで弾かれた、久保洋子さんの新作「フラグランス」は、フランス語で芳香のこと。彼女は「日本の音は西洋の音に比べて複雑である。日本の音は雑音性を含むが、西洋の楽器であるピアノでそれをどの様に表現するかという事に興味を持っている。この作品は一種の音色の探究である」と書いています。 久保洋子さんの作品はいよいよ簡潔、洗練を極めてきました。ますます散文性が希薄になり、もう「詩」そのもの。抜群の構築力を持つ人が、音色だけを探って音を書いていけば、ここには花の薫りが香炉の煙のように立ちのぼるのみ。
メシアンが当夜のしめくくり。「アーメンの幻影」こそ、音楽の「神秘主義」そのものの曲です。メシアンは敬虔なカトリック信者でしたが、音楽は全然抹香くさくありません。それどころか音楽語法が多彩をきわめ、たえず高みをめざそうとする生身の人間の祈りに満ちているからです。メシアンは、数の神秘を楽曲構成に用いました。たとえば、7は完全数であり、全曲は7つの音楽的ビジョンで成り立っています。じつは、かのバッハも「マタイ受難曲」で、同様に「数の神秘」を用いているのですから、メシアンはきわめて伝統的な作曲家であるともいえるのです。
久保洋子さんの1999年の作品「ノクチュルヌ」をとても素敵に弾かれた渡辺泉さんのことを記しておきます。ショパンにとても近いところにいる久保洋子ピアノ作品! 渡辺さんは、ほかにブゾーニ2曲を弾かれました。
ピエールーイヴ・アルトーさんは、久保洋子さんの「音楽浴」シリーズでは最多の来演歴を誇ります。現代最高のオール・マイティ(あらゆるフルート族の楽器を苦もなくこなし、あらゆる時代の音楽をすばらしく演奏する、という点で)なフルート奏者です。
尹伊桑(ユン・イサン)の「ガラク」は地の底から湧く持続する力と、得たいの知れない力に構築を与える人間の意志の音楽です。ガラクは「散楽」。韓国語で旋律の意味。尹は大韓民国に生まれましたが、政治的理由によりベルリンを本拠に国際的に活躍した作曲家。われわれの地震の年、1995年に没しました。彼の音楽は残ります。 アーメッド・イサヤッドはモロッコ生まれの作曲家。20歳でパリに来て、徐々にアラブの素材を用いた作品を書くようになりました。アラブ音楽といえば、フランス映画「髪結いの亭主」(パトリス・ルコント監督)のバックに流れていました。あれはにぎやかなものでしたが、この曲は、ピアノとフルートがそれぞれにアラブの民俗楽器の音色を思わせるもの。時間がなくなってしまったかのような、神秘の瞑想。
久保洋子さんの新作は「ジョワ」。ジョワとはフランス語で喜びのこと。「日本の伝統芸術は、狂言のように笑いを原点とするものもあるが、一般的に明るいイメージではないように思う。西洋人に比べると、感情の表現一つを取っても、直線的ではない。日本人は表出した感情の幅が狭く、それはむしろ内へのベクトルとなっている。この作品は喜びを表わしているが、ここでも内側へ向かっている」と書かれています。これも「詩」。みごとな音の詩の短編アンソロジーが編まれつつあります。
近藤圭さんの新作は「伝統と構造II」。「伝統とは感じることによって考える存在であり、構造とは考えることを通して感じる存在でしょう。日本とヨーロッパが出会う『心の場』の上で書かれた作品」と語られます。 悲しみや怒りが、なまの力として噴出する力のこもった作品。涙をふるう男の音楽です。
ペーター・シュマールフースさんとは1993年以来の長いつきあいです。その年にはクラリネットのエリザベート・ガンターさんの共演者として来演されたのですが、アンコールに弾かれたショパンの印象が鮮明に残り、別れるときに「今度はベートーヴェンを聴かせてほしい」と希望を伝えました。 そして時が過ぎ、1995年1月17日。山村サロンも私白身も阪神淡路大震災に被災しました。内外の友人たちからのファックスが、その日から10日も過ぎて、ようやく中に入ることができた事務所に届いていました。シュマールフースさんは何度も何度も送ってくれていました。 はじめは「生きてるか。元気か」。こちらも「生きてるよ。元気だ」。 その後、半年間あまりの修復工事を経て、7月下旬からサロン再開。なおもファックスをやりとりするうちに、1998年の来日時に、サロンで「ベートーヴェン連続演奏会」をやる、という企画がもちあがったのでした。6夜にわけて、ピアノ・ソナタの20曲を堪能しました。 彼は「こんな連続演奏会は、ドイツでだってできやしないんだ。主催者はかならず月光や悲愴を弾いてくれっていう」と、なみなみならぬ決意をもって6夜に臨んでくださいました。ベートーヴェンの音楽で、明日への力を感じてほしい。それが彼と私の望みでした。
今回はベートーヴェン、ショパン、モーツァルト、そしてシューベルト。私の要望は出さず、彼自身が選びぬいたプログラムでした。 シュマールフースさんは「ドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)ショパン協会」会員として、ショパンの祖国ポーランドヘ「国際ショパン・フェスティバル」に独奏者として招かれた経歴を持ちます。だから、今回はぜひショパンを、という意欲があったのでしょう。 ドイツ人の弾くショパンの通念は、構築に傾きがちで微妙なニュアンスや面自味に欠ける、といったものでした。たしかにバックハウスもケンプも若い頃はショパンを弾きましたが、晩年は弾いていません。そして若い頃のショパン録音も、コルトーやルービンシュタインの陰に隠れがちです。シュマールフースのショパンは、ドイツの「構築のショパン」の通念を吹き飛ばす独自のもの。ただショパンがいて、ショパンを弾くのが好きなピアニストがそこにいただけでした。 どの曲も早めのテンポで即興的な味わいをもって進められ、ワルツの華やぎは風のごとく。その風には色があり、薫りが立っていました。マズルカの憂愁さえ、はかないまでにたおやかな音の踊りとして、オーロラを眼前にする思いでした。ノクターンの憧れも、心の羽ばたきをさえぎる技巧臭、楽器臭が失せていました。 これら小品と同じやりかたで、ショパンとしての大曲であるバラードもスケルツォも進められましたが、あまりの身振りのなさ、たとえばサンソン・フランソワのようには大見得を切らない解釈に、とまどった方もいらっしゃったのではないでしょうか。ひとつの解釈として、私はおもしろく聴きましたが。
ベートーヴェンのソナタにおいても、シュマールフースの演奏は「聴こえてくる音を弾く」自然さに溢れていました。作曲家ベートーヴェンは、聴覚を失い「聴こえてくる音」を書いた。そのように。すなわち、もはや形式に則り、形式に削られることがない。湧いてくる音楽がそのまま充実した構築作品として結実するのです。 モーツァルトのトルコ・マーチ付ソナタは、おそらく子供の頃から何千回となく弾いてこられた曲でしょう。冒頭楽章、主題と変奏曲がひとつのドラマでした。 シューベルトの「さすらい人幻想曲」が、今回の来日公演のしめくくり。シューベルトは「きれいな歌はみんな悲しい」といった人。生きている聞には、切実な心からの歌を歌いぬいた作曲家です。ピアノが歌っていた!
回を重ねるうちに、いつのまにかサロンの企画から外すことができない催しになってきました。いまどき電気を使わない手回し式の蓄音器で、戦前のSPレコードを聴く。なつかしさは別にしても、肝心の「音」、「音楽」がいいものでなければ、こんなにも回を重ねて続くはずがありません。
人は「文明」について、とくに「機械文明」について、誤解しがちです。新しい方式の、新しい「機械」が売り出されれば、すぐに飛びつき、「古い」ものを惜しげもなく棄て去ってしまってきた。誰にでも手に入れやすくなる、価格の「大衆化」は必要であり、とくに通信・交通手段にはそれがいえます。たとえばグラハム・ベルは、現代のIT社会の出現までもを予見していたとも思えません。それほどまでに成功を収めてきました。 しかし、こと芸術・文化に係わる「機械」のこの100年の歴史はどうだったか。映像を定着させるカメラはどうだったでしょう。デジタル・カメラでブラッサイやアンドレ・ケルテスの画面の深みが出るわけがない。映画にしても同じことです。コンピューター・グラフィックスの濫用は、一時の驚きはありますが飽きます。
「音」「音楽」の伝達の歴史は、およそ100年。人類の歴史からすれば、まだ「一瞬」が経過したに過ぎない時間です。エジソンが蝋管を、ベルリナーが平円盤を発明したのは、ついこの間のこと。大きなラッパに向かって大きな声で歌う。その振動を直接刻みつける。およそ30年を経て「電気吹き込み」の時代が来れば、以前の方式は「旧吹込み」という名がつけられ「録音が古い」とされました。戦後のLPの発明も画期的なことでした。回転数を一分間あたり78回転から33.3回転に変え、一面あたりの収録時間を大幅に増やし、しかも盤の材質を重くて割れやすいシェラックから、塩化ビニールにしたために軽くて割れにくい。針音も減少して「いいことづくめ」でした。これをLP(ロング・プレイング)と呼ぶことになり、従来のレコードはSP(スタンダード・プレイング)と呼ばれることになりました。
ここまでは、人は音楽を一つのスピーカーで聴くのが、あたりまえのことでした。 50年代なかばに発明された「ステレオ」録音方式は、それら初期LPを「モノラル」録音の「古い」レコードとして片づけ、かくして「LPステレオ」の栄華は80年代なかばまで続くことになります。もっとも、その間には4つのスピーカーで聴くための「クァドラフォニック」という妙な方式も考案されて、またたく開に廃れてしまいましたが。 CDは、光で音を読み取ります。それまでの「物質に刻まれた音の波動を針で読み取る」方式の全面的な転換です。ディジタル・オーディオの登場。かくして、エジソン、ベルリナー以来の、およそ85年にわたるレコードの時代は「アナクロ」ならぬ「アナログ」と呼ばれることになりました。
ちなみに私は、これらすべてを聴いて楽しみます。CDも、真空管CDプレイヤーと真空管アンプのおかげで、耳にきつくない「音」で聴けています。それぞれの時代の音盤を、それぞれの時代の「音」に合った装置で聴くことが理想でしょう。いやいや、いうは易く、おこなうは難し! それにしても、長い眠りから覚めたSPレコードは、サロンの「クレデンザ」で水を得た魚のように、ぴちぴちと新鮮な「音」「音楽」を奏でてくれます。人が見れば「ゴミ」に過ぎない、行き場を失ったSPレコードが愛しくてたまりません。
カザルスのチェロは、なまなましく情熱と覇気を湛えて進行し、リズムと音色にまぎれもない「天才」が閃いています。寂しさと憧れと、前進してやまない不屈の力と。セル/チェコ・フィルのサポートも引き締まって見事です。 ブッシュ四重奏団の「ラズモフスキー」は、常連の萩原正巳さんが出征前夜に耳にされたものでした。「ああ、もうこれで、こんな音楽を聴くことはないだろうな」と思われた。激戦地ビルマの最前線の白兵戦のさなかに、ベートーヴェンの「運命交響曲」が突如として頭に鳴り響き、フルトヴェングラーとニキッシュの演奏ぶりを頭の中で蘇らせていた、とも述懐されました。 エレナ・ゲルハルトのシューベルト歌曲集は、馬渡順一郎さんから、お父さま(戦前から仏領インドシナに赴任された商社マンだった由)の遺品のSPを寄贈していただいた中に生き残っていたものです。内容をえぐりぬく深さに魅せられました。そして、ジャズのものは、馬渡さんご自身が学生時代に大切にされていたもの。 これらのSPには、聴いていた人の「人生」の一刻が、消えることなく刻みつけられています。
スレザーク、シュルスヌスの名唱。とくにスレザークの歌唱の陶酔的な芸術性は、ソプラノのゲルハルトと並んで、とても好きです。「胡桃の木」「夕映えの中で」、わけても「詩人トム」など、危ういまでに美しい! そしてワルター/ウィーンの「未完成交響曲」は、同じコンビの「軍隊」や「田園」とともに私のいちばん好きな管弦楽のSPのひとつです。歌いぬく。どこまでも歌いぬくなかに、峻烈なアクセントや熾烈な魂の響きが明滅し、人が生きることのすべてが溶解し、心だけが有限の時開からは限りなく遠くへ遠くへ羽ばたいている。第2楽章の第2主題、弦のさざなみに乗ってオーボエやクラリネットが訴えているのは、悲しすぎて、いっそまっすぐに美しさへ到達してしまったシューベルトの命そのものです。
これらSPを聴いている間は、LPやCDを忘れています。いい音です。鮮明であり、みずみずしく、奏者の体温や息づかいが、直接に伝わってきます。機械は、どう「進歩」したのでしょうか。なにか大切なものを置き去りにしてはこなかったでしょうか。
モノラルとステレオのLPを皆さんと聴くために、ステレオ電蓄「デッカ・デコラ」をサロンに入れて、はや1年。だんだんと機械も部屋に慣れてきて、ときどきは目覚ましい音を鳴らしてくれるようになりました。なにごとも少々の時間がかかるものです。 4回目の「幻想交響曲」は、英国デッカの初期のレコードをデッカ・デコラで鳴らせば、こんな音がします、という絶好の例でした。あれこれと盤を少しずつかけ替えるのは止めて、少なくとも一枚裏表はじっくり聴くことにしたのも、その回からでした。 「幻想交響曲」では、各楽器の音色が鮮やかに描きわけられ、総奏の響きはすさまじく、音符も休符も生きたものとして響く……その場の空気さえも生け捕りにしてしまう……録音のすばらしさが、若いアルヘンタの解釈のすばらしさをくまなく鳴らしきっていました。 これこそがベルリオーズの、若い芸術家の狂気の音楽。
夏の夜には、デッカ盤ではなく、米国ウラニアのフルトヴェングラーの「英雄」を聴きました。 1944年のライヴ録音で、伝説的な名演奏とされてきたものです。尋常ならざる力に満ちた音楽。明日は死ぬかも知れない[人間」が燃えています。 バックハウス、ミュンヒンガー、バーンスタインは、再び英国デッカの初版盤・初期盤。演奏の特徴と魅力を最大限に押し出す録音こそが「レコード芸術」の名に値します。
それにしても思うのは、日本の音楽評論家の皆さんは、どの盤でお聴きになって演奏の評価を決めていらっしゃるんだろう。むかしLP時代、SPを復刻した盤が出れば、復刻の出来について書かれていたことを覚えています。CD時代になってからは、LPの復刻の出来については、書く批評家は稀です。書かないことになっているのでしょうか。それとも、オリジナルの音がわからないから、なにも書けないのでしょうか。 そのことが演奏家の評価にも、まっすぐに繋がっているのだとすれば恐ろしいことです。音盤100年の歴史、近現代の作曲家と演奏家と演奏の100年間を、現在の装置と復刻CDだけで理解することは不可能です。 |
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2002年 1月 1日 発行 著 者 山村 雅治 発行者 山村 雅治 発行所 山村サロン
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