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21世紀の現場から 1 猛暑です。お見舞い申し上げます。 目覚めたその瞬間から暑いのですから、参ってしまいます。今年の蝉はなかなか鳴き出さなかったので心配していたところ、梅雨明けと同時にやかましいほどに鳴きだしました。蝉は七年間、地中に過ごすといいます。よもや六年半前の地中の幼虫に、震災の影響があったのでは、と気を揉んでいたわけです。 夜にも鳴く蝉のお蔭で、じりじりと夜も暑い。 しかし、すばらしい音楽を聴いたり、引き込まれるように本を読んでいると、この暑ささえ遠のいてしまいます。 「小田実評論撰・3」(筑摩書房)の中にこんな文があります。
震災後、私は被災者に公的援助を求める「市民運動」を、小田実さんらとともにやってきましたが、芸術サロンを運営する私が「市民運動」をやる、ということには「わからん」という顔を。された方も少なからずおられました。私も必要あれば遠くまで水を扱みにいき、瓦礫を片づけ、市民運動の声明を書き、デモにも出かけ、音楽会を企画しました。そういうものとして、私にとってことばも音楽も市民運動もありました。 上に引いた小田実さんの文に続いて、「修辞学」における三木清、という一文が収められています。「私は三木清はことばと社会、あるいは、思想と行動の関係について深く思いをめぐらした人間であると思う」と書き出される、苦渋に満ちた文章です。「三木にとって根本的に不幸だったのは、三木が修辞学の必要を痛感し始めたのが、まさにその修辞学の存在自体がおびやかされ始めていた時代だったということだろう。いや、人は現代ではそうした時代に直面してはじめて、修辞学の必要を感じるのではないのか」。 ここでの修辞学は、古代ギリシアの哲人たちが考え、実践したものです。思想を「説得」するために、活発な社会的実践のさなかに発達してきました。何をいうか、の先にある「如何にいうか」。サロンでの私の活動は「レトリック・イン・アクション」でありたいと願ってきました。 2 震災被災地の「現場」である、芦屋市の中心部にあるサロンという私の仕事の「現場」。人っているビルも震災の打撃を受けて、修理期間の約半年余りは廃墟でした。芦屋市在住の里井夫妻の熱意に動かされて、その間に開いたチャリティ・コンサートは、こちらもお客様も普段着でした。いつでも逃げられる「震災ルック」。余震が来て潰されたら、私一人が責任をとる、という「非常時コンサート」。大体が「立入禁止」に指定された半壊のビルで、正面の扉は閉ざされたまま。だから横からの狭い人口へ導入する「手書き案内」を何枚も貼り巡らして、およそ100名ほどのお客さまが集まったのでした。 しかし、それは感動的な「音楽の現場」でした。震災直後の一月中だったら、歌など聴く気になれなかった。歌い手だって歌えなかったでしょう。みんなが知っている歌がながれると、自然に誰かが歌い出し、客席には涙を拭う方もありました。 震災前から、たとえ集まるのが少人数であれ、人が一生忘れられないコンサートがあるということを、私は知っていました。サロンでは「バッハ」と「現代音楽」、あるいは知名度は低くても力ある人の音楽会を主催、あるいは支援してきましたから。 サロンは1986年11月に開館しました。だから、おおむねバブル経済の時代に草創期がありました。世はあげて商業主義に邁進し、音楽の世界も例外ではありません。商業主義は不況をきわめる今もなお続きます。景気がわるいから余計に「売れる」コンサートしかやらない、というネガティヴな「商業主義」。おかげで世の中では、お客のはいらなさそうな曲目もアーティストも切り捨てられていきます。 サロンは昔も今も「例外的」な音楽会しかやっていません。いい音楽会を開きたいだけですから。 3 オットー・クレンペラー(1885〜1973)というむかしの大指揮者が好きでした。彼は戦前のベルリンでクロール歌劇場を率い、当時の前衛にいた作曲家の作品を積極的に取り上げていました。 1927年から1931年までの4シーズンですが、ベルリンには先行する歌劇場が2つあり、ブルーノ・ワルターとエーリヒ・クライバーが指揮をしていました。 クレンペラー本人は「わたしはアヴァンギャルドを望んでいたのではなかった。いい劇場を作りたかった
― ただそれだけだ。ほかにはなにもない」といっていますが、クロール・オペラは当時の世界の先端をいく実験的劇場でした。アインシュタイン、ブロッホ、ベンヤミンらが常連客であり、クレンペラーはシェーンベルク二本立て、ストラヴィンスキー三本立て公演を挙行し、「エディプス王」やヤナーチェクの「死の家から」のドイツ初演をします。ほかにはヒンデミット、クルシェネークらの作品も上演されています。 ただでさえ尖った劇場だったのに、ついにベートーヴェンやヴァーグナーの作品の「物議をかもす大胆な設定」の古典作品の上演されるや「ドイツの文化に干渉した」と非難がまきおこりました。ユダヤ人・クレンペラーをナチスが攻撃します。ナチスは「クロールがプロレタリアとユダヤの邪教を広めている」と決めつけました。 やがてクレンペラーは追放されることになりますが、痛快なのは、「オペラとオペラの間に、クレンペラーは、新たに危険な、オール・バッハ・コンサートを計画したり、バッハをヒンデミットやワイルとミックスしはじめた」(『巨匠神話』ノーマン・レブレヒト著、河津一哉他訳、文藝春秋刊)。なんというべきか、この「へこたれなさ」!。つねに攻める。 結局、クロール劇場での最終公演は1933年2月13日のヴァーグナーの「タンホイザー」。すでにヒトラーが政権を握っていました。彼は述懐しています。 「有害な生き物としてドイツから追放されることになってしまったのです。ヒトラーとナチス党員は『タンホイザー』の上演に来ていました。第三幕を始めるために指揮台に出ると、酷いデモンストレーションがありました。私の味方は拍手をし、反対者は口笛を吹いたりわめいたりしました。それは約十五分間続きましたが、私は指揮台で黙って座っていました。 しかし、ついに1933年の4月5日、スイスの国境を越え、ドイツから遠く離れたチューリヒヘ逃れます。かつて紅海を無事に渡り終えたユダヤ人のような気分でした」……(『クレンペラー
指揮の本懐』シュテファン・シュトポア編、野口剛夫訳・春秋社刊)。 4 人には誰も、仕事をして生きるかぎり、かけがえのない「現場」があります。 「現場」を守るために、あるいは得るために、国の「制度」が妨げになっているとき、人はいやでも「国家」に働きかけざるを得ません。 クレンペラーは逸話が多く、明らかに常軌を逸した変人でしたが、その彼もクロール劇場存続のためには戦いました。プロイセン政府を相手に訴訟を起こし、新聞に論陣を張るなど、彼にできるあらゆることをしました。音楽を演奏することと同列の「必要ある」ことだったからです。 「必要ある」ことのために、震災後のサロンは市民運動体の事務局を兼ねてきました。「市民=議員立法推進本部」では、自然災害被災者に公的援助を求める運動を、そして新しい世紀の初頭からは「良心的軍事拒否国家日本実現の会」事務局も兼ねています。いずれも代表が小田実さんで、事務局長が私です。 日本はいよいよきな臭く、雰囲気に押し流されていくと、どんな岸辺にたどり着くのか知れたものではありません。「そのうち高校野球の甲子園に海軍旗が翻りそうです」とは、兵士として戦争体験をされた80歳の方からのお便り。 また、中学時代、国語の授業を通じて、つねに「戦争と平和」について語りかけてくださった内山瑞枝先生からのお便りには「変な旋風が吹き荒れて、ヒットラーの再来かと心配しています」とありました。 暑い夏。新しい平和への動きが、21世紀の日本から始まります。 (山村雅治 2001.8.6 広島原爆の日)
西宮在住の作曲家・ピアニストの久保洋子さんが、世界的名手を招きながら続けてこられた「20世紀音楽浴」の最終回でした。なぜなら翌年からは、新しい21世紀に突入するからです。 20世紀の掉尾を飾るゲストは、クラリネット奏者のドミニク・ヴィダルさん。フランスの実力者で、パリ国立高等音楽院をクラリネットと室内楽で1等賞を得て卒業。欧州各地の国際コンクールでグランプリ受賞。録音も数多く、1993、95年にはシャルル・クロ・ディスク・アカデミー大賞受賞。1994年にはル・モンド紙年間最優秀ディスクに選ばれています。 まずもって音色の自然さに驚きました。管楽器の名手に共通するのは、彼らの吹く音には楽器臭が脱けて、こんこんと湧く泉のような音楽の豊かさを感じさせることです。技巧が突き抜けているからです。ことにクラリネットは音が裏返りやすく、案外難しい楽器なのですが、もちろん耳障りな音は一切ない。 それどころかル・フィガロ紙の評言のごとく「やさしく甘い所も、驚くべき技巧的なところも、楽器の可能性を生かし、よくコントロールされた強い息遣いで、すばらしいソノリティを出せる」奏者。ことにソロで吹いたブーレーズとベリオの唖然とするような自在さ! 久保洋子さんの初演作は「ジュビラシオン」。久保さんは大阪音大大学院を経て、パリ第一大学大学院で芸術と芸術学博士号を取得。その間にフランス政府給費留学生としてパリに留学、ブーレーズが主宰するIRCAMに給費研修員として招待されています。メシアンやクセナキスらにも師事。 「ジュビラシオン」とはフランス語で「愉楽」「享楽」「歓喜」の意味。作曲者は「日本人は感情を表面に出す事を美徳としない面がある。この作品では日本人特有の秘めた感情の中に、西洋人の持つ表出した感情をおり混ぜている」と書いておられます。 久保さんの師、近藤圭さんの新作は「YUKI」。「この曲は過日、井上流の京舞『雪』を鑑賞した印象をもとに書かれた作品で、静的な世界を表現している」。 今回で「20世紀音楽浴」は終わりましたが、これはもともとは「国際芸術セミナー」として、久保洋子さんと招聘する海外からの演奏家らのレッスンを受けた受講生の演奏会が前に置かれ、教授二人の演奏会がメイン・プログラムとして行なわれてきた企画です。 最終回にも意欲みなぎる受講生たちの「コンサート1・2」。なによりも20世紀の「現代音楽」を演奏する彼ら、彼女らの前途を励ましたく思います。そして、今回はしめくくりとしての「シンポジウム」が聞かれました。 題して「20世紀の音楽について」。私も参加。現代音楽のコンサートを開くのに協力的な、物好きな会場側の人として。ふつうはお客が集まらないから、会場は現代音楽を敬遠しがちなのです。少なくとも「主催」でやる会場はきわめて少ないし、ましてや演奏者とともに金銭的リスクを共にすることなど、その辺の会場はしないでしょう。 ずっと前から、現代音楽は孤独でした。いまは新進のクラシックの器楽演奏家や声楽家が「歌謡曲」「演歌」のみで、デビューCDが作られる時代です。 売れることばかり考えているから文学が堕落し、音楽も堕落した。 自分のことばで考えることをやめて、口当たりのいい言葉ばかり書いて日が暮れる凡俗の作家たち。なによりもお客と思いつめ、内心の声にさえ耳を傾けず、甘い音しか書けない作曲家たち。そしてなによりも悲しいのは、企画者のいいなりに「歌謡曲」「演歌」ばかりを歌わされる声楽家、弾かされる器楽演奏家たちにそれで売れて、ほんとうに嬉しいのか。 私は「まあ、ええやないか」というゴマカシが嫌いです。音楽や文学にかかわらず、芸術に関わる人間には、その科白はないはずだ。 「こうとしか書けない」、ということば、音、フォルムを求めて、身を削り作品を磨く。あらゆる分野において、創作の厳しさの水準が後退しています。来年はもう忘れられているだろう擬似芸術の商品が氾濫。みんなが必死になって作品を出さないと、全体の水準が下がってしまう。だから、本当に力のある人は、むかしから群れることなく、孤独にやってきています。あらゆる分野にそのように孤独な芸術家がいて、はじめから、たったひとりで「世界」の最高峰の高みを見ながら活動を続けています。 ものをつくるというのは、そういうことです。 現代音楽に話を戻せば、作曲家に関していえば、学者は技法によって「流派」を名付けるのが仕事らしいですが、飛び抜けた才能を持つ作曲家は「ひとり一楽派」です。私は音楽の歴史には何の断絶もなかったと感じています。いつか歴史から弾きとばされる作品があったことは事実ですが、それはモーツァルトの同時代の作曲家の事情と同じこと。いつの時代も無数の作曲家がいて、残る人だけが残っています。 演奏家は、プログラミングで自分を語ってください。ラモー、クープランに始まり、メシアンに終わったプログラムでピアノ・コンサートを開いてくださった、ピュイグ・ロジエさんの一夜の音楽会の組立ては絶妙でした。古典が下手な人は、現代曲も下手です。 20世紀初頭にはラヴェルがいて、ドビュッシーがいた。そしてストラヴィンスキー。彼らのパリと、シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルンらのウィーン。彼らの撒いた「現代音楽」の種が、およそ100年を経て、こうして芦屋に咲き誇っています。それが久保洋子さんが続けてこられた「20世紀音楽浴」シリーズでした。
このコンサートについては、東京インターナショナルアーティスツの木村賢司さんからの「贈り物」でした。それにしても、なんと素敵なソロ・リサイタル! ニーナ・コトワさんはソビエト連邦(当時)生まれ。著名なコントラバス奏者だったイワン・コトフを父親に持ち、わずか7歳でモスクワ音楽院のチェロ科に入学。15歳のときには(1985年)、プラハ国際コンクールで優勝を果たすなど、将来を期待されたチェリストでした。しかし突然の父の死をきっかけに西側諸国へ旅立つことを決意。 19歳になると西ドイツ(当時)のケルン音楽院に留学し、優秀な成績で卒業。その後はアメリカヘ渡って音楽の勉強を続ける予定でしたが、ビザを取ることができずソビエトヘの帰国を余儀なくされてしまいました。 数年後、苦難の末アメリカヘのビザを取得することができた彼女は、プラハでの優勝により、エール大学への入学許可と奨学金を得ることになります。しかし、奨学金だけでは生活することができず、彼女はニューヨークに職を求めに行きました。そして1993年にモデル・エージェンシーと契約。これが彼女の人生を大きく変えることになりました。彼女の美貌はまたたく間にモデル界を席巻し、シャネル、ウンガロ、アルマーニなどのブランドの専属モデルとして活動をはじめ、フィガロ、コスモポリタン、グラマーなどトップ・ファッション誌の表紙を飾るなど、まさに「スーパー・モデル」の地位を手に入れたのです。 しかし、モデルとしての成功を収めても、彼女はかたときもチェロを手放すことなく練習と作曲をつづける生活を送っていました。そんな中、ついにロンドンでリサイタルを行なえるチャンスがめぐってきたのです。すると彼女は成功しているモデルの仕事をあっさりと捨て、音楽活動に復帰することを決意します。 1996年のロンドンでのデビュー・リサイタルはセンセーションを巻き起こし、ニーナ・コトワは再び音楽の世界に戻ってきました。モスクワ音楽院大ホールでも公演し、着々とキャリアを積んできています。 「私は幸運にも、ウィグモア・ホールでデビューを飾る数人のチェリストと出会ってきたが、ニーナノ・コトワほど印象深いチェリストは存在しなかった」。 (ミュージカル・オピニオン1996年8月) 1999年、アメリカでデビュー・アルバムを発表。2000年に日本でも発売され、同年11月、初来日し各地で公演。山村サロンではソロ・リサイタルを行なうことになりました。 現れたニーナ・コトワさんは、スーパー・モデルというイメージではなく、清楚な感じがする若い女性でした。彼女は石川啄木が大好きだそうです。私も啄木は好き。たちどころに彼の短歌の10や20は口をついて出てきます。なんか親近感を覚えました。 チェロ一挺を持って本番のステージに上がった彼女は、凛とした気配を漂わせた芸術家でした。外向きな派手さがいっさいなく、むしろつねに内面をみつめる眼差しが音色に現れている。バッハの「無伴奏」では、この曲集の中では最もよく知られた3番が、リサイタルの最初の曲に選ばれました。冒頭の下降スケールだけでチェリストの力がわかる。コトワさんの演奏は力みなく淀みなく、どこか美しい場所から湧いてくるごとく自然なもの。男性チェリストならしばしば誇示する力こぶはないし、かといって余分な飾りも媚びもありません。 カローシュはハンガリーの作曲家。「無伴奏チェロのための7つのリチェルカーレ」は、若くして急逝した、ニーナ・コトワさんの父であり著名なコントラバス奏者、イワン・コトフ氏に捧げられ「ロシアの偉大な音楽家、イワン・コトフの追憶」というサブタイトルが付けられています。今回の日本公演が世界初演。古典形式に則った現代の悲歌。 ニーナ・コトワさんの自作「無伴奏チェロのためのソナタ」は、4楽章形式の堅実な構成。彼女は作曲にも意欲的であり、1986年の「ピカソの組曲」をはじめ、「回想」、モデル時代の思い出による「キャットウオークの情景」など、チェロのための作品を書いています。これも世界初演。彼女は「近々に好きな石川啄木の『東海の小島の磯の白砂に…』を題材に作曲したいといっていたそうですが、その曲かどうかは訊き逃してしまいました。 ガスパール・カサドは、往年の名手パブロ・カザルスに学び、晩年に原智恵子さんと結婚した、20世紀を代表するスペインのチェリスト。彼もまた、作曲をよくし、自ら演奏するチェロのための曲のほか、3曲の弦楽四重奏曲や、名ギタリストのアンドレアス・セゴビアに捧げた「前奏曲とサルダーナ」などを残しています。最後に演奏された「無伴奏チェロ組曲」にもサルダーナなど、スペインの踊りが取り入れられていました。 若い音楽家が来日して、チェロのソロ・リサイタルを開く。それだけでも胸の弾む思いがしましたが、聴き通してから唸ったのは、プログラミングの見事さです。バッハと現代。そのなかに完成したばかりの自作を入れ、お父さんに捧げられた音楽を入れ、きわめて個人的な思いさえもかなしく美しい「作品」として昇華させる、彼女は芸術家でした。見知らぬ国の私たちへの最高の自己表現! 彼女はおそらく、いっぱいの悲しさや寂しさを耐えて生きてきた。彼女の好きな「東海の小島の磯の白砂に…」の続きは「われ泣きぬれて蟹とたはむる」です。チェロ演奏にも、たったひとりで生きてきた人の強さとやさしさが参み出ていました。自作においで孤独なモノローグをくりひろげるとき、彼女のチェロは切なく泣きました。 コトワさんは、啄木のこの歌も覚えているでしょうか。私の好きな歌です。大人になってから読み返し、不意に突き上げてくるものがありました。 「不来方(こずかた)の お城の草に寝転びて 空に吸われし十五の心」。
毎年恒例の「工芸・秋の出会い展」。レギュラーの山城建司さんと山内和子さんは、母の存命時からサロンの自主イベント「茶花を愛でる会」には欠かせぬ人たちでした。ふと、あの頃の「茶花」の加藤淡斎さんを懐かしむことがあります。 もう10年あまり前から、山城さんと山内さんとの交流が続いています。あの頃の芦屋には、華やいだ空気がありました。10年はひとむかし。30代の私には、まだ父も母もいました。そして、地震が起きるなど、だれも夢にも思わぬことでした…… 工芸・秋の出会い展は、だから「茶花を愛でる会」の同窓会のような会でもあります。花器があれば、そっとどなたかが山の草花を生けられている。 「使えるものを」というのが陶芸家・山城建司さんのポリシーです。山内和子さんの藍染めも、同じく生活の中で使うもの。逞しさに支えられた作品には風格さえ漂ってきたようです。賛助出展の森義文さん、中西秀典さん、アレフエ房さんにも感謝いたします。
ハンブルク在住のピアニスト・竹屋茂子さんが、長年のアンサンブルのパートナーであるポドホランスキーさんとダーネルさんを伴って、帰国公演を開かれました。ポドホランスキーもダーネルさんもスロヴァキアのブラティスラヴァ音楽大学教授。 なによりもショスタコーヴィチの生の音を聴けたことが喜びでした。ショスタコーヴィチは、サロンでできる室内楽やピアノ曲にも佳品があり、シリーズ化する夢を抱いていました。人がいない、というのが挫折した原因。ことに弦楽四重奏曲の最後の5曲などじつにすばらしい音楽だし、ピアノ独奏のための「24の前奏曲とフーガ」も生の音でサロンで聴いてみたいもの。 当夜のピアノ・トリオは、若書きの第1番作品8ではなくて、すでに交響曲第7番「レニングラード」や第8番を書き上げていた、壮年期の作品です。真水のようなピアノの音色をベースにした透徹した演奏でした。といっても、多くの皆さまには、メンデルスゾーンのほうが親しみやすかったでしょうね…。
盲導犬についての誤解も偏見も、ようやく解けてきたでしょうか。じっと座って待っています。吠えず、動かず、行儀のいいことは、たぶん多くの人間のこども以上です。ゴールデン・レトリバーが多いです。大柄な体つき。垂れ耳で、体毛はやや長くて、尻尾はふさふさ、という犬種。人に従順な性質のため、番犬にはならないといわれますが、施設などのセラピー・ドッグとしても活躍しています。この企画が続きますように。
私の好きな会です。というのも一人の音楽家の、音楽と、音楽の外で広げられた川柳の世界との合体を試みる「インヴェンション」(発明)があるからです。誰もしなかったことをする人には敬意を覚えます。 徳末悦子さんは東京音楽学校(現芸大)器楽(ピアノ)科卒業。多くの演奏キャリアを持ち、相愛大学名誉教授。川柳は、ひょうご社会保険センター川柳教室受講。毎日新聞川柳教室参加。 今回のテーマは「樹」と「子」。川柳、短歌、俳句といった短詩型文芸が朗読される「声」と、ピアノの「音」が響きあい、出演した方の個性が混ざりあい、結びあいます。感じ方や表現の仕方は、人それぞれ。いろいろな個性があるから芸術の世界は楽しいのです。 徳末悦子さんが演奏されたのは、シベリウスの「ピヒヤラの花咲く時」「孤独な松の木」「樅の木」。そして山田耕筰の「子供とおったん」より7曲。川柳は、四作を出されました。 風まかせ 揺れる葉末に 得たヒント 木洩れ陽を 掬って 明日の糧とする 鬼ごっこの 仲間入りする 蝶の影 巣立ちした 翼を時に 頼りとも
フランス歌曲の音楽会。こういうコンサートは、まさにサロンでしかできないでしょう。少なくとも、サロンに向いています。プログラムに現れる音楽家といい詩人といい、往年のパリのサロンの再現でもありました。曲間には私が少しばかりのコメントを挟みました。 19世紀末から20世紀の初頭にかけて、パリは世界の芸術の中心都市でした。音楽、詩をはじめ、バレエなどの舞台芸術。絵もそうです。天才の名に値する人物がひしめきあえば、各分野が活発になります。
ドビュッシー、フォーレのほかにラヴェルがいたし、ロシアからはデアギレフが率い、ニジンスキーを擁するバレエ団が来る。 ドビュッシーは彼らのために「牧神の午後のための前奏曲」などを書きました。おなじくロシア出身のストラヴィンスキーが、やはり彼らのためにバレエ曲を作る。「春の祭典」初演時の指揮者はフランス人、ピエール・モントゥーでしたが、当時の観客にはわかりにくい音楽だったので、怒った客に背中に生卵をぶつけられる始末でした。ようするに、芸術を興すムーヴメントとしては最高の環境にあったのです。たえざる守旧派との戦い。芸術はいつも新しい。何年たっても新しいのです。それが「クラシック」。人間の精神がかわらないかぎり、たとえばモンテヴェルディが新しいように、ボードレールの詩は新しく、ドビュッシーの音楽は新しい。 SP初期の時代、ラヴェルもドビュッシーも、フォーレもデュパルクも、ぴちぴちの「現代音楽」でした。彼ら作曲家の自演の盤、たとえばラヴェルの「ボレロ」などを私は持っています。あの時代の薫りを伝える二人のメゾ・ソプラノがいます。ジャーヌ・バトリとクレール・クロアザです。あらえびす(野村長一)は「名曲決定盤」のなかで「フランスの近代歌謡が、如何に特異なものであったかはここに説く限りではないが、少なくともフォーレ、デュパルク、ドビュッシー、ラヴェル、以下の新鮮な芸術的歌曲は、古い伝統主義者達には極めて理解の困難なもので、その大部分は、バトリ夫人の努力なしでは、亡び失してしまわないまでも、世に出ることが痛かに遅れたであろうことは想像するに難くない」と書き、続けて「バトリがフランス的であるとすれば、クロアザは更にパリ的であると言えるかも知れない」「バトリとクロアザは兎にも角にも、異常な歌い手である。巴里で無ければもつことの出来ない魅力的な存在であると言えるだろう」と評されています。 その時代からおよそ100年に達する時間が流れ、1999年に奈良ゆみさんがヨーロッパでリリースしたCD「ドビュッシー歌曲集」が、フランスの音楽誌「ル・モンド・ドゥ・ラ・ミュジック」で絶賛され「最高推薦盤」に選ばれました。バトリ、クロアザ以来の伝統を継ぐ名歌手、カミーユ・モラーヌは「ユミの声と感性はドビュッシーにぴったりだ」とことばを寄せています。 といっても、もちろん現代を生きる歌手、奈良ゆみさんはSP時代の歌手たちのようには歌いません。すでに独自の「歌のスタイル」を確立されているからこそ、「ラ・パロマ」「鈴懸の道」、そして「十五夜お月さん」などを収録した「母の夢」というCDも出されています。サロンにも何度も来演され、クルト・ヴァイルやメシアンなどの名唱も含めて、すべては彼女の声を通してしか現れない「奈良ゆみの歌」として心に刻まれています。生きることの悲しみや寂しさ。そして愉しみと喜び。それらのすべてを、奈良さんは全力でステージにぶつけます。 ことにこの日のプログラムは、フランスの象徴詩の最高峰といえるボードレールが私の楽しみでした。学生時代に、専攻は英文学のくせにフランスの詩が大好きで、寝転がりながらよく読んだものです。若いときは、なんといってもランボーとロートレアモン! その二人は今でももちろん好きですが、大人になればボードレールの凄さが分かってきたような気がします。人生体験を経ないと、よさがわからない文学はいっぱいあり、詩集「悪の華」などその典型だと思われます。「われは打つものにして打たれるもの」。この深さ。大人はセンチメンタリズムとは隔たった場所から、詩の第一行を始めるのです。言葉の響きは硬質であり、結晶化された美しさ。言葉による構築の美学。 ヴェルレーヌは「なによりも音楽。つねに音楽」……。旋律を乗せやすいのは彼の詩のほうだったかも知れません。日本でも愛誦された「ちまたに雨の降るごとく わが心にも涙降る」や「秋の日のヴィオロンの溜息の ひたぶるにうらがなし」など、七と五の調子で訳されていたために、多くの読者は一度読めばそのまま覚えていたのではないですか? そして、ピエール・レイス、テオフィル・ゴーティエ、ロマン・ビュシーヌら、当時のフランスには、なんというすばらしい詩人たち、音楽家たち、歌手たちがいたことでしょう! そして、なおさらすばらしいと思うのは、彼らの誰もが「個性」を示すことに誇りを持っていたことです。一人ひとりが誰にも似ていない。むかしの日本人はともかく、いまの日本人は駄目だ。なにもかもが「横並び」で「俺は俺」「私は私」の個性をぎらつかせていれば、猛烈な嫉妬心から叩かれてしまう。芸術家が生きられない国だから、若く力ある音楽家はみんな海外で才能を認めさせてから、ようやく日本で仕事を始めることになるのです。 奈良ゆみさんは、サロンでの公演曲が含まれたCD「フォーレ歌曲集」を、このほどヨーロッパで出されました。 CYPRES 一 CYP1627。 購入希望の方は、いまのところは、ラ・プレイヤードの藪田徳子さんにお問い合わせ下さい。 TEL & FAX 075-605-1244です。
ルドルフ・マイスターさんは1963年、ハイデルベルク生まれ。ウィーンの名ピアニスト、パウル・バドゥラ=スコダの高弟であり、彼のアシスタントとしてウィーン音楽大学で数年開教えた後、26歳の若さでハイデルベルク/マンハイム音楽大学の教授に任命され、芸術学部の主任を経て1997年からその大学の学長に就任しています。 ハイドンの「アンダンテ・コン・ヴァリアツィオーネ(アンダンテと変奏曲)」は、コンサートを開始するのにいい曲です。独欧系のピアニストの愛奏曲のひとつ。哀愁を湛えたアンダンテのテーマは魅力的であり、変奏のうちにしっとりと時間が流れる佳品です。 構成的ではなく、むしろ瞬間の閃きに作曲家の魂をかがやかせたシューマン、慣れない人には晦渋ささえ感じてしまうだろう孤独な音楽を、重さを感じさせずに弾き切ったブラームス。それらにもまして見事だったのはストラヴィンスキーです。 「ペトルーシュカ」は、ストラヴィンスキーの「春の祭典」「火の鳥」とともに彼の「三人バレエ音楽」の一つですが、「春の祭典」の荒々しいリズムの巻き起こす興奮とは別の魅力があります。 ペトルーシュカは人形です。見世物師にいのちを吹き込まれたために失恋し、恋敵に殺されてしまうという物語。特徴的なのは、ロシアのお祭りのにぎやかな音彩となつかしい旋律。悲しみさえも豊かな詩情のなかに語られていく、最も親しみやすいストラヴィンスキーがここにいます。 マイスターさんは冒頭の一音から気迫をこめ、自信がみなぎっていました。唖然とする名演。ポリーニより上手い! なによりもありあまる技巧が、技巧の誇示ではなく、音楽を生かすことだけに用いられ、譜読みは深く、不意に強調される「音」や「声部」の発見があり、しかも音色は多彩をきわめて、「ピアノのペトルーシュカ」の持つ可能性を最大限につくした「創造」がありました。最高の意味での「若さ」が目も眩むばかりに輝いていた演奏! 終演後の語らいでは、「レパートリーは何曲くらいありますか?」の問いに「さあ、数えたことがない……数え切れない」。そりゃそうでしょう。あれだけ弾ければ、技巧や手の大きさにレパートリーが制限されることはありません。それに加えて、彼には天性のものがあります。人なつっこい性格と高い才能が少しも矛盾しない。学校の仕事に、学長だからけっこう時間がとられるんだ、というのも本音でしょう。学校なんか家来に任せて、ピアノだけをお弾きになるべき人です。
地震が来るなどとは露ほども知らなかった、震災前のサロンにデムスさんをお迎えしたのは、もう気が遠くなるほど昔のことかと思われます。実際あの頃と今では、被災地の音楽ファンの経済的事情も、コンサートにかける気持ちも全然違ったものになっています。九死に一生を得た、という実感と、財布の中身が底をついた、という事実。 そのなかで、本当にいいものであれば、明日も生きていこうと思わせる喜びがありそうならば、やはり人は集まります。調べてみると1993年11月27日以来の来演。8年の歳月のあいだに被災地は大きく変わりましたが、会場内は、あの頃よりも切実なものを抱えたファンで満たされていました。 イェルク・デムスさんは1928年、オーストリアのサンクト・ペテルン生まれ。1940〜45年にウィーン音楽アカデミーで学び、ピアノをエドウィン・フィッシャー、指揮をヨーゼフ・クリップスに師事。その後ギーゼキング、ミケランジェリにも教えを受けました。 43年、ウィーンでデビュー。 56年ブゾーニ国際コンクールでブゾーニ賞を受賞。戦後、バドゥラ=スコダ(3月に来演したマイスターさんの師)、フリードリッヒ・グルダとともに「ウィーン三羽烏」として華々しく登場。数多くのレコード録音があります。 プログラムは、まずベートーヴェンの最後のソナタをリクエストして、残りは鈴江比沙子さん、デムスさんの意見を入れて決まりました。前はシューベルトの最後のソナタをリクエストして、シューマンを組み合わせました。今回はロマン派抜きでしたが、デムスさんの自作「カプリ」は、あれはロマン派でした。いいたいことがいっぱいあって、気持ちが溢れて。 ベートーヴェンの32番。最後のピアノ・ソナタは特異な曲です。楽章が二つしかなく、第一楽章はパトスに突きあげられたかのように激しく、第二楽章は沈潜の後に弾み、やがては音の尽きる広大な「空」へ解き放たれる……。 ベートーヴェンの晩年の作品には、しばしば常識では測れない表情を見せることがあり、それがすごくおもしろい。ディアベリ変奏曲、弦楽四重奏曲の14番。ミサ・ソレムニスや「第九」。音が、響きが、人間の世界を超えてしまった、至福の(あるいは地獄の?)瞬間が、それらの音楽の中にはあります。 デムスさんの演奏は、一音の意味がさすがに深い。モーツァルトの「トルコ行進曲」さえも、他の誰とも違っていました。ベートーヴェンに至ると、ただただ聴き惚れるのみ。デモーニッシュな迫力。声部をくっきりと弾きわけ、を曇らせ、輝かせる最高度の技巧。第二楽章のアリエッタが到達した「空」暗い虚無ではなく、光が充満する星空のかなたの高みでした。
もう多くは語りません。SPレコード、すなわち78回転の重い昔のレコードは、いいものです。これだけの回数が重ねられ、なお続いているのは、もちろんつねに40人くらいは来てくださる方々のお蔭ですし、貴重なご親族の遺されたSP盤を寄贈してくださる篤志の皆様のお蔭です。なにか、SPレコードに寄せる皆さんのお気持ちがひとつになって、暖かい空気の裡に、いつもあっという間に時間が過ぎていきます。
こちらの方は、おもにLPレコード、つまり33回転の軽い塩化ビニール盤を聴く会です。初回にはいきなり機械が故障してずっこけましたが、その折にハーモニカを吹いて空気をなごませてくださった千葉朝春さんには、あらためて感謝申し上げます。機械のほうは、その後、回を重ねるごとにいい音で鳴ってくれます。次回の会報では、レコード一般について、ちょっと詳しく書いてみるつもりです。 近 況 宮田乃梨子さんは2000年4月にサロンで、ザ・タロー・シンガーズとの「パイプオルガンと合唱の楽しみ」公演を終えた後、夏に海外演奏旅行に旅立たれました。 2000年8月19日のスウェーデン公演について、現地紙で大きく取り上げられたので、意訳して紹介します。レイフ・イェルンダル(Lei f Jerndal )氏の署名記事。「オール・ラウンドの日本人オルガニストがカストローサ教会で演奏した」というのが見出しです。 「プログラムにはバッハからリスト、レーガーに至る広範なものだった。ことに深い印象を刻みつけられたのは『架空庭園』という作品で、あまりよく知られていない作曲家ジャン・アラン(1911〜1940)は若くして亡くなった人。この表現力に富んだ作品をあるときは夢のように、想像力に充ちたトーンで鳥たちが歌うように輝かしく演奏された! 19世紀フランスのフランクでは第三コラールの力強さに感動したし、クレランボーではすべてがバロックだった。ブラームスのコラール変奏曲、そしてレーガーのトッカータさえ、重い和声と軽く柔らかい部分をともに生かしたダイナミックな表現だった。アンコールのリストは宮田乃梨子の演奏の価値ある到達点だった。彼女は優れた、オール・ラウンドの技術を持っている」。 ザ・タロー・シンガーズは、2000年10月15日にカザルス・ホールで東京公演を行ない、そのときのライヴ録音がCDリリースされました。「ア・カペラによる20世紀の祈り」(ライヴノーツ WWCC7391)。プーランク、ヒンデミット、ブリテン、コープランド、そしてバーバーの曲。 吉田亜矢子さんが、ついこの前の七月の昼下がり、ニューヨークから一時帰国して、新婚のハズバンド氏とともにサロンを来訪。彼女のヴァイオリン演奏の力みなぎる個性は「世界」のレベルにあるもの。 '98年10月3日に来演されましたが、私はある曲で、ステージで足を踏みならしてリズムをとり熱演した彼女と若いピアニストの姿を、かたときたりとも忘れていません。ハズバンド氏は、そのときのアンドリュー・アームストロングさん! ご結婚おめでとうございます。お幸せに……。 大井浩明さんがメシアン・コンクールで3位入賞されたことは、前回の会報でお伝えした通り。彼からの便りによれば、2001年11月上旬に帰国予定。ベルン音大のブルーノ・カニーノ教授とデュオ・コンサートを、東京・名古屋・京都で開催する、とのことです。本人の弁によれば「14世紀のポルタティフ・オルガンから、ブソッティ「サドによる受難劇」までの、イタリア「鍵盤」音楽史総捲り!<ナポリの好々爺の村夫子>(カニーノ)vs <京都の瞬間湯沸し器>(大井)のへ理屈バトル」になることでしょう、と。 2001年2月からはチェンバロ科へも入学。本格的に古楽も始められました。「大クープランの音楽はまるで夢の花園のようであって、あまりの美しさに、危うく『戻って来れなく』なるくらい酔っぱらっている昨今です」とのこと。現代音楽が上手い人は、古典も上手いはず。21世紀に大きく羽ばたく人だと思います。 |
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2001年 8月 15日 発行 著 者 山村 雅治 発行者 山村 雅治 発行所 山村サロン
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