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21世紀への文化遺産
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貴志康一が聴いたSPレコード
ご縁というのは不思議なものです。サロンで蓄音器で昔のSPレコードを聴く会をやっている、ということが新聞やテレビで伝えられたほか、皆さまの口伝えで一定の年代の方の間にどんどん広まりました。嬉しいかぎりです。その中のお一人、堺の熊取敬子さんから、大阪の岡本恭子さんへ「クレデンザ」コンサートのことが伝わると、早速、岡本さんから「母のSPレコードを引き取っていただけませんか」とのお申し出がありました。岡本さんのお母さまは、山本あやさんであり、山本さんとは以前にサロンでお目にかかったことがありました。 思えば阪神淡路大震災に見舞われる直前の1994年12月、私が解説しながら貴志康一の音楽を集めたコンサートを開いたときに、貴志康一の妹さんである山本あやさんも、場内にお越し頂いておりました。戦前には芦屋市伊勢町に、ご一緒に住んでおられたのです。震災直後にそのお邸の様子を撮って、芦屋の被災状況などをご報告申し上げたこともありました。それ以来の、山本あやさんからの望外のお申し出でした。
まず、岡本さんから目録が届き、レナー四重奏団、カペー四重奏団やゴールドベルク・ヒンデミット・フォイアマンの弦楽三重奏などの名前に釘付けになりました。いずれも初版の番号です。歳月がもたらす傷みが気にはなりましたが、多少のかびや汚れは取れるものです。なにしろ戦争と自然災害をくぐりぬけて、SP盤の「今」がある。これは是非、引き取らせて頂こうと決めました。日本コロムビアは国内プレス盤を1928年から出し始めましたが、その目録には、それよりも前の米国盤の番号が打たれたものもありました。
貴志康一は1909年3月31日生れ。甲南中学に進んだ後、1925年以来ジュネーヴ音楽院、ベルリン高等音楽院でカール・フレッシュにヴァイオリン、フルトヴェングラーに指揮、ヒンデミットに作曲を師事しています。いずれも当時の最高の人たちです。ヴァイオリニストとして活動したのち、1934年にはベルリンで自作のプログラムで指揮者デビュー。以後、ベルリン・フィル、新交響楽団(現NHK交響楽団)で西洋音楽と自作を指揮。 1937年11月17日に、28歳の若さで急逝しました。 才能に溢れた、非常に魅力ある青年なのだったと思います。三味線もドイツヘ持っていき、周りの人に弾いて聴かせたといいます。
「もちろん貴志康一もシロタさんもそのレコードを聴いて勉強しました」とは、お手紙のなかの山本あやさんのことばです。シロタさんとは日本に在住していたピアニスト、レオ・シロタのことです。寄贈していただいたコレクションは、戦前に活躍した二人の音楽家が聴いて、勉強していたもの!これこそが「文化遺産」でなくて何でしょう。シゲティを聴いて身が引き締まります。カペーを聴いてはるかな世界へ連れ去られ、レナーのポルタメントに蕩けそうになり、フーベルマンの情熱の奔流に押し流されます。8月23日(水)、それらの盤の中から「貴志康一が聴いたヴァイオリン」と題して「クレデンザ」コンサートを開きます。山本あやさんに満腔の感謝をこめて、貴志康一の魂に捧げます。
2
永遠平和のために
日本ポリドールがビクター、コロムビアに先がけて日本プレスのSPレコードを発売した1927年は折しもベートーヴェン没後100年の記念の年。フリッツ・クライスラーが百年祭記念レコードとして、ビクターに「ヴァイオリン協奏曲」を録音するなど、レコード界は華やかな話題に満ちていました。その年、貴志康一はすでに在欧。あちこちでベートーヴェン100年祭の音楽会を聴いたはずです。 それにしても、彼が活躍した時代の日本とドイツは、両国が破滅へ向かって突き進む助走の10年間と重なります。
1928年(昭和2年)3月、金融恐慌がはじまり、5月に山東出兵。中国では蒋介石のクーデターによる国共分裂。芥川龍之介が自殺したのもこの年でした。1929年、ニューヨーク株価暴落に端を発して世界恐慌始まる。1930年、ドイツ総選挙でナチスが議席を増やし第二党に。 1931年、満州事変。1932年、ナチス第一党に。上海事変。満州建国。五・一五事件。 1933年、ヒトラー内閣成立。言論と集会の自由が禁止される。ユダヤ人排斥の第一次行動。日本は国際連盟脱退。1934年、ヒトラーが総統になる。反ナチス派を弾圧するとともにレームら突撃隊幹部らを「血の粛清」。 1935年、ドイツ、再軍備・徴兵制宣言。9月ニュルンベルク法公布。ユダヤ人の市民権剥奪。 1936年、スペイン内乱の年、二・二六事件を経て、日独防共協定調印。ソヴィエト連邦ではスターリン憲法が採択されています。 1937年、文部省が『国体の本義』発行。盧溝橋事件。支那事変勃発。貴志康一没後3日目の11月20日に日本は「大本営」を設置。12月10日、南京総攻撃を開始して13日に南京占領。大虐殺を繰り広げます。
以後は坂道を転げ落ちるよう。そこで思うのですが、人間はこうした過去に学ばない。いや、戦争に参加した市民は、シベリア抑留3年の後に帰還した亡父のように、「戦争はあかん」と、いかなる戦争についても、それは「悪」だと、体の髄から学んでいますが、どうも権力の側の人たちは何も学ばない。いまの日本は、きわめて危ない局面にさしかかっているように思えてなりません。この数年にどんな法案が成立してきたのか。戦前の動きのおさらいをしているようです。憲法改悪の動きも不気味に進んでいます。
小田実さんは、2000年6月18日付の「朝日」論壇に、力強い主張を述べておられます。日本は「良心的軍事拒否国家」であるべきだ。 戦争に「正義」はない。戦争をやめないかぎり、世界は破滅する。この歴史、世界認識が、問題、紛争の解決に武力を用いず「非暴力」に徹して行おうとする理念と実践としての「平和主義」を強固にし、「良心的兵役拒否」を法制度にした。その延長で「平和憲法」をもつ日本は、原点に立ち戻り、いかに日本が「良心的軍事拒否国家」として「市民的奉仕活動」の「平和主義」の実践を行い得るかを考え、論じ、実践せよ。 これは、世界の永遠平和につながる思想です。第一歩を踏み出す国は、日本であるべきです。次に、小田実さんの「論壇」全文を掲げます。(8月14日 午後11時15分 - 15日 0時30分、NHK衛星第一放送BS7で小田実さんの番組が放映されます)。
サロン主催の工芸展です。震災前の「茶花を愛でる会」からの、懐かしいお顔が揃います。いつもの山城建司さんの陶芸と山内和子さんの藍染め。そして、今回のゲスト作家・森義文さんの漆器では「タイの木の屋根瓦」に塗りを加えた作品が気に入りました。 香袋の尾川佳子さんは特別出品。震災を挟んで交流が途絶えていましたが、ようやく再会できました。母が生きていればどんなに喜んだことでしょう。作品は、絞り、縮緬、金襴等の布地を用いて、花や鳥や小動物の形にきりりと結んだ香袋です。
シュターミッツ弦楽四重奏団は1985年に結成、その名前はボヘミア出身のマンハイム楽派の作曲家の名前によっています。1986年にザルツブルグの国際室内楽コンクールで第一位入賞。それ以来世界中から注目を集め、ウィグモア・ホール(ロンドン)、メトロポリタン・ミュージアム(ニューヨーク)などヨーロッパ、アメリカ、アジアの主要都市で演奏会を重ね、各地の音楽祭にも招かれています。CDもドヴォルザークやマルティヌーを入れたもので、シャルル・クロ・アカデミーのディスク大賞を受賞。レパートリーは広く、ハイドンからアロイス・ハーバ、シュニトケまでの膨大なもの。芦屋公演では、リスト協会スイス・日本を主宰するリヒャルト・フランクさんの薫陶を受けた二人のピアニストがソロを務めました。 チェコのプラハ市は2000年度のヨーロッパ芸術都市に選ばれていて、その記念コンサートで演奏するのも彼ら、シュターミッツ弦楽四重奏団です。プラハといえば、ある人はカフカを思い、ある人はドプチェクやハベルを思いだすかも知れません。音楽ファンはしかし、独特の美しい弦楽の響きを……政治体制が替わって帰国したクーベリックとチェコ・フィルの「モルダウ」の響きを……思い浮かべるに違いありません。 チェコは昔から名だたる弦楽四重奏団を輩出してきました。シュターミッツが弾くブラームスの和声は分厚く、ドヴォルザークの旋律はなつかしく、ビートルズの3曲も弦楽合奏ならではの詩情をたたえていました。
ラウル・ソーザというピアニストをご存じですか。 1939年アルゼンチン生れ。ブエノスアイレス音楽院を卒業後、ミュンヘンでチェリビダッケに指揮を、イタリアでスタニスラフ・ネイハウスにピアノを学び、国際コンクールでの入賞を重ねて順調にピアニストとしてのキャリアを築いてきました。ところが40歳のとき、散歩途中に右手の神経を痛めてしまい、両手でのピアノ演奏を断念。左手だけのピアノ演奏のために独自の技術の研鑚と開発を重ねました。1985年、モントリオールでの自作「左手のためのピアノソナタ第一番」で奇跡の復活を遂げました。 左手だけのピアノ演奏でまず思い浮かぶのは、ウィーン生れのパウル・ヴィトゲンシュタインです。哲学者ヴィトゲンシュタインの、あの一族に属するピアニストは1914年にロシア戦線で右手を失い、1916年に復員後活動を再開。ブラームスやレーガーなど先行する「左手のための」作品に加え、ラヴェル、プロコフィエフ、ブリテン、フランツ・シュミットらが「左手のための」ピアノ曲を彼のために書き、それらの作品を弾いて活躍し、1961年に没しました。ソーザはそれらの「左手のための」ピアノ曲に飽きたらず、独自の創意を加えてレパートリーを更に拡大しました。
一曲目のバッハ/ソーザの「半音階的幻想曲とフーガ」の冒頭からして奔流のような音楽の勢いに圧倒されました。フーガに至っては複声部がくっきりと分かれて聞こえ、しかも緊密であり、音楽が「発光体」となって輝くかのようでした。バッハの作品ではブラームスが左手のために「シャコンヌ」を編曲したものがあります。また機会があればそれも聴きたいと願いました。 二曲目、ゴドフスキーはSP時代のピアノの名手です。演奏ぶりは変幻自在であり魅力的です。ショパンを編曲した「左手のための」作品は22も残されていて、その中の6曲が演奏されました。ここでは力より味。音色の変化と閃くニュアンスの芸術。 三曲目はストラヴィンスキーの「火の鳥」のソーザ編。指揮者として「火の鳥」に魅了されてきたといいます。巨大なオーケストラ・スコアから五本の指への、魔法のようなトランスクリプション!クライマックスでは、まさに「キエフの大門」のような偉大な音像が眼前に出現しました。技術的な迫力。それにも勝る精神的な迫力。
西宮市在住の作曲家・ピアニスト、久保洋子さんが継続的に開かれている「20世紀音楽浴」は、表題の通りに20世紀の100年の間につくられた音楽を主体としてプログラミングされてきました。活動の舞台はパリと芦屋・西宮。世界中で「知る人ぞ知る」現代音楽のコンサート・シリーズです。 今回招かれたのは、クラリネットのドミニク・ヴィダルさん。パリ音楽院を首席で卒業。パリ、トゥーロン、ベオグラード、ローマなどの国際コンクールでグランプリ受賞。CDも1994年度ル・モンド紙年間最優秀ディスクに選ばれるなどの、すぐれたクラリネット奏者です。いや、その技巧の達者なこと! 彼のために書かれた久保さんの新作「ポリエードゥル」は、多面体を意味するフランス語。「一見同じに見える事象が違った解釈の上に成り立っていること」に久保さんは興味を持たれ、その例として「日本の伝統音楽では音のない部分は音を生かすための空間であり、ヴェーベルンの多くの休符は音が生きるための空間である」と解説されています。彼女の師、近藤圭さんの新作「時空」についての作曲者のコメントは、「時」は連続する音の流れであり「空」は非連続的な音のつらなりを意味しているとのこと。 とはいうものの、現代音楽を聴く側の一般ファンは、そう難しく考えて聴く必要はありません。美しいか、美しくないか。音の芸術として、深いか、浅いか。あるいは面白いか、退屈の極みか。それでいいのです。美しく、深く、面白いから、この企画はファンの皆さんにも支えられて続いてきたのです。久保洋子さん、近藤圭さんの初演作のほか、今回はルトスワフスキの「なまの音」が聴けたことが大きな喜びでした。もはや「前衛」ではありませんが、彼の厳しさが好きです。大切なことしかいわない頑固爺さんという印象がありますが、ときにものすごく美しい響きを生みだす作曲家です。
大きなタイトルになってしまいましたが、もともとは芦屋在住の「阪神・淡路大震災」の被災者である弘井俊雄さんと私の、震災の年からぼちぼちと続けているチャリティー・コンサートの流れの上にあります。この音楽会を二人で企画していた段階で、地球上すべてに、地震が及んでいました。 トルコ。台湾。「阪神」の経験者である私たちは、決して「他人事」とは思えませんでした。そして今年に入ってからは北海道の有珠山の噴火。三宅島の噴火および地震の多発。震源は海を徐々に北上しているようであり、不気味です。 弘井さんと私の考えはこうです。微力であれ、チャリティは、やらないよりはやったほうがいい。趣旨に善意をもって賛同し、出演して下さった皆さんに感謝致します。
「パイプオルガンと合唱の楽しみ」の第二回目です。サロンのオルガンは宮田乃梨子さん所有のもの。宮田さんは神戸女学院ピアノ学科卒業後、ベルギー、アメリカでパイプオルガンを学び、1974年ベルギー王立音楽院にてファースト・ブライズを得られました。スイス、ベルギー、アメリカでリサイタルを開くなど、世界的に活躍。現在は宝塚ベガホールと神戸ユニオン教会のオルガニストを務めておられます。 里井宏次さんとザ・タロー・シンガーズについては、最近めきめき力をつけた合唱団として、ファンの間に知られてきました。1994年に活動を開始。里井さん自身も被災した「阪神・淡路大震災」の年、1995年に第一回定期演奏会を行ない、以後着実に回を重ねて、1999年にはアムステルダムとバルセロナヘの訪欧コンサートも成功させています。 宮田乃梨子さんのオルガン独奏の諸曲は、いずれもサロンに置かれているパイプオルガンの特性を生かしたもの。古雅なバロック。現代の抽象の音の建築。ブラームスの最晩年の名作を経て、宗教性の濃い祈りの響きへ。 ザ・タロー・シンガーズのアカペラの古楽の美しさには定評があります。パレストリーナの出の響きから澄み切りで手の内に入った自信がみなぎっています。意欲作はスカルラッティ。うねる情熱が圧巻であり、熱気に満ちた場内に流れたアンコール曲は、モーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」の静謐な響きでした。
ガンター女史はスイスのチューリッヒ生れ。ヴィンタートゥール音楽院に学んだ後、アメリカとスイスで更に研鑽を積み、世界的に演奏活動をくり広げておられます。今回の来日は、病が癒えての復活公演でした。前回の「予定」が「キャンセル」のやむなきに至っていましたから、再会できたことを互いに喜びあいました。サロンではガンターさんは二度目のコンサートです。フランス式の楽器の音色。昔の名手エティエンヌが吹いていたクラリネットと同じ音色です。とくに低音が豊かに響き、深淵を覗き込むような深さがあります。ガンターさんの演奏は、堂々とした落ち着きを湛え、彫り深くスコアを抉りぬくブラームスに、ヨーロッパのオーソドックスなスタイルを感じました。親しみやすい門田展弥さんのソナタを経て、ウェーバーでは高音がきらめき、華やかに全曲が閉じられました。
20世紀音楽浴も、いよいよ20世紀の終わりの年に突入しました。1912年のルーセルのソナチネ、1913年のスクリャービンのソナタ。1931年から1935年にかけて作曲されたストラヴィンスキーの協奏曲を経て、2000年の久保洋子さんと近藤圭さんの新作。 今回招かれたのは1922年にパリで生れたピアニスト、クロード・エルフェさんです。5歳からピアノを始め、戦争が始まるまでロベール・カサドシュの指導を受け、後年レイボヴィッツに和声と対位法を師事。パリでデビュー・リサイタルを行なった後、すぐれた指揮者との共演や数多くのレコード録音を含む、めざましい活躍を重ねた。ベリオ、ブーレーズ、シュトックハウゼン、クセナキスらが彼のために作曲しているほか、ルイ・マル監督の映画『鬼火』では全編に流れるサティのピアノ曲の演奏を担当しています。 久保洋子さんの新作「ウル」はフランス語でうねり、大波を意味する語。「私はこの作品で、日本の音に内在するエネルギーのうねりを表現した」と解説されています。音のニュアンス、繊細なからみと衝突。小品の美しいスタイルが立ち上がりました。 1929年生れの近藤圭さんの「大物の浦」は、『舟弁慶』の物語によった作品。近藤さんの作品には日本の伝統芸能に触発されたものが多く、明らかに邦楽の響きが血肉となった日本の音楽家の「西洋音楽」との格闘を感じます。基調は野太く、大きな筆の、力に満ちた墨痕を求めておられる。70歳を超えられて、なお表現への渇望のこの激しさ。
今世紀初頭にエジソン、ベルリナーらによって発明、開発されたSPレコードは、およそ半世紀にわたり世界中の音楽ファンを夢中にさせた「音楽のメディア」でした。鳴らす蓄音器も電気を使わず、動力は手巻き式のぜんまいです。なんと今どき、のどかなことを、と呆れられることを承知で、この会を続けてきました。ところが、あれよあれよと近辺のSPファンの皆さまのお耳に届き、来場者は増加の一途を辿っています。「なつかしさ」を超えて、電気に汚されない再生音が美しいのです。何時間聴いていてもSPの音は疲れません。 ワインガルトナー指揮のベートーヴェン「第9交響曲」は、戦前の「第9」の決定盤でした。ウィーン・フィルの豊かな響きがこたえられません。ビーチャム指揮のヘンデル「メサイア」から合唱曲ばかりのハイライト。ビング・クロスビーの「ホワイト・クリスマス」もかけました。 SPに聴くバッハは、いずれも極めつけのもの。カザルスの「無伴奏チェロ組曲第3番」は力に溢れ、ブッシュ指揮の「ブランデンブルク協奏曲第6番」は暖かい音色が人間の温もりを感じさせ、セゴヴィアの小品に聴く、音の強さと決然たる音楽の輪郭に改めて感動しました。 SP時代の偉大なバッハ演奏家では、ほかにランドフスカがカリスマ的に崇拝され、ストコフスキーが大衆的人気を博していました。
声楽の黄金時代と名付けましたが、元来「蓄音器」は人の声の収録と再生に向いていて、音域も「中声部」が豊かに響き、戦後のステレオ・オーディオのような「重低音」も鋭い「高音」もありません。だから「蓄音器」は、まずメルバやカルーソーなど歌のレコードとともに普及していきました。(弦楽器の音色は人間の声に似ている面がありますから、蓄音器は弦楽器の再生も得意です。ピアノの場合は、最初期の段階で、かのルービンシュタインが「こりゃピアノじゃなくてバンジョーだ」と録音を断った話を紹介するにとどめます。段々によくなってきました)。 さて、メルバやシャリアピンは当時を生きた人には「誰でも知ってる」名前でした。今ならピカソやカラヤンの名前を「誰でも知ってる」ように。レストランのメニューにも彼らの名前は「ビーチ・メルバ」、「シャリアピン・ステーキ」として生き生きと踊っていました。ガリ=クルチは来日したときには、すでに全盛期を過ぎていたようですが、それでもSPに残る「ホーム・スイート・ホーム」には場内に溜息が満ちました。そして、今回とくに皆さんにご紹介したかったのがロージングです。
ウラディミール・ロージング。ロシアの歌手で、名前から推察すればユダヤ系です。現在手に入るSPレコードはきわめて少なく、いつの間にかファンからも忘れられてしまっています。その名を初めて見たのは、日本の戦前の思想家や学者がどのような西洋音楽を聴いていたのかを調べていたときに、林達夫の本の中ででした。林達夫著作集の補巻として、没後に出た「書簡集」に二度出てきました。一度目は若い頃。それを聴きに来ませんか、と知人を誘う手紙。二度目はドストエフスキーを読み直そうとしていた最晩年。音楽好きの年少の友人へ。 私がSPレコードに親しみはじめたのは、その後のことでした。中古SPショップヘ出かけるたびにロージングのものを漁るのですが、だいたいは不漁に終わります。そんなことが幾度か続いて、ようやくまとまった枚数のロージングのSPを手に入れました、一聴して心を奪われました。
あらえびすの「名曲決定盤」には彼のことが書いてある。「ロージングは決して派手ではなく、美しくもない。(略)が、その技巧の精緻な素晴らしさは、如何なる男声歌手も及ぶところでない」と。また、こんな文章が並びます。「ロージングの好んで歌う曲目は、泥の中から生れた、ロシア農奴の陰惨極まる蠢きの声であり、その表現はこの上もなく晦渋で、そして芳年の絵に見るような、嗜虐的な陰惨さを持ったものだ」。彼の好んで歌うロシアの歌曲は「殆どことごとく、牢獄と飢えと、悪魔的な皮肉と嘲笑とを題材にしたものであって、シャリアピンが歌えば、それにも華やかさと光明が点ぜられるが、ロージングが歌えば、それがそのままロシア土民の迷信と飢えの生活であり、地獄変相図に現代の衣を着せたようなものになるのである」。 ロージングの歌声の奥には、なまのロシアの市民の肉声があります。「蚤の歌」の笑い声には歌を踏みはずさんばかりの狂気への接近があり、「露西亜ジプシー歌集」の体温を感じるなつかしさには涙がにじんできました。 ひとことでいえばロージングは、エキセントリックな面を持つ天才肌の歌手です。このまま埋もれてしまうのは惜しんでも余りある。せめて私の目の黒い間は、ときどきロージングのSPレコードをかけることに決めました。
<参考資料> あらえびす(野村長一)著「名曲決定盤」(中央公論社刊)から、ロージングのレコード批評を抜粋して、引用します。原文は正字正かなです。
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2000年 8月 15日 発行 著 者 山村 雅治 発行者 山村 雅治 発行所 山村サロン
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