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変わらぬ場所から
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2000年が幕を開けます。おめでとうございます。 千年紀の終わりということで、なにかと落ち着きを失っていた1999年でしたが、人間の世界は終わらないし、人間の本質は過去も未来も変わりません。 そのことを確信をもっていえるのは、むかしのSPレコードを楽しむことを通じて、いろいろなことを学ぶことができたからです。「むかし」は「おおむかし」からつながっていて、確実に現代へつながり、未来へと続いていく、と。
たとえば、蝋管・SP・モノラルLP・ステレオLP・CD・SACDと続いてきたレコードの歴史は、おおよそ100年ばかりになります。1876年にトーマス・エジソンが錫箔用蓄音機を発明。 1888年、蝋管式蓄音機を商品化。一方、ベルリナーが1887年に円盤式レコードを考案、1900年頃までは「発明と実験」の時代。 1900年頃から1925年頃はSP「アコースティック録音」の時代。 1925年頃から1948年頃までは、SP「電気録音」の時代。1949年から1956年頃までがLP「モノラル録音」、1957年から1980年代半ばまでがLP「ステレオ録音」の時代で、CDとLPの生産枚数が逆転したのは1986年でした。以後、CDが音盤の主流になっていますが、1999年に至ってSACD(スーパー・オーディオ・CD)が開発・商品化されました。それぞれの移行期には「旧型」と「新型」が並行して作られていたことはいうまでもありません。みんなが新しいものに適応する機械を買い揃えるには年月がかかるからです。
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SPの最初期に録音されたもので私の手元にあるものは、ヤン・クーベリックやウジェーヌ・イザイのヴァイオリンなどですが、中でも貴重に思っているものは1907年(明治40年)録音のリリー・レーマンの6枚組SP(日本コロムビア盤)です。これは1939年(昭和14年)刊行のあらえびす(野村長一)著の『名曲決定盤』(中公文庫)の「歌の骨董レコード」の項目からすらも脱落しているもので、同著には後代のソプラノ歌手、ロッテ・レーマンの項に「先年物故したドイツの大歌手、リリー・レーマン夫人の確かな技巧と、美しい魅力とを、ロッテ・レーマンに見出すのである」と記されているのみです。 彼女のことは、やっと『珍品レコード』(あらえびす・中村善吉・藤田不二・山口亀之助・青木謙幸共著/グラモヒル社 1940年刊)という本で詳しい記述にぶつかります。「名歌手と大演奏家」の項目で、中村善吉氏のくわしい記述がありました。それと現代の『標準音楽辞典』(音楽の友社)の短い記述を合わせると、次のようなリリー・レーマンのプロフィールができあがります。
彼女が生まれた1848年は、ヴァーグナーが35歳。ブルックナーが24歳、ブラームスが15歳。モーツァルト没後61年ですが、ベートーヴェン没後21年、シューベルト没後20年というのは「わずか」な年月です。ロベルト・シューマンも38歳で「現役」だったし、フーゴー・ヴォルフは、リリー・レーマンよりも12も年下なのです。 むかしは音楽家の修錬は、「音楽大学」よりも「独学」と「個人レッスン」が主体であり、天才が天才を見出し、育てたという事例は枚挙にいとまがありません。文化・芸術の「技法」の歴史的伝達は、すべてその形が正統なのです。20世紀前半の大指揮者、ウィルヘルム・フルトヴェングラーも音楽大学へ行かず、個人教授だけで音楽を学んだ人でした。 SP時代に活躍した音楽家たちは、いずれも一騎当千のつわものぞろいで、プロフィールを読んでいると、みんな「神童」めいたキャリアを誇っています。学校で習う必要がない人たちが音楽家になった。これも、歴史的には本来の音楽家の姿なのでしょう。 リリー・レーマンも、家庭環境にも才能にも恵まれ、18歳でオペラ・デビューという早熟ぶりです。現代から見れば、彼女の経歴でまず注目したいのは、ヴァーグナーの『ニーベルングの指輪』の演奏に参加した、ということです。
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「バヴァリアの狂王」ルートヴィヒ2世をパトロンとして、自らの楽劇だけを上演するための「バイロイト祝祭劇場」を建てさせたリヒャルト・ヴァーグナー(1813.5.22 〜 1883.2.13)は、矛盾に満ちた人間でした。 音楽家としてはヴュルツブルク歌劇場の合唱指揮者から出発、ベートマン劇場の指揮者となるものの自作のオペラ上演に失敗。海路パリヘ向かうが途中で嵐にあいました。 1843年ドレスデン宮廷劇場の指揮者となり、『リエンツィ』『さまよえるオランダ人』『タンホイザー』を発表、ここでベートーヴェンの「第九交響曲」を広めます。マルクス=エングルスの『共産主義宣言』が1848年に発表され、その翌年、ドレスデン革命が勃発。ロシアの無政府主義者バクーニンと交わっていたヴァーグナーは、革命運動に参加して宮廷劇場を追放されました。その後、彼はチューリッヒに逃れたあと、1864年バヴァリア(バイエルン)王ルートヴィヒ2世に招かれてミュンヘンに落ち着くことになります。 ヴァーグナーはゲルマン民族主義者であり、ユダヤ人排撃論者でした。ヒトラーがそれを利用したのは有名です。ヴァーグナーはまた、人妻との不倫にうつつを抜かした男であり、王党派にして革命派、浪費をしては逃げ回りました。ルートヴィヒ2世の庇護を受けてからは生活は贅沢をきわめ、絹の下着を身につけていたそうです。そしてユダヤ排撃論者でありながら、生涯最後の「舞台神聖祝祭劇『パルシファル』」の初演指揮者にはユダヤ教のラビの息子、ヘルマン・レヴィに任せました。 丸山眞男は「ワーグナーの人格を語ることは不可能ですね。作品の価値と関連づけるなどという試みは放棄した方がいい。(略)音楽家は、まず作品をもって語らせるべきです」といっています。(『丸山眞男 音楽の対話』中野雄著/文春新書)。
ヴァーグナーは、文学、演劇、音楽を一体として制作する「総合芸術」としての「楽劇」を創造しました。『ニーベルンクの指輪』は上演に四夜もかかる大作です。『ラインの黄金』『ヴァルキューレ』『ジークフリート』と『神々のたそがれ』の四部作。これらの台本から音楽までを1853年から1874年にかけて、ただひとりで書いた(総譜は5,000ページにも及びます)事実もさることながら、内容にいたっては、神々の世界に仮託して、人間とその世界を動かしていく「権力」とそれをめぐる「欲望」、そして果てがない人間の救済への「憧憬」が、雄大なスケールと緻密な技法をもって余すところなく描かれています。 ラインの川底に眠る黄金の「指輪」は、それを持つと世界を支配する「権力」を得るものです。それが小人族、巨人族、大神ヴォータン、はては人間の手に渡り、やがて再びラインの川底に戻るとき、神々の城も紅蓮の炎に包まれ、いっさいが終わりを迎えます。 大神ヴォータンは、そのまま現代の権力者たちの救われなさを体現しています。自らの弱さ、醜さと戦うことなく、ひたすら自惚れたまま世界を支配しようとしたヴォータンは、自分でつくった権力機構のために息子ジークムントを殺し、愛娘ブリュンヒルデを魔の眠りにおとしいれ、自ら苦悶します。ヴォータンの槍を叩き割り、ブリュンヒルデを眠りから覚めさせた英雄ジークフリートも、やがて人間の汚い欲望に殺される。「葬送行進曲」にはヴァーグナーの絶望と怒りがこめられ、「ブリュンヒルデの自己犠牲」「終曲」に至り、感銘は圧倒的なものになりますが、同時に大きな「悲劇」を受けるに足る「カタルシス」(浄化作用)を覚えるのは私だけではないはずです。年に二、三回は全曲を通して聴きます。飽きません。
ヒトラーはヴァーグナーを利用しましたが、ヴァーグナーの芸術の本質は、権力に狂う人間の醜さを暴ききった点で、ヒトラー及び「われわれのなかのヒトラーたち」を根底から批判するものです。だからこそ、『指輪』のあと、最後に書いた舞台神聖祝祭劇『パルシファル』には、素朴をきわめた信仰の世界が描かれたのです。主人公パルシファルは、黄金も権力も知らない「穢れを知らない聖なる愚者」に他ならないのです。人が傷を負えば、その傷の痛みを感じる人 −
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また、次の世紀にも、その次の世紀にもヴァーグナーの音楽を求めて聴く人がいるでしょう。なぜなら、人間の本質、人間の心(人間のどんな面に共感し、どんな面に怒りを覚えるか、そして何に感動するか)は、むかしから「同じ」だったように、いまも、これからも「同じ」だからです。 1907年録音の、59歳のリリー・レーマンの歌声に打たれました。全身をぶつけるような激しさがあり、人間が歌を歌うという「行為」の根源が、もっとも素朴な録音の再生音のなかに火のごとく閃いています。 シューベルトの時代の歌手も、さかのぼってベートーヴェン、モーツァルト、ハイドン、そしてバッハの時代の歌手までも、リリー・レーマンの歌声の奥に聴く気がします。彼女の歌声には、唐突ですが、20世紀のシュヴァルツコップにさえつながるものがあります。 それにしても、私よりも104歳も年上の大歌手の録音を聴くことで、一挙にヴァーグナーや彼以前の作曲家を身近に感じられるようになったのは、不思議でした。総譜を読んでも、現代の演奏家で聴いても、こんな感じは起こりませんでした。やはり、その時代を生きた人の「肉声の記録」の喚起するものは、「楽譜」以上のものがあったといわざるを得ません。
政治形態や経済制度の変遷がつくる「社会」の歴史は、じつに容易に、ときには一夜にして「変わる」ことがあります。しかし、私たちの「精神」の世界は、なにも「変わらない」場所にあります。人間とは何かを問う芸術は、人間自体が不変だからこそ鍛えられてきた。意識も、表現も、委曲を尽くして発展してきたのです。 私は、この場所にいます。1900年代をまたいで、この2000年紀にも。 (山村雅治 1999.12.23)
毎年恒例になった、ノイズ・ミュージックの「オウブ」と、アコースティック・バンドの「渚にて」のチャリティ・コンサートです。観客も若い人がたくさんつめかけました。 どちらも、一般にテレビやラジオから流れてくる音楽とは「ちがう」音楽です。はじめての方は面食らうかもしれません。しかし、どちらも長い時間をかけて練られたものなので、耳になじんでくると、電気音の変化と持続による「オウブ」の音楽には「とんでもないやさしさ」を、「渚にて」の歌には「とてつもないユーモア」を感じて、終わるのが惜しくなってしまいます。 2000年5月5日(金・祝)にも、またこのチャリティ・コンサートを開くことになりました。「オウブ」と「渚にて」、そして坂口卓也さんに感謝申し上げます。
ベルギーフランドル交流センターのベルナルド・カトリッセ館長は芦屋にお住まいで、ある夏の午後にふらっとサロンに立ち寄られたことから交流が始まりました。昨年10月にルビオ・ストリング・カルテットの演奏会を開いたのが最初で、これはベルギーフランドル交流センターの協力による二度目のコンサートです。 まず誰もミッシェル・ジランさんのことを知らなかったでしょう。ジランさんはブリュッセルで活躍するフラメンコ・ギタリスト。
「フラメンコ」といえば南スペインですが、文字通りの意味としては「フランドルに住んでいる人」という意味で、実際、16世紀にはスペインの軍隊がフランドルを指揮しており、そのスペイン軍人とフランドルの兵士たちをまとめて「フラメンコス」と呼んだ、とされます。他にも諸説ありますが、「フラメンコは、社会の枠からはみ出して、迫害を受けながら生きている人々の苦しみの叫びに基づくもので、当時のスペイン社会から見捨てられていたという、共通の背景をもつ、ムーア人、ユダヤ人、そしてジプシーの人々の文化が混ざり合って生まれたものである」(資料/ベルギーフランドル交流センター)。
「フランドルのフラメンコ」は、じつに興味深いコンサートになりました。アンダルシアにも二年間住んでいた、というジランさんのフラメンコヘの愛が凝縮され、弾け、美しい火花が飛び散るのを眼のあたりにした思いです。
「リスト協会スイス・日本」のリヒャルト・フランクさんが主催された、とてもすばらしい音楽会でした。 早熟だったテレーサ・ウォルターズさんは、アメリカの名門校「ビーボディ・コンセルヴァトアル(J.ホプキンズ大学内)」から音楽博士号を取得後、パリヘ渡り、ナディア・ブーランジェ女史に師事されました。正式な「スタインウェイ・アーティスト」であり、リスト作品のCDがハンガリー・リスト協会のディスク大賞受賞、ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポスト各紙などからもリストのスペシャリストとして絶賛されています。
たしかに、舞台に出てきただけで会場全体が芳香に満たされたようになるほどの雰囲気を、テレーサ・ウォルターズさんは容姿においてすでに持っておられる。そして、これだけ確固たる「自分の音色」を持つピアニストは稀にしかいません。 当夜のプログラムは、「ハンガリー狂詩曲」や「愛の夢」などポピュラー曲で知られるリストの、一般にはあまり聴かれない宗教的な作品と、ピアニズムの粋が尽くされた難曲「ピアノ・ソナタ」でした。ウォルターズさんの音楽の呼吸は深く、幅広く、ピアノを最も美しい響きで轟然と鳴らしきり、あるいは柔らかい羽毛の繊細さで「小さな声でしかいえない真実」を紡ぎだしていかれました。
フランツ・リストは、若いころにはヴィルトゥオーゾ・ピアニストとして社交界で活躍したという、外面が華やかな音楽家であるだけに、いまだに全貌が理解されがたい作曲家のひとりです。人間離れした技巧の持ち主が、やがて孤独に神に向かう音楽を書いたとき、やはり、そこにはきわめて素朴に「こうとしか書けない」音を突きつめていく、真摯な音楽家がいただけです。 ウォルターズさんは、コンサートの最後を何度もの「両手の投げキッス」でしめくくられました。金髪碧眼、申し分ない美貌のピアニストからの「心からの挨拶」でした。美しすぎて、いっそ寂しさを漂わせる、孤独な芸術家からの。
秦はるひさんにバッハだけのコンサートをお願いするのは二度目です。初回は1995年、震災の年の秋。「平均律クラヴィア曲集第二巻」の抜粋(とはいえ、ほぼ全曲)だけを演奏会のプログラムにしました。ずいぶん思い切ったことを秦さんも、私もしたものです。しかし、それでいいのです。ピアニストは弾きたいものを弾く。演奏会を企画する私も、バッハが大好きだから、喜んで会場を準備します。 秦はるひさんは三歳のころからピアノを始め、東京芸大付属高校を経て、東京芸大、同大学院を修了。 1978年には第6回ドビュッシー国際音楽コンクールで第一位に選ばれました。その後はリサイタル、室内楽、オーケストラとの共演、新作初演、NHK-FM出演など多岐にわたり活躍されています。 演奏は、音楽の構造をつかみきっておられて、どの細部にも確信がみなぎっています。どの音符も生きている、と私たちに感じさせてくれます。現代におけるバッハの演奏スタイルは多岐にわたります。秦はるひさんは、逃げず隠れず、正攻法で押す。かくて、親しみを湛えながらも堂々として揺るぎもしない、バッハの大きな音楽の力が顕れ、そのことに打たれてしまいました。バッハには、すべてがあります。
中学生のときの秦はるひさんのピアノ演奏を、私は芦屋市立山手中学校での同窓生でしたが、そのときの様子も音も、はっきりと覚えています。ベートーヴェンの15番「田園 ソナタ」でした。打ち上げのときにも集まった皆さんにその話をしました。当時、秦はるひさんを教えていらした横井和子先生も、なつかしげに、いい眼差しで秦さんを見ておられました。あのとき私たちは中学三年生。あれから30余年を経て、それぞれに私たちはバッハを愛する大人になったのです。
作家の小田実さんは、私とともに、震災など自然災害被災者に国からの公的援助を訴える「市民=議員立法実現推進本部」という市民団体をやる方でもあり、同時に世界的に広がる平和運動を「市民の意見30の会」という団体を通じて展開しておられます。 「軍事条約」にすぎない日米安保条約にかわる「平和友好条約」を作れ、という意見広告を「ニューヨーク・タイムズ」紙に出したのは、1997年12月6日(アメリカでの「パールハーバー・デイ」は12月7日で、その前日)で、同年12月8日(日本での真珠湾攻撃の日)に、サロンでは小田実さんと、アメリカの反戦平和運動家/デヴィッド・デリンジャーさんをお招きして「自主講座シリーズ『非暴力』が世界を変える」を開きました。
阪神・淡路の震災被災者を教え、という運動と、世界に平和を訴える運動は、根が同じものです。市民の危機が国家の危機であり、ひとりでも市民が社会的な危機におびえながら生きているとすれば、それは世界の平和が脅かされているのと同じだからです。国家が平和を語るときには、しばしば「核」などの軍事的な威力をもって語られます。敵国を軍事的に「制圧」し、敵対する軍人と市民を「殲滅」することが、「平和」をつくることであるとされます。しかし、市民はそうは考えない。殺される人間が地上に存在してはならない、と考えます。いかなる理由づけがなされようとも、戦争は悪です。だから、カント以後の思想家が夢想してきた「恒久平和」を本気で世界にもたらそうとすれば、市民が立ち上がるしかありません。いま、そこにいる場所から、平和を訴えるほかないのです。なぜなら、平和は、より本質的には国家の問題であるより先に、世界市民としての自覚の問題であるからです。
小渕内閣になってから、戦前体制へ戻そうとするかのような、きな臭い法案が次から次へと可決されてきました。いま現在なにも考えないし感じもしないような人たちも、いざ「有事」になれば、いやおうなく「新ガイドライン」の網に絡めとられます。 小田実さんと「市民の意見30の会」は、力強い持続をもって市民の間に具体的な「平和への問題提起」を続けてきました。その集まりに、「貧困の文化」「文化の貧困」の話を通じて「サロン文化」を語る人として、私が「提起者」として呼ばれました。司会進行が小田実さんですから、いつもの「推進本部」の集会での役割が逆です。とはいえ、小田実さんは私のしゃべったのと同じくらいの時間をしゃべられました。
ボードレールに「1846年のサロン」というエッセイがあります。フランス革命(1789年)から半世紀余を経て、ようやく産業革命以後の新しい市民が文化の担い手として力をつけてきたことがわかります。それまでは教会や国王たちがパトロンでした。もちろん、サロンそのものは17~18世紀の絶対王政下の貴婦人の屋敷ですでに開かれていました。文人や芸術家が集まり、自由にものごとを論じあい、政治批判さえも行なわれていました。フランス革命を用意した、ひとつの重要な文化装置でもありました。 サロンという空間では、みんなが自由で対等の足場に立ってものがいえます。完全に平等であり、言論と表現の自由があります。軍隊式の「上意下達」の野暮はそこにありません。権力ということばの意味も実質も、サロンには存在しないのです。だいたいそこには威張る人間がいない。基本は「あらさがしよりも宝さがし」。市民の文化を創造する「場」は、サロンにこそあるのではないでしょうか。
西宮市在住の作曲家/ピアニストの久保洋子さんは、パリと芦屋・西宮を拠点に活躍される現代音楽のスペシャリストです。パリから実力ある音楽家を招いては、サロンでコンサートを開く「20世紀音楽浴」も、8回目を迎えました。 マルティン・ジョストゥさんはパリ国立高等音楽院をピアノ、室内楽、和声等5部門で一等賞を得て卒業。ピアノをイヴ・ナット氏に師事。シエナ、タングルウッドで研鑚を積み、ザルツブルグのモーツァルテウム音楽院で、パウル・バドゥラースコダに師事。ジョン・ケージ、シルヴァーノ・ブソッティ等、20世紀を代表する多くの作曲家が彼女のために作品を書いています。ジョストゥさんも、久保さんと同じく世界各地の国際音楽祭で活躍されています。ソロで弾かれたブソッティこそ鮮烈な音楽、そして演奏でした。
「20世紀音楽浴」シリーズの楽しみは、招かれたパリの音楽家の愛好する今世紀の音楽が聴けることと、久保洋子さんと彼女の師、近藤圭さんの新しい作品が発表されることです。世界初演された久保さんの『フィネス』(Finesse)は、フランス語で「繊細」「緻密」「鋭敏」などの意味があることばであり、プログラムノートに久保さんは「本来、日本人は小さいものは美しいという感覚を持ち合わせている。この微細なものに対する好みを私の作品の中で出来るだけ緻密な方法で表現しようと試みている」と書いておられます。 けれども生まれた音楽は、微細な「方法」であれ、また演奏時間も長大なものではないにせよ、「内実」はあふれるほどの内容をたたえ、ひとつひとつの音が「意味」と「構造」を担うたいへんな力作 − そう、あえて喩えていえば「天地創造」のようにスケールの大きな傑作でした。 近藤圭さんの『《TSUNA-YAKATA》−日本中世の物語り―』は、以前ベルナール・フォーシェさんによりサロンで弾かれましたが、今回は久保洋子さんによる再演です。今夏、久保さんはフランスとドイツでこの曲を演奏されました。長唄「綱館の段」に触発された、日本の響き。伝統と現代、日本と西洋が荒々しくぶつかりあいます。
それにしても、もともと作曲家は − 少なくともベートーヴェンの時代までは − 自作自演をして生活したもので、聴衆も作曲家の新作を聴くために演奏会に足を運んだのです。今度はなにをやってくれるか、という興味と期待が、作曲家に腕を磨かせてきた。作曲家のほうからも聴衆に求めるものがある。かくて演奏会場で「交感」が生まれれば、作曲家も聴き手も幸せになるのです。それが音楽会の「原型」です。そして久保さんは、他の作曲家の作品を弾く演奏家としても仕事をされる。だから、このサロンでの「20世紀音楽浴」シリーズには、測り知れない歴史的な意義があるのです。
クレアリー和子さんは大阪生れの、現在はアメリカに在住するピアニスト。彼女のピアノ奏法は、現在では珍しいユニークなものです。なによりも重力のない空間を珠玉のような音色が転がる妙味は、あまり聴いたことかありません。クレアリー和子さんはフェルッチョ・ブゾーニやヨーゼフ・ホフマンの孫弟子であり、十九世紀末から二十世紀初頭にかけて活躍した大ピアニストの奏法を、正確に継承されているのです。 SPレコードのコンサートをやるようになってから、私はクレアリーさんの真価が閃くようにわかりました。パッハマンやパデレフスキー、そしてゴドフスキーやヨーゼフ・ホフマンのピアノ演奏にたまらない魅力を感じます。1920年頃までのスタインウェイのピアノの音色の美しさには言語を絶したものがあります。 しかし私たちは現代に生きる。 1986年製のスタインウェイの現代ピアノの機能性と、弾きこまれて十三年を経た音色を生かし、芦屋のサロンで100年前に活躍したピアニストの奏法が蘇ったのです。アシュケナージやポリーニなどとは全然ちがう、なつかしいピアノの響き。2000年5月13日(土)にオール・ショパン・プログラムで、サロンでリサイタルが聞かれます。ぜひ、ピアノ音楽愛好家の方はお聴きのがしのないように。クレアリーさんは、現在、世界で「たったひとりの人」です。
パリ在住のピアニスト、林今日子さんの帰国コンサート。林さんは桐朋学園大学音楽科を卒業後、フランスヘ留学。ヴラドー・ペルルミュテール氏に師事。モンツァとセニガリアの国際コンクールで人賞。マリア・カナルスとポルトー市の国際コンクールで特別賞受賞。現在、ティエ市立コンセルヴァトワール講師を務めながら、ヨーロッパと日本各地でソロ、室内楽の演奏活動を行なっておられます。 この「レクチャーコンサート」は、まず企画とプログラミングが見事です。「パリに生きた外国人」の中には、画家なども含めれば相当な数の日本人がいたからで、そのなかに林今日子さん自身もいる。私たちの興味は、野平一郎、平義久、三善晃諸氏の作品にあったのですが、コンサート全体の音楽の流れにはすばらしいものがありました。ショパンには音色に夢が宿り、モーツァルトには子供が遊んでいるような弾みと歌ごころがあり、リストには時代を背負った大きなロマン、ストラヴィンスキーとアルベニスには生きたリズムが躍動していました。
当日は、平義久さんが客席にお見えになりました。9月15日に横浜で初演されたばかりの新作『ピアノロジー』には、「この曲は、ピアニスト林今日子さんの依頼により、私自身、ピアノ作品というものについて、もう一度考えみようと作曲したものです。曲は、第一:歌、第二:共鳴、第三:総合、の3つの部分から成り立っております」とコメントが寄せられています。前後に演奏された野平一郎さん、三善晃さんの作品も含め、それぞれ作風はちがいますが、共通するのは、血のにじむような戦いの果てに得た「音」と「響き」の美しさです。 パリの聴衆、パリの批評家がもっとも厳しい、と聞きます。パリ在住のピアニスト、林今日子さんに大きな拍手を送りたいと思います。このコンサートのためにご尽力下さった横田新子先生に感謝申し上げます。
サロンにベートーヴェンやショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲が響きわたることは、なんという贅沢な音楽の世界。私は弦楽四重奏曲という種目がとても好きで、かなうことならばベートーヴェン、ショスタコーヴィチにバルトークの「全曲」をサロンでできれば、と夢想しています。ハイドンやモーツァルト、そしてシューベルトとブラームス、それからラヴェルとドビュッシー……と、空想はとどまることを知りません。二十世紀初頭のパリで、「失われた時を求めて」の作家マルセル・プルーストが、自邸にカペー四重奏団を招いて、ひとりだけでその演奏を聴いた ― という事実には憧れの念を禁じ得ません。 しかし、二十世紀末の芦屋には、ベルギーからルビオ・ストリング・カルテットが訪れます。イギリスの弦楽器職人デビッド・ルビオ氏が作った楽器を四人ともが使い、グループ名も彼の名にちなんでいます。昨年十月に初来演。ベートーヴェンの「15番」、バルトークの「3番」、ドヴォルザークの「12番・アメリカ」がプログラムでした。とくにベートーヴェンを私が希望したのを彼らは覚えてくれていて、今回はこのようなプログラムになりました。「10番・ハープ」はピツィカートの響きが美しい佳曲で、ずいぶん昔、サン・ジェルマンの石造りの教会でヴィア・ノヴァ四重奏団の演奏を聴いたのが忘れられません。 サロンでは、木の響き。十三年間、いろいろな音楽家が訪れて、響きも練れてきました。どの声部も呼び交わしあい、「ひとりのような四人」のごとき合奏体の音楽は、オーソドックスをきわめつつも暖かく自在でした。音楽は、やはり実演にかぎります。生身の人間が音楽を奏でるのを生身の人間が聴く。その時間と空間を「ともに生きる」のが、音楽会の醍醐味です。お世話いただいたベルギーフランドル交流センターのベルナルド・カトリッセ館長に感謝申し上げます。
サロンに小さいながらもパイプオルガンが入りました。神戸ユニオン教会とベガホールのオルガニストでもある宮田乃梨子さんの持ち物です。震災後、修理に出されていたオルガンが現在のお住まいの都合でご自宅には戻せなく、しばらくはサロンに置いて音楽会に使ってもらえれば、というお申し出をありがたくお受けいたしました。 バッハのパイプオルガン曲をサロンでやりたい、という積年の望みがありました。また、合唱曲にもオルガンの響きにこそ支えられてほしい名曲がいくつもあります。当夜、私はバッハのこと、演奏者のことなどをおしゃべりしながらコンサートを進めてまいりましたが、内心うれしくてうれしくて仕方なかったのです。オルガンが舞台の「対面」に据えつけられているために、一段高い舞台に客席をしつらえたのも新機軸でした。
まず「小フーガ ト短調」が響き始めたとき、なんという美しい音楽だろうと思いました。混じり気のない音色。純正な和声。宮田乃梨子さんの生き生きとした音楽の構築力は、やがてバッハのオルガン曲のなかで最も著名な「トッカータとフーガ ニ短調」で、あざやかに示されていました。 里井宏次さんが率いる混声合唱団、ザ・タロー・シンガーズはその旗揚げ公演をサロンでも行なっています。あれから四年。近年ますます磨きがかかり、1999年春にはアムステルダムとバルセロナでの公演も成功させるほどの実力を身につけるに至りました。ルネサンス、バロックからプーランク、バーンスタインに及ぶレパートリーの広さ。各パートの声質が均質なこと。他声部の音を瞬時に聴きあい、正確なピッチで純粋をきわめる和声を創造していくメンバー個人の高い能力。音楽性も技術も最高の域に達しつつあり、これほどまでに純度の高い合唱は日本には類例がなく、世界的にもかつてのエリック・エリクソンと彼の合唱団しかありません。彼らが何度もくりかえし歌ってきた「ミゼレーレ」も「モテット」も、至純にして高潔。 2000年4月15日(土)には、再び同じ顔ぶれでオルガンと合唱の音楽会を開く予定です。来られなかった方は、4月には、ぜひ!
1900年代の前半の約50年間、レコードといえば重くて割れやすい78回転のSPでした。私の手元には日本盤も海外盤もたくさん集まってきましたが、戦災や、震災など自然災害に耐えて残った盤それぞれに、いいしれぬ感慨を覚えています。マニアの開では、中には一枚何万円で取り引きされているものもあるし、また戦中の日本盤など粗悪なものは「ただ」同然で店に置いてあるものもあります。私は、しかし、生き残ったSPレコードすべてに、価格を超えた価値があると思っています。お金ではない、精神的な価値。 なぜならSPは非常に高価なもので、よほど豊かな人でないかぎりは必死の思いで求められたものであるはずだからです。蓄音器じたいも高価でした。どの盤にも、かつてそれを聴いた人の思いが籠められています。それらは、文化遺産です。遠い父祖たちの息吹が伝えられている「生きた」音盤です。 たとえばウラディミル・ド・パッハマンというピアニストをご存じですか。1848年生れで、その年にはまだロッシーニやベルリオーズ、ショパンもシューマンも生きていて、ドビュッシーなどはパッハマンより14も年下なのです。彼が1933年まで長生きしてくれたのは愛好家にとって幸いでした。旧吹込みの時代にすでに60歳代でしたが、80歳代になってからも電気吹込みのSPを残しています。19世紀末から20世紀初頭にかけての最大のピアニストの一人、パッハマンは演奏中に独り言をつぶやくことでも有名でした。 彼が演奏したショパンの「葬送行進曲」(1911年録音)について、あらえびす(野村長一)氏はこう書いています。「不吉な美しさがある。(略)それは啜り泣く美しさだ。諦め兼ねた美しさだ。柩を包む花束の揺れるのを、涙一杯溜めた眼で見詰め乍ら尊い讃美歌を聴いて居る美しさだ。あんな深い悲しみ、あんな悲歎に彩られた美しさというものが外にあるだろうか」(『名曲決定盤』中央公論社刊)。 あらえびす氏の感動は、そのまま私の感動です。音楽の感動は世代をはるかに飛びこえたものです。私は1952年生れですが、104歳も年上のピアニストの演奏をSPを通して聴けることがまず驚きであり、その演奏に心奪われることにはこの上ない喜びを感じます。 パデレフスキーや若いころのコルトー、ホロヴィッツ、トスカニーニや、ブッシュ四重奏団にも同じことを感じます。これらの人々は亡くなっています。しかし、彼らが音盤にのこした音楽は生きています。
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2000年 1月 1日 発行 著 者 山村 雅治 発行者 山村 雅治 発行所 山村サロン
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