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1999年のために 1 むかし、1970年を迎えようとしていたころ、ノストラダムスの「終末の予言」について知りました。「1999年の7の月、恐怖の大王が空から降ってくるだろう」というものです。あのころ私は高校生。人間が月に降り立つことが現実のものとなり、日本は万国博覧会に浮かれたち、ベトナムではアメリカ軍による空爆がくり返されていました。「ダイオキシン」さえ聞かなかったものの、すでに「公害」は叫ばれていて、教室の窓から眺める大阪湾は「スモッグ」「光化学スモッグ」に遮られ、黒ずんでいました。水俣病、川崎病、イタイイタイ病、とす砒素ミルク、サリドマイドなど、そういえば子供のころから「企業」が垂れ流す化学物質が人体に障害をもたらす事件が絶えず、慄然としていました。「終末」は、1970年にはすでに頭の先、でなければ爪先を現わしていました。人間は「生活」のために隣人と自らを傷つけている。「生活」が「精神」よりも優先されるとき「精神」はたちどころに堕落します。それが「人間の終末」です。 30年ばかりの歳月を経て、「いま」を迎えました。「いま」の日本は、あのころよりさらに深く、実質のある不安に覆われています。金融の瓦解。中高年の失職。企業の倒産。個人破産者の増加。よって立つものと信じられた「生活基盤」がなだれをうって崩壊し、「金の力」で築いてきたものと思っていた「経済大国」は、もはや彼方の「空中楼閣」のごとく、かすんで消えていきます。「生活基盤」に加えて、日本人は「倫理基盤」さえ見事に失った。すなわち人間としての「存在基盤」がなくなりつつあるのです。 2 震災後の日本では、過去に例を見ない犯罪が次から次へと現れてきます。「宗教の権力支配のためには大量殺戮もいとわない」「性的快楽のためなら人間を殺してもいい」「保険金を得るために、自分が受取人となり、人を殺す」。もちろん彼らは「突出部分」であり、その言動には背筋の凍る思いがします。「人間は野菜だ」ということばが記憶に張り付いています。そして「どうして人は人を殺してはならないのか」という高校生の質問に、ちゃんと答えることができなかった大人の「みすぼらしさ」が、そのことばの「合わせ鏡」です。 ずっと前のことですが、ラジオの「子供相談室」で、小学生の男の子が「どうしてぼくはここにいるんですか」という質問をして、回答者を困らせたことがありました。彼は哲学者。やがて「存在」への洞察を彼なりに深めていったことでしょう。「人はどうして人を殺してはならないのか」。これも「存在」と、そして「社会」への大きな問いかけです。「歴史」にさえ問いかけている。 「敵対勢力を『みなごろし』にしてきた人間が『王』となり、権力と富をつかんできた。あるものどもは『神』をかかげる聖職者たちと結託して、権力の『正統性』を誇示し、彼らがひきおこす戦争は『聖戦』とされ、兵士たちは自己犠牲にさいして『万歳』を叫ぶよう教えられた。『いま』生きている地上の人間がみな、人を殺してきた『勝利者』たちの側の子孫ならば、どうして「人は人を殺してはならない』といえようか」。 「だから人は人を殺していいんだ。戦争も肯定すべきなんだ」と続けられることばは、「人間は野菜だ」と同じ意味を持ちます。日本人には、歴史から学習することがありません。「いま」の例では「経済復興には公共工事」という能無しがくりかえされていることが筆頭に挙げられます。戦争に対する考え方も、そろそろ戦争を知らない私たちの世代が「中年」になり、「知らないガキ」が知った顔をして「もう中国や韓国や北朝鮮に謝るのはやめようよ。あの戦争を肯定しようよ。アメリカだって原爆投下を賛美してるんだし。ねえ、ふつうの国になろうよ」と訴えます。 「戦後五十年も経って、『真理』は滅んじゃった。あのときは平和や人権が至上のものだった。だけど、こわれた。戦後民主主義なんて、どこにもなかったじゃない。戦後の『価値』は、経済発展の幻想を含めて、ぜんぶ嘘みたいになくなっちゃった」。 そして、きみは、どこへ行く。 戦争が起きれば、「公共」のために戦地へ赴くのかい。 きみのじいさんたちは、かつての日本軍に「一銭五厘」の赤紙で駆り出され、「貴様らは牛馬に劣る一銭五厘である」と宣言され、生命を「軍」の管理下に置かれました。つまり人権を根こそぎ奪われました。そして戦地で殺し、殺された。体験者がだんだん少なくなるから、声が届かなくなっているのでしょう。満州からシベリア抑留の憂き目にあった父をはじめ、元兵士は「もう戦争はこりごりだ。むごい」と漏らし、「銃後の守り」についていた女の人たちも、戦後のこどもだった私に、くりかえし「平和のありがたさ」を説いていました。念を押しておきたいのは、こうした「反戦・平和」思想を語った彼ら、彼女らは、いわゆる「左翼思想」の持ち主だけではなく、あらゆる陣営、あらゆる層にわたっていたことです。どうも「反戦・平和」が「左翼思想」の専売のごとくになっているのは奇妙なことです。「左翼思想」の雄、旧ソヴィエト連邦が真に「反戦・平和」の国だったら、キューバ危機はあり得なかったし、ハンガリーやチェコやアフガニスタンに武力介入をしたでしょうか。 「反戦・平和」は、持っている「政治思想」や生きた「時代」に係わらず、少し冷静に世界の歴史を学べば誰もが抱く、普遍的な人間の祈りです。
3 自分の存在が小さく、みじめなものに思えて仕方ないから、市民としてそこに属する「日本」が立派な国だと認めたい。その心の動きは、充分に「宗教的」なものです。 「『日本』は、かつてもいまも、これからも無謬であり、一点の非の打ち所のない名誉ある国なんだ」と、ここまでいけば見上げた「信仰」です。「信仰」の目は「事実」を隠す。当事者の証言があるのにもかかわらず「南京大虐殺」も「従軍慰安婦」もなかったことにする人たち。あらゆる種類の暴力行為に共通することは「した」側は早く忘れてしまうのに対し、「された」側はいつまでも忘れないことです。アメリカが原爆投下を肯定していようが、日本がアジアの人たちを苦しめたのは事実です。シンガポールの「マーライオン」の見える公園にも、「抗日英雄」の碑。観光ガイドは旧日本軍の「銀輪部隊」が走った道路のことはいいましたが、「抗日英雄」のことはいいませんでした。「マーライオン」にはさほど興味がないから、そっと私ひとりが碑文を見ていただけです。日本には、自国の非を非として認め謝罪したヴァイツゼッガーのような政治家がいなかった。「戦争責任」にはじまり、現今の経済破綻の「政策責任」にいたるまで、なにもかも「ごまかし」と「先送り」。その結果、生きていくのに自信がない日本人ばかりになりました。 「倫理」とは「私」の問題です。私の外側にそれがあるかぎりは、せいぜい安易に生きていられます。生きるか、死ぬかの淵に立ったときに、人は「倫理」のありかに気づきます。 自分が生きる。自分が死ぬ。どちらでもなく、「人を生かす」。それが私の「倫理」であり、どの瞬間もそうありたく願い、サロン活動を続けています。だから、私は人を「殺さない」。 これは「どうして人は人を殺してはいけないのか」の、直接の答えではありません。もともとこの問いは、この問いを知った「ひとりひとり」が胸に沈めて考えてみて、答えることを試みるべきなのです。この問いは「社会」に対する問いであるよりも、より本質的に「私」に対する問いです。そして、How do you think about it?と世界中の人びとに問いかけを発したいと思います。
4 1945年、日本は「軍事大国」に別れを告げました。1998年、日本は「経済大国」の称号から「さよなら」を突きつけられました。「軍事」も「経済」も、ひとことでいえば「弱肉強食」が発展原理であり、盛り上がる力の陰には、無惨に生き残った敗者がうごめいています。世の中全体が活気のある時代ならば「敗者復活」もあり得ました。浮いたものが沈み、沈んでいたものが浮かび上がり、そのくりかえしを経て、「いま」は、もはや全体の基盤が沈んでしまっています。ここに至ってもなお「弱肉強食」を続けているかぎりは、弱いものの力はなくなっていくばかりなのだから、やがて強いものの餌さえなくなります。そのことが経済担当の「官」には見えないのでしょうか。 「官」がこの国では強いものとされています。彼らは私たちの税金で食べています。私たちは不景気で、納められる税金が細ってきています。彼らは私たちを食べています。私たちは、だんだん駄目になり、税収はかぎりなくゼロに近くなっていきます…… 「人を生かす」という発想が彼らにあれば、私たちの「市民=議員立法」災害被災者等支援法案は、速やかに審議され、可決されたでしょう。全壊世帯最高500万円、半壊世帯最高250万円という案のまま、被災世帯でかけると、要する費用は1兆1000万円。「いま」、破綻した金融機関に対して「公的支援」される金額は、総額80兆円に上るといわれます。あれに較べれば、人間を助ける方がまず優先して行なわれるべきだったと、「いま」にして怒りがよみがえります。
5 大きな「時代」の転換点に立っています。ノストラダムスの予言詩は「謎かけ」のようなもので、当たっているかどうかは「解釈しだい」です。知ったことではありません。プログラムされていたかのような(?)史の解読よりも、歴史を創造していくことのほうに興味があります。 フロン・オゾンホール・有害紫外線、二酸化炭素・温室効果・南極の氷の溶解、ダイオキシン、環境ホルモン。「いま」地表に生きる人間の暮らしをおびやかす、これら「恐怖の王」たち。これらはいずれも国家・行政・企業「官・政・財」が一体となって「利益」を追求してきた結果です。南極のペンギンからもPCBが検出されたそうですから、地球上の化学物質汚染も念の入ったものになってきました。手遅れかもしれない。まだ、手遅れではないかもしれない。この問題は「ごまかし」「先送り」ができないはずです。経済的にいくら繁栄しても、人間は幸せにはなれなかった。のみならず自分で自分の首を絞め、子孫に恐怖の因子だけを残してきた。 奪うことよりも与えることを。物質や金銭に「精神」が宿るとすれば、「分かち合う」行為においてのみ、経済はふたたび円滑に回りはじめるはずです。奪うことしか考えていないから、全体の「量」が減少していけば、力のない「民」は枯渇するばかりです。 震災のときに感じたことですが、「地震」そのものよりも、被災者を見殺しにする「人間」のほうが恐ろしい。その意見は「いま」も変わりません。経済沈下そのものよりも、不景気に喘ぎ、のたうちまわる市民を棄てる「人間」が恐ろしい。地獄の釜が開かれて、猛毒が蔓延しはじめました。サリンは怖い。砒素も怖い。しかし、「人間」の「我欲と慢心」がまきちらす「猛毒」の恐ろしさは、その上をいきます。人間はどこまで堕落できるのか。「どこまでもできるよ」と、ふつうの人間がふつうの顔をして、無差別に人を殺す時代。 しかし、さて、私は「わくわく」しています。 この経済恐慌を「第二の敗戦」と名付けた人がいましたが、これはものすごくおもしろい時代です。私だって「ご同輩」と同じく、明日がどうなるか判らない。一歩踏み出せば、どちらを向いても「未知の荒野」です。私は「ひとり」だから楽しいのです。生来「横並び」で歩こうとした経験がありませんでした。だから、かつて福沢諭吉がいった「異端妄説』も軽がると口にできます。日本の市民を、市民社会を、漠然と支配していた「正統」が、誰の目にも明らかに崩れ去りつつあります。なごり惜しくなんかありません。むしろ、私はそれを喜んでいます。隣人を傷つけ、隣人から奪い、隣人を殺す、「弱肉強食」を原理にする文明は、つぶれてしまえ。 戦後、坂口安吾が「堕落論』と『日本文化私観』を著わした、あの気概が好きでした。「生きよ、堕ちよ、滅びよ」という叫びの熾烈さに、1970年、高校生の私は打たれました。徹底して「個人」がものごとについてどう考えるかを突き詰めていくこと。「たったひとり」でものをいうのを恐れないこと。日本人はあいまいな「社会的コンセンサス」をすべての「かくれみの」にしてきたから、本質を見ようとする人が少なくなった。私は日本の人たちがいう「社会」も「公共」も、そして「公序良俗」さえも信じていません。「常識」にもたくさんの「嘘」がある。本当に必要なものは少なくて、かえってすごく古い時代の文化遺産に目をみはる思いがしています。人類5000年、キリスト教以後の西欧文明2000年の「決着」を、やがて見ることができると思うと(「ハルマゲドンの戦」とか「最後の審判」とかではなく、単に時計の針が進んで「21世紀」になる、ということです)、その瞬間が待ち遠しい。あと2年。「胸突き八丁」を登っていきましょう。 (山村雅治 '98.12.16)
震災から3年余。それぞれの悲しみや苦しみをかいくぐり、EMEの復活コンサート第2回目。人は立ち直れなくなっても立ち上がる。打ちのめされても、悲しみにひしがれても、また歩きはじめて歌をうたう。シャンソンが被災地の人の心をゆさぶるのは、シャンソンの名曲の多くが「どん底」から歌い出されたものだからです。 人は何度でも、どこからでも、やり直すことができる。駄目だと思っていても、いつの日にか、きっと息を吹き返すことができるのです。 サロンシアター
「シャイン」は実在するオーストラリアのピアニスト、デイヴィッド・ヘルフゴットをモデルにした映画。全編にピアノ音楽が流れる「音楽映画」ですが、それよりも「人間」を彫り深く描いた名画です。主演のジェフリー・ラッシュはアカデミーとゴールデン・グローブの二つの最優秀主演男優賞受賞。冒頭の強烈な吃音でしゃべりまくるところから、すでに存在感があふれます。この映画は男の「挫折と克服」の物語です。少年時代に頑固な父親から徹底的に音楽教育を受け、父親はつねに「立ちはだかる人」として彼の前で拒絶する。10代で6回も国際コンクールで優勝するだけの実力を身に付けましたが、突如心の病に襲われて10年間も中断。彼をよみがえらせたのは、ギリアンという女性でした。彼女への甘えっぷりは、凍えていた心が春の日差しを浴びて解けだすごとくであり、人を愛し人に愛されるなかで、音楽への愛もやがてほとばしり出ます。1984年復帰リサイタルは成功を収め、彼は彼のいのちを輝かせました。 ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」が父と子をむすぶ「目標」でした。映画の中でアメリカビクター社のラフマニノフ自演のSP盤が映りました。別の曲ですが、ひょんなことから当時のラフマニノフ自演盤を入手。当日は、おそらくは昔ヘルフゴット父子が耳にしただろうSPの音を聞いていただきました。 「Love Letter」は、気鋭・岩井俊二監督・脚本の初の劇場用長編映画。中山美穂が魅力的に主役の女の子を演じています。天国に宛てたはずの一通のラブレターから物語は展開します。日本の土着性とは一線を画した映像の美しさ。非現実がベースになっている、現実の物語のおかしさと不思議さ。あの世をも含めた「時空間」の広がりのなかで、岩井俊二監督は随所に閃きをみせつつストーリーを運びます。脇役にも人を得て、非常に完成度の高い映画と思いました。ただし、若い感性(?)結晶として、です。青春のかなしさ、夢とあこがれが心に沁みました。 井上太恵子さんが主催する「サロンシアター」は、この「Love Letter」をもって、一時休みに入りました。リフレッシュし、力を貯え、また復活される日が近いことを祈ります。
震災被災者に公的援助を、と訴え「大震災・声明の会」を結成したのが1996年3月。要求項目を入れた市民発議の市民立法を創造し、被災地だけの問題ではなく全国の市民の問題に広げたのが同年5月。その市民立法案を国会議員全員に送り、賛同者をつのり、陳情でもなく抗議でもなく「いっしょにやろう」と呼びかける「市民=議員立法」運動が、同年9月ごろから軌道に乗りはじめました。 事務局は「大震災・声明の会」と同じく「市民=議員立法実現推進本部」も、山村サロン。日頃は日常の仕事をやっているサロンのスタッフもときには「事務局員」として電話やファクスの応対や、コピーや宛名書きなどの作業に追われました。一回目の大仕事は'97年6月、市民立法案の郵送作業。大詰めでは'98年4月の全国の市民からの賛同ファクスと葉書の集計作業。 市民立法発案もサロンに併設する喫茶室内でのことでした。住宅の被災の度合いこそ違うものの、私をはじめスタッフ全員は、半壊の建物修復申の半年間は働けなかった「失業者」であり、まぎれもなく震災による「被災者」でした。山村サロンの再度の立上げから「推進本部」の事務局を経て、'98年6月「生活再建援助法」成立にいたるまでの3年間こそ、サロンの歴史の中でも決して忘れることができない一日ごとの重なりとして、私たちはいつまでも記憶していることでしょう。 始まった場所でしめくくる。国会がすべて終わってからの「6・19全国集会」には、超党派で力を合わせてきた国会議員に加えて、芦屋と保谷の市長・市会議長らが出席されました。 まだ動き続けます。終わったわけではありません。 国会で成立し、付帯決議部分が実行された「生活再建援助法」には、不備が多い。多くの人が事細かな所得制限や年齢制限に阻まれて、全壊世帯の四分の一程度にしか「援助金」は渡っていないのです。金融機関には80兆円もの「公的支援」がなされるものの、民間会社は切り棄てる。そして市民に至ってはさらに救いがありません。現在、日本の市民を奈落の底に突き落としつつある(「リストラ」失職者急増。求人率最悪。倒産会社続出。個人破産者激増)原因は、いうまでもなく空前の不況にありますが、どうもこの国の政府は不況を打破するための「公金」の使い方がとんちんかんです。いまさら乱開発の「公共事業」ですか。「商品券」のばらまきですか。そして「公金」の大枠の申から「どれだけ地元に奪うか」が、この国の政治家たちの仕事の中心になっているのですから、政治の程度はお粗末です。 大半の議員がお粗末です。しかし、幸いにも私たちは、市民といっしょに「市民=議員立法」を創っていこうと立ち上がった超党派の国会議員たちとめぐり会いました。そして、6月の国会終了時に、今後も「市民=議員協議会」を続けることを確認しあいました。私たちにとっての「初めての経験」は、議員たちにとっても、わくわくするほどの「初体験」だったのです。「生活再建援助法」が不備であることは、与党の議員も認めるところです。救いの法律には、基本的に厳しい条件区分や差別があってはならないのです。 震災被災者が、ひとり残らず救われるまでに、私たちがやるべきことは二つあります。 ひとつは決まった「生活再建援助法」付帯決議・行政措置部分についての拡充などを、地方自治体に求め続けること。これは「県」と「府」、被災「市町」の問題です。もうひとつは「日本」全体の市民の問題として、地震だけでなく風水害被災をも含めた「自然災害」全般の被災者に適用されるべき恒久法を作り上げたい。それは、間接的に阪神淡路大震災の被災者の救いにも役だってくることでしょう。1999年が<苦苦苦>の「どんづまり」の一年にならぬよう、ピンホールほどの大きさに開いた風穴を、もっと光が射しこむようにこじあけてみます。
土ひねりをして、しばし世の中の喧噪を忘れるひとときです。手仕事はいいものです。 手仕事には心が映ります。みんな素人だから下手でもいいのです。自分と対話しながら、形への厳しさや、美しさへの趣味や、人生への愛などが土の表面ににじみ出て、やがて焼かれて結実します。器は鑑賞しているばかりじゃつまらない。暮らしに用いて、割れないかぎり使い続けることで、土は喜んで輝いてくるようです。
西宮市在住の作曲家/ピアニスト、久保洋子さんは震災後ますます盛んに作曲/演奏活動を展開されています。久保さんがドミニック・ヴィダル、マリー-クリスティーヌ・ミリエールと結成した「パリ三重奏団」のリサイタルの曲目は、いつものように、知られていない曲の日本初演と、久保洋子さんと師の近藤圭さんの作品の世界初演が含まれています。ストラヴィンスキーとバルトークはすでに「古典的」な作品ですから、まさに「20世紀音楽浴」のひとときでした。また、こうした演奏会を続けることは、パリと芦屋/西宮が音楽文化において直結している「時代」を築いていることにもなっているのです。 久保洋子さんの新作は「ジェニー(Génie)」。この語の意味の中で久保さんは、「森の精」「自由神、自由の象徴像」の意味をクローズアップさせた、と語っています。彼女のイメージの中には「音楽=未完の空間の中を自由に動き回る音(=一個の生命体としての精霊)という構図があり、それを具現化したのがこの作品である」と。奔放に内側からほとばしってくる力がありました。もう10年来、久保洋子さんの作品を聴き続けてきましたが、この作品を転機として彼女はより率直に自己そのものを語りはじめます。 近藤圭さんの新作は「場と持続」。この作品について近藤さんは「『虚にして実、実にして虚』この感覚的、思想的な言葉を音楽に於ける『音』と『休符』の関係に置き換える考え方を根底にしておいて作られている。方法的には、いくつかの日本画、水墨画と庭園を対象として、『音』と『休符』を、そして色彩を組み合わせている」と語っている。終演後、私が抱いたイメージを申し上げると、ぴったりと近藤さんのイメージと合っていました。
サロンの夏の恒例行事。黒田百合子さんの継続的なご尽力によって、今年も河野保人さんのツィターがサロンの能舞台に響きました。民俗楽器というのはおもしろいもので、ひとたび絃がはじかれると、オーストリアの風景が眼前に開けてくるようです。澄んだ空気、高原の涼しさ、そしてかの地の人びとの瞳の美しさ。
マインハルト・プリンツさんはオーストリア・ケルンテン州出身、現在ウィーン国立音楽大学教授。中田留美子さんは武蔵野音楽大学卒業後、ウィーン国立音楽大学へ留学。現在ウィーン在住で世界各地で活躍中。 夏休み期間中の「始め」も「終わり」も「ウィーン」でした。「まんなか」は長い「お盆休み」が横たわっているだけで、ほんとうに「お休み」でしたから、この日が来るのを待ち遠しく思っていました。安定感のある「熱情」ソナタ。ウィーンの人たちにとっても懐かしい歌の数々。シューベルト、レハールを経て「ウィーン民謡」と呼ぶべき「エーデルワイス」や「赤いバラ」など。
中国民俗音楽にもいろいろな心や表情があります。チャルメラにしても日本人に親しいのは「哀愁の音色」ですが、この楽器が「はめ」をはずして底抜けの陽気さで歌いまくるとき、どんな人の心さえつかんでしまう魅力が輝きます。メンバーは一流のエンターテイナー揃いと見ました。とことん楽しませてくれ、酔わせてくれる。国際交流は、まず市民と市民が混じり合うことであって、はじめも最後もそれにつきます。市民がいて、国がある。逆ではありません。国家の枠組みなど、本当はないものなのです。
日本在住のピアニスト、リヒャルト・フランクさんが主宰する「リスト協会スイス・日本」は、海外の演奏家を招いて「国際交流コンサート」をシリーズとして開いてきています。 ドレジャール弦楽四重奏団は、'72年ヴィオラのカレル・ドレジャールさんにより結成され、'75年プラハの春コンクールで優勝、ボルドー国際室内楽コンクールで銀メダル受賞。'89年にはチェコ室内楽協会から表彰を受けた。初来日は'94年で、京都芸術祭特別賞を受賞した。チェコではヴェテランなのですが、日本人にあまり知られていないのは、もちろん日本のレーベルでのCDが出ていないからです。内声部に実力者がいる弦楽四重奏団は、響きに厚みがあり、とくにブラームスの場合には「旋律的」というよりは「和声的」な充実感が重要になってきますから、ドレジャール弦楽四重奏団の実力が発揮されます
ベルギーフランドル交流センターのベルナルド・カトリッセ館長が、ある夏の日曜日にふらっと立ち寄られたことから、この演奏会の企画が生まれました。弦楽四重奏という音楽の形態が好きです。ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンからバルトーク、ショスタコーヴィチ、そしてクロノス・カルテットの現代音楽のレパートリーに至るまで、この分野には名曲が多いというのも魅力です。出演するのは、ベルギーの気鋭のルビオ弦楽四重奏団。四月にベートーヴェンのピアノ・ソナタの連続演奏会をやったので、補完としてベートーヴェンの弦楽四重奏曲のコンサートをやりたかったのです。リクエストはオール・ベートーヴェン・プログラムでしたが、彼らの得意とするのはまずショスタコーヴィチ。そしてバルトークでした。その全曲を彼らはCDで出しています。 ルビオ弦楽四重奏団は1991年に結成。1993年アントワープでオルフェウス国際コンクールで優勝。使用楽器はイギリスのヴァイオリン職人・デヴィッド・ルビオ氏の作品であり、団名は彼の名にちなんでいます。演奏は、アンコールのショスタコーヴィチ「フォックストロット」が、最もめざましい出来映えでした。バルトークは、彼らの世代にはすでに「古典」。かつてジュリアード四重奏団に聴いた先鋭な鋭さも、ハンガリー四重奏団に聴いた民族の共感もなく、ひたすら誠実に楽譜を音化していきます。ベートーヴェンの15番は、後期の名品の一つ。この曲がサロンで弾かれたのは初めてでした。そのことに感謝。演奏も四人が心を合わせた力演になりました。同じ製作者の四つの楽器の音色がひとつにまとまる。私は第三楽章の和声の響きが大好きなのですが、ルビオ氏の四つの弦楽器があたかも一人の走者によって奏でられているかのような瞬間が連続しました。本当に美しい音楽。この楽章には作曲者自らが「病癒えたる者の神への聖なる感謝の歌」と記しています。第二楽章まで書きおえたベートーヴェンは持病の腸炎をこじらせ倒れました。二ヵ月後に作曲を再開した、その静かな喜びが、浄福と祈りの音楽として流れていきます。
吉田亜矢子さんのヴァイオリンをはじめて聴いたのは、コンサートの事前の打ち合わせに来られた夏のことでした。彼女は10代のなかばからアメリカヘ留学、演奏家としてもアメリカを中心にしてキャリアを築いてこられました。サロンのことを知ったのは、一時帰国時にご両親が切り抜いておられた新聞記事を読んでのこと、ということです。震災の日は実家で揺られたものの、すぐに渡米。ずっと被災地のことが気になり、被災者のために何かできないかを考え続けてこられました。 二つの記事には、サロンがしばしば入場無料の「チャリティコンサート」を開いていることが書かれていました。そして、私へ手紙。ぴんとくるものがあったので、すぐに実家へお電話を差し上げて、お会いする日を決めました。それが夏。 簡単に「チャリティコンサート」のルール(こちらは会場費をもらわない。演奏家にも出演料は出ない。お客さまも無料。ただ、経費はチャリティボックスを場内に置くから、皆さんの募金でまかなえる範囲はそれでまかなう)を確認し、そのあとで舞台の上で「クロイツェル」の冒頭部分と「シャコンヌ」の全曲を弾いていただきました。ぴんときたものが当たっていました。すごい才能の持ち主です。これほどの人が、どうしてこれまで日本で「演奏会を開いてあげよう」とする人を得なかったのかが不思議です。ピアノなしで「クロイツェル」をリクエストしましたが、第二主題の入りの部分で、吉田亜矢子さんのセンスの鋭さがわかりました。ソナタ形式のこの楽曲において、序奏・第一主題・第二主題、それぞれが吹かせる風も温度も色もちがう。ことに第二主題の画然とした彫り抜きかたは、見事の一語でした。「シャコンヌ」は無伴奏ヴァイオリンのための傑作ですが、肉のりの厚い音色を基調にし、抜群の緊張感を伴って音楽のあらゆる局面を彫り深くえぐっていきます。唸るべきところは唸る。泣くところは泣く。戦うところで戦い、終結の和音が示すものの深さを、まぎれもなく鳴らしきっていました。 まだ20歳代の若い女性が、です。本番では私の話を交えながら進めていきました。私はひどく「楽しそう」だったそうです。おそらくは「得意満面」。これほどのヴァイオリニストを皆様にご紹介できるのですから。演奏も自信に満ちて、のびやかに楽器が鳴っていました。各曲に共通するのは、大きくのびやかに広がるフレージング、つねに心に裏打ちされた熱い歌。そしてそれらに、きりりとした造形を与える厳しい凝集力。ベートーヴェンとバッハ以外の近代以降の音楽も、心で、からだで、いきいきと弾く。吉田亜矢子さんが、とくにこの日のために選んだ貴志康一(芦屋に住んでいた人です)作品は、面目一新。真にローカルに徹しているものが、真に国際的なものになり得ることの証明。サラサーテはテンポが早いラプソディックな曲ですが、吉田さんは足でリズムを踏みならして若いピアニストをリードしていました。ラヴェルも基本は同じです。ここではやや涼しげな音色感さえ漂わせ、表現力の豊かさを見せてくれました。 すぐれた音楽家は最初の一音から、すでに自分を語っています。それはじつは、どれほどの訓練を重ねても、生まれつき備えているものがなければ、なかなか手に入らない。彼女がいちばん似ているヴァイオリニストのタイプは、アンネ・ゾフィー・ムターです。太陽をさんさんと浴びて、才能がやがて大輪のひまわりのように花開く。それにしても、ニューヨークでは大家にも一般ファンにも愛されているのに、どうして日本の音楽関係者は彼女を知らないままでいるのでしょう。
恒例の陶「器」と「藍」染め作品のジョイント展示会です。 手仕事を職業とされ、活躍しておられるというのは、すごいことです。年季が入ってくれば、どんどん「新しい」ものができてきます。私は今年、「器」は湯飲み、「藍」はサロンに置いている蓄音器「クレデンザ」を覆う「掛け布」を購入しました。それも元々はタペストリーとして染められたものですが、いつぞやに「たらこスパゲティ」を盛ればきれいだろうなと思って大皿を求めた伝で、わが「クレデンザ」には藍色のタペストリーが掛かっているのです。 ちなみに、今年の湯飲みはやや大きくて、円のゆがみ方が非常に手に持ちやすくできているので、夏がくれば、これで「そうめん」を食べてやろうと楽しみにしています。
神戸市長田区出身、東京で活躍する縣美穂子さんの主催・企画による「室内楽への招待」シリーズも4回目を迎えました。プログラムにいつも「知られざる佳曲」がはさまれています。演奏は縣さんの人柄が反映されて「親密」な空気に満たされています。初回にはベートーヴェンの「街の歌」が演奏されましたが、被災地と被災者の復興を願って、とのことでした。被災地出身のピアニストは祈りつつ、心をこめて音楽で語りかけます。
いろいろな機縁が重なってSPレコードが集まってきました。そして、またしても機縁=奇縁を得て、往年の蓄音器のなかでも「名器中の名器」とされる、アメリカ・ビクター社の「クレデンザ」を手に入れることができました。やはり「卓上型」では音量が貧しく、家で聴くぶんには充分なのですが、サロンで皆さんとともに楽しむとなると、やはり大型蓄音器です。かなり年季の入ったファンも来て下さいましたが、いい音で鳴っていたらしく、喜んで下さったことがなによりのことでした。自分の好きなことをやっていて、ほかの人にも楽しみになる。これはサロン主宰者の冥利につきます。ワルター/ウィーン・フィルはともに日本コロムビア盤。カルーソー、メルバ & ヤン・クーベリック、ガリ=クルチの三枚は、アメリカ・ビクター「片面の赤盤」。
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1999年 1月 1日 発行 著 者 山村 雅治 発行者 山村 雅治 発行所 山村サロン
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