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平和をつくる人
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非暴力が世界を変える。これは作家・小田実さんと、ベトナム反戦運動を通じて知り合われたアメリカの非暴力反戦運動家/デヴィッド・デリンジャーさんをお迎えしての、久々の「自主講座」につけたタイトルです。敵対者・抑圧者のなかにも「人間」を見て、暴力を行使しない行為を貫くことこそが、世界を平和に導くことができる。イデアリストとしてのみならず、強靭な実践家として生涯を「平和の訴え」に身を捧げてきたデリンジャーさんと、小田実さんのお二人がことばを交わされるとき、目前に21世紀が迫る「いま」に対する警鐘が乱打されたように聞こえました。第二次大戦時の「兵役拒否」、大阪大空襲時の市民の「難死」に始まる、激烈な体験に裏打ちされたものだからこそ、重い。 「暴力」は、権力が持つ、権力を維持発展させるための、威嚇の装置です。国家が別の国家に対して暴力を行使して屈伏させようとすることもあるし、国家の内部で、市民に対して銃口を向けたり、「棄民政策」をもって弱い市民を悲惨な死に至らしめることもある。瓦解した金融機関には公的支援を行なうけれども、震災被災者には一切の公的支援をしない、という日本は「棄民」の暴力が支配する国でした。 また、ことは「国家」だけでなく、市民の生活のレベルにも「暴力」はあります。「差別」や「偏見」などは「暴力」です。あらゆる暴力は理不尽だから、平和を求める人間は敢然と暴力にたちむかう。ただし、暴力を用いない。暴力は更に大きな暴力を呼び、はてしない暴力競争にエスカレートするだけです。たとえば、核軍備競争をあちこちの国ですることが、どう世界の恒久平和につながるのか。核を棄てることしか、武器のすべてを海に棄て去ることしか、人類の恒久平和への「現実的」な方策はあり得ないのに。核兵器が地上にもたらすことができるもめといえば、累々たる無惨な死体と、いつまでも消えない悲しみ、癒えることのない傷だけなのに。
「市民=議員立法」運動は、その手法において「平和」を貫きました。市民立法を実現するために、党派でなく、個人の議員に「超党派」で呼びかけました。一党一派に偏すると、本来「被災者に公的援助を求める」ことは「人間の問題」であるにもかかわらず、一挙に「党派の問題」に矮小化して見られがちだからです。そして、私たちの論に反対する人たちさえ、私たちは否定しないし、排除しない。徹頭徹尾「いっしょにやろう」と呼びかけるだけでした。徒手空拳。「ことば」だけ。暴力にあらず、ことばの力こそが、最も本質的に世の中を動かします。
2
喪失の悲しみと、政治が市民を「見棄て、殺す」ことへの怒りが、被災以来の私を「市民=議員立法」運動へ突き動かしていました。もともと「政治的」な人間ではなく、右翼でも左翼でもありません。私は、たいしてお金にならない「精神文化」に価値をみる人間です。できれば、音楽、美術、文学の世界で、自分の精神を戦わせたり、遊ばせたりしていたかった。震災が、そうはさせませんでした。被災者に対して公的援助を行なわないといいきった現代日本の政治には、すでに検討するに値する「政治思想」はありません。この国の政治の貧しさは、ひたすらに政官財一体の利益追求により市民の生活が犠牲にされていくという体のものですから、一本の「思想のくさび」を「人間のことば」により打ち込む好機と考えました。文学は、幻の楼閣でもなければ、頭上の虚妄でもない。ただ人をして空想の失楽園に遊ばせるのは二流の文学です。
文学は、人間のすべてを含み、現実に立つ。絶望も怒りも悲しみも夢想も、すべてが混然となりつつ、現実を書き現実の人間に対してものをいう。少なくとも、大きな歴史の文脈において「古典」たり得てきたのは、そうした文学です。「現実」に満ち足りている人間に文学は用がない。文学は、時代の「現実」を否定し「その歌ではなく別の歌を」求めます。それは、あたらしい時代を夢見させる力とともに、時代を切り開く行動へ駆り立てる力をはらむ「人間のことば」です。人類はつねに「そうじゃない、こうだ」という力強い声に導かれてきました。そして、時代を求め、時代をかちえてきた。そうさせてきたのが「文学の力」です。 世の中を、一歩前へ進める。具体的には「政治を動かす」といっても、こちらはその筋の専門家ではありませんから、それに市民運動は自由な市民の集まりであり「政党」ではありませんから、「かけひき」など一切ありません。ただ、考え方の「原理」と「原則」をいう。「市民=議員立法実現推進本部』で折々に出した「声明」などの文書は、おおむね小田実さんと私が(あるときは共作で。あるときは、どちらか単独で)書きましたが、小田さんも私と同じく、「ことばの力」「文学の力」が世界を変える本質的な力であることを確信する人間でした。そして、一歩ですが、世の中は前へ動きました。
3
この「市民運動」は、震災前から展開してきた「サロン活動」と、まっすぐにつながっている行為でした。「サロン活動」は、市民が市民の文化活動を展開する「市民運動」です。私にとっては「サロン」の場が飛躍的に広くなった、ということです。 市民の文化を創造する場としての「サロン」では、あらゆる意味で「言論と表現と集会の自由」が保証されていなければなりません。だから、大企業などの「ヒモツキ」にならない。外部から何の制限も受けない。自分で稼いだお金で自分の好きなイベントをやる、というのがサロンの「自主催事」であって、その原則はいまでも曲げていません。そして私が「主催」する場では、すべての人が自由・対等・平等の地平に立ちます。利益追求の資本ファシズム下の文化は、ついに奴隷の文化でしかありません。そうではなく、自分の頭で考え、自分の足で立つ、自由な市民の文化を創造したい。開館した12年前の昔から、これからも、です。
「自由な市民の文化」を、戦後の日本で「場」として創造し得たひとりに、花森安治がいます。「70年安保」以後、大手出版社系の総合誌・思想誌のことごとくが無様な変節をとげていく中で、ひとり『暮しの手帖』編集長・花森安治だけが、骨太のエディター・シップを貫いていました。彼の雑誌は仮借ない「商品テスト」をするから、一切の企業から広告を取らなかった。小学校高学年のころから、家で購読していた『暮しの手帖』に親しんでいました。市民が自由にものをいえる環境は自らが創っていくしかないことを、知らず知らずに学んでいたような気がします。花森さんは、こんな文章を書く人でもありました。
4
平和をつくる人。苦しくとも、平和をつくりだそうとする人が好きです。 平和とは、あらゆる人があらゆる人の「価値」を認めあい、平らな地上で自由・対等に生き、すべてを分かち合う「個人の生き方」の集積です。弱いものから奪うことしか考えない「権力者」は、そこにはいない。核兵器からバタフライ・ナイフに至るまでの、人を殺すことが目的の「武器」がなくなれば、人と人とは、とことん話しあうしかない。 生きることに脅かされる現代人は、未来に希望が持てないから、こどもを産むことさえ恐くなり始めています。のみならず利益追求を至上とする工業社会がもたらした環境汚染で、自然は人間の男性を含めて、「生物」としての繁殖能力が低下してきています。もう生きられない、という無意識の本能がそうさせています。「お金がすべて」という社会、もうやめませんか。
日本は、不景気の打開策としては、あいも変わらず「公共工事」です。頭の悪さにも限度があります。ところが、この国の「エライ人たち」の頭の悪さは天井を突き抜け、床板を踏み外します。なりふりかまわず乱開発をして土木建築業者に「お金をばらまく」ことが「政治家の責務」である国なんて、下の下ではないでしょうか。思想がない。倫理がない。ただ税収を公金として配分する「利益の組織」だけが、みんな欲深だから、後生大事に維持されている。底は割れているのです。それだけの国なのです。そして、金融が瓦解した。倒産会社と失業者が増えた。世の中に生きている意味を見失う人があふれ、人心は乱れます。ゆるやかに着実に、しかし、戦争が準備されつつあるのではないか。
他国への軍事侵略。市民の虐殺・陵辱。領土と富と労働力の収奪が戦争指導者の目的であり、そこには精神的な価値は皆無です。戦場ではひたすら殺しあう。そして、戦勝国は反省も悔恨も前面に出ないから、人間とその世界について学びなおすことがない。勝てば、善。殺して、殺しっぱなし。逆に敗戦国・日本は、「沖縄」戦、「広島」「長崎」の原爆投下や都市部の「大空襲」などを通じて戦争の悲惨を全市民が共有し、その結果、永久の戦争放棄をうたう「憲法第九条」を、敗戦による最大の「果実」として獲得したはずなのです。 そして五十年余。先の国会ではPKO法案「見直し」が決まり、次国会では「周辺事態法」なるものが制定されようとしています。政府が受諾した新「ガイドライン」(日米軍事協力の指針)では、アメリカは「周辺有事」のさいに国内の港湾十五か所の使用を想定しています。 神戸市は、神戸港に入港する外国艦舶には「非核証明書」の提出を求め、それを提出した艦舶にかぎり停泊を許可してきました。この「非核神戸方式」が、六会派による「被災者生活再建支援法」が決まるや否や「なしくずし」にされていたのは、どういうわけなのか。外務省の圧力により5月28日、カナダ海軍の補給艦「プロテクター」が「非核証明書」なしに入港。まさか、なんらかの「とりひき」があったとは考えたくもありませんが、すべての市民を戦争にひきずり込もうとする「ガイドライン」の問題は、神戸の街がいちばん巻き込まれやすいのです。
戦争はしない。他国の戦争に協力しない。それが市民の意志です。 そもそも「軍事」において他国との条約を結んでいる「戦後日本」が笑止の沙汰なのであって、日本はあらゆる他国と「平和と友好」において結ばれていなければならない。世界の中で、日本は「平和」についての思想と倫理を説く資格と責任を負っています。恒久平和とは、ついに人類の「精神的な価値」の総和がもたらすもの。人が人におおいかぶさる「権力者」も「武器」も消えた「世界」の状態にほかならず、核を持つ数国の「均衡」では、いずれ無惨に崩れます。考え方があまりに「物質的」だからです。
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非暴力が世界を変える。このことばを鼻先でせせら嗤う人は、暴力の輪廻を断ち切れない哀れな人です。「人間は権力を求める動物であり、力の強いものが勝ち上がり、弱いものは負けて泣いて暮らせ」。彼らは、そういいます。「なぜなら、人類の歴史は権力の交代の歴史じゃないか。五千年間、争いをくりかえし、殺され殺してきたのが人類だ。みんな殺戮者であり、略奪者だ。いい思いをしてきた人間は、弱い奴らを踏みにじる快感を忘れることができないんだ。人間は戦争をやめられるものか」。 いっておきましょう。武器にしがみついて離れられない「国家」と「人間」は腰抜けです。 思想と倫理。つまり「ことばの力」を信じぬく決意があるかぎり、平和を求める訴えは時空をこえて「人間」の胸の奥底にひびくはずだからです。人類の「理」は、戦争推進勢力と平和を希求する私たちのどちらにあるのか。人間に精神があるごとく、人類の歴史の本体は、権力者の交代の記録にあらず、人類が何を学び、何を考えてきたのか、の人類の「精神史」にあります。力あるものは考えてきたし、力なきものも考えてきた。聖職者は悩んだし、罪びとも悩んできた。産まれてきたものは例外なく老いて死に、産まれてきた人間の数だけの「生老病死」が、その数だけの「思考」を地上に飛散させてきた。その中に低く執拗に持続する声、「殺しあいは、もうやめよう」。強い、その一筋の声が、私の耳には遠い千年の父祖からの声としてひびきます。
夏が来れば、こどもの私に父が語りかけました。1943年「一銭五厘」の赤紙が来て応召。終戦時、満州からシベリア抑留。1948年に帰還した父は、1952年生れの私に、くりかえし「戦争はあかんで」と。 (山村雅治 July 14.1998)
EMEの復活を祝います。なつかしいお顔が揃い、「ケ・サラ」「さくらんぼの実る頃」などのシャンソンがつぎつぎと歌われました。梶田敦子さんは「33歳」と「枯葉」。なにもかもが「昔通り」の雰囲気をもって進みました。震災による打撃はそれぞれの心に沈めて、歌の細部に思いをこめる。 もともとシャンソンには人生の「いろいろなこと」、男女の色恋のごたごたや、何も持たない人間の夢とあこがれ、あるいは人生のたそがれを迎えた秋の情感、等々がいやというほど込められています。フランスの短編小説は「人間通」「心理通」の名篇が多い。シャンソンも同じです。さきごろバルバラが亡くなり、フランス・シャンソンの一つの時代が終わったと感じました。痛切な人間の心を歌う「作家性」をもつシャンソン歌手が、私の好みです。一人を挙げれば、ジャック・ブレル。 いま、若者たちにどんな歌が好まれているのか。それはともかく、日本の大人は、シャンソンが好きです。
同じ月に、こちらは「シャンソン芦屋会」主催のコンサート。'98年3月にはサロン・メンバーの大堀寿さんの主催によるシャンソンコンサートが開かれ、ゲストに湯井一葉さんが招かれました。プロ、アマを問わず、シャンソンに日本の大人は、異様なほどの盛り上がりをみせます。
おなじみ中村八千代さんのプロデュースによる「盲導犬とともに音楽を愛でる会」シリーズ。盲導犬はペットとしての動物ではなく、人間を支える杖に等しい存在です。いろいろな会場では、「犬だから」ということで、入場を断られたとのことです。一回目のときに驚いたのですが、盲導犬はじっと静かに身を伏せていて、一切の物音を立てませんでした。もちろん「おしっこ」などする行儀の悪い犬は、そもそも盲導犬になれません。犬独特の臭いもない。話によれば、レストランに入っても食事の匂いに興味すら示さない、といいます。目が不自由な人は、音楽会に出かける機会がきわめて少なかった。このシリーズを喜んでくださる多くの人たちのために、今回選ばれたプログラムのメインは、かつて芦屋に住んでいた貴志康一の作品です。寺本郁子さんは、美しく転がる声の持ち主ですが、「貴志康一をライフ・ワークにしたい」と宣言されたほど、貴志作品に打ち込んでおられます。ケネス・スミスさんのピアノも、日本の土俗的なリズムにまったく違和感がありませんでした。
若いピアニストのデビューコンサート。プログラミングにセンスのよさを感じます。大胆でもあり、音色の美しさ、響きの静けさに古雅な世界を示したマルチェッロから、現代のピアニズムの極致、最高の演奏技術を要求されるラフマニノフまで、ピアニストとして「何がやりたいか」が明確に伝わってきました。「何がやりたいか」を持たない、弾いても弾かなくてもいいようなピアニストが多くて困る時代に、これはとても爽やかにして鮮やかなリサイタルでした。多久さんは、ピアノを奏でつつ響きをたえず聴いている。卓抜な耳のよさが特筆に値します。指が機械に堕さず、終始「音楽」を伝えてやみません。今後のご研鑚を多いに期待します。
井上太恵子さんの主催による映画の会は、いろいろな試みをくりかえし、たくましく続いています。映画の選択については、いつも主催者の「見てほしい映画」と、お客さまの「見たい映画」のはざまで頭を悩ませておられます。俳優を見に来るファン。監督を見に来るファン。お話じたいを楽しみたいファン。まことに「いろいろ」です。私は、というと基本的には俳優主体で、出る映画のことごとくキャラクターがちがうダニエル・デイ・ルイスなど、実におもしろい俳優です。そして、作家性を前面に出す監督ならば、監督を見る。 最近、世間のスターは「レオ様」ことレオナルド・ディカプリオです。おりしも「タイタニック」日本初公開で来日したばかり。寒い2月でしたが「ボーイズ・ライフ」は大入りでした。これはしかし、助演の頑固親父役のロバート・デ・二一口がすばらしく、ディカプリオも素直に演じているだけで、周りの職人集団が「映画にしてくれる」。若い俳優では、私は夭折したリヴァー・フェニックスに期待していました。彼の眼差しには申し分のない影があり、不良の味がありました。彼に比べたら、ディカプリオの持っているキャラクターの、なんと明るく健康的なこと。私が監督だったら、ランボオとヴェルレーヌを描いた『太陽と月に背いて』は、リヴァー・フェニックスとキアヌ・リーヴスの共演でやりたかった。いや、なにもあなたの「レオ様」をけなしているんじゃありません。ランボオはディカプリオのキャラじゃなかったな、という私の好みを申しあげているだけで。
芝山幹郎さんが、おもしろい映画の本を出されました。 「映画は待ってくれる」芝山幹郎(中央公論社)。キネマ旬報誌連載の「オールモスト・クール』およそ120本のなかから60篇を選び、加筆改題のうえ再構成された大冊です。芝山さんは「週刊文春」映画評担当者でもあり、辛口の寸評が全国の映画ファンの(すくなくとも私ひとりの)、映画選びの指針になっています。もう一冊、「アメリカ野球主義』芝山幹郎(昌文社)。こちらはアメリカ大リーグの人物史、精神史を語りつくした「野球本」以上の「野球本」です。いずれの本にも通底しているのは「愛」です。芝山さんは理屈抜きに「映画が好き」で「野球が好き」。映画や野球に関わる「人間」がおもしろくてしようがないのです。
西宮市在住の作曲家/ピアニスト、久保洋子さんの企画による「20世紀音楽浴」シリーズ。共演のクロード・エルフェさんもジャック・カスタニエさんも、フランス楽壇の至宝のごとき存在です。そして、小粋なパリ・ジャン。 エルフェさんは1922年生れ。ピアノをカサドシュに、和声と対位法をレイボヴィッツに師事して1948年にデビュー。ブーレーズのソナタ第1番、第3番、「プリ・スロン・プリ」などの初演者であり、ベリオ、シュトックハウゼン、クセナキスらも彼のために曲を書いています。また、ルイ・マル監督の映画「鬼火」全編にながれていたサティは、彼によるピアノ演奏でした。たいへんな「練習魔」であり、当日のリハーサルも綿密をきわめたものでした。 カスタニエさんは以前にも「パリ管楽五重奏団」の一員として、ピエール・ピエルロさんらとともにサロンに来演したことがあります。打ち上げでは「焼き鳥」が彼のお好みでした。パリ・ジャンはおいしいものをよく知っているのです。1922年生れ、パリ国立高等音楽院を卒業後、20年間、ブーレーズが創設した「ドメーヌ・ミュージカル」でソリストを務めました。独特のヴィブラートとフレージングが彼の個性です。 マラルメの象徴とヴァレリーの明晰。メシアンの神秘とブーレーズの覚醒。フランスの二十世紀の芸術は、パリを再び「ヨーロッパのまんなか」に戻しました。ベルリンでもなく、ナチスに荒らされたウィーンでもなく、ロンドンでもない。11月のプログラムではデュティーユが楽しみでした。「五つのメタボール」というオーケストラ作品で、この作曲家の名をしかと覚えていました。 また3月では、アルトゥール・オネゲル。「死刑台上のジャンヌ・ダルク」や「クリスマス・カンタータ」などの感動的な声楽作品、そして五つの「交響曲」には、戦乱と終戦後の混乱のさなかにも人間の真実を求めて戦う、真摯な芸術家の精神が輝いています。力に満ちて荒れ狂う音楽も残した、フランスの音楽家では異色の個性。ロシアのショスタコーヴィチ、ハンガリーのバルトークに肩を並べる「音楽の力」があります。 フランス現代といえばメシアンとブーレーズしか知らない愛好家が多いのは残念です。久保さんのコンサートの意義は、このように、まだあまりよく知られていない作曲家を紹介すること。そして、彼女の師・近藤圭さんと作曲家・久保洋子の新作を初演することです。近藤圭さんは1929年生れ。11月の「オペラ『出雲のお国によるパラフレーズ』」は、震災の1995年にあらゆる困難をのりこえて完成されたオペラ「出雲のお国」から、その一部をピアノ・デュオのための曲として書き直されたもの。民俗芸能や仏教音楽の色濃い響き。また3月は「SAI-KA」。こちらは、始まりも終わりもない、瞬間の響きにかけた音楽。「ちからわざ」から抜け出された感があります。もう自由自在に音を遊ばれる、晴朗な境地に近づかれたようです。 久保洋子さんは1956年生れ。「ジュネーズ」は「創世記」。「ヴァーグ」は「波」。これまでは、日本の作曲家として「東洋」と「西洋」の音や響きの衝突と融合による音楽の可能性を追求されてきましたが、この「混沌の時代」に久保さんも「振り出しに戻る」。ありあまるほどの「技術」を持つ作曲家は研ぎ澄まされて、今後は次第に音符の数が少ない作品を世に問うことになりそうです。自らの力を信じて、独自の道を歩まれることを。
1941年12月8日は、日本軍がマレー半島に上陸を開始するとともに、真珠湾を攻撃し、米英に宣戦布告、太平洋戦争が始まった日です。その日から56年の歳月を経て、昨年12月8日、「ベトナム反戦運動」を通じて知り合われた小田実さんとデリンジャーさん夫妻をお迎えして、自主講座を開きました。多くの市民とジャーナリストが集ったこの日、話は必然として、震災被災者に公的援助を求める「市民=議員立法」運動を語ることが、そのまま「平和」を語ることにつながりました。デリンジャーさん夫妻もこの市民運動に共感して下さり、国会前で「公的援助法」実現ネットワークの面々の中に入って「座り込み」に加わりました。NHK教育テレビ(テレビマンユニオン制作)でもその様子は放映されました。
当日会場に取り寄せた二冊の本が、まだ少々残っていますから、ぜひお問い合わせ下さい。 「『アメリカ』が知らないアメリカ」D.デリンジャー、吉川勇一訳(藤原書店) 「『べ平連』・回顧録でない回顧録」小田実(第三書館) もう一冊、サロンには常備してあります。「人間の国」が私たちの活動の合言葉になりました。 「これは『人間の国』か」小田実(筑摩書房) またさらに、書店で求めてほしい文芸雑誌「新潮」'98年8月号には、小田実さんの文学論が掲載されています。「被災地」「ロンギノス」「戦後文学」 被災地からの「私的文学論」。 その中でも紹介されていますが、川端康成文学賞受賞作「アボジを踏む」が含まれた短編小説集、 「アボジを踏む」小田実(講談社)も、お読みになればいい。
「市民=議員立法」運動で、何十回も小田実さんと二人で新幹線に乗り込みました。意外なことと思われるかも知れませんが、車中での話題は「文学」のことにかぎられていました。東京へ着いたら、どうせ「政治」そのものの話をしまくるわけです。ロンギノスに係わって、古代ギリシアの音楽についても語り合いました。私も文学や芸術全般の話をするほうが楽しい。このさい知っておいてほしいことは、「そういう連中」がやったから「動いた」ということです。「思想の豪速球」は、全国や海外の市民の心の「どまんなか」にずしりと入って、それがやがて大きな世論の渦となり、政府・自民党を「孤立」させていきました。被災者に公的援助はいっさい行なわない、と言い張りながら、破綻した金融機関に巨額の「公的援助」をする彼らのほうが「おかしなことをいう人たち」になってしまったのでした。
新春のピアノコンサート。小池泉さんは'88年神戸女学院大学卒業後、ハンナ・ギューリック・スエヒロ賞などさまざまな各賞を受賞、すでに立派にキャリアを積まれてきているピアニストです。 バッハといいブラームスといい、よほど弾きこんでいないと自信を持ってステージに臨めない曲です。ポリフォニー音楽の実力者は、そのままショパンやドビュッシーの和声の音楽の実力者でもありました。
これはお洒落な日曜日の昼下がりでした。相愛大学名誉教授の徳末悦子さんは、川柳をよくする人でもあり、「芸術的個性」を全面的に開示された見事なまでの二時間でした。『雨上り昨日の雫振り切って』のあとにショパンの「雨だれ」、ドビュッシーの「雨の庭」。『振り向いて眼に語らせる別れ道』にはシューマンとシベリウスの「ロマンス」。『後ろ髪ひかれる空に星の冴え』を受けてはドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」と「髪(歌曲より編曲)」。そして『逢うて来た名残に暁の白い月』にドビュッシー「月の光」「月光のふりそそぐテラス」とベートーヴェン「月光の曲」。 思い切った「遊び」をステージ・パフォーマンスにまで高めてしまった、徳末悦子さんの勇気と独創に心からの拍手を送ります。
春に初々しいコンサート。ずらりと「名曲」が並べられました。東京芸高から東京芸大卒業後、英国王立音楽院大学院修了。留学中の3年間、アルゲリッチ、ポリーニらを育てたマリア・クルチョに師事されました。当日リハーサルにも師のひとりである横田新子先生が駆けつけられ、熱いアドヴァイス。舞台でピアノを弾くのは「たったひとり」なのですが、コンサートにはじつは、いろいろな人のいろいろな祈りが籠められているのです。
昨年に続いて坂口卓也氏の企画による「震災チャリティコンサート」。今回はノイズ・ミュージックのオウブに加えて、ロックバンド「渚にて」が出演しました。当日は若い人たちがサロンに集まりました。オウブの音響のモティーフは金属音でしたが、まさに「外装音やきしみといった金属から一般的に連想される騒がしさからは程遠く、それよりも金属製の物体が出来あがるまでに費やされたエネルギーを想わせるノイズ」であり「そんな『金属の記憶」とも言える演奏」(坂口卓也氏による紹介文)が披露されました。また「救いようもなく不可解な『人の気』をそれと知りつつ愛情深く語りかけてくる渚にての演奏は、深淵な『物の気[もののけ]』の音響世界を描くオウプと対照をなしています」(坂口卓也氏)。その通りでした。 中嶋さん、柴山さん、竹田さん、高橋さん、坂口さんのご厚意に感謝申し上げます。
サロンの企画・主催のコンサート。ドイツのダルムシュタットから来日したピアニスト、シュマルフースさんは「こんな連続演奏会はドイツでだって、できやしないんだ」と、なみなみならぬ決意を持って六夜に臨んで下さいました。ドイツの主催者も「『月光』『悲愴』を弾いてくれ」というし、聴衆も『月光』『悲愴』ならたくさん集まるとのこと。ドイツの音楽ファンにも、ベートーヴェンを「全体」として聴くことができなくなっているのなら、それは「クラシック音楽の楽しみ」の大きな部分を聴き逃していることになります。バッハの「平均律」が旧約聖書ならば、ベートーヴェンのソナタは新約聖書だ、といった大ピアニストがいました。この例えは、非常にわかりにくい。私の理解では、「平均律」はバッハの時代までの「音楽の技術」がすべて注ぎ込まれていて、しかも「音楽の未来」さえ暗示している。ベートーヴェンのソナタも同様であり、最終の32番のソナタの「正反」そのままの二つの楽章は「未来」において「合」に至る……かもしれない……という響きに終わります。
「対位法」をきわめたバッハとおなじく、ベートーヴェンは「ソナタ形式」をきわめました。なによりも明確なフォルムの中に「すべて」を込める。造型が「やすり」になるから、不要なものを削ぎ落とす。かくて生命が充溢し、骨組みとしての形式以上の、人間の「存在形式」を獲得する。ベートーヴェンの「ソナタ形式」は、そういうものでした。 (序奏)- 提示部(第一主題・第二主題)- 展開部(第一主題・第二主題)- 再現部(第一主題・第二主題)- 結尾部。これがソナタ形式の大ざっぱな骨組みです。二つの主題は、性格も思想も違います。たとえば逞しい力に満ちた第一主題と、繊細にして優美な第二主題。闘争と平安。悲嘆と慰め。昼と夜。男と女。太陽と月。二項対立を極限にまで高め発展させる力は、ベートーヴェンが「論理」を音で雄弁に語れる人であったことを示します。強固な論理の背後には「矛盾」があります。人間と人間の世界のいたるところに「矛盾」がある。自分ひとりの中にさえ、いまわしい「二項対立」があり、愛すべき「二項対立」がある。 丸山眞男『自己内対話』(みすず書房)は、抜群におもしろい本でした。溜飲が下がる思いがする行文が随所にあります。とりわけ新鮮だったのは音楽を語る彼のことば。「ベートーヴェンを演奏するのには、両極性の感覚、矛盾の感覚、引き裂かれたおのれの意識を自分自身の内部に持っていなければならぬ。なぜならベートーヴェンの人間と、その―ソナタ形式と不可分な一音楽がまさにそうだから」。みごとな評言です。おもわず丸山さんが「自己」を語っている。
モーツァルトは友人と冗談を飛ばしあいながら、せっせと楽譜を進めていく作曲家でしたが、ベートーヴェンはタイプが違いました。「運命」一曲に五年ばかりの歳月をかけました。モーツァルトが無意識につかんでいた「音楽の技法」を、音楽史上はじめての「近代人」ベートーヴェン(貴族や教会をパトロンに持たず、市民として独り立ちした最初の作曲家です)は、「意識」において捉えはじめていたのです。もちろん天才はひとりで天才になるわけではありません。バッハがいたしヘンデルがいた。ソナタ形式を堂々たる音楽の骨格に仕上げ、四楽章制の「交響曲」を確立した偉大なハイドンがいて、神童アマデウス・モーツァルトがいた。音楽の歴史をつくってきた巨人たちの様式のすべてが、ベートーヴェンの「ピアノソナタ」の中にはあります。「フーガ」も「古典」も、そして来たるべき「ロマン」も、その先にある芸術の時代さえも。
生涯のすべての時期を通じて、ベートーヴェンは9曲の「交響曲」、16曲の「弦楽四重奏曲」、32曲の「ピアノソナタ」を書きました。モーツァルトは生涯ひとつの「音楽」を書き続けた人ですが、ベートーヴェンの音楽には「歴史」が刻まれていました。初期、中期、後期の作風の変遷は、そのままベートーヴェンの精神の深化の記録でした。耳が聞こえなくなるという、音楽家にとっては絶望的な危機を、自分には音楽があるという「自らの才能」を信じぬくことで克服しました。外界からの音がとだえてからは、ときに当時の楽器の能力をこえた音を記しているし、当時の「和声学」では禁止されていた音を記しました。「美のためにこえられない法則はない」。それが彼の音楽の根拠です。時代の限界をやぶり、「悪法」に従わず自らの「理」を求めてやまない。だから、ベートーヴェンの音楽には「人をより崇高な精神の場所へ導く倫理的な呼びかけ」があります。
丸山眞男は、ベートーヴェンのピアノソナタの演奏者として、ヴィルヘルム・ケンプを「理窟なしに一番すきな演奏家」と書いています。ペーター・シュマルフースは青年時代にポジターノでケンプの「ベートーヴェン講座」を受講しました。「それは偉大な体験だった」と述懐していました。初日の第1番から最終日の第32番まで、つらぬかれていたのは美しい音色、雄大な造型感をベースにした、自在な表現でした。いまや62歳に達したピアニストには、他の誰でもない「芸術的個性」があり、この低音部を強調したい、この音をもっとも感じたピアニシモで出したい、といった表現のことごとくが、「おのれを語ることがすなわちベートーヴェンを語ること」につながる結果になっていきました。少しばかりのミスタッチはありました。しかし「全体」を毫も傷つけていない。「シュマルフースのベートーヴェン」の大きさが、演奏の「すべて」を人間的な感動に結びつけてしまうのです。 <SPレコードについて> 震災後、亡き母の小学校時代からの友人だった前田和子さんから、大量のSPレコードをサロンに寄贈していただきました。山村サロンには、すでに宮原繁さん所蔵の能・狂言に関する本を「宮原文庫」として併設、世代から世代へ確実に伝えていかなければならない先人の「文化遺産」を守ることも、大切なひとつの使命であると考えてきました。前田さんは、震災に遭い、それでも残った母上のSPを、願いをこめて、少しずつサロンに持ってこられました。 前田さんの母上、佐野貞さんは明治33年(1900年)に大阪・船場の綿糸商家の三女として生まれた方で、レコードのレーベルに、ペンで入手された年月日を書き込んでいらっしゃいます。1920年が最も古い。大正10年という時代のアメリカ・ビクターの「片面の赤盤」に、ラフマニノフの自作自演や、パデレフスキー、パッハマン、クライスラー、ヤン・クーベリック、エルマン、ガリ=クルチ、メルバ、シャリアピンなど、往年の名手、名歌手たちの演奏が刻まれています。これらを、その時代に銀座・十字屋から取り寄せておられた、ということです。(関東大震災まえのこと。後年の野村あらえびすの『名曲決定盤』には「バラックの十字屋」という記述がみつかります)。「レコードを聴かされてからでないと食事にならなかった」というエピソードを教えて下さった前田和子さんに、ようやく電気を通して再生したダビングテープをお渡しできたときには、私もほっとしました。 後日談があります。ある年季の入ったSPファンから、昭和10年(1935年)製の国産ビクトローラ蓄音器を譲ってもらいました。78年も前(録音年代のいちばん古いものはパッハマンの1907年と推定されますから、その「音」はなんと91年も前のもの!)のSPレコードが、眼前で往時の音を蘇らせたのです。戦災にも焼け残り、震災にも耐えて残ったSPの音に、前田さんは目を閉じて聴き入っておられました。 それにしても蓄音器は、ぜんまいを手回しで捲く。片面ごとに鉄針を替える。現代はスイッチを押すだけのCDですから、SP時代は現代人とは比較にならぬほどの集中力と愛情をもって音盤に接していたにちがいありません。また、電気吹き込み以前のアコースティック時代は演奏者も「やりなおし」がききませんから、一回きりの演奏にかける気迫がちがいます。 人類の文化遺産は公開されてこそ意味があります。定期的に「SPを楽しむ会」を催すことを考えています。9月ころから始めるつもりです。SPは、その後、私自身も神戸市内の中古レコード店で少しずつ集めています。雑音が多いとはじめに感じるだけで、盤質がよければ、音質は暖かく鮮明であり、CDの冷たい音質をしのぎます。嘘だと思う人も、SPのよさをすでにご存じの方も、まあ聴いてみてください。
<曽和博朗さん、おめでとうございます> 松山庵で小鼓の稽古をされている曽和博朗さんが、このほど重要無形文化財保持者(人間国宝)になられました。亡き母の師匠でもありました。母が湊川神社の能舞台に立つときには、いつも後ろで曽和先生が小鼓を打って下さいました。
<てっちゃん頑張れ!> てっちゃんとは、カネテツデリカフーズの昔からのキャラクターの名前で、関西の人間には「てっちゃんてっちゃん、かねてっちゃん。ちくわとかまぼこちょうだいな」のコマーシャル・ソングは、よく知られています。その会社の社長、村上健君は、私の小学校三年生のときからの友人です。 カネテツ「和議申請」の報道には驚きました。被災地神戸の会社であり、とうぜん多くの被災者が働いています。他人ごととは決して思えませんでした。私自身も規模は小さいものの似たような立場。大口の取引先の資金ショートのあおりをくった、ということでしたが、村上社長は全社員の先頭に立ち、前を向いてがんばっています。 今夜のおかずの買い物に出かけられたとき、「てっちゃん」が目についたらひとこと「がんばってね」と声をかけて下さい。お求めになるものが「テッチャン鍋」の「テッチャン」だとしても、てっちゃんは「あはは、人ちがいだ」とウィンクしてくれます。 |
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1998年 8月 15日 発行 著 者 山村 雅治 発行者 山村 雅治 発行所 山村サロン
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