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「聖斗」の街から
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暑中お見舞い申し上げます。 震災後二年半、被災地はずしりと重い刃を十四歳の少年に突きつけられました。小学六年生の土師淳君を殺害した「酒鬼薔薇聖斗」容疑者は、遊び相手でもあった中学三年生でした。 深くは日本全体に関わる問題ですが、私には、やはり震災を体験した少年の「小学校卒業文集」の作文が気にかかります。「知人の心配」と題されたもの。須磨区で地震に遭った少年は、被害の深刻さにおののき、自分の家のことよりも親戚や知人の家のことが気になる、と書きました。そしてスイスから救助隊が駆けつけたとき、政府がその活動に「待った」をかけたことについて、彼はこう書きました。「家族が全員死んで村山さんが避難所におみまいにきたら、たとえ死刑になることが分かっていても、何をしたか、分からないと思います』。興味本位の報道は、単にこの部分だけを抜きだし、少年がいかに凶暴な性格を秘めていたこどもだったか、という例証として示されます。真意を探るには「村山さんが、スイスの人たちが来てもすぐに活動しなかったので、はらが立ちます』の部分から引用されなければ、なにも分かりません。 あのときは、私も怒りを覚えました。私のみならず、すべての被災者が憤りました。一刻を争う人命救助活動よりも、なによりも硬直した官庁の習慣を優先させるおかげで、助かるはずの多くのいのちが失われたのでした。この事実は多くの国を驚かせ、あきれさせました。「ワシントン・ポスト」 「ウォール・ストリート・ジャーナル」「リベラシオン」各紙に辛辣な記事が書かれ、日本は世界に恥をさらけだしました。
小学校卒業時の「聖斗」の作文は正直なものです。 震災時の政府の対応は、彼の心を深く傷つけた。死にかけていて、助け出せば蘇るかもしれない、瓦礫に埋もれた人のいのちを無惨に見殺しにするのが「大人の世界」なのだ。この国は怖いところ。この社会は信じられない。彼は震えた。わかったよ、なんでもありか。 そして、自らの「善意」さえ揮発し、足下から「人間」がこわれはじめた…… 彼は存在を汚されることに屈辱を感じた。反転して「汚い野菜共には死の制裁を」と叫んだ。認められない「透明な存在」は、自分よりも弱いものの「血の色」をしたたらせ、その色の文字で「実在の人間として認めて頂きたい」と書いた。弱いものはいじめられて死んでいき、強い力を持つものだけが弱いものをいじめぬきつつ生き残っていく。震災で明らかになった「大人の世界」だけでなく、彼が憎んだ「義務教育」の場、学校がまさにそうであり、「力」が至上の「生きぬく道具」であれば、彼はそれをぎらつかせるために「殺人」を犯してしまった。しかし、そうすることで、少年は彼が憎んだ「社会」や「学校」と同じレベルの弱肉強食、「人を認めず人を殺す」かなしい存在となりはてていったのだ。
もちろん、契機は震災体験だけではないでしょう。 しかし、地震直後の日々に余震の恐怖におびえながら被災の街を歩き回る、といった体験を共有する私たち(少年も私も、です)は、生も死も、美しさも醜さも、何もかもを含めて「人間のすべて」に全面的にぶつかられ、打ちのめされました。大人もこどもも、内面で「なにか」が変わりました。感じる力の鋭いこどもならば「精神の外傷」として残る。別の学校の五年生のこどもの作文で、全壊した家の隣地から火が出て、生き埋めになっていた人たちを「なんとかしてひっぱり出した。人が出てきたら、むしやき状態で顔がふにやふにやで、せんべい形とか、魚の顔の形をしていた。時には、ふとんに顔がひっついてとれない時もあった。顔が、だれがだれかわからなかった」と綴られる文に胸を衝かれたことがあります。いやおうなく巻き込まれた苛酷な現実を、逃げずに正面から乗り越える「心の強さとやさしさ」をこそ、被災地の学校と大人たちは、こどもたちに絶えず教えるべきでした。教育の敗北。いじめられるこどもでなく、反対の「聖斗」があれだけ叫んでも、まだ動こうとしていません。
私には小学生のこどもがいるから、「通り魔」から始まる一連の事件に無関心ではいられません。それに淳君や「聖斗」のお父さんとも、ほぼ同世代にちがいなく、よけいに他人事とは思えません。 淳君の冥福を祈ります。「聖斗」の改心を祈ります。二人とも、被災地の私たちの息子であり兄弟だから、私はただ、身を切り刻まれるように痛いだけです。
2
それにしても、人は痛めつけられれば、その痛みを別の人にぶつけなければ気がすまないものらしい。いまの中学生たちの心の風景は、われわれの想像以上に荒れています。 「いじめ」はあたりまえのこと。「いじめはなくならねーんだ。子供ぜんぶころしたってなくなんねーんだよ」とある雑誌に投稿した中学三年女子は、いじめられて人間不信になったことがあるけれども、親や学校にはいったって何もなんね-」と怒る。その他の投書には「早く死ねとか私はいわれすぎて、死を恐ろしいこととは思わなくなりました。動物の世界のように一人が食べられていれば他の動物は安心。これが子どもの世界」、「イジメは強い者が生き残る弱肉強食なのだ。そして位が上がったら、ぜったいイジメはしたくなる。強い者がイジメをしなくっちゃ、友達はついてこない」 「社会のどこにだって『いじめ』はあるんだよ」「大人も、先生も、子供達もみんな、自分自身が一番大事なんだから」「みんなやってるじゃん。あたし一人じゃない。だんだん当たり前になってくる。私は今も流されています」という具合。大人もそうじゃないの、と当然、見抜かれています。 (参考/「朝日」 1997.6.30付)
この国ではみんなが孤独に荒野を歩いている。 犠牲者の悲鳴と、流される血に飢えて、いつも獲物を探している。 安心して馬鹿にして、見下していられる奴が、この国のみんなには必要だ。
だからですか。あのとき私たちの困り果てる姿や壊れた家屋の写真を撮りに来て、笑って帰った震災野次馬諸君が、今度は「聖斗」の家に押し寄せ、ピースサインのカップルが写真に収まる。それに飽きたらず「聖斗」の戸籍名と写真がインターネットで流され、写真を刷って、それでも出回った少部数の「フォーカス」は奪い合いだったし、そのページのコピーを売る書店が続出しました。 私は言論と表現の自由を、なによりも大切なものだと考える一人です。誰がなにをいい、どう表現してもいい。この自由の権利は無制限に守られてしかるべきです。しかし、報道における言論と表現の自由は、権力の悪をあばき、より強い立場の公人の不正をあばくためにこそ「力」を行使すべきであり、一般市民の人生と生活を脅威にさらすために使われるべきものとは思いません。それは私刑に等しい行為です。被害者と家族に関する過度な情報もどうかと思ったし、中学生から金で「聖斗」と家族の個人情報を買うものもいる、ということ、暗然たる気分に陥ります。
刑法には「悪い奴を罰する」社会制裁が本質にあると思う人が多い。罪に対する懲罰。しかし、そうであってはならない。私は死刑反対論者ですが、なぜかといえば、人は人を裁くことはできないからです。あなたがたのうち罪なきものがこの人を打て、と打とうとする群集を止めたイエスのことばを、力強いものとして受けとめます。男は狼になりうるし、女は牝狐に変身する。こどもは小悪魔になることがある。人間はかなしいし淋しいし、無力だし愚かです。無謬の魂、完全に無垢なる魂は、地上にひとりだっていやしない。それに、堕ちるところまで堕ちたこんな国の「社会」には、どんな犯罪者をも「社会制裁」する資格がありません。上から下まで金と力に人生が支配されていて物欲しげで下品な同じ顔をしてじゃないか。
刑法は、犯罪を犯した人の「人権」を守る法律。大人になってから適用される刑法にさえ、懲役期間を終えた市民の「社会復帰」を期待する精神がこめられているはずです。少年法には、さらに強く期待がこめられています。改正したい人は、ご意見をお聞かせ下さい。いまのところは、だって興味を満たしたいじやないか、そいつをみんなで踏みつけたいじやないか、という怠惰で脆弱な感情の本音しか聞こえてきていません。刑罰を重くすれば犯罪の抑止につながると考える頭は、あいつぐ官僚や政治家や企業人の犯罪がどうして止まらないか考えてみるのがいい。言論でたべているなら、論理的にものをいって下さい。
眼の中を夜がさまよう。体の中をはげしく雨が降りしきります。 なぜ、人は人を殺すのか。なぜ、立ち向かうべき相手が分からないのか。なぜ、人は弱いものに殴りかかるのか。私たちの歴史は、いまだイワン・カラマーゾフの大きな問いかけに答えることができていません。サロンは、微力であれ風を吹かせていくつもりです。人が人を殺さず、人を人として認める、あかるい風を…… (山村雅治 July.7 1997)
昨年5月以来、小田実さん、早川和夫さん、伊賀興一さんらと創案した「法案」によって、被災者の破壊された生活基盤を回復するための「公的援助」を求める「市民=議員立法」運動を展開してきました。くわしい経緯は新聞やテレビ、ラジオの報道を通じて、みなさまはご存じだろうと思います。署名やカンパなどを通じてのご協力を感謝いたします。 昨年末から今年の初頭にかけて、3度「兵庫集会」を開きました。このころは、まだ横に長い被災地のなかでさまざまな特色をもった「被災者団体」が林立していた時期です。すでに私たちは東京へもたびたび出かけて「市民=議員」の話し合いを重ねていたので、すでに被災地内でも「これ(市民=議員立法)をみんなで押し進めるしかないんやないか」という気運が高まっていました。このあと3月8日に三宮で「兵庫集会」、15日に松方ホールで井上ひさしさんと小田実さんの「二人の文学者が震災を語る」。そして20日に神戸市民の中島絢子さんが中心になって「市民=議員立法実現推進本部」神戸連絡所が開設され、その後まもなく「『公的援助法』実現ネットワークj」が発足したのです。
手法の違いはあれ、いまや兵庫県内の「官」も「民」も等しく「災害被災者への公的援助」を求めていることは、どんなに頑迷な「東京の人」(永田町・霞ケ関付近の)さえ知るに至っています。国会閉幕直前に、一度は大きく「廃案」へ傾いていた私たちの「災害被災者等支援法案」が、一夜にして急転、「継続審議」へ、となったことは超党派議員の夜を徹しての尽力と、「なによりも世論の力が大きかった」とは、当の国会議員諸氏のことばです。 日本国憲法には「主権在民」がうたわれています。また「生命、自由、幸福追求に対する」権利を認め「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と記されている。この国は「民主主義」の国とされてきましたが、最近は市民の権利を踏みにじる「憲法違反」まがいの政策ばかりが目につきます。最悪の例として、沖縄の人たちの「私有財産」が奪われました。「民主主義」を掲げるならば、ほかの何よりも「民意」を「政策」に反映させるべきじゃないのか。私たちは「主権者」であるはずなのだから、あきらめないで声を上げる。餓死者さえ含まれる仮設住宅での孤独死者は、日々増えて百六十名にものぼり、民間住宅に住む人たちの辛苦については、もはや語られることすら少なくなりました。お金を借りまくり、やっとの思いで事業を再開した個人事業主も、これまでは金利の返済で済みましたが、いよいよ元金の返済が始まります。また定年が迫るサラリーマンの「二重ローン」など、ぞっとするばかりです。それでいて、税金の督促状だけは軽々と舞い込んでくるのですから、いやになります。なんのための税金なのでしょうか。
次の国会が始まるのは9月です。それまでの夏の二ヵ月、私たちは変わらず動き続けます。震災被災者と、今後に起こりうる災害被災者に「公的援助」の手をさしのべる「制度」を、日本全国の市民と、私たちのこどもたちのために作っておきたい。この運動は、この国に「民主主義」を復活させ、「日本国憲法」のたくましい精神を蘇生させることにつながっていきます。
風呂本佳苗さんは西宮市出身の若いピアニスト。幼少より加藤豊子、伊藤ルミ、龍野順義の各氏に師事。ロンドン王立音楽院に進み、首席卒業。同大学院在学中に賞を次々と獲得し、放送とステージで演奏活動を展開。ロンドン大学大学院では音楽修士号を取得、現在は同院音楽美学専攻博士課程に在籍中という才媛です。ご両親とも大学で教鞭をとられる英文学の教授であり、父上の風呂本武敏氏はアイルランド文学の専門家で、さきごろ「朝日」夕刊「出会う』欄で「虐げられた人々に目配りのきいた文学は民主的な社会の成熟に寄与することになると信じます」ということばで結ばれた紹介記事が出ていました。よき家庭、よき師、よき素質に恵まれた風呂本佳苗さんのピアノの音色は澄んでいて、音楽がいじけずにまっすぐに伸びていく気持ちのよさがありました。彼女にとっては日本の音楽大学に進まなかったことは大正解だったと思います。今後のますますの研鍛を期待します。大きな空いっぱいに、自分の音色で、自分の歌をかなでつづけて下さい。
震災被災後、埋もれたマンションから助け出され、一時期東京で暮らされていたものの単身で芦屋に戻られた深田尚子先生は、このころ市内の仮設住宅からの「出稽古」でピアノ教師を続けられていました。会うたびお話をうかがい、お話を聞くたびに笑わせられ、そして打たれました。深田先生はあかるいのです。戦争を経てきた女の人の、ピアノー筋に生きてこられた大柄な音楽家の、なんという力強さ。衣装を着けて舞台に上がられれば、はなやかな雰囲気がたちこめます。出番は連弾の「くるみ割り人形」と、独奏のサン・サーンス。あきらめない意志の力にみなぎった音楽でした。
震災の年のサロン復旧工事終了後の9月、山城建司さんと山内和子さんは「器と藍の出会い展」を開いて下さいました。それから一年を経た11月に、漆の角好司さんを加えて、三人の工芸家による「出会い展」が開かれました。今年も10月14-15日に予定していますので、どうぞお気軽にお越し下さい。
㈶兵庫現代芸術劇場は、粋な企画を続けています。「パフォーミングアーツ研究会」の趣旨は「アジア太平洋地域を中心に世界各国にあるパフォーミングアーツ(舞台上に限らず、屋外でも演じられる舞台芸術全般)を実演や講演によってわかりやすく紹介し、理解と交流を深めようと開いているものです」。第10回「チェコの視座から」もサロンで開かれましたが、そのときにもスタッフの勉強ぶりに感心しました。この企画は、ぜひ末永く続けてほしいものです。
震災後はじめて復活した「こんせーる双樹」です。芦屋市在住の龍城正明さんと常磐津小清さんのご夫妻もまた、拙宅の隣町の激甚地域にお住まいになっていました。「音のない世界」がしばらく続きました、と小清さんは書いています。再開をうながしたのは、ファンの方の声援であり、「音のつながりは心のつながりであると確信したのです」と続けられています。 今回の企画も龍城正明さんによるもので、「邦楽の音色に薫る被災地の足跡」がテーマでした。演目の四曲、最初の三曲の舞台が須磨・明石、神戸湊川神社、西宮えびす神社と移ります。最後の曲は、谷底に突き落とされた獅子の子のごとく、試練に雄々しく立ち向かっていく、という願いがこめられたもの。東京から来演された今藤長之さんも変わらず陶然たる美声。たくさんの人たちの助演を得て、芦屋の師走があたたかくなりました。
震災後、半年の復旧工事期間を経て、工事費用のために多額の借金をしてサロンを復活させたのはいいけれど、しばらくは静かな日々を無為に送るのみでした。まだまだ被災地には、人も元気もお金も戻っていなかったのです。カワイ楽器の長谷川さんから電話があったのは、そのような、暇な日のこと。なんでも本社にすばらしいチェンバロがあり、人目に触れぬままになっている。どこか、置いてもらえる場所があれば、と思い、ついてはサロンにお願いできぬものか、と。私はバブル時ならぬ被災後のサロンの状況を正直にご説明申し上げ、「場所はあります。ただし、置くことについての一切の条件は、お互いに<なし>ということにしましょう」と提案しました。そんな経緯で、サロンの隅っこに「J.カルスベーク氏製作(オランダ)フレンチタイプ 2段鍵盤 50鍵 ルイ・デーニス1658モデル」という美術工芸品でもある復古楽器が置かれることになったのです。なによりも天板の裏にワトー調の絵が描かれてあり、現代の標準よりも低めのa'=415ヘルツのピッチでバロック音楽が鳴りはじめると、もうこたえられません。調律の小西さんの何日かにわたる「縁の下」の力にも支えられ、チェンバロのお披露目コンサートは成功裡に終わりました。これも「全部ただ」の無料コンサートでした。
やはりバッハに戻る。ことに12月、暮れが近づくと私はバッハの響きが無性になつかしくなります。「マタイ受難曲」「ヨハネ受難曲」「ロ短調ミサ」が好きで、なにか新しいことをやってくれていそうな新譜CDが出たら、買って聴きます。ひとつには高校時代に「メングルベルクのマタイ」に接して感動し、毎夜のように聴いていたのが寒い12月だったからかも知れません。あのころ私は打ちのめされていました。仔細は省きますが「人生に失恋」していました。許すことができない罪があり、私にもまた震えおののくばかりの汚さがある。重苦しいものを抱えて、とぽとぽと歩くばかりでした。 「マタイ」は、ひきずる足取りで始まる。ぶあつい八部合唱に少年合唱の澄んだ声が加わり、堂々たる開始曲には、すでに矢のように「見よ、われらの罪を」という一閃が何度も撃ちこまれていました。SPから復刻された「音」は雑音がまじって古く、しかし大指揮者による「音楽」は、それを聴く私のために演奏されているかのごとくでした。人間には汚さも美しさも怒りも悔恨も「本源」のものとしてある。だからその人を許せ、と眼前の大きな音像から語りかけられた気がしました。
だからバッハ。仔細はちがうにしても、野田燎さんも「やっぱりバッハ」の音楽家。バッハは音楽の職人だったから、システムが水も漏らさぬ緻密さで構築されています。そしてどの曲を聴いても、まちがいなくバッハなのだから、芸術家としての偉大さは群を抜いています。いわゆる駄作がなく、遊びも曲芸もきまじめにこなしつつ、すべての作品が均質なこと、あれだけ量産したということも併せておどろくべきことです。けれども研究者でなく愛好家としては好きなものを聴くし、演奏家も好きなものをやる。この日、サロンのクリスマスコンサートのプログラムに選ばれたのは、無伴奏チェロ組曲第1番と第3番、パストラーレ、フルートソナタ1番。技術的困難がまったく感じられないのは驚異です。ことにサックスという呼吸の楽器でバッハの対位法を対位法として奏楽する、ということ、そして楽器特有の音色をこえて、ただ美しい音楽だけを感じさせること。人は身近にすぐれた音楽家がいることに気がつくべきです。野田さんは、機能障害児のための音楽療法の仕事の数少ない専門家でもあります。衰えた機能が回復する事例があります。野田さんのサックスに合わせて運動をつづければ、魂が起きだして、ついに手足も動きだすのです。
ピアソラばかり聴いていたら、ピアソラにやみつきになります。新年の音楽会はピアソラのタンゴで幕を開けました。ピアソラは本当の個性を持った音楽家だったから、彼のタンゴは彼の街をこえて世界に向かって呼びかけるものになりました。ピアソラの代表作ひとつ「タンゴの歴史」4曲にギターソロ「アディオス・ノニーノ」、フルートソロ「タンゴ・エチュード」が挿入されたプログラミング。メインのピアソラに花束のように添えられたのは、ヴィラ=ロボス、パガニーニ、テデスコのそれぞれに美しい小品。いろいろな意味で、内心泣けてきました。 弘井俊雄さんは、現在ではめずらしくなった、人間の心を音楽を通して伝えるギタリストです。じつはそれがなくて何が音楽か、といいたいところですが、震災体験を経て二年、この日の弘井さんは技術的にも「魂を持つ」音楽家としても磨ぎ澄まされ、いわゆるギタリストを超えた「人間」としての「音楽」を弾かれました。批評の対象の外にあります。弘井さんが共演の相手に選ばれた矢野さんは、フィンランドのオーケストラで活躍していた若いフルーティスト。お二入のご厚意での無料コンサートでした。
小野高裕さんを代表としての「芦屋文化復興会議」のシンポジウムの5回目は、芦屋市山手町にある「松風山荘」がテーマでした。若い研究家の発言に、老練な市民が質問を寄せ、スライド映像とともに、おもしろいシンポジウムになりました。この次の四月の会は、いわばフィールドワーク。見て歩かなくっちゃ、ということでサロンでのシンポジウムはお休みでした。
田尻洋一さんのシューマン連続演奏会は、今後は9月20日、10月25日、11月22日のあと3回。新聞の紹介記事をご覧下さい。35歳のピアニストの、ぜんぶ弾くんだ、という意欲と実行力に拍手を送ります。
人間には土が必要です。適度の水を含んだ土をこねあげ、窯のなかで火を通す。火と水と土。地球そのもの。人間そのもののような手作りの器。しばらくは俗事を忘れて土をこね上げていくと、こねている人の「個性」が立ち上がってきます。
映画の会は今年も。井上太恵子さんはこの会に打ち込んでおられます。この三本すべてについては限られた紙幅では到底無理なので、「フールズ・オブ・フォーチュン」についてだけ書きます。アイルランドの1920年代から1930年代にかけての、激動にまきこまれたひとつの家族を描いた作品。イギリスからの分離独立をかけた戦乱の時代、田舎町で平和に暮らしていた少年ウィリーの家は、イギリス軍とIRAの疑心暗鬼の確執から真夜中に火を放たれました。父親は射殺され、兄弟は焼死してしまいました。青年となったウィリーは、事件後アルコール中毒になった母親と暮らす日々。幼なじみのマリアンと再会し恋におち、しあわせをつかみかけた矢先、母親が自殺しました。「あいつが俺の家族をみなごろしにした」と復讐の炎を燃やし、火を放ったイギリス軍のラドキン軍曹が住むリヴァプールヘ向かったのでした……… 私はこの映画のあとで「ぼくもウィリーの気持ちがわかります」と申し上げました。人間の生活は変わりやすく、いつなんどき災害に襲われて人生の土台がくつがえされるか分からない。それも、このような明確な「人災」であるとき(被災後2年半もの時間がたって、なお続く震災被災地の惨状はもはや「政策なし」の政治責任が生じています。人災です)、その責任を問いつめるのは当然です。人は、人とその家族は、「国家」によって滅ぼされることがある。重いテーマの110分間、私は引き込まれていました。これは、私の映画、私たちの映画だったからです。
この半年間、私は「市民=議員立法」運動のことで、よく東京へ行っていました。イベントのある日にもサロンを空けたこともしばしば。それに加えて、私にはこんなこともありました。「芦屋川ロータリークラブ」週報の「不立文字」欄に寄稿した文を引きます。
still small
voice ……後期にかえて
ある中学3年の女の子が「酒鬼薔薇聖斗」事件について「これはプロローグにすぎないよ」と母親に感想をいいました4大人の世界でも「人権派言論人」への猛烈なバッシングが始まっています。私は自らをかえりみるに、どう考えても「人権派」だから、世の中は私の理想である「サロン社会」からは遠ざかりつつあります。いまさら歯の浮くようなことを書くのも気が引けますが、サロン社会とはあらゆる人が自由、対等、平等に立ち、それぞれが自分の足で立ち、自分の頭で考え、自分のことばでしゃべる場であり、自分は自分、他人は他人なのであるからこそ「交流」が「対話」をかさねてできるのであり、いっさいの人間の序列も派閥も認められないから争いの起きる理由がありません。これを私は「基本的人権」が保障される場の最低要件であると考えています。「反人権派」諸氏は、おそらく「サロン」の社会的、歴史的、思想的な意味をご存じないのでしょう。彼らの社会観はおそるべき野獣の社会観です。彼らの「正義」の根拠は何か。「人は人を裁くべし」の思想は、「国は国を裁くべし」の「正義の戦争」推進のわずか一歩手前にあります。飛躍はありません。旧大日本帝国陸軍は「南京大虐殺」において、日本の軍人が中国の青年の生首を吊り下げて得意気にポーズをとる写真を残しました。軍刀で斬り落としたいくつもの生首をならべるのも日本の軍人の楽しみだったらしい。これが「反人権派」諸氏の行き着く先ならば、なんと皮肉なことに「酒鬼薔薇聖斗」の楽しみとまるで同じじやありませんか。行為じたいは、私たちの祖父、父、兄弟が大陸でしてきたことだ。彼らのなかには自慢げに胸を張って帰国してきた人もいる。「酒鬼薔薇聖斗」を「人類の敵」と決めつける言辞の壮大さはお笑いです。どうかご自分の顔を鏡でご覧下さい。
魯迅が医者志望から文学志望に転向したのも、日本留学中に、日本の軍人に斬首されようとしている中国人と、見物のために集まった大勢の中国人の写真を見たからだ、と伝えられます。中国人のからだを直すより精神を改めるほうが急務であると考えたからです。 現在の状況も、どこか似ていると思いませんか。 斬首の刑を受けるのが「いじめられっ子」、軍刀を振りかざす日本軍人が「いじめっ子」、群集が「野次馬」。ただし、そのなかの誰一人として次の「いじめられっ子」になりたいものはいないから、きのうまで友だちだったのに、するりと身をかわして「いじめっ子」側に身を置いていようとするいつの間に日本はこのような恐怖にみちた国になったのでしょう。世間に動かしがたい空気としての「脅迫」があり、がんじがらめの制度からの「逃避」があり、幻想と現実がせめぎあわずに混じってしまう。精神が病んでいる。「これはプロローグ」と叫んだ女の子の直感が当たらないことを祈ります。「酒鬼薔薇聖斗」は「日本」で、私たちの社会で育った少年です。 (山村雅治 July.14 1997)
追記/「毎日」1997.7.12付 「憂楽帳」欄への寄せ書き
このコラムには「少年の残虐性」が精確に、簡潔に描かれています。ここに私が書き加えたいのは「この残虐性は大人にもあるぞ」ということです。ナチスがユダヤ人収容所で、旧日本軍が中国で、どのような「人間の生体実験」をしていたかというと、まさにこの欄における少年の「カエルの生体実験」そのものでした。いかなる「ホラー映画」をも上回る残虐性を人間は秘めています。
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1997年 8月 15日 発行 著 者 山村 雅治 発行者 山村 雅治 発行所 山村サロン
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