|
|||||||||||||||
|
|||||||||||||||
|
|||||||||||||||
|
|||||||||||||||
人間の国から
1
震災被災地に泣いて暮らしている人がひとりでもいるかぎり、賀詞言上は控えます。私には棄てられた人の喘ぐ声が、たえず耳に入ってくるからで、先日も「岩岡第二仮設住宅」や「下中島公園避難所」などで、被災後二年もの歳月を経て、なお「被災の現場」で暮らさざるを得ない人の暮らしに触れてきたところです。神戸市内では「仮設」から出ることができた世帯はわずか二割。「復興」は駅前や港湾ばかりで、一歩入ればペンペン草。みんなが火に逃げまどった鷹取駅南も被災直後と何も変わっていません。菅原市場に客の影は少なく、さらに魚崎市場は店さえまばらです。芦屋も同じです。八万六千の人口から四百二十をこえる人が震災で亡くなり、九割二分の世帯が一部損壊以上。全半壊家屋は六割に達したあげく、震災前にくらべると五千四百四十一世帯、一万二千百三十四人もの市民が、芦屋から離れています。
壊滅的な打撃を受けて、それでも「自助自立」できた人は幸せです。幸せすぎて、どうか、まだ立ち直れないでいる人がたくさんいることを忘れないで。地震直後、水汲みや食料配給に長い行列を並びながら、私たちは「大きな家族」であることを知りました。知っている人を助けることはもちろん、それまで知らなかった人とさえ支えあいました。自分のことだけを考え、物資を独り占めしようとする人はいなかった。「弱い」ということばを使うならば、私たちはみんなが「弱い」存在でしかありませんでした。
薬害エイズ訴訟の大阪HIV原告団のひとりのことばとして「厚生官僚に、おまえらは『人間の屑』だ、といわれた」ことが伝わっています。被災者に公的支援を、と訴える私たち被災者の仲間もまた、すでに役所筋から同じようなことばを投げつけられています。しかし考えてほしいもの。いったい、どこの誰が、どんな顔をして、どんな自覚をもって、隣人を「屑」扱いできるのか。あなたは、民間から賄賂をもらうことで仕事の便宜をはかり、大理石とマホガニーのジェット噴射つきの風呂場と、背丈にあった高級システムキッチンをねだった妻を持った、あの官僚と、なにか違うところがありますか。そういえば、あの水俣病問題の「和解」にさいしても、積極的な政治家がいて、和解金を出し渋っていた官僚がいて、そのはざまで良心の呵責に耐えかねて自殺した官僚がいました。彼は「弱い」といわれました。しかし、その「弱さ」は、人間が人間であり続ける「強さ」に他ならなかったのです。
2
丸山眞男の未完の論考「正統と異端」の構想について、私はテレビの特集番組で知りました。戦後の日本の「民主主義」のためには「天皇制」が致命的な障害となる。それが彼が抱えていた大きなテーマのひとつです。戦前に生まれた彼は、戦後に論考を記すにあたって、「これは学問的な論文なのだから、天皇について敬語を用いなくてもよいのだ、と何度も自分にいいきかせた」そうです。戦後生まれの私には、もはやそのようなメンタリティの持ち合わせもありませんが、いえることはひとつ。民主主義の達成のためには、私たちひとりひとりが「自立」した市民であることが求められます。なによりもまず、自分の足で立ち、自分の頭で考え、自分のことばでものをいうことです。市民は堂々と発言しなければならない。
にもかかわらず、市民の自由な発言を遮りつづけ、官憲の圧力を通じて、市民が一倍一心、ものもいえなくされていたのが戦前の天皇制軍国主義国家だったようです。かかる「正統」と「異端」の軋轢を、キリスト教の「正当」と「異端」、マルクス思想の「正統」と「異端」などにも問いかけを広げ、「民主主義」が達成されるときには、あらゆる「正統」が解体するはずだ、とまで丸山眞男は描きたかったのだと思います。解体するはずです。他から提示されるどのような「価値」に対しても、私たちは自由であるはずです。自分で考え、自分のことばでそれぞれが対話しつづけるかぎり、「サロン」のような社会が開けている……
3
市民の「自立」を阻むものは、人であれ何であれ、民主主義の障害になる。 それを持ち出されれば何も言えなくなる、という体のものは、たとえば戦前の「日の丸・君が代」にちがいなかったろうし、戦後には、さあ、人によっては「お金の力」、あるいは「偏差値」という妙なものが挙げられるかも知れません。民主主義がないところへ、私たちの祖父や父の世代が敗戦後に「民主主義」に遭遇し、だれもが「新しき時代」の夜明けに胸を膨らませました。それが半世紀を経て、達成されるどころか、またぞろ逆行させる動きがある。新聞を注意深く読んでいるといろいろな危険な動きの脈が見えてきます。 こどもの「いじめ」のみならず、大人の職場も陰湿な「いじめ」が吹き荒れている。予算配分は政権政党議員が負けた(政策が悪いから負けるのだ)地方には「やらない」という発想。野党を支援した経済団体とは「会ってやらない」という発想。すでに税金を「私物」としてしか見ていない、濁った脳味噌と血走った目つきの、柄の悪い男たちの密談の風景が浮かびます。彼らは、白いスーツに黒いシャツ、パンチパーマに品のないサングラスをかければ、よりよく似合うと思います。税収の配分という「利権」にしがみついている図は、覚醒剤の密売ルートを死守するどこかの誰かと酷似しているからです。政官財癒着の「利益構造体」こそが彼らにとって、唯」守るべき「国家」であるらしい。「憲法」の理念を吹き飛ばし、蹂躙してやまない、我欲と慢心の男たち。
困った国です。どうして、わずかずつでも税金を納めてきた市民のことを考えようとしないのか。どのような信念があって、窮状にあえぐ市民の暮らしぶりを見ようとしないのか。人は誰もがつながりあっている。それは、あなたの問題である。
4
地震列島である。火山列島である。市民が不景気と重税に苦しんでいるとき、噴火山上で利権をむさぼる官僚と政治家がいる。酔夢が醒めない。いずれこの国は「災害ホームレス」と「スラム化した仮設住宅」にあふれかえる。税収が彼らの「料亭宴席」さえ賄えなくなるまで、彼らは権力の甘い夢に遊び、溺れる。只酒がないのは、どうしてだ。どうして自腹で飯を食わなくちゃなんねぇんだ。 悲劇を通りこして、喜劇。この笑いの凄絶さ。
ひとまずは古代ギリシアを読み直すといいと考えています。あそこには「民主主義』の「正統」にちがいない「直接制民主主義」がありました。みんなが集まる広場があり、政治に倫理、音楽や詩や愛など天地の百般を論じる対話があり、医学や数学を含む自然科学の基礎があり、ことばの筋道の基本があります。いわゆる「西洋の没落」は、私の理解によれば、キリスト教文化の果実たる「西洋」が「没落」したにすぎず、古代ギリシアの「ことば」は、ますます光を放っているように見えてなりません。樽の中に住んでいた哲学者が食べていけた社会こそが、途方もなく豊かな社会です。 そういえば古代ギリシアには、すぐれた悲劇、喜劇があった。現代の『地上の王』には、かつてのアガメムノンやオイディプスほどの「格調の高さ」が絶望的にありません。合唱隊にすぎなかった市民の群像から、ひとりひとりの市民が立ち上がってきた。現代では、そのひとりひとりの市民こそが悲劇の渦中にあるのみです。
笑いながらの悲劇。底無しのかなしさ。 そう。市民社会には「執拗低音」として、つねに笑いがあったはずです。抵抗する「笑いの思想」として「遊びをせむとや生まれけん。戯れせんとや生まれけん」の嘆きぶしを捕え直す文脈はありそうです。しかし、それだけでは「正当」の解体を「本質的に」うながす力にはならない。精神史のあちこちを歩き回る私の旅は、なお続きます。サロンの活動とともに。 本年もよろしくお願いいたします。 (山村雅治 Jan.1 1997)
サロン主催のイベントは「ぼちぼち」です。まだまだ経済的にゆとりがないのは、被災地全体に及ぶことで、どの個人もどの文化施設も店舗も、例外はありません。音楽会も、有料にすると入場者は少ない。無料ご招待ならば、宣伝を出したその日から申し込みがある。震災直後は「まず水。つぎに食料、あたたかい寝床」でしたが、文化・芸術はどうしても衣食住の直接的な要求の後にしか求められない。だから、被災地の音楽家は苦闘しています。二年も経って、まだ被災地の文化・芸術の「基盤」は崩れ去ったままです。
震災後三月、「半壊・立入禁止」のサロンで「義援コンサート」を開いて以来、無料招待コンサートをときどき開いています。「それでも何かしたい」という音楽家の申し出があれば「会場費はいらないし、出演料もお出しできない。それでお客さんも無料」という提案をし、同意されればそのかたちで「無料招待コンサート」を開く、というわけです。ご存じのように、人が動けばお金がかかる。そのお金はどこから出てるか、というと、震災前にはサロンには少々の自主イベントにかける経済的なゆとりがありましたが(なにせ『文化は儲からない』のを承知で始めた仕事です)、今やどこからも出てこないのです。
サロンは、あの狂乱のバプルのさなかにさえ、企業の「冠コンサート」を行なったことはありませんでした。自分の仕事で得たお金(貸会場としての収入です)で、自分が信じる作家の講座を開き、自分を賭けてもいい音楽家のコンサートをやる。『暮らしの手帖』の花森安治という編集者を私はかなり好きでした。花森さんは自分の雑誌に、一切の企業広告をとらない人でした。それでやっていけた人がいたのだから、いけるはずです。「精神」に対してお金をもらうと、奴隷になる。それが嫌だし、自立した市民の「文化の拠点」は、企画からちらしのデザイン、お金の裏づけに至る隅々までを、名前を出した個人の能力と責任において運営されなければならないと思っています。
震災の前から、すでに不景気風が吹いていました。生きるスタイルを変えなければ大変なことになる、と考えていました。食べ物があまりに粗末に捨てられ、物がともかく粗雑に扱われすぎていました。それにお金の使われ方が乱暴でした。 震災はいやおうなしに私たちの生きるスタイルを変えました。それは「価値」の転換にまで影響していくことでしょう。金・物の利権を最優先させる人たちが、絶望的に醜く見える。私たちは震災の瓦樫に埋もれて、這い出し、喪失と放心のなかで、抱き合って家族の息、隣人の息をたしかめた。つぶされた街と個人の圧倒的な貧しさを確認するよりも先に、あの烈しい揺れのあとにも、なお生きている現実を戦ってきた。 私たちの「震災後」の文化は、これから始まります。文化の豊かさが、本当に経済的な豊かさに支えられなければならないのか、そうでもないのか、あるいは一説にすぎなかったのか。ゴッホは生前、一枚しか絵を売ったことはなかった……
土をひねることは、はじめは生活の用に応じたもの。千利休の理想も「金ぴか」からは遠いものでした。ところが近代の「骨董趣味」は、清雅な茶人の息吹はどこへやら、あらゆる茶道具に値札が付き、「高い値段」の根拠もあまり論理的なものではありませんから、ひとびとの審美眼すら狂ってきたのじゃないかと心配しています。地震体験者として断言しますが、あらゆる器は瞬時にして割れるものです。高いものほど割れちゃって、ということ、どなたにもお聞きいたしましたが、ようするに飾りもかねて棚の上に置いてあったからです。残ったのはバヤリースのコップとか、という話も全被災者共通のものです。だから、高い茶器でも、日常にふつうに使いましょう。番茶でいいのよ、色がだんだん落ち着いて良くなってくるから、とは茶道を長く研鎖されてきた、ある女性のことばです。 山城建司さんは兵庫県春日町に陶房をもつ陶芸家。立派なお皿を求めたことがありますが、私はそれに「たらこスパゲティ」を盛りたかったからです。その案を喜んで下さったから、私は山城建司さんの作品がますます世に出ることを願っています。
こちらは芦屋市婦人会長・広瀬忠子さんらが中心になっての、震災前からの会です。講師を招いて話を聞き、会食して談笑する。いわば「芦屋マダム」の、最も洗練された生活のひとこまです。震災からの生活の復興は、まず女性のファッションの移り変わりに見ることができます。化粧なしの素顔・震災ルック(黒のスパッツ、運動靴にリュックサック)から二年間。ここにお集まりの皆さまは、たとえ心で泣いていても、芦屋婦人の「心ばえ」を、みごとに「見栄え」として提出されています。
サロンの映画の会は、最初「同人誌」的な趣きがありました。趣味の集まりはどうしたってそうなるからで、震災で中断のやむなきに至り、それでも井上太恵子さんは各方面に働きかけ、資金集めに走り回られ、映画が好きだから再開され、今も続けられています。映画が終わったあと、その映画について語り合う時間を持っています。それがおもしろい。みんなが自分の人生を投影されてご覧になっていることがよく分かるからです。過ぎた恋、過ぎたあこがれ。過ぎた嫉妬や、過ぎた苦難の時。私も厄年をこえたせいか、ノスタルジーによって映画を見ている自分に気がつくことがある。映画の空間は自分自身に帰らせる暗室です。もっとも、こどもを連れて見に行く『ドラえもん』は別ですよ。そう。ここで藤子・F・不二雄さんの冥福を祈ります。
芦屋市文化復興会議を主宰される小野高裕さんは、歯医者としての仕事をきちんとされながら、生まれ育った町が震災でつぶされたことに「歯止め」をかけようと、こうしたシンポジウムを開かれることになりました。芦屋の「浜」の小野さんに、「山芦屋」の私としては協力を惜しまないつもりです。愛する戦前の建物を後世に残すことが、将来にわたっての、建築文化を通じての芦屋市民の「アイデンティティー」確認につながる。小野さんはそう考え、その運動の手法を都市計画家・川端直志さんが提案されました。ナショナル・トラスト運動です。
前田島之助さんは、私の芸術上の年長の友でした。変わった字を書くおっさんであるな、しかしなんて魅力的なんだ。十八歳のときに画廊で圧倒され、芳名帳に感想と住所を記して帰ると、数日後に「その字」で、交流したし、と葉書が舞い込みました。会えば先方は六十歳。神戸の画廊と珈琲店とおでん屋を荒らし回る、変なコンビがそのとき誕生したわけです。
久保洋子さんの、ご自身の初演作品発表を含む現代音楽のコンサート。これも「会場費なし、出演料なし、入場無料」のかたちです。この形式の音楽会では、必ず私がしゃべります。私がしゃべることに決めたからです。この日には、一般にはまだまだ親しみがない、二十世紀初頭から世紀末の現在にいたるまでのピアノ音楽について、古典に遡って話をしました。マイクを握れば「被災者に公的支援を!」とばかり叫んでいるのではありませんので、このさいイメージを変えて頂ければ幸いです。 それにしてもシェーンベルク、武満、久保と進められたのは効果的でした。まず響きが段々と斬新になってくる。調性に刃向かうことで内容が凝縮されたシェーンベルク、物質文明を謳歌できたお気楽時代の腕利きの音響デザイナーだった武満徹(あんまりですか)、そして震災を経て再び先鋭な技術で「人間」を語ろうとする久保洋子。これではまるで「一人勝ち」のような「三人花札」じゃないですか。 後半はまた世界が違う。メシアンに学び、パリで学位を取得した久保さんの「フランス楽派」。久保さんの師、近藤圭さんの作品は以前にベルナール・フォーシェさんにサロンで弾いていただいたことがあります。長唄「綱館の段」を引用したピアノ曲ですが、日本人の「血」と、音楽構造の「普遍性」と、「西洋」と「東洋」と………について、近藤圭さんの作品を聴けば、いつもしばし、わが身を振り返ります。 なお、武満徹に関しては「弦楽の為のレクイエム」は傑作だと思っています。ご冥福を祈ります。
芦屋の夏の風物詩となった感がある、河野保人さんのツィター演奏会。変わらぬ音楽が、いつもここにある………
菅英美子さんは前途洋々たる若手のソプラノ歌手。かのレナータ・テバルディが激賞した、という紹介にとどめておきます。秋にはプラハ歌劇場公演「魔笛」の「夜の女王」役をつとめられ、私は大阪まで聴きに行きました。声が澄んでいること、コロラトゥーラの鮮やかな技術。この役を歌う「声」も、グルベローヴァあたりから求められるものが一段と高くなってきたものと感じます。「お母さん」なのだけれど老いてはいない。一見恐ろしい人なんだけど、可憐で一途な「華」がある。しかし、菅さんは、考えるよりもまず歌う。若さと自信にあふれた「夜の女王」で確かめた大きな「素質」は、そのままこの日のリサイタルでも存分に発揮されていました。
縣美穂子さんの実家は神戸市長田区にあり、やはり震災でつぶされました。焼け跡と瓦礫と更地だけになった故郷の再生を願い、ベートーヴェンの「街の歌」が演奏されました。
これは渋い催し。兵庫現代芸術劇場の企画に拍手です。
ハンブルグの竹屋茂子さんがトリオを率いて帰ってこられました。若いときからドイツで勉強と活動を続けておられるだけに、目を閉じて耳を澄ませていると、エドウィン・フィッシャーとかウィルヘルム・ケンプにつながる「ドイツのピアニスト」の響きがします。ことにハイドンはソナタ形式の、音色とバランスの移り変わりが美しく、もっと聴かれてもいい作品と思いました。単純だから飽きない、という驚くべき音楽をハイドンは書いています。ベートーヴェンは更に力に満ち、ドヴオルジャークも民族性よりも純音楽的な美しさが目だっていました。
お皿はみな割れちゃったけど、モロゾフのプリンのガラス器しかなくなっちゃったけど……という段階から、被災地の「西洋磁器絵付け」のお仲間は、「また作ればいいや!」と思ってらしたに違いありません。自分でカップや皿に、花や天使や葉っぱや鳥の模様を施すなんて、優雅の極といえる趣味と思います。指導者の河合順子さんは、チェンバロも弾く音楽家でもあります。私がかつてウィリアム・バードの音楽会をやったことを覚えていて下さいました。
余白に………編集後記にかえて
「市民=議員立法実現推進本部」および三月以来の「大震災・声明の会」の事務局として、サロンは従来の業務に加え、てんてこまいの忙しさに明け暮れました。前例のない「サロン」業をはじめた、という私は、創業時にはおもしろがられることになりましたが、前例のない都市型震災に遭遇して、前例のない市民運動に参加して、より広い範囲の人に「サロン」とは何かを話す機会が増えました。あらゆる人が自由対等の同じ地平に立ち、対話ができる空間がサロンです。昔・軍隊、今・官僚の、効率至上の「上意下達」のスタイルを野暮とします。そこには個人の責任がない。責任がないから、水俣、サリドマイド、スモン、薬害エイズ、と、原因が同根の「官災」をくりかえす。信じがたいのは、これら「薬害」に複数回関わったひとりの男がいることです。「あやまちは二度とくりかえしません」といったはずが、平然とくりかえされてきた恐ろしさ。
完璧な組織は完璧に「人間」を殺す。自由な人間としてものを考えるのでなければ、考えたことにならない。それが組織の人たちには分からない。つまり、頭の働きを完全に停止させなければ勤まらないなら、じつに「人間」にとっては酷い職環境であるといえます。水俣病和解に関わって、人間をつらぬくために自殺した山内豊徳(当時環境庁企画調整局長)さんの名前を私は忘れていません。あれから六年。納税者たる市民の危機のためには「お金を出し渋る」こと、すなわち「市民の危機が国家の危機」であるとは決して考えない体質は、震災時、不況の中で固まっていたようです。
「新明解国語辞典」は、世評の通りおもしろい国語辞典です。オックスフォードの小さい英語辞典も、[四月]の項などなかなか詩的で素敵なものでしたが、「新解さん」は、さらに主観を押し通して、いっそアンブローズ・ピアスの「悪魔の辞典」にも匹敵しようか、という項目が散見されます。もっとも、これは中学・高校の「学習用」にも用いられる辞書ですから、「全編これ」というわけにもいきません。その中から引きます。
定義として、心暖まる項目もあります。行政に関わる人たちは、これを何よりも大切なものとして、人間としての「良心」をもって考えてください。今年こそ!
《以上、「新明解国語辞典」第四版(三省堂)より引用しました。》
(山村雅治 Dec.26 1996)
|
|||||||||||||||
1997年 8月 15日 発行 著 者 山村 雅治 発行者 山村 雅治 発行所 山村サロン
e-mail yamamura@y-salon.com H P www.y-salon.com Facebook www.facebook.com/yamamurasalon
Twitter http://twitter.com/masa_yamr (山村雅治) Blog http://masa-yamr.cocolog-nifty.com/blog/ ( 同 ) Facebook www.facebook.com/masaharu.yamamura ( 同 )
TEL 0797-38-2585 FAX 0797-38-5252 〒659-0093 芦屋市船戸町 4-1-301 JR芦屋駅前 ラポルテ本館 3階 YAMAMURA SALON Ashiya La-Porte Bldg. 3rd Floor 4-1-301 Funado-cho, Ashiya 659-0093 JAPAN
|
|||||||||||||||
|
|||||||||||||||
TEL 0797-38-2585 FAX 0797-38-5252 e-mail yamamura@y-salon.com
〒659-0093 芦屋市船戸町4-1-301「ラポルテ本館」3階 <毎週木曜・定休>