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「瓦礫の国」から「人間の国」へ 1 残暑お見舞い申し上げます。 いやはや、お暑いことで、あの阪神・淡路大震災から二度目の夏を迎えました。 前の「会報」から半年余りが過ぎ、その間に私にもいろいろなことがありました。ありすぎて身辺多忙をきわめているものの、ときどきは馬鹿笑いもしています。 「泣くが嫌さに笑い候」(フィガロ)という台詞を身近に感じています。つらい時代の文化の基底には、震災をくぐりぬけて、なお「出口なき日常」を生きている私たちのような「泣き笑い」「笑い泣き」の複雑な感情が、怒りや嘆きとともにあったようです。 2 震災に遭遇してから、ずっと人間の「文化」とはなんだったのか、そして「芸術」の力とはなんだったのかを考え続けています。古代ギリシア以来の哲学の歴史、モーゼや釈尊以来の宗教の歴史、そして文学や音楽や美術などを通じて知った、人間の「精神」の歴史について。どうも現代の人間は、先人が血を流し、身を引き裂かれて獲得した「知恵」を受け継ぐどころか、「知恵」すなわち「精神的な価値」ことごとくを蹂躙してやまない「野蛮さ」に呑まれてしまっているかのようです。 旧約聖書の預言者の筆法にならえば「世は獣に支配されたり」と書くところでしょう。世の中で威張り、幅をきかしているのは「獣」です。 なによりも金、物、それらのもたらす力への欲望につき動かされて、この国を本当の破滅へ導いている官僚たち、政治家たち。良心を保つ官僚、政治家は、おそろしくて「市民への愛」など口にできない。国民の血税の集積である莫大な「公費」を、自分たちのまわりにだけ配分して恥じない彼らはなんなのか。「富である権力」「権力である富」を成らしめている傲慢の根拠は薄弱です。 商売人なら七十円のコロッケ、百円の豚まんを買ってもらうために、血のにじむような努力を傾けていますが、取税人は紙切れ一枚を送付しておけば済むからです。聖書の昔から、取税人は卑しいものとして描かれてきた。一円一銭の利益を得るために市民がどれだけ泣き、汗をかき、血を流したか、彼らは知らない。生活のための労働の成果や、営々と築き上げた財産から「上前をはねる」。市民のお金をめぐる痛切な思いを踏みにじることを職にするものは、広大にひろがる人間の地平から遊離した「人外魔境」の存在です。彼らを「超エリート」ということにしているのは、まともな人間ならば誰もそんな仕事には就く気がしないからで、「豚もおだてりゃ木に登る」舞い上がった人たちが、集まった莫大な額にのぼる、血税の集積たる「公費」の使い道を決めているのだから始末が悪い。困窮する国民のためには一円たりとも使おうともせず、彼らが至上と考える「国家」とは、すなわち官僚自身の「利権の生活」及び官僚OBの「天下り先」でしかないのです。政治家については「選ぶ権利」があるものの、われわれが官僚を「選ぶ権利」がないことが、現代日本の不幸の遠因であったし、このごろでは直接の真因です。 市民活動を通じて、こんな電話をもらいました。 「私の父は戦後のある時代の農林次官でした。『お米でも芋でも、とにかく食べられるものは、市民のほうに先に回さなくちゃ駄目だよ。私たちはいちばん後だよ』といい渡されてそれは質素な暮らしぶりでしたのよ。それが最近のお役人はなんですか。自分たちの利益に関係のある所ばっかりにお金を回して、国民のことは何も考えちゃいないでしょう。昔のお役人は、まず困っている月役の人たちのことを先に考えたのよ」。 徳とは、自分のことは後回し、のことです。 といっても、現代の政治家、官僚に徳を説いても「魚屋に大根を求める」ことかも知れないですね。けれども、いっておきましょう。徳なき政治家と官僚の時代は終わる。 3 芸術家は芸術のことを考えていればよさそうなものですが、あいにく芸術は人間の精神と肉体、総体としての「人間が生きる」表現にほかならず、「人間が生きる」ことの中には、家族に囲まれての生い立ち、不和や親愛、小さなころの喧嘩や遊戯、青春の恋や愛や暴走などがあり、背負うハンデがあったとすれば、そこから世の中を鋭く見据える視点を獲得しただろうし、事件や事故に巻き込まれれば、そこでもなにかを考えてきた。 自分ひとりに閉じ込もる芸術は、価値がそこに終わる。他者へ広がる、歴史へ広がる大きな芸術は、ひとりの作者の「全体」を示すものです。そして、芸術家個人が生きぬいた時代の「全体」を示すことさえある。 混乱時にはまったく無力、無用な「文化・芸術」の価値は、まず「人間が生きる」手応えを得ることであり、さらにはより深い認識を得るための手蔓たることにあるようです。それが、かりにプルーストやジョイスのような「文学の長丁場」であれ、牛乳を器にあける若い女の一瞬を切り結んだフェルメールの一枚の絵であれ、20分あまりのベルクのヴァイオリン協奏曲であれ、「そこからすべてが始まった」芸術作品はあり得ない。先人から受け取った精神のバトンを、遠くの未来へ投げている芸術が「歴史へ広がる」芸術の意味です。 日本にはイギリスのOED(オックスフオード英語辞典)のような辞書がない。イギリスで使われる、便われてきた、便われた全ての語について、意味の変遷が豊かな例文の提示をともなって示される圧倒的な大冊ですが、日本ではなぜ「古語」と「国語」が分離させられているのか。まさか受験の便宜のためとは思いたくありませんが、じっさい私の日常使うことばには「古語辞典」の語彙が含まれています。1952年(昭和27年)生まれの私は、曽祖母(1880 ; 明治13年生まれ)と高校二年までともに暮らしていましたが、その年に天寿をまっとうするまで、彼女の使う「芦屋弁」には多くの「古語」が含まれていました。そのはずで、彼女の親は「江戸時代」生まれの人。そして、私のこどもは「平成」の小学生なのですから、人間は個人の「人生の時間」のうちに、ざっとあとさき二百年ばかりの時間を望見しながら生きているのです。だから、私にとっては坪内逍通訳のシェイクスピアは「同時代」の日本語と感じているし、泉鏡花などは助詞にいきなり句点がついたりするのがおもしろく、文体模倣をして遊んだことさえあります。室町、鎌倉、平安、奈良まで遡っても「ついこないだ」のじいさんばあさんの日本語のように感じられます。 なぜこんなことを書いてきたかというと、思考も認識もことばによってなされるからで、私たちの場合には日本語がその「ことば」に他ならないからです。また、日本語を「古語」と「国語」に分断して、先人たちの日本語の豊かな使い方を、大部分の日本人は知らされないままに「教育」されているのが許せないからです。 日本語が乱れている、とは戦後ずっと叫ばれてきたことですが、最近は国語学者を自称する諸氏にも、日本語が危うい人もいて、本来ことばが持つ恐るべき「力」も衰退の一途を辿っているようです。「ペンは剣よりも強い」はずです。 思考能力も認識能力も、ことばを使う能力です。官僚の作文にも、政治家の演説にも、ぎらぎらと輝く「精神の炎」がありません。「言霊の幸ふ」どころか、徒労の「言挙げ」。保身の身振りのための語句の羅列は、時代を創造する「核」たる「精神のことば」からは遥かに遠いものです。 4 サロンは、『大震災「声明」の会』の事務局としての顔を兼ね備えるに至り、いよいよ市民文化の創造の場として、より広範な市民の集まる広場になって参りました。後戻りするにも、戻るところがありません。最近は私は自分を「精神史家」と定めています(勝手に思っているだけです)が、人間の苦難は「旧約聖書」のころと内容がひとつも変わらないことに慄然とします。私たちは「ヨブ」です。信仰の厚い人は神の御名を呼べ。私は「ことば」をもって荒野に叫び続けます。 (山村雅治 Aug.6 1996 広島原爆忌に)
震災直後から弘井俊雄さんは、愛用の自転車を駆って半壊のラポルテまで来てくださり、いろいろ「地震の朝」のことなど語り合いました。被災地で生き残った人間が会って「その朝」の話になると、とどまることを知りません。7月後半から修復工事を終えたサロンを再開。11月に行なったこの音楽会は思いの籠ったものになりました。ヴィラ=ロボスは弘井俊雄さんのレパートリーの核心ですが、ブラジルの「人間の祈りと踊りと歌」が、きわめて素朴に、地方的なことばづかいを通して提出されるからこそ普遍的な高さに達し得る、という芸術の奇跡が、震災被災地の舞台で、純白の花のように咲きました。 村松百子さんは若く元気のいいピアノ。垣花洋子さんは、ますます表現力を身につけてきた若いソプラノ。「アリア」は弘井俊雄さんのギターに支えられ、最上の表現になっていました。「魂」に捧げられていたからです。「復興支援」感謝申し上げます。
芦屋市在住の映画監督、大森一樹さんもまともに被災し、マンションの修復のために走り回っておられました。近いはずなのに遠かった人。年齢もそう違いません。今回縁ができたのは、新作「緊急呼び出し」が、被災後の神戸ではどうしても上映館がみつからなかったからです。多くの映画館が地震で壊れたためです。 舞台はフィリピン。マニラのスラム、トンド地区に住み込む日本人医師の物語。大森一樹さん自身も医師であり、人と人、人と社会とがぶつかりあったときに人は人と社会に何をするのか、という、本質的な「ヒューマニズム」の物語こそ、この監督がめざす映画なのだと思いました。今後とてつもない名画を撮られることを信じ、かつ期待いたします。 収益は後日、大森一樹さんから芦屋市に寄付されました。
ドレル・ブックさんはルーマニアから来たヴァイオリニスト。1952年ティミショアラで生まれ、同地の音楽院を卒業後、ブカレスト音楽院で学ばれました。スイスのピアニスト、リヒャルト・フランクさんは1994年はじめてルーマニアを訪れ、国立アラット・フィルハーモニーと共演、ブックさんと知り合うことになりました。お二人の共演の舞台に芦屋が選ばれて、ヴァイオリンとピアノのための名作が二曲。客席にも各国からの方があつまり、ドイツとフランスの音楽を楽しみました。一般にはセザール・フランクという作曲家の名前が、あまりよく知られているとはいえませんが、いい作曲家です。陶酔の飛翔と構造の堅固が一体となった、本物の芸術的個性を持った作曲家のひとりです。 ルーマニアの音楽家ではピアニストのディヌ・リパッティ、指揮者のセルジュ・チェリビダッケなどが有名です。チャウシェスク政権が倒れるきっかけとなった事件が起きたティミショアラで生まれ育ったブックさんのヴァイオリンも「音色の透徹」という、かつて私が親しんだルーマニアの音楽芸術家の特徴を備えていたようです。
震災直後の3月、廃墟と化したサロンでの義援コンサート以来、里井宏次ご夫妻と交流を重ねています。今回は室内合唱団の旗揚げ公演。聖書の「詩篇」に曲をつけた「3B」の合唱曲を集めたプログラム。西洋音楽の合唱曲の精髄は、いうまでもなくキリスト教の信仰を歌いあげた「宗教音楽」にあります。日本人がなぜ歌うのか、歌えるのか、という問題をつきつめていけば、日本人がなぜ西洋音楽を演奏するのか、できるのか、という根元的な問いへとつながっていきます。あんまり考えるとノイローゼになるのでいけません。ユダヤ教に改宗した往年の大指揮者、オットー・クレンペラーは、かなり年を取ってから「宗教の違いがあっても、バッハの音楽は演奏できることが分かった」と述懐したそうです。 ブルックナー、ブラームス、バッハそれぞれに求められる響きが違い、スタイルが違います。里井さんの指揮の求めるものは、まず純正な響き。ハーモニーそのものがものをいう、という合唱の原点をどこまでも追い求めるものです。その意味での合唱曲の作曲家としての手腕は、ブラームスは頭抜けていますが、そのこともよく示された一夜でした。
深田尚子先生が主宰される「楽の会」コンサートも、芦屋市内のルナホールが震災でやられたままになっているため、サロンで開かれることになりました。深田先生はマンションが全壊、および部分火災。その中で地中に埋もれたまま30時間後に救出され、しばらくはピアノもお休みになったものの、たくましく舞台の上に帰ってこられました。私の震災前に病没した母とほぼ同年輩ですから、いろいろな意味で感無量でした。ほかのピアニストも声楽家も大なり小なり被災をこえての舞台です。また会えてよかった。また音楽を演奏できてよかった。場内を包む大きな共通の感情は「生きている手応えに感謝」。「復興支援」感謝申し上げます。
サロンに映画が戻ってまいりました。モンゴルの大自然の中でしぶとく生きる人間を描いた「ウルガ」(ニキータ・ミハルコフ監督)、宮沢賢治生誕100年にちなむアニメ「セロ弾きのゴーシュ」(高畑勲監督、間宮芳生音楽)と「注文の多い料理店」(四分一節子監督)、そして、エイズにかかった少年と隣に住む少年の友情を描く「マイ・フレンド・フォーエバー」(ブラッド・レンフロ主演)。 やっぱり映画好きの人には、映画を見るのが、生きている実感。
被災後、陰に陽に励まし続けて下さった、作曲家/ピアニスト・三宅榛名さんが、なんと私の「話」とジョイントで音楽会を「企画・構成・出演」して下さいました。おどろいたのは、私の話という「異物」さえ、三宅榛名さんの大きな芸術の造型に組み込まれ、「ジョイントの午後」全体が、鮮やかに「三宅榛名作品」となっていたことです。全体が大きな「対の遊び」。近似の対が三宅作品とアイヴス作品。遠い場所への旅として、ロマン派・印象派を現代音楽の作曲家が弾く、という距離の対。そして三宅榛名さんの「音楽」と、私の「ことば」という表現素材の対。自分も出演者のひとりなのでコメントは差し控えたほうがよさそうですが、それにしても、ここまで表現の「対位法」を駆使されるピアニストのショパンとドビュッシーこそ、唯一無二の感性と思考と技術がさらりと表わされた演奏でした。誰よりもはかなく、勁く、かなしい音楽!
「気まぐれ」とはいえ、皆さん桐朋の卒業生です。プログラムもクリスマスを考えた曲があり、むしろがっしりとした構成感が特徴的なコンサートでした。私の世代はネタニア・ダヴラツの歌声で「オーヴェルニュの歌」に魅人られましたが、若い堀川緑さんはキリ・テ・カナワにまでソプラノの世代が下がります。叙情的な声を持つ多くのソプラノがこの曲集を歌ってきました。日本人の声で聴くのは、はじめてでした。堀川緑さんの声はまっすぐに透き通る、たとえば「ボエーム」のミミなんかが似合う声で、じつに美しいひとときでした。
野田燎さんは夙川在住。「アントナン・カレーム」は苦楽園口にあるケーキと喫茶のお店で、経営者の佐内さんとは震災前から親しくされていました。ところが私も佐内さんとは旧知の仲で、震災後は「被災の同業者」として心配していました。そこへ降って湧いたようなこのコンサート。こどもたちも大入たちも「入場無料・お菓子付」の音楽会を、心から楽しんで下さったことと思います。サンタクロースさんがね、こんなコンサートをプレゼントしてくれたんだよ、と場内のこどもたちに語りかけました。その通りだったからです。 野田燎さんの「音楽療法」を受けているこどもたちも、最前列で全身でリズムを取って音楽を生きていました。その様子の一部がテレビ・ドキュメンタリーとして放映されたことを付記しておきます。
村松健さんは、ハンブルク・スタインウェイと、音響と、場内の雰囲気を気に入って下さり、クリスマスについで春にもソロ・ピアノのコンサートを開いて下さいました。クラシックでもなくジャズでもなく「村松健」という音楽世界には、若者のしなやかな感性が息づき、いっさいの「音の暴力」がありません。やさしすぎるくらい、やさしい。だから、若い傷ついた心、疲れた心が、村松健さんのピアノの音色に安らぐのです。これらのコンサートの底に、つねに流れていたものは「祈り」です。フルシェットの柳沢まどかさんともども、「復興支援」感謝申し上げます。
奈良ゆみさんは、震災直後、パリから私の安否を気遣うファックスを送って下さったソプラノ歌手です。なにしろ生きているのか死んでいるのかわからない。あのころは電話が駄目で国内の知人・友人は連絡がとれませんでしたが、海外からのファックスだけは健康な回線を維持していたようです。家の電話よりも公衆電話。さらには有線電話よりも無線電話のほうが通じやすかったことも、記しておきます。「災害サバイバル」のノウハウだけは、被災地の人間はよく知っています。 メシアンの「ハラウィ」一曲だけのプログラム。かつてメシアンの薫陶を受けた二人の日本人音楽家が、たくさんの人が亡くなった震災被災地で「愛と死の歌」の音楽会をやることの意味について、司会役の私は曲の前と後にしゃべりました。どうも震災後の音楽会では、しゃべることが多くなり、最近では「やみつき」になりました。「復興支援」感謝申し上げます。
このころになるとサロンの名は新聞紙面では「文化面」からは遠ざかり、「大震災『声明』」の会」事務局として、「社会面」や「コラム」に載る機会が多くなってきていました。そこで久々にこの音楽会は「文化面でのサロン」が、まだ「やっている」ことをお知らせする機会にもなりました。 田中園子さんは日本のピアノ界の大先輩であるのみならず、私事にわたって恐縮ですが、私の通っていた高校の大先輩です。震災直後から、暖かい励ましのお便りなどを頂き、サロンで音楽会を開きたい、というお申し出がありました。チェロの共演で花を添えて頂いたのが「デュオ・ハヤシ」の林俊昭さん。演奏評は東京在住の音楽学者・山本尚志さんが「ショパン」誌に寄稿されたものをお読み下さい。また「音楽現代」誌の大坪盛編集長も囲み記事を出して下さいました。関係各位に感謝申し上げます。 若い人たちの音楽会 音楽家には、実力・人気を兼ね備えた人、実力はあるけれども真価が認められない人、人気を取るのはうまいけれども実力が伴わない人、いろいろあって、なかなか厳しい世界です。上昇志向というものがあるだろうと察しますが、大切なことは「世間でのロールスロイス」もさることながら、あなたの「音楽の精神」がバッハやモーツァルトの前に立ったときに恥ずかしくないか、と絶えず自分に刃を向ける向上心にちがいありません。人間はいずれ死ぬ。しかしあなたは不死の「精神の価値」を表現するに値する音楽家であるか、ないか。じつは若いときにこそ、そうした遠くのことをみつめていてほしいのです。みつめた点に揺らぎがなければ、あとは人生の色々なことなどは、なんとかなっていきます。 寺本郁子さんは、貴志康一の歌曲を「ライフワーク」として追求していくことを宣言されました。演奏会では、ますます声が伸びてきて「私のお父さま」などは、今まででいちばん自然に歌ごころが表現されていたように感じました。 龍野順義さんにお世話になったトリオでは、プラームスの若書き(晩年自ら改訂しています)の美しさに打たれました。そういえば作品18の「弦楽六重奏曲」など、むせかえるような憧れの音楽として、私は高校生のころから好きでした。 野田燎さんにお世話になった、学生たちのコンサートは美術作品の展示あり、詩の朗読や、ロック・バンド、ポップスも交えた、にぎやかなものでした。表現意欲と、表現効果を測れるほどの表現技術と、衝動的でない持続する表現への意志について、どの分野の人も「場数」を踏むことで、次第に明らかになっていくでしょう。才能は世間よりも厳しいもの。自分を信じて、可能性にも不可能性にも挑んでいくのが「若さ」の特権です。
これは金子さん親子にとって非常に思い出深いコンサートになったことと思います。ちらしやプログラムなど、私も一緒になって作らせて頂きましたから、いつまでも懐かしく思うことになると感じています。ガンターさんは、リヒャルト・フランクさんのご紹介で、以前サロンで音楽会を開いたことがあります。これも元はといえば、フランクさんが仕掛けて、金子さん親子が乗った、という形。やはりひどい被災にあわれましたが、立ち上がろうとするソプラノ歌手の気概に打たれました。亡き師、柴田睦陸先生を夢枕にまで立たせるほどの歌への情熱。ドイツ語の発音の確かさと、揺れない音程の確実さ、表情をつけすぎず、まっすぐに伸びる歌声は清潔をきわめたものでした。シューベルトの「岩の上の羊飼い」は屈指の傑作ですが、クラリネットにガンターさんを得て、この日の演奏には満足いたしました。
芦屋の浜で生まれ育った小野高裕さんの本業は歯科医ですが、震災後は見慣れた洋館が全半壊し、その多くが庇護なく「取り壊し」の憂き目にあうのがしのびなく、「芦屋の文化とはなんだろう」と考える会がはじまりました。芦屋人の芦屋人による芦屋人のための、いわば「アイデンティティー確認講座」ですが、望外のお客さまの数が集まりました。めざすところは、しかし、「ローカル」を極めつくして、広く「都市とは何か」を探る普遍的な視座の獲得です。旗揚げのこの回には、東京を拠点に世界で活躍する芦屋生まれの都市計画家・川端直志さんを特にお迎えしました。
カイワレを食べること ……編集後記にかえて 病原性大腸菌O-157の蔓延した原因として、厚生省が羽曳野のカイワレ農園があやしい、と発表してから、世の中ではカイワレが消えてしまいました。年来のカイワレ・ファンとしては、当の農園への複数回の大阪府による立入検査では、肝心の菌が検出されなかったのだから、全国のカイワレ業者の方には同情を禁じ得ません。韓国でも近頃O-157が発見され、焼肉の本場の国民いわく「日本はこのごろおかしい。不穏だね」と。 もともとおかしかったのが、阪神・淡路大震災、サリンとオウム、薬害エイズ問題を経て、このO-157騒ぎです。国民もいい加減いらいらしていますから、国情をざわつかせている「犯人」捜しに急です。本質的には「国民を幸福にしない日本というシステム」そのものが「真犯人」なのですが、だれもが「手近な悪者」を「鵜の目、鷹の目」で捜している。 システムが完全に国民を支配していて、民心は大きく歪められ、変にデリケートに傷つきやすくなっています。その傾向をひとことでいえば「いじめられる側でなく、一歩でも近くいじめる側に身を置いていたい」。これは、大規模なヒステリーです。このヒステリーが、かつて「国家的規模」で演出されたのが「ナチス・ドイツ」 です。「われわれ自身の中のヒトラー」と、ときどきは対話してみることも必要ですね。 今回の会報には、お申し出があったので、西村浩一さんの寄稿文を入れました。非売品だし、個人誌のようなものだし、稿料などお出しできるわけがないので、今まではどなたにもお願いすることもなく続けてきました。しかし、会報もまたサロンなので、投稿があれば随時載せていくことにしました。年二回発行のスローペースに加え、初版五百、増刷五百ほどの部数ですが、それでもよろしければ、ぜひ原稿をお寄せ下さい。 カイワレを食べます。木綿豆腐に添えて、生姜と醤油。私は、いじめる側には立ちたくありません。 (山村雅治 Aug.17 1996)
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1996年 8月 18日 発行 著 者 山村 雅治 発行者 山村 雅治 発行所 山村サロン
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