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「瓦礫の国」から「人間の国」へ

 

1

 

残暑お見舞い申し上げます。

いやはや、暑いことで、あの阪神・淡路大震災から二度目の夏を迎えました。

前の「会報」から半年余りが過ぎ、その間に私にもいろいろなことがありました。ありすぎて身辺多忙をきわめているものの、ときどきは馬鹿笑いもしています。

「泣くが嫌さに笑い候」(フィガロ)という台詞を身近に感じています。つらい時代の文化の基底には、震災をくぐりぬけて、なお「出口なき日常」を生きている私たちのような「泣き笑い」「笑い泣き」の複雑な感情が、怒りや嘆きとともにあったようです。

 

2

 

震災に遭遇してから、ずっと人間の「文化」とはなんだったのか、そして「芸術」の力とはなんだったのかを考え続けています。古代ギリシア以来の哲学の歴史、モーゼや釈尊以来の宗教の歴史、そして文学や音楽や美術などを通じて知った、人間の「精神」の歴史について。どうも現代の人間は、先人が血を流し、身を引き裂かれて獲得した「知恵」を受け継ぐどころか、「知恵」すなわち「精神的な価値」ことごとくを蹂躙してやまない「野蛮さ」に呑まれてしまっているかのようです。

旧約聖書の預言者の筆法にならえば「世は獣に支配されたり」と書くところでしょう。世の中で威張り、幅をきかしているのは「獣」です。

 

なによりも金、物、それらのもたらす力への欲望につき動かされて、この国を本当の破滅へ導いている官僚たち、政治家たち。良心を保つ官僚、政治家は、おそろしくて「市民への愛」など口にできない。国民の血税の集積である莫大な「公費」を、自分たちのまわりにだけ配分して恥じない彼らはなんなのか。「富である権力」「権力である富」を成らしめている傲慢の根拠は薄弱です。

商売人なら七十円のコロッケ、百円の豚まんを買ってもらうために、血のにじむような努力を傾けていますが、取税人は紙切れ一枚を送付しておけば済むからです。聖書の昔から、取税人は卑しいものとして描かれてきた。一円一銭の利益を得るために市民がどれだけ泣き、汗をかき、血を流したか、彼らは知らない。生活のための労働の成果や、営々と築き上げた財産から「上前をはねる」。市民のお金をめぐる痛切な思いを踏みにじることを職にするものは、広大にひろがる人間の地平から遊離した「人外魔境」の存在です。彼らを「超エリート」ということにしているのは、まともな人間ならば誰もそんな仕事には就く気がしないからで、「豚もおだてりゃ木に登る」舞い上がった人たちが、集まった莫大な額にのぼる、血税の集積たる「公費」の使い道を決めているのだから始末が悪い。困窮する国民のためには一円たりとも使おうともせず、彼らが至上と考える「国家」とは、すなわち官僚自身の「利権の生活」及び官僚OBの「天下り先」でしかないのです。政治家については「選ぶ権利」があるものの、われわれが官僚を「選ぶ権利」がないことが、現代日本の不幸の遠因であったし、このごろでは直接の真因です。

 

市民活動を通じて、こんな電話をもらいました。

「私の父は戦後のある時代の農林次官でした。『お米でも芋でも、とにかく食べられるものは、市民のほうに先に回さなくちゃ駄目だよ。私たちはいちばん後だよ』といい渡されてそれは質素な暮らしぶりでしたのよ。それが最近のお役人はなんですか。自分たちの利益に関係のある所ばっかりにお金を回して、国民のことは何も考えちゃいないでしょう。昔のお役人は、まず困っている月役の人たちのことを先に考えたのよ」。

徳とは、自分のことは後回し、のことです。

といっても、現代の政治家、官僚に徳を説いても「魚屋に大根を求める」ことかも知れないですね。けれども、いっておきましょう。徳なき政治家と官僚の時代は終わる。

 

3

 

芸術家は芸術のことを考えていればよさそうなものですが、あいにく芸術は人間の精神と肉体、総体としての「人間が生きる」表現にほかならず、「人間が生きる」ことの中には、家族に囲まれての生い立ち、不和や親愛、小さなころの喧嘩や遊戯、青春の恋や愛や暴走などがあり、背負うハンデがあったとすれば、そこから世の中を鋭く見据える視点を獲得しただろうし、事件や事故に巻き込まれれば、そこでもなにかを考えてきた。

自分ひとりに閉じ込もる芸術は、価値がそこに終わる。他者へ広がる、歴史へ広がる大きな芸術は、ひとりの作者の「全体」を示すものです。そして、芸術家個人が生きぬいた時代の「全体」を示すことさえある。

混乱時にはまったく無力、無用な「文化・芸術」の価値は、まず「人間が生きる」手応えを得ることであり、さらにはより深い認識を得るための手蔓たることにあるようです。それが、かりにプルーストやジョイスのような「文学の長丁場」であれ、牛乳を器にあける若い女の一瞬を切り結んだフェルメールの一枚の絵であれ、20分あまりのベルクのヴァイオリン協奏曲であれ、「そこからすべてが始まった」芸術作品はあり得ない。先人から受け取った精神のバトンを、遠くの未来へ投げている芸術が「歴史へ広がる」芸術の意味です。

 

日本にはイギリスのOED(オックスフオード英語辞典)のような辞書がない。イギリスで使われる、便われてきた、便われた全ての語について、意味の変遷が豊かな例文の提示をともなって示される圧倒的な大冊ですが、日本ではなぜ「古語」と「国語」が分離させられているのか。まさか受験の便宜のためとは思いたくありませんが、じっさい私の日常使うことばには「古語辞典」の語彙が含まれています。1952(昭和27)生まれの私は、曽祖母(1880 ; 明治13年生まれ)と高校二年までともに暮らしていましたが、その年に天寿をまっとうするまで、彼女の使う「芦屋弁」には多くの「古語」が含まれていました。そのはずで、彼女の親は「江戸時代」生まれの人。そして、私のこどもは「平成」の小学生なのですから、人間は個人の「人生の時間」のうちに、ざっとあとさき二百年ばかりの時間を望見しながら生きているのです。だから、私にとっては坪内逍通訳のシェイクスピアは「同時代」の日本語と感じているし、泉鏡花などは助詞にいきなり句点がついたりするのがおもしろく、文体模倣をして遊んだことさえあります。室町、鎌倉、平安、奈良まで遡っても「ついこないだ」のじいさんばあさんの日本語のように感じられます。

 

なぜこんなことを書いてきたかというと、思考も認識もことばによってなされるからで、私たちの場合には日本語がその「ことば」に他ならないからです。また、日本語を「古語」と「国語」に分断して、先人たちの日本語の豊かな使い方を、大部分の日本人は知らされないままに「教育」されているのが許せないからです。

日本語が乱れている、とは戦後ずっと叫ばれてきたことですが、最近は国語学者を自称する諸氏にも、日本語が危うい人もいて、本来ことばが持つ恐るべき「力」も衰退の一途を辿っているようです。「ペンは剣よりも強い」はずです。

思考能力も認識能力も、ことばを使う能力です。官僚の作文にも、政治家の演説にも、ぎらぎらと輝く「精神の炎」がありません。「言霊の幸」どころか、徒労の「言挙げ」。保身の身振りのための語句の羅列は、時代を創造する「核」たる「精神のことば」からは遥かに遠いものです。

 

 

4

 

サロンは、『大震災「声明」の会』の事務局としての顔を兼ね備えるに至り、いよいよ市民文化の創造の場として、より広範な市民の集まる広場になって参りました。後戻りするにも、戻るところがありません。最近自分を「精神史家」と定めています(勝手に思っているだけです)が、人間の苦難は「旧約聖書」のころと内容がひとつも変わらないことに慄然とします。私たちは「ヨブ」です。信仰の厚い人は神の御名を呼べ。私は「ことば」をもって荒野に叫び続けます。

(山村雅治 Aug.6 1996 広島原爆忌に)

 

 

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山村サロン復興支援コンサート   1995.11.4

 

弘井俊雄(ギター)  

村松百子(ピアノ)  

垣花洋子(ソプラノ)

 

ヴィラ=ロボス:三人のマリア

:ショティシュ・ショーロ

:マズルカ・ショーロ

:ブラジル風バッハ 第5番(アリア)

:モジーニャ

アルベニス:エル・プェルト

:エル・アルバイシン

コシュキン:アッシャーワルツ

黒人霊歌:時には母のない子のように

:ジェリコの戦い

ガーシュイン :サマータイム

 

協賛/日本ヴィラ=ロボス協会関西支部

 

 

震災直後から弘井俊雄さんは、愛用の自転車を駆って半壊のラポルテまで来てくださり、いろいろ「地震の朝」のことなど語り合いました。被災地で生き残った人間が会って「その朝」の話になると、とどまることを知りません。7月後半から修復工事を終えたサロンを再開。11月に行なったこの音楽会は思いの籠ったものになりました。ヴィラ=ロボスは弘井俊雄さんのレパートリーの核心ですが、ブラジルの「人間の祈りと踊りと歌」が、きわめて素朴に、地方的なことばづかいを通して提出されるからこそ普遍的な高さに達し得る、という芸術の奇跡が、震災被災地の舞台で、純白の花のように咲きました。

村松百子さんは若く元気のいいピアノ。垣花洋子さんは、ますます表現力を身につけてきた若いソプラノ。「アリア」は弘井俊雄さんのギターに支えられ、最上の表現になっていました。「魂」に捧げられていたからです。「復興支援」感謝申し上げます。

 

 

 

緊急呼出し/エマージェンシー・コール   1995.11.8

― チャリティ上映会 ― 

 

大森一樹 監督

 

製作/プルミエ・インターナショナル

配給/日本ヘラルド映画

 

 

芦屋市在住の映画監督、大森一樹さんもまともに被災し、マンションの修復のために走り回っておられました。近いはずなのに遠かった人。年齢もそう違いません。今回縁ができたのは、新作「緊急呼び出し」が、被災後の神戸ではどうしても上映館がみつからなかったからです。多くの映画館が地震で壊れたためです。

舞台はフィリピン。マニラのスラム、トンド地区に住み込む日本人医師の物語。大森一樹さん自身も医師であり、人と人、人と社会とがぶつかりあったときに人は人と社会に何をするのか、という、本質的な「ヒューマニズム」の物語こそ、この監督がめざす映画なのだと思いました。今後とてつもない名画を撮られることを信じ、かつ期待いたします。

収益は後日、大森一樹さんから芦屋市に寄付されました。

 

 

 

国際交流コンサートシリーズ   1995.11.11

 

ドレル・ブック & リヒャルト・フランク デュオ・リサイタル     

 

ドレル・ブック(ヴァイオリン)  

リヒャルト・フランク(ピアノ)

 

ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ 第9 op.47 ″クロイツェル″

C.フランク:ヴァイオリン・ソナタ イ長調

 

主催/リスト協会スイス・日本

 

 

ドレル・ブックさんはルーマニアから来たヴァイオリニスト。1952年ティミショアラで生まれ、同地の音楽院を卒業後、ブカレスト音楽院で学ばれました。スイスのピアニスト、リヒャルト・フランクさんは1994年はじめてルーマニアを訪れ、国立アラット・フィルハーモニーと共演、ブックさんと知り合うことになりました。お二人の共演の舞台に芦屋が選ばれて、ヴァイオリンとピアノのための名作が二曲。客席にも各国からの方があつまり、ドイツとフランスの音楽を楽しみました。一般にはセザール・フランクという作曲家の名前が、あまりよく知られているとはいえませんが、いい作曲家です。陶酔の飛翔と構造の堅固が一体となった、本物の芸術的個性を持った作曲家のひとりです。

ルーマニアの音楽家ではピアニストのディヌ・リパッティ、指揮者のセルジュ・チェリビダッケなどが有名です。チャウシェスク政権が倒れるきっかけとなった事件が起きたティミショアラで生まれ育ったブックさんのヴァイオリンも「音色の透徹」という、かつて私が親しんだルーマニアの音楽芸術家の特徴を備えていたようです。

 

 

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The Taro Singers 〜3Bのモテットを集めて〜  1995.11.23

 

里井宏次(指揮)  

田中実子(オルガン)

 

The Taro Singers(コーラス)

ソプラノ/田村靖子、中村朋子

アルト/岩崎睦、小林美紀、西野夏子、森由梨子

テノール/梶原道人、中塚昌昭

バス/嶋本晃 平林勲、山田正紀

 

 

A.ブルックナー:この所を作り給うたのは神である  他

J.ブラームス:いかなれば苦難にある者に光を賜い  他

J.S.バッハ:<コラール第1節>イエスよ、我が喜び  他

 

後援/大阪音楽大学幸楽会

 

 

震災直後の3月、廃墟と化したサロンでの義援コンサート以来、里井宏次ご夫妻と交流を重ねています。今回は室内合唱団の旗揚げ公演。聖書の「詩篇」に曲をつけた「3B」の合唱曲を集めたプログラム。西洋音楽の合唱曲の精髄は、いうまでもなくキリスト教の信仰を歌いあげた「宗教音楽」にあります。日本人がなぜ歌うのか、歌えるのか、という問題をつきつめていけば、日本人がなぜ西洋音楽を演奏するのか、できるのか、という根元的な問いへとつながっていきます。あんまり考えるとノイローゼになるのでいけません。ユダヤ教に改宗した往年の大指揮者、オットー・クレンペラーは、かなり年を取ってから「宗教の違いがあっても、バッハの音楽は演奏できることが分かった」と述懐したそうです。

ブルックナー、ブラームス、バッハそれぞれに求められる響きが違い、スタイルが違います。里井さんの指揮の求めるものは、まず純正な響き。ハーモニーそのものがものをいう、という合唱の原点をどこまでも追い求めるものです。その意味での合唱曲の作曲家としての手腕は、ブラームスは頭抜けていますが、そのこともよく示された一夜でした。

 

 

 

楽の会 第23回コンサート   1995.11.25

 

深田尚子(ピアノ)  魚住千代子(ソプラノ) 

庵原えり子(ピアノ) 高松磯子(ピアノ) 

松枝良子(ソプラノ) 上柳明子(ピアノ)

伴奏/東逸子、山下道子

 

F.ショパン:ノクターン 変ホ長調 op.9 no.2

G.ビゼー:「アルルの女」より 第2組曲

ルッツィ:アヴェ・マリア

山田耕筰:鐘が鳴ります

 

 

深田尚子先生が主宰される「楽の会」コンサートも、芦屋市内のルナホールが震災でやられたままになっているため、サロンで開かれることになりました。深田先生はマンションが全壊、および部分火災。その中で地中に埋もれたまま30時間後に救出され、しばらくはピアノもお休みになったものの、たくましく舞台の上に帰ってこられました。私の震災前に病没した母とほぼ同年輩ですから、いろいろな意味で感無量でした。ほかのピアニストも声楽家も大なり小なり被災をこえての舞台です。また会えてよかった。また音楽を演奏できてよかった。場内を包む大きな共通の感情は「生きている手応えに感謝」。「復興支援」感謝申し上げます。

 

 

 

山村サロン・サロンシアター

 

11回 「ウルガ」  1995.12.4

12回 「セロ弾きのゴーシュ」  1996.2.5

「注文の多い料理店」 

13回 「マイフレンド・フォーエバー  1996.4.1

 

主催/INO ART・主宰 井上太恵子

 

 

サロンに映画が戻ってまいりました。モンゴルの大自然の中でしぶとく生きる人間を描いた「ウルガ」(ニキータ・ミハルコフ監督)、宮沢賢治生誕100年にちなむアニメ「セロ弾きのゴーシュ」(高畑勲監督、間宮芳生音楽)と「注文の多い料理店」(四分一節子監督)、そして、エイズにかかった少年と隣に住む少年の友情を描く「マイ・フレンド・フォーエバー(ブラッド・レンフロ主演)。

やっぱり映画好きの人には、映画を見るのが、生きている実感。

 

 

 

話と音楽・ジョイントの午後   1995.12.2

 

震災後の山村サロン

 

山村雅治(話)  

三宅榛名(ピアノ)

 

三宅榛名:午後に

:島の影

:北緯43度のタンゴ

C.アイヴス:アメリカ変奏曲

F.ショパン:マズルカ

C.ドビュッシー:アラベスク

 

話/山村雅治「地震と私と音楽と」

 

 

被災後、陰に陽に励まし続けて下さった、作曲家/ピアニスト・三宅榛名さんが、なんと私の「話」とジョイントで音楽会を「企画・構成・出演」して下さいました。おどろいたのは、私の話という「異物」さえ、三宅榛名さんの大きな芸術の造型に組み込まれ、「ジョイントの午後」全体が、鮮やかに「三宅榛名作品」となっていたことです。全体が大きな「対の遊び」。近似の対が三宅作品とアイヴス作品。遠い場所への旅として、ロマン派・印象派を現代音楽の作曲家が弾く、という距離の対。そして三宅榛名さんの「音楽」と、私の「ことば」という表現素材の対。自分も出演者のひとりなのでコメントは差し控えたほうがよさそうですが、それにしても、ここまで表現の「対位法」を駆使されるピアニストのショパンとドビュッシーこそ、唯一無二の感性と思考と技術がさらりと表わされた演奏でした。誰よりもはかなく、勁く、かなしい音楽!

 

 

 

ミニ桐朋会気まぐれコンサート  1995.12.10

―音の絵画展―  

 

松島恵子(ピアノ)  

田中真理(ピアノ)  

堀川緑(ソプラノ)

 

G.ビゼー:子どもの遊び Op.22(四手のための)

P.チャイコフスキー

:バレエ組曲 くるみ割り人形 Op.71a(四手のための)

M.J.カントルーブ:オーヴェルニュの歌

F.プ―ランク:ナザレの夜

 

 

「気まぐれ」とはいえ、皆さん桐朋の卒業生です。プログラムもクリスマスを考えた曲があり、むしろがっしりとした構成感が特徴的なコンサートでした。私の世代はネタニア・ダヴラツの歌声で「オーヴェルニュの歌」に魅人られましたが、若い堀川緑さんはキリ・テ・カナワにまでソプラノの世代が下がります。叙情的な声を持つ多くのソプラノがこの曲集を歌ってきました。日本人の声で聴くのは、はじめてでした。堀川緑さんの声はまっすぐに透き通る、たとえば「ボエーム」のミミなんかが似合う声で、じつに美しいひとときでした。

 

 

 

被災者のためのX'masコンサート   1995.12.15

 

野田燎(サックス) 

島袋直美(ピアノ)

アントナン・カレーム(お菓子のプレゼント)

 

ジャズ・スタンダード・ナンバー

クリスマスキャロル

 

 

野田燎さんは夙川在住。「アントナン・カレーム」は苦楽園口にあるケーキと喫茶のお店で、経営者の佐内さんとは震災前から親しくされていました。ところが私も佐内さんとは旧知の仲で、震災後は「被災の同業者」として心配していました。そこへ降って湧いたようなこのコンサート。こどもたちも大入たちも「入場無料・お菓子付」の音楽会を、心から楽しんで下さったことと思います。サンタクロースさんがね、こんなコンサートをプレゼントしてくれただよ、と場内のこどもたちに語りかけました。その通りだったからです。

野田燎さんの「音楽療法」を受けているこどもたちも、最前列全身リズムを取って音楽を生きていました。その様子の一部がテレビ・ドキュメンタリーとして放映されたことを付記しておきます。

 

 

 

村松健 '95クリスマス・コンサート   1995.12.17

 

《白い日曜日の終わりに》

   

村松健 ピアノコンサート《ひかりの春》

 

主催・制作/村松健プロデュース・オフィス フルシェット

 

 

村松健さんは、ハンブルク・スタインウェイと、音響と、場内の雰囲気を気に入って下さり、クリスマスについで春にもソロ・ピアノのコンサートを開いて下さいました。クラシックでもなくジャズでもなく「村松健」という音楽世界には、若者のしなやかな感性が息づき、いっさいの「音の暴力」がありません。やさしすぎるくらい、やさしい。だから、若い傷ついた心、疲れた心が、村松健さんのピアノの音色に安らぐのです。これらのコンサートの底に、つねに流れていたものは「祈り」です。フルシェットの柳沢まどかさんともども、「復興支援」感謝申し上げます。

 

 

 

ハラウィ《愛と死の歌》   1996.1.15

 

奈良ゆみ(ソプラノ)  

久保洋子(ピアノ) 

 

O.メシアン:ハラウィ

 

企画/奈良ゆみ・久保洋子現代音楽研究所

 

 

奈良ゆみさんは、震災直後、パリから私の安否を気遣うファックスを送って下さったソプラノ歌手です。なにしろ生きているのか死んでいるのかわからない。あのころは電話が駄目で国内の知人・友人は連絡がとれませんでしたが、海外からのファックスだけは健康な回線を維持していたようです。家の電話よりも公衆電話。さらには有線電話よりも無線電話のほうが通じやすかったことも、記しておきます。「災害サバイバル」のノウハウだけは、被災地の人間はよく知っています。

メシアンの「ハラウィ」一曲だけのプログラム。かつてメシアンの薫陶を受けた二人の日本人音楽家が、たくさんの人が亡くなった震災被災地で「愛と死の歌」の音楽会をやることの意味について、司会役の私は曲の前と後にしゃべりました。どうも震災後の音楽会では、しゃべることが多くなり、最近では「やみつき」になりました。「復興支援」感謝申し上げます。

 

 

 

田中園子故郷被災地を見舞う   1996.4.6

 

― 喜寿を迎えるピアニストの帰郷コンサート ―

 

田中園子(ピアノ)  

林俊昭(チェロ)

 

バッハ:イタリア協奏曲

モーツァルト:キラキラ星変奏曲 ソナタ ハ長調 K.232

ショパン:即興曲 no.1 作品29

:ポロネーズ no.1 作品26-1

:ワルツ 作品42

グリランカ=バラギレフ:ひばり

シューマン:民謡風の5つの小曲 作品102より 1,2,4,5

ポッパー:いつかの美しい日のように

:ガボット

 

 

このころになるとサロンの名は新聞紙面では「文化面」からは遠ざかり、「大震災『声明』」の会」事務局として、「社会面」や「コラム」に載る機会が多くなってきていました。そこで久々にこの音楽会は「文化面でのサロン」が、まだ「やっている」ことをお知らせする機会にもなりました。

田中園子さんは日本のピアノ界の大先輩であるのみならず、私事にわたって恐縮ですが、私の通っていた高校の大先輩です。震災直後から、暖かい励ましのお便りなどを頂き、サロンで音楽会を開きたい、というお申し出がありました。チェロの共演で花を添えて頂いたのが「デュオ・ハヤシ」の林俊昭さん。演奏評は東京在住の音楽学者・山本尚志さんが「ショパン」誌に寄稿されたものをお読み下さい。また「音楽現代」誌の大坪盛編集長も囲み記事を出して下さいました。関係各位に感謝申し上げます。

 

 

 

若い人たちの音楽会

 

音楽家には、実力・人気を兼ね備えた人、実力はあるけれども真価が認められない人、人気を取るのはうまいけれども実力が伴わない人、いろいろあって、なかなか厳しい世界です。上昇志向というものがあるだろうと察しますが、大切なことは「世間でのロールスロイス」もさることながら、あなたの「音楽の精神」がバッハやモーツァルトの前に立ったときに恥ずかしくないか、と絶えず自分に刃を向ける向上心にちがいありません。人間はいずれ死ぬ。しかしあなたは不死の「精神の価値」を表現するに値する音楽家であるか、ないか。じつは若いときにこそ、そうした遠くのことをみつめていてほしいのです。みつめた点に揺らぎがなければ、あとは人生の色々なことなどは、なんとかなっていきます。

寺本郁子さんは、貴志康一の歌曲を「ライフワーク」として追求していくことを宣言されました。演奏会では、ますます声が伸びてきて「私のお父さま」などは、今まででいちばん自然に歌ごころが表現されていたように感じました。

龍野順義さんにお世話になったトリオでは、プラームスの若書き(晩年自ら改訂しています)の美しさに打たれました。そういえば作品18の「弦楽六重奏曲」など、むせかえるような憧れの音楽として、私は高校生のころから好きでした。

野田燎さんにお世話になった、学生たちのコンサートは美術作品の展示あり、詩の朗読や、ロック・バンド、ポップスも交えた、にぎやかなものでした。表現意欲と、表現効果を測れるほどの表現技術と、衝動的でない持続する表現への意志について、どの分野の人も「場数」を踏むことで、次第に明らかになっていくでしょう。才能は世間よりも厳しいもの。自分を信じて、可能性にも不可能性にも挑んでいくのが「若さ」の特権です。

 

 

 

盲導犬とともに音楽を愛でる会シリーズ No.1   1996.3.2

 

ピアノソロ & ソプラノのひととき

 

ケネス・スミス(ピアノ)  

寺本郁子(ソプラノ)

中村八千代(プロデュース)

 

ベートーヴェン:ソナタ 嬰ハ短調 Op.27

モーツァルト:きらきら星 変奏曲 K.V.256

ドビュッシー:ベルガマスク組曲より ”月の光”

フロトウ:歌劇「マルタ」より ”最後の薔薇”

プッチーニ:歌劇「ジャンニ・スキッキ」より ”私のお父様”

ショパン:ノクターン 変ニ長調 Op.27 No.2

:ワルツ 嬰ハ短調 Op.64 No.2

:ノクターン 変ホ長調 Op.9 No.2

:舟歌 嬰長調 op.60

 

主催/アルカディア協会

共催/安井眼科、大阪ガス”小さな灯運動”、服部メガネ店

後援/社会福祉法人日本ライトハウス

 

 

 

 

SIRIUS TRIO スプリング・コンサート   1996.3.29

 

物集女純子(ヴァイオリン)  

渡辺玄一(チェロ)

米川幸余(ピアノ)

 

モーツァルト:ピアノ三重奏曲 第6番 ト長調 K.564

ブラームス:ピアノ三重奏曲 第1番 ロ長調 op.8

ドヴォルザーク:ピアノ三重奏曲 第3短調 Op.65

 

企画/龍野順義

 

 

 

 

12   1996.4.29 

 

日下玲奈、能邨英、浜野恭子、渡遷圭紹、近都貴志 

和田麻美子、藤井寿、大西三恵子、鶴田徳子 

花岡朋、高田智、高木健太郎、古西真由美

 

主催/大阪芸術大学芸術計両学科有志

 

 

 

 

エリザベート・ガンター & 金子素子   1996.4.16

 

春のジョイントリサイタル

 

エリザベート・ガンター(クラリネット)  

金子素子(ソプラノ)

金子裕佳里(ピアノ)  

高橋節子(ピアノ)

 

山田耕筰:鐘が鳴ります、母のこえ、この道

中田喜直:さくら横ちょう、木?

A.ドヴォルザーク:ソナチネ ト長調

C.ドビュッシー:クラリネットとピアノのための第一狂詩曲

F.シューベルト:岩の上の羊飼い

 

主催/M&Y

企画/リスト協会スイス・日本

 

 

これは金子さん親子にとって非常に思い出深いコンサートになったことと思います。ちらしやプログラムなど、私も一緒になって作らせて頂きましたから、いつまでも懐かしく思うことになると感じています。ガンターさんは、リヒャルト・フランクさんのご紹介で、以前サロンで音楽会を開いたことがあります。これも元はといえば、フランクさんが仕掛けて、金子さん親子が乗った、という形。やはりひどい被災にあわれましたが、立ち上がろうとするソプラノ歌手の気概に打たれました。亡き師、柴田睦陸先生を夢枕にまで立たせるほどの歌への情熱。ドイツ語の発音の確かさと、揺れない音程の確実さ、表情をつけすぎず、まっすぐに伸びる歌声は清潔をきわめたものでした。シューベルトの「岩の上の羊飼い」は屈指の傑作ですが、クラリネットにガンターさんを得て、この日の演奏には満足いたしました。

 

 

 

シンポジウム「芦屋の文化一歴史/生活/芸術」   1996.4.28

 

1回風景が語る芦屋の歴史

 

シンポジスト/川端直志(都市計画家)  

小野高裕(郷土史研究家)

山本徹男(映像作家)

 

主催/芦屋市文化復興会議

後援/芦屋市・芦屋市教育委員会

 

 

芦屋の浜で生まれ育った小野高裕さんの本業は歯科医ですが、震災後は見慣れた洋館が全半壊し、その多くが庇護なく「取り壊し」の憂き目にあうのがしのびなく、「芦屋の文化とはなんだろう」と考える会がはじまりました。芦屋人の芦屋人による芦屋人のための、いわば「アイデンティティー確認講座」ですが、望外のお客さまの数が集まりました。めざすところは、しかし、「ローカル」を極めつくして、広く「都市とは何か」を探る普遍的な視座の獲得です。旗揚げのこの回には、東京を拠点に世界で活躍する芦屋生まれの都市計画家・川端直志さんを特にお迎えしました。

 

 

 

 

 

<特別寄稿>  「キムさんのこと」

 

毎日新聞記者・西村浩一

 

「サハリンのキムです。今、東京に来ています。会えませんでしょうか」。

3月半ばの土曜日、午後4時もまわったころ、突然そんな電話をもらった。昨年5月末、サハリン北部地震が発生した直後、私はロシア語もサハリンのことも何も知らないまま現地へ飛んだ。そこで幸運にも出会ったのが、日本語に堪能なキム・ジェンスさんだった。

 

キムさんは日本人の母と、韓国人の父の間に埼玉県で生まれ、6歳の時、一家でサハリンヘ渡ったという。終戦後は長く韓国語新聞の記者を務め、現在も韓国語ラジオ放送の記者だ。サハリンの州都ユジノサハリンスクのアパートで奥さん、長男夫婦とともに暮らし既に3人の孫がいる。

出会った次の日、キムさんは自宅へ夕食に招いてくれた。まず、ウォッカ。サハリンの川で取れる、アユの親類の魚、キュウリウオのフライがアテだった。「まあ、いきましょう」というキムさんの声に合わせ、100mlくらいのグラスに入ったウォッカをぐっと、一気に流し込む。食前に2杯、食べ始めてからも、しっかりと覚えているだけで、2杯は呑んだ。ふらふらになり、息子さんに送られてホテルに着くと、そのままベッドに倒れこんだものだ。

震災の現場、ネフチェゴルスクはユジノサハリンスクから北に700kmも離れた人口約3千人の街だった。サハリン島最北の街、オハまで飛行機で行き、約120‰を自動車で後戻りした。行けども行けども砂地の土地。マツの一種と思える潅木がわずかにはえているだけだった。ネフチェゴルスクの街は、瓦礎と、液状化であぶれだした泥とで見る影もなくなっていた。

近くにホテルが見つからず、キムさんと私は小学校の教室に寝袋で寝泊まりする毎日だった。6月初めとはいえ、日中の最高気温が5度程度。 60歳を越えるキムさんには厳しかったに違いない。教室に雑魚寝し、わずかなお金を払って、パサパサのパンを水のようなボルシチで流し込んだ。キムさんも私も閉口したのは便所で、どういうわけかそこでは大便を流さない。すればするほど、積もっていくのだった。つまり、同じ釜の飯を食い、糞さえ重ね合せたのだった。

街の中に立っていたレーニンの銅像には、粉塵防止用のマスクがかけられていた。「ペレストロイカ以前なら死刑ですよ」と、苦笑した。ペレストイカ前、キムさんは共産党員だったと言う。「そうしなければ食べて行けなかった」。共産党批判も出来るようになった世の中を本当に喜んでいた。

しかしすべてがよくなったと思っているわけではない。州立病院の看護婦の月給はわずか1,200円。それくらいなら、街の市場で野菜や果物を売れば1日で稼ぎ出せるという。公務員の給料がインフレについて行けず、労働と報酬の歯車がうまく噛み合わない。「ゴルバチョフは大した人でした。でも、経済までいっぺんに開放したのは間違いでした。見てくださいロシアの経済はもう、めちゃくちゃです」。街ではアダルトビデオが出回り始め、公園などには叩き割られたガラス瓶の破片が散乱していた。「今の若者はこんなことをするですよ。本当にロシアはどうなるだか……」と、心を痛めていた。

 

◇ ◇ ◇

 

電話をもらった私は矢も盾もたまらず、翌早朝、新大阪から新幹線に飛び乗った。宿舎に着いたのは正午。「やあ、お久しぶりです」。キムさんは笑顔で迎えてくれた。薄いカッターの上にネクタイを締めて、東京のその日の陽気が信じられないという風だった。サハリンでは、暖かな日の最高気温がマイナス15度だという。

新宿へ出て、和風の昼食を取ることになった。いやその前にキムさん持参のウォッカで再会を祝して乾杯。

「その後もロシアの経済は悪くなるばかりです。『給料を払おう』などというのが選挙の公約になっているくらいなんですよ。5ケ月も給料を払わないなんてことがいっぱいあります。税務署に務めている知り合いでさえ、給料を払ってもらえないとこぼしているくらいです。本当にどうなるのだか…」

4時間ほどいっしょに過ごし、別れ際、キムさんは「またサハリンに来てください」と誘ってくれた。しかし、私には今のところ行く予定がない。そんな私の胸のうちを察して、キムさんはこう言ってくれた。

「ロシアにはこんなことわざがあります。山と山は会うことがないけれど、人と人はいつか会うことが出来ます。また、会いましょう」

その言葉の響きの中に、サハリンの荒涼とした風景、そこで肩を寄せ合いながら生きる人たちの素朴で温かな笑顔が再び思い出された。「人と人はいつか会える」。それは彼らの「希望」たった。別れ際の握手。そのぬくもりは今も私の心に残っている。

 

 

 

 

 

カイワレを食べること ……編集後記にかえて

 

病原性大腸菌O-157の蔓延した原因として、厚生省が羽曳野のカイワレ農園があやしい、と発表してから、世の中ではカイワレが消えてしまいました。年来のカイワレ・ファンとしては、当の農園への複数回の大阪府による立入検査では、肝心の菌が検出されなかったのだから、全国のカイワレ業者の方には同情を禁じ得ません。韓国でも近頃O-157が発見され、焼肉の本場の国民いわく「日本はこのごろおかしい。不穏だね」と。

もともとおかしかったのが、阪神・淡路大震災、サリンとオウム、薬害エイズ問題を経て、このO-157騒ぎです。国民もいい加減いらいらしていますから、国情をざわつかせている「犯人」捜しに急です。本質的には「国民を幸福にしない日本というシステム」そのものが「真犯人」なのですが、だれもが「手近な悪者」を「鵜の目、鷹の目」で捜している。

システムが完全に国民を支配していて、民心は大きく歪められ、変にデリケートに傷つきやすくなっています。その傾向をひとことでいえば「いじめられる側でなく、一歩でも近くいじめる側に身を置いていたい」。これは、大規模なヒステリーです。このヒステリーが、かつて「国家的規模」で演出されたのが「ナチス・ドイツ」

です。「われわれ自身の中のヒトラー」と、ときどきは対話してみることも必要ですね。

 

今回の会報には、お申し出があったので、西村浩一さんの寄稿文を入れました。非売品だし、個人誌のようなものだし、稿料などお出しできるわけがないので、今まではどなたにもお願いすることもなく続けてきました。しかし、会報もまたサロンなので、投稿があれば随時載せていくことにしました。年二回発行のスローペースに加え、初版五百、増刷五百ほどの部数ですが、それでもよろしければ、ぜひ原稿をお寄せ下さい。

 

カイワレを食べます。木綿豆腐に添えて、生姜と醤油。私は、いじめる側には立ちたくありません。

(山村雅治 Aug.17 1996 

                            

 

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1996 8 18日 発行

著 者 山村 雅治

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