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<< 1995.7.13 1995 Vol.14 Vol.15 >> |
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あたらしい年に 1 賀詞言上は本年も謹んで控えさせていただきます。 震災のお見舞いをあらためて申し上げます。また、被災して亡くなられた六千をこえる方がたの一周忌に、謹んで哀悼の意を捧げたいと思います。 この形の「会報」も一年ぶりで、震災直後から再開のお知らせまでは三冊の「会報号外」をもって、お便りとさせていただいておりました。これだけの規模の災害ははじめての体験でしたが、やれやれ大変なことでございました。まだしばらく大変が続きそうですね。 いろいろな機会に震災をめぐる思いを害いてきました。あまりに表現したいことが多すぎて、書きたりない気がしています。怒りがあり、嘆きがあり、ケセラセラもあって。なかなか気持ちの整理がつきかねています。だから、コンサートを開けば、そのプログラムにも、また書いています。「ガンジス河の真砂より」震災で流された涙の粒はあまた流され、「浜の真砂は尽きるとも」世につぶやきの種は尽きまじ、と思います。 2 震災を通じて私たちが学んだことは、まず、いま私たちは物質文明が先折れた先端の時代に立たされた、という歴史認識だと思います。「未曾有の事態」に立ち入って、災害救助のための、そして被災地復興のためのシステムや法を真剣に作りかえるべきなのですが、われわれが期待するほどには施策は大して大胆なものが出されない。旧秩序すなわち「官僚支配の会社社会」を維持することにのみ汲々としていて、復興もどこまでも市民主体でなく「官主体」でやろうとしています。しかし、そうしたこれまでのこの国のありかたが根底からくつがえらなければ、本当に市民に主権があるという実感が持てる時代を拓くことはできません。 たとえばエイズ薬害訴訟にみられた厚生省の態度に、この国では官の責任回避が至上のものとされてきたことがわかります。阪神大震災では、厚生省のみならず、あらゆる役所が無責任であることが明らかになりました。すべてが横並びになり、個人が責任を負うことがない、という機構は、市民に対して無責任です。だから不勉強な各省大臣も、そして「置物」と化した総理大臣さえもが、お気楽に渡世ができる仕組みです。このような国家機構を改めることは、官僚や政治家の利権・特権を死守していくことよりも、大切なこととお思いになりませんか。 ものすごく大ざっぱないいかたをすれば、過去二千年の文明の単位が終わったことを、阪神大震災はきわめて地域的、象徴的な形で示しています。ことは個人のもやもやをこえて、文明の問題です。こどもたちの笑顔は、みんなが好きなもの。21世紀のこどもたちが明るく笑っていられるかどうか。大人たちは「かしこい大人」のふりをせずに、いまこそあらゆる手段を通じて発言すべきと考えています。それは井戸端会議でもいいし、飲み屋談義でもかまわない。瓦榛、更地の路地裏に通る風が、いつか力を貯え、世の中の気風を一新してしまう力になる。それは、あり得ることです。 3 むかし、ぼやき漫才という、漫才のひとつの分野があり、とくに私は「人生幸朗・生恵幸子」のご両人が好きでした。寄席はあの人たちが活躍していたころが、いちばんなつかしく感じています。捨丸・春代、ダイマル・ラケット、いとし・こいし、お浜・小浜など、すっとぼけたボケの味わいと、たたみかける矢のような突っ込みを見せる名コンビでした。小円・栄子、ワカサ・ひろし、洋介・喜多代など夫婦漫才の味は、いまでは大助・花子に受け継がれています。そこでは喧嘩さえおもしろかったし、怒りさえ腹を抱えて笑わせるネタに仕上げてしまう芸がありました。世の中にゆとりもあったのだと思います。 あのころは、いまよりもはるかに「放送禁止用語」が少なかった。人の心を傷つけて喜ぶ心根は芸人の芸にはなく、聞くほうだってみんなが安月給であり、家には年寄りや病人や、出来の悪いこどもや、酒飲みの亭主とヒステリー持ちのおばはんがいた。時代は進み、経済的に豊かになりはしたものの、人心はすさみました。八十年代のビートたけしの笑いや、現代の松本人志のギャグは、たしかに「時代の笑い」です。そうとしか評価のしようがない。 それにしても、つまらん時代!……です。 日本国憲法第二十一条のことを書いておきます。この条文にかぎらず、美しいことばがあちこちに並んでいて、しかも内実は空洞化、もしくは無意味化してしまっているのがこの憲法のかわいそうな現状です。
表現の自由が、まずスポンサー筋からの圧力により、ねじ曲げられることがあるのは放送界の常識です。お金と圧力が、ようするに表現と言論の自由を支配していて、お金と暴力は「権力」機構の根幹をなすものですが、その「権力」の機嫌を損ねない範囲においてのみ「表現の自由」が許されているのだとすれば、それは奴隷の自由です。あるいはこうもいえる。 この国では、権力の言論・表現の自由が保障されている。 中学生のころ、あの年頃の男の子はみんな春本が好きで、私も「ファニー・ヒル」(ジョン・クレランド著/吉田健一訳)などの翻訳本を楽しみました。ところが間もなく、新聞でこの本が「発売禁止」処分になったことを知り、驚きました。気持ちのいいことを気持ちよく記している本で、訳された日本語も品格さえ備わったものでした。 五十年代の「チャタレイ夫人の恋人」(伊藤整訳)にはじまり、マルキ・ド・サドの作品(澁澤龍彦訳)や、「四畳半襖の下張り」など、わいせつ系の文学作品が六十年代にはよく槍玉に上がりました。たかがことばの世界に、当局は何を「びびって」おったのか。 七十年頃には「反戦フォーク」が「放送禁止」処分をくらい、その後しばらくは小さないざこざはあったものの、「サド裁判」のような、文化人が何人も動員されて、という規模の「表現の自由」をめぐる攻防は影を潜めました。 九十年代は、いよいよ「差別語論争」の時代です。最新の「漱石全集」にも、差別的な表現がありますが、と恐縮しながら文豪(私は「猫」の日常的、サザエさん的なユーモアと、「倫敦塔」の妄想の世界がおもしろいと思うだけですが)の遺した文字を印刷しています。手塚治虫の作品集も同様。テレビのコマーシャルも誰かひとりの電話による抗議があれば、神経質に取り下げてしまう。「いうたらあかん」ことばに怯えている風潮は、本当はどこか変です。原則的な思想がないものだから、いつのまにか原則がなくなり、無制限に「禁止表現/用語」が増殖してまいりました。 基本的に差別は、差別する当人が「自分はえらい」と錯覚したときに始まる。あるいは小さな存在であるにすぎない自分は「それでもあいつらよりはえらい」と思いたがる、ある種の「心の切なさ」から始まります。かわいそうな人が、もっとかわいそうに見える人を、さげすみ名指すことが差別です。どちらがより本質的に哀れな人であるかは「差別する人」に決まっています。社会全体が「差別する側」に立ちたい、病んだ心に覆われているから、大人の世界も子供の世界も、手を変え品を変えた「いじめ」がなくなりません。用語を禁止することでは、差別は永遠になくなりません。 4 いまさら申し上げるまでもなく、私は「披災民は差別されている」という事実に怒りを覚えているほどの、差別反対論者です。人が人を踏みつけている社会構造が歪んでいる。家が全壊した女の子が就職のための面接で「全壊」ゆえに落とされている、という新聞報道には、からだが震えるほどの憤りを覚えました。「全壊」は差別用語ではありません。しかし、そうだから、とばかりに個人の進路を制限したり、希望や権利をねじ曲げたりすることは許せることではない。他国人であるとか、からだや精神に障害があるとか、人間の全体の中のわずかひとつの要素を理由に、この国に暮らす人間の「基本的人権」が侵犯されてはならないのです。 私のサロンでは、いまどきはやらなくても憲法第二十一条の「精神」を守っていくつもりです。本当は、差別の問題は、差別語の問題よりもはるかにたちがわるい。特定のことばをリストにのせ「差別語」として限定して、そのかぎりにおいて表現語彙を「外側」から規制すること自体、不健康です。差別問題は本来もっと内的な人間の「品格」の問題なのです。 また、一般に芸術の表現についても、どこからも反感を買わない「無難」な表現など、屁のつっぱりにもならない。そこで、強い力をもつ権力集団が、弱い個人の表現に圧力をかけることは「言論の自由」ではなく、言論の抑圧です。「言論の自由」は踏みにじられる少数者が、人間らしい暮らしを勝ち取るために行使されるべき自由を指します。 さらに、本当に私たちが恐れなければならないのは、もっと別のことです。隣人を愛し、ことばときちんとつきあっているかぎりは、疎外とか圧力とか偏見などを怖れる必要はありません。一色に自らを染め上げていこうとする精神の無力化がこわい。 現代人の精神がくらげのように骨がないのは、こどものころからの教育の場での、たえず一色に染まっていろ、という思い込ませと思い込みに、ひとつ起因しています。 エリートたちがなぜオウムなどに、という疑問は馬鹿らしい。表のエリートたちが日本国家の官僚であり、彼らは裏のエリートたちだった、ということです。震災を通じて、私たちは官僚の非人間性に傷つけられました。その非人間性は正しくオウムの幹部たちが備えていたものです。アカデミズムについて震災に関していうならば、「地震」「土木」「建築」各学会には素人しかいなかった。素人が「山、海へ行く」という号令に踊らされ、やわな埋立地、やわな高速道路、やわな交通機関を設計し、行政は私たちの税金を使って作っていた。 「宗教」の学会も何人かはお粗末としかいいようがありませんでした。学会内での肩書を求めたり、ライバルを蹴落としたり、誰がえらい俺がえらいと走り回っているうちに、真理や歴史の事実への謙虚さを失い、本物の学問が育たなくなってきたのです。 サリンを生成させることは、化学者としての技術の実力を誇示できるものかも知れませんが、そんなものが人類の恒久的な平和に寄与するものでしょうか。歩く道がまちがっている。でなければ、彼を歩かせた学問が歪んだ道を示していた。そして「法学」「医学」のエリートたちこそが、日本でいまいちばん「頭すっからかん」の人たちではないでしょうか。受験でできた頭の中には「人間」のことがすっぽりと抜けている。競争だけがあり、精神がない。 5 なにせあの地震にあい、生き残ってしまったのですから、いいたいことが、あとからあとから噴き上がってまいります。「ふつうのこと」をいいたいだけです。いっとかないと、いつまた、どんな天災・人災に見舞われるかわかりません。 前厄は歯が痛くなった程度で過ごしましたが、本厄で母をなくし、後厄で震災にあって、この上なく華々しく私の「厄年」シリーズは終わりました。「ふう、やれやれ」と早く一息つきたいものですが、それができそうな人生のすべての終わりまでには、まだ間があるように思います。次の世紀を迎えるまでの数年間、信じられないことが「阪神」に起きたのだから、どこでなにが起きるか知れたものではありません。私は芦屋にいます。死んだ街の瓦樫の下の、埋もれたままの誰かの声。倒れた塀の重さになぎたおされた木の根っ子。起きろ、目を覚ませ、と名を呼び交わしあった、あの時刻、1995年1月17日午前5時46分から、私たちのあたらしい時代が切り裂かれました。その先を見るためにその先を創造するために。 ………あれから、やがて一年。 皆様にとって、今年こそはよい一年でありますように。 (山村雅治 Jan.1 1996)
過去をめぐる日韓両国の政府間は「ぎくしゃく」が絶えません。日本の政治家の失言、辞職、遺憾の意が最近の数年間でも何度くりかえされてきたことでしょう。あるいは意図的に「失言」をくりだしているのか。「みっともないから謝るな」というのは、かつて強かった国の、いまは落ちぶれているからの強がりにすぎません。現実に欧米の経済的なアジアの基地は韓国や台湾、フィリピン、シンガポールなどに移行しつつあり、人件費や税などのコストが高い日本では、上がる収益も上がりません。市民の生活水準も、はたして日本人が豊かであると本当にいえるのか。日本人は「市民が幸せにならない」社会のシステムに喘いでいて、心がすさみきっています。だから、隣人のことが分からない。人の痛みに、想像力さえ及ばないのです。 韓国の文化人は、深く社会に関わり、歴史に関わり、したたかです。ことばの根が深い。そして民俗芸能を取り入れた姜恵淑(カン・ヘスク)さんの舞踊こそ、最高の芸術でした。打ち込む力のすさまじさ。場内を圧するばかりの緊張感は、この上なく清潔であり高貴であり「汚されても汚れない」強靭な人間の魂そのものでした。ものすごいやさしさが見た後、心に残ります。また、少し若い世代の映画監督、李長編さんのユーモアのセンスも爆笑もの。作品の部分を鑑賞させていただきましたが、切れ味は部分で充分味わうことができました。 小田実さん、玄順恵さん御夫妻は、日韓両国の市民にとって力強い活動を続けておられます。政府に心と思想の芯がないからこそ、市民どうしの篤い交流こそが大切だと思います。
「10年に一度、ゴルトベルク変奏曲を弾く」と決意された藤原晴美さんのリサイタル。いっぱいに振り絞られた弓から放たれた矢は、今回ピアノとチェンバロを弾きわけるという二本の美しい軌跡となって結実しました。どう鍵盤楽器を弾くか、の研究と教育の実践を重ねてこられた藤原晴美さんの演奏のすごさは、最もしなやかな体の動きから最も自然な響きを楽器に歌わせ、しかも音楽には「個性の刻印」以外のなにものでもない独創が輝いていること。たったひとりで歩いてきた人、として藤原晴美さんの芸術家としての人格は磨ぎ澄まされています。ひとつの名曲がひとりの鍵盤奏者の人生を支え、磨き、今日と明日また一日、死なないで生きていようと決めさせてきた。そのような一曲を持つ鍵盤奏者は強い。 既存のピアノ教育がわるいと決めつけることはできませんが、多くのレパートリーを「きっちりと間違えないようにだけ弾かなければ」と思い込みがちな若いピアニストにこそ聴いてほしかった。「あなたのピアノに喜びがありますか」と藤原さんは舞台から問いかけています。わるい意味での「学校ピアノ」の完全な対極に「啓心館のピアノ」は力をみなぎらせています。
ピエール・ピエルロさんは著名なフランスのオーボエ奏者で、こどもの頃から名前を知っていました。もうさすがに堂々たる貫禄で、舞台に出てきて演奏が始まるまでにゆったりとした間があるほどでしたが、いざ楽器を吹き始めると、なんと巧いこと。ほかの四人もいずれも名人揃いであり、古典は古典、現代は現代として練れた管楽の合奏を楽しませて頂きました。出る、支えに回る、という変幻自在さがアンサンブルの面白さです。中でもプーランク。これがパリの音彩。 ブタールさんと久保洋子さんの演奏による近藤圭作品《TA-KE》は、移り変わる瞬間の連続にすべてをかけた作品。西洋音楽にはない、凝縮と間が音の空間を生み出していく構造原理は、日本の伝統的な美意識そのものと思いました。久保洋子作品は委嘱作。もともと閃きを持つ人ですが、新作「六重奏曲」は果敢に「構築」に挑んだ力作になりました。発生した音の自由な旅、復調の多声部合奏がきりひらく響きと色の発見、ちがった時間柱を進行させる真剣な遊び。現代音楽の語法が駆使されたこの曲でも、ヴェテランたちの音の艶が失われなかったのは驚異でした。客席には来日中のピアニスト、クロード・エルフェさんもいました。ブーレーズのソナタ第1番、3番の初演者です。
バッハよりももっと古い時代の音楽は、ときどき耳にしています。宗教音楽も世俗音楽も、音楽の語法が古くさいからといって敬遠するのは惜しいと思います。とくに松井智恵さんのような、まっすぐに伸びる声で歌われる歌は気持ちがよく、喜びも愁いも、はるか青空の彼方へ溶け込んでいくごとくです。古楽器の音色のおもしろさは大ホールでは味わいにくいもの。弦も笛も太鼓も、巧い演奏者を得れば息を吹きかえし、時空を飛び越えて「中世ルネサンス」の楽人たちの息吹を伝えます。
おもに東京を中心に活躍されている村松健さんのコンサートを、どこか阪神間でやりたい、というお話でサロンで行なわれることになりました。ピアノの音色、響きを大切にされるピアニストに、このホールとピアノを気に入って頂いて嬉しく思いました。 語りを入れて自作を弾かれるコンサート。クラシックでもジャズでもない「村松健の世界」は、心やさしい若者の孤独なつまびきに始まって、地道な活動を通じてファンを獲得されてきたようです。歌詞をメッセージとして伝えるロック・アーティストとは違い、村松さんはピアノ演奏だけで若者の心をつかむ。たくさんの疲れた心が村松さんのピアノの響きに癒されているのです。お人柄も、とてもピュアな好青年。
年末とお正月に、奇しくも芦屋にかつて住んでいた早熟の音楽家、貴志康一作品を集めた音楽会が聞かれました。 12月のはサロン主催の公開コンサート、1月のは私的なお集まりでしたが、いずれにも貴志康一さん(1909-1937)の妹さんたちがお見えになり、貴重な思い出話などを聞かせて頂きました。とくに12月には進行長をつとめさせて頂き、そのために貴志康一さんのことをいろいろと調べることができたので、いい機会になりました。芦屋に関わりのある芸術家のことは、知っておきたいと思います。 伊藤博文がハルビンで暗殺された年に生まれ、日本軍が南京を占領し、日独伊防共協定が成立した年に貴志康一さんは28歳の若い命を閉じました。どんな時代にも芸術家は生まれて、表現を残します。あまりにも短かった才能のはばたきの時間に、彼は父祖につながる日本俗謡の響きや、作曲の師ヒンデミットから学んだ西洋近代の響きを楽譜に記しています。あふれるような意欲で、何でも貪欲に吸収していた若い日本の音楽家!諸井三郎より6歳若く、高田三郎よりは4歳上、という年齢的なポジション(山田耕筰よりは23歳も若い)ですが、和楽器を駆使したオペラでも書いていたらどんなに面白い作品ができたことか、と無い物ねだり。 当日の演奏は、とくに小栗まち絵さんのヴァイオリンをはじめとして、CDよりははるかに生きた音楽を楽しませて頂きました。
ぴあのふぉるての石本律子さんが主催されたこのコンサート。アーサー・グリーンさんは'55年生まれのアメリカのピアニストで、エール大学で学士、ジュリアード音楽院で修士、ニューヨーク州立大学院で博士課程を卒業され、ジーナ・バッカウアー国際コンクールなど多数のコンクールで優勝・入賞されています。テクニック、音色、情熱が一体となったリストに彼の適性が発揮されていたように思います。 志鳥栄八郎さんをサロンにお迎えできたことは幸せでした。「レコード芸術」の月評家として「単行本」の執筆者として、そしてこの日のようにコンサートの解説者として、スモン病禍をのりこえられて、クラシック音楽の啓蒙活動に今なお艇身されていることに敬意を表したいと思います。 阪神大震災 1995.1.17 5:46 AM 翌15日、サロンは休み。 16日、翌日の催しの準備のために出勤。タ食後、なぜか体がだるくて、早めに就寝。毎晩書き付けているノートには、わずか2行のみ。「サロン、催事なし。書くべきことなし」と。 17日早暁、不思議な気配に目が覚めた。と、いきなり縦揺れ。地震だ、と分かり、増してくる揺れの激しさに蒲団をかぶるのみ。長かった。収まってから家族のとりあえずの無事をたしかめ、あたりを見て呆然とした。ラポルテが気になった。車をやめて歩いて出勤。自宅では電気、ガス、水道、電話、すべて止まった。 誰も来ない。いつもなら来ているはずのスタッフも、催事のお世話役の方も。間の抜けた「ラポルテはただいまから開店致します」のアナウンスが空しく聞こえたころ、大きく目を見開いた料理長、嘉手苅さんにやっと会えた。「今日の会、ないですかね」と確かめたら、さらに大きく目をあけて「ないです!」……… その日からラポルテ本館の商業ビルの機能は停止し、サロンの予定催事はすべて流れ、私はなす術もなく失業者となった。いつまた再開できるか、目途の立たない空白の日々。
このころ、商売ができない事態に焦りが出てきたラポルテの物販の業者たちが、駅ビルと本館を渡す陸橋の上で露店を並べていた。おじさんたち、おばさんたちと話をしていると時間を忘れる。辛さと嘆きと、はねかえしていくヴァイタリティと。テレビや新聞ではよく分からなかった従業員の「失業保険」について情報を得たのもそこ。タクシー広場の一角で配給された「ぜんざい」に温まったのもそこ。自営業の経営者は「失業保険」の対象外にあり、「店舗」の全半壊には「住宅」のそれに与えられた「義援金」も配布されなかった。「町の社長さん」つまり、お店屋さんのおじさん、おばさんたちが、このたびの震災においては助けられなかった。金は貸す、という制度はあった。しかし無担保・無保証の枠はあまりに少なすぎ、かといって皆、担保はないし保証してくれる人もないのだから、中には神戸で「生命保険」のお金を返済にあてるよう書き残して自殺した人もいる。文字通り「殺生でっせ」が、会えば交わす合い言葉だった。 そんなころ、里井純子さんに、陸橋を下りているとき、すれちがいざまに声をかけられた。芦屋市内のマンションに住んでおられた音楽家夫妻も全壊被災。「なんにもできないけど、アホみたいやけど、音楽家は音楽やるしかないしね」というお申し出に、私も「アホみたいに」賛同した。自分のことがどうしようもないときに他人さまに贈るお金を集めるコンサートをやる、というのは考えてみれば「アホみたい」なこと。半壊により立入禁止となったビル内でやる、というのもアホの三倍遠だった。被災者の被災者による被災者のためのコンサート。 いわゆるチャリティについて、被災地のなかでもいろいろな意見があることは知っている。それぞれ正しいのだろう。やる人はやる。やらない人はやらない。それでいいのだ。この日のコンサートには予期せぬ大勢の人がつめかけ、自然発生の歌声が広がり、音楽家も観客も涙をながした。 水仙、椿、桃、梅の花が咲きおわり、被災地にも桜が咲いた。堤防が壊れた芦屋川畔の桜。テント村ができていた津知公園の桜。桜の花の満開の下、生き残った人が酒を飲み旨いものを食べた。そのころから夏にかけて、修復費用を借り回るくらいしか仕事はなくなり、「市民救援基金」(代表/小田実氏)の活動に参加した。そのあたりのことは他の所にずいぶん書いた。「市民が市民を助ける」という原理の市民活動。それは、助けられるばかりではなく、という「市民」の立ち上がりのための活動でもあった。
6月末までビルの構造体および廊下・エレベーターなどの共用部分の工事が行なわれていました。7月1日から各店舗は内装工事にかかり、サロンの内部も地元の職人さんの手により、この日までにいちおう仕上がっていました。ビル全体はまだ復旧していなかったので、場内に入る道順に手書きの看板を貼り、ある場所にはぶら下げ、なんとかお客さまに入場して頂いた。「あら、ここはどうにもなってなかったのね」「いえいえ、修理したんです」を、壊れたレコードのように繰り返しか。 客電を落とし、ステージの照明を上げる。演奏者が出てくる、そのときの感じが好きだ。半年ぶりの「これこれ、この感じ」……あとは夢中。 剛のチェロと柔のピアノ。韓国人のチェリスト梁盛苑さんの旋律線の太さ逞しさと、ユダヤ系アメリカ人ピアニスト、ロトさんの器の大きさと柔軟をきわめた音色感。ショスタコーヴィチのこの曲を生演奏で聴くのは初めての機会。とても身近な音楽として聴くことができた。「アサクラビルコンサート企画」のご協力に深謝。 ロトさんは、まだ寒い2月、荒れたままのサロンにジャンパー姿で駆けつけて下さり、小品2曲を弾き、私とスタッフの心を温めて下さった。ニューヨークで報道を聞き、ただちに被災地に来られたとの事。あの日よりも前から、ロトさんは、たしかに自分の利益だけのためにピアノを弾くピアニストではなかったと思う。9歳でモーツァルトのコンチェルトを演奏した神童は、長じてチャールズ・アイヴスの研究家、演奏者にもなり、兄弟のロス・アンジェルス地震被災の体験などを通じて、被災地に「できること」を無心にやりに来た。ロトさんも梁さんも、かつてサロンの舞台に立ったことがある。 「山村サロン復興支援」感謝申し上げます。
7月28日、いよいよラポルテ本館2・3・4階が再開。しかし地上に面した1階がまだ工事中だったので、入り口が分からなくて困った人も。全開でなくて半開。ビル全体は、なお半壊のまま。そんな中、東京から村松健さんがやってきた。
暑い夏をむかえ、久々に空調が効くようになったサロンで、村松健さんのピアノが力強く響きました。村松さんからのお申し出による「復興支援」のための音楽会。善意と情熱と祈りに充ちた演奏に励まされました。関東からの自弁の「演奏会お手伝いボランティア」の皆さん、フルシェットの柳沢さんにも感謝です。 後半は村松さんと私の「対談」、というより一部「漫才」のようになってしまいましたが、さわやかな若者のまっすぐな心にふれて、まじめな話もしてしまいました。終わってから「ちょうど関西には漫才の『トミーズ
雅と健』っていうのがいて」とアナウンスしたら爆笑を誘ってしまって、よかったのか、わるかったのか。 「山村サロン復興支援」感謝申し上げます。
震災前に企画されていた演奏会ですが、さまざまな困難をのりこえて開催にこぎつけました。久保洋子さんは家が全壊。徹夜に近い仕事の直後に被災され、気がつけば重い物にのしかかられていた、との事。常人とちがうのはここからで、「もう体を動かしても動かないから、もういっぺん寝ようと思った」というお話には感心してしまいました。 「オリジン」は震災以来はじめての作品。「芸術の持つ根源的な性格をもう一度探索しつつ」と作曲者のノートに記されています。扱う素材が色彩や造形であれ、音であれ、ことばであれ、被災した芸術家は「芸術」について考えました。「見直し」や「出直し」を、芸術家は絶えずしているものですが(無反省に自己肯定のみ続いている、という人はあまり信用できません)、久保洋子さんは、新作では、虚無から浮かびあがった音への、人間の「呪術」的な感性に耳を澄ませているようです。次に書くべき音は何か。次作の構想も、すでに練られていることと思います。 近藤圭作品は、長唄「綱館の段」の一部を用いて構成されたピアノ曲。日本の伝統芸能の一節をピアノ一台でやってしまう、ということだけでも、いい意味で強引な力業です。それをフランス人のピアニストが弾くのですから、近藤圭さんの年来のテーマ「東洋と西洋」が複雑な味わいを伴って錯綜します。メシアンは若書きのすっきりした作品。夭折のルクーのソナタの若々しさ。グリークは私も好きな作品で、オーリオルさんの持つ透徹した音色と、どこまでも内側で燃える情熱が生かされた演奏でした。
淡斎先生の「茶花を愛でる会」でおなじみの、山城建司さんと山内和子さんの「出会展」。開きはしたものの催事もなく、使って下さる方もない山村サロンを盛り立てようと、兵庫県春日町の陶芸家と豊中市の染色家が開いて下さいました。奇しくも「山」の三並び。やはり手頃な価格の、日常に使うためのものがよく出たようです。 お茶碗も湯飲みも皆割れちゃって、食卓にはせめて藍染めのランチョンマットでも敷きましょう、といった所。「少しのゆとり」を積み重ねて、私たちの暮らしは徐々に元に戻りつつあります。 「山村サロン復興支援」感謝申し上げます。
2月に行なうつもりが震災で流れて、この日になりました。吉岡さんは熱血漢で、震災の報道に接して、ただちにマリンバをかついで被災地へ来よう、とされた打楽器奏者です。大阪以西は一般車は入れない当時の交通事情を説明して、それは断念して頂きましたが、吉岡さんも、音楽家は音楽やるしかないから、と何度もおっしゃって下さったひとりです。ステージはまず熱い炎が「剣の舞」で燃えさかり、日本の童謡でほろりとさせ、自作とチック・コリアで現代を表現し、「熊蜂の飛行」以下の諸曲は惜しみない技巧の展覧会。 「山村サロン復興支援」感謝申し上げます。
野田燎さんも夙川で被災し、一時は大阪へ避難されていました。「病める不死鳥」を受けての新作「フェニックス・エヴォリュ―ション
蘇る都市」の楽譜を書き上げた夜明けに、あの地震。芸術家が時代を語る「語り部」だとしても、野田燎さんはつねに一歩進んで、的確なメッセージを発して来られました。プログラムの前に演奏されたのは、バッハ「G線上のアリア」。鎮魂と祈りの音楽として。近代の2曲ではトマジの美しさとグラズノフの華麗さ。個人的にはショスタコーヴィチの師匠であったグラズノフの「人物」を興味深く思っています。当時のモダニストであり、救い難いアルコール中毒者であり、時代特有の虚無や憂愁を誰よりも胸に秘めていたにちがいないロシアの音楽家。 後半はジャズ・スタンダードナンバー。「音楽療法」のために、機能障害を持つ子供たちの機能を蘇らせてきた、はずむ音楽。大人の心も、この頃にはずいぶん疲れてきていたようです。いわずに内攻して、よけい疲れて。リズムとフレージングが、休を揺らせてくれて、陽性のミュージック・セラピーの快いひとときでもありました。 「山村サロン復興支援」感謝申し上げます。
春から夏の思いもかけぬ「失業」の半年間、この市民活動を通じて学んだものは計り知れないほど大きいものがありました。いちはやく「行政が被災市民にできること」の限界を見切られ、この「基金」を設立された小田実さんは、やはり思想も行動力もずば抜けた人です。文化人と称する偽物がテレビで寝言をたれ流していたとき、ひとり小田実さんだけが顔を真っ赤にして怒り、震災が人災である、と訴えておられました。被災地の多くの人が、小田実さんというひとりの男の「存在」を支えにして、がんばっていた。 「市民が市民を助ける」という原理。世界中から集まってきた「基金」を、私たちはあちこちの人に手渡してきました。この日は「基金」を送った人、送られた人が寄り集まり、受け取られた人たちが次々と「現状」報告を行ないました。「山村サロン」にも「基金」が送られましたが、私は司会で、いろいろと込めたつもりです。 翌24日は「被災地連帯バスツアー」。芦屋の三田谷学園を起点にして、西は長田、東は西宮の朝鮮学校まで。参加者のひとりは「東京で同じようなことが起こっても、東京には小田実さんみたいな人がいないもんな」とこぼしていました。しかし、「あとは君らの問題だ」………
今年は、よく小田実さんと話をしました。渡韓されたり、お仕事のために渡米されたりしましたが、帰国されるたびにいろいろな話を聞かせて頂きました。震災が人災であると怒る人が、同時に「市民が市民を助ける」救援基金を設立される行動の人であり、それよりも何よりも、小田実さんの根っ子は文学者であり芸術家であることを記しておきたいと思います。世界をまるごと書き記す、という大きな文学は、日本では小田実さんしか成しとげつつある人はいないのではないか。「細雪」を評価されている小説家、小田実さん、と書けば意外に思われる人が多いでしょうか。政治家の無能・無気力や官僚の硬直性にあれほどの怒りを見せられるのは、繊細に感じて震える芸術家の魂がそうさせている。 「べ平連」「市民救援基金」などの市民運動の根も、そこにあったからこそ皆がわくわくしながら参加したのです。政治家の政治運動ではない。アジテーターの扇動活動でもなければ、学者の啓蒙活動でもない。あつまる人たちには、いかなる序列もなく、これといって規則もなく、市民が市民の自前のことばで語り合い、では行こう、で出かけていく。最高に民主的な空間をつくりだせる人だから、小説の登場人物もそれぞれの人生を精一杯に生き抜くことができ、小説の空間がどこまでも広がっていくことになります。世の中では「私」のことばかり書いてあり、メッセージとしては「私を愛してよ」しかない作文が「小説」としてまかり通っているようです。センチメンタリズムも、まあ、ときには必要ですが、思い切った虚構の飛躍の中に自分を忍び込ませている作品の方が、読み手も書き手も楽しいようです。ブルーストの『失われた時を求めて』を通読したほどの本好きの人には、小田実さんの『ベトナムから遠く離れて』をお勧めします。時間の重層性のおもしろさが、もうひとつの読みどころです。 震災以来、はじめてのサロンでの文学講座。日韓の作家の自作朗読を柱にして、フィリピンとドイツの作家が飛び入り参加されました。小田実さんは夏にBBC制作のドラマ「HIROSHIMA」のため渡英され、またアメリカで自作「HIROSHIMA」を朗読されてきました。その録音テープも聞かせていただき、なまの声でも聞かせて頂き、玄基栄さんのハングルの響きともども、作家の自作朗読には興味が尽きないものがあります。肉声、として聞こえることばと、目で追う活字のちがいがおもしろい。太宰治の「津軽」など、はにかみがちの津軽弁で残っていたら、あるいは織田作之助の「夫婦善哉」がこてこての大阪弁で残っていたら、と夢想しました。 残る時間をシュナイダーさんの「手品」で楽しませて頂きました。プロ、との事でした。「山村サロン復興支援」感謝申し上げます。
竹屋茂子さんはハンブルク在住のピアニストで、震災の報道が伝わると、ただちに義援金を日本に送るためのコンートを開かれました。ところが現地の日本領事館は「日本は他国からの援助をお断わりする」と、はねつけられたとの事。外国人からだけでなく、在外の日本人からの善意さえ拒んだ「国家官僚」は、もはや人ではないと思いました。そのことについては海外報道が辛辣にことばを連ねています。海外からの救援拒否に怒りを覚えたのは被災他の私たちだけではありません。世界中の「国家」があきれ、善意の「市民」が踏みにじられたのです。 「高慢と排他主義によって支配されている日本の官僚的拒否の姿勢が問題を悪化させ」(ワシントン・ボスト紙)、「それが、被災者たちの生死を左右した」(ウォールストリート・ジャーナル紙)。捜索犬の派遣を足止めされたフランスの報道は「我々の救援隊は日本の官僚主義の壁に遮られ、被災者たちとの連帯が寸断された。瓦倅の下から助けを求めている人がいたのに、官僚たちは貴重な時間を無駄にしてしまった」(リベラシオン紙)。 コンサートはシューベルト三曲のプログラム。シューベルトは生涯にわたって歌曲を書いた作曲家ですが、器楽曲にも独特の魅力があります。はるかなものに憧れる耳が不思議な転調を生みだし、たえず深淵をみつめている眼差しが奥底からの呼びかけを捉える。無器用に見える器楽の作曲家ですが、その実、彼がかかえていた「かなしみの空虚」の大きさは、たとえば「左手の和音の連打」でしか表現できないものだったかも知れません。「きれいな歌は、みんな悲しい」といったシューベルト。「楽興の時」も「さすらい人幻想曲」もよく知られた曲で、竹屋さんはじっくりしたテンポ、大きなフレージングで彫りの深い音楽を弾いて下さいました。「ソナタ
イ短調D845」も、ベートーヴェンのような堅固な構築性を誇るソナタではありませんが、第2楽章のある部分や第3楽章の中間部に、信じられないほど美しい響きがあります。音色を選びぬかれたのでしょう。竹屋茂子さんの演奏も、やはりその部分がいちばん美しい響きとして聞こえました。 「山村サロン復興支援」感謝申し上げます。
秦はるひさんは、芦屋市立山手中学校で私と同窓。文化祭でベートーヴェンの「田園ソナタ」を弾かれた、そのときのピアノの音を、私は今でも覚えています。バッハの「平均律」だけのコンサートについては、去年から企画を進めていました。ところが震災で先が見えなくなり、おじゃん。先が見えてきた初夏に、寄せて下さったご厚情への礼状に「やっぱりBACHやりましょう!」と書き添え、お願いして、あまり例のない演奏会を開いて下さることになりました。無類の勉強家であることに加えて、秦はるひさんはバッハの音楽を愛しておられる。練習曲をこえた多様な音楽の世界が、次々と扉を開かれていくさまは過ぎていく時間を忘れるほどでした。当日は、あの頃の音楽科の先生や、同窓生も集まり、本物の「バッハ愛好者」とともに、集中した時間を過ごすことができました。 「山村サロン復興支援」感謝申し上げます。
鈴江比沙子さんのご紹介で、かのバンベルク交響楽団の主席奏者たちが芦屋にやって来ることになりました。明日、ヴァーグナー・コンサートの本番、という来日直後の休日に、これはまた何と楽しい室内楽のタベになったことでしょう。レバンドフスキーさんをはじめ、おそるべき実力者揃い。ベルリンがよくもわるくも「国際的」な響きになってしまった今、もっとも香り高いドイツの弦の響きは、バンベルクに聴けるようですどことなくほの暗い音色。力と味と熱をたくわえ、いざフォルティッシモに達すると炎となる。シューベルトの旋律をもとにした作品に始まり、シューベルトの「鱒」で閉じられましたが、この9月10月、被災地はシューベルトにも大きく慰められました。 「山村サロン復興支援」感謝申し上げます。
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1996年 1月 1日 発行 著 者 山村 雅治 発行者 山村 雅治 発行所 山村サロン
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