|
|||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||
<< Vol.12 ■会報1994後期-Vol.13 1995.2.17 >> |
|
||||||||||||||||||
寒中お見舞い申し上げます。 あらたまの年を迎えましたが、喪中につき、賀詞言上は控えさせていただきます。 夏からのこの半年間は、めくるめくような忙しさのうちに過ぎていきました。もっとも世間さまに比べれば、働いているのか昼寝しているのか、よくわからない仕事ぶりであることは自覚しております。それにしては、丸8年もよく続けてこられたものだ、と、ときどき人さまから呆れられている昨今です。 もちろんサロンメンバーの皆さまがたと、いろいろなかたちでのお客さまのおかげです。改めて感謝申し上げます。 9年目にあたる本年は、旧年にもまして世の中が……… というようなエセ占い師みたいなことを書くまでもなく、へんてこがもつれた挙げ句にどう転がっていくやらぶつかるやら。 こどもの世界のいじめが問題になっています。むかしから問題だったのですが、ようやくむごたらしい事件がむごたらしいものであるという認識が得られる時代になったわけです。しかし、これまでに何人のこどもの犠牲者が出たことでしょう。 私にはこどもがあります。だから他人事ではありません。 しかし、それ以上に、広く「いじめ」への抵抗が私にサロンを続けさせていることを明らかにしておきたいと思います。サロンでは、人が人をいじめることがない。 幼稚園児のころ、泣き虫でした。 小学生のころ、大人がこどもを一元の価値の下に、抑圧し傷つける社会の仕組みに気がつきました。 中学生のころ、本を読みはじめました。まだ優等生でした。 高校にはいると、私はすでに異物でした。本でかんがえる価値のほうを優先させていました。 こどものころの私は、いじめのすさまじい現場からは少し離れたところにいましたが、いごこちのよい社会があり、針のむしろに座らせられる社会がありました。社会から、ゆっくりと私は降りはじめていました。 思想も芸術も、たったひとりになりきらないと、よくわからないのです。 いつもおどけてみせていた、やせっぽちの少年がいました。 おもしろいことをいったり、人の物まねをすることが得意で、おとなびたジョークをとばして呆気にとらせたりすることが大好きでした。こどもたちの世界ではそうしているほかなかったようです。いじめっ子が寄ってくれば、やはりギャグで煙に巻いて、追い返せばよかった。 そんな少年が、ことばが通じる相手をみつけたのは、ようやく高校2年になってからでした。彼がいたから、私は死なずに生きていようと思いました。 いつのまにか大人になっていました。大人にはこどもたちへの責任があります。大人の世界にも「いじめ」があり、社会常識、公序良俗などの美名のもとに(ときには法律そのものが)、大人がべつの大人をいじめています。弱い立場のものが強い立場の人たちに、ものがいえなくされていること、ものすごく強い縛りがあります。誰が決めたことでもないのにもかかわらず、この無言の締め付けは、大人自身が選んでいるかのようです。 緊縛を願望する、自由からも民主からも遠くへだたった大変態時代。 サロンを主宰する私は、どんな社会にも属していないから、どんな社会の人とも友だちになれる。音楽の人とは音楽の話を。絵の人とは絵の話を。建築の人とは建築の話を。学者の人とは学問の話をかわして、私は毎日、自分を富ませています。人の「専門」とはなんでしょう。専門家のなかの専門家ほど、深く孤独であり、狭い専門をきわめつくして「人間について」話す風情になります。私の好きな芸術家・文化人は、専門をこえて人間を語れる人です。そして私の専門は大学で学んだ英文学/英語学ではなく、人間です。サロンでは、あつまる人たちにいかなる序列もありません。 さいわいなことに、サロンの空気を愛してくださる皆さまが増えてきたように思います。また、さいわいなことに見当ちがいの凝り固まった「天狗様」は疎遠になりつつあります。わたしはえらいのよ、俺さまはえらいのじゃ、という「権力のタイプ」の人は臭くてかないません。すぐに序列をつけたがり、ご自分がそのてっぺんに、どっかりとあぐらをかかれるからです。 今年のイヴェントは、ますますおもしろくなりそうですよ。くわしくは、巻末の予告をご覧くださいませ。 (山村雅治 1995.1.1)
お茶花は尽きません。身の回りの草花、山の草花は、凛として立ち、どこまでも清潔です。無尽蔵に豊かな空気のごとく、この会の雰囲気は融通無碍です。
陶芸もまた茶道に関連したものです。しかし、日常のなかで使える器も美しい。今回は自由製作。大きな鉢をつくる人、水差しをつくる人、はじめての方も慣れたかたも、一心に土をひねっておられました。
あれこれとりまぜて、とにもかくにも毎月第1月曜日はサロンの映画の日です。若い人から年配の人まで、お昼の部ではさまざまな意見をいいあって楽しんでいます。私もマイクを握っておしゃべりさせていただくことに慣れてきました。
台風一過の秋の夜、ひさびさにサロンはバッハの音楽に充たされました。おなじ時期に『朝日』に寄せられた連載エッセイで、三宅榛名さんは「人が人生を生きることは結局、自分自身が誰であり、なぜ生きてここにいるかを探すためだ、と考えるとすれば、そこには、ある特別な意味のこもった音色を伴う、自分自身にとっての音楽が存在している。そもそも、それが、音楽であるはずだった」と記されています。その通りの三宅榛名さんのバッハでした。 『フランス序曲』では、もっとも繊細で典雅なバッハの「音楽のことば」が語られていました。アルペジオが空のどこかから舞い降りてくる。かすっただけのようなピアニシモは頬に四月の風があたる感触。信じられないことですが、ひとつひとつの音がすべて多次元の立体として構築されていくさまは、ほかにはあまり耳にしたことかありません。 『プレリュードとフーガ』第1巻の、とくにハ長調の解釈のユニークさ。遅いテンポのなかに花の開花をみつめる息づかいを一貫させ、ドからドヘ到る音の旅が孤独につきつめられたもの。『フランス組曲第5番』は、アルマンドの開始の音色にこそ、三宅榛名さんの「一瞬の生」がひらめいていました。ルールからジーグヘ移行する、呼吸と歩みの生きていたこと。なつかしい古いオルゴールのような音感が遅いテンポに息づくとき、小さな舞曲がじつに巨大な晴間と空間の構築物として立ち上がります。『イタリア協奏曲』にもおなじことがいえます。音のニュアンス、強弱、リズム、テンポのすべてが音楽の構造を透かし、えぐりぬいて、しかもこの上なく高雅でした。 終演後、その第2楽章が受難曲のアリアのようだった、というお客さまの声を聞きました。私は私で、アンコールに演奏された三宅榛名さんの自作「鳥の影」にバッハが書かなかった『レクイエム』を聴く想いがいたしました。
話し合いながらこのコンサートのタイトルが決まったとき、野田さんも私も、いわば、ほくそ笑みました。トムとハックがいたずらの相談をしていたようなもの。どうも風通しがよくない世の中(私たちもそこに遊ぶ「音楽の世の中」も含めて)に対する無言のメッセージ・コンサートでした。 新作「病める不死鳥」は図形楽譜による作品ですが、重要なモティーフとしてグレゴリオ聖歌の「死者のためのミサ」のDies lrae (怒りの日)が用いられました。ベルリオーズが「幻想交響曲」のなかで『断頭台への行進』に、サン・サーンスが「死の舞踏」に使ったあの節です。当夜はピアノで演奏されましたが、これが11月いずみホール公演ではパイプオルガンを使って、より効果的な響きを得ることになります。 「清経」は、琵琶と尺八とサックスによる独自な音の世界。幽玄、ということばを使いたくなります。その中での凄絶な間。鮮烈な現代の感覚。音律と響きのたたかい。しんと耳を澄ませてくださったお客さまから、割れるような拍手。 「ビクトリア・パークの風」はミニマル・ミュージックの楽しさを極限までにぎやかに発揮した作品。終盤にはおもちゃのパトカー、救急車、消防自動車などが舞台を走り回り、バカボンのパパや動物のぬいぐるみが糸につながれて、上手から下手までゆっくりと横切っていきました。
田中朗さんは、ピアノ弾き語りというスタイルで、独自のスタイルを確立したシャンソン歌手ですが、後半の「サラダ」(いくつかの歌をつないで聴かせてしまう)にもピリリとした味わいが覗いていました。 収益を音楽療法家でもある野田燎さんに寄付いたしました。野田さんは脳性マヒ疾患をもつこどもたちに音楽療法を施し、成果をあげられています。 ご協力をいただいた、すべての皆さまにお礼中し上げます。
イヴ・アルトーさんは3度目のサロン来演。古典も現代もあたりまえのように吹きこなす、いまやフランスのフルート界の巨匠です。久保洋子さんは、長い論文を執筆された一年を経て、ひさしぶりの演奏会。いつも新作を聴かせていただくのが楽しみです。パリと芦屋を活動の拠点に選ばれている、じつにユニークな音楽家です。 イヴ・アルトーさんは圧倒的な体格の大きさをもたれ、呼吸が気が遠くなるほど深い。加うるにどのような音色も創りだす技術の自在さ、どんなひとつの音さえ音楽にしてしまう本能的なセンスのよさなど、はじめて接した人にも、年来の聴き手にも、驚きとよろこび噺感じさせていただけたと思います。彼自作の「エオル」はピアニシモ主体の美しい音楽。音のかすむ息の果てにも、痛切な音楽が見えました。 「牧神」の笛は、近藤圭さんの作品では和楽器の響きを聞かせてくれ、終演後、作曲家は上機嫌でした。久保洋子さんの新作はイヴ・アルトーさんのために書かれました。短く簡潔をきわめた力作です。「イリュジオン」は幻想、幻影という意味ですが、それを音に刻む手仕事は、きびしさをきわめた時間だったと思います。
池松宏さんは1964年ブラジル生れ。 1994年4月からNHK交響楽団の首席コントラバス奏者に就任されています。楽器には小さなころから姶めたほうがいいものと、大きくなってからでも間に合うものとがあるそうです。この楽器はもともとが大きい楽器。とても5歳のこどもには無理です。池松さんは、かなり大きくなられた19歳のときに始められました。 指揮者になりたい、と志す若者も、楽器はコントラバス、という学生が多いらしく、ゲストにお迎えした大友直人さんもそうだった由。桐朋の先輩後輩の対話もおもしろく、清水紀子さんのピアノのサポートを得て、じつになごやかなコンサートになりました。コントラバスでも旋律が弾けるんだ、とびっくりした時代はすっかり過去のものになりました。さらに世界レベルでの活躍を期待いたします。
大阪生れ。現在はサンフランシスコに住まれ、ホーリィネームス大学でピアノを教えるかたわら、活発な演奏活動を行なっておられます。サロンでは2度目の帰国演奏会。
毎年、夏が来れば、オーストリアの民族楽器ツィターのなつかしい音色がサロンに響きます。河野さんはすでに30年以上の年月を愛する楽器とともに歩まれ、ツィター音楽の普及、紹介に内外で活躍されています。 1993年5月にはオーケストラとの協演で世界初演「ツィター協奏曲」を発表されました。 若い音楽家の皆さんへ 2 サロンでは近辺の先生がたのご指導のもと、いろいろなかたちで若い人たちのコンサートが開かれています。音楽の先生のもうひとつの大切な仕事は、学生および元学生の皆さんに「活動の場」をつくることです。ひとりだちの早い人は、あれよあれよと勝手に世の中へ飛び出していきますが、専攻の楽器によっては、それがひどく難しい。作曲にいたっては、ともすれば路頭に迷いがちになってしまうこと、昔も今も事情は少しも変わりません。 可能性は試さないでいるよりも、傷ついても試したほうがいい。若いときの失敗はいくらでもとり戻せるからで、大きな音楽家ほど大きなしくじりを体験しているはずです。 夢があれば夢にむかって。自信があれば内に秘めて。早熟の人もいれば長い長い時間をかけて熟成する人もいます。いろいろです。だから結局は、誰を相手に音楽を奏でているか、が問題です。 神さまと、ひょっとしたらもうひとりの「だれか」が、聴いている。だれかが、あなたにはあなたにしか出せない音色を出す才能があることを知っていて、会場の片隅で耳を澄ませている。いずれそんな人たちの拍手の大きさが、あなたを世の中に押し出してくれる。
松本巧さんは本業に串カツ店を経営されるかたわら、趣味のクラシック音楽を生活にみごとに生かされています。デュオハヤシ(林俊明氏夫妻によるチェロとピアノのデュオ)へのバックアップは有名ですが、今回は自ら林俊明氏に師事されたチェロを披露されました。 シャルカーさんはハーグ生れ、イヴォンヌ・ロリオに師事した堂々たるピアニスト。本番前にサロンのピアノを鳴らされるうちに、プログラムにない曲目を冒頭に追加されることになりました。モーツァルトの幻想曲 K.397。どうしても弾かずにはいられなくなったのでしょう。聴衆にとっては望外の喜びでした。
この会も迎えて第6回。サロンの能舞台が―段とはなやぐ夏の風物詩になりました。常盤律も長唄も、声も三味線も、年をかさねることで艶がますます鮮やかにあらわれてくる。伝統芸能では伝統が芸に磨きをかける砥石になるようです。私などただ聴き惚れるばかりで、ご両人に心から拍手です。 深い教養と愛情をしのばせる龍城正明さんの解説は、毎回当日配布の小冊子としてまとめられていますが、これも大きな楽しみ。それぞれの曲を生き、味わいつくされている風情が得難いものと思います。 私たちが日常接するメディアからは、伝統芸能に接する機会がすっかり少なくなってしまっていますが、なお根強いファンの皆さまがこの会を支えて下さっています。毎年これが楽しみでんねん、と新しい着物をお召しになってくる粋な旦那、遠方から電車を乗り継いでいらっしゃるおばあちゃま。 勝部延和先生の「勝部松美会 夏仙会」が'94.8.27に開かれました。
藤井久雄先生と門下の人たちによって、三名の霊前に謡会が捧げられました。三名のなかには亡母つね子も含まれています。私もお招きいただいて、会食をともにさせていただきましたが、皆様あたたかくおもしろく、趣味をおなじくする善き人たちに支えていただいて、母の晩年は幸せだったと思いました。 会のしめくくりには「江ロ」のキリを、藤井久雄先生の独吟できかせていただきました。胸に無量のかなしみをたたえた『思えば暇の宿』でした。ありがとうございました。 また、藤井徳三先生と門下の人たちにより、母を偲ぶ「藤井観謳会
歌仙会」が'94.8.27に開かれました。皆さまのご厚情を深謝いたします。
芦屋保健所の中谷所長のご尽力で、この会はすばらしい集まりになりました。私自身、書いた本のなかで、エイズ患者に対する偏見・差別に抵抗したい旨を表明したことがあります。なにが理由であれ、人と人のあいだに垣根ができることは「サロンの思想」に反することだからです。私の場でなにかできることを、と考えていた矢先、中谷先生からのご協力要請がありました。ほかの場所では、お断りになる所が多いらしいです。 講演の五島真理為さんは自ら難病を背負われた人で、思わず息がつまるような体験談を、むしろさらりとしたロ調で話されました。底の底まで見据えた人は、かえってこのように、この上なく他者にやさしいことばと眼差しを持たれるのです。 アルカディア協会によるサロンコンサートは、集まる人をひとつにさせる音楽の力を自然なかたちで示してくださいました。 当日私は総合司会をさせていただきました。進行の合間に思うところをいろいろとしゃべりながら、視力聴力の障害者のかたがたの熱心にうなずいて下さるお顔を見て、また、懸命に手話やスクリーンでことばを伝えるボランティアの人たちのはたらく姿を見て、わけもなく感動を覚えていました。 結局は市民が、無名の私たちひとりひとりが、できることをしていくほかありません。力と時間を他者のために使う人の顔はかがやいています。
小田実さんをお迎えしての「自主講座」シリーズ、復活です。今年からは、月に一度のペースで、と決定いたしました。後日のお知らせにご注目ください。 バッハはいまのところ、延期になっていた秦はるひさんに10月14日にお願い致しました。「平均律第2巻」全曲。
|
|||||||||||||||||||
<< Vol.12 REVIEW 1995.2.17 >> |
|||||||||||||||||||
1995年 1月 1日 発行 著 者 山村 雅治 発行者 山村 雅治 発行所 山村サロン
e-mail yamamura@y-salon.com H P www.y-salon.com Facebook www.facebook.com/yamamurasalon
Twitter http://twitter.com/masa_yamr (山村雅治) Blog http://masa-yamr.cocolog-nifty.com/blog/ ( 同 ) Facebook www.facebook.com/masaharu.yamamura ( 同 )
TEL 0797-38-2585 FAX 0797-38-5252 〒659-0093 芦屋市船戸町 4-1-301 JR芦屋駅前 ラポルテ本館 3階 YAMAMURA SALON Ashiya La-Porte Bldg. 3rd Floor 4-1-301 Funado-cho, Ashiya 659-0093 JAPAN
|
|||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||
TEL 0797-38-2585 FAX 0797-38-5252 e-mail yamamura@y-salon.com
〒659-0093 芦屋市船戸町4-1-301「ラポルテ本館」3階 <毎週木曜・定休>