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<< Review1989 1990前期- Vol.4 Vol. 5 >> |
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残暑お見舞い申し上げます。 あいかわらず暑い日が続きますが、お変わりなくご健勝のことと存じます。 お蔭さまでサロンの催事も年々にぎやかになり、「会報」もいよいよ年2回の刊行となりました。本年度前半、つまり1989年11月から5月までのご報告をこの冊子に記すことと致します。暑さのご挨拶と、年のはじめのご挨拶を、印刷はがきでなく、このようなかたちでさせて頂けること、皆様のおかげと深謝致します。 本年度にはいって、サロンがマスコミに採りあげられることが多くなって参りました。1月、リハウス通信(三井リハウス発行)。3月、NHK大阪局取材(4月9日放映)。6月、毎日新聞社阪神支局取材(6月19日朝刊に掲載)。 「山村サロン別邸」(ラポルテではなく、西山町にある私邸です。松山庵と名づけられた茶室があり、茶道や邦楽のお稽古ができるようになっています)で、関西テレビの早朝番組の実況中継(7月12日)。月刊「クラッシィ」90年1月号にもSPARKLING SCENEという頁に載せて頂いています。 場所がおもしろいのか、人間が面白いのか、あるいはその両方で、手造りミニコミくちコミのスタイルで続けてきたのが、ここに至ってやや違って参りました。素直に喜んでいます。 とはいうものの、いいと思うものをいいと思うからやる、というスタイルは今後も変わる見込みはなさそうです。どうぞよろしく御指導のほど、お願い申し上げます。
標題の講座は昨年末をもって終了致しました。今年にはいって、先生はいろいろな場所での講座を打ち切っておられます。しかし、もっともっとお話をお聴かせ頂きたい。これが、サロンにお集まり下さった方全員の切望でした。幸いにしてお応え下さり、本年は「源氏物語つれづれに」と題して、先生の諸般のご都合のよいときにかぎり開催されることになりました。だから毎月のことではありません。初回は5月でした。半生を「源氏」に打ち込まれた先生が世を撃つ舌鋒はまことに鋭く、かつ暖く、なお私たちを揺さぶり続けます。
山野に咲く花を愛で、器に入れていっときを遊ぶこの会は、本年も盛況です。ときには茶杓を削り、ときには京都に遊び、先生の融通無碍なお人柄をもって、茶花を介しての人の輪は広がっていきます。これから新しくお越しになる方も大歓迎です。草花がきれいだ、とお感じになるならば、それで充分です。こ難しい理屈はいらないのです。
この会も段々と定着して参りました。最初の半時間ほどに先生のワンポイントレッスン。ワインとオードブルをお楽しみ頂いてから、あとはフリーなダンスタイム。 よき人がよき人を呼ばれて、芦屋の夜がダンスに更けていきます。
文楽協会のご協力を得て。いつもはトークショーをお願いしている咲大夫師に浄瑠璃を語って頂きました。きめの細かい人物の描き分け。そしてここぞという所のおそるべき迫力。さすがの舞台に声を失うばかり。 ■山村サロンコンサート
島田準子氏は1986年度フランス音楽コンクール第一位入賞。稲畑賞、フランス大使賞等を受賞されている新進のソプラノ歌手。林達次氏、栗林義信氏らに師事し、現在二期会会員。 透明な美しい声で各国語の発音を明確に描き分け、抒情感も歌のかたちも、くっきりとした輪郭をもって迫ってきました。サティなどフランス語の鼻にかかる音が、歌として最高に生きた例といえます。ショスタコーヴィチに興味がある、ということで意気投合しました。いずれやりましょう、の合意に達しています。
まずこの国では滅多に聞けない曲がずらりと並んだプログラム。ダニエラ・サバティーニはイタリアからやってきた女流ピアニスト。ローマ聖チェチリア音楽院、パヴィア大学音楽古文書文献字部に学び、ハープシコードからピアノへの転換期のイタリア作曲家およびポーランド音楽に関心を持っており、珍しい曲目を編作、編曲、演奏し、世界で初めてレコード化しています。一方、1982年には「カロル・シマノフスキ賞」を受賞し、「ポーランド音楽研究文化センター」と「ショパン-シマノフスキ国際協会」を設立してその会長を務めています。 こんなピアニストがいなければならないと思います。なぜなら歴史には淘汰ということがあり、淘汰には、力なき作品を過去へおし流すはたらきと、歴史の砂に埋もれつつ宝石の輝きをついに明らかにした過去の力ある作品を、現代に蘇らせるはたらきがあるからです。歴史がそれをするのではなく、やはり、それぞれの現代に生きる人がしてきたのです。サバティーニは微細な存在をさぐる顕微鏡の眼を持つ科学者のようであり、人の耳には届きがたい美しい声を、群衆に向かってそれは美しいと宣言する無垢の人のようでもあります。 ロッシーニがピアノ曲を書いていたの、ご存じでした。終演後明るく微笑んで挨拶を交わしました。いや知りませんでした。一そうでしょう!とさらに大きく見開いた彼女の眼はどこかいたずらっぽく、しかし寂しげでした。 以上2つのコンサート、林達次、浦山弘三、奥村智美の諸先生に、ひとかたならぬお世話になりました。 ■音楽会から
芦屋在住の作曲家、龍野順義氏は年来の同四重奏団の知己であり、氏のご尽力により急拠このコンサートが決定致しました。ステージでは4人がほとんど丸くなるほど近寄りあい、音楽の呼吸をひとつにしての烈しい演奏が繰り広げられました。 第一ヴァイオリン、スメイカル氏の情熱の飛翔を、第二のシーコラ氏が絶妙な内声で地下をながれる水脈のように自在に、かつ岩盤のように堅固に支え、アンサンブル全体は無類のニュアンスに息づいていました。母国語で語りつくされたスメタナ。歌を充分に持った伊藤ルミ氏のピアノともども、なつかしい場所を求めてやまない心がはじけたドボルザーク。「赤とんぼ」に斬新な和声を施した龍野順義氏の作品もいつわらずに人を表した音楽でした。 昨年の秋は東欧が揺れた、歴史にのこる数カ月でした。東西ベルリンの壁が開放された報道はこの日の夜にヤナーチェク四重奏楽団の宿舎備え付けの英字新聞の大きな見出しで知り、一同とともに驚きました。そのときのアドルフ・シーコラの英語でいったことばが忘れられません。Changing Rapidly is Dangerous(急激な変化は危険だよ)。 彼らの国チェコスロバキアを含み、東欧の過去と現在とこれからを一瞬に見すえた老練な智恵のことばです。
プログラムから。「私は私の感ずる音楽を、納得の行く方法で表現するためのひとつの手段として自作自演を選んだ。/もうひとつの手段として。委嘱する作曲家を選んだ。/そこに深町純氏との出合いがあり、彼こそは長年私が探し求めていた芸術家であった。/すべての音楽は愛情から、質の高い知性からと信じつつ私にとっての『音楽のゆくえ』を追求して行きたい。」(吉岡孝悦氏『音楽のゆくえ』から) 吉岡孝悦氏は、気持ちのまっすぐな、まっすぐな音楽を奏でる好漢です。その男気にこたえ曲を書き、ステージを共にされた深町純氏もまた、その名のとおり純な音楽家。はげしさの中にあっても、いじらしいほど繊細な心が見えかくれしていました。 「アメリカンパトロール」が堂々たるコンサートピースとなっていたのが忘れられません。スタインウェイの音色と音量の輻をフルに、かつ自在に駆使されたピアノに、マリンバが羽毛から木槌への音の質の変転で応じ、苛烈なリズムの推進力を伴って、音の死んだ瞬間がまったくないすばらしい演奏でした。
金田陽子氏は1972年アルベール・レベック・バッハコンクール1位入賞、1973年レオポルド・ベランコンクール1位入賞後、ヅフ1年パリ国立音楽院に進み’77年ピアノクラスを卒業、帰国。リサイタルや、京響、大フィル、ヴィア・ノヴァ四重奏楽団との共演に活躍。この日のリサイタルは、この年12月のパリでのリサイタルを控えたものでした。
経験豊かな伊藤ルミ氏のピアノに支えられて、チェコスロバキアからの若いヴァイオリニストの音楽は、存分に羽ばたいていたようでした。たとえばスプリングソナタのピアノのパートなど出没が変幻自在。ノボトニー氏は1964生れのこのとき25歳。前項ボフミル・スメイカルのむすめ娟です。彼にしかないヴァイオリンの音を掴み、さらに大成されることを願ってやみません。リハーサルでシャコンヌの音楽的な難所をくりかえし追いつめていた真摯な眼差しが印象に残ります。 この演奏会も龍野順義氏のご協力。ここで弾かれた小品は、親しみやすい旋律が独自の和声と構築力に照らしだされた音楽。芦屋文化協議会の後援を深謝します。
久保洋子氏は西宮市在住の若い作曲家・ピアニスト。近藤圭氏に師事し大阪音大大学院修了後、1983年第1回日仏現代音楽作曲コンクールで第1位となり、翌年から仏政府給費留学生として渡仏I.R.C.A.M.とパリ大字大学院で研鑽を積み、1967年にはオリヴィエ・メシアンに師事。日本とフランスを往復しながらたいへんな勢いで活躍されています。 大戦のさなか、メシアンは「父なる神の眼差し」にはじまる全20曲の大作「みどり児イエスにそそぐ20の眼差し」を書き上げました。翌終戦の年、イヴォンヌ・ロリオによって初演され、メシアン門下のピエール、ブーレーズがパリ音楽院を卒業、同年「12の記譜法」を発表。これら2曲に続いて1988年から1989年にかけて作曲された久保洋子氏の自作3曲が演奏されました。最も鮮烈だったの「ヴェルベラシオン」。創意と驚きとユーモアに充ちた作品。
西田博氏は東京交響楽団第一コンサートマスター。東京芸大、同大字院を修了後、1976年バイエルン国立歌劇場管弦楽団副首席奏者に就任、1979年ラインハルト・プファルツ国立フィルハーモニー第一コンサートマスターに就任、その間ヨーロッパ各地でソロ、室内楽にも活躍されました。 ピアノは西野雅千子氏。
神戸女学院音楽学部卒、同期生どうしの若いピアニストのデュオコンサート。ベルギーへ留学中の湯浅さんの里帰りコンサー卜でもありました。
お話に斯界の第一人者濱田滋郎氏を迎え、尾熊志聿江氏のピアノ、弘井俊雄氏のギターで、スペインと南米の作曲家の作品をお楽しみ頂きました。 どこの国の人でも大作曲家は大作曲家なのですが、この国では、とくに関西で、音楽会のプログラムが特定の作曲家の作品に片寄りがちです。それにはいくつかの理由があります。すべてくだらないことです。欧州中心の音偉泱がいずれ書きかえられるでしょう。人がいて、その表現に耳傾ける人がいれば、そこは中心です。 もしモンポウ、ロドリゴ、そしてヒナステラが客席にいたら。飛び上がって喜んでくれたことと思います。濱田滋郎氏のお話、尾熊志津江氏ピアノ、弘井俊雄氏のギターそれぞれに共通するのは、愛する音楽への情熱に他なりませんでした。
「春琴抄」「あだ」「じょうるり」など、オペラで活躍される三木稔氏のもうひとつの重要なお仕事に、二十弦筝の開発普及が挙げられます。吉岡紘子氏はその楽器の代表的奏者のひとりで生田流正派の大師範。 野田燎氏は、もともと尺八のために書かれた曲をソプラノサックスで吹かれました。はじめからおわりまで、音色と楽器の限りをこえて、ただ美しい響きに場内は充たされました。楽器を感じさせない音楽。 山田健司氏の「チョンマ」は気持ちのこもった熱演でした。大らかなユーモアと、最期のときにもユーモアを発揮せずにはいられない哀しみと。チョンマの歌、あの一見単純な節の奥で、筝がいっぱいの音楽のことばを語っていました。
松本美和子氏は武蔵野音楽大学専攻修了後、1964年日伊声楽コンコルソ特賞受賞。1965年音楽コンクール第一位。1966年ローマ聖チェチリア音楽院に留学、ヨーロッパ各のコンクール入賞。1972年ローマ歌劇場で『カルメン』のミカエラ役でデビュー。以後イタリア国内はもとより、欧米の主要オペラ劇場で歌う。ウィーン国立歌劇場にも出演を果たされました。
石川功氏のプロフィールをパンフレットから引きます。 <東京の劇団「言葉座」に所属。テレビ、ラジオ、舞台に出演。1954年からシャンソンに転向、日劇M・Hはじめ各ミュージックサロンにて活躍。病気で中断し宝飾デザイナーになる。近年シャンソンを再開して2年余り。隔月定期ライヴを13回(北野坂の異人館倶楽部にて)。昭和30年代、京阪神のシャンソン普及に尽力。オフィスEME主宰。> こぎれいな「おシャンソン」から脱却した、はげしい歌をここに聴くことができます。人に聞かせることよりも、まず、自分が生きるための歌。演劇やパントマイムに長いキャリアを持った石川功氏の歌唱は、豊かに表情を持つからだのことばを伴って、ひとつのステージパフォーマンスとしてきりりと造型されています。
中嶋常乃氏(ソプラノ)のお呼びかけで、10数名の音楽家があつまり、収益を福祉施設に寄付するチャリティコンサートが開催されました。中嶋氏は過去11回にわたって、このような音楽会を神戸でこられました。
林晶彦氏は1955年西宮生れ。1973年渡仏、ピアノ・作曲・指輝を学ぶ1977年イスラエルに渡り、ルービンミュージックアカデミーでポリス・ベルマンに師事。ヨーロッパー中近東・インドを遊学し、独自の音楽を研究。帰国後、映画音楽などの作曲活動をしながら、ピアノソロ活動(自作自演)を精力的に行なっておられます。
マックス・エッガー氏は1916年スイス、ロールシャッハに生れる。ウィーン国立アカデミーに学び、1936年ウィーン・コンクールで第1等賞を獲得。1942年スイス音楽脇会賞受賞。翌年チューリヒ音楽院ピアノ科主任教授に就任。多くの音楽祭に参加する一方、教育者としての評価も高く、数々の国際コンクールの審判員をつとめた。1954年スイス政府文化使節として初来日1959年からは日本でも演奏・教授活動を続けておられます。 音楽講座を開かれたのは昨年の「ベートーヴェンと詩的インスピレーションについて」以来2度目でした。深い学識とあたたかい人間味に満たされて、ユーモアにしばしば場内が沸きました。ヨーロッパの3拍子の音楽の歴史。メヌエット、レントラー、そしてワルツのそれぞれを、エッガー氏みずからピアノを弾かれてのお話。終わりには滅多と聴けない歌まで披露され、楽しく充実した講座となりました。
ダンディというよりは粋。独特のスタイルのシャンソンを弾き語りする素敵な人です。逸脱の面白さが田中朗氏の歌にはあります。たとえばある歌の場合、フランス語と日本語がきまぐれに、あるいは周到に交錯し、ファンタジーをふくらませたのも束の間、急転直下無残な現実に立ちつくす。ピアノの最後の余韻がかすかに消えていくとき、場内は圧倒的な余情に包まれている... いわゆる歌の通念からも逸脱して、田中朗氏は人生の味をうたいます。ときには飄逸なおかしみを漂わせて。
エドワルド・デルガド氏はアルゼンチン、ロザリオ生まれ。ジュリアード音楽院でロジナ・レヴィンに師事。卒業後は数々の賞を獲得。現在カリフォルニア州立大学芸術学部教授であると同時にアーティスト・イン・レジデンスの称号を得、全米はもちろん世界各国で演奏活動を行なっておられます。 デルガド氏も濱田滋郎氏も2度目のサロンへの出演です。オール・ヒナステラという思いきったプログラムは濱田氏によれば、日本ではじめて、ということでした。 ヒナステラはアルゼンチンの作曲家で、デルガド氏は同じ国のピアニストです。愛する音楽にかける打ち込みかたは、リハーサルから尋常のものではありませんでした。すさまじい集中力で弾きつめたあと、上気して夢のなかからら出てきたような面もち、体重すら失われた身のこなしで外に出てこられたのには驚きました。 異国において、母国語での表現への渇望が燃えあがる。そんなことだったかも知れません。あるいは少しちがうかも知れません。ともかく本番ではデルガドはヒナステラであり、ヒナステラはデルガドでした。濱田滋郎氏も、厖大な学殖と高い見識を伺わせる淀みないお話で演奏会を盛り上げて下さいました。
三宅榛名氏は3度目、高橋悠治氏は2度目の出演です。だから、まずネット・ローゼンバーグ氏について。彼のサックスはまさに驚異でした。音色がときには笛、ときには打楽器のように千変万化に移り変わり、およそ人間がサックスに働きかけられるすべての技術を軽々と駆使しながら、一本の吹奏楽器で多声部の音楽を奏でていくさまは、まことに信じがたい光景でした。13拍子と14拍子が2台のキーボードで同時進行するスリリングな音楽を書く、彼は作曲家でもあります。 とてつもない音楽でした。彼らトリオの創造する、生成し結ばれては消滅をくりかえす音像は独走の気概にあふれてたくましく、もっとも抽象的につきつめられていながら、そのじつ、私たちの目の前に大きくそびえたのは生々しい人間の劇に他なりませんでした。
ジェラルド・ジャーヴィス氏はカナダ、ヴァンクーヴァー生れ。イギリス王立音楽院を経て、1963年よりボーンマス響、ロンドン・フィル、ヴァンクーヴァー響のコンサートマスターを務める。1997年5月、大阪フィルハーモニー交響楽団の第一コンサートマスターに迎えられて来日。本年6月に帰国される直前のお別れコンサートでもありました。大月紅石氏はジャーヴィス氏の水墨画の先生です。場内には大月氏の作。ジャーヴィス氏の作、そして共作の約30点が展示され、特色あるコンサートになりました。 だれか新しい人のために 人があつまる。人びとが遊ぶ。笑い声がはじけとぶ。 あつまりには意味があり、遊びにも無限の深浅の光彩があり、笑いの示す魂の輝きはうつくしい。 人は孤独に自らをたたかい、自らを刻む。あたりまえのことだ。 果実をわかちあえれば…と誰もが願う。人がひとりで居つづけるとき、張りつめた果肉はくさり、漂烈なかおりだって甘くなってしまう。 一日いちにち、まるでちがう世界がくりひろげられる。 あるときに音楽。あるときに美術工芸。あるときに講演。文化と芸術の東西は問わない。かつ、人類の精神史を縱横にかけめぐる。 浄瑠璃を聴いた。西洋絵画を見た。源氏物語の話を傾聴した。陶芸の作家展や書家の個展。世界をうがつ歴史家の話。一生をひとつに打ち込んだ職人のことば。能楽がひびき、次の1日には現代音楽が鴫る。 ここにサロンがある。ものいわぬ空と時を考え、感じる表現者がここにつどう。手だては人の数だけある。音。ことば。色。そのほかにもある。 かけがえのない切なる造形が人の数だけあってほしい。芸術も文化も、本来孤独にとどまることを欲しない。それは、みんなのものだ。 おいしいよ、と呼びかけられた果実の作り手の笑顯がすばらしい。 真剣の闘技場が人の目には花園と映ることがある。あるいはその逆もある。 あなたの表現を知りたくおもう。そのためにサロンはひらかれている。どうぞ連絡下さい。ことによるとそれよりも前に、私の方からお電話さしあげるかも知れませんが。 |
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1990年 8月 1日 発行 著 者 山村 雅治 発行者 山村 雅治 発行所 山村サロン
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