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<< Vol.13 ■会報号外 1995.2.17 1995.4.12 >> |
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瓦礫の中で 1 突き上げられて、いきなり目が覚め、続く強い横揺れに起き上がることもままならず、蒲団をかぶって息を殺していることが精一杯でした。家がきしむ音、大地の底からの深いうなり。あらゆる方向に四、五十センチは激しく揺さぶられ、家がつぶれるかと思いました。長い時間でした。揺れがようやく収まり、起きようとしたら手足が動かないのです。ああ生き埋めか。死ぬのはやだな、と跳ね起きると、本やCDにかぶさられていてぞっとしました。本棚と箪笥が西と北の二方から倒れてきていて、机と積み上げた雑誌がなければ頭と胸をやられているところでした。 家族が心配で、部屋をでようとしてもドアに本がはさまり開かない。暗闇のなかを本を掻き出し掻き出し、やっとのことで家内と娘の寝室へ入ると余震。思わず抱きあって、収まってから三人で名を呼びかわし、生きていることを確かめあいました。ずっと呼んでいたのよ、といわれても何もきこえなかったし、私自身、何か声が出た覚えもありません。急いで隣家の寝たきりの父と付き添いのおばさんがとりあえず無事であることを確認し、ふたたび家に帰ったころ、空か白んでまいりました。 2 その日は催しがある日でした。停電なので情報がない。電話もつながらない。誰かに会えるだろうと少し早めにラポルテに行きました。 JR芦屋駅前に近づくにしたがって、街の様子はひどいことになっていきます。隆起と地割れに醜く変形した舗道、全壊した木造家屋、大きく傾いた鉄筋のビル、大きな家の頑丈なはずの蔵がこわれている。ラポルテ本館も一階西側の壁面の一部などが破壊されています。エレベーターもエスカレーターも動きません。階段を駆けあがりました。扉が開いていて、ラウンジの明かりもついていました。しかし、いつもだったら来ているはずのスタッフは、誰もいません。扉の前の廊下の天井からは、水がぽたぽた落ちている。ラウンジは食器や什器が散乱して、足の踏み場もありません。ホール部分に入ると、前夜ならべて帰った椅子とテーブルが北へ20センチずれていただけ。舞台は重い置板が二枚、北側の床に飛ばされていたのに驚かされましたが、ピアノは、ずれた背板の隙間にしっかりと脚がさまって、舞台の上にふんばっていました。邪魔だ、といわれていた真ん中の太い柱が、場内を支えてくれていたのです。朝10時の開店時、いつも通りに「ラポルテはただいまオープン致しました」という館内放送がながれてきました。いかにも間抜けな放送でした。ほどなく調理の松本君に出会います。地震のとき、ぼくとみっちゃんと掃除のおばちゃんがいたんです。間一髪で逃げだしました。彼の太い指が泥と血にまみれていて、埋まった人を助けてきました、と肩で息をしながらいいました。話をきくうちに、おぼろげながら、この地震が私たちの生活にもたらしたものが知れてきました。 その後はこのあたりの皆さまと同じく。かからない電話を何度もかけなおし、連絡のつく所だけにとりあえずの無事を告げ、それが芦屋、西宮、神戸がまるでつながらなかったのには苛立ちました。電気、水道、ガスがない。新聞も止まり、決定的な情報はなにひとつないまま、寒い夜が冷え込みました。 3 5日間、水と食料を求めて街をさまよい歩きました。その間、近所のおばさんたちとはいいおつきあいができました。あそこへ行けば何かある、ときわめて正確な情報を教えてもらえました。水汲みに並ぶたび、井戸端会議のにぎやかさに寄せていただきました。その後、父を大阪の病院に入院してもらうことが決まり、払たちは娘の通学の便のため、妻と娘を堺に一時疎開させることに決めました。まず阪急西宮北ロまで二駅分をすぎます。瓦礫の道を踏みしめながら、尻とりあそびをし、道中の闇市でそば焼きを食べたりして、やがて動いている電車が見えてきたときにはわけもなく感動を覚えました。地下鉄御堂筋線、南海高野線を乗り継いで、たどり着いたら、ひげぼうぼうの私を見るに見かねて「まずお風呂やね」と義母の適切なアドバイス。 疎開先で読んだ「毎日」夕刊で小田実さんのご家族が無事であると知りました。記事で小田さんは、「人災である」と行政への怒りをぶちまけていられました。ワイドショー仕立てにしておもしろがっているだけのマスコミ報道についての怒りとあいまって、怒りを共有するひとりの市民として連絡をとり、数日を経て日本テレビの取材のために小田さんのご一家をサロンの中にお迎えしました。取材内容は2月6・7日(月・火)に十分間ずつ放映されたようです。小田さんが怒り、私も怒りました。月曜日の午後7時すぎ、ただちに「テレビで見たよ。無事でよかった」と東京の友人から電話がかかってきて「あなた、怒ってたよ」といって下さいました。めずらしいことですからね。 海外からの援助の申し入れが各省庁をたらいまわしにされたあげく、数日にわたって止められていたこと。他市からの医者派遣の申し出に「いらん。ここは医者があまっとる」とはねつけた、どこかの市の医師会長。なにもかもが小回りがきかない、かつ責任の所在があやふやな官僚政治であり、無力な市民はただ棄てられていきます。再開発ができるぞ千載一遇の金儲けのチャンスじゃ、と舌なめずりをしている人もいる。サロンには、この機に乗じてお金をむしりとろうという内装業者が駆けつけました。死にかけている人間から残る血を吸い取ってとどめを剌してやろう。大阪から来た背広、ネクタイの男は、もはや人間の目の光を失っていました。なにも知らないおばあさんに五、六十万ですむ瓦の葺きかえに千三百万円請求した男の同類が被災地にうようよたかってきています。 地震そのものよりも、その後にくりひろげられ見せられた人の心の荒廃が恐ろしい。 家を失いテント生活に立ちつくす人に雨が降りこみ、「寒いですか」とマイクを向けたテレビレポーターの馬鹿さ加減。「生き埋め現場からの生中継」はたまた「被災地横断人間模様」。評論家や地震学者や建築家はえらそうなことばかりいっています。建て方がどうあれ、あれほどの地震に直撃されたらどんな建造物も破砕します。人知のむなしいことが、悲しいかなお分かりにならないのです。また、何人の政治家や役人がわが身の保身だけを考えずに、市民の水汲みを手伝ったのか。人へのやさしさは、その場で少なくとも三日三晩お暮らしにならないと湧き出てくるものではないと思います。避難所では2月12日現在すでに80人ものお年寄りが、肺炎や脳梗塞で亡くなっておられます。そして安全地帯の商売人はどうしてすぐに算盤なのか。「被災地見学バスッアー」が私の目の前を通ったら石を投げてやろうと思っています。 私たちは、えらそうにしている人たちのほとんど全てが下らない人物であることを知りました。いまやあぶりだされるように、いろいろな人たちの心根が鮮やかに浮きだして見えてきています。 4 家があり、生きているのが不思議なほどです。この不思議はたまたまのことにすぎません。この地震で五千数百名もの人が亡くなりました。私の友人知人、彼らにつながる最愛の人たちが命を失いました。生き残った私たちのなかでも、多くの人が肉親や親友を失い家財を失い、仕事が奪われました。一瞬のうちに、私たちは「生きること」を剥ぎとられたのです。日頃歩いていた芦屋市津知、清水、前田町、東灘区森南町あたりの有様にはことばよりも涙が出てきます。さらに魚崎まで友人の家をたずねて歩き回りましたが、震度7にのまれた全壊家屋に添えられた、白い花のこごえる白さを忘れることができません。 毎日、瓦礫の中を歩いています。あの地震に直撃されて、たまたま生き残った私たちは、それでも止まったままでいるわけにはいきません。 「復興の息吹」は駅や線路や大きい道路が先回しにされ、市民の路地はいまもそのままです。車どころか人さえ歩けない路地がいっぱいある。テレビは「新ネタ」に尽きて、もはやヴァラエティ全盛。公共広告横溝のCFも白けるばかりです。人を傷つけるのは人しかいない。ほんとうの復興とは、被災者の最後のひとりまでもが「健康で文化的な最低限度の」市民生活に立ち戻れる日のことを意味します。暖かい寝床がある家と、安定した収入が得られる仕事につける日のことです。偶然前田町の国道で、ラポルテの駐車場で働いていたおじいちゃんに出会いました。家は両方から挟まれてぺしゃんこや。仮設住宅の抽選にも外れてなあ。報道では当たった人の喜びが伝えられますが、どの市にも外れた人のほうが圧倒的に多いのです。 私たちは未曾有の災禍を受けました。近所のおばちゃんから、配給所でめぐりあった知らないおじちゃん。生き残った私たちは、たしかにみんながつながりあって生きていることを知ったと思います。血族などよりも、さらに大きな家族。亡くなった人も、怪我をした人も、私たちの父であり母であり、兄弟姉昧じゃないですか。 山があり、庭がある。そして支えあい助け合い、会話をすればギャグになるという気風がのこるかぎりは、私たちは大丈夫です。私は芦屋にいます。ひとりひとりが21世紀の芦屋の街をつくる、そのために。 (山村雅治 Feb.17 1995) <お知らせ> ラポルテについて、いろいろな噂がながれています。人の噂はおもしろい方へおもしろい方へながれていきます。 ラポルテはフィットネスクラブのプールの底が抜け、水浸しで、もうビルそのものが使えない。ラポルテもつぶして建て直すしかない。 噂の出所をさぐってみると、「いや、噂やで」とおっしゃるだけで、誰ひとりとして管理会社に直接問い合わせた人がいないのです。1月25日に第1回目の「被害状況説明会」が聞かれました。真相はこうです。 プールの水は揺られて3分の2が溢れだしてしまった。水槽そのものには細かい亀裂さえ一切見られない。水浸しになってしまった診療所も店舗もあります。しかし水は引けば乾きます。3階に関していえば、共用の廊下部分に水漏れがありましたが、サロンの内部はスプリンクラーも作動せず普段のままでした。ビル全体を支える構造柱(その一本がサロンの真ん中を貫いています)については、おおむね無事で倒壊のおそれはなく(補強工事は必要です)、ガス、水道の復旧を待ち、再オープンする予定です。やれるところから開けていかないと、と各店のみんなが思っています。 現に、4階の医療ゾーンのお医者さまは時間をかぎりつつ診療を再開なさっています。5階の管理会社には一日も早い再オープンのために連日社員がつめていますし、私たち山村サロンのスタッフも全員無事で、月・水・金・土の週4日間、朝10時からおやつの3時ごろまで、片づけや配給(それとぺちゃくちゃお喋り!)のために来ています。東京からチャリティコンサートの問い合わせなどがありました。芦屋の音楽家ともバッハをやろうといっています。 西山町の松山庵も、戦前の建物ですが、無事に残りました。 1階の洋室と2階の廊下の壁などに損傷部分がありますが、茶道や小鼓のお稽古に使われていた1階和室はすべてきれいなままでした。こちらの方は水道も通り、さっそく私立の小学校の迎えない生徒さんのために使われることになりました。 |
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1995年 2月 17日 発行 著 者 山村 雅治 発行者 山村 雅治 発行所 山村サロン
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