「良心的軍事拒否国家」めざせ 小田実
日本は「良心的軍事拒否国家」であるべきだと、私は考えている。 それが日本国憲法 ― 「平和憲法」の「平和主義」に基づいた国のあり方であり、 世界に貢献するやり方である。 「平和主義」はただの平和愛好でも「護憲」でもない。 「戦争に正義はない」とし、問題、紛争の解決を武力を用いず、 「非暴力」に徹して行おうとする理念と実践が「平和主義」だ。 私はここで理想や夢を語ろうとしているのではない。 現実の事態に即して主張している。ドイツなど西欧民主主義には、 戦後このかた「平和主義」の現実の政治の場での実践として、 「良心的兵役拒否」が法制度として確立されている。 成年に達した若者は「兵役」につくか、 「兵役」を拒否して「良心的拒否者」になる。 1999年度のドイツの「拒否」申請者は、 前年度より2,000人増して17万4,000人余。 それに対して99年度の「兵役」者は11万2,000人にすぎない。
「拒否」はただ銃を取らないことではない。 「拒否者」は「兵役」の「軍事的貢献活動(ミリタリーサービス)」に代わって、 「兵役」期間以上、社会的弱者救済、救急活動、平和教育など 種々の「市民的貢献活動(シビルサービス)」を行って、社会に奉仕、貢献する。 今、ドイツで老人介護に働く「拒否者」は全体の作業者の11%から17%。 この数字はいかに彼らがドイツの福祉に貢献しているかを示している。 これは消極的活動ではない。 「拒否者」の一人が私に言った。 「『軍事的貢献活動』では終わらない。 『拒否者』の『市民的貢献活動』の『平和主義』の実践が社会をよくし、 世界を変える。」
戦争は戦争を産み、「正義の戦争」は多くがまやかしだった。 そして、兵器の進歩は、「正義の戦争」であろうとなかろうと、 途方もない殺戮と破滅を人間にもたらした。 戦争をやめないかぎり、世界は破滅する。 この歴史、世界認識が「平和主義」を強固にし、 「良心的兵役拒否」を法制度にした。 同じ認識で、私は日本の国のあり方を「良心的兵役拒否」の延長線上において、 「平和主義」の実践を行う「良心的軍事拒否国家」であるべきだと主張する。 日本は、「平和主義」の「平和憲法」をもちながら、 「軍事的貢献活動」の「拒否」はしても、 国全体の政策としての「平和主義」の実践はなかった。
コソボに対する「NATO(北大西洋条約機構)」軍の「空襲」が始まったとき、 その重い歴史体験をもつギリシャは「NATO」の一員でありながら、 民族の利害が複雑からむバルカン半島での外国の武力介入は 問題解決は更に困難にすると「空爆」に反対し、 懸命に平和解決に努力した。 ギリシャの努力はまさに「平和主義」の実践だが、 「平和憲法」をもつ日本は何もしなかった。 いや、「空爆」にいち早く「理解」を示し、 「日米安保」を拡大、強化して、いっそう武力介入の側に身を寄せた。 今、世界のはやりは「人道的武力介入」の名の下の戦争の 「正義の戦争」化と実行、軍備、軍事連携の強化だが、 武力介入はコソボをふくめて、たいてい失敗してきている。 東ティモールの場合がまれな成功例だが、 それは介入の前後に「平和主義」の運動が 国際的にも幅広く展開されてきていたからだ。 インドネシア、ユーゴスラビア、フィリピンにおける革命的な政権変革も、 今は、市民の手によって非暴力でなされてきている。
詳しく論じる余裕もないが (詳細は近著『ひとりでもやる、ひとりでもやめる』<筑摩書房>で書いた)、 今、私たち日本の市民がすべきことは、 せっかち、やみくもに「改憲」を論じ、動くより、 あるいはただ「護憲」を叫ぶより、 「平和主義」の原点に立ち戻って、 いかに日本が「良心的軍事拒否国家」として「市民的貢献活動」の 「平和主義」の実践を行い得るかを真摯に考え、論じ、実践することだ。 国をあげての難民救済、世界の「反核」の実現、 「途上国」の債務の軽減、解消、平和交渉の仲介、実現、 あるいは個人の「良心的兵役拒否」と組み合わせての 若者達の災害救援 ― なすべきことは山とある。 それは世界を助ける。平和に貢献する。
(朝日新聞「論壇」2000年6月18日付 ― 一部の字句は、訂正補筆) |